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人の嘘を責める、似非善人

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『楽に生きるための9つのヒント』 

  ① 「楽しい」を基準にする
  ② 目標や期待値を下げる
  ③ 「やりたいこと」に多くの時間を使う
  ④ 「仕事」「家庭」「趣味」の3つを一時にやることをあきらめる
  ⑤ 1点豪華主義で選ぶ
  ⑥ やめる勇気をもつ
  ⑦ こだわりを捨てる
  ⑧ 誰かに評価されるために生きるのをやめる
  ⑨ よかった探しをする

『人生を楽に生きる8つの方法』

  ① 今に生きる
  ② 人や社会に期待をしない
  ③ 他人は自己の投影
  ④ 事象を引き寄せている(選んでいる)のは自分
  ⑤ 自分がいなくても世界は回る
  ⑥ ワクワクするものごとを選ぶ
  ⑦ 自分の行いは必ず帰ってくる
  ⑧ 物事は全て中立  

『楽に生きる7つの方法』

  ① 今のこだわりの対象は?
  ② 他人と競ってませんか?
  ③ 自分を素直に認めてますか?
  ④ 人間は皆、不完全なもの
  ⑤ 集中するべきところは?
  ⑥ どんな思い込みを持っていますか?
  ⑦ シンプルに考える

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以上が、ネットからピックアップした『人生楽に生きる方法』である。こういう事は自分で考えて実践してもいいし、可能なら他人の考えを実践してもいい。誰の考えであれそれに納得できれば自分の考えに固執することはない。自分はそういう考えを実践しているし、ただ、その考えが後になって変わろうとも、自分が同意した時点においては自己責任である。

人間の考えなんてものは、そうそう変わるものではないようだ。「9の方法」、「8の方法」、「7の方法」とあるが、重複もある。「楽に生きる」に関して、自分が常々大事と思うことは、①人と自分を比較しない。②他人と競わない。③見栄を張らない。④他人の評価を気にしない。⑤背伸びをせず自分に素直になる。⑥欲は大敵。⑦一切を自己責任とする。

と、このように箇条書きにすると、多少ニュアンスが違うようだが、こういった条項を頭にインプットしているのではなく、クルマの運転のように、直線でスピードが出せそうな場面、カーブが多くて神経を使う場面、舗装がされていない悪路な場面、一人運転と乗車人員が多い場面、などなどそういった状況の変化に対して、その都度自分をコントロールする。

といった方がいいかも知れない。最初は、条項のようなものが頭に浮かぶこともあれば、長くやっていると当たり前になってくるので、あえて意識しなくても身につく。それにしたがって、条項(のようなもの)がだんだん減ってくる。つまり、楽に生きるためにはどのようにすればいいかが自然に身について、無意識にそれを実践していることになる。

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こうなるともう絶対に元には戻らない。もし、元に戻るようなら、身についたというより、身につけようと思ったが身につかなかった。やはり、自分に無理をしない方がいいと思ったのだ。これはこれで「自分が楽に生きる方法」であろう。他人と比較し、どうせなら他人より抜きん出たいという気持ちが、自分自身において自然な気持ちなら、そうした方がいい。

人間が他人との関わりの中で、自分が他人でない以上、大事にすべきは自己責任であろう。「友人に裏切られた」、「騙された気分だ」などは耳にする言葉だが、あんまり聞こえのいい言葉ではない。その様にいえば、信じた自分は善人で、騙した(嘘をついた)相手は悪人となるのだろうが、他人の嘘を責める前に、信じた自分に非はなかったのか?である。

自己責任というのは、他人の嘘を信じたことにも当てはまるのではないのか?「友人に裏切られた」、「騙された」を言う前に、信じた自分がバカだった、ナメられていたとなぜ思えない?おそらくこれも自己愛なのだろうが、別に他人を悪くいわずともいいし、人が嘘をつくのは、自分が嘘をつくように、人の勝手であろう。そう思うなら何と女々しいことか。

フジテレビの亀山千広社長(59)が26日、東京・台場の同局で定例会見を行い、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕された清原和博容疑者(48)について「裏切られたような気持ち」とコメントした。清原最後のテレビ出演が1月24日放送の同局「ワイドナショー」(日曜前10:00)だったこともあって、亀山社長は、「正当な手続きを踏んで出演を依頼した。

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当然、出演依頼した人間はまさか清原さんがそうだとは思っていないと思う。松本(人志)さんが言ったように、裏切られたような気持ちは私は若干している」と話したが、別にここまでいわずとも、「彼(清原)は、嘘をついていたんですね」と、言えばよかろうに。出演依頼した人間に罪がないとの言い方だろうが、その前にはいろいろ週刊誌報道もあったろう。

「清原は数字(視聴率)はとれるが、出演させない選択もあった」などは口が裂けても言わないし、松っちゃんを引き合いに出してまで清原を責めている。松本発言とは、昨年夏、ダウンタウンが司会をする番組『ダウンタウンなう』(同局系)にゲスト出演した際、清原に覚醒剤について単刀直入に説明を求めた松本が、清原から「やってません」と答えたことによる。

松本はその時のことをこのように述べている。「(その時)僕の目を見て本当にやっていないって言ってた。信じてたし、そのウソが我々に対してもスタッフに対しても視聴者に対してもバカにしてるのかっていうね。この罪は、覚せい剤よりも重い。本当に良くないと思う」ということらしいが、業界人というのは、そもそもテレビを信用してるのか?


自分の叔父貴は、大卒後大阪の「読売テレビ」にて定年まで仕事をしていたが、「テレビなんてのは嘘っぱちの世界。テレビのない国に行きたい」などと随分も前から言っていた。清原がテレビで「覚醒剤なんかやってません」というのは当たり前で、松本は「嘘をいうなら何で出てきたんや?」とまでいう。テレビが嘘で成り立ってることくらい知ってるだろうに…

小沢昭一は、「我々の仕事は虚業なんですね。実業とは到底いえない嘘が許される世界で生きていますからね」と印象的な言葉を吐いていた。意味するところはいろいろに取れるが、「あってもなくてもいい職業」と言い切った彼の心意気は伝わった。近年、「芸能人ってそんなに立派なのか?」と、稼いでいることで存在意義を勘違いをする者も無くはない。

そんな時にこそ小沢の言葉が頭を過ぎる。松本とてテレビで本当のことばかり喋っているわけでもないだろう。都合のいいときだけ正義ヅラをしているだけでは?松本は清原を責めるが、清原が松本に嘘を言ってはいけないのか?そこを踏まえて、「あの目は真実の目で、とても嘘には思えなかった」などと公言する松本も思い上がった人間である。

「清原の言葉と目を信じた自分は、まだまだ人間として未熟だし、ダメですワ!」という言い方なら人間的な謙虚さを感じる。人の腹の底はなかなか見えぬもので、人が嘘をついたかどうかは、それが嘘であったとの確信が持てるまで分らない。であるなら、人と謙虚に付き合う方法は、相手の言った事が嘘であっても責めないこと。本当であったならそれで良かったと。

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嘘を責めるのは、親が子に対してもいいことではない。「子どもが嘘ばかりついて困っている」という母親に、「どう困ってるんですか?」と聞いても、本当に困っている母親などはいない。子どもに裏切られたような気がするとかその程度。子どもの側にしてみれば、嘘をつくことで親を裏切った気などさらさらなく、むしろ親から自分を守るために嘘をつく。

子どもの嘘というのは、実は本音の"裏返し"であり、成長の一過程と考えるべきだ。嘘は悪いのは道徳律からすればそうだが、嘘がいいとか悪いとかの前に、「なぜ嘘をついたか?」、「つかなければならなかったか?」にまで、親は思考をすべきである。嘘をつく相手には信頼関係がないという判断もできる。例えば、人との待ち合わせに寝坊して遅れたとする。

正直に「ごめん、寝坊しちゃった」と言える相手、または、何とか嘘で誤魔化そうとする相手、その違いはあろう。繕うべく相手か、本音を晒しても許してくれる相手か?後者のような安心感を持てる相手なら、ありのままに事実を話せるはず。子どもが嘘をつき始める理由は、親が子どもの嘘に厳格だからで、正直に話したことを怒らぬ親なら、子どもは嘘はつかない。

したがって、「嘘をついて困る」と嘆く親というのは、子どもに嘘をつかせる教育をしたことになる。嘘をきつく咎める親が、実は子どもを嘘つきにする。子どもに限らず、他人の嘘には寛大であるのも、楽に生きる方法だ。嘘をつくすべての人間には、必ずや嘘をつく理由がある。嘘をつかれて気分はいいものではないが、相手が嘘をつく理由を考えてみることだ。

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なぜ相手は嘘をつく必要があったのか、それでどういう利益があったのかを踏み込んでみる。ならば被害者にもならず、相手を責めることもなく、いろいろな人間理解に及ぶことになる。腹を立てるのは簡単だが、そんな程度の自尊心を満たすより、彼(彼女)がなぜ自分に嘘をついたかを探る方が実は楽しかったりする。嘘をつく女と嘘をつかない女という明確な対立軸はある。

それで相手を仕分けした頃もあったが、そもそも女性を「嘘をつく女」、「つかない女」と2項に分けること事態、難しいことに気づいた。乳児は自分が泣けば母親が近寄ってくることを知っている。それに対して、母親は泣き叫ぶ赤ちゃんに何かあるのではと考える。しかし、赤ちゃんは自分の身に何かあろうがなかろうが、母親に近くにいてほしい時に泣く場合がある。

泣き叫ぶ乳児に母親は慌てて近寄るが、赤ちゃんに嘘をつく意思などない。が、事実は騙しているので、これを嘘と定義できる。これはもう人間は、赤ちゃんの時から嘘をついている。しあし、赤ちゃんには嘘をつく意思はまるでない。ならば赤ちゃんは嘘はついていないとも言える。嘘は善悪の線引きがなかなか難しいことでもある。例えば、AがBに嘘を伝えたとする。

Bは嘘とは知らずCに嘘を伝えるとBは嘘つき?という問題が生じる。このように嘘は様々な条件で変化し、それに伴い、嘘つきの条件も変わっていくなら、誰もが嘘つきになり得、誰もが嘘つきではない。物事を考える上で重要なことは、対立する2項は常に対立しているのではなく、一時の状態を表し、それはまた、どのようにも変化するものと考えるのが重要である。

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嘘ばかりつく人間ならその反対を信じていればいいので、嘘つきとの人間関係はそれほど難しくはないが、嘘と真実を使い分けるから厄介である。嘘つきは嘘は多いが真実もいう。楽に生きることについていうなら、「他人の嘘を責めない」。女も男も大人も子どもも、すべての人間は嘘つくもの、あるいは嘘をつかないもの、という考えに帰結すること。

他人の嘘を責めるときの人間は、あまりに善人を演じている。して、その事に気づかぬほどの大嘘つきになっている。楽に生きるとは、善人であることより、楽しく生きることでもある。


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