12月27日の記事の続編を書く。正当性の根拠を倫理に求めないならどこに求める?宗教の場合もあるが、自己正当化を理屈や詭弁に求めるなどは除外するとして、何を正当化の根拠とするかは難しい。死刑という刑罰においても、死刑の法的正当化根拠を論じる記述を目にするが、死刑の存置・廃止論と共に、こうした論考を踏まえて更に思索を深める必要がありそうだ。
アムネスティが死刑反対の理由として、①死刑は「生きる権利」を侵害する残虐で非人道的な刑罰である。②罪のない人を処刑する危険性は決して排除できない。③死刑になるのは、どこの国でも貧困層やマイノリティなど、社会的弱者に偏っている。④死刑は政治的弾圧の道具として、政敵を永久に沈黙させたり、政治的に「厄介な」個人を抹殺する手段とされてきた。
こうした考えに異論を持つ側の理由として例えば、「死刑は『生きる権利』を侵害する、残虐かつ非人道的な刑罰か」に説得力はあるのか?この主張には、殺人犯人に、「生きる権利」があることが自明のごとき前提されている。すべての人間に生きる権利があるのは当然である。しかし、他人を殺害した者に、「生きる権利」が当然にあるかは自明とはいえない。その理由は?
人間は生まれながらにして様々の権利を有しているが、同様に生まれながらの諸権利を有す他人の権利を侵害した場合、侵害者から一定の権利が奪われることは一般に承認されている。契約違反や不法行為で他人の財産権を侵害すれば、自分の財産権を奪われることとなる。犯罪を侵せば犯罪に見合った刑罰が科せられ、その結果、犯人の自由権や財産権が奪われる。
にも関わらず何故、「生きる権利」だけは何をしても奪われることがないのか?これらは死刑反対論者の独自の見解であって、すべての人に受け入れられる真理とはならない。ルソーは『社会契約論』の中で、人間が生来自由であることを仮定としながら、人間にはそのような自由がないと考えるなら、自由になるためには何らかの方法で社会を正しくする必要性があるという。
それが、「社会秩序は他の一切の権利と基礎となる神聖な権利である」という言葉を生んだ。社会秩序を維持するためには、「他人からの不侵害の約束を得られるためには、先ず自己の側から凡ての他人の生命や自由・幸福を尊重し侵害しない旨の約束と、この約束の遵守を有効に担保する方法とを提供せねばならない」と述べている。分かり易くいうえばこういうこと。
「人は殺人の犠牲者とならないために、自分が殺人犯となった場合、主体性をもって死ぬことに同意するとして死刑を肯定する」という契約であるが、こんにちの社会ではより実質的に、「生命の尊重、範を垂れるべき国家が意図的な殺人(死刑)を行うべきではない」などの理由があげられ、これが死刑廃止論の根幹となっているが、これには当然にして反論の狼煙があがる。
なんの罪もない者を殺人被害から守り、真の生命尊重のためにこそ死刑は必要であり、被害者や被害者遺族の感情は尊重されるべきである。法解釈は人倫的な判断からも検討されるが、理性的判断の正当性・合理性というのは、人間の思考が多岐に及ぶ以上至難である。NHKの受信料に対する最高裁の判断であれ、どこに正当性や合理性を求めるかによって変わってくる。
選択可能なのはAとBという二つの行為しかなく、AをしなければBを、BをしなければAを行為する状況にあり、しかも、そのどちらを選んでも、「これでよかったのだろうか」という疑問を拭いきれない場合がある。この場合、「Aが正しくBはまちがっている」と、「Bが正しくAはまちがっている」という倫理的判断のいずれも、妥当性があると割り切ることができない。
次の事例はどうか。 2014年1月31日、堺市堺区の民家で住民の小笠原亘世(のぶよ)さん(80)が死亡していた事件で、大阪府警は1日、夫の康雄容疑者(85)を殺人容疑で逮捕した。「妻が寝たきりでかわいそうになり、妻を殺して自分も死のうと思った」と述べた。康雄容疑者は同月30日未明、ベッドで寝ていた亘世さんの首を荷造り用ロープで絞めて殺害した。
次の事例はどうか。 2014年1月31日、堺市堺区の民家で住民の小笠原亘世(のぶよ)さん(80)が死亡していた事件で、大阪府警は1日、夫の康雄容疑者(85)を殺人容疑で逮捕した。「妻が寝たきりでかわいそうになり、妻を殺して自分も死のうと思った」と述べた。康雄容疑者は同月30日未明、ベッドで寝ていた亘世さんの首を荷造り用ロープで絞めて殺害した。
同日朝、亘世さんを介護していたヘルパーが、死亡した亘世さんと近くで手首や首に切り傷を負って倒れていた康雄容疑者を見つけて通報。同署は回復を待って逮捕した。亘世さんは足が不自由だったといい、康雄容疑者は、「今年に入って寝たきりの状態だった」と説明したという。介護の心労から殺人に及ぶ事件は少なくないが、人を殺す愛情も法治国家では殺人となる。
介護がいかに大変であるかは当事者にしか分からない。どう大変かを言葉でいうよりも、「人間がどうしても知っておくべきは、他人との関わりにおける自分の存在の限界」である。いかに誠心誠意のものであっても、そのことで自分が不自由になる。あえて言えば不幸にさえなる。それを愛などと簡単にいうが、自分の幸福を望めば相手は不幸に、相手を幸福にするなら自分は不幸になる。
こういうことは、別れたい女にしがみつかれた場合でさえ起こり得る。自分は自分を不幸にする女とに慈悲は抱かない。自分が不幸を感じて相手を幸福にできるハズがないからだ。相手は一緒にいるだけでいいなどといっても、人間の共存的幸福とはそんなものではない。男女において二人の愛し方、愛され方が一致したときに、人は恋愛のすばらしさを感じるだろう。
片側通行の恋愛などは相手の一方的な恋心でしかない。恋は一人でもできるが、恋愛は二人で行うものだ。本質的なことをいえば、恋愛の成就が結婚とは思わない。そもそも恋愛の成就ということが一体何なのか、それが分からない。なぜなら成就した恋愛がこれほどまでに破滅するのは、成就というのは一時の錯覚であり、それも含めて成就というなら認めないこともない。
作家の山本文緒が40歳前ころ、「愛の確実性は存在しないが、愛そのものは存在する。それが努力によって永続的にはなるが、瞬間的に存在する愛も愛である」と述べていた。永遠の愛などと浮いたことをいう女にあって、面白いことをいう女だと思った。確実と永遠とはまったく別のものなのに、人間の渇望から生まれた文学などのシナリオが、そういう錯覚に陥らせた。
「私自身、それらを創作することで飯を食べているのだから、私も犯人の一人である」と彼女はいう。彼女の本を読みたいと思ったことはない。なぜなら、彼女の言うがごとく、虚偽の小説から感受性を養う年齢はとうに過ぎた。しかし山本文緒という女性は、ノンフィクションのジャンルながら、日常をリアルに描く力のある人かと、読んではないが彼女の言葉から感じた。
世の中には面白い人とそうでない人がいる。面白いの話の中味は率直であるのが多い。面白くない人の中味は美辞麗句であることが多い。少なくとも自分にはそう映る。文章を装飾するのは能力の一片であるが、美文と名文は違う。名文とは表現美の言語的分析のみならぬ情緒が織り込まれていなければならない。情緒を表現することの難しさからしてもそうであろう。