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悲しみよこんにちわ

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死とは多分に絶対的孤独である。ならば、そうした絶対的孤独を求め、憧れる神秘性もあろう。あるいは、観念的な求道者としての自殺は、仏教徒などの抗議の焼身自殺に見られる。さらに人間にはロマンチストの一面があり、心中などは外国人にはあまり見られない日本人の典型さであろう。良心の呵責や多大なる罪を背負うことでの自殺は究極の謝罪であろう。

一口に自殺といっても、個別には様々な違いが伺える。今の時代、失恋の痛手から自殺をする女性は皆無とはいわぬまでも事例は極度に少ないだろうが、その理由としては女性に対する社会の締め付けがなくなったことも要因かなと愚考する。堀秀彦に『女の悲しみ について』という著書がある。副題は、「愛するが故に味わう 女の悲しみ」となっている。

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1967年(昭和42年)に出版されたもので、明らかに時代を反映するタイトルであるが、現代においてこういうタイトルの書籍が書店にあれば、「何が悲しいのだろう?」と若い女性は疑問を抱くに違いない。そしてパラパラとめくってみて、あまりの時代錯誤的な内容に、ついていけないばかりか笑ってしまうのではないか?表題の理解はどの世代あたりまでの女性だろうか。

著者の堀は、「女の悲しみ」についてこう前置きする。「私の考える『女の悲しみ』とはひとり一人の女の、あれやこれやの悲しみではない。女という人間が、多分宿命のようにしょわされているのではと思われる、女一般の悲しみなのだ。思うに、『女の悲しみ』の一番根本的な理由は、あるいは原因は、とにかく女のひとがいつも何かを愛せずにおられないというところにある。

女のひとはいつも何かを愛している。女は愛の人間だ。なにかを愛するために生まれてきたひとたちだ。なんにも愛することをせず、ぼんやり、ひとりきりで、孤独で満ち足りたように見える、そういう女の風景を私は思い描くことはできない」。堀は、街を右往左往する女性をみても、晴れ着をきて歩く女性をみても、いろんな意味で悲しくなるというセンチメンタリストである。

なにが悲しくなるのかといえば、「この人たちもいずれはどこかえ消えてなくなるんだ」と思うからだと述べている。この本は堀が65歳の時に書いたもので、思うに娘を嫁がせる父親のような、ナイーブな視点で女性をとらえているのだろう。美しく咲く花は刹那的で悲しいものだ。「花の命は短くて…」と林芙美子はうたっているが、短いから悲しいのではない。

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命が短かかろうが、少しくらい長かろうが、花の生涯はとかく悲しい。いずれは散りはてるに決まっている運命である。老齢者の感傷もないとはいわぬが、堀の感受性の高さが感じとれる。生まれて死ぬまで一人ぽっちの男の視点からみる女の悲しさとは、孤独の悲しみというより、「愛するもの」、「愛されるもの」としての存在の悲しみを述べているようだ。

「無常」としての悲しみも伝わってくる。1902年(明治35年)生まれの堀の情緒なりを正しく理解するのは難しいが、彼が、「女は悲しい生き物」という見方をするのは、いかんせん男のロマンも繁栄されていようか。書かれた昭和42年当時の女性は、「男の人がみる女の悲しみなんてそんなのではありません。男の人に女の心なんかわかりっこないと思います」という声が聞こえてきそう。

堀には女性に向いて書かれた著作が多い。同著以外にも、『女性へひとこと』、『女子高校生のための21章』、『女性のための71章』(初版では103章だったが改訂版では71章に削られた)『若い女性への手紙』、『女性のための人生論』、『愛と孤独の世界』、『戀愛 そのロマンと真実』、『この女たちの愛と人生』、『主婦のための人生論』など、他にも多数。

『貴女に・これだけは知っておいたら―賢い“主婦”といわれるために』という長いタイトルもあるが、女性向けの著作の多さは堀ならではの領域だが、堀はなぜ女性に向けて書くのだろうか。もし、自分が女性に向けて何かを書くなら、何を言いたいことがあるかを考えてみる。結果は、「何もない」。その理由は、「女性はこうあるべき」というのがないからだ。

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1902年(明治35年)生まれの堀の時代は、「男らしさ」、「女らしさ」という限定された価値基準が煌々と存在していたが、そうした、「~らしさ」というのものはいつしか崩壊してしまった。ともに脚本家の早坂暁(1929年生)と石堂淑朗(1932年生)が、「男が男で、女が女だった時代」ということで語り合いながらも、「日本人はなぜかくも醜くなったのか」と憂いている。

堀より30年ほど後の彼らがそう言ってるわけだから、堀の時代は推して知るべし。間違いなく堀には、「女性はかくあるべし」という固定観念があったことは、書籍に反映されている。男の視点からみれば確かに女性はどうあるべきかというのはないわけではないが、それをいうなら男がしっかりしていればこそである。昨今の脆弱男には強い女性が相応しかろう。

『女の悲しみについて』は、第一章「女の悲しみについて」、第二章「若い女性への助言」、第三章「女性について考える」の三章からなっている。あらん限りの女性の言動について事細かく書かれているのには驚くが、あまりにも擬態的な記述ゆえか、さすがに第一章の最後にこう述べている。「私はいろいろな"女の悲しみ"を捏造してきたようにも思われる。

私は随分とあてずっぽうを書いたかも知れない。だが、言い換えてみれば、「人間」ちうものがいつもひきづって歩いている悲しみの姿かも知れない。(中略)悲しい人間的状況のなかで生きながら、自分自身はその悲しさに少しも気づかないって、これほど悲しいことがあろうか」で結んでいる。いかんせん堀はどうしても女性を悲しい存在とみたいようだ。

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堀はセンチメンタリストな男類といっていい。もし、「女性を悲しい存在と思うか?」と聞かれたら、「ぜんぜんそうは思わない」と自分は答えるだろう。男よりもむしろ女性の方が、世の中を楽しく、ぬかりなく、きびきびと、したたかに生きている。堀は同著の第二章の冒頭、「若い女性への助言」においても近年の女性が読むと、助言どころか見向きもされかねない内容である。

具体的にどうこうではないが、一言でいうなら、「(考え方が)古い!」ということか。若者が旧世代に同じことをいうが、自分からすれば50年近い年齢差の堀である。やはり、「古い!」で事足りるだろう。もちろん、この書籍が著された昭和41年ころの若い女性にとっては、古さを感じなかったかも知れないが、最近の女性は読む気も起らないというのも、時代の変遷であろう。

女性という未知なる生き物について、懸命に書き上げたものを揶揄するというより、やはり人はそれぞれ時代を生きるしかない。トヨタの高級車クラウンは、昭和27年ころから開発に着手され、1955年(昭和30年)1月1日に初代トヨペットクラウンとして発売された。当たり前だがその造形はいかにも古いが、当時としては文句なしの先進のフォルムだったのは言うに及ばず。

フランソワーズ・サガンが、『悲しみよこんにちわ』で文壇に颯爽デビューしたのが1954年である。当時彼女は18歳だった。小説の主人公の17歳の少女セシルにあやかり、セシルカットが大流行した。斉藤由貴が同名タイトルの『悲しみよこんにちわ』をリリースしたのは約1986年で彼女は20歳だった。同曲の作曲者は玉置浩二だが、前年85年に、『悲しみにさようなら』を描いている。

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ボブ・ディランは『時代は変わる」といい、中島みゆきは、「時代は巡る」と歌っている。「変わる」は分かるが、「巡る」の正しい意味はなんであろうか。みゆきは、時代の何が巡るといっているのか。仏教思想が盛り込まれているともいわれる詞だが、みゆきの、「巡る」は、めぐり逢いのことのようだ。めぐり逢いとは?これこそが亀井勝一郎のいう、「邂逅」のこと。

五賢人のこと

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三賢人というのを聞いたことがある。上の絵は、東方からやって来た三賢人が赤ん坊を見ている場面。この赤ん坊がイエス、女性はマリアでその左にボケっと立っているのが夫のジョセフ。三賢人は生まれたばかりのイエスにプレゼントを贈るため、はるばる東方からやってきたという。下の絵は三賢人を描いた最も古いもので、どうやら贈り物は産着ではないようだ。

彼らの名前はハッキリしていなかったようで、Wikiによると七世紀頃の欧州で次の名が付けられた。メルキオール (黄金持参の青年賢者)。バルタザール (乳香を持参の壮年賢者)。カスパール (没薬持参の老年の賢者)。仏教徒でありながら、"東方の三賢人"が何者かを知る者はかなりの物知りでと思われる。クリスチャンでも知らぬ者は多く、無神論者には何の興味もない。

先に書いた堀秀彦は五賢人の一人である。我が五賢人とは、堀秀彦、坂口安吾、林田茂雄、亀井勝一郎、加藤諦三である。ついでに、hanshirouを加えて六賢人としたいが、残念ながら我はタダの「県人」だ。賢人の定義を調べてみた。①聖人に次いで徳のある人。賢い人。賢者。当たり前だが彼らは自ら賢人などといわない。自ら賢人・賢者と名乗るのは自由だが…

五賢人とは著作が縁で尊敬の念を込めて称すもので、聖徳太子や福沢諭吉のような畏れ多き人というのとは違う。日々雑事のなか、生き方や知恵を書籍から仰ぐ人生の大先輩たちである。坂口安吾を賢人とする世評は聞かない。放蕩無頼を自認する安吾だが、もし彼を知らない人生であったなら、別の自分だったように思う。五賢人の生誕及び死亡月日を以下記す。

 ・堀秀彦 (1902年 (明治35年) 3月10日- 1987年 (昭和62年) 8月27日)
 ・坂口安吾 (1906年 (明治39年) 10月20日 - 1955年 (昭和30年) 2月17日)
 ・林田茂雄 (1907年 (明治40年) 1月15日 - 1991年 (平成3年) 1月28日)
 ・亀井勝一郎 (1907年 (明治40年) 2月6日 - 1966年 (昭和41年) 11月14日)
 ・加藤諦三 (1938年 (昭和13年) 1月26日 - )

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存命中の加藤諦三以外は全員明治生まれである。「明治は遠くなりにけり」という言葉があった。いつ頃いわれた言葉で、誰が言ったものかを調べてみたところ、俳人中村草田男が昭和6年に詠んだ、「降る雪や 明治は遠く なりにけり」が初出のようだ。昭和6年といえば明治が終わって二十年しか経っていない。それでも明治は遠き時代だったのだろうか? 

句の状況というのは、雪が降りしきる中、20年振りに母校の小学校付近を歩いていた。母校は昔のままと変わらないなと思いつつ、その当時の服装、黒絣の着物を着て高下駄を履き黄色の草履袋を下げていたのを思い出していた。その時、小学校から出て来たのは、金ボタンの外套を着た児童たちであった。現代風の若者を見ると、20年の歳月の流れを感じさせられる。

それが草田男の心に、「明治の良き時代は遠くになってしまったものだ」との想いを抱かせた。時代というのは無慈悲に流れ、移り変わるもの。誰もが同じ思いに至るほどに月日を送り行く。平成30年もあと少しとなった。昭和天皇が崩御されて30年も経ったというなら、「昭和も遠くなりにけり」との感慨も湧くが、明治が終わって106年も経っていることになる。

30年前のことは記憶に少なくないが、100年前は記憶どころか生きてもいない。明治は我が祖父母が幼少期を過ごした時代である。祖父母が他界した年月日の記憶がない。月日どころか年度を思い出すのにも時間を要す。祖父母は自分たちが生きた時代のありふれた日常の中で他界した。親の命日を知れども祖父母のそれを知らぬは近くて遠き人なのか。

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あんなに可愛がってくれた祖母の誕生日も享年齢すら知らぬ罪な自分。明治の人は遠き哉。文献の残る堀や亀井ら4人の記述を読むに、明治人の書き起こしたものというより、彼らは我々とともに現代に生きている感じを抱くのはなぜだろう。彼らをして賢人としたが、他に適当な言葉が思いつかなかった。賢人といえばそうであれ、だからか自分的には親愛である。

安吾などは賢人といわれたら、「冗談止めてくれ」といいそうだ。林田もいいそうだし、堀や亀井、加藤も否定するだろう。堀・亀井・加藤も東京帝大出身者。亀井はマルクス主義に傾倒し共産主義同盟に加わったことで、1928年4月に治安維持法で逮捕収監されている。1930年に上申書を提出して釈放されたが、33年に懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けている。

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林田茂雄も熊本第二師範学校中退後、1924年上京して左翼活動を行い、1930年プロレタリア科学研究所事務局員となり、「ナップ」、「マルクス主義芸術」などに評論を発表した。翌年『第二無産者新聞』(1932年から『赤旗』に変更)印刷部員となり地下活動に入るも、1932年9月検挙され、6年間非転向しないままに下獄、戦後は社会・文芸評論家として活躍した。

1973年には、『「赤旗」地下印刷局員の物語 わが若き日の生きがい』 なる自伝を著している。加藤諦三のみ昭和生まれで存命中であり、系統的には堀、亀井、林田り同類で悩み・病む若者向けの伝言が多いが、年代的なものからして別枠として後で記す。坂口安吾は4人とは異質でエッセイも書くが、本業は小説家であり、「人生論」などの評論は書かない。

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しかし、『堕落論』、「青春論』、『恋愛論』、『戦争論』、『悪妻論』、『エゴイズム小論』など、秀逸なエッセイを多数残している。気負うところのない是々非々な文体はいかにも男的で、多くの人生論、幸福論、女性論で女性にも人気のあった堀秀彦とは一線を画す。が、女性の安吾フリークといえば、『アイ・ラブ安吾』の著書を書いた荻野アンナが代表格であろう。

彼女は現在慶応大学仏文科教授にあるが、過去には芥川賞(1991年)、読売文学賞(2002年)、伊藤整文学賞(2008年)を受賞した文才ある小説家である。そんな荻野は安吾をユマニスト的作家といい、「彼の文章は含蓄のカタマリで不純物や添加物は一切ない」と持論を述べる。例えば太宰論の書き出しは、「もう十日歯が痛い」で始まり、以下の調子で終焉する。

「原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。学問は限度の発見だ。私は、そのために戦う」。これを始めて読んで愕然としたという荻野は、「この書き出しと結実が太宰論の一部なのだから、恐れ入谷の鬼子母神」という。

安吾に影響されると、表題の縛りに影響されなくなるのだろうか?そういうことに気を使わずに書いていられる自分は、多分に影響を受けているかも。安吾は嫌がろうが、彼から受けた影響大なりを含めて賢人である。亀井と林田は逮捕収監歴もありながらも賢人に変わりない。五賢人の所有著作がどれくらいか調べてみた。もっとも多かったのが加藤諦三の68冊。

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亀井勝一郎28冊、坂口安吾21冊、堀秀彦20冊、林田茂雄13冊と続く。聖書を読めども聖人になれないように、五賢人を読んだからと賢人になれない。昨今の政治家でいえば、読書家で東大出の秀才・才媛であっても、どうにもならないようなマヌケな発言をする。自分は五賢人の影響を受けたというより、彼らの言葉が頭に詰まっているからか無意識に文章が似る。

バカ政治家は本を読んでバカになったのか?彼らにはあり得ない発言が多いが、思いつきのおとぎ話のようなことを羞恥なく平然という。国の舵をとる政治家にどんだけバカの見本がいるかが嘆かわしい。片山さつきをして舛添に、「だから彼女と離婚して正解だった」などといわれてしまう。この発言もバカっぽいが、彼の以前の肩書は国際政治学者である。

丸の花まるを祝福す!

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元カープの丸佳浩が昨日巨人で入団会見を行った。「やってやるぞ!」の気持ちだという。カープではチームリーダー的存在であり、しかも2年連続MVPを誇る強打者だけに、さまざまな記事や反応がメディアやネット上をにぎわせた。それらすべてを知るわけではないが、移籍理由を巡っては野球ファンならずとも看過できない臆測や中傷が少なくなかった。

細かい事情を知らぬカープのOBが、「間違いなくお金」と言い切り、「裏切り者」と批判する心ないファンもいるが気にすることなどない。ある程度の中傷や批判は予測の範囲だったろうが、それでもフタを開けてみなければ分からないもので、予測を超えた反応は開けてビックリもあったろう。丸の丸い目が、三角・四角になるような記事は有名税の証である。

広島との残留交渉で折り合いがつかなかったのは、丸が悪いわけでも球団が悪いわけでもなく、互いの方針であり選択であった。丸自身は当然ながら地方球団の経営事情は理解していたろうし、4年総額17億円(3年総額12億との報道もある)の提示が、どれほどの意味を持つかも知っていた。だから、悩んだが、落合がいうように評価とはゼニである。

気の利いた言葉は所詮は子供だまし、プロの評価はゼニ以外の何もない。最も出したくないものを出すのが誠意であって、言葉なんかいくらでもいえるし、腹は痛まない。400勝投手の金田正一も、「グランドにカネが落ちてるんや」との名言を残している。止めなかった球団も去っていく丸も、何をいわれる筋合いもないが、自分のことしか頭にないそれがファンなのか?

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丸の人生は丸のもの、丸が決めればいいことだが、他人の口に戸板は建てられない。だったら無視するのが一番。丸のことも、過去のFA移籍選手のことも、歴史の中の一事象と見れなくもない。思うに歴史というのは、天体観測に似ている。子どものころに望遠鏡で毎夜空を眺めていたが、望遠鏡がなくとも月や太陽などの大きな天体もあれば、かすかな天体もある。

肉眼で見える限度が6等星と習った。星の暗さは遠くの距離にあるといい、北極星などは2000年前の光がやっと届いているというのを、子ども時分に理解するのは至難であった。距離とは普通はキロメートルや時間で表示するが、郵便物が届くまでに7日かかってもそれは長い。2000光年という距離は、一秒間に30万Km進む光でも2000年かかるということになる。

歴史は天体観測といったが、距離や時間や明るさではなく、歴史上には光と影に彩られた様々な人物がいたこと。確かに、光だけで実体のない星もあれば、流星のように一瞬で消える星もある。宇宙には知らない星がたくさんあるように、歴史という広大な天体のなかにも多くの無名の人がいた。今後もどんな星が潜み、新星のごとく突然光輝くかも知れない。

丸選手はカープで輝ける星であったが、移籍後の活躍については未定である。心無いファンやOBたちの言葉が、ちょっとしたスランプの際には大きくのしかかることになる。「それ見たことか!お金で動くから、そんなことになる」、「巨人なんか行くからだ」などの無言の言葉を浴びるのも丸なら、それをバネにするのも丸。すればいいじゃないかバネに…

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丸は移籍決断の前にこんな言葉を漏らしていた。「巨人に行ったら、ボクは裏切り者になるんでしょうね…」と、メディアにこんなことを言ったところで、「心配するな、どこに行こうが君の人生。裏切りものの筈がない」など誰もいわない。メディアは丸の友人でもないし、面白可笑しく書いて部数が伸びればいい。丸の心を理解するのは友人のみかも知れない。

運命共同体として支える妻は最高の理解者であり支えである。丸は地元の中学時代の同級生と2012年に結婚したが、今となっては二人とも、「玉の輿」といっていい。「恋人とは誤解、友人とは理解」というが、丸の元恋人は妻に昇格済みだ。一晩寝て起きたら多くが敵に回っていた。それに近い気持ちを丸は味わったろうが、どうってこた~ない、これも長い人生の一ページ。

同僚たちも男らしい友情エールを丸に贈っている。丸の後の四番を打った鈴木誠也は、「あの人のデカい頭を的にして、センターライナーでぶち抜いてやる」。誠也は丸のでかい頭を、「ビッグヘッド・モンスター」とからかっていた。元同僚の投手たちも、「丸さん、遠慮せずに内角攻めをするよ…」。丸にとってはこういう言葉が何よりうれしいはずだ。

もし、自分が同僚なら丸に何をいう?「男は孤独な生き物。それで強くなる。お互い孤独に頑張ろうぜ!」。孤独の意識、孤独の感覚なくして、いかなる友情も発生しない成長もない。仲間を求めてつるむのは、真の友人を求めるというより、寂しさを紛らわすため。孤独とは誤魔化しのきく一時的な気持ちというより、もって生まれた避けがたい宿命である。

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だから孤独を厭わないし、孤独が当たり前と思っている。仲間とワイワイつるむのも嫌いではないし、それはそれで楽しい時間であるが、そうでなければ辛いということはない。その場その場に気持ちを応変させている。青春の孤独、老年の孤独などの言葉を見聞きもするが、「青年の何が孤独?」という気持ちで関連書籍を読んでいた。その流れから老齢の孤独感もない。

「男は孤独が似合っている」。孤独とは山中に一人でいる時の感情ではないし、人の往来の多い街を歩く孤独、気心の知れた友人と談笑しながらも、「ああ、自分はやはりこの人ではないのだ」と実感するのも孤独である。それぞれが質の異なる孤独であり、そんな孤独の中で最後は自分を友とする。これこそが、友情の渇きに対する最後の到達点であろう。

一人で生まれ、やがては一人で死ぬ人間である。誰かを道連れにしたり、巻きぞいに死ぬことなどない。人間のこうした本質的な孤独性について、それらを考えることなしに友情を論ずることも、真の家族や家庭の在り方を論ずることも、どこか虚しさを感じる。自分が孤独であることは、妻も子どもたちもみんな孤独で寄り合っている。それを家族というが、基本は孤独である。

「全ての人に対して友人であることは、誰に対しても友人ではない」というが、そういうものかも…。ある親の元に生まれたというのは偶然であるが、ある友人を作るのは選択である。仲睦まじき夫婦がいる。「私たちって赤い糸で結ばれた宿命かも…」と妻がいえば、「そうじゃない。俺はお前を選び、お前も俺を選んだということ」と、水を注すのが男という生き物である。

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ドラフト制度とFA制度はこれに似ている。ドラフト制度は金満球団と貧乏球団の選手層の釣り合いを図るために考えられたが、選手にとっては自分が選んだ球団には行けない宿命を、FA制度で取り返すことになる。丸は巨人という言葉こそ口にはしなかったが、「子どものころから野球観戦といえば東京ドームでした。夢が叶った気持ちです」と述べた。オメデトウ。

五賢人 堀秀彦 ①

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堀は五賢人の最年長者。1902年(明治35年)3月10日石川県金沢市に生まれ、旧制松本高校文科甲類を経て東京帝国大学哲学科卒。1958年東洋大学教授となるが、1972年(昭和47年)には学内紛争の最中で学長に担ぎ出されたが、「私は政治屋ではない」と二年後に辞職する。堀は1971年に妻を亡くし、一人やもめでありながら朝・夕三度三度の献立を自炊したという。

材料の仕入れは通いの家政婦に頼むが、食通としても知られる堀は、調理、味付けに自ら台所に立つこともあった。晩年のことは後程とし、幼少期の堀についていくつかの記述がある。堀直筆の自伝はなく、伝記が書かれるほどの著名人でもなく、彼のひととなりは堀の著書からの断片で知るしかないが、母親で苦労したところはいささか共感を覚える。

堀は敬虔なキリスト教徒の父母家庭に生まれ、中学三年のとき、プロテスタント牧師によって洗礼を受けている。堀は自ら希望して洗礼を受けたのは、キリスト教徒になることを強く望んだからである。彼はまじめに聖書を読み祈りを捧げていた。彼は当時、内村鑑三の説教を2度聞いたというが、内村の説教を怖ろしいと感じていたという。そして遂に堀は信仰を捨てた。

キリスト教信仰をやめた理由を堀はこのように述べている。わたしの思春期というのは中学一年生以降、人を恨むことから始まっている。それは我が家にある日突然やってきた継母の影響である。彼女は私の青年期を通してこの上なく悩ませた存在だった。父も亡くなった母もクリスチャンだが、継母もクリスチャンだった。そこで当時の私はこのように考えた。

「この憎むべき継母がキリスト教徒であるというのなら、私はキリスト教徒たることを断然やめよう。若い日の私のなかからキリスト教信仰を放逐したものは一人の女性だっとといえるほどにだらしのない信仰であった。私は継母のなかに憎むべき偽善者を見出し、そしてイエスの教えにしたがって、この偽善者を愛そうと努める自分自身により悪質な偽善を見出した。

こんな動機でキリスト教徒をやめて、私は無宗教の状態に立ち返られるのか。私には信仰のない状態が寂しくてやり切れず、高校に入る頃には禅宗に心をひかれるようになった。しかし、禅宗への愛情も冷めてしまう。私の青春時代は宗教的放浪であり、今となってはそのことを恥じている。堀はいつしか無宗教で無信仰のとなったが、それが良かったといっている。

自分も幼少期には母の信仰する新興宗教にいつも連れていかれ、自然と習わぬ教を復唱するようになっていたが、母親への憎悪が増すにつれて、母の宗教が嫌いになったのは、やはり宗教者たる者の偽善的振舞である。信仰あるものは善い心の持ち主というのは大ウソで、鬼畜にもとる邪悪な人間であった。そんな宗教者などとんでもない。宗教を信じない根本的な要因となる。

一般的にいって、宗教という付加価値を人生にプラスするということは、善人を目指す者と誰が考えてもそうであろう。信仰とはそういうものではないのか?キリスト教はキリストに従うものを救い、親鸞は念仏を唱えさえすれば阿弥陀如来を信じなうどんな悪人も救われるなどというが、どちらも正しいのか、どちらも間違いなのか、一体どういうこっちゃでか?

「キリスト信じる者、この指と~まれ!」、「親鸞を信じる者、この指と~まれ!」という子どもの遊びではあるまいが似て非也。「麻原を信じる者、この指と~まれ!」、「上祐を信じる者この指と~まれ!」って、子どもの遊びじゃないんだから。自分には池田大作や大川隆法らが、自我を捨てて真理に従う人のようには見えない。真理を真理のままに知るのを、「菩薩の智慧」という。

疑わず躊躇わず突進するのが、「菩薩の行」という。真理を知るとか、真理に従うといえば何やら難しそうに聞こえるが、実は簡単なことで、要は自分をも他人をも絶対に誤魔化さぬという生き方なのである。が、この生き方が並大抵でないことくらいは誰でもわかる。小さな自我を守るために我々がどれだけ自分をあざむき、他人を誤魔化すことをしているか。

「帰依」という仏教用語は、神仏を尊いものとして崇め、その教えを拠り所として生きるということなら、20年も30年も宗教をやってる人間はそんな風に立派になるのだろうか?自分は、「菩薩の行」などしたことも、しようと思ったこともないが、普段日常、「ボサっ」とするのは得意である。帰依者という言葉はあるが、そんな人が本当にこの世にいるのだろうか。

ときどき、道端のごみを拾う人を見かけるが、とても良い心掛けと感心させられる。その人たちは信仰者ということでもないだろうし、帰依者がそういうことをするということもなかろうし、言葉に尾ひれをつけて人を見ない方が良かろう。これまで観念好きの人は結構いたが、物事を観念化する人は、現実をあるがままに見ない人が多く、だから観念好きなのだろう。

堀は一時期「禅」に傾倒したが、このように述べている。「坐っている、あるいは坐禅しているということは、社会的な関係を一切排除することである。釈迦的な関係を排除するということは、坐って考える思考のなかに一切の人間関係を含まないということである。禅問答は人間と人間との問答でありながら、あおの間には極めて特殊な意味での人間関係しか認められない。

そして普通の人間関係的な要素を含んでいないからこそ、あの馬鹿馬鹿しい、どこを見回しても卒然とした開悟を得る。禅問答のなかには、およそこれが問答たり得るのかというものがいくつもある。身近な卑小なもののなかに大きなものを読み取ろうとし、非社会的な活発でない閉塞的人間関係に生きようとする。ここから出るものは、一切を自身のなかで観念化すること。

観念化とは先にも述べたが、現実を観念によって代用せしめること。そしてこれを代用せしめようとする時の最も手近な手段として用いられるものが、文字であり言語である。現実をあるがままにみない観念界を生きることは、宗教的においては可能であろうが、無宗教者には現実的な行動がすべてである。宗教が出す答えは観念的であるがゆえに楽である。

堀の宗教批判は現実的である。例えば仏像についても辛辣にいう。「仏像は、偶像として私たち精神生活からはハッキリ距離をもって存在している。だが、私たちは同時にこれを美術鑑賞物として内面化して眺める。仏像は美化作用を通して、私たち観念の中に入り込む。だからこそ私たちはしれらの観念を通して仏像を美的に宗教的に眺めることになる。

仏像は宗教的感情をそそる機縁となり、切っ掛けとなる以上、偶像は偶像として礼拝されず、偶像は宗教的な情操への一つのてことして私たちのなかに働く。明白な偶像でありながらも偶像的印象が希薄的である。私はここに日本人の、「観念化」の働きを見る。繰り返すが、「観念化」とは、はっきりと物を見ないことである。はっきり弁別して考えないことである。

五賢人 堀秀彦 ②

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堀は宗教と格闘したことから、宗教的観念的なことに一家言を持っているものの、批判のためだけのする批判は決してしない。堀はまた、バートランド・ラッセルの『幸福論』、『教育論』、『怠情への讃歌』の訳者としても知られており、ラッセルにつての造形も深い。堀が『幸福論』の訳著を出版したのが昭和27年である。当時ラッセルは学者の間では著名であった。

が、一般人にとってラッセルとは豪雪地帯の雪かき列車(ラッセル車)くらいだった。堀はラッセルに影響を受けていたろうし、『幸福論』のあとがき解説にはなんと23ページも書いている。アランやヒルティの「幸福論」と並んで、三大幸福論と称され、世界的に有名な名著のラッセル『幸福論』の最大の特徴は観念的でないこと。よって実務的・実用的である。

二部に分かれており一部においては、「何が不幸の原因か!」を徹底的に洗い出している。堀はこのように解説する。「本書は60歳に近い思想家がまじめに書いたものだ。50歳を超えた人間がまじめに『幸福』ということを論ずるのには、みずみずしい精神が必要だ。私たち平凡な人間の多くは50を過ぎればもはや幸福などということをまじめに論じたがらない」。

その影響もあってか、堀の著作は超実務的である。堀には女性向きの指南書が多いといったが、その名もズバリ『女性へひとこと』(昭和37年出版)には、ひとことどころか、200こと(204項目)くらい書かれているが、書かれてあることの具体的なことには開いた口が塞がらないほどである。こんなことまで書くのかと現代人なら笑えてしまうこともまじめに書いている。

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たとえば、103項目の表題は、「処女演出」として以下の記述。「ある週刊誌上で、病院長西島実氏は、"処女演出"をやれ、とすすめている。『わたしは絶対に処女なの、あんまりだわ』と泣いてもいいと書いている。これは新しい結婚の知恵なのか?(中略) 処女演出論とは一体、処女性を尊重した理論なのか?それとも処女なんて大したことではないという理論なのか?」

「肉体的純潔」と、「精神的純潔」が論議された時代である。肉体的に処女でなくとも、精神的に処女性を持っているならいいのだと。精神的処女性とは何だ?家庭の事情でやむなく売春婦の仕事に就いた女性がいう。「本当に愛人に肉体を与える喜びを感じたなら、その人の肉体的純潔は保たれている。処女であるあるかないかだけで純潔を定義するのはナンセンス」。

処女であるかないかの問題は物理的にあるが、「純潔」という言葉は死語。妻は処女でなければというのも聞かない、いわれない。自分らも10代~20代ころにはそういう話をしたが、今そんな話題は誰もしない。なぜなら、処女を望むなら小学生を妻にせねばならない時代になっている。こんにち処女は女性の権利にあらずで、処女でないのが女性の人権行使と考える。

項目63には、「こんな会話が魅力」という表題。「『僕たちは、今日、こんな風に見合い絵をしたわけですが、これからもっと気楽に、時々会ってみませんか』。初めての見合いのあとで別れしなに、こうはっきり口に出して言ったらどうだろう。『じゃまた来月の第三日曜日に』なんて、事務的な言い方をしないで」。古い世代の堀には悪いがこれも笑ってしまった。

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前の言葉がよくて、後の言葉がダメな理由が分からない。自分は後の方が簡素で良いと思うが…。見合いというシュチエーションはどこかしどろもどろ感はあるにしろ、こういう出会いも緊張感があって新鮮でよいと感じる部分もある。自分なら、「表面だけでなくいろいろやってみるのも大事だからね~。相性もあるし」と、当然のごとく服を脱がしにかかるが、これって昔なら顰蹙ものか?

「あなた、お見合いの女性に失礼なこといったらしいね」と、世話人から苦情が入るのか?そんなで怯む必要もない。「何事もフタを開けてみる必要があるんじゃないの?当たり前のことじゃないの?失礼もヘチマもないでしょ?」といえばいいだけのこと。世話人如きに物怖じする必要もない。チューやセイコーも初デートでいいんじゃないのか?人は中身、中の身や具が大事だ。

最高に笑えるのが項目75の「手を組むということ」。「さて、あなたは彼と婚約した。世界中で、あなたと彼とが手を組んで歩くことに文句を言う人間は一人もいなくなったのだ。あなたはおおっぴらに彼の手にブラさがっることができる。だが、それだからこそ、あんまりおおっっぴらに、まるであなたの身体の重心全来を、彼の左手にかけたような手の組み方はしない方がいい。

この記述は自分らでも笑うのだから、平成生まれのお嬢さんなら、へそが茶を沸かすだろう(これとて古臭い)。「手を組んでもいい?」習慣化すると感激も失せるので、たまにはイタズラっぽく、こうききたまえ」。具体的に過ぎるがそういう時代なのだ。江戸時代、嫁ぐ娘の衣類などの梱りの中に、春画を忍ばせた親心を思い出す。それって見ただけで分かるのか?

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『女性についての103章』(昭和32年刊)と、『女性のための71章』(昭和44年刊)は、いささか内容が違う。「女性について」と、「女性のため」という微妙な言葉の違いということか。後者の69項目、「処女について」は、内容が現代的に変わってこういう内容だ。「ふとしたことであなたが処女を失ったとする。その場合あなたは二つの考え方、生き方を持つことでできる。

①処女を失ったんだから、何度でも第二、第三の処女を失ってやれ、という考え方。②処女をあんな風にして失ったんだから、これから先は肉体のことをもっと重大に考えなくちゃ」。という反省を軸にした考え。いやいやどうして、記述の違いはあれども、堀の頭のなかにある女性観は変わりようがない。自分ならこんな風には書けない、書かない。ならばどう書くのだろうか?

「ふとしたことで処女を失った女性」というのは、自分の意志とは無関係の事件(事故)であろうから、セラピストによる専門的な助言がよかろう。今時、「ふとしたことで」というのはそうそうないし、自らの意志と自己責任で行ったとする。そんな女性に助言などない。処女がどうとかこうとかの問題にもしない。せいぜいいうことは、「妊娠だけは気をつけろよ」である。

処女を失うなどは、自分的には歯医者で虫歯を抜いたと同等のことで助言はない。明治生まれの堀の女性についての論評に、50年前の女性がどう反応したかを知らないが、残念ながら堀の賢人度は女性本には感じない。女性個人の生き方を男が決めないし、他の女性にも決められない。あれこれ言うのは自由だが、その人の生きた道こそが人生である。

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五賢人 堀秀彦 ③

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「残念ながら堀の賢人度は女性本には感じない」。と言ったが、よくよく考えると明治生まれの堀が同時代に生息した女性について述べているのを、戦後生まれの自分が批判するのはいかがなものかと気づき反省させられた。自分とて同時代の女性しか知らないわけだ。女はいつの時代においても女であると同時に、自身の時代を時代の許容のなかで生きていくのである。

所有する堀の著書で最も古いものは『女を知る法』で、これは昭和23年12月15日刊となっている。昭和23年は1948年だから、今日でピッタンコ70年前。1902年生まれの堀が46歳時の執筆である。『女を知る法』とはなんともエグイ表題であろうか。そんな表題を置いていながら、あえて堀は以下自問する。「一体、われわれは何のために女を知らねばならぬのか。

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女の本質を知らないでうっかり女を愛しようものなら、女に騙されるからだというのか。女を愛し、女と恋におち入って、それから諸君が騙されたところでいいじゃないか。女と恋をしている間、諸君は恋を楽しんだのだから。恋をし恋を楽しむためなら、いっそ女について何にも知らない方が仕合せなのだ」と、堀らしい合理に満ちている。堀は自身の肩書を評論家とする。

哲学者を拒否するのも堀らしい。確かに何を以て哲学者を自称するのかは疑問である。カントやニーチェなどのドイツ観念哲学とは一線を画す、実践的哲学体系を信条とする堀である。一口に実践的・実用的などというが、実践は自分と他人との相対関係のなかでの思索行動ゆえに難しい。Aにとっての実践(実用性)は、Bには絵に描いた餅でしかないということは多い。

そうと知りつつ、自己断罪しつつもあえて堀は持論を展開する。行為者は怖れてなどうられない。『女を知る法』は二年後に、『続・女を知る法』として刊行された。のっけの記述はこうである。「お前は彼女と結婚したがっている。ところがお前は彼女を識(知)ってからまだ五か月にもならないのだ!」で始まるが、これはルソーの『エミール』からの引用である。

そのことは堀も書いている。その理由として、「この18世紀のフランス人の言葉はいま以て今日の私たちにも充分当てはまる。多くの青年は愛することが知ることであると早合点している」。こうしたルソーの一文をもって堀が、『女を知る法』などと老婆心を若い男たちのために書きたてたのがよくわかる。堀は著書の最後、「母」という表題の中で苦悩を以下のように書いている。

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「私は継母の手で少年期から青年期を過ごした。継母は私の母を汚辱するものでしかなかった。私は継母を憎むことによって母を愛した。いや、継母を憎むことが即ち母を愛することであった。イミテーションの真珠を軽蔑することが、本物の真珠を讃えることであるように。私は今まで女についてあれこれ書いた。女というものをめぐって散歩してきた。

私にとって母は男でも女でもないのである。母は母なのである。女の美しさは母に於いて極まり、女の強さと優しさは母に於いて無限である。私は母を知ることができない。私がどうして冷静に客観的に母を観察し得ようか。母は、私にとって認識の対象ではなくして、限りない愛情の対象なのだ。母の愛が盲目的であるならば、母に対する私の愛も盲目的であろう。

これほど素晴らしいものがこの世にあろうか。盲目的であればこそ母の愛なのだ」。良い文章である以上に、堀の実母への想いが伝わる。昔から継母というのは、"怖いもの"の代名詞だったが、五賢人のいずれもが母と強い確執をもっていた。彼らは母によって揺さぶられる自我と格闘者であり、堀と林田が継母体験の苦痛を述べている。以下は林田の自伝の一文。

自我は成長に即して自然に身につくものであるが、親の揺さぶりによって「自己」という自我を身につけられなかった者は少なくない。自我の真っ当な成長に相応しい親もいればそうでない親もいる。後者の場合は、壮絶なる自我格闘を強いられることになる。親を分断するか、自我を獲得するかの選択であるが、継母体験というのは斯くも悲惨であるらしい。

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「キリスト教信仰を放逐したものは一人の女性だっとといえるほどにだらしのない信仰であった」と堀はいうが、継母のなかに憎むべき偽善者を見出すとともに、「イエスの教えしたがって憎むべき偽善者を愛そうと努める自分自身に対し、より悪質なる偽善を見出した」と悟った。こういう体験は誰にもあるが、堀にとってキリストの教えを批判する契機となる。

大嫌いな教師がいた。ある日職員室に呼ばれ、「君はなぜ私と道ですれ違って顔をそらすのか?」といわれた。注意というより嫌味である。たしかに陰険な教師であった。それ以後自分は、この教師の嫌味に迎合し、ワザと顔をそらすことにした。教師だけではない、嫌な奴に対してもへらへらと笑顔で、「別に君のことを嫌ってなんかないよ」という態度の、何らたる自己欺瞞。

そんな自分への痛烈な自己批判はあってしかりである。「誰とも仲良く」こんなものは幼児の標語にすぎない。観念的な理想であり、人は実社会をストレスなしに生きることが大事である。嫌な奴の前でニコニコする自分って一体何なのだ?そんな自分を許容はできないし、自己矛盾も甚だしい。こうした考えの善悪はともかく、偽善を排すであろうことは間違いない。

自分も堀と同じように生きてきたから、観念である宗教を捨てて現実主義に走った堀の気持ちは理解できる。宗教を否定するのは、観念否定ということもまた事実であろう。大学受験に失敗したある女性が、貧困であることを親に咎められて浪人の道を閉ざされた。即ち大学進学の道を閉ざされた。そんなときに彼女に救いの手を伸べたのがキリスト教であったという。

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以後、彼女はエホバの証人として生きる決意をした。彼女の切実体験は身を乗り出して聞き入ったが、もう20年以上も前のことである。宗教は自身への救いであると当時に、自らを確信するための宗教離脱もまた事実である。見方を変えれば毒は薬に、薬はまた毒になる。何気ないことであれ、しかと目を凝らしてみるに、多くの事柄は相対的であることに気づく。

絶対性よりも相対性という考え方が宗教批判の根底にある。いずれのスタンスも、「間違い」とは言えない。いずれのスタンスも人の選択である。宗教批判は宗教者批判ではない。なぜなら宗教は個々の生き方の選択である。大学進学を閉ざされ、生きる屍状態にあった彼女が、宗教によって新たなる道、自己の確たる生きる道を授かった事実を批判はできない。

「南部坂の別れ」に見る人間の確信

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「忠臣蔵」の時節である。史実の、「赤穂事件」と、映画の、「忠臣蔵」は種々違っている。後者には事件と関係のない話が混入されているが、史実より創作された、「忠臣蔵」のほうが、日本人の精神性をより反映しているようで、作り話のほうが実体と思っている日本人は多い。我々も「忠臣蔵」の魅力はそちらの方に感じているが、心打つものはなんであろうか。

「赤穂事件」をもとにした芝居は何種類も作られているが、何といっても現在の忠臣蔵の基となったのが『仮名手本忠臣蔵』であろう。本作は刃傷事件から47年後の寛延元年(1748年)に大阪竹本座で人形浄瑠璃として初演、大喝采を浴びた。今から丁度270年前である。なぜ江戸ではなく上方で誕生したのかについては、戯作者の近松門左衛門が基を作ったからだ。


近松門左衛門は承応2年(1653年)、越前国(現在の福井県)に父信義の次男として生を受けるが、越前・吉江藩を辞した父らとともに京都に移り住む。藩を辞した理由は不明である。近松はその後、青年期に京都において位のある公家に仕え暮らしたと見られ、その間に修めた知識や教養が、のちに浄瑠璃を書くにあたって生かされたということになろう。

創作の筆頭と推測されるのが、内匠頭の辞世とされる、「風さそふ 花よりもなを われはまた 春の名残を いかにとかせむ」で、いろは47文字(色は匂へど散りぬるを)を意識しているのが見え見えである。それと、内蔵助のあのような大掛かりな復讐劇を行った真意も不明なら、内匠頭が一国一城を投げ打って、上野介に刃傷に及んだのも正気の沙汰と思えない。

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自分が最も気に入っている1961年版の『赤穂浪士』(東映)でも、江戸の民衆が浪士の討ち入りを期待しているのが、面白かしく描かれている。赤穂藩浪人であるのを伏せて江戸町人に成りすました堀部安兵衛と後に吉良邸内の図面作製を依頼された畳職人伝吉とのやり取りが傑作である。実際に浪士が討ち入った時も民衆は木戸を開けたり高提灯をあげたり協力した。

当時の江戸は人工的にも商業的にも大都市としての風情があった。ゆえに赤穂の浪人が商人になりすまして潜んでいても見破られないという都市の暗部があったのだろう。赤穂の四十七士は最終的なもので、幾人かの脱落者はあった。彼らは「赤穂不義士」としてその末路が描かれている。例えば浪士の切腹から18年目の享保6年(1721年)殺された中島隆碩のこと。

町医者であった隆碩夫婦は、奉公人である直助という男に殺されたが、彼は赤穂の旧臣・小山田庄左衛門その人と記されている。庄左衛門といえば、一度は討ち入り参加を約定するも、討ち入り間近に逃亡、しかも同志の金子を盗んで逃げたことから、脱落者のなかで最も評判の悪い人物である。彼が殺された屋敷を小山田屋敷とはいわず、直助屋敷と呼び伝える。

もう人の脱落者として、四世鶴屋南北によって描かれた『東海道四谷怪談』であるが、主人公の民谷伊右衛門は創作上の人物でありながら、脱落した赤穂浪士との設定である。かくも時が経てば"不忠臣"が話題になるのも、不忠臣側に人間の本質をみるからであろう。世の中というのは、善人より悪人の方が、人間としての様々な資質を持っているというものだ。

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『東海道四谷怪談』は、設定や科白のなかに、『仮名手本忠臣蔵』がパロディとしてふんだんに盛り込まれていることから、当時の観客には大受けしたようだ。「忠臣になどそうそうなれるものではない」と、大半の人間は知っている。そんな立派なことができるわけはないと。だからこそ、南北のような眼力を備えた人物が、脱落した人間にこそ世の真実があるとした。

偉人や賢人にしろ、過去の幾多の英雄・豪傑にしても、好人物や善人は盛られたりの場合は多く、むしろ悪人の方が真実に晒されているのではないか。勧善懲悪物は、真実が大事というのではなく、たとえそれが偽善であろうと美化されることを重視するのだろう。歴史上、極悪人とされた人物は多いが、実は心優しき善人であったのかも知れない。

その反対もしかりであろう。どちらもいわずと知れた人間である。不倫は悪だの、売春婦もいかがわしいだの、人は簡単にいうし、切って捨てる。しかし、人間の歴史を考えてみるに、こういうこと、ああいう人たちは何時の世にもいたではないか。また、先の世にもなくなること、消えることもなかろう。このような事実を言ったり書いてはみても、それに不服な人もいる。

事実がだいじなのか、自身の不服感情が大事なのかを言いたいのではなく、人の感じ方はそれぞれである。人の数ほど考えかたの微妙な違いはあるだろう。性の問題、人格の問題に融通性を持たすか、道徳的に締め上げるか、自分が自身についてどういうスタンスをとるかではなく、他人が他人をあれこれという社会が、本当に良い社会になるのだろうか?

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他人は他人を誉めそやすより、悪口をいう方が楽しそうだ。それでいい世の中になるのだろうか?何かの時に、決まって一言引っ提げて出てくる人間がいるが、同調であれ批判であれ、彼(彼女)らの一家言には融通を感じないことが多い。自分は融通という言葉が好きだし、融通という行為も好きである。融通とは誰もが不断に頻繁に使うが実は仏教用語である。

「別々のものが、融け合い通じ合い(まさに言葉のごとく)、両方相まって完全になること」だという。そこまで正しい意味で融通を理解はしないが、自分は何事にも「ぞんざいであれ」という気持ちで融通とする。「ぞんざい」とは決していい意味ではない。「いい加減に物事をする」という風にだ。が、自分の場合、「いい加減」とは「いいあんばい」とする。

「あんばい」とは、「塩梅」と書く。調理に大事ないい塩梅。お風呂の湯はいい按排。そもそも人間はぞんざいな生き物だから、無理をし、無理をさせるよりは、ぞんざいにしておくのが人間に適している。他人からどうされるではなく、自分が自分をどう律するか、泳がすかの加減を決めればいいのであって、人が人をあれこれいうのは趣味と思われる。

自分はこれを悪趣味とする。ただし、すこぶる向上心高き人は、人の言葉を生かす。人から学ぶが、これすら自主的、主体的なもの。他人から学ばぬも生き方である。他人をボロカスいうのも生き方である。多くのいろいろな人を見ながら、自分をどうしていくかを決めていくのが人生だろう。善も悪も世の中には大事であると以前にもまして考えるこの頃だ。


朝から1961年版の『赤穂浪士』を観た。観たくてたまらずであったから観た。傍には亡き父も座していた。物語最後の段、「南部坂の別れ」のシーンでは瑤泉院と内蔵助の今生の別れの場面である。心と言葉が別々の想いを語るこの場の表現力は難しい演技力が問われる。数々観たが、もっとも自然でもっとも深遠でもっとも心を打つのが大川恵子と千恵蔵であろう。

「同床異夢」という言葉がある。夫婦がともに同じ床にありながら、別のことを考えているという風にも使われるが、この場面をたとえていうに、「異言同夢」であろうか。それぞれの言葉はちぐはぐであるが、的確に相手の心をつかみ取っている。西国の大名に仕官となる内蔵助に賛辞を贈るべく瑤泉院と内蔵助が、心中共に涙の別れを告げるのがいたわしい。

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『続・女を知る法』のあとがきに堀は以下のように書いている。「ちょうど一年前に出版した『女を知る法』は大変よく売れた。それは私の想像をはるかに超えていた。(中略)よくもまあこんなに、「女、女、女」と書いたものだと我ながら呆れたり感心したりしている。『もういい加減、女の悪口の種は尽きたでしょう!」と妻はいうが、私にはまだ物足りない。

私が物足りないと思う理由とは、おそらく私が女を科学的に知っていないからであろう。実際、私はまだ少しも女という人間について科学的に知っていない。科学的に知りもしないのに、いくらかでも女の悪口を言ったとしたら、これは大変よくないことだ。(中略)『女を知る法』がよく売れたのは、書題がよかったからだと、私に言ってくれた友人が多かった。

確かに友人のいう通りだったかも知れない。だが、もしそうだとすれば、内容はちっとも面白くないんだが、題がアトラクティヴであったから売れたものとすれば、今度の「続」は間違いなく売れないに違いない。前の本を買ってくれた読者はおそらく二度と騙されることを好まぬであろうから」。堀の特徴である三段論法を基調としたロジカル思考に吸い寄せられる。

堀の友人のいうように『女を知る法』という表題は、男にとってはどことなく刺激的であり、好奇心を掻き立てられる。「女を知りたい」男にとっては、是非とも手にして読んでみたい気持ちになろう。「書題がアトラクティブ」と堀自身がいうように、確かに人を惹きつけるタイトルではあるが、実質的な内容において今風な言い方をすれば、かなり盛った感は否めない。

続篇は『エミール』の一文で始まっているが、『女を知る法』の冒頭は、「謎」という表題で以下の書き出しである。「女は男にとって千古の謎である。いや、千古の謎のようでもあるし、謎でないようでもある。つまり、曖昧な謎である。千古の謎だと考えて女を愛した男は、やがて、千古の謎どころか、すぐにも底の見え透いた人間として女を見出すかも知れない」。

回りくどい文章である。が、いわんとするのは、「女を偶像化するな」であろう。明らかに男向きに書かれた書籍で、購買者のほとんどが男であろう。女を知りたいのは男であり、女性が「女を知る法」など買う必要はないが、購買動機を想像するに、男の人が女をどう捉えているかという興味だろう。そのためにお金をはたくだろうか?そこはなんとも言い難い。

本の定価は170円だが地方売価180円とある。地方売価?かつて書籍の注文というのは、前金制、買い切注文制が主体の取引であったが、返品を認める委託販売制を導入したことで、全国均一運賃込み統一価格となったが、それ以前は東京と地方に価格差があった。ちなみに昭和25年の大学初任給は、公務員で4223円、銭湯15円、牛乳15円、ラーメン30円である。

となると書籍1冊180円はラーメンの6杯分となり、現在のラーメンが700円とするなら、本一冊は4200円にもなる。いかに書籍が高価であったかが分かろう。ゆえに貧乏人の文化度は低かった。当時は一般家庭に書棚はなく、本もめぼしく、向学心高き者は図書館に通い詰めた。堀のいうように、本が売れたことは、思いのほか良い暮らしができたことになる。

『女を知る法』の目次を見ると、堀の妻がいうような女の悪口本に感じられるかも知れない。こんな表題が並ぶ。「謎」、「夢見る女」、「女の顔」、「すねる・ふくれる」、「女はなぜ嘘をつくか」、「スタイル・ザ・ファースト」、「性的情熱」、「女は強し」、「女の涙」、「虚栄心」、「女の強情」、「女の嫉妬」、「女の友情と性感」、「流行を追う女」、「セックス・パラサイティズム」、「母」など…

「セックス・パラサイティズム」とは性的寄生者。邦題は意味が強まるため洋題にしたのだろう。当時の社会情勢に鑑みて、「とにかく女というものは、男よりも一層強く何か自分以外のものに頼ることなしには生きて行けぬのである。何かに頼らずして生きて行けないという状態、これを我々はパラサイティズム(寄生状態)と呼ぶことができる」という内容である。

「女の涙」については、「女の涙は怖ろしい。女が涙というものを流さなかったとしたら、クレオパトラの鼻どころか、人間の歴史は一変していたであろう。女が泣き出すと男は手がつけられなくなる」と手厳しい。女の涙に情を寄せるのは女を知らぬ男と自分はここに書いた。涙が女の武器である以上、怯むのは敗戦となるが、それでも男は女の涙を捨て置けない。

「女の秘密を教えてあげる」と、ある女が付き合う前に自分に言った以下の言葉である。「女はね、ここでは泣いた方がいいと思ったら意識しないでも自然に涙が出ちゃうの。すごいでしょう?」。聞いてびっくり「目から鱗」だった。女は情緒でできている。しかるに男は何でできているのか?どうやらカエルとカタツムリと仔犬のシッポでできているらしい。


「演技性人格症」というのは、女性に特化した病(?)であろう。男にも演技派はいるが、女性の演技力には太刀打ちできない。肩肘張らずに楽に生きるを好む自分は、几帳面そうにみえて実はずぼら性向。確かに女性は男にとって謎である。自分もその点は幾度もここに書いている。「女は千古の謎」と堀はいうが、自分にいわせると、「女は万古の謎」である。

千古とは千年の古来、大昔といういう意味だが、万古はちと意味が違う。堀は、千古の謎を解く手がかりとして以下述べている。「謎を解くのには手がかりがいる。一つの手がかりさえ見つけられれば、後は訳なく解けるのが謎であるが、女の謎を解く手がかりは何か。幾つかある。虚栄心、嫉妬心、劣等感、感覚、肉体のある器官(子宮のこと?)などであろう。

諸君はどれでもいい、その一つの謎を解く鍵を掴み給え。そうすれば女の謎は解けるだろう」。「女は子宮でものを考える」という言葉を耳にした時、意味も分からぬのにさも分かったような気分でいた。この言い方に怒る女性は、「"女は理性がないから子宮でものを考えるのだ"というような考え方自体、"それって、睾丸で考えたのか?"といいたいのね」。

上品ではないが、goodな切り返しだ。昔の学者が女性の情緒障害をヒステリーとしたのは、ギリシャ語の「子宮」を意味したのが語源だが、「子宮感覚」という言葉を女性自らが使うこともある。頭をつかっても大脳がむにょむにょ動く感覚はないが、子宮がムズムズ感覚は女性特有のもの。この(性的)感覚が女をたらしめるものであるとは女性からの伝聞である。

自分も女という生き物の万古の謎を解明したく漁ったが、いかほど解明できたか謎である。作家の黒岩重吾は、「千人とやっても女は分からない」といった。女を分かった男はおそらくいない。「お前は何で不細工な女が好きなんだ?」とよく言われた。いろんな風に答えたが面倒くさくなって、「灯りを消せよ!そしたら女はみんな同じ」などと言って煙に巻いた。

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堀は1971年(昭和46年)、69歳のときに妻と永遠の離別をした。その時のことを堀は書いている。「7月23日の未明、妻は死んだ。すい臓がんと診断されて死んだ。3か月近くの病院生活で、妻はいやというほどやたらに「検査」され、くる日もくる日も、長時間の「点滴」を耐え忍びながら死んだ。(中略)愛するものの死は、死んだ瞬間から過去完了なのだ。

私は死というもののもっている意味と、生きているものとのその非情な断絶に、あらためて愕然とした。涙がとめどなく流れた。悲しみの涙というより、怒りと口惜しさの涙なのだ。なぜ人間は死なねばならぬのか?(中略)妻が死んで今日で十日になる。朝、目を覚ますや否や、私は簡素な仏壇に駆けつける。「お母さん!」と叫ぶ。涙がひとりでに溢れる。

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私はどうやら少しオカシクなってきたように自覚される。こどもたちも分別顔をして私に注意する。これからさき、私は何を張り合いに生きていくのか。(中略)「もし愛がなければ」私にしたってこのように狂気に近いむさぼりをむさぼることはしないだろう。愛とがかぎりなくむさぼることなのだ。本当の愛は心と心の触れ合いだというのは、本当ではない。」

心に残る文章である。このような文章をあまり見ないし、それくらい堀の切実な想いが伝わってくる。「自ら愛をむさぼる狂気性」と、堀がいうほどのことはある。妻の死後に堀は部屋のあちこちに引き延ばした妻の写真をかけ、妻に向けて語り掛けるという。「今朝も大きな声で、"お母さん!"と呼びかけたが、どの写真も黙っている。私は写真を破りたくなった」。

これらの行為は自分にはいささか異常にみえるが、堀は正常だろう。なぜ異常に見えるかといえば、死後に焼却して灰と骨になったという現実感を超えた、執着心に対してである。「どうしても現実を受け止められない」という人はいるが、人は誰も現実から逃れらるはずはない。受け入れなければどうにもならない現実を、なぜに受け入れられないのか、自分には分からない。

堀はクリスチャンを止めて無神論者になった。が、かつて子どものころに初めて通いだした教会に思い切って足を踏み入れたという。こうした行動も妻の死がもたらせたものだ。堀は牧師から、「むさぼりの罪」という説教を聞いた。この世のさまざまなものをむさぼることが如何に人間として空しいものか、牧師は鮮明に話たときのことを堀はこう書いている。

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「お金も土地も、何でもかんでも、いかほどむさぼり、それを手にいれたとしても、妻は二度ともどってはこない。それならば、妻の生命をいまいちど、むさぼることは罪なのであろうか。妻の文字通りのよみがえりを願い求めることは、人間としてむさぼりの罪を侵すことであるのか」。説教が終わって朝の礼拝は終わったが、堀は牧師に話したいと願い出た。

牧師は受け入れ、小さな別室で40歳を超えたあたりの牧師と向かい合って腰掛けた。20日前に妻が死んだこと、妻の死をあきらめきれぬことを、涙ぐみながらに堀は手短に話したという。そして思い切って心にわだかまるものを牧師に問い尋ねた。「死んだ妻のよみがえりを、生きていた日の妻のそのままのよみがえりを求めるのはむさぼりの罪なのでしょうか。

たとえそれがつみであっても、私はもう一度妻に会いたいのです。もう一度この世で妻と話をしたいのです。もちろん、それが絶対に不可能だと知っています。知りながら、その不可能を求めずにはおれないのです。私は奇蹟を求めているのです。いや、私が求めているのではない。妻へのこの切ない愛が求めているのです。これは人間の傲慢なむさぼりなのでしょうか。教えてください」。

この記述から堀は常軌を逸していると感じた。同時に50年以上前にキリスト教を捨てた堀が、藁をも掴む切ない気持ちで再び教会に足を踏み入れ、妻へのむさぼりの気持ちを牧師に告白するというあられもない心情は一筋縄とは思えぬ理解を超えている。宗教とはそういう人のためにあるものなのか?堀の執拗な言葉に牧師は、「私にはお答えできません」と答えた。

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その時の様子を堀はこのように書いている。「その言葉は、私を突き放すといった調子ではなく、むしろ、"気の毒なひとだ"といった憐憫な響きが漂っているように聞こえた。私は立ち上がって非礼を詫び、"来週またお話を聞きにまいります"といった。牧師は、"どうぞ"といったかいわぬか覚えていない」。妻の死はこれほどまでに堀を壊してしまったのか?

70歳の堀が40代の牧師に、「妻の死を諦められない。もう一度妻と話したい。そんなむさぼりは罪なのか?」と、堀の気持ちに思いを重ねると、人間は斯くも憐れな生き物である。自分にはあり得ない行為だが、他人がそれをするのは人の自由である。が、普通に道理で考えるに、不可能極まりないことを牧師に要求して、いかなる言葉を期待しているのか。こんな無理をいう堀だったのか。

牧師がキリストの力を借りて奇蹟を起こすという淡い期待なのか?人間がとどのつまりは、宗教の霊力に期待するのは人間の浅ましき要求に思えてならない。これは宗教批判というより人間批判である。安らぎや癒しを求めるのはいいが、自分に相応しいものをこそ自力で考え、見つけるべきではないのか。信仰を捨てた堀が、自身の世俗的都合で神を頼ろうとするのは何とも不甲斐ない。

結局、堀は無神論者としても中途半端であったといえる。それはそれでもいいが、最愛の人の死が悲しいのは紛れもない。だからといって、人をこんなに変えてしまうものなのか?我が子の死に遭遇して情緒を狂わせる母親はいるが、父親はそれを戒める。自分も済んでしまったことをクヨクヨしない生き方を旨とする。情緒に溺れてしまうと歯止めがつかなくなるからだ。

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情の深きを知るが故の歯止めであろうか。「覆水盆に返らず」という慣用句は良い言葉であり、実践すべきものと考える。それが自分への新たなるパワーを引き出すことにもなる。終わった恋、捨てた女に慄然とすることこそが、別れた相手を生かすという思いやりである。決して非道・冷酷ではなく、自らの手から離したものへの未練を絶つのが男の責任というものだ。

「復縁したい」、「ヨリを戻したい」人は少なくない。どういう離別をしたのか分からぬが、男が下した一言であるなら、女を捨てた責任は全うすべき。だからか、「ヨリを戻す」のを良いことは思わない。小さく狭い箱のなかだけでゲームをしているかのようだ。「一言を反故にする」ということは、さまざまな場合に生じるが、みっともなくも男らしくない行為と思っている。

宗教が何かを自分は知らぬが、さまざまな体験者から見るに、宗教とか信仰とかは、人間の深い悩みと堅く結びついたものであるようだ。「死ぬのは嫌だ」というのは一般的な人の思いであるが、「悩み」とすべきものではない。荘子の死生観は、「死生一如」。生きるも一瞬、死ぬるも一瞬なら、死と生は同義とする考え方。この考えに否定的な人は以下の考えにある。

「生と死が同じなら、なぜ生を喜び死を悲しむのか?」という批判である。「死生一如」についてかつて考えたことがあるが、今も結論に移動はない。「人間は泣きながら生まれるもので周囲が喜ぶだけ。死ぬものは悲しんで死なない。死後において悲愴感も苦悩もない。全くの無である。いずれの喜悲も本人外の周囲のもの。自らにおいて思考するなら、死生は一如であろう。

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五賢人 堀秀彦 ⑥

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「二つの死と二人の母」
以下は堀の著書の一文。「私の大学の私の学科に女子大学生は、この夏あろうことかあるあいことか、巣鴨駅の便所のなかで、狂人のような青年によって何のいわれもなく刺し殺された。それは真昼間の出来事だった。彼女は午前中ピアノのレッスンに行き、一度家に帰って出かけたところだった。私は彼女の母にこの何とも言えない悲劇があって今日まで三度会った。

そのたびに母はぽろぽろと涙を流して、『とてもあの子が死んだとは考えられないのです。あの子の部屋に入るとき、どうしてもそこにいるとしか思えないのです』と、私にかきくどいた。私はそれに対して何一ついうことも、慰めることもできないで、ただ黙っているよりなかった。母親にとって愛する娘の死はどんなにしても納得も信ずることもできない事実なのだ。

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愛する者の死をそのまま動かぬ事実として受け止めることができないということこそ、その愛が本当の愛であったことのまちがいのない証と私は考えたいのだ。『愛は死を超える』というのは、愛するものが死んではならないのだという理不尽な要求を意味している。この激しい、「願い」、「命令」、「要求」、「あるいは理論」、それこそが愛の本質と思われる。

堀がそう思うのは堀自身の思いである。が、「受け入れられない」、「諦めきれない」のが愛の本質とは思わない。本質のなかの一面を堀は彼なりに考えているということだ。何をもって本質というか!そんなものは解釈のみが存在する。京都学派の哲学者である三木清は、「死は観念である」といった人。自ら自身が実際に死ぬまでにおいて、死は観念であろう。

が、自身の死が自身にとっての現実の死となる時、あるいは現実の死となった時、自分は自分の死を観念とすることはできない。つまり、自身の死とは、自身が生きてる限りにおいて、三木のいう通り観念なのである。不治の病にあって、余命を宣告され、毎日が死に近づいているとしても、死を観念として以外に捉えることはできないだろう。どこまでいってもである。

それに比べて他人の死というのは現実であるが、ここですこしばかり躊躇いがある。上記した母親が娘の死を受け入れられないというのは、母にとって娘は他人でないことになる。というより、他人であることは事実であるが、フィクションをリアルと感じるのも人間の思いであるように、母にとって娘は他人と思えないということだろう。これは思いである。

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死は観念であるけれど、人間にとっての身近なものの死は観念などではなくなる。さらに三木は、「生は個別的であるが、死は一般的である」などという。なるほど、頭のよい人間は物事を斯くも見事に分析する。確かに三木のいうとおり、死は一般的であり誰の死においても個性はない。三島由紀夫の死が個性的ではなく、個性ある人間の死の選び方であった。

人にはその人なりの死に方があれど、それ自体が個性的な死と言わない。それに比べて人の生は見事に個性的である。百花繚乱咲かせようが、蕾のままであろうが、それぞれに個性的である。死に方の問題は、生き方の問題といえるだろう。賢者の死も愚者の死もなんら変わりのない死そのものである。さて、「二つの死、二人の母」について、他方の母とは…。

芥川龍之介の短編、『手巾(ハンケチ)』の主人公たる母である。幾度かこの母のことをここに書いた。母は世話になった息子の礼を兼ねて先生宅を訪ねたが、息子を7日前に亡くしていた。先生は、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。

これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。(原文まま)ところが、婦人が落とした団扇を拾うさい、先生には偶然婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。

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が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊かたく、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、繍ぬひとりのある縁ふちを動かしてゐるのに気がついた。

――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである」。(原文まま) これが息子を愛していない母の姿であろうか?眼に涙も溜めず、平生の通りの声で、口角に微笑さへ浮べ、少しも自分の息子の死を語つてゐるらしくないように見える母は、周囲から息子のことなど愛していないかのように見えるのか?そうではなかろう。

愛の本質とは、見える見えないではなう心の中の真実である。真意を隠そうとする者あらば、隠そうとしない人もいる。おそらく自身の問題としての他者への配慮と思われる。感情極まるのも周囲に配慮するのも人の思いである。それはまた、傍観者にとって好みの問題である。自分は後者を好ぬゆえか後者を選択し、行為をするが、露出と隠すは等分量である。

大泣きすれば感情が大で泣かぬ者は感情が小、あるいは無…。そんな風に人の見方はいろいろだが、人のために生きてはいない。自身における自身のための生き方、人生という風に定めれば、自らに忠実になればいいのであって、他人の方向をみない、顔色も伺わない。誤解も恐れない。人は好き勝手に思えばいい。そういう生き方を好んだ自分である。

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自分に正直になるのは難しいと人がいう。なぜそうなのかよくわからないし、考えてみたところで他人の問題だ。自分に正直になるのは自然なことであり、楽だからやっている。難しいことなどと思ったこともない。堀の著書を読みながら思ったことは、堀という人間は自らに正直に生きている人である。堀は堀の正直さ、自分は自分の正直さ、同じ正直さであれ個々の違いはある。

堀がこのようにしても、自分ならそんな風にしないは、人間が異なる以上違いは当然にあり、批判のようで批判でない、生き方の選択である。「人間は何のために生きるか?」という問題に簡単に答えを出すなら宗教をもちだせばいい。自分という人間を計画的・必然的に造りだそうとした神や仏や、何かの強い力があるといえばいい。そんなものはない。事実は両親の性行為の賜物である。

子どもに問われてもそれ以外に答えようがない。が、そんなことは原理であって重視するものではない。大事なのは不可抗力で手にした命ををどう利用するかである。利用するか持て余すかは個々の問題、他人があれこれ言っても始まらない。価値の有る無も同じこと。法然がこんなことを言っている。「人の命はうまき物を大口に食ひてむせて死ぬることもある也。」

五賢人 堀秀彦 🈡

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男が女性論を書けば当然ながら男目線になる。女の男性論は人にもよるが、女目線どころか、凄まじきほどに男をこきおろす。よくもここまで言えるものかと、女の悪口の才能に呆れるばかり。男が抑え気味なのは、実は女の仕返しを怖れてのことか?フェミニスト三名の鼎談形式になる『男流文学論』を読んだときは、途中で腹が立って読むのを止め本も棄てた。

今まったくときめかない上野千鶴子、富岡多恵子、小倉千加子らフェミニスト三名のゲテモノ本である。初版(1992年1月)の帯にはなかったが、売れない話題造りなのか、「逃げるな!読め。」と変更されている。吉行淳之介、島尾敏雄、谷崎潤一郎、小島信夫、村上春樹、三島由紀夫ら、6人の男流作家を三人の関西女が、「これでもか!」言いたい放題こき下ろす。

フェミニストというのは、男の悪口を肥やしに生きるしかすべがないが、「逃げるな!読め。」という下劣なコピーにバカ女らしさ漂う。「男旱(おとこひでり)の三バカ女」という自虐的な言い方なら共感を得られたかも…。フェミニズムが収束したのは、「男にいいところなど何もない」という独善感で、男をそこまで攻撃せねばならぬ女もどうしたものか。

男との同衾に実在感を抱く子宮感覚女性は、こうまで男をコケにはしない。同著書評のなかに、「恐ろしくつまらない本。富岡多恵子には素晴らしい小説もあるのに、こんな鼎談に参加してしまって残念」。この言葉を実感する富岡であろう。たまさかのフェミニン志向女性が、フェミニストの大親分と同席すれば、こうまで羽目を外すことになる事例の見本。

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女の嫉妬というのは、男の嫉妬とはずいぶん異なるように感ずる。「男は女の過去に嫉妬する。女の嫉妬は男の今に嫉妬する」などを耳にする。すべてがそうとは言わぬが当たらずとも遠からず、確かに女は男の過去にはこだわらない。今がよければの幸せ感を抱くが、男が女の過去に嫉妬するのは、「彼女は自分のもの」感に蹂躙された情けなさとみる。

自分と彼女が出会う前の彼女を、どうして拘束できる筈がない。この物理的な在り方をなぜか飛び越えて心を痛める男の幼児性と自分は見るが、こうした物の道理の分からぬ男には、男としての烙印を押すしかなかろう。女の嫉妬の解消は、悪口三昧で気晴らしをすることが多い。他人と自分の感性が異なることの我慢ができないのは、これまた道理に合わない。

ある女がある女をこんな風にいう。「〇〇こそ高慢なしたり顔のとんでもない女。いつも悧巧ぶり、秀才ぶりをみせびらかしているがとんでもない。そんなのは勝手な思い込みでしかない。このように他人と異なる点を自慢して思いあがっている人間は、甚だしく見劣りし、行く末はろくでもないことになる…」と悪口・雑言、言いたい放題だが、二人はともに著名人。

原文はこのようになっている。「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかりさかしだち、真字(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬことおほかり。かく、ひとにことならむと思ひこのめるひとは、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば…。」手紙の主は紫式部である。式部にとって清少納言は「嫌な女」だった。

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『紫式部日記』の世評だが、彼女は当時の女房のなかで、抜群の批評家であったとのいわれである。つまり、人間の「品定め」の名手であったこと。宮仕えのうちに知り合った女房たちの容貌風姿や心の状態から、和泉式部、赤染衛門、清少納言らに片っ端から批評を加えている。とはいうものの、紫式部自身は周囲の女房から、「嫌な女」と疎んじられていた。

彼女は清少納言を批判した後、急に筆を転じて自分の一身を振り返っている。女房たちの陰口非難にいかに苦しめられたか。古書を読み、漢字を書くといった行為に、どれほど嫌味を言われたことか。そうしたことを敏感に感じとって、次第に追いつめられ、自己一身のなかに堅く閉じこもろうとする侘しいこころを告げている。人を批判すれども我が身の切なさに苦吟する。

こうした情動はいかにも女性的なもので、現代も1000年前の女性にも共通する気質であろう。子宮が思考する事はないが、女は感性鋭いがゆえに、自らを滅ぼす感性すら持ち合わせ、この想いをどうすれば解消できるものかと思い悩む。「まして人のなかにまじりては、いはまほしきことも侍れど、いでやと思はえ、心得まじき人には、いひてやなかるべし」。

「物もどきうちし、われはと思へる人の前にては、うるさければ、ものいふことも憂く侍る」。「それ心よりほかのわが面影をば、えさらずさし向かひまじりたることだにあり」。意味は、「何を言ったところで誤解される。とくに我こそはと思ってる人の前では、煩わしいから何もいうまい。沈黙に越したことはない。さもなくば、仕方なく顔をつきあわせているだけ。


とどのつまりは、「ほけらるたる人(呆けた人)」の姿を演じるのが、窮地における彼女の唯一の態度であったのがわかる。才媛ゆえの苦悩であり、こうしたことは現代女性においても何ら変わりない。「ちょっと美人だからといってなにさま?」、「ちょっと頭がいいからといってなによ」と、こうした女性社会の嫉妬や雑言に、女性は耐えねばならない。

「男の人はいいね。女はめんどうくさい」。よく耳にした言葉。思うに女は孤独の中に生きられない種なのだろう。女も男と同様に社会生活(家庭を含めた)は必要とされるが、社会のなかに自分を埋もれて自分を忘却しているその姿こそが、女にとって最大の幸せなひと時ではなかろうか。ゆえに他人と自分との比較の中で羨望や嫉妬が生まれるのではと考える。

男は女社会に生息することはできないが、多くの女と交流することで、女の社会を垣間見ることはできる。疑似体験とはいえ、それらを知らないでいるより、多少なりとも知ることは女性の苦悩を知ることになる。男と女は相容れぬところもありはするが、でき得る限り互いの理解に努め、それを思いやり、いたわりあうことこそ、男と女の在り方である。

フェミニストたちの男批判はそうした目的を逸脱し、はかならずも自画自賛のための批判は女の実体的な矮小さを示すものである。批判というのは自己批判であれ他者批判であれ、究極的な目的は自己を向上させることにある。フェミニストたちが同性からの支持を得られなかった理由はそこにあった。男を吊るしあげて喜ぶ女は、ただの屁ミニストである。

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五賢人 坂口安吾 ①

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坂口安吾に賢人の称号は似合わない。堀と坂口(以後は安吾)は4歳ちがいなのに堀は85歳と長命だったが、安吾は49歳の若さで急死した。安吾は2月17日の早朝、「舌がもつれる」と言いながら突然痙攣を起こして倒れ、7時55分そのまま永眠する。脳出血だった。葬儀は2月21日に青山斎場で行われ、尾崎士郎、川端康成や佐藤春夫、青野季吉らが弔辞を読む。

川端康成は、「すぐれた作家はすべて最初の人であり、最後の人である。坂口安吾氏の文学は、坂口氏があってつくられ、坂口氏がなくて語れない」とその死を悼んだ。墓は故郷の新潟県新津市大安寺(現・新潟市秋葉区大安寺)の坂口家墓所に葬られた。ただし、墓には安吾の名や戒名は一切印されていない。理由は推測だが、安吾は故郷も実家も嫌っていた。

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安吾といえば汚い部屋の衝撃的な写真である。また、彼のエッセイにしばしば登場するヒロポン(アンフェタミン系の向精神薬)愛用者だった。ヒロポンは戦前に軍部を中心に、「疲労回復・眠気を飛ばす」の名目で副作用の危険性が知られていなかったため積極的に使用されていた。野戦病院では麻酔の代わりにも使われたようで、多くの中毒者を出している。

ヒロポンの他にも睡眠薬を常用した安吾は、競輪の不正を訴えた人でもあり、ライスカレーを百人前頼んだことでも知られている。ところで今はライスカレーとはいわない。カレーライスとどう違うのかについて、ハウス食品オフィシャルサイトのなかの、「カレーこんな話あんな話」説明がなされている。ライスが多い、別々の容器で出てこない、などは俗説である。

ところで安吾がライスカレーを百人前頼んだ事実はあっても、なぜそうしたのかについて書かれてはいない。精神が不安定もしくは精神錯乱状態というのもあるが、その時の状況だが、檀一雄宅に身を寄せていた安吾が妻に、「ライスカレー百人前頼んでこい」といいつけ、妻は近所の食堂に頼みに行った。次々と運ばれてきたライスカレーは庭に積み重ねられたという。

その時の様子を檀一雄は、「言い出したら絶対引かぬ男」と書いている。それを知る妻も、「なにバカなこといってんの!」などと反抗もせず、頼みにいったのだろう。もし誰かが理由を聞いたら、「理由?そんなものありゃせん。頼みたいから頼んだのよ」というのかも知れない。合理的で真っ当な理由はないのだから、そのように答えるしかなかろう。

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安吾といえば49歳で亡くなった。死因は脳溢血であった。体力には自信があったらしいが、三千代夫人がいうには、「自分の頑健さに自信があったがゆえに、油断があったのかも…」といっているが、脳溢血とあっては体力で太刀打ちできない。それにしても三千代夫人の内助の功というのは計り知れない。というのも、安吾は図体もデカいし、覚醒剤に睡眠剤に酒と暴力だ。

夫人が男児を出産した時は、取材先にいた安吾が旅館に呼んだ芸者を全身にアザが残るほどに殴りつけて留置場にいたというし、出産を終えて自宅に帰ってみると、取材旅行から帰った安吾が家にいて、夫人が赤ん坊を差し出すと、安吾は子を受け取らずに暴れだした。夫人は赤ん坊を抱きしめて逃げたというが、先のライスカレー百人前をいわれるままに頼みに行く夫人である。

安吾の女房というのは、これくらいでないと務まらないということだ。亭主関白で夫唱婦随が当たり前の時代とは言え、ナイーブでロマンチストで愛妻家の堀秀彦と比べると安吾は野獣であが、どちらも妻も夫はこういうものだと不満はなかったろう。安吾の暴力は、ヒロポンやアドルムなどの薬物中毒と依存症、さらには背後にあった鬱病による苦悩という風聞がある。

安吾は42~43歳ころ、鬱病治療のために東大の神経科に入院したが、当時の様子を、「僕はもう治っている」、「精神病覚え書」、「わが精神の周囲」、「安吾巷談~麻薬・自殺・宗教」などのエッセイを書いている。作家の苦悩とは、沈んで書けない、だから覚醒剤の力を借り、結果眠れなくなる、だから睡眠薬に頼る。その酩酊から目覚めを求め、また覚醒剤で筆を進める。

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こうした作家という職業そのものが慢性的な薬漬けとなり、睡眠不足から睡眠剤を常用した結果、朦朧状態の心身を覚醒させないと書けなくなるという、中毒~依存の病態が延々と続くことで、日々の生活は錯乱したものとなる。これは安吾自身も自覚しいるが、さするに普段の狂乱状態というのはは、三千代夫人の『クラクラ日記』のなかでも生々しく語られている。

アドルムは強力な効能を持つ睡眠薬で、依存性も高うので使用量も増える。安吾の場合は、通常は二錠が適正量でありながら、致死量をはるかに超える一日五十錠というから、相当の中毒状態であった。薬物中毒の本質というか怖さは、特別な効果や中毒していることを認識できない状態――こそが中毒の基本態というようにである。そんな安吾はこんなことを言っている。

「私の精神が異常であるのは、私の作品が健全のせいだ」(『わが精神の周囲』)

以下は安吾の『暗い青春』の出だし。「まつたく暗い家だつた。いつも陽当りがいゝくせに。どうして、あんなに暗かつたのだらう。それは芥川龍之介の家であつた。私があの家へ行くやうになつたのは、あるじの自殺後二三年すぎてゐたが、あるじの苦悶がまだしみついてゐるやうに暗かつた」という書きだしながら、しばらく行を進めると急に方向転換する。

「私はこの部屋へ通ふのが、暗くて、実に、いやだつた。私は、「死の家」とよんでゐたが、あゝ又、あの陰鬱な部屋に坐るのか、と思ふ。歩く足まで重くなるのだ。私は呪つた。芥川龍之介を憎んだ。然し、私は知つてゐたのだ。暗いのは、もとより、あるじの自殺のせゐではないのだ、と。ジュウタンの色のせゐでもなければ、葛巻のせゐでもなかつた。

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要するに、芥川家が暗いわけではなかつたのだ。私の年齢が暗かつた。私の青春が暗かつたのだ。青春は暗いものだ。この戦争期の青年達は青春の空白時代だといふけれども、なべて青春は空白なものだと私は思ふ。私が暗かつたばかりでなく、友人達も暗かつたと私は思ふ。発散のしやうもないほどの情熱と希望と活力がある。そのくせ焦点がないのだ。」

こういう仕掛けを最初に考えて書いているのではないことは想像する。なぜなら、自分なんかも思うがままに書きながらも、こうまでは上手くはいかないが、逆説的な肯定感にすり替える心地よさはある。すべて予定外の稿が突如頭に浮かんでくる。あらすじや意図をもって文字を埋める人もいるのだろうが、思うがままにの作為はない。だから駄文も仕方なかろう。

五賢人 坂口安吾 ②

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著書『暗い青春』のなかで安吾は、「私は共産主義は嫌ひであつた。彼は自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた」 (中略) 政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へらるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性質のもので、政治はたゞ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ」  (中略)

自らのみの絶対を信じ不変永遠を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。私は革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。私にとつて必要なのは、政治ではなく、先づ自ら自由人たれといふことであつた」。このくだりは印象的だが、「自ら自由人たれ」とは非政治的ではない。

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なぜなら、「自ら自由人たれ」を核とする政治思想があるからだ。これをアナキズムといい、しかるに安吾はアナキストである。アナキズムとは反秩序、反権力、混沌を渇望し、偶像破壊的であるを意味する。作り上げる者もいれば壊す者もいる。どちらが面白いかは人それぞれだが、後者を好む自分は骨のあるアナキストではないが、反権威で生きてきた。

権威という看板を好み、権威に迎合する人間を周囲に置かなかった。これは好みの問題で、かといって反権威で徒党を組むのも好まない。別段、何かをやるとかでもなく、自身の生き方の指針である。「先ず自ら自由人たれ」と安吾はいうが、自由とは、「他人の自由を犠牲にする」ことによってはあり得ない。自由とは必然的に平等を要請するものである。

ルソーはそのために『人間不平等起源論』を書いた。カントの道徳法則は、「他者を単に手段としてのみならず、同時に目的として扱え」とあるが、決して「他者を手段としてではなく、目的としてのみ扱え」という意味ではない。なぜなら、他者を手段として扱うことは絶対に避けられない。よって、手段と同時に他者を目的として扱うようすべきといっている。

この場合の目的とは、「自由な存在」の意味で、決して難しいことではない。親が子どもの幸福を真に望むのと、親自身の見栄による自己実現手段として子どもを扱うのと、どちらの親が多い?せめて、正しいのはどちらであるかくらいは知っておくべきではないか。子どもは親の所有物ではない自由な存在とし、その範囲内で子どもの幸福を願えばいいのだが…

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傲慢な親は好きでないし、傲慢な人間も好きでない。よって自分は傲慢な親にも傲慢な人間にもなりたくない。嫌っている者になりたいはずがない。人を嫌うことが自己向上に寄与するなら大いに嫌えばよい。自分が嫌なものは徹底して嫌えば、そんな自分にならないでいれる。自分の親を徹底的に嫌いながらも自分が同じような親になるのはバカの遺伝だろうか?

貸した金を返さない人間を嫌いながら、同じような人間に自分がなるってどういうことだ?理由は簡単、自分のことを自分が見えないからだ。意識というのは目には見えないものだから、意識をしかと見る目を養うしかない。また、他人からの批判は冷静に正確に分析するべし。おかどちがいな批判は感情的なものであるから、気にせずただの情報と捉えて無視をする。

正しい批判は耳が痛くとも受け入れ、自尊心をむき出して戦わないことだ。人は自分の都合の良いように他人を投影して見るものだが、正しい批判は親身な言葉として素直に聞き入れる。親身であるか嫌味であるかは、相手をしかと洞察する力も必要だ。もっとも大事な友人の場合、すべて親身と受け取ってよかろう。友人は堅いベッドにもなり、良薬にもなる。

人は絶対的孤独というが、他の存在を自覚してのみ絶対孤独もあり得よう。そうではなくて、無自覚で盲目的な孤独はプラスにならない。そういう孤独は地中に存在する芋虫が如き孤独である。若い時には好んで、「偶然」とか、「運命」とかの言葉を口にしたがる。それによって人間を達観した気になるのだろうが、年を重ねて物事が分かってくる変わってくる。

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50歳を超える年齢になると、自分の生活や日々の生き方が運命とか偶然の産物ではなく、他ならぬ自分がいつとはなしに作り上げたと知るようになる。人生とはそういうものだ。自らが生き立っている生活の地点、例えば妻と子ども三人を持ち、日々の仕事に精を出す生活は、自分自身の手によって作り上げられたもの。その意味で自身に責任を持たねばならない。

運命や偶然が人生を作るのではなく、人が人の人生を作ってゆく。選んだ仕事も、伴侶も、二人で作った子どもたちも必然的なもの。偶然の仕事、偶然の巡り合いなどは思いたい人の感傷である。何事にも、「意志」が存在し、存在していたのだと分かる年齢になった時、お伽噺如き運命論とは決別する。自分は確実に何かをしたのだとの自己責任に立ち返る。

自分は安吾の何を最初に読んだか。『堕落論』ではなくて、『日本文化私観』だったように記憶する。同著は『堕落論』や『白痴』とならんで安吾の代表作ともいえる論評で、ブルーノ・タウトによる同名著作に反発して書かれたパロディーであることは知られている。タウトの『日本文化私観』は1936年に著され、安吾の『日本文化私観』は1942年である。

この中で安吾はタウトのオリエンタリストぶりを批判して見せた。「タウトごときに日本の何が分かるのだ」といわんばかりの安吾にとって、日本人が健康である限りの日本文化はいつでも形を変えて再生存続するという自負があった。それらを骨董品を眺めるが如く遠方から評価したり、外圧による文化の正統性を担保するやり方に我慢ならなかったのだろう。

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「タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである」。戦争に負けて忸怩たる日本人に心地よい安吾の物言いである。舶来信仰に日本文化まで売り渡すこともない。

安吾の反逆精神は論理を武器にタウトに襲い掛かる。タウトが称揚した日本の伝統文化を、逆手にとって近代文化・民衆文化で相対化してみせた。決して抽象的で観念的な政治的イデオロギーではなく、「生活の必要」、「実質」、「やむべからず必要」といった、世俗的世界における清濁併せ呑みながらの生きるリアリズム、これこそが安吾礼賛の本質である。

五賢人 坂口安吾 ③

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ブルーノ・タウトは、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家で都市計画家でもある。鉄のモニュメント(1910年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。 晩年はナチスの迫害により、亡命先を探していた際に、上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会から招聘を受け、1933年に来日し3年半滞在した。

来日の翌日、京都の桂離宮へ案内されたこともあって、桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。が、タウトは日本滞在中、建築方面の仕事に余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたという。その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した本を著したり、熱海の商人・日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行ったりもした。

外国人が日本文化の能や歌舞伎をべた誉めするのは礼儀という側面もあろう。タウトの日本褒めにも多少の盛った感はある。そのタウトはなぜか新潟市を、「日本で最も俗悪な都市」と書いているが、いうまでもない安吾の故郷は新潟市である。『日本文化私観』のなかで安吾は、「京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統はびくともせんよ」と叩きつけた。
 
『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』という著書を書いた日本人もいるが、安吾は死んでもそんなことは書かない。タウトはある日、日本の富豪の接待を受けた。客は十名余りであったが、主人は自ら蔵と座敷の間を行ったり来たりで、所有する一幅の掛物などを床の間に吊し来客に披露した。名画を披露するのは自慢というより自己満足であろう。

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『日本文化私観』のなかでこのような慧眼を述べた文もある。「伝統とか、国民性とかよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。およそ自分の性情に裏腹な習慣や伝統を、あたかも生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本で行われていたことが、昔行われていたために日本古来なものだということは成り立たない。

外国において行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に相応しいということも有り得るのだ」。こういうところが、安吾の安吾たるところで、自分が多くの影響を受けた点である。日本人は物事を決めつける人種であり、その意味で思考が狭隘であり矮小である。AはBであり、よってBはCであるという三段論法は西洋から輸入した思考である。

「島国根性」と揶揄されるのは、鎖国によって立ち遅れた部分もあるのだろうか?それとも陸続きで侵略をされることのない鷹揚とした平和ボケ民族そのものであろうか。物事にはあらゆる可能性があるものだが、決めつけることで収束を図ろうとするのも、「和を以て尊しと成す」ということの由来なのか。言い放題、好き放題ではまとまるものもまとまらない。

「和」とは平和の和、融和の和である。日本人が妥協がよくないとするのは、聖徳さんの一言が揺るがぬ日本人気質を育て、妥協を苦渋の決断と考えるようになったのだろうか。英語では妥協を、「compromise」といい、英英辞典によるところの意味は、「望んだものすべてではないが、お互いがその一部を得る」とあるように、日本語でいう妥協のマイナスイメージはない。

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話を安吾版『日本文化私観』に戻す。「日本精神とはなんぞや?」という命題を自らに課しながら安吾は、「日本人がそういうことを論じる必要はない」というのである。安吾にいわせると、「日本精神というものが説明づけられるはずもない。また、説明づけられた精神から日本が生まれるはずもない」とし、彼はこのような独自の見解を提示するのである。

「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」。「堕落することで自分自身を発見せよ」などと印象的な言葉の多い安吾は、何事をも実質・実利に徹底してか、『日本文化私観』をこのような言葉で締めている。「我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々ろしても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。

必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。久しぶりに安吾の『日本文化私観』を読み終えて、新たな感慨に襲われた。

「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば…」。あらためて安吾の言葉を思い返すと、東北大地震の福島原発や各地の豪雨災害で被害にあった人たちのことが頭を過る。学校の体育館なども被災者の一時避難に使われたりする。公園も体育館も必要な施設であるが、何より大事なのは人間の生活で、それこそが安吾のいう実利・本質である。

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「衣食足りて礼節を知る」というように、礼節は社会生活に大事であるが、それも衣食足りてこそである。資産家が蔵に骨董品や掛け軸をため込み、来客に披露して自己満足に浸るのはいいけれども、被災者を招いて炊き出しをすることこそ、人間の社会的実利であろう。いかにおバカな資産家といえど、被災者を招いて玉泉、竹田、鉄斎の掛け軸を披露することはない。

安吾の『堕落論』、『青春論』、『我が人生観』や『日本文化私観』には、哀しいかな動物である人間への愛しさについて書いている。聖書や仏典や観念哲学や道徳法則のようなことは一切書かれてはいないが、「俗悪の発見」にこう記している。安吾のいう俗悪とはいかなるものか。信長が安土に立派な寺を建てようとしたことについて安吾は記している。

「織田信長のような、理智と、実利と計算だけの合理主義でも、安土に総見寺という日本一のお堂を建てて、自分を本尊に飾り、あらゆる日本人に拝ませようと考えた。着工間もなく変死して工事は地ならしに着手の程度で終わったらしい。秀吉が大仏殿を建てたのは、その亜流であった。自分よりもお堂が立派だということをミイラどもは告白しているのである。

彼らは人を見下していたが、いつも人に負けていた。そして、他の人には造れない大きなお堂を造らないと安心できなかった。あわれなミイラどもよ」。いつにもまして痛快なる安吾の物言いであるが、宗教施設の大きな建造物について思うことが。趣向を凝らしてはいるが、色物甚だしき外観である。信長も秀吉も家康も権威なら、キリストも釈迦も権威に祀られる。

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即ち宗教が権威であるのは、いかなるためにか。人を救うものは権威が必要なのか?いずれに宗派の高僧たちは立派な召し物を纏っている。随分お高い衣装と思うが、大川隆法に至ってはチンドン屋である。そんな彼が「私があの釈迦であり…、神です。」といっているのだからビョーキだろう。それとも、笑いをとるために彼は頑張っているのかも知れない。

新興宗教のイカレた教祖がこうした格好したがるのは分からなくもないが、思うに信者たちはこうした出で立ち(新しい言葉でコスチューム)を纏った教祖を恥ずかしいと思わないものなのか?そこは理解できない。学芸会じゃあるまいし、まともな理性を持った信者と思うなら、こんないかにも的な格好で現れるなんか恥ずかしくてできないと思う教祖こそ、"まとも"と感じられる。

五賢人 坂口安吾 ④

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日本家屋の床の間についてタウトは、「地球上のどこにおいても達成され得なかった所の、まことに世界の模範と称しても差し支えない一つの創造物」と大袈裟に絶賛し、「模倣によりて美は消失する」とする。一転安吾は、「模倣と反復こそインスピレーションの源である」と喝破する。想い出すのは稀代のピアニストと名を残すホロヴィッツの言葉である。

「私は若いころから、著名なピアニストたちの模倣ばかりやっていた。が、ある年齢に達すると、ちっとも面白くなくなってきた」。将棋の升田幸三もいう。「若い者は人を真似て腕をあげればいいが、ある程度強くなると自然と自分の流儀がでてくる」。芸術とは自然の模倣である。タウトの極度な床の間絶賛は、アメリカの暖炉を絶賛しているようなものだ。

「ゲーテがシェイクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書き上げたように、個性を尊重する芸術においてすら、模倣から発見への過程は最もしばしば行われる。インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する」(坂口安吾:『日本文化私観』より)。芸術家は「無から有を生む」というのは、どうやら真実ではないのだろう。

安吾語録は若き自分に目から鱗が落ちるどころではない。「赤頭巾ちゃん如く狼に殺されても悔いのない親切こそ本当の親切である」に触発された。無意識でなされる「上辺の親切という偽善」の理解に何十年かかっただろうか。「めいめいが各自の独自な誠実な生活を求めることが人生の目的でなくして、他の何が目的だろうか」。安吾の言葉は人生の指針となる。

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そもそも誉め言葉において、具体性を欠いた抽象的な表現じたい、サービス精神やてんこ盛りであろう。太っている女性を褒めるのに、「健康的ですね~」というようなもので、これを発するときは信憑性があるかの如く注意が必要。スマートな女性に、「スタイルがいいですね」というのは難しくはないが、拒食症の激痩せ女性に「健康的でないね」とは言えない。

「健康的だね」といわれた女性がどのように受け取ろうとも、社交辞令言葉に責任はとれない。もっとも安吾は、「大根脚は隠せ」という表題エッセイを書いていられるほどに親切極まりない作家だが、面と向かって直接言うわけではないので被害女性は生まれない。このエッセイのなかに赤頭巾ちゃんのことを書いている。初めて読んだときは驚くばかりだった。

「フランスの童話に『赤頭巾』というのがあって、親切な少女が森の婆さんを見舞いに行って狼に食べられる話がある。だから親切にするなというのではないので、親切にするなら小平(強姦魔の小平義雄)や狼に殺されるのを承知の上で親切にしろというのだ。親切にしてやったのに裏切られたからもう親切にしないという人間は始めから親切などはやらぬことだ」。

美談童話を自己責任にまで昇華させる安吾は、西洋人の合理主義を理解する。甘い感傷より危機管理意識の大切さこそ児童文学であるべきかと。「大根脚の女性は隠しなさい」というのも安吾流の本質・実利であって、それをデリカシー無きと吠えるなら、「まことに世界の模範と称しても差し支えない一つの創造物」などの西洋人の世辞の類にうつつを抜かしておればいい。

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外国人男の基本は下心満載のドンファン的である。「女性にお世辞を言った時に、『お世辞なんか言わなくて結構です!』といわれた場合にどう答えればいいのでしょうか?」と聞いてきた男がいた。「そんなこと自分で思いつかないのか?」と不甲斐ない男と思いながらも答えた気はするが記憶にない。今ならどういう風に答えるのだろうか?試しに考えてみた。

おそらく自分らしい言い方は、「お世辞って見え透いてるからバレバレだろうね。僕は思ったことをいう性格だから」。この言葉を直感で理解する女は頭がいいが、足りない女性には回りくどくて理解に手間取る。あるいは理解できない。これは読解力(理解力)という能力の問題であり、「お世辞なんかいわなくていい」という女性は大体においてクレバーである。

そういう女性に対処できるのはひとかど男。「お世辞を言えば木に登る女が向いてるんじゃないか」と言いたいところだが口に出すこともない。「自分で考えるんだな」というだろう。くだらぬマニュアル本にはあれこれ書かれてあるが、自分は安吾譲りの本質・実利派である。ブログも文章であり相手を特定していないゆえ、「大根脚は隠せ」程度の親切は言っている。

なにより安吾を読む人は、「正直に生きたい」との心構えをもつこと。でなくば何も見えない。例えば次の言葉。「すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などというものは、例外なしに贋物と信じて差支えはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行われており、現実に対する反逆が精神の基調をなしているからである」。

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「善意」というのは案外と強制である場合が多く、本人が「善」と思ってるところが侘しい。宗教家は、「あなたの幸せを願って…」というが、これは生命保険のおばちゃんのいう言葉と何ら変わりない。「不倫」が倫理であらずと躍起になるウルサ型連中は、不倫以外に行っている自らの不倫理、非道徳に目が行っていないのだろう。まことにご愁傷様である。

愛欲や放埓について安吾はいう。「ただれた愛欲、無軌道な放埓の中からも、やがてそこに高い魂が宿るようになえうものだ。ただれた愛欲はいつの世にもあるもので、娯楽のせいじゃなく、人間のせいだ。娯楽が人間の劣情を挑発するというのなら、娯楽を禁止して、娯楽なき健全世界を創るか。これが健全だというなら、私は不健全、私は不健全を名誉とする」。

「君はなぜ強制に従うのか?」と聞いてみるに、「相手が怖いから」と答える者は多かろう。そういう者に対して安吾はこのようにいう。「ただこれ強制に服する根性というものは、己以下の弱者に対しては、ただこれ強制する根性なのだ」。会社、学校、サークル、団体、そうした共同体の中で派生する同調圧力はあろうが、上に媚びる人間の多くは下に威張る者多し。

それらはいじめにもつながることにもなるが、「我が自由は何をおいても断固守り通す」、「守ってよい」という考えは安吾のみならず、人間の生きる基本である。「上にへーこら、下にはおいコラ!」という言葉があるが、上にそうだと下にもそうだと安吾はいう。カカア殿下で尻に敷かれた男ほど会社で威張っているのも、実態を如実に表している。んとちゃうか?

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五賢人 坂口安吾 ⑤

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安吾の生まれ故郷である新潟市の護国寺境内松林を進んでいくと、砂丘上にどんと据えられたおむすび型の石碑に出会う。それが寄居浜安吾碑で、尾崎士郎、壇一雄らが発起人となって、1957年6月に建立された。目の前には、安吾が中学校をさぼり、ここに来ては眺めていたという日本海を臨む。安吾は自伝『石の思い』にこのように書いている。

「中学をどうしても休んで海の松林でひっくりかえって空を眺めて暮さねばならなくなってから、私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であった。そして吹く風であり、風の音であった」。安吾は新潟の海がステキだという。日本海を愛し、作品にも数多く登場させている。  妻の三千代は安吾の生前の言葉を『クラクラ日記』にこのように記している。

「日本海はくらいんだ、やっぱり荒波だ。一望千里砂浜だ、佐渡が見える。夜でも泳いだんだ。夜の海は怖いものだよ。オレだけが波にもまれているんだ」。寄居浜安吾碑の碑分には「ふるさとは 語ることなし 安吾」と彫られているが、碑文のもとになったのは、新潟の放送局でインタビュー番組を制作していた丸山一さんに送られた色紙に書いた言葉である。

これについては安吾の長男坂口綱男氏の言葉がある。「父は思春期に新潟の実家に背を向け文学の道に進んだ事もあり、この碑文をふるさとに対しての否定であると言う向きもあるが、その言葉を残したのが安吾だからと言ってそうヒネクレる必要もないと思う。もっともどちらとも取れる表現で、このような言葉を新潟に残したのは父らしいと言えば父らしい。

この碑が建てられたのは、私が五歳位の出来事だった。何があるのかも知らぬまま、大勢の人がいる賑々しい場所に引き出され、この紐を引けと言われ紐を引くと、真っ白い光沢のある布がスルスルと滑り落ち目の前に巨大な石が姿をあらわした。五歳の子供にこの行事はかなり衝撃的な出来事だったらしく、巨大な石の姿はいまだに脳裏に焼き付いている。」

「ふるさとは 語ることなし」の意味を想像するに、ふるさとが本当に嫌いだから、「語ることなどない」のか、あるいは語りたいことが山ほどあるのに、言葉にした途端、偽りになってしまうとの思いから、「語ることなどない」のか。もし、後者であるなら、あえて「語らないふるさと」という概念を保ち続けることで、ふるさとを永遠の存在とすることになるであろう。

昭和16年、安吾は戦時下の緊迫した社会情勢のなか、『島原の乱』を完成すべき歴史書を読み、当地に取材に出かけて執筆に専念する。「僕は悠々たる余裕の文学を書いていたい」(巻頭随筆)と表明するが、そこには人間のふるさとに、は「救いがない」という認識がある。「私自身の目で戦争を見て、私自身の知り得る人間の限界まで究めたかった」と語っている。

安吾は戦争を、「救いがない」究極の世界として冷厳に見ていたようで、『日本文化私観』は、そんな安吾の冷厳さで捉えられている。同著は1942年(昭和17年)2月28日、文芸同人雑誌『現代文学』に掲載されたが、そのなかで安吾は上記したような、「必要のやむべからず生成」の重要性を主張、「すべては、実質の問題」であることを展開している。

こうした考えは『青春論』にも継承され、戦後の安吾の思想基盤にもなっている。一切の迷いを断ち切り、悟りにも滞らず、「必要やむべからず生成」を見続ける安吾の精神は荻野アンナのいうユマニスト如きものではなく、大悟徹底精神の賜物と考える。女が安吾に傾倒するのも分からぬが、安吾は同じ無頼派で女性に人気のある太宰とは一線を画す作家である。

一般的に人は人に対して、「堕落するな」と説くものだが、「堕落する以外に人間を救う道はない」などと仏の道に反するようなことをいう人間が、安吾以外にいるだろうか。彼は、堕落という混乱の道を徹底することで、「必要のやむべからず生成」を発見することが重要と説く。これはモラルの問題ではない。すべて一切は、そのやんごとなき必要性と実質の問題である。

良書とは人格を向上させるものであろう。しかるに良書とは間違ったことが書かれているものであると述べたように、ならば、世間で悪書といわれるものには良いことが網羅されていることもある。世間一般で安吾は太宰や織田作之助と通じ合う要素を持っているといわれながら、まったく異質なのはその思考の徹底性にある。彼の特質はこういう文にも現れる。

「大マジメな社会改良家も、大マジメな殺人犯も、同じようなものだ。いずれも良識の敵であり、ひらたく云えば、風流に反しているのである」。「自分の本音を雑音なしに聞き出すことさへ、今日の我々には甚だ至難の業だと思ふ。日本の先輩でこの苦難な道を歩き通した人を、西鶴の他に私は知らない」。「本当の美しい魂は悪い子供が持っている」。これが安吾という人間である。

斯くの如き言葉の累々を、思考し悩み求めるだけで人間は一段成長する。三島由紀夫は『無題』として以下記す。「何たる悪い世相だ。太宰治がもてはやされて、坂口安吾が忘れられるとは、石が浮かんで、木の葉が沈むやうなものだ。坂口安吾は、何もかも洞察してゐた。底の底まで見透かしてゐたから、明るく、決してメソメソせず、生活は生活で、立派に狂的だった。

坂口安吾の文学を読むと、私はいつもトンネルを感じる。なぜだらう。余計なものがなく、ガランとしてゐて、空っ風が吹きとほって、しかもそれが一方から一方への単純な通路であることは明白で、向う側には、夢のやうに明るい丸い遠景の光が浮かんでいる。この人は、未来を怖れもせず、愛しもしなかった。」 (以下略) 三島は太宰を嫌っていた。

漫画家の近藤ようこの『戦争と一人の女』が発表されたのは、2012年だった。これは、坂口安吾の『戦争と一人の女』、『続・戦争と一人の女』、『わたしは海を抱きしめていたい』を原作とする漫画作品である。近藤はこのように述べている。「坂口安吾の『戦争と一人の女』を読んだとき、"女は戦争が好きだ"をはじめとして、強烈な言葉の数々に驚かされました。

また、『戦争と一人の女』を読むことで、それまで読んできた小説が戦争に対して通り一遍の見方をしていることに返って気づかされるようでした。『戦争と一人の女』は、戦争に対して全く異なる見方を差し出している。何よりそれが面白かったです」。近藤は、『戦争と一人の女』を漫画化する前に、『桜の森の満開の下』と、『夜長姫と耳男』の安吾作品を漫画化している。

五賢人 坂口安吾 ⑥

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安吾作品の『戦争と一人の女』を漫画にしたのが近藤ようこなら、映画にしたのが寺脇研だった。寺脇研という名をどこかで聞いた人は少なくなかろう。彼は言わずと知れた元文部科学省の官僚で、「ミスターゆとり教育」と呼ばれたあの寺脇研である。なぜまた彼が映画を作ったのか?寺脇は映画評論家としてのもう一つの顔を持っていたのは知る人ぞ知る。

「好きこそもののナントカ…」というが、寺脇は映画が好きでたまらない人だった。広島県の教育長時代、「キネマ旬報」にピンク映画時評を連載していたが、県議会で問題にされて仕方なく連載を中止した。寺脇の映画好きはいささか偏りがあって、ロマンポルノとピンク映画を特に好んだ。それゆえに、「教育長としていかがなものか?」となってしまった。

寺脇は、「ゆとり教育」失敗の責任をとって文科省を辞め、憧れの映画評論家という肩書に収まった。さらには映画好きが昂じた事で、この際自分で映画を作ってみようとなった。ジャンルはいうまでもないピンク映画である。そもそもピンク映画の定義とは何ぞや?寺脇も寺脇なら拙者も拙者、嫌いではないので表題から外れてピンク映画の沿革など書いてみる。

その昔、「ブルーフィルム」というのがあった。性的・猥褻を主とした、「風俗小型映画」の俗称で、16ミリや8ミリ映写機用に作製された。昭和27年から昭和31年辺りが全盛期とし、小料理屋、旅館、温泉宿の奥座敷が上映場所に使われていた。日本人の性意識も大きく変わっていく中、当時、東京の浅草や吉原周辺には常設上映場が10カ所以上もあったという。

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我が大日本帝国は戦争に負けはしたが、性風俗関連に廃りはない。色好み相手の逞しき商魂というのか、その執念たるや凄まじい。銀座の高級クラブでも、「出張上映会」が開かれていた。医師や弁護士や議員らエグゼクティブ階層たちのささやかな享楽である。ブルーフィルムの名称は、アメリカのポルノフィルムが青く着色されていた事に由来する言い方ともいうが。

実は、あちらでは何故"青"なのかには諸説あり、「内容が法的に危ないので青みがかった現像をすることでセーフにしていた」というものと、「かつて行われていたアメリカの検閲では、性的な項目に青色でチェックを入れていた」というのも信憑性がある。なぜか国によってエロい系の色が違っている。英語圏は、「Blue Film」といい、日本では、「ピンク映画」という。

中国では、「イエロー映画(黄色電影)」といい、 スペインでは、「グリーン映画(Cine verde)」という。イタリアでは、「レッド映画(Film rosso)」と赤に変わる。"シモネタ"をアメリカでは、「Blue Joke」というが、日本でなぜ、「ピンク映画」といわれたかについて、内外タイムス文化部記者だった村井実による命名というのが通説となっているが、これには疑問符がつく。

1983年に出版された村山の著書『ポルノ映画おもしろ雑学読本』と、1989年出版の、『はだかの夢年代記 ぼくのピンク映画史』に、『情欲の洞窟』という映画をピンク映画としたとの記述がある。ところが『情欲の洞窟』の記事が掲載された1963年9月9日の7ヶ月前の同年2月9日、「ピンク映画」という言葉の初の使用例が内外タイムスにあった事実が見つかった。


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当時内外タイムス文化部は10人の記者がいたが、実は村井と同じ記者仲間である斎藤龍鳳がコラムで使用したというのが関係者の一致する真実のようだ。ところが斎藤龍鳳が43歳の若さで急逝したのが1977年3月、村井実がピンク映画の名付け親だと主張しだしのは斎藤龍鳳の死後のことである。となると村井は、「死人に口無し」を利用した可能性が高い。

村井実であれ、斎藤龍鳳であれ、「ピンク映画」という名称の名付け親を自負するほどの文化的価値はなかろう。ピンク映画はやがて死語となり、今はエロ映画という呼び名に変わった。1980年代初頭にタモリがいい始めた、「ダサい」は、「駄埼玉」から得た語源である。もしタモリの目に埼玉より千葉が、「駄」と映っていたなら、「ダサい」は、「ダちー」だった可能性が高い。

ブルーフィルムもやがてビデオデッキの出現で消えていく。当時の人気作品内容では、セーラーもの、看護婦ものは人気があった。前者は憧れの桃尻娘、後者は、「白衣の天使」の一面を持ちながらも、男ひでりの女世界にあっては、「脱衣の天使」となる。巫女ものも需要があった。巫女もの人気が高い理由は、神へ奉仕する女性だからであろう。男は奉仕を喜ぶ。

いわずとしれたコスプレのニセ巫女である。白衣を着れば看護婦、巫女装束を着れば誰もが巫女になる。看護婦は白一色だが、巫女はなぜに紅白なのか?巫女の歴史を紐解くに最も古い巫女は古事記までさかのぼる。天照大神が天岩屋に閉じこもった時、岩の外で舞ったのが天細女命 (あめのうずめのみこと)。太陽神へ舞いを奉納したのが巫女の始まりとされている。

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巫女装束は昔から赤白だったわけでなく、平安時代には好みの色の袴を身に着けていた。室町時代初期のころから赤い袴が定着し始めたと考えられている。現在の赤い袴と白い白衣の巫女装束は明治時代になる。維新後に政府は神社祭祀制度を見直し、宗教について定義をした。同時に巫女の立場と衣装について明確に定義され、赤い袴と白い白衣になったという。

スケベな友人が、「巫女を犯してみたい」という。「嫁に着せたら?ネットで売ってる」と教えるも、「巫女ババァはいいよ。あいつに巫女の衣装を着せても神聖にはならん」という。「それもそうか…」と、腹で納得する。肌の露出多きもいいが、和服に漂うエロチシズムもいい。古代衣装の十二単は脱がすのも大変、長い竹の節をくりぬいて庭にオシッコ流してた。

引力のせいでか話は落ちるばかり。映画好きがたたって映画作りを模索した寺脇だが映画は金がかかる。が、ピンク映画は低予算で行ける。4~5百万程度なら文科省の退職金で何とかまかなえる。話は進み、どういうピンク映画を思案した結果、戦時中物がよかろうとなった。さて、誰にシナリオを誰に頼むかで白羽の矢を立てたのが知人で脚本家の荒井晴彦である。

荒井は、『Wに悲劇』、『ヴァイブレータ』などを手掛けている。寺脇が駆け出しの映画評論家だったころ、映画を貶して絡まれることがあっても荒井とはひょんなことで息があった。二人は交友があったが、荒井は寺脇に60万円の借金があったという。それをチャラにするという条件で、荒井に脚本依頼をとりつけた。台本は坂口安吾の『戦争と一人の女』と決まった。

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『戦争と一人の女』に決まった経緯はこうだ。荒井が監督を井上淳一に推し、引き受けた井上が何か良い台本はないものか、戦時中を舞台にした小説をいろいろ読み漁った中で出会った一冊だった。寺脇も荒井も了解し映画のタイトルはそのままの『戦争と一人の女』に決まったものの、安吾を原作としたことで予算はピンク映画の枠を超え1200万円と跳ね上がった。

撮影は2012年の夏、京都市内でわずか10日という短期間で撮影された。この年は猛暑であったが京都の夏はとくに蒸し暑い。撮影が終わり、13年のゴールデンウィークから全国で順次公開された。坂口安吾の知名度をもってしても、客はなかなか劇場に足を運ばない。監督の井上は、「苦戦してますぅ」とこぼしたが、興行収支がどうであったか分からない。

観ていないので感想はない。小説はこういう書き出しで始まる。「野村は戦争中一人の女と住んでいた。夫婦と同じ関係にあったけれども女房ではない」。最後はこんな風に終わっている。「戦争は終わったのか、と、野村は女の肢体をむさぼり眺めながら、ますますつめたく冴えわたるように考えつづけた」。『続戦争と一人の女』の書き出しはこんな風に始まる。

「カマキリ親爺は私のことを奥さんと呼んだり姐さんと呼んだりした。デブ親爺は奥さんと呼んだ。だからデブが好きであった」。以下で終わる。「私達は早晩別れるであろう。私はそれを悲しいこととも思わなかった。私達が動くと、私達の影が動く。どうして、みんな陳腐なのだろう。この影のように!私はなぜだかひどく影が憎くなって、胸がはりさけるようだった」。

『戦争と一人の女』は作家としての安吾の主要作品で、敗戦後の1945年から翌1946年末までに書かれた作品の投票から傑作として選出された作品。当初はGHQの検閲により文章が大幅作削除された初出作品だが、1971年(昭和46年)以降復刊となる。「私達が動くと、私達の影が動く。どうして、みんな陳腐なのだろう。この影のように!」は名文の香りがする。

ウォルト・ディズニーの名作アニメ『ピーターパン』では、ピーターパン自身の影が自由勝手に動き回るので、ウェンディに頼んで靴に影を縫い付けてもらうという発想がユニークだった。ああいう発想はどこから湧いてくるのだろうか?童話や児童文学にも一般的な大人の感性では思いもつかない話しや仕掛けがでてくるが、すべては大人によって考えたものである。

安吾を読んでいると彼の独自の論法に驚かされることがある。何をも恐れぬ自由な発想であっても論理として整合性があるのだから、思考というのはとてつもなく洋々としたものだと気づかされる。しかし、「本当の倫理は健全なものではない」、「ただれた愛欲、無軌道な放埓のなかにやがて高い魂が宿るようになる」などの言葉に驚かぬものがいるだろうか?

「文化の進歩は、秩序より悪徳による」というような言葉を安吾以外に吐く者がいるだろうか?人間の動物性は社会秩序という網によってすくいあげることは不可能。どうしても網の目からこぼれてしまう。我々は秩序の網にすくいあげることのできない人間の動物性を悪徳というが、しかしながら、社会生活の幅といい文化というものが発展してきたものは秩序以上に悪徳であろう。

安吾の言葉はただの読み物ではなく、これでもか、これでどうだと人を納得させる。「不倫は文化」だとのたもうた芸能人が批判され番組を下ろされた。安吾がテレビに出たとするならすぐさま首を切られ、以後はどこからも声がかからないだろう。テレビに出ることがそんなにいいことか?テレビのない時代であれある時代であれ安吾は自らを変えないだろう。

(テレビに)出してもらえないではなく、出なきゃいいことだ。視聴率に反映されるメディアであれど、人間の心の豊かさは数式化できるものではないし、硬直化した社会秩序の網で捉えようとするところに問題がある。ジョブズが有名大学の卒業式に呼ばれ、スピーチの最後に「愚かであれ」といった。ジョブズを呼んだ学生の委員の一人が、「なんてことを」言ってくれた。

と悲観していていたという。ジョブズの言葉はスタンフォードを卒業する学生を揶揄したものでも批判したものでもなく、「学位などに頼るなかれ」といったつもりだった。学位や学歴に依存して箔をつける人間の実力はしれたもの。ジョブズの心にはそれがあった。「秩序って誰のためにあるんだ?」ジョブズの心底は、安吾とまったく同じものであったろう。

「生と死を論ずる宗教だの哲学などに正義も真理もない。」という安吾の過激発言は哲学者にも向けられる。「私は聖母の理想というものと自殺とは同じものの表裏と考える。そしてどちらも好きになれない」。キルケゴールは実存主義哲学の先駆者だが、彼は絶望を「死に至る病」とした。して万能の神に自己を預けることが治癒であり、救いであるとした。

「バカなことを言ってはいかん!」と安吾は言っている。ラッセルを始めとする大方の無神論者も同じ考えにある。「絶望が死に至る病」などと、いかにも神の救済という答えの用意された言葉である。「人生不可解」の遺書を残し、17歳で華厳の滝に飛び込んだ藤村操は、なぜ「不可解」という絶望を突破しようと思わなかったのか?答えは明白である。

彼には最初から「死」という答えがあったと見受ける。キルケゴールもそうであるが、「まず最初に結論ありき」で物事を考えるとこういうことになる。それからすれば、『創世記』の記述は結論ありきで書き留めたお伽噺である。全能の神は何でもできるのだという都合の良い免罪符が用意されている。マンガやSF映画がどんなことでも可能であるように…

「はじめに言葉があった」。この一言がいかにバカげているか。なぜなら、成人した人間が急に言葉が喋れるのか?言葉は生を受けて以降、幼児期に周囲の人たちの話し言葉を耳にし、学習しながら言葉と事物や実体とを照らし合わす。リンゴをリンゴと知るのは人がリンゴをリンゴと呼ぶからである。言葉は知識、語彙とは言葉に使われる単語の総体である。

いきなり成人男女が出現し、事物の知識も名称も瞬時獲得して会話をするなどあり得ない。犬・猿・雉と人間が共通語で会話をするようなものだ。「全能の神」と信者はいうが、魔法で人間を造り出すなどの非理性行為はお伽噺である。安吾の太宰への追悼文は『不良少年とキリスト』である。太宰は聖書やキリスト教の影響を受けているがキリスト教信者ではない。

キリスト教信者は、キリストによって罪が赦されたということを喜ぶ人の集まりである。聖書に影響されながらも自ら罪の生活に浸り続け、最後は罪と知りながら命を絶つ。これはキリスト教で言えば背信行為である。そんな太宰を安吾は不良少年と詰るついでに、芥川にも言及する。「まったく、笑わせる奴らだ。先輩と称し、羽織袴で、やってきやがる。

不良少年の仁義である。礼儀正しい。そして天皇の子どもみたいに、日本一、礼儀正しいツモリでいやがる。芥川は太宰よりも、もっと大人のような利口のような顔をして、そして、秀才でおとなしくてウブらしかったが、実際は同じ不良少年であった。(略)芥川も太宰も不良少年の自殺である。不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである」。

横やり主義

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 ・介護に横やりを入れてくる義妹にどう対処すべきか
 ・人が交渉中に横やりを入れるのは失礼ですよね?(メルカリ利用者)
 ・私の接客中に必ず横槍を入れる先輩。すごく悩んでいます。
 ・人の会話に割り込んでくる人の心理って?
 ・人の恋路に横やりを入れる者のイタさ
 ・「でも、だけど」と、横やりを入れる人の理由と対処法
 ・隣に座った見知らぬ人が、私たちの会話に横やりを入れてきた。

横やりとは横槍といい、戦場で戦う際に別の一隊がサイド (脇) から攻めてくることを意味した。そこから、談話や仕事に第三者が横から口を出して妨げることを、「横槍」、「横槍を入れる」などと使われるようになった。戦場における横槍 (サイド攻撃)は秀逸なる戦法で、これをやられると陣が乱れて兵は敗走することになる。関ケ原において小早川隊がこれをやった。

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サッカーのサイド攻撃は、引いた相手を崩す戦術で多用されるが、人間関係におけるサイド攻撃は迷惑でしかない。「横やりで救われた」というのは皆無とはいわない。普通に芸能人で、さして頭のよくないローラが、自身のInstagramで、「美しい沖縄の埋め立てをみんなの声が集まれば止めることができるかもしれないの」と発言するのは何ら悪いことではない。

社会問題に関心を持てば視野も広がるが、人の発言を恰好の餌と待ち構えるネットイナゴたちがこれを逃すはずがない。ローラしかり、剛力しかり、インスタをやるには周囲を気にしない究極自己中であるのがいい。ローラ発言は他愛ないものだが、それを他愛あるものにするのがネットイナゴの力量だから、それに負けぬこともインスタをやるものの力量である。

批判の多くは、ローラの知識の浅さ・薄さだといい、彼女のインスタにはそれが満載という。例えば、「プラスチック製のストロー使用反対」と訴えながらも、その後堂々とプラスチック容器に入ったサラダや飲み物をインスタで紹介していたこともあったりで、「ローラは矛盾している」などといわれるが、逮捕されるわけでもない。世間は人に厳しく自分に甘く、寛容さはないのでほっとくのがいい。

人が口を開けば矛盾が発生すると思う自分に、他人の矛盾の指摘は無用である。若いころは他人の発言を「矛盾だ」の、「言行不一致だ」のと責めたりもしたが、若さはバカさと今は懐かしい。だからか、目くじらを立てる若者の理解はする。人の意見に横やり入れるを、「チャチャを入れる」というが、「チャチャ」とは、「茶々」と書く。ついでに語源を調べてみた。

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有力な由来と思われる二つ説があった。一つ目は人名からである。その人の名前こそが秀吉の側室であった、「茶々」である。茶々は、近江国大名浅井長政の娘で、母は信長の妹「お市」。秀吉が市に片恋慕していたのは周知の事実であるが、市は猿を嫌って美男の長政に嫁ぐ。夫婦の三人の娘の中で、もっとも母の面影を一番よく受け継いでいたのが、「茶々」であった。

秀吉は後年茶々を側室に迎えた。それが淀君である。惚れた弱みかブサ面男の性か、秀吉を尻に敷きまくった淀君があれこれ指図をし、横やりを入れたりのを、「茶々を入れる」とした。嘘でもよくできた逸話である。もう一つの説は、邪魔をするの「邪」の、「邪邪」が、「茶茶」に変わり、転じて、「茶々を入れる」になったというが、こちらは信憑性が薄い。

「茶々が茶々を入れる」言い方がユニーク。とはいえ、淀殿存命中に、「茶々を入れる」という言葉はなかったろう。もしも秀吉が側近用の隠語として、「淀が茶々を入れる。うるそ~てカナワンわ」などが淀の耳に入らば、「何いうてまんの?秀ちゃんあんたアホちゃう?」と茶々をいれたろう。「惚れた者の弱み」というが、女房に甘い男は茶々入れられまくりだ。

さて、ローラのフランキー発言だが、噛みつく者の度量を責めても埒はあかない。ネットイナゴはみな頭から袋をかぶっている。そこに同類の言いたがり屋タレントが横やり参戦するのがみっともない。テリー伊藤や西川史子ら番組レギュラー陣を先頭に、高須院長の、「僕なら(CM)降ろします」発言に噛みついたのが、「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔。

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村本はローラ擁護発言として、高須院長を批判する。そこに待ってましたとばかり、「横やりレギュラー陣」の小林よしのりとフィフィが参戦。横やりとは賛同・批判もどちらも含む。横やり主義者には、「なぜ自身の辺野古移設工事についての所感を述べないのか?」というのは愚問である。彼らは人の意見にあれこれ横やりを入れる専門家であるからだ。

その心底を分析すれば、他人の尻馬に乗るのがとりあえず無難という姑息さであろう。卑怯とまではいわぬが、言い出しっぺで叩かれた過去の経験則が、横やり主義に行きついたとみる。小林もフィフィも過去にこっぴどく叩かれたようだ。それでも口から生まれてきた類の人間は、何かを言わずにはいられない。ならばと、人の発言に参戦するのだと自身を充足させている。

「やれやれ、もっとやれ、もっと出てこい」と横やりを面白がる者もいるのだろうが、これほど煩わしいものはないと自分は感じている。雨後の筍のように、どんどん現れ、それらがSNSのトップ見出しに名を連ねるからである。いちいち取り上げることもないと思うが、ネットのトップ見出しも週刊誌の吊広告と同じもので、万人受けを狙っているのは歴然である。

高須院長が村本発言に対処する前に、出しゃばり百田がフライング参戦する。百田の意見など求めていないのに、高須院長も迷惑千万。「俺が答えるまで黙っとらんか、この〇ゲ!」と口には出さぬが自分ならそうだ。そうは言わず、院長もコメントを出す。つまらん横やり合戦の様相だ。ローラ発言はローラの問題、ローラが対処すべき。「横やり合戦、来年も続きそう!」。

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などと、これも横やりか?横やり入れるものに、「横やり止めろ!」という横やりも横やりだろう。喧嘩で遣り合う者に、「喧嘩を止めろ」というのが横やりなら、傍観が正解なのか?喧嘩の理由も当事者同士の問題なら、周囲が止めろというのは「喧嘩がよくない」という単純な理由で、戦争はよくないと同じ事だが、どちらかに加担したり非難したりではない。

そうした揉め事に対する「仲裁」は、「お前らバカか!」という横やり叩きとして意味はあろうが、正しいとは思わない。好きにやらせておく、止めに入るも性格の問題だから自分は後者かと。他人の紛争を前で道徳家になるのを安吾は戒めるが、それも彼の性格であって、性格まで真似ることもなかろう。一年というのはなんと早いものか。 これにて本年はオシマイ。

異論!反論!OBJECTION

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「一年の計は元旦にあり」という。我々が小・中学時代には、「これでもか!」というくらいにいわれた慣用句であるが、昨今もそうなのか?いうまでもない言葉の意味は、「一年の計画は元旦に立てるべきである」ということ。律儀にそれを実行した人はいるかも知れない。あくまで想像だが…。自分はやったことがないし、そもそも一年の計画ってどんなことを?

立てる自信もない。受験生とか記録更新を目論むアスリートとかなら分からなくもないし、会社経営する社長さんが、短期・長期にわたる経営計画目標を立てるのは、ダラダラやるよりは良いだろう。こうした何がしかの目標を軸にやっていこうという人はともかく、小中学生にむけて「元旦に一年の計画を立てなさい」といったところで、そんなのあり得ん。

仮に立てても三日で終わるだろう。と、自分を中心に言ってはみるが、多くの子どもたちにとってそういうものではないのか?どんな計画を立て、実行したものがいるというなら、その話だけでも聞いてみたい。言葉はあるにはあるが、絵に描いた餅がごとく、クソ真面目に実行するものではないと子ども心に踏んでいた。「一日一善」と同じようなものだ。

誰がいつ頃いいだしたのかを調べたら、中国・明代の憑慶京という学者によって著された書物『月令広義』からの出典であるらしい。『月令広義』は中国の伝統的な年中行事やしきたりが解説されているもので、そのなかに、「一日の計は晨にあり、一年の計は春にあり」という一文がある。晨は、「あした」と読み、朝のことを指すものが、朝と表記することもある。

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春は正月を意味し、したがって言葉全体の意味は、「1日の初めである朝や、一年の初めである正月にこそ計画を立てるべきである」という戒めのようだが、実はその後に、「一生の計は勤にあり、一家の計は身にあり」という言葉が続く。これら、「一日の計」、「一年の計」、「一生の計」、「一家の計」を、「四計」といい、よき人生設計に大切とされている。

即ち、ダラダラ生きとってはいかんということだが、こんなことを毎日考えていたら肩が凝ろう。ま、世の中には中国渡来や西洋から届いた格言や諺や慣用句の類は腐るほどあるが、そんなもんいかほど実行できようぞ。子どものころから好きだった、「塵も積もれば山となる」、「今日の仕事を明日に延ばすな」というのが好きだったが、誰でも心に残る諺はあろう。

「明日、明日と言いながら、今日という『一日』をむだにすごしたら、その人は、「明日」もまた空しく過ごすであろう」。グサリとくる言葉の主は亀井勝一郎である。さらに亀井は、「明日とは、実は今日という一日の中にある」というが、この辺りは座右の銘としたこともあって、ワリと卒なくやってきたのだが、自分がそうであると他人にも要求するようになる。

確かにスピーディーに物事をやるのはすべての面で良きことだし、管理職として部下に実行させられるなら能率もあがるだろう。サービス業なら顧客にこの上なく喜ばれる。「頼んでずいぶん経つのにまだできてない?」などはクレームの上位を占める。人によっては、「もういい!お前のところでは頼まない」と憤慨させたりする。レストランでお冷を頼むが忘れるウェイトレスもいる。

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「二度もいわせるなよな」という客を見かけるが、お冷程度とはいえ、立腹する客もいる。自分は頼んで持ってくるのが相当に遅い場合、「三日前に頼んだのに、やっと水がきた」などのジョークで周囲を笑わせる。本人は笑えないかもしれんが、ガミガミいうよりは和やか気分だろう。仕事の遅い人間の特徴を一言でいうと、緊張感に欠けるので動作や心の手際が悪い。これは性格だろう。

ここにも幾度か書いたが、「忙しい」、「疲れた」、「めんどう」を禁句にしている自分だが、その理由は人間がこういう言い訳になだれ込むことを知っているからだ。ようするに、「忙しくなくても忙しい」、「さして疲れてないのに疲れた」、あげく、横着者の常套句が、「めんどうくさい」である。言葉の中に逃げ込み、自己を正当化する人間の弱さ、ズルさを戒めるために…

「忙しい」が口癖の人間に仕事ができる者はいない。「多忙であることによって、自分は何か仕事をしたという錯覚を抱くことが出来る」。これも亀井勝一郎の言葉。たしか20歳くらいのときだったか、少し飽きてきた女がいた。その彼女からもらった手紙の中に、「愛の敵って慣れかも…」と書かれているのに驚いたことがあった。これが亀井の言葉だったと数十年後に知った。

『ニ十歳の原点』の高野悦子の日記にも亀井がでてくる。「亀井勝一郎の『愛の無常について』をぺラッとめくって読んでみたら、『人間とは何であるか』とか、『いかなる政治的党派、思想的立場をとろうと各人の自由であります。…しかし自由の最大の敵は自分自身であることに気づく人は少ない』なんて書いてあったので」。日付は1967年 7月15日だから彼女が18歳のとき。

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「自由の最大の敵は自分にある」。この言葉だけをとっても、亀井を賢人に据える理由があろう。とかくこの世は、自分で自分を何とかしなければならぬ事ばかり…。親の支配にも、金を貸して返さぬ友人にも、小言をいいまくる彼女に対しても、腹を立てたり不満をこぼすだけではな~んの解決にならない。「すべては自分が動くしかない!」を教えてくれている。

というところで表題の意図についての真意とは、これまで表立った反論をせず、人の数だけ考えがあるとの見解に終始したが、昨年度FA制度で巨人軍に移籍した丸佳宏についても様々な意見をYouTubeで知って驚く。発言の主は元雑誌編集長の花田紀凱、スポーツ雑誌主筆の玉木正之、さらには、「ニュースステーション」の元キャスター久米宏らである。

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なぜ彼らはこれほどまでに丸の巨人移籍に言及するのかという素朴な疑問で、カープファンである久米はこのように発言している。「読売ジャイアンツという球団はお金はあるらしいんですけど、とにかく人のものを欲しがるんですよ。中日でホームラン王取った外人をすぐに取ったり、いくらでも出すからととにかく人のものを欲しがってしょうがないんです。

読売ジャイアンツというのは、金はあるらしいんですが、本当はとても心根が貧しい球団なんです」。お金の有る無しは企業自体の問題だから、読売やトヨタが批判されるいわれはない。久米の論理からすると、お金持ちが人のものを欲しがるのは心根が貧しいというが、お金持ちでなくとも人のものは欲しかろうし、それが実現できるか否かの問題では?


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