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オウムの麻原ら7名に死刑執行  ― 終 ―

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「多くの高学歴信者たちが英雄として待ちわびたのが麻原彰晃だった」。誰の発言か、この「英雄待望論」分析には納得した。また、早大理学部教授の大槻義彦は、偏差値至上主義によるマークシート方式を以下のように批判した。「とにかく手っ取り早く解答を出してしまう。自分で考えない、批判的に物を見ないという態度からは、真の学問は一切生まれてこない」。

共通テスト構想は、1960年代以降文部省やその周辺から発案されていたが、70年代に入り政府及び与党の推進により実現する運びとなる。奇問・難問・珍問の入試問題をなくし、「入試地獄」を緩和するという目的で導入が決定された。ところが学生の大学二次試験選択の必要性から、受験産業による各大学の情報収集及び、情報分析が受験生にとって重宝されるようになった。


その結果、大学・学部・学科の序列化・固定化が進むこととなった。見切り発車的な要素もあった共通一次試験は、実施前から小室直樹らには失敗を予想されていたが、詰め込み教育とされた知識量偏重型教育の弊害を是正するためには行うしかなかった。受験産業は数兆円産業にまで成長し、生徒の塾通いは当たり前の様相を呈し、受験戦争は益々過熱していくこととなる。

当時の学校教育の状況は次のように総括されている。①知識の詰め込み教育、②加熱する受験競争、③学校への疎外感・校内暴力、④いそがしすぎる子どもたち。こうした包括的な問題を解決するために提起されたのが、「ゆとり教育」。まずは手始めとして業者テストの廃止で、これは業者テストの偏差値で進路を輪切りにする高校入試のあり方を改めようとの趣旨だった。

偏差値という数値は具体的で、これに抗うことはできず、高校の序列化は益々進むばかり。学校は学校で、「中学浪人」を出さないことに躍起になり、偏差値に頼らざるを得ない現実に、教師も親も押し流されてしまっていた。「子どもにもっとゆとりを」というのは、論理としては正しくとも、世の中の要望から乖離した考えであったのは、学歴社会信仰の根深さである。

中学校から業者テストを追放し、学校でゆとり教育を実践しても、塾や予備校が学校に代わってテストを行い、偏差値を算出しなければ客観的な学力評価は得られない。結局教師は進路指導に困り、親の不安は増大する。「業者テスト排除、脱偏差値」を迫る以上、これらの課題も克服していかねばならなかったが、現実軽視・理念先行の、「ゆとり教育」となってしまった。

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「受験競争」と、「塾通い」を追放し、「新しい学力観」のもとで実施された、「ゆとり教育」は、結果的に学力低下や学習意欲減退をまねいて塾通いをいっそう過熱させ、私学志向に拍車をかける結果となる。高学歴エリートの巣窟、駆け込み寺的要素のオウム真理教と受験戦争の因果関係が皆無と言えないのは、彼ら信徒たちのあまりの社会性欠如という問題もある。

受験エリートといえど社会に出れば右も左も分からぬ新一年生、好待遇もなければ彼らの自尊心を満たすものなどなにもない。「賢いね」、「頭いいね」と周囲からチヤホヤと持ち上げられた優等生たちが、プライドを堅持したまま社会に足を踏み入れ、「ここには自分たちの居場所はない」と嘆くこと自体あさましい。いかなる秀才とて社会に生活の場を求めるという現実。

であるなら、社会の厳しさへの耐性を身に着けることが大事である。「学力の評価は単なる知識の量の多少ではなく、"生きる力″を身につけているかどうかによっても捉えるべき」という考えがおなざりにされた。他人との学力差異化に力点をおく保護者の要望、これに受験産業は答えることで潤っていく。確かに、「生きる力」的議論は美しいが、抽象的すぎて実感に乏しい。

具体的な教育方法の困難さも相俟って、知育偏重教育に徳育教育は追いやられた。持論をいうなら、我が子がどんな人間になって欲しいと願う心の教育は、親が受け持つべきである。学級崩壊・いじめ・校内暴力・学習意欲の減衰・授業ボイコット・子どもの自殺や殺人。これらすべては親の子どもへの手抜きと個人的には考えている。教師1人にに30人は大変であろう。

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1人の子に1人の親で不足はなかろう。これが当たり前の思考なら、子どもの人格に合わせた徳育教育は家庭が担うべき。利発な少年だった中川智正の母はオウムについて、「あれだけ止めてもどうにもならなかったことが、慰めになっているのか…」と述べている。これは、「矢尽き、刀折れ」の心境であろう。「(麻原の)教えを信じたままで死んでいくのなら(私自身)辛かった。

でも昔に戻ってくれました」と、母は安堵していた。「息子を悪魔に盗られたままではあまりに情けない」という親の情である。親から遠く離れたところに行った子であれ、生の終焉においてはせめて無垢であるを望む。「昔に戻ってくれた」と安心していた母だったが、昨日、信者の遺体の引き取り先を、オウムの後継教団アレフとする遺言状があるとの報道があった。

報道は本当なのか?遺言状には、「わたしの遺体はアレフが引き取り、それ以外の引き取りは親族を含めて一切拒否します」との文言が書かれているという。本人の自筆か?それとも代筆か?いつ頃のものか?詳細は明らかにされていないが、FNNが、アレフに関連する裁判の記録から確認したものとして報道した。遺体のほとんどという表現で、全員とはいってないが…

「オウム真理教」の問題はいろいろ捉えどころがあろうが、最後に、「親と子」の問題として考える。どんな子どもにも親がいる。子を持たぬ夫婦もあるが、子を持てば親である。オウムは宗教が親子の絆を引き裂き、犯罪集団として信者を利用した。犯罪規模は甚大で、テクノロジーと軍事力を駆使し、「国家内国家」を企て、麻原を独裁者とする、「国民国家」を目指していた。

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このような未曽有の犯罪に加担した息子を持つ親は、世間に顔向けできないどころではない。事実、中川智正の母のように、息子の死を償いと考える親もいる。「死んで詫びる」という日本人的謝罪精神は、日本人なら理解できよう。「まだ牢獄で生きてるのか?」というのが世間の視線である。ならば、世間に命を差し出し、世間に謝罪する心情を自分は間違い思わない。

「(息子は)死んでも償えぬ」という言葉は自分と共通する。死んでも償えぬが、それでも死ぬべきである。智正の母は嘘・偽りなく息子の死を望む。自分はそう思いたい。自分がもし同じ境遇なら息子に死んで償わせたい。親が子どもに言い聞かせられる正しい物の見方である。「お前は死んで世間さまにお詫びをするべきです」。という母の手紙を見たことがある。

何の事件であったか忘れてしまったが、息子に死を命じる母の気丈な思いがにいたく感動した。「自分も大切なものを失う。お前も大切なものを差し出しなさい」ということだろう。情を排し、理に殉じた思考は時に残酷である。が、子どもを愛するがゆえに正しい行いという道理を我が子に切り開き、残してやりたい親の心情とは、死んで欲しくないゆえに死を望む。

死刑廃止の潮流は自死を認めないヨーロッパ的・宗教的思想である。刑死であれ、自決であれ、世間に泥を塗った者の選択を否定はしない。「死ぬことで何も生まない」というが、「死ぬことで変わるものはある」。「お前は死んで世間に詫びろ」と言える親で自分はありたい。それほどに親は子どもに対し、強くあるべきである。今生の至言を子どもに伝える責任が親にある。

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人はなぜ悩むのか? ①

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唐突な表題のようだが、簡単なようですぐに答えられないなら考えてみようと…。むか~し彼女から同じ質問を受けたことがあって、自分はこういう感じに話す。「人はなんで悩むと思う?」、「そりゃ悩みがあるからだよ」、「マジメに聞いてよ」、「マジメに聞いてるよ」、「だったらマジメに答えて!」、「マジメに答えてるよ」、「答えになってな~い」、「正しい答えだよ」、「……」。

「どういう悩みがあるんだ?言ってみろよ」、「イッパイあるけど、可愛くなりたい」、「はぁ?それが悩みか?」、「女の子だもん」、「それって欲だろ?」、「ちが~う!悩みです」。と、こんなくだらん会話、今ならできない。若さってのは、若くていいよ。「なぜ悩むのか?」について即答できかねるといったが、同名の本があるのを知っている。読んではないが。

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気にはなったが買わなかった。改めて調べると1983年刊行で、著者は精神科医で医学博士の岩井寛氏とある。岩井氏は、1986年にガンで逝去されている。「なぜ悩むのか?」、考えれば分かりそうだし、誰でも悩みはあろうから自身が考えられること。が、「なぜ悩むのか?」と、そんなことを考えるメリットは何であるか?一般的に人は悩みの対処法を考えるだろう。

『若きウェルテルの悩み』という有名な本がある。初めて読んだのが高校時で、以後二度と読むことはなかった。表題に、「悩み」の文字がなくとも苦悩を描いた小説や文学作品は少なくない。『ウェルテル』はゲーテ不朽の名作だが、学生の本離れの昨今も、読まれているのか?武者小路の『友情』、漱石の『こころ』、そして『ウェルテル』…、いずれも恋の悩みである。

若いといえばあまりにいじましく、うじうじ感漂うこの手のストーリーを、30歳のおっさんになって読めるものではない。恋愛を擬人化すれば、まるで不思議な生き物のようである。人はどうして好きな人の前で押し黙るのか?なんでもない人なら、なんでもないように気軽に話せる。さして好きでもない相手から愛の告白を聞いても、動揺もなければ嬉しくもない。

なのに、好きな相手のなにげない一言に動揺する。確か、中3だったと記憶する。好きな女性から年賀状をもらい、「初春のお慶びを申し上げます」という言葉の意味を考えたのを忘れない。「明けましておめでとう」が定番の中学生にしては仰々しい言葉だったこともあって、何か特別の意味があるのだろうと、筆跡を何十回眺めたことか。当たり前だが、文字から何も掴めなかった。

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今となっては若さというのもいたましい。何でもないもののなかから必死で意味を探ろうとする無知がいたましく懐かしい。それとて悩みであったかもしれない。「初春のお慶びを申し上げます」という語句に、何の隠された特別な意味があろう。男同士のガサツな賀状の文言からすれば、それはそれは清楚な言葉であったと、当時の印象だけは今も忘れていない。

他人との関係の中で初めて自己を認識させられる恋愛の魔力である。友達関係ではそれほどの切なさを感じる心情はない。自己の存在感や存在証明、あるいは自己探求などから、自己を追い求めたあげく自殺した人たちの日記をみると、病的なまでに感傷的である。高野悦子の日記も、自分は他人のために何ができるのか、という視点はまったくといっていいほどない。

どこまでいっても自分は…、自分が…、という自分の世界である。世界に向かって自分を開けば、そこに自己を発見できるようものだが、世界に背を向け自己に埋没する。こういう形で自分を突き詰めて深刻に考え込んだなら、自殺する以外に手はなさそうである。それほどに人間は罪深く、意地汚らしい存在であるがゆえに、自己から他人の世界に飛び込む必要がある。

「最高の自由は、最高の共同である」とヘーゲルは言う。自由というのは決して他人との関係をなくすことではなく、他人と関係することである。他人との関係の中で、外に心を開こうとしない自己防衛的な姿勢こそが不自由であって、自由とは他人と心を開き合い触れ合うことである。自由と孤立をはき違えないこと。自分は憶することなく他人の中に入っていこうとした。

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受け身の人は共同世界に向かって自分の心を閉ざすばかりか、「自分は心を閉ざしている」ということを他人に知らせようとする。なぜだかわからないが、そういうタイプから、「他人の世界に入ると自己をなくすようで怖い」という女がいた。性格もいろいろだから、用心深さも、自閉的性格も個々の性質である。が、他人と一緒にワイワイしたから自己がなくなるものでもない。

ようするに臆病なのだろう。それプラス劣等感も起因する。臆病さは、用心が好奇心を上回る。劣等感は、相手にバカにされたくない、相手に自分の欠点を悟られたくないと、そんな自己防衛にエネルギーを消費する。怖れる気持ちに嘘はないだろうが、怖れる必要のない人を怖れるという場合は結構ある。オオカミのような男はいるにはいるが、男がみんなオオカミではない。

小学生のころに、叔父に性の手籠めにされた女性がいた。おとなしい性格が災いしてか、記憶から消し去りたいままに大人になった女性。他人に知られたくない自身の過去であれ、躊躇いや歪な思い出は隠せない。いつまでも自身に苦悩し、無理をするより、心を開いて告白できる相手に巡り合うことが何よりである。告白は相手からいたわりや思いやりに繋がっていく。

愛されたいからと男に貢ぐ女性がいる。相手の愛を求めての行為であるのに、男にとってはただの金づると利用されているのが明白。「それでもいい。尽くせるのなら…」という頑強な女性であった。「着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます」という歌詞は、女心の未練であるという。愛されていない、愛を手にすることなど毛頭ない、それでも尽くしたい?

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得れなくともいい、失うことの怖さであろう。もちろん、一抹の希望は捨てていない。「他人にすがってはダメだよ」という言葉は、すがりたいものには伝わらない。母親が乳児の世話ができるのも、半分はしてあげる喜び、もう半分は実はすがっているのである。男に尽くす喜びは、男からすがられる(必要とされる)喜びでありながら、実は無意識に自身もすがっている。

そういう状況を、「善し」とする人間には、新しい世界へ自分を投げ出す決断など一文字もない。彼がわたしから離れていったら、もう誰とも巡り合うことはないという不安と自信のなさ、足して劣等感という。女は不思議なことを言う。「自信がないんです」というのを言い訳にできる生き物である。男にいないわけではないが、そういう男の言い訳を社会は認めない。

「何で〇〇社から契約をとってこない!お前の担当だろ?」、「いえ、新しく赴任した部長は遣りてで手ごわくて、自信をなくしそうで…」、「何を甘ったれたこと言ってんだ。今スグ行って取ってこい!」。行為が重視されるのが男社会であり、言い訳だけは容赦ない。上司にハッパをかけられた彼は、しょんぼりと同僚に苦悩を明かそうと、悩みは誰もとれるものではない。

人はなぜ悩むのか? ②

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悩みとは、不安であり、怖れでもある。どれほどの悩みの種があるのか、考えたこともないが、身体的な悩み、親・兄弟・親族など身内の悩み、異性や恋愛についての悩み、自分の存在と価値観についての悩み、死への不安という悩み、失われたものへの悩み、やってくるであろう未来への悩み、そういった自分を取り巻くあらゆるものに対し、悩みはついてくる。

取り払える悩みもあれば、取り除けない悩みもある。悩みや苦悩を描いた小説は多く、歌の内意に多く綴られている。都はるみの『北の宿から』を初めて耳にしたとき、メロディーよりも歌詞に引き込まれた。着てはもらえぬセーターを編むのは女の情念、女心の未練というが、着てくれるであろうセーターを編むのは心に張りがもたらされ、充実した時間となるだろうが…

愛されないと分かっていながら貢ぐ心情と同じものか?何の期待は得れなくとも、与える喜びなのか?こうした独善行為というのは、いかにあがこうと虚脱感から免れることはなかろう。自己とは、他人の関係とのなかに存在する。孤独を好む人間は決して自己を喪失してはいない。自己喪失状態というのは、自己を頑なに閉ざした状況であって、孤独とはちがっている。

フランス在住のある日本人経営者がこんなことをいう。ジョギングでパリ郊外の公園を走っていた。毎日、同じベンチに座る寂しげな老人と顔見知りになり挨拶を交わすようになった。ある日、彼は何気に老人に尋ねる。「毎日、ここで何をされているんです?」、「亡くなった妻の思い出に浸っているんです」、「そうですか。それはお寂しいですね」と同情の言葉を述べた。

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すると老人は笑顔になってこういった。「違います。私は妻との楽しい日々を思い出しているんです。だから、ここにこうしているときが、いちばん幸せなんですよ」。寂しそうにベンチに腰掛ける老人が、もっとも至福の時間を過ごしているなど想像もできない。「人はみかけに…」などというが、人は人を勝手に想像し、勝手に判断するものという事例である。

「着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます」と、言ったわけではなかろうが、こうしたシチュエーションを想起し、日本人的感性世界に演歌の真髄を見出すのも才能である。愛されてもいない男に貢ぐ至福感を、何とバカな女であるかと言ってみても、人は人の深層には至れない。「事上磨錬」という四字熟語は、「人は須らく事上にありて磨すべし」の意。

「我々は自分の生活のなかに起こる避けられない行いのなかで、自分という人間を鍛え上げなければならない」ということを言っている。他人に情を寄せながらも、人は無意識に人との差異化で自己を満たす。公園の老人しかり、貢ぐ女しかり、セーターを編む女しかり…。人に情を寄せるときにはどこか思い上がった自己がいる。同情を求めぬ強い心は、むやみな同情を排す心にもなる。

人との交流は、精神的交流とて交流である。ときに生きる意欲を湧かせるもの。ひとり恋愛は片想いともいい、それすら生きる意欲を湧かせる。『悲しき片想い』という歌は、60年代に弘田三枝子や伊東ゆかりが歌っていた。原曲はヘレン・シャピロの『You Don't Know』で、邦題にはどこか違和感がある。片想いを心に前向きに生きていこうという少女を歌っている。


  Although I love you so
  Oh you don’t know you don’t know
  Just how I feel
  For my love I daren’t reveal
  I am so I’m so afraid
  You might not care
  Every-time you pass me by
  Oh you don’t know you don’t know
  What I go through
  Seeing someone else with you
  Oh I wish the one with you were me
  But you don’t know

  あなたを愛しているのに
  ああ、あなたは知らない、あなたは知らないのね
  わたしは感じているの
  愛を告白できないのは
  とってもとっても恐いから
  あなたは気にしてないのかも
  何時だって通り過ぎるもの
  ああ、あなたは知らないの、あなたは知らないの
  耐えているのよ
  あなたと一緒の誰かを見ながら
  ああ、あなたといるのが私だったらなあ
  でも、あなたは知らないの
  あなたに話したいわ、もしも
  いつか気付いてくれると信じられたら
  でも、そのときまでは
  こんなの決して教えないわ
  そうよ秘密にしておかなくちゃ
  あなたは知らないの、あなたは知らないの
  この片想いを明かすことがどんなに難しいのか
  それが恋に落ちた心を壊してしまうからと

なんという精神的な大人の少女であろう。日本人が勝手に『悲しき片想い』と題したのは、日本人向けの情緒性に向けたもので、原題の中身はむしろ「楽しき片想い」である。片想いのひと時、恋に恋するを楽しむ少女の心情が現れている。最後の一節、For it breaks my heart to be in love, には少女らしさを垣間見るが、全体的には片想いを楽しんでいるようだ。

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片想いは切なく苦しいものというのが相場である。それでも生きる情熱になる。何とかしようと試みるが、勇気のいることだ。フラれたときのショックを考えると、このままでいいというのも分かる。とくに初恋なら、なおさらであろう。洋楽すきの自分ゆえ脱線するが、ヘレン・シャピロの魅力的な歌声は無神論者の自分でさえ、神からの贈り物という以外にあり得ない。

『悲しき片想い』発表時は14歳であったが、ハイスクール時代のニック・ネームは「Foghorn:霧笛」といわれていた。早熟でありすぎたのか、1961年の大ブレーク以降、レコード・セールスは伸び悩むも、彼女のハスキーボイスは一時代を築いた。それにしても、「霧笛」とはすごい表現で、日本では絶対に言わない。霧やモヤで視界がなくとも響き渡るとの意味だろうか。

「過去に激しい苦悩も味わわず、自我の大きな劣敗を経験しなかった、打ち砕かれたことのない人間は何の役にも立たない」と、ヒルティは書いている。では苦悩は人間は何の役に立つのか?文字や言葉にせずとも自身の糧になっている。食べ物が体の滋養になっていても分からないものであるように…。人間は自身に気づかぬことがたくさんあるが、何かを通して気づくことがある。

「苦は楽の種。楽は苦の種」というのを将棋から学ぶ。苦しい情勢でも、腐らずじっと我慢をし、耐えていれば光が見えることもある。投げやりになってはダメだと言い聞かす。反対に、情勢があまりにも良すぎるとき、心が緩んで油断をする。気づいたときは遅かれし、状況は一変している。上の慣用句はまさにこのことを知らしめてくれるが、人間はままならない。

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たくさんの悩みを人から聞いた。容姿や体の悩み、親の悩み、子を持つ親の悩み、進路や仕事の悩み、人間関係の悩み…。この中で、身体・容姿の悩みについて自分は、「気にするな」を禁句にしている。一見、勇気を与える良い言葉に思われがちだが、これは有効でないばかりか気休めにもならない。これらは大抵の場合、本人が気にすまいと努力してきたからである。

気にすまいと思いつめた人間に、「気にするな」といってみてもはじまらない。だから、彼氏ができないことに繋がるが、こういう場合には相手の彼氏の好きなタイプや要望とか、そういうことばかりに会話の時間を割くようにする。こういうのをポジティブ思考と捉えている。彼氏ができるとか、できないとかの話は一切しないのは、どんな女性であれ彼氏はできると自分は思っている。

忠告などではない。「自分は不細工」というのは意志の力ではどうすることもできない、変えることもできないのだし、人間の意志とは、意志の在り方というのは、感情に対してでなく行動に対して働かせるべきである。自分の容姿が気になるにも関わらず、男の人の前で恥ずかしいにも関わらず、彼氏なんか絶対に無理にも関わらず、大事なのは態度・意志である。

多くのことは、「…にも関わらず」という態度こそが、その人の様々な、精神的な病(悩み)を解決することになる。自分の中の何かを隠すことは、自分らしい振る舞いができなくなってしまう。自分らしく振る舞う人の多くは活力に満ちている。自らの肉体と、自らの精神を活力的に、有効に使えるように人は人に接していくべきである。不毛なアドバイスなんかより…

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開いた口が塞がらない母・息子 ①

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「開いた口が塞がらない」というのは、相手の行動や態度やあまりの出来事に呆れかえって物が言えないことをいう。人はあまりに呆れると、ぽかんと口を開いたまま思考停止状態になるというが、そこまでの経験はない。ぽか~んと口が開いたまま…というまではいかないにしろ、「呆れて発する言葉がない」状態に近いのが、妻を殺して実家の庭に埋めたという事件。

柏市南柏中央の銀行員、弥谷鷹仁容疑者(36)と、鷹仁母親で茨城県取手市に住む弥谷惠美容疑者(63)が、鷹仁容疑者の妻麻衣子(30)を実家の庭に埋めたと供述し、千葉県警が弥谷恵美容疑者の自宅の庭を掘り起こしたところ、供述通り土中から年齢、性別不明の遺体が見つかった。司法解剖の結果、見つかった遺体は弥谷容疑者の妻の麻衣子さんであることが判明した。

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県警は弥谷容疑者が麻衣子さんの死亡に関与した可能性もあるとみて捜査を進めている。事件の経緯は3月6日、鷹仁容疑者が千葉県警柏署に、「4日に妻と車内で口論になり、妻が我孫子市内で車を降りて戻って来ない」と行方不明届けを出したことに始まる。県警が周辺の防犯カメラなどを調べたが、鷹仁容疑者の車は写っていたが、妻が車を降りる様子などが確認できない。

他にも不審な点があったため、鷹仁容疑者から任意の事情聴取を続けていたところ、今月17日になって鷹仁容疑者が、「妻の遺体を埋めた」などと話したことから、取手市内にある鷹仁容疑者の実家の敷地内を捜索。18日午前4時半ごろ、供述どおり土中から年齢、性別不明の遺体が見つかったことで逮捕となる。その後遺体は司法解剖されて麻衣子さんと判明した。

「開いた口が塞がらない母・息子」の表題が示す理由はいくつかある。鷹仁容疑者は、「妻の性格などが我慢できず、他に道がないと思い首を絞めて殺した」と供述している。ならばとりあえずこの妻を、口うるさく陰険で小ばかにした物言いをし、家事もせず、嘘つきでわがままで、性根が悪く愚痴も多く、悪口大好き女だったとしても…、「殺す以外に道はない」は短絡的。

こんなことをいう夫の方が常人とはいえない。もうひとつ、開いた口が塞がらない理由として、殺した嫁を土中に埋めたのが母子なら、埋めた場所が住居の庭であるという異常性。毎日歩いたり眺めたりの自宅の庭に、人を埋める神経には開いた口が塞がらない。言葉は比喩としても、この子に在りてこの母在り。この母に在りてこの子在り。どちらであろうとイカレタ母子である。

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鷹仁容疑者はSNS上で、麻衣子さんへの目撃情報を呼び掛ける画像を公開していた。文言は、「探しています!」、「千葉県我孫子市内で別れて以来、行方が分からなくなっています」、「似た人を見かけたり、思い当たることがあれば」、「ご連絡お願いいたします」。【千葉県柏市で暮らしていた夫婦】。ということだから、さぞや麻衣子さんの両親も心配だったろう。

ところがどっこい、娘が嫁ぎ先の庭の土中に埋まっていたと知った親の心中こそ、「開いた口が塞がらない」であろう。なんでこんなことに?麻衣子さんの父親は、「悔しい気持ちでいっぱいです」と語っているが、怒りを抑え、絞り出したコメントであろう。人間いろいろ、人の人生もいろいろ、夫婦もいろいろとはいうから、これもいろいろの中の一つであろうか…

娘が行方不明になった折に両親としてみれば、「どうして?」の思いもあったろうし、それも4か月も前のことだ。夫は、SNSで懸命に探していることですら、申し訳ない思いもあったろう。それが一転、実家の庭に埋まっていたとは、晴天の霹靂である。人間がどんなものかは分かっているつもりだが、こんな事件に触れる度に、猛獣よりも恐ろしや人間である。

クルマの中での他愛ない夫婦喧嘩から、飛び出したまま行方不明になった妻を、画像を公開して探す憐れな夫を4か月も演じたことになるが、事件性のない夫婦や家庭内の問題における一般的家出人捜査は、警察に届けたところでやってはくれない。警察官も社会の一員である以上、困っている市民の力になりたいのはやまやまだが、個々の家庭の問題に税金を投じた捜査はできない。

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警察のもとへは日々多くの捜索願が届け出されているが、これらの捜索願を受理後、全ての行方不明者の捜索にあたっていては、時間的猶予のない解決すべき難事件の捜査の妨げになる。警察当局の取捨選択として当然である。夫婦がクルマで痴話喧嘩をし、クルマを飛び出して行方不明になる?動機は薄いが個々の家庭には嫁姑問題など根深い事情もある。

よくよく話を聞けば納得できる家出理由もあろうが、勘のいい刑事はふとしたことから事件の臭いを感じて追及に本腰を入れる。今回のケースが4か月も要したのは、そういう事情と考えられる。事件の臭気とは「嘘」をついている場合ではないだろうか?家出人捜査依頼者が嘘をつく必要はないが、本件は妻がクルマから飛び出した形跡は防犯カメラで確認が取れていない。

夫の言動に齟齬を感じ取った警察による、本格的な聴取が始まったと見る。結果、4か月を経て完オチしたようだ。妻を殺してバレないならマヌケな警察である。逆も真であるから、生活に最も身近な存在者である妻や夫を殺してバレないなどは至難である。いかに自信のあるストーリーを組み立てても、嘘というのは綻ぶものだ。それを思うと遅刻の言い訳の嘘すら羞恥である。

よって自分は嘘をつく際、相手に嘘が許容されていると思ってつく。絶対騙せない、隠し通せないと思っている。浮気をして妻に嘘はつきたくない。事実を言っても許容する女である。だからといって事実をいう必要はどこにもない。問われるならくだらん嘘はつかずに真実をいうが、黙っているのは嘘ではない。言う必要のないことを言わないのも思いやりであろう。

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真実というのは言う側も聞く側も傷つくことを考えるなら、黙っておくのが正解である。嘘はつかねば嘘ではないし、陰で不道徳的行為をするのは、人間が不完全であるということだ。嘘をつくのと、不道徳行為をするのと、どちらが「悪」なのか?実生活に支障をきたさぬ程度の不道徳行為も人間の証なら、互いが許容し合うのが長年連れ添った夫婦の、「良心」ではないか。

実社会に寄り添って生きる同士は、すべからく現実的な対応に殉じるべきであろう。人間が多元的である以上、経年を生きた夫婦愛が試されるなら、見て見ぬふりというのも愛情である。子どものころに家の金を盗んでいたが、それを知りつつあえて黙っていた父の深遠な思いは、今となっては尊敬に値する。愛情(放任)と躾(甘やかせる)の大きく違う点は何であろうか?

子どもは叱ったり注意ばかりされるとストレスがたまり、攻撃的な性格になりやすい。気弱な性格の子は逆に不安が増大する。朝から晩まで容赦ない母の小言に愛情に欠片も見えなかった。見て見ぬふりという度量は、慈愛を持った親にしかできない。真似ができないのは、黙認の責任を親はどうカバーするかが問われる。だから度量のある親でなければできない。

愛情を伝えることは物を買い与えることではない。親にしか出来ないことをしてやれるかということもある。黙って見て見ぬふりをするのはジレンマに陥るが、大事な愛情表現かと。将来において、あの時の親の態度が黙って見て見ぬふりであったと知った時、子どもはかけがいのない親の愛を感じる。ごちゃごちゃ小うるさい言葉よりも遥かに重い愛情である。

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開いた口が塞がらない母・息子 ②

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人は人をどれだけ許容できるかが試される。同じ一つ屋根の下に居住する夫婦とはそういうものではないか、老齢にして実感するものだが、若い夫婦にはそれができないこともよく分かる。しかし、殺すという発想にまで不満が昇華するというのは、人間的に問題があるとしか言いようがない。「夫婦間の不満がたまり、妻の首を絞めて殺害した」と弥谷容疑者は述べている。

殺したいほどの憎しみがあったと推察するが、やはりそれは彼にとっての憎しみであろう。「殺したい!」思うだけならともかく、実際に殺害するというのは異常性格といえる。「殺すくらいなら離婚すればよかったのでは?」。誰もが思うことで、それができるのが夫婦の良いところという考えもできる。血と肉を分け合った親子に比べ、夫婦は本質的にアカの他人である。

いっそ別れてしまえばきれいさっぱりできる関係である。弥谷容疑者に限って離婚ができない事情があったわけでもなかろう。殺害に至った理由は、殺したいほどの憎悪があったのではないか。離婚して他人となるだけでは済ませられない憎悪、自ら手をかけてでもこの世から抹殺してしまいたいほどの憎悪ではなかったのか。自分には殺す理由がそれ以外に見当たらない。

親子や兄弟の殺人は、まさに「血の悲劇」ともいえるが、夫婦にはそれがない。おそらく弥谷容疑者は偏執的性格、偏執鬱だったと推察する。偏執症は一般的にパラノイアという語句でいわれており、妄想性障害と同類の疾患である。内因性の精神病の一型で、偏執的妄想がみられる。妄想の内容には、血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続・発展する。

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夫婦の衝突の原因が偏執症からもたらされることも珍しくない。実際にパラノイアと診断された夫から、「料理に毒をもっているんじゃないか」、「浮気をしているんじゃないか」、「財産目当てで結婚したんじゃないか」、「君の意見はコロコロ変わるが精神病では?」、「君は最も信用できないタイプの人間」などと言われた妻がいる。言われたというより、絡まれるだろう。

育ちや価値観の違いから夫婦には様々な壁にぶつかることもあろう。しかし、こうした精神病質に罹患した場合は、得体のしれない大きな壁が構築される。衝ばかりが続くと、衝突を避けるために言葉を交わすことを避けるようになれば、会話のない家庭内別居状態となり、精神的に重くのしかかることになる。陰湿な家庭内別居を続けるなら、別居や離婚がはるかに望ましい。

殺された麻衣子さんの父親も力のない声で、「(弥谷容疑者には)我慢してほしかったというのはありますね」と語っていた。手に負えないとまではいわないにしろ、我がまま娘という認識はあったかもしれない。弥谷容疑者にしろ、妻の麻衣子さんにしろ、親の子育ての問題はあったにしろ、事は殺人事件である。成人としての判断認識の欠如としか言いようがない。

結果には原因がつきものだから、麻衣子さんにも原因はあったろう。子どものいじめで女子にもっとも多いのが、「無視」といわれるように、女は無視という卑劣なことをやれる動物のようだ。男の子同士の悪ふざけ的ないじめに比べて、「無視」は精神的ダメージが大きい。夫婦の家庭内別居がどういう事情、理由の遺憾で始まったにせよ、トータル的には双方の責任である。

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2男一女を持つ46歳と44歳の夫婦が家庭内別居から、夫の不倫を興信所の調査で知った妻が以下自省を述べている。「私たち夫婦は仲が悪く家庭内別居に近い関係でしたが、夫の不倫発覚後も私の心に留めています。成長期の子ども3人を抱えて離婚はしたくないからです。相手はラウンジのホステスで、日曜は彼女と終日一緒に過ごし、手をつないで仲良く出かけているようです。

思いおこせばこれまでにも夫を無視したり、つれない態度を取り続けたことも、不倫に走らせた原因であろうと思われ、夫を失いそうになったいまは申し訳なく感じています。自分にも責任があることでもあり、子どもたちの安定した将来のためにも離婚意思はまったくありません。であるなら、今の状態のまま、現状生活を続けるべきでしょうか?」という苦悩である。

原因の一端が自分にあり、子どもの将来的安定のこともあって離婚をしないという彼女の選択の理由は、夫の経済力に依存することである。そこを重視する以上、石になった気分で今後の婚姻生活を全うするしかなかろう。離婚を望む者は経済力とか子どもの将来とか以前に、荒んだ日常生活が耐えられないからで、この女性が現状維持を選択するなら今の状態を続けるしかない。

人間は欲だから不満を言えばきりがない。そうした中で、絶対に譲れないものを一つと定め、そのためにゆるぎない覚悟を持つなら、目的成就の方法であろう。そうと決めたならこの女性は邁進すべきである。1か月後、1年後に気持ちが変わるなら、時々の新たな選択も芽生えよう。現時点での覚悟で人は生きて行くしかないなら、それ以外のことは欲と見定めることだ。

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相談には2通りある。とりあえず先のことより今をどうするかの判断。将来を規範にして今をどうするかの判断。不倫は悔しいが子どもの将来のための判断、今の荒んだ夫婦の現状が我慢ならないという判断というように、限定しなければ解決はできない。限定するということは、限定外のことはとりあえず捨てるということ。自分が何かを解決する際も、取捨選択で判断する。

あれもこれも、これもあれもでは何も解決しない。多くをため込み、捨てきれない人が物事を解決できない人である。最も身近な問題である夫婦のことは難しく、悩ましい。相手を亡き者(殺す)以外の選択で乗り切る以外になかろう。その際、相談する相手を間違えると火の粉を浴びることにもなる。妻を殺した夫が、母に相談したことが、今回の問題を大きくした。

物事は最初を間違えるとすべての方向性を失う。「嫁を殺した」と息子は母に相談したことが間違いだった。母の恵美容疑者は、「息子を助けたかった。守りたかった」、「息子から頼まれて手伝った」、「夫にバレたらマズイと思い埋めた」などと供述している。「息子を助ける?」、「守る?」という母の言葉に依存し、自身の理性的判断をしなかった息子の幼児性。

父親に相談すれば様相は違ったろう。母親が、「夫にバレたらマズイと思った」というように、夫は死体遺棄に協力せず、息子の犯罪を隠蔽しなかった。これが、男と女の社会認識(警察は甘くない)の差である。父は自首を勧め、罪の軽減にもなった。母親の誤った判断が、死体遺棄罪、証拠隠滅罪、犯人蔵匿罪、共犯罪を加増させた。返す返すも、「開いた口が塞がらない」。

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母とは何か?

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「ある登校拒否児の事例」

中学三年の登校拒否の女子がいる。彼女はここ数年間はほとんど登校していない。彼女の毎日は、仕事から帰宅した母親に無理難題をいい、挙句の果ては暴力を振るい、それは深夜に及ぶこともあった。ある時点から、「なぜ私を生んだのか」と責め立て、母親を風呂場に押し込んで一晩中出さないこともある。それに見かねた祖母を突き飛ばして骨折もさせている。

暴力のターゲットは母親で、出刃包丁を突きつけたこともあった。ある時、「今すぐ寿司を十人前買ってこい」と母に命令し、深夜にも関わらず母が寿司を買ってくるとおとなしくなったこともあった。親を親とも思わぬ姿勢や言動に、ある精神科医は以下の分析をした。「子どもは母に無理難題をふっかけ、それを実行させることが目的ではなく、母親に自身を振り向かせたいのです。

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暴力は象徴的表現であり、そこまでしなければ母親は彼女に心を向けなかったのです。彼女が母親から見棄てられたと感じるのは、『自分がこの世界に生きる価値のない人間である』のを確認することでもあった。彼女は極端なほどに自己肯定感が持てない子どもだった。母親が十人前に寿司を買ってきたとき、『自分はそれだけのことをされる価値のある人間』と感じていた。

母親があらゆる犠牲を払っても娘のことを思う母でいて欲しかったのです。こうした所作や心理は、甘えるときにそれができなかったことで起こると思われます」。そうした根源的なことも分からず、「十人前も食べると太るよ」といおうものなら、やっと獲得した安定感えお覆されてしまう。このての母親は心理的に子どもで、人一倍自己愛的ということができる。

深層を理解せず、「娘は自分を困らせて喜んでいるだけ」という被害者意識しかない。母親とは俗に子どもを産んで母になった人をいい、そのことと本来的な、「母親なるもの」とは別である。実態としての母親ではなく、心理学的・精神医学的な、「母親」と、「母親なるもの」を母親は持つ必要がある。母性愛神話が崩壊したこんにちにおいて、母は母を学ぶ必要がある。

人間にとって母親の重要性を科学的研究の対象としたのは、精神分析医のフロイトだった。彼は、「自由連想法」なる治療法で神経症患者の主観的な、「回想」を傾聴し、それをもとにその人の心的世界を再構成していった。こうした方法論をもとに、人間の心の形成に母親が重大な意義を持つことを認識する。このことは最晩年の論文『精神分析学概説』ではじめて言及した。

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子どもの最初の性的対象者は養育する母親の乳房である」という象徴的な文言の論文の要旨は、「母親は両性にとっての人生における最初にして最強の愛情対象」であり、その関係は、「その後のすべての愛情関係の原型となるもの」であり、「生涯を通じて比類のない不変かつ独自の関係」とした。これを前記した登校拒否の中学三年生女児に当てはめてみる。

彼女は母親を一心に求めている。それが成就されない。彼女は母親という愛情対象とよい関係を持ったことはなかった。良い関係になったと安堵したとたんそこにはもう母親はいない。彼女の人間関係の持ち方は常に怯えと恐怖がつきまとっていた。そうしてついに、母親との人間関係を諦め、「食」という口唇活動による満足へ移行することになった。

そう考えると、ストレスが高じて食べる人の心理も同じものである。「ストレス食い」とも「過食症」ともいう心理は欲求不満である。フロイトの母親についての着眼というのは、フロイト最晩年の到達点となっている。フロイトといえばなにより、「エディプスコンプレックス」が有名で、これは男根期(エディプス期)に生じはじめる無意識的葛藤として提示された。

フロイト研究や阿闍世コンプレックス研究で知られる精神科医小此木啓吾は、母親についてこう述べている。「日本人の患者が欧米患者と比べて、容易に母子依存関係の水準に退行しやすいその基本的葛藤は、母に対するアンビバレンス(依存・甘えによる母への憎しみの抑圧)にある事実に注目」した。上記の「阿闍世(あじゃせ)コンプレックス」とは精神分析の一概念である。

イメージ 3阿闍世とはサンスクリット語で、「アジャータシャトル」といい、未生怨(出生以前に母親に抱く怨み)を意味する。出生以前に母親に抱く怨みとは奇異であるが、「母親は子どもの出生に対して恐怖を持ち、子どもはそれに対する怨みを持つ」とされた。1940年代には、精神分裂病患者は本質的意味において、「母なるもの体験」を欠いて育ったとの研究論文が発表された。

精神分析理論における学問的母親像はともかく、子どもからみた実像としての母親は、それこそ母親の数だけ、子どもの数だけあるだろう。高校2年生の登校拒否男子の実例として彼の言葉からみる母親像を考えてみる。「自分が中学の頃、母親と自分の間には、言ってはいけないことなどなかった。喧嘩で感情的になると、二人とも容赦ない言葉も平気でいいあっていた。

テーブルをひっくり返したり、部屋をめちゃくちゃにしたことはあったが、コップで水をかける程度以外に母に暴力を振るったことはなかった。しかし、その頃はいつも、母親が死んだらその時は、母親の遺骸に向かって心の底からあんたが嫌いだったと、最後の言葉として言ってやろうと思っていた」という。これを聞いたとき、彼はこれほどまでに抑圧されていたと感じた。

なんでも遠慮くなく言い合ったのではないのか?それでこの抑圧とは、男の子には言葉で言い足りるというのはないなと、自分はそう感じた。暴力を振るわなかったのは、振るいたくとも振るえなかったという抑圧であろう。分かる気がする。自分も暴力は一度も行使しなかった。チビ母など蹴とばせば吹っ飛ぶが、親に手出しは厳禁という暗黙の最終ラインが存在した。

侵すべきではないというデッドラインは、無意識に順守すべきものだったようだ。近年、親や教師に暴力を振るう子どもは、そうした歯止めというものがなくなったからである。校内暴力や家庭内暴力が頻繁に発生するのを、世代の相違と驚きをもって眺めていた。親に一度でも手を挙げると、それはもう親子ではない。暴力を振るわないことは親子いう形の最終砦であった。

高校生の彼の言葉には、母親に対する非常に深く根強い怨みや憎しみ感情とともに、自らが象徴的に殺すことのできない母親への矛盾と葛藤が窺えるものとして、印象深い。彼は母一人子一人の母子家庭である。父は彼が2歳の時に離婚し、母に引きとられた。彼が4歳の時に母が再婚したが、義父は仕事が思うようにいかないときは、子どもに八つ当たりをしたという。

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母親の言葉で最高に頭にきたのは次の言葉。学校に行かず家でゴロゴロしていたとき、「お前のそういうところは父親の血だ。うちの家系にそんな怠け者はいない」といわれた。さすがに頭に血が上り、「だったらなぜ結婚したんだ。自分が選んだ相手だろう!」そういって、この時は部屋をめちゃめちゃにしたという。こんなつまらんことを時に女はいったりする。

なんでも他のせいにする習性だからだろうと自分は見ている。人のせいにすることで、自分の罪を逃れようとするのが女の自己防衛である。だからか、そのためにはどんなことでも見境なく口にしてしまう。「そんなことまでいうか?」というような体験はすくなくない。高校生の孫に向けたそういう発言を聞いていると、これが自分の娘かと呆れ、同時に親の顔を見たくなる。

殺人事件の加害者と被害者を持った子

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弥谷鷹仁容疑者と被害者で妻の麻衣子さんの間には1歳9か月になる娘がいたというが、おそらく麻衣子さんの実家で引き取ると思われる。理由は鷹仁容疑者の実家には母親の恵美容疑者(逮捕)もいて、引き取る状況ではない。求刑は25年の有期刑が予想され、判決は20余年程度と思われるが、子どもはいつしか加害者が父で被害者が母であった事実を知ることになろう。

何とおぞましいことか。こんな子どもに生まれてきたくはなかったろうが、事実は事実として受け入れなければならない。この子がどういう大人になるかの想像は難しいが、仮出所した父親も妻の実家とは縁が切れ、子どもの顔をみることもなかろうし、どの面さげて子どもと会えるというのか。人間にとって最も身近な問題を、乳幼児期に経験したこの子がいたわしい。

生を受けてもっとも身近にいるのが親。事情があって親のない子どももいるにせよ、父親が母親を殺すという境遇はレアケースである。その事実を知らないままに育ち、知らないままに生きていく可能性もあるが、昔と違って情報化時代であることを考えると、青年期になって事実を知った時のショックは大きい。だからと言ってあえて知らせる必要があるのか?

自分が祖父なら言葉を選び、適当な時期を見計らった上で念には念をいれて話す。その善悪はわからないが、本人が偶然知った時はもはや遅い。伝える義務が自分にはあると考える以上、話すであろう。知らないことが幸福で、知ることが不幸であるということではないとの考えも規範にする。自身がおかれている境遇や存在根拠は自身が納得するしかなかろう。

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それは理由の遺憾を問わずである。いかなる口実を弄したところで、彼女が真実を知ったしまった後になって、「配慮」という言葉は虚しく響く。真実を知ることより隠しておくリスクが高いことを念頭に、いかなる真実をも受け入れられるような育て方も育てる者の責務となる。内部に隠し事を持った人間はえてして不自然になる。彼女に両親のことを問われた際の覚悟も必要だ。

言葉で上手くかわせたとの思いは隠す側の都合のいい論理であって、本人は不自然さに気づいている。「配慮とは何か?」を前提にすれば難しい問題だが、こういう境遇の子には、「真実」の価値を見出すことが大事である。つまり、孫の心を傷つけたくないという配慮の是非と苦闘である。どうあがいてみたところで真実というのは、自分も相手も傷つかずには実行できない。

被害者となった娘の子どもを引き取り、育てていく過程で避けられない母のこと、父のこと、母の死因のこと、父の居場所のこと。そういう問題を避けて通れるものではない。孫は被害者の子でありながら加害者の子である。こうした大きな問題を本人が抱え込んで生きていかねばならない。竹取翁は、竹の中から生まれた事実を隠していただけなら比較にならない問題だ。

などと…、今回の悲惨な事件のその後の問題を当事者に成り代わって真剣に考えてみたが、難しい問題ゆえに考える価値はあろう。永山則夫死刑囚は無学でありながら獄中独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表し、1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞したのを機に日本文藝家協会に入会を申し込む。


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協会理事会にて協議の結果、入会委員長の青山光二、佐伯彰一ら一部の理事が、永山が刑事被告人であることを理由に入会に反対、入会が認められなかったことで、中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという事態になる。「いつ、どんな形で、殺人を犯さないとも限らない。という想像力は文学者に必要」と、中上は憤懣を述べた。

真実を価値とし、真実という恐ろしいものに立ち向かうことを自らにも孫にも求めることは、隠し立てするより至難である。真実を供与する側がその過程で、真実に負けてしまう場合もある。物事を隠し立てするのは、隠している自分を認める勇気がないがゆえに、「良心」とか、「配慮」を持ち出す。日本には被差別部落問題という陰湿な社会問題が根強く存在していた。

中上健次も被差別部落出身者である。自分のバンド仲間の友人に部落出身者は多かった。みんな気のいい仲間たちだが、母親は彼らとの交流を露骨に禁じた。「うちはあれらとは違う」と蔑み言葉を吐く母親に憎悪は増すばかり。「そこまでいうなら部落出身者の嫁をもらう」とまで言い放った。部落問題は下層階級を虐げることで自己満足を得るという愚劣な行為。

しかし、存在を知りながら我々も被差別者たちも、暗黙の了解という形で問題を避けていた。そうしたなかで、「部落民は一致団結せよ!吾々が穢多であることを誇る時が来たのだ」」という掛け声とともに、同和教育が始まった。部落民であることを声高に公言したことで、あえて問題を避けていた非部落民にも大きな戸惑いとなる。「寝た子を起こすのか?」と疑問視もなされた。

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問題を直視せず、遠巻きに見て見ぬふりをしても何も解決しない。部落民であることを親が隠している家庭も多く、それが急に眠っていた子を起こしたところで、子どもたちは傷つく以外に何もないという考えは双方にあった。が、部落解放運動は、「穢多であることを誇りとする」という強い姿勢に根づいていた。これまでの卑屈さから一転した強い気持ちが功を奏した形となる。

「真実を価値とし、真実という恐ろしいものに立ち向かうことを、自らにも子や孫にも求める」という運動は、確かに過渡期には問題も噴出したが、結果的に間違っていなかった。有色人種の差別問題と違って、同じ肌色、同じ民族の中に存在する差別は陰湿になりやすい。そこに風穴を開けたのは、部落解放同盟と被差別部落民の闘う強さ、一糸纏わぬ共闘姿勢であった。

1974年の八鹿高校事件は、日本共産党と部落解放同盟の対立が教育の場に持ち込まれ、流血事件に発展した。1980年の狭山同盟休校は、狭山事件裁判への抗議の一環として、部落解放同盟により同和地区の児童生徒は、1980年1月28日には学校に登校しないよう呼びかけられた。これに対し、各自治体の教育委員会は困惑したり、激しく反発した自治体もあった。

なぜなら、同盟休校は教育を政治運動の場とするだけでなく、同和地区の児童生徒だけが一斉に学校を休むことにより、誰が同和地区の児童生徒か明らかになってしまうためである。そうしたこともあって、部落解放同盟は被差別部落出身者、つまり同和地区出身者の生徒・児童に対して自己の出自をカミングアウトをさせる、「部落民宣言」などを通じて姑息さ・卑屈さを打破していく。

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親が殺人事件の加害者と被害者という宿命を負った子どもに罪がないのは、被差別部落に生を受けた子どもと同じこと。そのことで卑屈にならず、誇りをもって己が人生を横臥していくためには、周囲の無用な配慮よりも、周囲の強い気持ちに感化され、影響される必要がある。同情や慰めよりも大事なものは、権利の自意識であろう。親が殺人犯であれ、強く生きる権利が子どもにある。

母とは何か? ②

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「毒親」という言葉は昔はなかった。2008年以降、自己愛の強い母親とそれに苦しむ子どもの問題に関する書籍が増え、日本では2015年時点で毒親という言葉は一種のブームになって、ひどい親によって被害を受けたり、苦労体験を語った著書が乱立する時代になった。自分が子どもだった50年前に、「毒親」という語句がなかっただけで、毒親がいなかったわけではない。

今の子どもも昔の子どもも、子どもの質が変わったわけではないし、親の質がそれほど変わったわけでもない。「毒親」という言葉がない時代、「毒親」と見定めた子どもは賢明だったということか?人(親)を見る目があったということか?そんなことはどうだっていいこと。要は毒親に毒されないよう我が身を守ったということだ。同じことは今の子どもにもできるはず。

それができないままに親に毒され、支配され、傷ついた心を何とか元に戻したいからと本を漁り、著者はそういう人達の心を元に戻させたい。上記のタイトル以外にも、『不幸にする親』、『毒になる母』、『親に壊された心の治し方』、『子は親を救うために″心の病″になる』、『しんどい母から逃げる』、『母を棄ててもいいですか』などのタイトルが並んでいる。

『親を殺したくなったら読む本』という過激なタイトルもある。毒親から逃げられなかった子どもたちが手にするのだろうが、なぜ毒親と見定められなかったのか?親が自分の害になるかどうかくらいの判断くらいできそうなものだが、反抗する勇気がなかったのか、従っている方が楽だったのか、それぞれに事情はあっても、振り返れば主因は行動しなかった自分にある。

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『毒になる親』とか、『毒親の正体』とか、指摘をされなくても分かりそうなものだが、指摘をされて毒親に反旗を返すならそれでもよかろう。とりあえず、うちの母親はどうやら毒親に合致すると、本を読んで気づき、毒を盛られないよう反抗すれば、将来的に心の病に罹患しない。反抗のエネルギーは大変だが、親といえども自分を害すなら、それはもう敵と見定めるしかない。

「他人に支配されない生き方をすべし」と返す返す述べているのは、それが自分を解放することになるからだ。現代は管理社会という蟻地獄の真っただ中にあり、社会とは家庭も含まれている。50年前に比べれば、親子関係を成立させている社会基盤自体変化している。それこそ小学生時分から受験戦争に足を踏み入れる家庭も目珍しくない。こんなことは昔はなかった。

子ども自身が早期から受験という社会システムに組み込まれ、システム人間化した時代になっている。それを良いことと操っているのが母親ということになる。父親の権威が落ち、親父の力が失せれば子どもは母親主導で育っていく。親が得ている知識ややり方よりも、塾や習い事などの金銭教育が主眼となり、親父はといえば、もっと稼いで来いと尻をひっぱたかれる現状。

母親と価値観の異なる父親など不要とばかり、「亭主元気で留守がいい」などと足蹴りにされ、家庭におけるシステム化は母親によって作り出されている。「自由とは何か?」と子どもに問い、「やりたいことをやること」と答えられる子どもがどれだけいるだろうか?自分のやりたいことが何かわからず、とりあえずは塾や学校でいい点数を取ることが親に喜ばれる。

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子どもの日常がそのようにシステム化され、そこからあぶれる反抗がやりにくくなった。子どもといえども管理されれば当然ストレスは溜まる。それをいじめなどで発散するからいじめは減らない。なぜこういう世の中になったのか。受験戦争は、1978年の共通一次試験によって拍車がかかったとされ、受験第一主義というシステム化を生み、親はこぞって、「勉強は必要」と子を毒す。

だから毒親という。学問こそが人生を勝利に導くとされ、勉強さえできれば報われる時代はあったが今は違う。管理され、調節され、計画されている今の時代に、勉強ができて社会で報われるのは官僚くらいか。システム化は人間をロボットにするがゆえに反人間的である。が、システム社会にあってはシステムに順応する方がシステムから脱落するより良いとされている。

良いだけでなく、システム人間が楽という考えに浸る者もいる。システム社会で、「有能」な人間は、システムから外れた時点で、「有能」でなくなる。他人の評価などより自身を信じ、システムから外れて成功した人たちは少なくない。ジョブズやゲイツも大学に行くより自由にやりたいことを選んだ。システムから外れて独自の何かを創造することを親はリスクと考える。

東大で医師になるエリートを作ろうとする母。父親の権威のある家庭の子どもは、勉強以外のスポーツなどに興じる子が多いのは、そもそも父親というのは子どもに好きなことをやらせたいところがある。言いつけを守り、決まりを守るような男の子を父親は望まない。男の子の基本は何をおいても、「やんちゃ」であって、おとなしい男の子は、男親から見て魅力がない。

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母親をあげつらうために書いているのではないが、母親の力が大きい家庭にあっては、子どもがシステム化される懸念がある。「母とは何か」という表題で、ネガティブな母を取り上げたいのではなく、いわゆる、「母なるもの」についての本質を思考したい。「世に母親ほど毀誉褒貶の著しいものはない」という見方は、母親の利点でもあり、同時に母親の病理であろう。

母親は一方で産み、養い、育て、愛と慈しみを注ぐ暖かさの源泉として、子どもから愛され、慕われ、懐かしまれる。しかし、他方では子どもを呑み込み、支配し、成熟を阻み、心を病ませる悪しき存在として、非難され、怖れられ、怨まれる。子どもの心の病の背後にしばしば悪しき母親像が見いだされる。子どもの非行、神経症、精神疾患の原因と名指しされる母でもある。

アメリカの精神分析医が、「スキゾフレニックマザー(精神分裂病因性母親)」なる概念を作り、「母原病」という言葉を生んだ日本の小児科医もいた。元愛知医科大教授の久徳重盛氏の『病める現代と育児崩壊』(1984年)という著書を読むと、家庭内の精神的崩壊の治癒が不可欠とある。家庭の精神的崩壊とは、歪んだ母親による子どもの歪んだ保育と指摘されている。

「母原病」という言葉には批判があったが、昨今は「毒親」などと辛らつな言い方になっても批判が起きないほどに、毒親の存在が歴然とした時代である。「毒親」とは一般的に母親を指していう言葉で、その理由としては、子どもの教育にかかわる家庭内での母親の存在感であろう。家庭のリーダーを夫とする自分にとって、母親主導の要因は父権の喪失としか映らない。

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母とは何か? ③

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  かあさんが夜なべをして手袋編んでくれた 木枯らし吹いちゃ冷たかろうて
  せっせと編んだだよ ふるさとの便りは届く 囲炉裏の匂いがした

窪田聡の詞・曲になる『かあさんの歌』は、1956年(昭和31年)窪田二十歳の時に発表されたもの。窪田は開成高校を卒業後、合格していた早稲田大学には一日も通学せず、文学を志して家出した。兄を通じて居所を知った母から届いた小包の思い出や、戦時中に疎開していた長野市の旧信州新町地区の情景を歌詞にしたものとされる。窪田は文学の他に音楽を愛する青年だった。

家出して行方が分からなかった息子の居場所を知った母が送ったものは何か?身の回り品類に手袋もあったかも知れない。1935年生まれの窪田は現在84歳。1988年10月から岡山県瀬戸内市(当時牛窓町)に移住し、産業廃棄物処分場に反対する運動などを行いながら、月に1度の歌声喫茶を主催していたが、現在は、「窪田聡・歌のある風景」として、年に5~6回開催している。


この曲をテレビで聴いた子どもが、「よなべって何?」と母親に聞いたという。夜なべをして手袋を編む情景は頭に浮かぶが、今は100円均一で買える。便利になった時代ではあるが、♪かあさんが百均で手袋買ってくれた…と歌っても情緒がない。現代社会で母さんのことを歌うと、どういう歌詞になるのだろうか?ふ頭に浮かぶはジョン・レノンの『mother』である。

  お母さん 僕はあなたのものだったけど
  あなたは僕のものではなかった
  僕はあなたを求めたけれど
  あなたは僕を求めなかった
  お母さん さようなら

  お父さん あなたは僕をすてたけれど
  僕はあなたをすてられなかった
  僕はあなたが必要だったけれど
  あなたは僕を必要としなかった
  お父さん さようなら

ジョンの父は失踪し、母は男と同棲してたために叔母に育てられたジョン。この曲は、ヨーコと出会いプライマルスクリーム療法(セラピー)を受けてたころのもの。心にわだかまるものがそのまま詞として出てくるものだろう。もう1曲は、フレディ・マーキュリー(ザ・クイーン)の絶叫になる、『ボヘミアン・ラプソディ』の出だしである。これもまたすごい詞ではある。

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  母さん、人を殺してきたよ
  そいつの頭に銃を突きつけて
  引き金を引いたら そいつ死んじゃった
  母さん、僕の人生は始まったばかりだってのに
  もうお終いなんだ、自分で自分の人生を投げ捨てちゃったんだよ
  母さん、ああ
  母さんを泣かそうと思ったわけじゃないんだよ
  明日のこの時間になっても僕が帰ってこなかったとしても
  そのまま、何も関係ないって感じで これまで通りに暮らしていって

「ボヘミアン」は流れ者と訳されるが、犯罪者が逃げ隠れしながら生きていくという意味よりも、頼る者のない状況にあって、むしろ自由気ままに成り行き任せに流浪する意味で使われている。「ラプソディ」とは狂詩曲という楽曲の一形式に過ぎない。先に記事にした弥谷鷹仁容疑者は、「母さん、妻を殺してきたよ」といったのだろう。彼はボヘミアンであるべきだった。

なぜ母親に言ったのか?妻を殺めて母親に言うのか?「なんでもママに言うのよ」と育てられたにせよ、36歳の息子である。結果、母は息子の犯罪に加担することになるが、男親には理解し難い母親の偏愛である。息子の犯罪に遭遇した三田佳子や高畑淳子ら母親の顔が頭を過る。犯罪を起こしてはないが曽野綾子の以下の発言も、象徴的な母親の言葉として刻まれている。

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「もし息子が罪を犯したとき、世間がなんといおうと、あたしは絶対息子がいいと言おうと思っている。子どもが困ったとき、支持できるのは母親だけ (中略) 母親が一番愚かしく、盲目的になってもいい…。」曽野のこの発言は、何度目にしても正気の沙汰とは思えないし、現に弥谷鷹仁容疑者の母親は、これと同じことをしたのではないのか?曽野はどう思っているのだろう。

「愚かで盲目的なバカでいい」。これが世の母親の多数派なのか?「息子に対して親というものは不法で理屈の通らぬもの」と、ここまでいう曽野の本気度は十分過ぎるくらいに感じられる。ユング派心理学には、「グレート・マザー」なる概念がある。「太母」と和訳されるが、全能でヌミノース(聖なるもの)な存在であり、保護する母と支配する母の両面を備えている。

世に流布するよき実母と悪しき継母の物語は、「グレート・マザー」の両面を具像したものであって、すべての継母が悪しき存在ということではない。「母子一体」という概念は完全一体ではないにしろ、どの程度のものか?「父子一体」などの言葉は聞いたこともないし、父子が一体であるなどあり得ない。父と娘は乖離し、息子は父を乗り越えるべく敵対関係にある。

確かに母子一体性的要素は、子どもに安定感を与えるが、同時に否定的側面も露わに表現されている。つまり、母は子どもに自分の生きられなかった影の部分を子どもに生きて欲しいと要求する。例えば勉強をしなかった(苦手だった)母が、教育ママになるようにである。そのために母は子どもに奉仕する反面、要求がましくなる。これが子どもに与える影響が大きい。

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子どもがあまりにも母の要求を感じ取った場合に、子どもは自らを生きているのか、母の一部を生きているのかわからくなり、自己を喪失する。母は母で自分自身を生きることを怠った結果、思春期時期に子どもが分離することを許さなくなる。こうした一体的要素を母子一体感というのは理解できるが、別の言い方をすれば互いの利害の一致する共依存と問題視される。

親子が利害関係で結ばれていいのだろうか?自分は他人とも親子とも、利害関係(利用し利用される関係を是とする)を望まない。それは長い間には必ずや負担になるからである。負担になりながらも形式化させて継続する無駄な人間関係はストレスとなる。贈り物を定期的に交わす関係がそれで、一切のそういうものを避けるように生きてきたし、物品の繋がりが心の繋がりではない。

「矛盾相即」という言葉がある。西田幾多郎は鈴木大拙から禅思想を学び、禅の古典である、「華厳経」の、「即非の論理」を教わった。「即非」の、「即」とは同一性のこと、「非」とは同一性にあらずということ。よって、「同一性と非同一性」が一緒になっているのが、「即非の論理」であり、後年の西田哲学は、「絶対矛盾的自己同一」の思想に至っている。

矛盾しているけど同一、つまり絶対矛盾かつ自己同一。矛盾と同一性が、「相即」する、それが、「矛盾的相即」。この論理からすれば母と子は一体であるが、同時に二者は二者である。女が母性を生きるとき、女性にとって男というものは、まったくの「見ず知らず」の存在である。これをギリシャ神話の『プシケーの物語』に即して考えると分かりやすい。

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日本の女性にとって、生涯夫は未知の人として終わってしまう可能性に満ちている。ある女性が40の半ばを過ぎて夫との離婚を決意した。その理由とは、30歳半ばまで夫婦生活とはこんなものだと疑問も感じなかったが、他の夫婦との交流が増えるにつけ夫の欠点が見え始めた。そうして夫への批判が高まるうちに、このままでは自分の人生は墓場と感じ、離婚を決意したという。

分かるようで分からない。分からないようで分かる気もする。男は自分の正体を女性に知られることなく、ひたすら妻には自分を信じてついて来いと願うところがある。妻は我が子を宿して育てる間は夫は未知の人であるのが楽というもの。男と女は別の生き物ゆえに永遠に分かり合えないというが、同性でも分かり合えない相手もいて、それが夫婦を切り裂くものでもなかろう。

母とは何か? ④

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『かあさんの歌』を作った窪田聡について興味深いことが書かれてあった。先の記事では高校卒業後に大学に合格したにも関わらず、家出をして消息を絶ったと書いたが、その辺りの事情はどうだったか気になり調べてみると詳細は以下のようである。窪田聡は本名を久保田俊夫といい、昭和10年、東京都墨田区京島で五人兄弟の四男として生まれる。家業は建具屋だった。

進学校で有名な開成高校に進むも太宰治に心酔し、デカダン(頽廃的)な生き方に憧れていた窪田は、授業をさぼって映画・たばこ・酒に耽溺する日々を送っていた。高校卒業後は早稲田大学に合格したが、親が準備してくれた入学金と授業料をもったまま家出をする。大学の進路をめぐって母との対立があったとはいえ、親子でなければ使い込みで逃走なら犯罪である。

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こんにちなら入学金などは親が直接銀行に振り込むだろうから、こんなことは起こりえないが、振り込みでないにしろ子どもの大学の入学手続きは親がするのが一般的だ。金を渡して、「入学手続きに行ってこい」などは、親が忙しい子だくさん家庭なら当たり前だった。今は子どものこと、子どもができることすら親がやりたがる。それを過保護とも言わない時代である。

入学金と授業料を搾取の上で家出であるが、一人で生きて行こうとの18歳の自立心をみる。親の心を踏みにじる行為ではあるが、居たくない家なら飛び出すことも子どもの人生である。窪田は人生の長きにわたって母との葛藤があったとされている。家出の原因は母との進路対立以外にも、日々の諍いがあったろう。親と関係を断つ家出は決意みなぎる行為である。

家出についての表立った理由は、「文学で生きていくため」となっているが、大学に通いながら小説を書いたりが文学者になるべく一般的な手段である。おそらく窪田はマルクス主義やプロレタリアート思想の影響を受けたと考えられ、家出後は安下宿に隠れ住み、牛乳配達などの仕事をする極貧生活のなかで、「うたごえ運動」に参加した窪田は共産党にも入党した。

「うたごえ運動」とは、先の大戦後の日本における合唱団活動を中心とした、大衆的な社会運動・政治運動で、共産主義・社会民主主義を思想的な基盤とし、労働運動や学生運動と結びつきながら全国各地の職場、学園、居住地に合唱サークルを組織した。共産党員で、「うたごえ運動」の創始者である関鑑子は1948年、共産党の運動方針に従い新たに中央合唱団を創設する。

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「うたごえ運動」の首都圏における中心的存在である中央合唱団に所属した窪田は、「赤旗まつり」をはじめとする日本共産党主催行事や、「日本のうたごえ祭典」に出演し、関連楽曲のレコード録音などを行ったがその後、「うたごえ運動」と決別し、1988年に岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に移住する。同地でも、1995年から産業廃棄物処分場の反対運動などを行っている。

『かあさんの歌』は都会生まれの窪田が疎開先だった父の郷里、長野県信州新町での農村体験をもとに書かれたもので、窪田の疎開は9歳~10歳の一年間だった。家出後、音信不通となった窪田に母から小包が届くようになったが、共産党入党もあってか、母との断絶は続いていた。1989年、疎開先の信州新町に疎開当時の有志によって『かあさんの歌』歌碑が作られた。

その除幕式に呼ばれた母のけさゑは、「俊夫、よかったね」とつぶやいたという。窪田はこの言葉を、「(54歳にして)初めて母が自分を認めてくれた言葉だった」といった。明治生まれの気丈な母は同年他界したが、上記の窪田の言葉を聞く限りにおいて、20歳当時の彼が母を慕う心情を歌ったとは考えにくく、『かあさんの歌』は疎開先の祖母のことを歌ったものといわれている。

歌や詩や小説が作者の想いから離れて独り歩きすることはままあることで、作り手の意図から離れたとはいえど、聴き手や読み手に水を差すような発言は控えるのが一般的。「おとうは土間で藁うち仕事」とある2番の歌詞には、自分の勝手な生き方を黙認してくれた父親への気持ちが込められているという。これらのことは窪田自身がいろいろなところで語ったり書いたりした。

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父子関係に比べて子どもと自分との間に境界線がつくれない母親は、自身の不安や欲求などの感情を子どものそれと区別できない。つまり、子どもは自分とは別の認識をし、異なった感情を持つことが認められない。それが子どもを自分の延長線のように、あるいは補充物のようにみなす。だから母親というのは、子どもの一挙手一投足が気がかりとなり、いちいち干渉する。

子どもの心の中に遠慮なく侵入し、子どもを操縦しようとするが、これは自分の人生を子どもで埋めようという行為に過ぎず、子どもにとってみればたまったものではない。これが毒親の正体である。にも拘わらず、子どもに対する献身的な愛情と錯覚するが、その実態は母親自身の深くも空疎な感情であったり、自己尊重の欠如を埋めようとするものだったりする。

母子一体感にも健全なものと不健全なものがある。前者の場合、母親の献身に支えられた子ども中心のものであるが、後者の母親の場合、母親中心の一体感が手放せない。こういう母親に育てられ、不幸にも順応してしまった子どもは、母親の感情と自分の感情を混同し、区別がつかなくなり、自分自身を信頼できなくなる。他人に支配されるとはそういうことをいう。

母親からすれば自分の言いなりになる子どもはかわいいのだろうが、客観的に見た場合これは怖いことである。麻原に洗脳された信者と変わらない子どもを、母親は作ろうとしていることになる。麻原と同じように、信者(子ども)の幸福のためという理屈である。「麻原はとんでもないけど、私のいうことを聞く子は間違いなく幸福になる」というなら、何も言うことはない。

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母親の強力な支配に閉じ込められた子は、思春期、青年期に入っても、母親なくしては生きていけないと感じるようになる。他人から見れば強度の依存、もしくはマザコンに映る。こんな夫に嫁いだ嫁はたまったものではない。親が子どもに対する溺愛とか過保護とかは、供与する側には分からない。ゆえに盲目的になるのを戒め、自らを疑い、自らに問いかけることだ。

西欧の夫婦は、大人の男女としての自分たちの関係を作り、その関係の中に子どもを入れない。だから、子どもの前でも憚ることなく男と女としての愛情を表現し、夜になればさっさと自分たちの寝室に引きこもり、子どもが泣いても夫婦の寝室に子どもを入れたりしない。文化が違うといえばそれまでだが、子どもにとっても、夫婦にとっても良いということは分かろう。

母とは何か? ⑤

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親が我が子に夢を抱く程度の親バカは非難されることもないが、子どもに自分の幻想を押し付ける母親こそが問題となる。夢と幻想の差は何か?ということではなく、母親自身が望んで果たせなかった夢を子どもに託すのはいいとして、そのことの実現のために強要するというのは、多少なりどの親も経験があろうとも、あまりに度が過ぎれば子どもの心が歪むことになる。

親が子どものために我を忘れて必死になることを、子ども自身が感じている場合はまだ救いがあろう。なぜなら、子ども自身が母親の願望に応えようと従うにせよ、反抗するにせよ、子ども自身が選び取ることができるという意味での救いである。問題なのは親に嫌われたくないがために、反抗ができないままに不条理な従属を強いられる、いわゆる「いい子」タイプの子ども。

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母親自身ですら子どもが素直に従うさまを、傲慢さと気づかない場合もあり、このことが親子の一つの悲劇だろうか。母親の病理というのは様々な観点から現れるが、その背後にあるものは個々によって異なる。女にできて男には絶対に不可能なのが子を産むことだが、女が母親になることは女性にとっての第二の誕生といわれ、女性として真に成熟することでもある。

男が父親になったことで急激に成熟することは経験からしてもないが、「父なるもの」を目指して、「父なるものに」なろうと様々に知識を得たり、自己変革に試みたり、責任感を認識したり、その程度の成熟は必要なこと。昭和40年代にヒットした流行歌に『こんにちわ赤ちゃん』というのがあるが、曲を初めて耳にしたとき、なんと微笑ましい歌であろうと感じた。

NHKの人気バラエティー番組『夢で逢いましょう』の今月の歌コーナーで紹介された。永六輔作詞、中村八大作曲の、「六・八コンビ」になる楽曲である。曲のエピソードとして中村の第一子生誕を機に永が作詞したというから、パパの心情を歌詞にして中村にプレゼントした曲だった。それが梓みちよという歌手に歌われることとなり、歌詞をママの心情に直されたという。

が、歌詞をママの心情に直したからといって、ママの心情を表現できていないのは、男によって書かれた曲であるからだ。演歌には女性を心情をうまく表現した歌詞が男によって書かれているが、これらは男の女性への願望や理想が根底にあると思われる。出産の実感となると、こればかりは女にできて男に絶対できないことで、産むだけでなく体内に宿す実感も含めてである。

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『こんにちわ赤ちゃん』も明らかに男の感覚と感慨が、ママにすり替えられた歌であろう。子を体内に宿した母(正確にはまだ母ではない?)は胎動を通して、「わが子」との様々な交流が始まっている。それゆえに誕生直後のわが子と対面で、「こんにちわ、赤ちゃん」、「初めまして、わたしがママよ」などの挨拶をしたり、名乗ったりするよう仲ではないのではないかと…

男の感覚で母親の感覚を想定してなぞった歌であり、「初めまして、僕があなたのパパですよ」という心情に合致するもの。おなかに宿した時点で女性は疑いのない「母」であろう。産んで母とは法で定めた母である。この曲を与えられた当時10代の梓みちよはどう歌っていいのか困惑し、永六輔に聞いたところ、「考えなくても女性は本能で歌えるよ」となだめられたという。

世界で初めて妊娠した男性と言われているトーマス・ビティさん(38歳)は、これまで三人の子を産んでいる。何だと?ケツの穴から産んだというのか?とおもいきや、2002年に性転換手術を受けて男性となり、戸籍上は男でも女性の生殖器官はそのままに、妊娠が可能な状態だった。なるほど…、(法的な)男が出産したといわれても(実態は女だから)驚くことではない。

女は子を宿した時から母であるなら、男はいつから父になれるのか?自身の経験でいうと、父になった実感はかなり遅いものだった。種を蒔いてはみたものの、実が大きくなるのは視界的なものだけで、子どもが育っている実感はお腹のふくらみ以外にない。ある日突然腹がしぼんでに外に出てきて、さあ、これがあなたの子どもですよ、といわれても…、男にとっては躊躇いである。

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だからか、「こんにちわ、赤ちゃん」という挨拶になる。おむつ替えや入浴は苦手だから母まかせで、苦手な抱っこも数回程度という薄情な父に、父の実感がわかないのも無理からぬこと。したがって、父と認識したのは、歩いたり、食べたり、笑ったりの人間らしさを感じるようになってからと記憶する。「父らしさ」というそれは、父親としての出番のことを言った。

実感あっての自覚である。乳児は6か月を過ぎると母親と見知らぬ人を区別し、いわゆる、「人見知り」をするが、子どもにすれば家にいる見知らぬおじさんだったかも知れない。「グレートマザー」なる概念を導いたユングも、「より一般的な母親元型の考察を基礎にしなければならない」として母親元型の特徴を、「母性」と捉え、その特性を以下のように表現している。

「まさに女性的なものの不思議な権威。理性とはちがう智恵と精神的高さ。慈悲深いもの、保護するもの、支えるもの、成長と豊饒と食物を与えるもの。不思議な変容――再生の場。助けてくれる本能また衝動。秘密の隠されたるもの、暗闇、深淵、死者の世界、呑みこみ、誘惑し、毒を盛るもの、恐れをかきたて、逃げられないもの」(ユング著『元型論』)。

こうしたイメージには、「やさしくかつ恐ろしい母」という両面が定式化されている。「守り育む(慈愛)」、熱狂的(激情)、冥府的(暗闇)」という、この3つの本質的な面が指摘されているように、ユング心理学の立場から母子関係を思考すると、フロイト学派のいう、「子どもの問題はすべて母親個人の子どもに対する対応の仕方による」とみなすことはできなくなる。

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「私は幼児の神経症の原因を探るときにはまずは第一に母親を問題にする。なぜなら、子どもは神経症的にではなく正常に発達するのが一般的である。第二に、ほとんどの場合に、障害の明確な原因が両親の側に、特に母親の側に確認され得る」とユングは述べている。精神科医は様々な患者の治療を行ってきているが、以下の事例は母に怯える成人女性の夢の内容である。

「夕方、家中がシンとして誰もいないので怖くなって居間に行くと、母親が一人ぽつんと背中を丸めて向こうを向いて立っていた。近寄ると母親が振り向いた。母親は何かを食べていて、見ると生焼けの鳥の股肉のようで、それはピクピク生きていて、口の中は血だらけだった。歯で骨を噛み砕く音が聞こえ、母の笑う顔が不気味で、驚いて目を醒ましました」。

彼女が突如として体験した母は、彼女の母ではない。まさしくユングのいう母親元型よって布置された、「恐ろしい母」である。自分に背を向け、知らないところで恐ろしいことをしている母、残忍で不気味な薄笑を浮かべる母である。彼女は自分もああやってバリバリ食べられる感じがしたという。この女性は治療のさ中、「母が怖い」、「母に殺される」と怯えていた。

母とは何か? ⑥

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メラニー・クラインという女性の精神分析家は、人間の発達を母子関係を中心に細かく研究している。クラインは子どもは母親に対して憎しみと恐怖を持ち、母親も息子に憎しみを持つ場合があって、母子に激しい愛憎の葛藤世界があることを分析し、指摘をした。クラインと同じ人格形成過程における母子関係研究に、古澤平作の、「阿闍世コンプレックス」がある。

「阿闍世コンプレックス」は、西欧的な父親型エディプス・コンプレックスに対し、日本的な母親型コンプレックスで、『阿闍世物語』という仏教説話からコンプレックス理論のモデルを創案したのは、これまでの日本の精神医学にはない独自性である。古澤はウィーン精神分析研究所に留学したとき、フロイトを訪ねて、『罪悪意識の二種』という論文を提出している。

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論文には母子関係に潜む、「阿闍世コンプレックス」の原型が暗示され、この段階での古澤は、「エディプス・コンプレックス」に潜む特色として、「恐れ」と、「赦し」が表裏一体となる日本人の精神構造に着目、これを、「エディプス・コンプレックス」の別のバージョンとして取り上げた。そこには母親コンプレックスの萌芽を問うというアイデアからの認識を示していた。

「阿闍世コンプレックス」は、日本人にとっては普遍的ともいえる母子関係の原型を提示するが、古澤の理論をさらに発展させたのが門下の小此木啓吾である。小此木のいう母子関係には、第一に理想化された、「母なるもの」との一体感と、その一体感を求める、「甘え」があるとされる。第二に、母との一体感が幻想であったことの幻滅とともに激しい怨みが生まれる。

第三に、真の、「母なるもの」に立ち返った母は、自分に怨みを向け自分を殺そうとした息子を許そうとする。息子もまた、母の苦悩を理解し、怨みから許しへと向かおうとするなど、互いの相互作用に行き着く。この三つの心理的構成要素からなる複合体を、「阿闍世コンプレックス」といい、こうした深層心理を我々は家庭内暴力などの事象で日常的に体験している。

不登校と家庭内暴力はセットの場合もあれば、不登校で部屋にこもっただけの子どももある。母親にすれば、なぜ不登校?なぜ家庭内暴力?などの原因を探っても問題解決はない。娘の不登校と家庭内暴力に悩むある母親は、新興宗教関係者から、「現状は水子の霊が馮いているからであり、拝んで供養する必要がある」といわれ、信者となって子どもの登校を祈った。

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以下は母親は水子の霊についての告白である。「私は結婚する前に好きな人がいました。その人とはどうしても結婚できない関係だったのですが、妊娠してしまい結局悩んだ末に堕胎しました。その子の供養を今までしていないそんな過ちが不登校と家庭内暴力なのでしょう」と母親は言う。そうした罪の意識を宗教にすがることで自らへの救いを見出しているのだが…

阿闍世王が殺し、母親を殺そうと思い殺し得なかった罪に苦悩するように、阿闍世を高楼から生み落として殺そうとして殺せなかった罪に韋提希夫人が本当に気づいたときはすでに人生の晩年に近づいていた。そんな彼女にどのような救いの手が差し伸べられるというのか。現代において、阿闍世の苦悩を救い、韋提希夫人を悟りへと導くためにすべてを許し包むこむ仏陀釈尊とは?

どのようなものか?可能であるのか?宗教に救いを求めた母親は救われるのだろうか?信ずるものは救われるという宗教において、言葉上は信者は全員救うことになるが、供養や祈りで不登校や家庭内暴力が解決するなどあり得ない。「必ずノーベル賞を取る」と語っていた東大卒の豊田亨死刑囚は、まじめな性格が災いし、オウム教団内では次第に危険な思想に染まっていった。

豊田は教団の反社会的な側面を知った時、「我々は極めて危険なことをやろうとしているのではないか」と思ったというが、教団幹部の村井秀夫に、「危険なことはやりたくないと考え、尊師の指示に従わないのは自分の煩悩であり心の穢れである」などと言われて、疑念を封印してしまったという。教団や教義に疑問を感じたとしても、その考え自体が心の穢れと抹殺される。

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「いや、穢れてはいない。自分はまともであんたたちがオカシイ」といっても始まらない。「水子の供養と不登校と何の関係もないでしょ?あなたはもっともらしいことをいうが、気は確かですか?」などと言えないのは、救いを求めているからだ。言わなくても信じなければいいが、黙っていると信じたことにされる。もし、宗教がバカみたいと思ったなら遠慮すべきでない。

イスラム教がキリスト教を、天理教が創価学会を批判するように、宗教の本質は排他的である。だから、信者批判ではなく、宗教自体を批判・排除すればいいのであって、天に唾を吐こうが神を茶化そうが、神社の境内に小便をかけようが、災いが起こることはない。災いは現に何の罪なき人に降りかかっている。事実、麻原をバカと思った者は救われ、信じた者は死刑となった。

宗教を信じるのと親を信じるのとどこか似ている。宗教を信じるのは御利益に預かりたいからだが、親を信じるのは何だろうか?こんな母親なんか、絶対に信じられないと思った自分だが、親を信じて疑わない子は、御利益を信じるからか、それとも親だからという妄信なのか、そこは自分には分からない。問題は信じるに値する親かどうかであり、その見極めが子どもにできるかである。

「親は信じるべきなのか?」という問いに答えはない。信じてよかった、信じて心が荒んだ、そうした答えは何年か先にもたらされるからだが、そうである以上、信じるべき親かどうかの決断は、今、この場でなされなければならない。親によって正常な心を育めなかった子が何年か後に、「毒親だった」、「ヒドイ親だった」といったところで、すべては遅きに失すである。

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同じような毒親経験を持った人たちに共感したり、拠り所に自らを癒したところでどうにかなるものではない。映画『グッド・ウィルハンティング』の主人公は最後にセラピストから、「君は悪くないんだ」の言葉をかけられ、親の呪縛を解いて旅立って行く。映画はそこで終わるが、それ以後に彼が新たな自分にどう向き合って生きたのか、都合の良いところで切れる映画は便利である。

が、同じ境遇にある者、心に病を抱く者たちへの暗示にはなろう。暗示は大事である。精神科医やセラピストは病む者の呪縛を解き、暗示を与えるのが彼らの仕事である。細かく生き方をサポートする場合もあるが、逐一寄り添ってはいられない。新たな生き方に向かうのは自分である。なぜ毒親を信じたか?人は信じて拠りかかるものがあること自体が幸せだろう。

母とは何か? ⑦

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子どもにとって親は信じるべく対象であるべきか?この世に生を受けたときから自分を保護し、守ってくれた母親がまさか毒親であるなどと思わない。ただし、自我が芽生えてくると客観的な視点で親を見られるようになる。今まで保護し、守ってくれた母親はどのように子どもに映るのだろうか?自分は幼児期から今でいう虐待を受けていたが、当時は折檻と容認されていた。

折檻とは、体罰を与えて厳しく責め叱ること。古い言葉で、「打擲(ちょうちゃく)」という言い方もあるが、ヒステリー性格の母には幾度か打擲を受けた。漱石の作品に、「若しや兄がこの癇癖の嵩じた揚句、嫂(兄嫁)に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。打擲という字は折檻とか虐待とかいう字と並べて見ると忌わしい残酷な響を持っている」とある。

残酷な響きをもつ打擲を母親はなぜ子どもに科す?クラインの研究や、「阿闍世コンプレックス」を紐解けば、いずれも母親の情念であり、虐待される子どもは受け入れるしかなかった。ブログを始めて15日後、「愛を乞う人」「鬼畜」というタイトルで、自分が母親と絶縁した時のことを書いている。これらも含めて、我が人生の記録として残しておきたかったことだろう。

父親はなぜ一度もお灸を据えなかったのだろう?なぜに母親はお灸という残酷なことができるのだろう?それら一切が、「阿闍世コンプレックス」で理解できる。自分も父親だから分かるが、幼児の上に馬乗りになって、「じっとしてろ!」と脅しながら、それでも泣き叫ぶこどもの背中にモグサを置く行為など、考えられないし、それを見ても女は残酷な生き物である。

むかし、母と叔父貴が談笑するなかで、不思議と思ったことがあった。それは祖父(二人にとっては父)が、母と叔父の喧嘩の罰として、それぞれがそれぞれに灸を据え合うというものだった。親が子に灸を据えるのはわかるが、姉弟同士が灸を据え合うという行為を科したのが不思議だったが、思うに祖父は子どもに灸を据えることができなかったのではないかと…

祖父は怖くて厳しい人であったという。祖母は怒ったことにない慈母であったといい、我が子に灸を据えることなどもあり得なかった。東京の大学に進んだ次叔父が、母に書いたハガキには、「あなたは僕にとって世界一の母です」という内容に自分は奮えた。まさに絵に描いたような厳父慈母家庭だったようだ。祖母は自分にも優しく、身を挺して厳母から守ってくれた。

「阿闍世物語」を分かりやすくいえばこういうことだ。古代インドに頻婆娑羅(びんぱしゃら)という王には、韋提希(いだいけ)という妃がいた。韋提希は王子の誕生を望んでいたが、自身の容色の衰えとともに王の寵愛が薄れていくのを気にして予言者に相談する。預言者は、「森に住む仙人が3年後に亡くなり、その生まれ変わりとして子どもを身ごもる」と告げられた。

韋提希は仙人を捜し出すも3年が待ちきれず子どもを得たい一心で仙人を殺す。死に臨んで仙人は、「私は王子として生まれ変わるが、いつの日か王を殺すだろう」と言い残す。こうして生まれたのが阿闍世であるが、阿闍世は生まれるにあたって一度は殺された子であり、韋提希は阿闍世には仙人の怨念憑いているのが恐ろしくなり、生んだ阿闍世を塔楼から落としてしまう。

幸い阿闍世は死なないで生き延びるが小指を骨折したことで、「指折れ太子」と呼ばれた。青年になった阿闍世はあるとき仏陀の仏敵である提婆達多(ダイバダッタ)から、自分の出生の秘密を聞かされる。事実を知った阿闍世はそれまで憧れ、理想である母親に失望し、幻滅のあまり母親に殺意を抱くが、殺意が祟ったのか阿闍世は流注(るちゅう)という悪腫にかかる。

阿闍世は病に苦しむことになるが、病のせいで悪臭を放つ阿闍世には誰も近寄らなくなったが、献身的に看病したのは母の韋提希だった。しかし、一向に看病の効果があがらないことで、韋提希は仏陀に悩みを打ち明け救いを求めた。仏陀の教えを心に移した韋提希の看病はやがて効き目を発揮し、阿闍世の病も癒えた。その後、阿闍世は世に名君と称えられる王になる――。

大乗仏教経典の一つ『観無量寿経』には、仙人の話もあり、阿闍世が「折指」と呼ばれたことも書かれてあるが、父王を殺したのは阿闍世で、仙人の死が待ちきれずに仙人を殺したのは仏典では母の韋提希ではなく父王となっている。そこで仏典はこの奇怪な物語を解して、「未生怨」というコンセプトも提示する。これは生まれる以前から父に恨みを抱いていた者という意味。

阿闍世の物語はいつか父親を殺すことになるということがメインテーマであって、これはギリシア悲劇の『オイディプス王』の物語とほとんど変わらない。であるなら、阿闍世コンプレックスは典型的なエディプス・コンプレックスの対象なのである。故に古澤は、「阿闍世コンプレックス」の原型をエディプス・コンプレックスの別バージョンとしてフロイトに差し出したのだ。


父である頻婆娑羅も熱心な釈迦の信者であったことを考えると、釈迦の母性的な支えがあったからこそ、自らを殺した阿闍世の罪を許す態度をとれたといえよう。実は父の頻婆娑羅も阿闍世誕生の前に仙人を殺した。動機はともあれ、仙人を殺す罪を犯している。それゆえに、頻婆娑羅は阿闍世の罪を許すことができたのであろう。しかし、自らが阿闍世を救ったのではない。

阿闍世を救ったのは釈迦である。 釈迦の阿闍世に対する包み込むような暖かい態度は、まさに母親的なそれである。このように見てくると、すべてを許し暖かく見守ろうとする母性的な釈迦の懐に抱かれた中で、仙人―頻婆娑羅―阿闍世という男によるの殺し殺される円環構造ドラマが成立している。エディプスの物語は、父王ライオスを父とは知らずにエディプスは殺している。

つまり、それだけ抑圧し、潜在化した状況のなかで殺害しているのである。それに対して、阿闍世は確信的に父を殺した。エディプス・コンプレックスが父王を殺すことによって、いかに自立した完成した成人になるか、という問題で終わっているのに対し、父を殺し、成人した人間もいつかは自らの息子によって死に直面させられるという先の問題までもが阿闍世のドラマで語られている。

茨城の妻殺害・死体遺棄事件で、2歳の子どもの将来に言及したが、父が母を殺したという事実を子どもは知って生きていくべきと自分は考える。事実を知った阿闍世の苦しみのみならず、秘匿された事実というのは、不意に知るのと、事実として誠実に聞かされるのとでは大きな違いがあろう。できれば知らないままでいるにこしたことはない、というのは明らかに願望である。

母とは何か? ⑧

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もらい子の悲劇というのがある。もらい子はもはや死語、今は、養子・養女という。実の親でない養父母に甘えながら、何のわだかまりなく育ってきて、青年期になって偶然に自分がもらい子であることを知った時のショックは、目の前が真っ暗になるほどのものかと想像する。事実を知った後も親を慮って知らぬ素振りをするが、親とてまさか気づいたとは思わない。

どちらも押し黙ったままのギクシャクした日々に何の意味があろう。ならばいっそのこと事実を明らかにした方が気持ちは晴れるというものだ。血がつながっていないことの不安感や、不信感など何もないのだということを分からせるために、養父母は躊躇うことも遠慮することもなく、自信をもって子に事実を告げるべきである。それが揺るがぬ子どもへの愛情かと。

林田茂雄の本に感銘を受けたことがある。『若き日の疑問』など、三一書房から若者向けの啓発本が数冊でていた。彼の言葉の一節に、「真の愛情とは互いに一つの幸福を築きだすために傾け合う。その美しき努力の中から生まれ固まる」というような言葉があった。親子の愛情は血のつながりでおこるのではなく、喜びや悲しみもともに味わう生活のなかからおこるもの。

血は濃いというのは単に事実として、血のつながりがなくても一緒に生活をしてきたものにとって、血のつながりの有無は特段問題にならないことを我々は知ることはできる。そういうものだということは思考によっても実感できる。広い視点でいえば、師弟の愛、友人の愛、男女の愛や人と人の愛についてもいえる。若い時は大いに疑問は持ち、成長がその答えを出してくれる。

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「愛情とは何か」、「甘えとは何か」、「厳しさとは何か」、「躾とは何か」。いずれも単純な行為だが、単純であるだけに兼ね合いが難しい。これらをキチンと理解し、適宜に行為できる親がいたらそれこそスーパーマンであろう。上記の問いは節度ある子育てをする上で必須の要件だが、何が甘えで何が厳しさかをできるだけ理解できるように客観的な見方を必要とする。

そのためには教育書や精神構造に関する書籍をみるのがよかろう。『甘えの構造』という有名な本がある。精神科医で精神分析学者の土居健郎によって1971年に出版された代表的な日本人論の一つで、1950年代に学術雑誌に発表されていたが、1971年に一般書籍として出版された。著者が1950年代の米国留学時に受けたカルチャーショックをもとに日本を把握しようと試みた。

同著の「甘え」は日本人の心理と日本社会の構造を理解する重要なキーワードで、諸外国にない、「甘え」という言語にも着目した。周りの人に好かれて依存できるようにしたい、日本人特有の感情と定義し、この行動を親に要求する子どもにたとえる。また、親子関係は人間関係の理想な形で、他の人間関係においても、親子関係のような親密さを求めるべきと著者はいう。

異文化圏でカルチャーショックを受けるのはままあること。土居も第一章「甘えの着想」でこう述べている。ある時、私を指導する精神科医に些細な親切をされ、サンキューというべきところを思わず、″I am sorry″というと、怪訝な顔をされ、″whst are you sorry for?″と聞き返されて面食らった。日本語では、「ありがとう」を、「すみません」と言ったりする。

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土居がすぐに、″thank you″といえなかったのは、英語慣れしていなかったこともあるが、目上の人に対して対等な口の利き方に躊躇ったこともある。相手からすれば、「なんで謝られなければならないのか?」は当然であろう。日本人女性も、「ごめんなさい」と場違いな謝罪をすると前に書いたが、それとはまったく違ってまるで通じない、「すみません」である。

土居はまた、″Please help yourself″(自由にお使いください)、(自由にお召し上がりください)の意味を、「どうぞ御自身を助けなさい」と直訳し、なんでこのような突き放されたような表現が、親切で好意的な言い方なのかをなかなか悟ることができなかったという。さらにはR・ベネディクトの『菊と刀』を読んで、日本人とアメリカ人の心理の違いに心が掻き立てられた。

それが『甘えの構造』を著す契機になったという。土居は日本人にとって、「甘え」が何であるかを徹底的に思索した。同著は、第一章「甘えの着想」、第二章「甘えの世界」、第三章「甘えの論理」、第四章「甘えの病理」、第五章「甘えの世界」に分かれているが、どの章にも日本人として抜き差しならない、「甘え」についての考察と見解が述べられている。

記事の表題が、「母とは何か?」であるから、その辺りに限定し、「甘え」について考えてみる。土居のいうように確かに、「甘え」の語彙は日本語独特の表現であるのを以下の体験からも述べている。「恐怖症」に悩むハーフの女性患者の治療最中のことだった。彼女の母親から彼女の生い立ちについての話を聞いていたが、母親は日本語の熟達したイギリス人であった。

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話が患者の幼少時代に及んだとき、それまでは英語で話していた母親が急に日本語で、「この子はあまり甘えませんでした」と述べると、すぐにまた英語に切り替えて話し出す。土居は話が一段落したときに、「さっきなぜこの子はあまり甘えなかった」というときだけ日本語でいったのかを聞いた。彼女は少し考え、「これは英語ではいえません」と答えたという。

土居はこの経験をドラマチックなものと認識している。これ以外の日常の臨床においても、「甘え」の概念が患者の心理を理解するうえで極めて有用であることを確信したという。『甘えの構造』の「甘え」という概念は重要だが、この「甘え」という概念を日本人自ら誤解しているように思われる。例えば、「日本人は甘えん坊。だから自立できない」とか使われたりする。

「日本人は自他に甘える相互依存体質」などといわれるが、土居のいう、「甘え」とは、日本人の精神構造として特異なものであることの、「発見」から提唱されたもので、彼のいう「甘え」の概念が諸外国には類型するものがないことに気づき、そこに日本人独特の心性を求めた。日本人は他人との協調や連帯を大切にする反面、自分の行動や意見を制限するところがある。

集団的価値観にそぐわない突出した個性を押しつぶす。「他人や世間に迷惑をかけてはいけない」日本人の超自我は、主観的な基準に基づく良心としては機能するが、超越的な善悪の判断基準を持たないために、相互的に罪や誤りを許しあう寛容さ=甘えを容易に孕む。土居が『甘えの構造』を著して50年、欧米人にはないとされた「甘え」も決してないことも分かった。

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主体性や自己責任が重視される欧米社会にあって、「甘え」は深く抑圧されたものと認識されるようになった。そのことで、「甘え」は日本人の精神病理を特徴づけたものではないと、諸外国の精神分析家からも注目を浴びている。「エディプス・コンプレックス」では、子どもと親との葛藤・対立を合理的に避け、「社会人として親離れしていく」という帰結に至る。

「阿闍世コンプレックス」では、深い罪悪感の中で救いを請い、その対象との融和によって、「社会人としての救いを得る」という帰結に至る。それぞれは、「独り立ち」という精神構造と、「許しによる一体感」という精神構造の違いを表しているとの理解に立つが、日本人も西洋人も、言葉ひとつでは語れぬややこしさが人間の精神構造の中にあるのは事実であろう。

母とは何か? ⑨

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男が女を分からないように女も男が分からない。分からない同士が一緒に暮らしていく。さらに、男は父、女は母という肩書きがつけば、謎は深まるばかりとなるが、先に述べた曽野綾子の発言なども顕著な一例である。あれだけのことを雑誌上で臆面なく発せられるのは、母親の強さという以外になかろう。「母よ、あなたは強かった!」の言葉を贈っておこう。

ヤクザの強さとは、いつ死んでもいいとの肝いりからくる何をも恐れぬ強さである。曽野綾子のような著名人であれ、人が何と思おうとなりふり構わぬ母の強さであるが、子どもを溺愛するあまりにバランスの欠いた過度の愛はエゴイズムであろうから、賞賛というより皮肉を込めて言う。男親にはこれほどの盲目的な愛はどこを探してもない、血肉とかけ離れた愛情である。

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母親の子への愛は無条件であるがゆえに美しい反面、その強烈さのあまりに子どもの自立を阻む側面もある。皮肉を込めてといったように、同じ人間として崇拝できる母の愛とは思っていない。自分が強いと思う母親像は、『手巾』という芥川龍之介の短編に出てくる。「手巾(しゅきん)」と読むがハンカチのこと。ハンカチとは「handkerchief (ハンカチーフ)」の略。

kerchief」は女性が髪おさえに被る布のことで、首に巻けば「neckerchief (ネッカチーフ)」となる。以下は芥川の『手巾』のあらすじ。「アメリカ人女性を妻を持つ長谷川先生が自宅のベランダで読書をしているとき、あるご婦人が家を訪ねてくる。先生にお世話になった、「西山憲一郎の母」と名乗るご婦人は、息子が腹膜炎のために亡くなったことを報告する。

先生は、特段悲しむ素振りも見せず、涙をためて話すでもなく、声も平生どおり、口角に微笑さえ浮かべているご婦人のことを不思議に思っていた。通常なら感極まって同情を求めるような母もいないではない。ところが、ふいに団扇をテーブルの下に落とした先生が、それを拾おうとしたときに、偶然婦人の膝を見る。すると、婦人の手が激しく震えているのに気づく。以下は原文。

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感情を露わにせず、慎ましく隠そうとする強さである。「昨日が、丁度初七日でございます」というように、息子の死を実感できる年月も経っていず、他人に告げただけで悲しみに襲われる。「この婦人の態度なり、挙措なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。憲一郎の母の態度は、自分の息子の死を語つてゐるらしくない」と先生も訝しさを感じていた。

「この婦人の泣かないのを、不思議に思つてゐるのである」(原文)。とある。先生は後に妻にこのときの一部始終を話して聞かせ、「日本の女の武士道だと賞讃した」。この母は、息子のすべてを包み込むことができる。まさにユングの、「グレート・マザー」である。この度合いの強い母親ほど子どもを、「独占・束縛」する傾向にあるが、母は己の心に息子を永遠に独占する。

人間は何でできているのか?卵子と精子の合体というよりも、人間の多くは母からできているのかも知れない。親の呪縛から抜け出せない娘はいるらしい。最近観た山本文緒の『群青の夜の羽毛布』もそれだった。娘の恋人と肉体関係を持つのは男も男だが、そのことをあえて娘に告げる嫌味な母。こういう母は、娘の苦悩が刺激になるという、根が意地悪性向であろう。

娘を愚弄する意地汚い母。女も分からぬが、それ以上に母なるものはもっと分からない。理解不可能な、「母なるもの」の例として以下の情景を挙げてみる。「ママ友の娘がブスすぎでジロジロ見ちゃった。ブサイク旦那に似て豚鼻、糸のように細い目、デブ体型をジロジロ見ちゃった。ママ友の娘は怖がって帰るー!帰るー!って泣いてた(笑)」。これは実際の投稿である。

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よくも平然とこういう物言い(投稿)ができるものかと呆れを通り越す。このような嫌味な悪口をいい合う女の日常会話は、ともすれば男の前でもいったりするようだ。もし、自分の前でこのようなことをいえば、「つまらんことをいう女だ。口でも縫っとけよ!」くらいはいいそうだが、それも若いころのこと。今なら顔を見るのもうんざりとさっさと立ち去る。

人を口汚く罵る女の悪口言葉の才能は男にとって驚きである。相手を口撃する言葉を本能的に生み出す素質というしかない。昔はなかった言葉に、「ワンオペ育児」というのがある。ワンオペレーションが語源で、ファストフード店やコンビニエンスストアなどで一人勤務という過酷な労働環境を指す言葉。仕事・家事・育児のすべてをひとりで回せば母親に負担がかかる。

夫が非協力的でワンオペを強いられる場合と、我が子を自分だけが占有したい場合とある。後者のような母は、「私の子に手を出さないで」という気持ちに満ちている。子どもを生み育てることは、その子の健康と幸福を目的とすべきであって、親の何かの目的を実現するため道具ではないが、そういう母親の存在がある。子に勉強を強いたり、ステージママも同類の語源か。

こういう場合、夫は蚊帳の外で黙ってみている場合が多い。その家庭の問題だから善悪を他人が言ってもしかたないが、あまりに子どもへの思い入れが強いと、つい夫不在感を夫にさえ抱かせてしまう。夫を孤立させるだけでなく、子どもに夫のつまらなさやダメ加減を吹き込む典型的な悪妻もいる。自分の母は、父親の悪口を自分に言うことで、自分を取り込もうとした。

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男にはあまりない女性的なものを感じる。例えば、A子とB子が仲良しで、B子はC子とも仲が良い。それが不満なA子はB子を独占するために、C子とB子の仲を裂こうとする。そのためにC子のあらぬことや悪口をいう。結構耳にした話で相談も受けたこともあったが、A子が強引な性格の子だったら、「C子と私とどっちをとるの!」などと露骨に言ってきたりする。

男からすれば、よくもこんな羞恥なことが言えるものかと笑ってしまう状況だ。「こんなときどうしたらいい?」と問われても、バカバカしいと思うなら本人が解決するしかなかろう。「女は面倒臭いよ」という女性も少なくない。男にも似たようなことをやんわりいう奴もいるにはいるが、意図の醜さ丸出しである。「誰と付き合おうが勝手だろ?」とハッキリ言えるのが男の世界観。

「そんなくだらん事を言うな!」と水を差す意味もある。母親が子どもに入れ込むのはいいとして、だからといって夫をないがしろにしたり、尊敬も愛情も持たない母親は、何らかの点で子どもを傷つけるというが、父の悪口が日課だった母に対し、傷つくどころか母を見下していた。女性のヒステリーは夫や子どもに対し、順調な愛情を持てている場合は発症しないという。

「悪口をいったら嫌われる」。そのことを知る女性はいる。「愚痴をいうと嫌われる」など言う女性もいる。それでも悪口をいい、愚痴を言うのが女性のようだ。人前で公言したことは、口先まで出かかっていても止める…、という理性が感情に押し殺されるのか、一言に対する認識度が甘いのか、それらも女性の分からぬところ。は男社会にあって、「男の一言」は重い。

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父とは何か? ①

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父について書こうと思うが、母のときのような書きたい何かが父にはない。書くことがないではなく書きたいことがない。母と比べて書きたいほどの何かが父にないのも理由だが、父が何であるか実はよく分からない。昨今の家庭は母中心で成り立っているといわれている。他人のことはよく分からないけれども、家庭を牛耳っているのが妻であるような感じは伝わってくる。

夫や父親の権威が喪失した時代といわれて久しい。男女平等、夫婦対等が、権威的な父親を追いやったのだろうか?権威とは平等の中には存在し難いものかも知れないが、権威とは無理に作り出すものでもなく、自然にふるまう夫や父に存在するものに思える。夫婦の相性とでもいうのか、夫や父親に権威を許さない妻・母親が増えたのか、男が権威喪失した理由が分からない。

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戦後に強くなったものは、「女と靴下」などと言ったが、男が弱くなったことで必然的に女が強くなったのか、女が強くなって男が弱くなったのか、そこは謎だ。自分の男的な部分しかわからないので、男が弱くなった、女が強くなったというところも自分にとっては懐疑的である。「日本の男たちに今、何が起こっているのか?」は文献から社会学的な知識を得る必要がある。

そのあたりも含めて近年の男や、家庭の中での父親の現状と家庭内における父親の本来的な役割や、父親が子どもに与える影響力について考えてみる。「父親は一家の大黒柱」といわれた時代から一転、粗大ごみとされてしまった。本当にそういう家庭は多いのか?その前に父が何かを解明するためにはまずは自分の父が自分にとって何であったかを振り返ってみる。

思えば父は「安らぎ」であった。顔を合わせば何かとこと細かに吠えまくる母という家庭にあって、ほとんど言葉を交わすことのない父の存在感は自分の中に大きな要素を占めていた。分かりやすい例でいうなら、チワワやスピッツなどのキャンキャンうるさい小型犬と、吠えることのないシェパードやゴールデンなどの大型犬との存在感の違いといえるかも知れない。

母親がなぜあれほど子どもに密着するかは、「母とは何か?」の記事で詳しく述べたが、こうした母性原理は大人になって得る知識であって、子ども時代は口うるさい母でしかない。「母親とはこういうもの」だというのを理解し、許容する子どもなど世界のどこを探してもいないだろう。「子どもにあまりうるさいく言ってはいけない」という自覚があってもできない母。

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父は安らぎであり、救いであった。ああいう母だから父はそうしていたのか、元々そういう人だったか分からないが、両方からうるさく攻められていたなら、自分は獄舎に繋がれていたかも知れない。チワワ母にはシェパードの父が子どもを救うことになる。父のやすらぎ…、子どもへの影響力はあまりなさそうだが、父の機能的な面における重要性について言及したい。

父から何を授かりどういう影響をうけたのか。自分も父をやりはしたが、子どもにどういう父であったのかは知らない。父親より母親のことの方が分かる部分が多いのは、子どもに与える影響力という点で、比較にならぬほど母の問題点が多いからだろう。父親の権威失墜が言われて久しいが、従来の権威的な父親イメージに代わる、新しい父親像が創造されているのだろうか?

「父親なき社会」というのは本当だろうか?そういう社会であるべきなのか?もはや父親に権威は必要ないのか?父不在の家庭環境を男の体たらくとし、いい状況とは思っていない。したがって自分の理想とする父親像を書くにあたって時代錯誤的批判もあろうと、自分のブログは自身の意見の場。自分が父について何を書くのかまとまってはないが、だらだら書いてみる。

「毒親」という言葉がブームになるほど、現代の児童や青年たちの精神病理を生んだ背景に潜む社会病理(母親の病理)というものが、母の強大さからもたらされたのは間違いない。父権の弱化、父親機能の喪失といわれているこんにち、こうした現状を改善するかの国家的施策はとられなかった。旧民法下の家長制度が改まり民主的になったのは時代の進歩である。

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時代の進歩とともに問題も生まれる。少子化の原因は様々あるが、昔のような子だくさんの家庭と現代が根本的に違うのは、子どもの数の多い・少ないだけでなく、少なく生んで大事に育てようとの価値観から、母親の子どもに対する過保護・過干渉という問題が生じている。子沢山の家庭が基本の時代、親は子どもに手をかけてはいられず、兄弟間の自治も自然に芽生えた。

四人の子どもを持った自分は、そのことをハッキリと主張できる。つまり、兄弟間の自治というのを間接的な躾と考えるなら、親による直接的な躾以上に効果があったといえる。兄弟間の自治というのは、上の子を親がキチンと躾けていることで、楽ができることになる。子どもが一人、多くて二人という少子化時代の問題点は、上記した親の過保護・過干渉は否めない。

正直いえば自分は子どもが好きでなかった。理性の欠片もなく、泣き喚く子、ぐずったりゴネたり、甘ったれて何様的な態度や、親を奴隷扱いするような特権意識は許せない愚行に思えた。だから、そんなことは絶対にさせないように心掛けた。からだろう、子どものそういう場面は見たこともなかった。母親に何事かグズるときは、「お父さんに言いなさい!」で終わる。

子どもが母親にグズる場合の盾になったといえば聞こえはいいが、そうではなくて、グズる子どもが許せなかっただけのこと。グズらない子どもを作る父親が自分の理想の父親であり、理想と描いたものは実践で可能となる。何よりも大事なことは、子どもに好かれたい物分かりのいいお父さんには批判的で、それがグズらない子どもを作るために必要なことでもあった。

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おかげで母親はうるさくまとわりつく子どもを経験してないし、大いに楽をしたことになる。すべてのことは、「お父さんに言いなさい!」で解決がついた。家庭も最小単位の社会である以上、それぞれが好き勝手なことをしていては破綻する。当時は、「ホテル家族」という言葉が言われていた。ホテルに居住するように、それぞれが好き勝手な時間を個々で所有する。

風呂に入る時間もまちまち、食事も家族揃ってではなくバラバラ、リビングに集まっての団欒もなく、各々が自室で好き勝手に過ごす。果たしてこれを家族というのか?なぜにそうなるのかを、「ホテル家族」の実践家庭に聞いて、「なるほど」と実感した。ようするに子どもたちが、「〇〇しなければ…」などの意識や切迫感がない。親が躾けなかったからである。

家族が順繰りてきぱき入浴すれば自然と習慣になる。父が入り、子どもが順番に入って最後に母が入る。時間制限はないが、お湯が冷めない原則に従えば、自然と行為されること。ところが「ホテル家族」の家庭では、「お風呂にはいりなさ~い」と子どもに命じても入らない。「後で入る」の我がままを許せば、その子は夜中に入ったりする。湯が冷めても関係ない。

最近の浴槽は追い炊きができ、親も躾が緩くなるのか?時代が便利になって躾も合理性に負けてしまうが、これは親のだらけでもある。シャワーだけであろうが、追い炊きであろうが、生活習慣というのは親が誘導的に決定できるが、それをやらないから、「ホテル家族」に陥る。決まりというのは、何も厳しいことではなく、慣れてしまえばそれが生活習慣となる。

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子どもの躾は几帳面な親だからやれる。何より親がキチンとやることだ。食事も全員が食卓に着かなければ始めないようにすればよい。家族はバラバラであるより、まとまりが必要となる。すべては親の意識の問題だ。長女が修学旅行で食卓にいなかったとき、「なんか変…」と次女がいったが、同じように皆が感じていたことだった。慣習とはそういうものかも知れない。

父とは何か? ②

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武士社会は父親という存在が家庭の中で最も重要づけられていた時代であった。時代劇映画を見ながらなぜか美しいと感じていた。これは遥か昔のことなのか?封建時代が明治維新で終わり、近代においても第二次大戦で敗北するまでの日本社会においても、家長として父親は、慣習的にも法的な面においても、大きな権限を家庭の中でふるっていたのはつい80年前のこと。

家長としての父親の権威は日本の場合、社会における一つの単位としての家を担っていく者に与えられていた。つまり、社会の最小単位としての家と密接に結びついていたことになる。戦争に負て以降、父親が権威を失い続けている間、母親は家庭の中で権威を確立していたのだろうか。父親が失ったものを母親が得てきたのではなく、母親自身も心もとない不安にあった時代であろう。


フロイトが、「エディプス・コンプレックス」という考えを明らかにしたのは1900年で、その卓越した理論は、以後の深層心理学の領域のみならず、様々な分野に影響を与えたものの、精神分析学において父親は何がしか否定的な要因として考えられているようにも見える。他方、ユングの分析心理学で常に重要な役割を振り当てられたのは、「グレートマザー」が示す母親である。

二人の巨人が奇しくも、片や父親、片や母親と方向を別にしたのは二人の宗教観の違いもあったろう。フロイトはユダヤ教徒、ユングはプロテスタント牧師の家庭に生まれた。それはともかく、ユングは父親の問題を等閑りにした訳ではなく、分析心理学派たちの仕事におって、こと親の問題に関しては、主として母親や母性に主力が注がれ続けたのは相応の理由がある。

それは母親の有する養い育む側面と、破壊的な一面という相反する二つの側面の研究に重点をおかれたからである。ユングは父親の問題を著作の様々な箇所で述べてはいるが、まとまった父親論についての記述は少ない。1909年に発表した『個人の運命における父親の意義』と題した短い論文で、四人の患者の臨床を軸に子どもに及ぼす父親の影響について述べている。

この中でユングは、「父親の背後には父親の元型が存在しており、その元型こそが父親の子どもに対する影響力の秘密である。その力というのは渡り鳥が渡りをする力のようなもので、それは鳥が自分で自ら作り出した力なのではなく、その鳥に代々伝わった力なのである」と、このように父親の元型について述べているが、一体、父親の象徴するものとは何であろう。

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父親の元型についてユングは母親と父親を対置して次のように述べている。「もっとも直接的な元型像はおそらく母である。母はあらゆる点においてもっとも近い、もっとも強力な体験で、母親として稀有の表層可能性をはらんだ、神話類型として体験される」。とし、中華思想でいう陰陽の陰を母と定義すれば、陽が父にあたるという解釈を唱えている。

ユングは父の陽的なものとして、「創始者としての父は権威であり、したがって法律であり、理性であり、自然力であり、国家である。風のように世界の中を動くもの、創造的な風の息吹であり、精神であります」と、元型としての父親を「万物を包括する神」であり、力学的な原理と説明する。抽象的だが、実際に我々の心の中で父親の元型と、どんな時に、どのように現れるのか。

さらにそれは、如何なる役割を実際に果たしているのだろうか。我々が生まれて最初に出会うのは母親であり、母親と我々は他に比べるものもない合一した状態にいた。意識が無意識と分化はしていない状態から、徐々に自我が形成される意識世界が形造られる。世界創造の神話のような過程から、光と闇を分かち、天地を分け、形のない不定の海に島を作る神が現れる。

それがユングのいう父親の元型である。しかし、父親の果たす役割がどのようなものであるかかを、誕生から死にいたる人生にわたって考察するには、あまりに大きな課題がありすぎる。「父なるもの」の難しさは、世界各国の寓話や古事記などにも現れる。誰でも知っている童話の、「浦島太郎」の物語は、『日本書記』に雄略天皇二十二年のこととして記されている。

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竜宮城に三年いた浦島が、故郷の村が恋しくなって乙姫様に別れを乞う。乙姫様が、開けてはならないと禁止をつけた玉手箱を与えて太郎を地上に帰すというものだが、村に帰った浦島は竜宮の三日が陸では三百年であったことを知り、乙姫様恋しさに禁止の玉手箱を開けてしまう。乙姫様や竜宮城、海の中の国という女の原理に支配された世界とあまりに結び付いた浦島太郎。

この話には『古事記』の日子穂穂出見命の物語で見られる、主人公と向う側の世界の支配者、即ち元型的な父親との交流が一切存在しない。日子穂穂出見命の物語は、別の名を『海幸彦・山幸彦の物語』として知られ、明治の画家・青木繁の絵も有名だ。山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)の物語。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けた。

ところが兄に借りた釣針を失くして困り果てていた所、塩椎神に教えられて小舟に乗り、「綿津見神宮」に赴く。海神(大綿津見神)に歓迎された山幸彦は娘の豊玉姫と結婚し、楽しく暮らすうち既に三年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と霊力のある玉、「潮盈珠」と、「潮乾珠」を貰い、それを使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせた。

ことごとく海神の教えを守った結果、山幸彦は兄を貧しくしてしまう。幾度か兄は弟に攻め寄るが惨敗してしまい、「わたしは今後、あなた様の昼夜の護衛兵となってお仕え申し上げましょう」と兄にいわせるにいたる。こうした自己実現の社会的側面の成就の過程に、元型的な父親が重要な役割を果たしている。父はまさに神であり、法であり、理性であり、自然力である。

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いくつかの神話や昔話の中心に据えられているのは、ユングのいう自己実現の過程であり、こうした自己実現の過程の中で、元型的な父親が果たす役割、父親の象徴を見る。自己実現という一人の人間の究極的な目標の中の社会的側面を象徴するものこそが父親の元型である。母親のような個別・具体的な影響ではないが、父親の象徴的意義は極めて大きい。

日本で象徴といえば天皇である。国家元首ではないが、象徴としての天皇の存在意義は大きい。父である自分が我が子に対してどういう意義があり、存在感があったかを知ることはできない。しかし、亡き父について回想すれば、自分の人生においてこれまで出会った誰よりも、存在感や存在意義を実感する。その意味でも父は象徴的なものだったといえよう。

親族旅行

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旅行とは旅に行くと書くが、旅の分類にはさまざまある。なぜなら旅とは、「定まった地を離れて、ひととき他の土地(場所)へゆくこと。大辞泉には、「住んでいる所を離れて、よその土地を訪れること」とある。旅の歴史を遡れば、人類は狩猟採集時代から食糧を得るために旅をしていた。農耕が行われる時代になった後も、すべての人々が定住していたわけではない。

猟人、山人、漁師などは食糧採集のための旅を行っていた。 その後、宗教的な目的の旅がさかんに行われた時代があり、ヨーロッパでは4世紀ころには巡礼が始まり、日本でも観音信仰が盛んになった平安時代中期には、修験道や僧たちの修行としてはじまった。巡礼を一言でいえば自分自身をみつめ、再発見し、救済し、蘇生する旅といえる。巡礼には心得というものがある。

  ①不殺生(ふせっしょう)生き物を殺さない
  ②不偸盗(ふちゅうとう)盗みをしない
  ③不邪淫(ふじゃいん)邪淫しない
  ④不妄語(ふもうご)うそを言わない
  ⑤不綺語(ふきご)ことばを飾り立てない
  ⑥不悪口(ふあっこう)人の悪口をいわない
  ⑦不両舌(ふりょうぜつ)二枚舌をつかわない
  ⑧不繿貧(ふけんどん)貪欲であってはいけない
  ⑨不瞋恚(ふしんい)怒らない
  ⑩不邪見(ふじゃけん)誤った考え方をしない

上記は四国遍路における守るべき、「十善戒」というもの。宗教的素養のない自分にとって巡礼は無縁であり、「十善戒」なるものも初めて知った。①不殺生とあるが、蚊に食われても追い払うだけで殺してはいけないのだろうか。四国出身者で巡礼コースに居住していた知人がいうには、巡礼者を見かけると戸締りをし、居留守を使って立ち去るのを待ったという。

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「お遍路さんは迷惑?」と聞くと、「乞食遍路はね」という。「乞食遍路」とは、他人の善意やお接待を当てにする「心さもしい遍路」を指す。受けた接待を自慢げにブログに載せたり、遍路修業とはほど遠い。似非遍路には、「口毒遍路」(功徳を積む振りをし、道中で宿の悪口や寺院への不満、少しばかりの知識を振りかざすなど「周囲に口毒を撒き散らす遍路」)。

「無謀遍路」(気合だけで遍路を始める人で、準備も知識も不十分、軽率で周囲に心配を押しつけるタイプの遍路)。「Walker」(お遍路の装束も身に着けず、自分の都合で勝手にウォーキングしている方々)などがあるようだ。長い道中であるがゆえに、国内で最も安全な四国島内であっても、逆遍路側にとって、物乞い、たかり、付きまといなど、不快な場面に遭遇することもある。  

知識も何もない我々に比べて地元の人たちはこういうことを知っており、本物の遍路と似非遍路の見分けも付きにくいことから、関わらぬようにとも用心も分かる気もする。何処にも彼処にも色んな人間がいる世の中である。今回の親族旅行も車3台を繰り出し、大人9名、小人5名の大人数で、広島から高速と普通道を利用して2時間、「神石高原ティアルガルテン」が目的地。

「定まった地を離れて、ひととき他の土地(場所)へ行くこと」も旅なら旅行といえる。福山在の三女が企画した。名前も場所も初耳で、行けば行ったで、こんなところもあるのかである。標高700mの高原で辺りは緑一色のキャンプ地であるが、このクソ暑いのにコテージに冷房がないのに驚いたが、さらに驚いたのが朝夕の冷え冷え感で、厚めの布団をかけて寝ても風邪をひきそうだった。

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な、なんと気温は25度である。エアコン設定温度よりも低く、大人も小人も長袖は持参をしていず、「寒いから」との理由で花火をしなかったというように、それほどの気温であった。毎年8月には、「真夏の雪まつり」という人工雪を積もらせるイベントがあり、本年は4日、5日に行われたようだが、当日予約はかなり前から埋まっており、我々は7日、8日の宿泊だった。

「体が動けるときにできるだけ子どもたちと旅をしたい」という妻の発案から、恒例となった家族・親族旅行も、回を重ねている。自分は出不精だから遠距離に出回ったり、動いたりが好きではなく、助手席に乗っているだけでも気が進まない性向だが、こういうことも一生の一ページになるのだろう。なぜ旅行嫌いなのかを自分で上手く説明できない。

おそらく、定まった場所にじっとしていても、することに事欠かないのではないか?どこにも出かけないでも、退屈するなどあり得ない。趣味が旅行という人はアクティブ、読書や音楽鑑賞という人は非アクティブと分類できるのかも…。自分は、「趣味は思考(思索というほどでもない)」と冗談交じりに本気でいうくらいだから、じっとしていることに何の苦痛もない。

だからか、親族旅行の日取りを聞かされるときは仕方がなく従うというのが正直なところ。出不精人間の典型と我ながらに思う。昔は、「パジャマ党」といったものだ。一緒に出掛けて街でも歩きたいという彼女には、こういう彼氏で悪かったとは思う。新婚旅行ですら観光なしのフリープランでどこにも行かなかった。自分の徹底出不精を最も知るのが妻である。

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「身体が動けるうちは子どもや孫たちと…」という妻の言葉は、「何でそういうことをしたいんだ?」という自分の問いの答えである。大人数で自分が楽しいことといえば、「輪投げ」と「七並べ」で、輪投げは2万、1万、0.5万の賞金、7並べは1回200円の出資で6名で行った。ビリのみ100円追加で一位が総取りなので、勝てば1300円ゲット。自分は4度1位であった。

これを見ても、思考ゲームが好きなのが分かる。2時間のウォーキングより、遠距離の旅の方が何倍も疲れるのはどうしたことか。寺山修司が、『書を捨てよ 町へ出よう』という評論集を出版したのが1967年だった。これは寺山が、大学に入って病気になり、療養生活のあと快方に向かった頃に生きる「実感」を求めて読書三昧の生活から遠ざかろうと思いはじめた。

そしてそこには、それまでの豊富な読書体験から得たモデルがあった。それはアンドレ・ジッドの紀行的詩文集『地の糧』で、「書を捨てよ、町へ出よう」とは、そこに出てくる言葉なのである。果たして寺山はそれを実践したかのようで、実はその後も猛烈なる読書家であったのは、単に自身へのアンチテーゼであったということだ。「書を捨てる」という生の実在感は一行動であった。

イメージ 5本のタイトルの意味は終わりの方で、上記のよう明かされている。「書を捨てる」もいいが、「書を読む」必要もある。「町へ出る」のもいいが、出た後も「書を読む」時間はある。書を読み、体験を積むことで、旺盛な好奇心を絶やすことなく全人格的な成長を図るべきであろう。何がよく何がよくないというのは、個々の自己啓発法であり、鵜呑みにはしないことだ。
時代の流れに風化しない価値感を見失わないことも大事である。「反対したり論難するために読書するな、さりとて信じたり、そのまま受け入れたりのために読書するな。ただ思い考えるために読書せよ」とベーコンはいい、「読書しているときの自分の脳はすでに自分の活動場所ではない。他人の思想の戦場である」とショーペンハウエルはいった。どちらも、「なるほど」である。

「いつも馬に乗る人は歩くことを忘れる」という古語を今風にいえば、「車に乗る人は歩くことを怠る」となる。同じように、ただ読書だけで終わるなら、物知りにはなるが、自分の頭で物事を考えることを忘れ、豊かな生き生きとした心の持ち主になるには程遠い。読書も、他人の文章も、偉人の名言も、考えながら読み、聞きながら考えることが大事なのだろう。

父とは何か? ③

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煩わしいほどに存在感に満ちていた母は、存在感を出しすぎることで返って迷惑がられるものかも知れない。子どもに覆いかぶさったり、畳みかけることのなき母は、広く、深い、海のような愛情に満ちた母なのかも知れない。思うに自分の父の愛情とは、隠匿された羞恥なものだったに感じる。露骨でこれ見よがし的なものでは決してない、それが父親の遠見の愛情なのかと。

印象深い父を思いつきであげるなら、『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンかも知れない。コゼットの養父として彼女のためだけに生き、最後は自ら役目を終えて離れて行こうとする。母親の近距離的くっつく愛に比して、遠距離的で離れようとする愛であろう。物語の最後の場面は謎である。コゼットの結婚式に参列したバルジャンは、夫のマリウスを呼んでこのようにいう。

「どうか私の話を最後まで聞きなさい」。そう述べて一方的に話し始める。マリウスはただ聞くしかない。「私はコゼットの実の父ではない。私の本当の名は、ジャン・バルジャン、元囚人だ。私はパンを盗み、19年間服役し、その後、再犯で終身刑の判決を受けた。戸籍もない」。マリウスは驚き、「どういうことですか?」と問うが、「黙って聞きなさい」とあしらう。

「10年前は知りもしなかったコゼットが、今はかけがえのない存在だ。だが、私の役目はもはや終わった。コゼットを頼む。60万フランを君のおじいさまに預けてある。決して汚れた金ではない。コゼットの持参金だ。私の話はこれですべてだ。もう二度と会うことはないだろう。さとうなら」。そういってバルジャンは去っていく。バルジャンの後ろ姿にマリウスは、声高に叫ぶ。

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「なぜだ…。なぜ、話したんですか!」。マリウスの問いにバルジャンは振り向くが、何もいわず去っていく。象徴的なこの場面は何度も考えさせられた。が、そのたびに考えは二転三転し、堂々巡りになる。が、一つだけ確実に言えるのは、これが父親というものであろう。象徴的な父を具現化するとこうなる。ともかくバルジャンは自分にとって理想の父親像である。

手元に置いておきたい母の愛と異質な離す愛、離れようとする愛こそ父親であろう。「私はコゼットの父ではない」。これをコゼットの口から言わせたくない。だからバルジャンは言ったと思っている。バルジャンが言っておけば、コゼットから聞いた時の動揺は緩和されるばかりか、コゼット自身の心の負担も緩くなる。そうしたこと一切を先取りした男の愛情である。

囚人であった過去をいう必要があったのか?幾度となく考えさせられたその結論は、いう必要がある・ないとかを超えた、単に事実の提示である。人が幸せにならない事実は黙っておくべきと言ったが、幸せの尺度という相手のキャパの問題であり、バルジャンは、マリウスを大きな人間と見立て、信頼したと見る。何を言っても受け入れられる器の男という確信である。

自分もマリウスをそのように見ている。貴族の家に生まれながらも親に甘んじることもなく依存することもなく、政治的信条を抱いて国家に反逆するような青年である。バルジャンはそうしたマリウスをずっと見て知っていた。バルジャン的な生き方をした人間から見れば、立派な信条をもった青年である。危機に及んでマリウスを助けたが、マリウスはそのことを知らない。

                 バルジャンのマリウスへの告白は2:45:25あたりから…


小説でありフィクションだが、Ⅴ・ユゴーはマザコンであったことが知られている。その理由は父が軍人で家庭に不在がちであったことが原因といわれている。少年時代は疎遠であった父ジョゼフとの仲もだんだんと親密になっていく。愛する父のために、それまで疎んじてきたナポレオンを讃える詩を書いたところ、これを契機にナポレオンを次第に理解し、尊敬するようにもなる。

「父性原理」、「母性原理」というのはどういうものであろう。父性原理を端的に、切断する原理、母性原理を包み込む原理といわれる。また、寛容と許しの母性原理、規範と筋目の父性原理ともいわれる。双方はバランスをとってこそ正しく機能するが、こんんちでは、社会的・文化的にも父性原理が弱体したために、母性原理は歯止めを失って肥大化してしまった。

茨城の妻殺し夫が、母親と自宅の庭に死体遺棄というあり得ない事件が起こったのも、母性原理の肥大化現象であろう。本来ならば、息子に事実を打ち明けられた母は、夫に相談すべきである。その結果、庭に埋めることはなかったと思うが、夫にバレないように行動したというところに息子は母の物という独善がある。「夫にバレないように…」とは、やるせない時代である。

父親権威の衰退とその帰結は、父親の機能さえ奪ってしまっている。「亭主元気で留守がいい」という標語に象徴される妻の心情とは、息子を独占することであろうか?家に金は入れても、子どもに口出ししないで欲しいということなのか?そうであるなら、母親は子どもを社会的な人間にすべく何をやろうとしているのか?子どもの社会化には父親の機能は必要である。

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詳しくいえば、社会構造と個人を仲介する役割としての父親の存在であり、そのことでいうなら、子どもを社会構造に適合するように、教育・指導をし、社会に送り出すといういわゆる社会化としての人間育成に役割を担うのが父親である。父親の機能などというのは、ほとんどがそこに集約されているのではないか。父親がそれ以外に子どもに何かやることがあるのか?と自分は考える。

意識したこともない父親の機能だが、確かに無意識で行ったことといえば、子どもが母親に甘えて入り浸ることを抑止することが任務と意識していたのかも知れない。子どもは母に甘え、母自身も子どもに甘える。つまり母親は子どもに甘えさせていることで実は子どもに甘えているのだろう。それを制止するのが父親の役目であり、家庭を統率する権威者としての任務である。

子どもが母親へ愛着を抱くのは悪いことではないが、それを阻むことも子どもが成長するための課題的なものと考えられる。いわゆる、世の中そんなに甘くないとか、すべてが自分の思い通りにならないとか、そういう役目は父親にはうってつけでなかろうか。もっとも、子どもべったりの甘い父であっては、それこそ父親としての機能障害である。父は法でなければならない。

子どもは親の監視下において、すべきこととしてはならないことの区別を明確に学習しなければならないが、それは母親には荷が重い。父親こそ子どもに理性的判断による命令を与える、超自我として機能せねばならない。それで子どもが父親に尊敬の念を抱く場合もあるが、不快な服従を強いられることで、不安や敵意を感じることもある。これがエディプスコンプレックス。

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父とは何か? ④

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子どもの攻撃対象は母親より父親であるべきで、古来より「厳父慈母」の在り方は、役割分担としての父・母である。誰に指導されたわけでもないが、子どもにとって超自我的な存在としての父親を自分は演じていた。ダメ人間の自分は理想的な父親を演じる以外にないという自覚があったのが幸いした。役者としての能力が問われることにはなるが、相手は子どもである。

ライオンの父と母がそのような役割分担をしているかどうか分からないが、そうした明確な区別を子育てに活用しているなら、それは演技ではなく本能であろう。残念なことの本能が壊れた人間にとって、子どもの攻撃対象を母親から父親に集中させるための象徴的な焦点として父親は、考えて実行しなけれなできるものではない。本能の壊れているなら思考でやればよい。

そのような子どもが攻撃性を向ける対象を分離する方式は、人類に与えられた見事なる工夫といってよかろう。子どもに、「パパとママとどっちが好き?」そんなことは母親に言わせておけばいいのであって、父親が子どもを母親と奪い合うなどはあまりの幼稚な親父である。そんなでは威厳も失墜するどころか、「友達父さん」なるインポテンツな父親である。

様々な父親像があろうから、自分の理想とする男性的権威としての父親機能を活用を背景にした父親としての任務・役割に批判はあろう。あってもなくとも、自分はこのようにやる。母親を中心とした家庭にあって、オブザーバ的な父親機能は、最初から作らない。世間だどうであれ、昨今の父親がかつてのように社会統制の担い手としての役割を期待されていないことが問題である。

日本が学歴社会を信仰原理とするのは社会病理でしかない。これが一向に解消できないのは、国家の無策と急成長した受験産業と文科省の利害に基づく太いパイプがあるからだ。さらには父親の人格的権威の衰退に加え、非人格的な組織的な職業的権威の増大という温床も背景に見え隠れする。「お父さんのようになったらダメでしょ?」と父親を貶す母親はいるのだろう。

「お父さんのようにならないためにしっかり勉強しなさい」と子どもに伝える母(妻)を、作ったのは誰だろうか?子どもに向かって、「お母さんのようなバカ女になってはダメだよ」などという思慮無き父親はおそらくいない。「妻は元気で留守がいい」などの標語も聞いたことがない。何故、父親ばかりがそこまで愚弄されなければならないのか?その理由は分かっている。

女がのさばり、思慮無き女性たちが世に蔓延した。こういう言葉を口にして楽しむバカ女を傾国の愚妻という。自分の選んだ伴侶をボロカスいうのは、選んだ自分をボロカスいうのと同じであることに気づかない。人の存在自体を美しいとせず、学歴・職業差別で父親の威厳を摘み取る妻は子どもを傷つける。自由・平等は間違ってはないが、箍が切れた女性こそ困りもの。

てなことを書いてはいるが、世直し奉行を気取るつもりもないし、社会という大きなうねりの中で何かを変えようなどは幻想である。ブログの基本は自己主張であるが、自己主張を上目線と批判する人は、世の中を常に下から眺めていればよかろう。一家言とは、世の中の毒をあぶりだすことかも知れない。親の毒、男の毒、女の毒、それら一切が社会の毒、人間の毒であろう。

「毒をもって毒を制す」というが、この慣用句は好きではないのは、悪に対して別の悪で対抗する、悪人に対抗するために他の悪人を用いることが短絡的にみえるからだろう。ヤクザが、銀行や企業などで雇われていた時代があった。毒には毒の彼らは、必要悪といわれていた。「毒をもって毒を制す」が嫌なら毒に何で対抗する?いろいろあるが、毒だけは避けたい。

身近な、「毒」はいろいろある。例えば、「毒親」に毒で対抗できるのか?はて、毒親に対抗する毒とは何であるか?あるなしも含めて自分には思いつかない。かつて毒親にどう対抗したかを上手く言葉では言えないが、人の力を借りることはなかった。自分が依存を嫌うのは自力を信じるからで、それを自信という。とにもかくにも自分を信じる。上手くいこうがいくまいが自分を信じる。

人に頼んで上手くいくはずはないと信じる。その精神が自力を育てていく。将棋をやっていて思うのは、すべてのことが自己責任である。ミスも含めて言い訳の利かない世界ゆえか、何処にも言っていくところがないのは楽なことでもある。言い訳など考える必要のない世界に身を置いている。「往生際の悪い奴」というが、往生際が悪くて、往生するわけがない。

往生には単に死ぬという意味もあるが、死刑執行の際に大暴れするのも無駄な抵抗だが、暴れて10分寿命を延ばしたいのも人間か。自分の命を見切るというのは大変だが大事なことだ。万策は尽くすべきだが、「万策尽きた」と感じたら、此の世に名残りを惜しむよりも自然の摂理に従うべきである。あの世を信じない自分だが、その時は父の元に召されたいと願う。

死とはこの世に生を受けたことへの感謝の集大成である。誰もが死ぬわけだから、如何に生きたかが大事となる。出世や成功でもなく過ちを犯さなかったことでもない。過ちは誰もが犯すのだから仕方がない。大事なことは、自分が犯した過ちのために柔軟にして強靭な心を失うことだ。暗い所にいても絶えず太陽の方に向いて伸びていく向日葵にように居れたらいい。

「修証一如」という禅の言葉がある。どこかの額か掛け軸で見たのが最初と記憶するが、長い間意味を知らないでいた。いや、知ろうとしなかった。いつだったか知ったときは一つ知識が増えたと感じた。経の最初は、「如是」の言葉で始まるが、仏教とは結果を示したもの。「如是我聞」という言葉は太宰の評論にタイトルで知った。「修証は一つである」は本当か。

修行は悟りのための手段ではない。修行と悟りは不可分で一体のものだと道元はいう。我々は悟りを開くために修行する。試験に合格するために勉強するように、目的をもって邁進するのがいいと言われる。ならば、熱心に修行を重ねていた僧が悟りを開かぬうちに死去した場合、それまでの僧の一生は無駄なのか?勉学に専念しても大学の試験に落ちたら勉強は無駄だったのか?

林竹二もこう述べる。「何等か目的のための勉強ではなく、勉強のための勉強であるべき」と。これは、「坐禅は坐禅なり」と同じことで、「何のために坐禅をするのか?」という問いの答えである。目的が適えられなった場合、やったことのすべてが無意味というのはどこかおかしい。受験勉強を努力というが、受かれば必要のない勉強を強いる社会こそが問題である。
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