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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    あまり興味はが社会の事象という事で…。早見優のブログは「yu hayami official blog」だが、松本伊代のブログタイトルは、『天使のバカ』。インパクトのあるタイトルで自虐を込めてかと思いきや、1986年にリリースされた彼女のアルバムのタイトルであるらしい。線路侵入写真は1月14日のブログの投稿だが、11日に伊代が12日には優がいずれも涙を流して謝罪。

    1か月も前のことでも、ちゃんと涙謝罪ができる二人である。深刻な顔に言葉、さらには涙付というなら、本当に反省しているように世間は思うだろうし、そういうものかも知れない。直後の謝罪はともかく、日を経過しての謝罪というのは、強いられた場合が多く、本心からの主体性に富む真摯な謝罪と思わない。確かに謝罪くらいは誰でもできる、難しくもない。

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    「すぐに謝ること」これが価値ある謝罪であろう。謝罪する人の素直な心を現わしていることにもなるし、本当に誠実な謝罪であるかは見ている側にはわかるものだ。インチキは白々しいものやワザとらしいことを嫌う自分は、それに類することを自身が許さない。謝罪の安売りは先ずすることはないし、誠心誠意、真心のこもった謝罪以外はしたくない。

    自分が謝罪する時、事の度合いにもよるが、少々では許してもらえない、また許されようなどの思いあがった気持ちもなく、一身を投じて誠実に謝罪をする。なぜなら、多くの謝罪が偽善であることを知っているからで、そのような謝罪は羞恥心さえ湧き起こる。人間は汚いもので、許しを乞うという偽善を平気で行い、人々に自分の存在を認めてもらおうとする。

    調子よく立ち回り、他人にペコペコして、何の主張もせず、取り入られることだけしか頭にないような男が、彼の腹の中に実際に立ち入って見れば、ひどく傲慢であったりする。ペコペコしているのは芝居だからやれるのだという。「あんなバカ社長に本心で頭下げられるわけないだろう?」。こういう人間と心を開きあった人間関係が樹立するとはとても思えなう。

    謙虚でに見えて実は傲慢というのも結構当たっている。つまり、自分が傲慢であることを隠して立ち回り、相手に好かれようとする方策として謙虚な態度を見せ、いい人だと思わせたりする。誰かれなく見境なく謝ったりするなどし、相手に受け入れられる形で生きのびようとする。これが謝罪の本質で、強いということは決して謝ったりしないことだ。

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    怒る側(相手)は、自分を抹殺したいという思いに駆られているハズだから、そのことをどれだけ考えられるかという事もせず、早々に詫びることで相手のその憎悪心を和らげようとする。それによって自分が存在していいか否か、認めてもらおうというのは弱者の偽善である。嘘っぱちな謝罪を見聞きし、真に罪を悔いいることは決して謝ることではないと知った。

    相手の憎しみや怒りと対峙して生きて行くことではないか、そういう考えに至った。自分は子どもの頃から、言い訳が好きではなかった。言い分があって黙っていて、「黙っててはダメだろ?思うことがあればいいなさい」と言われた時に、それを言うと、「そんなのは屁理屈」と言われたときに、非常に不信感を抱いたことがあった。矛盾しているようだがそうではない。

    何かを言わせてさらに強く叱ろうとする、そのために、「何でもいいなさい」で、この嘘には二度と引っかかりたくはなかった。自分を理解してくれる人は、黙って静観する父親以外にいなかった。ほとんどの教師とは敵対していた。理由は、つまらん命令なんか聞こうとしなかったからだ。彫刻刀で人を刺したという汚名がついたときの自分の精神は完全に孤立した。

    刃のない金属の部分で頭をおふざけでコツンとやっただけが、知恵遅れのMが、「彫刻刀で刺されたーーー!」と大泣きしたのには自分も驚いた。あの時の学校と教師の対応というのは、信じられないくらいに弱者に向いていた。泣いたもんが勝ちとして言いようがない。痛くも痒くもない行為であったが、怖い補導教師に呼ばれ、「監獄にいくか!」とまでいわれた。

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    学校はおかしなところである。皆が寄って集って生徒一人をいじめるような気さえした。1クラス50人で6~7学級、2000人近い生徒を管理するのも大変だったと思うが、あの一件はあまりに無慈悲で、孤立感を深めることになる。無理な謝罪も多く強いられたし、「悪い事をしたら謝る」、それが教育の神髄みたいに錯覚していた当時のうすっぺらな無能教師たち。

    自分はよくグレなかったかと不思議に思うことがある。おそらく、親より自分、教師より自分が正しいと思っていたのかも知れない。どれだけ親がバカだと思えることをみたか、教師がバカだと思えることを経験したか、それでそうなったのかも知れない。今月6日、愛知県一宮市の中3男子が、担任の教師への不信感を記したメモを残して飛び降り自殺した。

    男子生徒の遺書には、「担任教師に私の人生全てを壊された」などの内容が記されていた。他人が死ぬ理由は、その人だけのものだから致し方ないが、「教師にいじめられた」みたいな話は、絶対あってはいけないことだが、教師とあうあわないも含めありがちなこと。この程度の事で命を落とすなんて、近年の子どもは雨風凌ぐ温室の中で育つのだろうか?

    「死ぬ理由は死ぬ個人のもの」と言っては見たもののやるせない感が強い。済んでしまったことは仕方がないので、子どもたちのこうした事態を防止するための今後の最善策は、やはり子どもに対する親の向き合い方であろう。名古屋地区は教育志向が強く、中3生が受験シーズン最中にかけがえのない命を落としたことは、同じ学年の孫を持つ身としていたたまれない。

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    そういえば1月下旬、自分も孫の事で学校に電話をした。孫は部活推薦の専願で私立高校を希望している。今年から初めての留学生を入学させるなど、バスケ部を強化指定として力をいれることでコーチから校長に推薦があった。それで安心してか、勉強しなくなったと、授業中に居眠りしてるとか、担任から母親に連絡があり、生活態度の面で推薦が危ういという。

    「居眠りや試験の点が悪くて推薦が危ういからと、公立の願書を書いた方がいい」と担任が言ってると母親は孫を威圧する。孫は、推薦で行きたいと涙目だ。この場に及んで母親というのは、下種な言い方をするものだなと腹が立った。その程度の事で推薦を取り消されるとも思わないが、教師がそんなことをいうものなのか?それとも母親の一人芝居なのか?

    確かめるために頃を見計らい、学校への担任に電話をする。結果的に専願推薦の生徒にで公立の願書を書いた方がいいなどいうハズもなく、母親の作り話と分かったが、祖父が電話を入れたことの口止めはしておく。孫には、「お母さんは頭に血が昇ったら何を言うか分からないので聞き流せ」と指示しておいた。母親と子どもの喧嘩を見てると思慮の無さに腹が立つ。

    孫の言い分も分かる。「お母さんは、部活推薦で私立に行けるくらい頑張ったら、受験勉強頑張る必要もないと言ってたくせに、それでも勉強しなさいとかうるさい。言ってることがコロコロ変わるし…」。これが男の子の女親の見方だなと、昔を思い出す。昨日の言い分と今日が違い、1時間前と今が違い、5分前と今が違う事も珍しくない。女の脳はただの糠ミソか?

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    一度口にしたことを変えると笑われる、相手にされなくなる、という世界ではないようだ。「昨日はああいったじゃないか?」といえば、「そんなこと言ってない」と、これが一番腹が立つ。言った事を言ってない、言ってないことを言った…、言葉を持つ人間の難しさであろう。こういう場合、自分は押し問答を止め、「そんなんでは話にならん」と話を止める。

    この種の人間は、「自分は悪くない」という防衛機制が強すぎるゆえに、自分を守るより先に、「相手の悪さを指摘できれば自分を良くみせれる」という考えにある。だから、攻撃ばかり加えるのだ。自分の非を認めようとしない不誠実人間にかかわらないこと以外に防御はない。以下の相談に対し、「そんな人はどこにでもいる」との回答が多く、それが人間社会。

    自分が言ったにもかかわらず悪者になりたくないから人のせいにする。こういう人間に何を言ってみても無駄である。したがって、傾向が現れたら口を閉ざし、相手にしない。社会がどのようなもので成り立ち、そんな社会にどういう人間がうごめいているかを早く分かることだ。社会を知り、人間を知ることで(自分の)生き方を知る。分からないと悩み苦しむばかり。

    必要以上に他人にかかわらず、他人を自分に必要以上にかかわらせない。他人の事は他人が処理し、自分のことは自分で処理する。淋しさにかまけて他人を求めれば、他人もまた自分を充てにする。ここに、いやいやながら何かをする、しなければならなくなったという問題が起こる。ロビンソン・クルーソーは孤島で28年間も過ごさなければならなかった。

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    今は孤独とはいっても、書物もあり、様々なメディア媒体の中で、本当の孤独というのはあまりもかけ離れている。人間関係のみの孤独を「孤独」と言っているようだが、決して孤独でないのは自明の理。クルーソーのように、自給自足の生活こそ本当の孤独であり、望むべくもなければ誰もそこまでは望むまい。煩わしいことを下げて免疫を高めるのが健康第一。


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    上のふたつの行為はモットーという訳ではないが、あまりそうならないよう生きている。「あくせく」は普通に使う言葉だが、これも正確な意味を知らない言葉で、語源を想像しても思いつかない。調べてみると何と、「あくせく(齷齪)」という漢字があるのを始めて知った。見たこともない漢字であった。どちらも、「歯偏」のオモシロイ字なので、興味が沸いた。

    ぱっと見、「齟齬(そご)」に似ており、こちらも歯偏である。一体、「歯偏」とはなんであるか?「齟齬」は随分前に調べたことがある。「物事が嚙み合わない」の意味だから「歯偏」がぴったんこ。ならば、「齷齪」と、「歯」の関係は?いきなり辞書を調べるのも癪にさわるので、字とにらめっこしながら数分考えたが、全くお手上げで、皆目見当もつかなかった。

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    とても浮かびそうになく遂に降参!語源の由来は、漢語の「齷齪(あくさく)」の音変化した言葉で、「あくせき」、「あくせい」などの言葉も生じた。「あくさく」、「あくせい」の音変化は、「急く(せく)」からの類推と思われるが、漢語の、「齷齪」の本来の意味は、歯と歯の間が狭いことで、それが心の狭さを意味し、最後は「気ぜわしく」するさまを言い表すようになる。

    よって、「あくせく」とは目先のことにとらわれて、こせこせ気ぜわしくするさま。心の狭いさま。という意味。この二つの言葉が嫌いになったのは、おそらくバーゲンセールの会場などの光景かなと…。買い物はゆったりと落ち着いて行いたいが、「あくせく」、「ガツガツ」状態と言えばそのまんまだ。ちなみに、「ガツガツ」の正確な意味も調べてみた。

    1. 飢えてむやみに食物を欲しがるさま。また、むさぼり食うさま。「のら犬のようにがつがつしている」「そんなにがつがつ(と)食うな」

    2. むやみに欲ばるさま。また、欲ばってある事に励むさま。「金にがつがつ(と)する」「がつがつ(と)勉強する」

    バーゲン会場であのようになる人たちは、上のような言葉を知らないか、もしくは知ったところで、「それが何よ!」、「カンケーない」なのかも知れない。バーゲン会場の代名詞は女性だが、男どももあんな状態になるのか?見たこともないので、画像を探すことにした。検索ワードは、「バーゲンセール会場」である。実写もイラストも女性ばかりで男はいない。

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    なぜだろう?自分と同じように、「あくせく」、「ガツガツ」あるいは、「あさましい」、「みっともない」状態を男は好まないのか?自分に当て嵌めると、あまりにみっともないないからやらない。状態は好まないが、「そんなの気にしてられない」というのは、気にしたことにはならない。頭で無様と思うから、「やらない」のと、頭で分かっていても「やる」の違いは何?

    理性より欲求(欲望)が勝利するからであろう。虚栄心というのは面白いモノで、人は誰でも他人の虚栄心を笑うことはできる。が、自分の虚栄心を笑う程の心の余裕を持ち合わせてはいない。虚栄心にもいろいろある。サガンは、「笑いながら自分の勝利、成功、栄光などを語る人」をたちの悪い虚栄心と指摘したが、人の心の奥深くには切実な虚栄心が宿っている。

    背の低い男がスラリ背の高い男を羨むからと言って、それを虚栄心と非難できるだろうか?三流大をでた人が、「大学はどちら?」と聞かれて口ごもるのを虚栄心と責められようか?答えた途端、相手の自分への意識が変わるのを怖れるのだろうが、小学校しか出ていない総理大臣は今後二度と現れることはなかろう。鳩山や菅直人が「バカ総理」と言われた。

    鳩山は、東京大学工学部計数工学科卒業後、スタンフォード大学大学院に学んだ超秀才であり、菅直人も東京工業大学理学部卒の秀才だ。彼等は研究者になったなら、学問も生きるということだが、畑違いの世界に生きて学歴だ、秀才だといっても、バカはバカでしかない。将棋連盟の三浦九段問題の際、東大法学部出身の片上常務理事は、何もできなかったと批判された。

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    「私は法学部をでているので、疑わしいというだけでの処分はすべきでない」と強く言えず、何のための法学を学んだのかと言われるとその通り。先輩理事が何を言おうと、証拠もないのに処分を科すのは間違っており、「自分の法学的主張が通らなければ、理事の資格はないので止めさせていただく」くらいの熱いものが欲しかった。誰も自己保身の事ばかり…

    三浦九段の師匠西村九段もこのように斬り捨てた。「片上大輔なんて、将棋はパッとしないけど東大法学部を出ていて、他の理事棋士よりは社会性があるだろうと思っていたが、はっきり言って中卒の私よりなかった」。いかほどの学問的の秀才であっても、社会性なくして社会人としての秀逸さはない。よく言われる、「社会性のなさ」とはどういうことか?

    「社会性」は学問では身につけられない。生まれながらにして完璧な、「社会性」を身につけてくる子どももいない。社会性は、人の能力の中でも環境の影響を大きく受ける領域で、何歳になっても、我々は自分の努力で自分の、「社会性」を変えていくことができる。社会性は乳幼児期の早い段階から育むにこしたことはないが、社会性とは具体的なにをいうのか?

    「学力」や、「運動機能・体力」といったもの以外のほとんどすべてを包括的に指し示す、便利な総称として用いられている。社会に生きるために社会性は不可欠だが、「あくせく働く」、「金にガツガツする」、ともにいいイメージはない。ガツガツはともかく、「あくせく働く」はそれほど悪いイメージに思えないが、心に余裕がない状態はいいことではない。

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    人があくせくするのは何はともあれ、目先のことに躍起になるからだろうが、ブログを始めたころ、どうすればアクセス数が増えるかを教授してくれたAさんには、悪いと思いながらアクセス向上にアクセクすることはしなかった。宣伝して回るようなことはせずとも、読んで面白い記事なら自然とアクセスは増えるだろうし、それが何よりも先決である。

    ところがあくせくな人は、自分の記事の良し悪しより、とにかく人がたくさん来ればそれで満足という短絡さである。ブログに限らず何においてもあくせくな人は、そういうところがある。じっくり、ゆったり構えているべきである。働きの虫と称された日本人も、ここにいたって最は、「あくせく働くのは辞めた方がいい」という考え方増えてきているようだ。

    考えの自由度が広がり、それまで会社という枠の中からでしか眺めることができなかった物事を、新しい価値観で見ることができるようになった。これによってこれまでとは違った幸せを感じることができるようになり、それが人生を豊なものにしてくれている。これだけ経済が疲弊していては、正しいことをやっていれば、正しい方向に行くということではなくなった。

    どんなにがんばっても正しい方向に向かっていかないのは、社会が道を誤っているからであり、そうであるなら我々は新しい道を模索すべきである。これまでのように、時間を犠牲にしてまであくせく働くというやり方を見直し、自由人としての新たな生き方に変えて行くべきである。「アリとキリギリス」の話にある、アリの生き方が正しいとされる時代ではない。

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    あくせく働いても昇給はない、出世もない。これが今の疲弊した日本経済の現実であり、だから卑屈になって文句ばかりいったところで何も変わらない。卑屈になるヒマがあったら、文句をいわなくていいように、ストレスを溜めなくてもいいように、会社至上主義という考えを改め、生活を楽しむことだ。真面目な人はそれができないから、真面目を止める。

    働く理由を本気で考えたら、「人生を楽しむため」という答えが返ってくるが、結婚しても安月給亭主は、「もっと稼いでよ」と妻にハッパをかけられるのか?それで妻に造反し、「それなら離婚よ」というなら、奴隷になるより一人という自由を選べといいたい。「結婚によって女性は自由になり、男は不自由になる」というが、そういう奴隷男たちは憐れである。

    独りはなにも寂しくないし、結構自由で楽しいものであるが、それを疑う人は、本当の不幸が何であるかを知らないのかも知れない。あくせく働くのを止め、ガツガツ生活するのを止める。妻が怖く、あるいは妻子を養うという美名と責任感のために自分に与えられた楽しくも実のある生活を犠牲にしている男子諸君、怖れることなく反乱して自由になるのがいい。

    73歳の将棋仲間のFさんの言葉に驚くことは多いが、新たにバスで40分くらいのところに新しい将棋会所がある。「一緒にいきましょう」というと、「妻がバス代をくれないから行けない」という。往復600円のバス代を妻に頭を下げて、「ください」という人がこの世にいるという現実を知り、驚いたのは言うまでもないが、Fさんに返す言葉がでてこなかった。

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    男がいつでも好き勝手に使える自由になる金は70代にもなれば、1千万くらいは無ければだめだろう。自分は酒、たばこ、ギャンブル、外食をしない自分だから、あまり使うことはないが、600円のバス代がないというのには、あまりにスケールが小さすぎて、同情する以前に開いた口がふさがらなかった。つい、『悪妻は百年の不作』という言葉が過り、腹も立った。


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    福島県須賀川市教育委員会は7日、市立中学校1年の男子生徒(13)が1月27日朝、自宅首を吊ってで自殺したと発表した。遺書などはなかったが、男子生徒へのいじめがあったことも明らかにした。市教委は外部の有識者らによる調査委員会を立ち上げ、自殺といじめの因果関係などを調べる方針。というのは毎度の事だが、いじめ発覚指導後の自殺に訝しさを抱く。

    市教委によると、男子生徒は昨年7月の学校生活に関するアンケートに、「からかわれたり、バカにされたりする」と回答。11月の三者面談でも、「悪口を言われる」と訴えた。12月の調査でも、「いじめられている」という内容の訴えをしていた。市教委の調査で十数人の同級生がいじめに関わっていたが、金銭の要求や身体に危害を加えるいじめはなかった。

    その後、関係する生徒に指導し、いじめは解消したと判断していた」というが、こういう安直な物言いが、彼らのいじめに対する根の深さ、難しさを理解しているとはとても思えない。アンケート調査はいい、そこでいじめがあったと記されていればいじめを把握できるが、名指しされた生徒を呼んで指導したらいじめが解消すると思うところが、危機感なき役人体質。

    教委や学校関係者は、いじめ調査、指導後にはさらに陰湿化するという現実を、どう捉え、危機感を持って対策を講じているのか?「チクリ」に対するいじめ側の増幅された仕返しにはさらにも増した注意がいる。アンケートを取った後の、被害者への精神的ダメージのケアと、加害者に報復防護策を明確に打ち出し、毅然と対処しなければ指導とは言えない。

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    AがBをいじめてるのが、アンケート調査で明らかとなる。学校関係者は、Aを呼び今後はBをいじめないように言い渡す。これでいじめが無くなると考える人間がいるなら、ちょいと頭がいかれているんじゃないか?それで仕事をした気になる人間は、むしろこういう仕事はさせない方がいい。学校の調査ではいじめ側は十数人。となると、報復は十数人に及ぶ。

    いじめられる側にとって一人でも辛いのに、十数人から以前にも増して精神的報復を受ければ、日々地獄であろう。命を絶った男子生徒は、アンケート調査に記名したことが仇となった。指導とは名ばかりで、デリケートな問題への対処は社会経験の多い人間でなければ無理だ。学校や市教委はいじめの実態を知りつつも、しこりを残さず解決できる有能人がいない。

    「十数名のいじめ該当者を把握し、指導し、いじめは解消したと判断していた」みたいなことを自殺後にいえば、自殺の責任は我々にないとでも言いたいおバカな連中だよ。「いじめを把握した後の対応に落ち度があった、適切といえなかった、だから生徒は自殺をしたと考えている。我々のミス、責任は重く受け止めざるを得ない」という真摯な態度は皆無だろう。

    教育者でも何でもない、ただの保身公務員が、自己の責任について真摯な反省をしない事が、いじめ解消における指導や対応のレベルアップにもならない。「いじめを把握した。指導した。解消したと思っていた」。こんな程度の人間が、いじめ解消に当たっていることがマンガである。いじめの解決に教委や教師が適材と思うか?全く思わない自分は宛にもしない。

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    公務員の最大特権は、責任を取らなくていい事である。そういう彼らに自分の子を任せられるか?授業だけやっとればいいのよ彼らは。それ以外の人間的経験ノウハウは自分の方が100倍堪能だ。親はそうでなきゃ。「いじめは解消したと判断していた」という役人的な物言は、民間では通用しない。学校でのいじめ解消に、教委や教師では荷が重いと親は腹を括れ。

    物事の変革を望み、しこりや意趣返を残すことなく対応する話術や説得力は、人間力に長けた者でなければ無理、それくらい大変な仕事である。それで解決する場合もあるが、自殺は結果が示している。チクリへの反動防止に対する危機感あってこその深遠な対応(指導)となり得る。そこらの市教委や学校教師に、そんな命を張るがごとき熱情も能力もないと見ている。

    山口市内の小学校で、「しんでよね」などと書かれたメモが女児の机の中に入れられるいじめが約3カ月間続いた。担任と女児の家庭で交わされた「連絡帳」によると、担任は昨年11月16日、女児と個別に面談。女児は、担任から、「なぜいじめられたと思う」、「どうやったら加害者は見つかると思う」などと問われたという。さらには驚くべきは以下の言葉。

    『先生に超能力があったら(メモを入れた児童を)見つけられるのに』と言われた」と女児は親に伝え、親はそのことを連絡帳に記入した。翌17日から女児は不登校になる。女児の母親は連絡帳に女児が、「加害者の話も何度もしているのに、超能力の話だなんてありえない」と落ち込んでいると書いた。女児の切羽詰まった状況を踏みにじる超能力には呆れる。

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    さらに教師は女児に、「なぜいじめられたと思う」、「どうやったら加害者は見つかると思う」などと聞き返せば、子どもは愕然とする。先生だから、大人だから、知恵を授けてくれると期待しているにもかかわらず、教師がこの体たらくでは子どもとの信頼関係は築けられようハズもない。そこが分からない教師であることが、子どもにとって悲劇である。

    担任は、「気持ちがやわらぐといいなという思いで話をしていました。傷つけてしまったこと、とても申し訳なく思っています」と記したという。家庭(保護者)と学校(担任)間の「連絡帳」というのはどうなのだろう?学校と家庭を密にするのはいいけれども、教師一人に対して30人の子どもと連絡帳は、本当に密度の濃いものとなるのか?いえるのか?

    教師が親のつまらぬ書き込みを問題にすることはないが、親がすぐに教師の揚げ足を取ることは可能だ。この一件も、親の言い分だけを真に受ければ、「超能力」が不登校の原因だとなっている。現に女児の両親が昨年12月、山口県弁護士会にいじめと学校の対応について人権救済を申し立て、同会が調査を検討している。教師に多少の問題があれ、親は好き放題。

    この辺りはいかにも現代的である。親は少しでも子に不具合があれば学校のせいにできる。もう少し子どもに対する責任感を持てないものか?超能力という言葉だけを鬼の首でも取ったようにでなく、子どもにフォローしてやるとかしないのもか?子どもと一緒になって担任や学校を責める親というのは、時分にはどんな親かおおよその見当はつく。

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    度合のほどはともかくとして、教師も教師、親も親ということだ。目クソが耳クソを笑うのがこんにちの親と教師。人権救済なんか大袈裟過ぎる。合わない学校であるなら、転校すれば済むことだろに。どこの学校に行っても教師間のブラック保護者となることは間違いない。教師も本音を言えば、癪にさわる保護者は多いだろう。言えないところがお気の毒。

    福島県南相馬市の市立中学2年の女子生徒(14)が今月11日、自宅で自殺していたことが市教育委員会などへの取材でわかった。学校は昨年7月に行ったいじめについてのアンケートで、女子生徒が複数の同級生から、「きたない」などの言葉でいじめられていることを確認していたという。女子生徒の父親が取材に応じ、亡くなったのは柳沢樹里愛(じゅりあ)さんと公表。

    「『汚れる』と言われたり、物を投げられたりしたという。家族思いの優しい子だったのに」と話した。市教委などによると、樹里愛さんは11日夜、自宅で自殺を図り、病院で死亡が確認された。遺書は見つかっていない。またもアンケート直後の自殺だ。アンケート後、担任らによる指導でいじめは収まったと判断していたが、それも事実ではなかった。

    樹里愛さんは登校しても教室に入れず、保健室で過ごす日もあった。この光景を教師は何もできないというなら無能である。ナイーブな少女に心を寄せるだけで可哀想すぎる。市教委の木村浩之事務局長は、「いじめによる自殺とは断定できないが、いじめを認識し、指導もし、見守っていたのに自殺を防げなかったことは反省しなければならない」としている。

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    中2女子の短いすぎる一生である。彼女たちは同世代女子の自殺に否定的になれず、共感するのだろう。女子の心は、「共感型」である。彼女たちは同世代女子の死から何かを選び取ることはないのだろうか?中2で死ぬなんて、私は何とか頑張っていじめに負けたくない。そんな風にはならないのだろうか?「気持ちわかる~」という女の子の言葉は確かによく聞く。

    「死ぬ奴の気持ちなどわからん」と、否定的になるのが男。「共感」の対義語は「反発」。男の基本は反発だ。いじめは人間の醜悪部分であり、ストレス社会の必須ともいえる。いじめはなくならないとし、ならば自分以外の他人のいじめ自殺から学習できないものか?「命を大切に」教育はもう古臭い。耳タコの、「命を大切に」から、「命は楽しもう」の方向に持って行けないか?

    「命が楽しい」、「命を楽しむ」とは、どういう状況か?大人の視点では沢山あるが、中学生では見つけるのが難しい部分もある。とっくに見つけた子は、懸命に何かに打ち込んでいる。それぞれにあった「楽しい」を個々が見つけるしかない。「楽しい」の反語は、「楽しくない」。楽しくないの代表はストレスだ。ならば、ストレス軽減が子どもを楽しい世界に誘う。

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    今の時代いじめは当たり前のように多発し、むしろ問題にすべきは、「いじめ自殺」である。いじめ関連のレポートをいろいろ読むなか、いじめの原因は、「学校の指導力不足」とする声が圧倒的に多いのはいうまでもない。学校内であってはならぬことが発生するなら、当然学校に大きな責任がある。が、いじめ問題を解決できない教師はいじめを積極的に黙認する。

    「知らなかった」は、「対処しなかった」でない。都合の悪い事は知らないフリに限る。こんな無能教師が蔓延する時代である。いじめの解決は面倒で骨が折れる。昔は、「焼きを入れる」といった壮絶ないじめも多かった。1987年10月30日に東大阪市立新喜多中で起こった事件は、昨今のいじめとは比較にならない惨忍さで、当時のいじめはそういうものも少なくない。

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    当時新喜多中1年生のA子さんは、同日学校の休憩時間中の教室内で、同じクラスの男子生徒3人に体を押えつけられ、焼けた金属片を頬に押し付けられた。それによってできた火傷の傷跡の回復は思わしくなく、その後に入院して形成手術を受けたが、それでも約3cmの傷跡が残った。この事件の前日も花瓶の水を飲まされる、頭からお茶やマヨネーズをかけられるなどされた。

    A子さんは発達障害があることで、小学時代から常習的にいじめを受けていた。両親はA子さんが新喜多中に進学するとき、校長にいじめ防止などの配慮を求めていたろいうが、いじめはエスカレートするばかりで、担任教諭にも被害事実を訴えたが、担任教諭は火傷の後に、関連生徒に反省文を書かせただけで、抜本的対策を講じない無能教師であった。

    両親は、「学校教育の場で生徒の安全に万全を期すべき義務を放棄し、いじめの実情を知りながら対策を講じなかったと、市側の管理責任を追及、同市を相手に両親を法定代理人とした慰謝料などを含む損害賠償請求訴訟を大阪地裁へ起こした。これに対して当時の東大阪市教委指導室長は、「学校の管理下で起こった事故だが、賠償責任はない」と答えている。

    頬に焼けた金属片を押し付けるなど、いじめを超えた傷害事件だが、当時はいじめに対する学校の管理責任が緩く、教委も事故だと言っている。判決はいじめ被害側の全面勝訴となる。どこの学校にも、クラスにもいた不良が、いじめを行っていた時代と違って、昨今はどこの学校にも、クラスにもいる普通の生徒がいじめを主導している。昔、不良はあぶれ者であった。

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    そうしたあぶれ者が気分晴らしにいじめをやっていた。そうした不良は、熱した金属片を頬に当てるくらいはゲーム感覚だろう。不良が行ういじめから、普通の子が普通にいじめを行う昨今は、傷害事件に類するいじめは少なくなった。「何がいじめなのか?」も多岐に渡って解釈される時代にあるが、教師を守る教育委員会のいじめ定義は、民意から大きく乖離している。

    横浜市の小学校でいじめが発生し、恐喝された金額は合計で約150万円にも上った。この問題は、原発事故で横浜市に自主避難してきた中学1年の男子生徒が、転校してきた小学校でいじめを受けていたもので、転校してきた男子生徒は小学5年の時、同級生から、「賠償金をもらっているんだろう?」と言われ、自宅から現金を持ち出して1回5万~10万円を渡していた。

    言われるままに自宅から金を持ち出しいじめの相手に手渡していた金額は150万円にも上った。生徒側の代理人などによると、保護者は2014年7月、県警に同級生から金銭を要求されたことを相談。県警がゲームセンターの防犯カメラ映像などを調べたところ、加害者側が1回あたり10万円単位の金銭を、交通費、飲食費、遊興費などに浪費していたことが分かった。

     生徒は保護者に打ち明けられず、生活費を持ち出していたことも問題と言えば問題だが、善悪の狭間で板挟み状態に陥った生徒は、精神的葛藤から不登校になった。保護者は県警の調査結果を学校、市教委に伝えたが、学校側はいじめ防止対策推進法に基づく、「重大事態」とは捉えず、問題を放置していた。これに対し横浜教育委員会は2017年1月20日、取材に以下の回答する。

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    「男子生徒が小学生の頃、同級生に総額約150万円を払わされていたとされる行為について、いじめと認定することが難しい」という考えを示した。男子生徒は転校してきた直後の小学2年生からいじめを受け、金銭授受は5年生から始まった。また、両親の訴えでは持ち出し金総額150万円に上るが、学校の調査では8万円しか確認がとれていないとズレもあった。

    横浜市教育委員会の諮問を受けた第三者委員会は、学校側の対応について、「原発事故からの避難で内面的な問題を抱えた生徒への配慮に欠け、積極的に対応する姿勢が伺えない」と指摘。金銭の授受そのものはいじめと認定していないが、いじめから逃れるためだったと推察できるとし、事態を把握しながら指導しなかったことを「教育の放棄に等しい」と批判した。
     

    また市教委に対しても、「重大事態と捉えず調査の開始が遅れ、生徒への適切な支援が遅れた」とした。第三者委員会の調査は我々傍観者と異なり、当事者からの事聞き取りなどを初めとした事実調査を行うものだ。したがって、「150万を払わされていた行為がいじめと認定されなかったに保護者も我々も、"情緒的"には「納得できない」、「オカシイだろ」となる。

    自分の経験をいえば、無用に人に媚びる奴は男女ともにいた。何ら強制を受けたわけでもないのに、相手やその場に取り入れられたいためか、愛想を振りまき飲食などの歓待をする。人の金で飲み食いできる奴にとっては都合のいい人間であろうが、冷静に見ていると憐れとしか言いようがない。強制がなくても媚びるのだから、強制すればこういう人間は奴隷になる。

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    人の払いで飲み食いすることにどれほどの罪があるかは分からないが、「それは嫌だ」というのは明確な理由になる。他人の批判をすることで正義ぶるなどどうでもいいこと。嫌なことはただ、止めればそれが自身の問題である。自分は何かにつけて他者への批判を自己の正当化にした行動規範を好まない。先ずは、自己への批判が大事でそれがあれば他者批判など無用である。

    若い頃は「正義」という言葉に憧れていたからか、他者批判によって自己の正義を触発したが、一種のナルシシズムでしかない。人の金で飲み食いを当たり前のようにする人間は少なくない。そういう人間を批判する事にどれだけの意味があろう。批判が行動であるべきなのは、そういう人間の意図に自分が嵌らないこと。だから、そういう種の人間に自分は驕らない。

    驕って困るような人間なら驕るが、人の金で飲み食いをするような人間は識別できよう。同じ意味合いで、男性に驕ってもらって当然という女を彼女にしないのはそのためだ。思いあがった心卑しき女などと一緒にいる理由すら感じられない。自分は人に媚びない生き方を、「了」とする以上、相手に媚びさせることも拒否する。互いは互いにおいて自由であるべきである。

    震災いじめと評された横浜の事件は、金額が膨大なことから、「こんなのはいじめというより恐喝だ。立件しろ!」の怒号がほとんどだが、男子生徒が然したる強制もないままに、相手に取り入られるために金を持ち出した可能性もある。回数が膨らんだのは、理性の欠片もない多感な子どもであり、降って沸いたように飲食・遊興できる金にいちゃもんをつける必要もない。

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    横浜市教育委員会の岡田優子教育長の「(同級生からの)金銭要求をいじめと認定するのは困難。第三者委員会の答申を覆すのは難しい」と述べて市民から怒号と顰蹙を買ったが、確かに言葉だけでみればとげとげしい。子どもの転校そのこと自体に問題があるとは思わないが、今回のような震災非難に対する学校のケアは、親の転勤と違って特殊なものである。

    級友から、「賠償金もらってるんだろ?」につても、子どもらしい悪気や悪意のある言い方とは思えないが、それを負い目と感じたのであろう。それ以前に同生徒が2年生からいじめにあっていたことが哀しい。最大の問題は、それだけの金額を持ち出せる家庭内の金銭管理である。子どもにとってお金は無縁のもので、それが自身の裁量で自由に工面できる家庭はオカシイ。

    そうした家庭内部の不備一切をいじめにかこつけて被害者を気取る前に、反省すべきことは沢山あったはずだ。避けられる問題、早期に対処すれば解決可能な問題を放って置いて、事が膨らんだ時に責任逃れを弄して、それは違うのではないか?勿論学校側とて、校内で金銭授受を知りながら指導もしないのは、第三者委員会のいう「教育の放置に等しい」。

    子どものことは、学校にも家庭に責任がある。が、こと躾に関する家庭の責任は、人格形成上の責任であることが多く、当面の問題として取り上げても仕方がないせいもあってか、第三者委員会などは具体的な文言を挟まない事になる。「〇〇君は、甘やかされて自由に育ち、親の財布から金を好きなように使えたのは親の教育の失敗」などと言ってどうなる?

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    定義が曖昧であるがゆえにいじめの解釈は多岐に渡るもの。第三者委員会の判断も岡田教育長の判断もいじめに該当しなかった。教育長は、「おごり、おごられる関係がなぜにいじめ?」という発言もあった。この件は当月13日に動きがあった。生徒側の弁護士が市役所を訪れ、金を払わされた行為もいじめと認めるよう求めて生徒が記した手紙を林文子市長宛に提出。

    この中で生徒は、「どうして教育委員会は一部だけを見て全体を見てくれないのか。学校は被害者側の言い分を聞かずに決めたのか」などと訴えている。子どもの声を無視するわけにいかず、市長が動き、同日横浜市教委の岡田優子教育長が会見し、「いじめの一部と認識する」と明らかにしたうえで、「生徒の気持ちを受け止められず、お詫びします」と謝罪した。


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  • 02/16/17--15:21: 他人の悪口をいう絆

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    最近のテレビがつまらない理由は人によっていろいろで、理由を説明しないまでも「面白くない」、「みる番組がない」については共通する。中でも自分がアホ臭くて見ないのは、芸能人が寄って集って芸能人の不祥事をコキ降ろす番組だ。ゲストに意見を言わせて正しい方向にもっていくような構成で、もっともらしいことを言ってるようでも所詮は他人の悪口。

    脳科学者の茂木健一郎が13日のツイッターで、フジテレビ系「バイキング」でMCを務めるタレント坂上忍批判を行っていた。宗教法人、「幸福の科学」に出家した女優清水富美加に対し、「芸能界の悪習からようやく逃げた人を、芸能村の人たちがテレビであれこれと非難するのはほんとうに見苦しい。日本のテレビがオワコンであることを益々感じさせる。

    人間、フェアじゃなくては、結局人々の心から見捨てられる」というものだったが、他人の批判はメシの種にするが、自身への批判には目くじらを立てる坂上が、茂木にこう噛みついた。「芸能村の人たちって、おれたちのこと?じゃあ、茂木さんってナニ村の人なの?(テレビ番組に)しょっちゅう出てたけど。最近見ないけど」と皮肉タップリに口撃した。

    坂上には突っ込みやすい相手とそうでない相手、突っ込みやすい話題と、そうでない話題があるのだろう。素養や知識に長けた言論人とか、ホリエモンやヒロユキのような論客とは違って、毒舌自負だけの芸人であって、現に茂木の指摘に対し、場違いな批判で開き直っている。「芸能人が芸能人を肴に非難するでなくそっとしておいたら?」と茂木は言ったまで。

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    茂木の発言の要旨を、「村」にすり替え、「俺たちが芸能村なら茂木はナニ村?」と、批判とはまるで無関係の突っ込みである。これに対して茂木は、「坂上さんのお仕事ぶりは、『バイキング』でご一緒させていただいた時から尊敬しています。ツイートは個人の尊重についての問題提起で、現場でがんばっていらっしゃる方を揶揄する意図はありません」と釈明した。

    坂上にこの意味が分かるか否かは分からないが、個人の尊厳や選択について、他人からとやかく言われる筋合いではないということ。それについて、「分かりました。そうですね」と応じるようではあの番組は成り立たないし、さらに言えば、人の悪口を言う事が正義であるはずはない。「他人の自由や尊厳は冒すべからず」だから、利口な人間は他人の悪口を言わない。

    結局悪口好きとは、自分の狭い了見の中に他人を封じ込めようとし、さらにはそれに対する同調を求めようとする。したがって悪口好きには視野の狭い人間が多く、視野の狭さは知識のなさ、知識の少なさは頭の悪さという図式となる。したがって、頭の悪い人間であっても、自分の考えに同意してくれる人を求め、存在感を示そうとしているわけだ。

    自分は狭い了見で同調を求められた場合、「お前の考えは分かった」と捨て置くことに決めている。批判意見を言う相手かどうかを判断しなければ、批判意見をいう意味さえなくなるからだ。もっとも狭い了見の持ち主に、批判意見は実らぬことが多い。それでも若い頃は無節操に批判意見を述べたりした。経年でズルくなったというより、人が見えるようになった。

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    世の中には様々な対立がある。若者は大人とは違う。男と女は考えが違う。親と子もその目的において「生」の意味が違う。そんなことを言った時、「なんで?お互いが幸せを求めるという点では同じでしょう?」といった奴がいた。これは、「幸せ」という便利な言葉で肯定せんがために理屈を言ったつもりだろうが、「幸せ」に対する観点が人によって違うことを考えていない。

    なぜに違いを問題にしてはいけないのか?ムキになって、「違わない」とする意味がどこにあるのか?対立は、「社会のパラドクス」と考えればいいし、若者と大人、男と女は違うにもかかわらず共存しなければならない。それがパラドクスである。自然と文明も同じように対立しながら、それでいて共存していかねばならない。「違い」を嫌がる人は深く物を考えないようだ。

    人間の幸福の中にある多くの、「幸福感」なるものは、実は教え込まれたものが多く、だからか、「あなたは幸せですか?」と問われ、「とりあえず幸せです」とうつろに答える人は意外に多い。それらのことから現代人が生の実在感を失なっているように感じるのだ。教え込まれた幸福であれば、そこに倦怠はでてこよう。真に幸福を実感する人は、「幸せです」という。

    うつろでなく、決然と明るく言う。その言葉にほとばしる幸福感を感じさせられる。若者は若者として、彼らの内部に矛盾を持っている。大人は大人として、同じように内部に矛盾を持ちながら生きている。それが若者と大人の隔たりとなる。男と女も、「性」が違うが、性の違いは大変な違いでもある。大きく異なるのは脳の働きの違いであり、「女性脳」、「男性脳」と言われている。

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    科学が発達する以前、「女性脳」、「男性脳」なる言葉はなく、男女は、「異性」と呼ぶに留まった。彼氏と彼女、夫と妻、それぞれは違っており、それぞれはまた同じでもある。若者と大人は、「異世代」とし、世代対立はあるにせよ決定的に分裂してしまうなら、社会は平衡を保てなくなり、人間は自滅するしかなくなる。なぜなら、社会ナシに人間は生きられない。

    男と女においても、社会が保ちうるギリギリの限界のところまで内部に対立があるとき、それがもっとも理想的な関係であり、ひいては理想的な社会といえまいか。大人は、老人は保守的である。が、ゆえに若者が保守的であってはならない。大人も若者も同じ保守的になり、内部に矛盾を含まなくなったというのは、どちらかが死んでしまったということだ。

    若者は死んではならない。メリハリをつけて生きて行くべきである。確かに、「幸福である」ことはいいことだと教えられてきた。それだから、「幸福でない」というのは恥ずかしいことになる。幸福について考えることはないが、それでも、「幸福とは?」と尋ねられると、「今日一日、したいことが普通にできること」と答えよう。数日前にインフルになった。

    当然ながらしたいことができない。風邪や病気はその意味で、「幸福感」を奪う。が、人間はまた、我慢をしなければ生きてはいけない。もし、生まれた子どもに何の我慢をさせることなく、欲しいものは買い与えて、我がまま気ままに育てたとして、彼(彼女)は決して幸福な大人になるのだろうか?「人間は我慢しなければ生きて行けない」は、親が知るべき大事なこと。

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    自分が勝手なことをやれば、その分だけ他人が我慢をしなければならない。自分が我慢するより他人に我慢をさせる方がいいという人間に育つか、自分が我慢する人間に育つかであろう。他人を我慢させても自分の我慢は嫌だという人間、他人を我慢させるのは忍びないという人間、どちらがいいのだろうか?その人の生き方の中に答えは存在している。

    どちらを目標に生きるかも人によって異なる。他人の迷惑など考えないで好き勝手に生きる人を良しとするならそういう人を真似、とてもそんな風には生きたくないならそういう人を真似る。これは選択だが、それとは別に、親が子を過保護に育てると、自分のことしか見えなくなる。20年間も甘やかされて育った人間に対して、「他人の気持ちを考えろ」と言って見れば分かる。

    毎日何十回と100年言い続けても分からないだろう。「三つ子の魂」は百年不変である。犬に言葉を教えるために、どのように工夫してもダメなのは、犬にはそのような能力がないからだ。同じように、過保護で甘やかされた人間にも、他人の事を思いやる能力はない。そういう能力を身につける時期に過保護であったために教えられず、身につけさせられなかった。

    子どもの頃にうるさく言わなくても、大人になったら分かる、欠点は直ると子どもの生活習慣に無頓着な親は多い。そういう子は20歳になっても30歳になっても部屋を綺麗に整頓できない。豚小屋であることの責任は親にある。人間の生活の基本は、受験勉強とどちらが大事か?これも親の判断によって子に伝承されていく。純粋無垢な子どもは親からメディアから影響を受けまくる。

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    「宗教や精神面の問題で芸能界辞める女優に寄って集って砲火を浴びせる傍ら、電通問題で高橋まつりさんが自殺した時は、「死ぬくらいなら、なんで会社を辞めないんだ?」と矛盾したことを自分が言ってるなどと思わない。その場バッタリの芸能人である。彼の一言一句をネットが見出しにして取り上げるから、テレビは観なくても目に入ってくる。

    坂上に怒りの書き込みを見るが、腹を立てるなら番組を見ないことだ。自分は、林修、坂上忍、マツコの番組は見ない。理由は女性がいうところの、「彼らの顔が生理的に受けつけない」という奴だが、その言い分は冗談半分で、基本はテレビを観ない。さらには、『幸福の科学』の大川隆法も、テレビには出ないが、永遠の仏陀などとイカレタ人だとしか思えない。

    『幸福の科学』は開設当時から、オカルト、超能力、霊界・テレパシーなどを謳う不思議宗教で、信者数は1200万人と言われるが、数字は教団発表のもので疑わしい。病気治しなどの現世利益を売るわけでなく、先祖供養も他の教団に重視しない。それでいて多くの信者を獲得した『幸福の科学』は、作家の故景山民夫、女優の小川知子らの激しさは凄まじかった。

    宗教とは真実なのである。信じる者にとって唯一無二の真実である。信じない者にとっては戯言にも劣るものでしかない。『幸福の科学』は、GLA教団の開祖高橋信次の流れをくむチャネリング宗教という扱いであったが、最近は動向すら興味が失せた。景山民夫や小川知子が、「フライデー襲撃」と息巻いていたが、景山は幸福になって死んだのか?そこは謎だ。

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    人と人との対立について少し触れたが、確かに「対立」という言葉にポジティブな意味はあまり聞かない。個人と他人が存在する社会において、対立」はむしろ絶対不可欠なものであるはずと思う。ならばいっそのこと対立を否定するより、肯定して、その中から取るべき態度や方策を模索するべきでは?「ない」を理想としても、「起こる」の発生は止められない。

    こういう新聞記事を目にすることがある。「この一件で会社内部の対立が露わになった」。「自民党の総裁選を睨んで、幹事長と総裁派の対立が活発化してきたようだ」。このように表立って見えてくるとか、露わになるとかの表現がなくとも対立はあるということ。いわゆる無風状態というのは、決して対立がない状態というより、対立を隠している。

    対立のない集団、対立のない組織、対立のない人間関係、対立のない社会ってあるのだろうか?おそらくないだろう。人間のいるところ、必ず対立は発生する。男と女、大人と子ども、親と子、老人と若者、上司と部下、教師と生徒、体制側と反体制側…、いずれも対立があり、ないよりある方が健全ではないのか?しかし、なぜか対立はないことを望まれる。

    間違いなく「ある」ものが、「ない」というのはそのように見せているのではないか?対立などないのだと、穏やかに見せているだけではないのか?老人と若者に何の対立がないなら、「どちらか一方が眠っている」と書いたが、波風立たない状態が良いとは思わない。あることが当たり前の「世代対立」である。北朝鮮や中国などの一党独裁政権でさえ対立はある。

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    決して誰からも不平不満が出ないのではなく、誰にも不平不満を言わせない状態に持っていくことが、最高の支配とされている。そのために粛正が行われる。今でも自分は子をの親だが、親の実務は引退したことで、呼称としての親である。外国のようにファーストネームで呼び合う慣習がないから、それも仕方がないが、「元お父さん」というのも確かに変だ。

    過去も段々とおぼろげになって行くばかりだが、それでも話の中から子どもらに昔の行状を言われると、「なんとヒドイ父親だった」とビックリさせられる。幸いにして子どもたちが根に持っていないからいいものの、当時は、「父親は嫌われるべく存在」と思っていたから遠慮はなかった。不慣れな父親としての要領の解らなさがぎこちない父親の正体だった。

    「いきなり、子どもができた、産まれた、さあ、親をやってちょ!」と言われて、正直なところは「さ~て、どうする?」でしかない。人間には子育ての本能はないように思えたし、それが証拠にどうしていいか分からなかった。犬や猫などの高等哺乳類や、鳥さんなどは、列記とした本能に導かれて子育てをしているが、そこを考えると人間は情けなかった。

    何も分からないなら仕方がない。この際、子育て書を読むのが良かろうと、美智子妃殿下にならい、ルソーの『エミール』を読み始めた。さすがに「子どもの福音書」と呼ばれるだけのことがギッシリ詰まっていた。もっと『エミール』は、ルソー思想の根幹にある、「文明批判」が軸になっている。それは以下の言葉に代表されるような鋭い表現となっている。


    「人工的なものが我々の礼儀を陶冶し、我々の情念にわざとらしい言葉で話すように教えなかった時代、我々の風俗は田舎風であったが自然なものであった。(略) 我々の風俗の中には無価値で人を誤らせる一様性が支配し、すべての精神は同じ型の中に投げ込まれてような感じがする。絶えず礼儀が要求し、作法が命令する。また、人々は絶えず習俗に従い、決してその固有の才能に従わない。

    人は、もはや、あえてそれがあるところのものらしくはしない。この永遠の束縛の中で、社会よぶ群を形成している人間は、同じ環境の中におかれると、もし、もっと強い動機が人間を転向させないなら、同じことをするであろう」。ルソーは老荘に影響されている。ここにある彼の文言は、礼儀にうるさい儒家思想を老子が慇懃ゆえに人心が離れるとした批判そのもの。

    礼儀作法は我々の社会生活をより快適にする潤滑油だが、ルソーによるろ、「人間の本質を見失わせ、人間を阻害させ、社会的連帯を歪めてしまうものとする。老子もいうように、「そのようなところには誠実な友情さえ、もはや存在しない」となる。そうした思想から生まれたルソーの教育思想は、「自然人の形成」という考えに行き着く。彼のいう「自然人」とは?

    究極的にいって、理性による幸福や完全を求める傾向であるのが文中から感じるところの、人間における自然の定義といえる。つまり、人間は生来的に幸福を求める存在であり、したがって、我々においては、幸福であるということは自然であることになろう。いつも思い出すのは、「自分が自然に生きてるなんて分かるのは、なんと不自然であるか」という詩である。

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    自然とは意識なのか、無意識なのかと問えば後者というだろうが、無意識であると意識されたものあっては、それ自体が無意識でなくなり、したがって自然であるとは言えない。意識された途端に姿や位置や形を変える量子力学のようなもの。唐木順三は、「自然は認識の対象でもなく、意志の素材でもない。自然はそのうちに人間を包んで生きているのである」と述べた。

    ゲーテはまた、「人はたとえ自然に反抗する場合でも、自然の法則には服従する。逆らってみようというときでさえ、自然とともに働くのだ」と述べている。「魂」というのは、見えないから魂であって、それが見えたら「魂」とは言えない。幸福も見えない。見えないが掴んでいる実感はある。それこそが幸福なら、自分の幸福は他人には見えない、掴めない…

    「自然」は意志や現象というより、逆らうに逆らえない電気力線や磁力のような、「力学」のようなものであるようだ。さて、子育て奮闘中における、自分の父親という自覚は作為的に満ちたものであったのは言うまでもない。自身の中に位置づけた理想の父親像という架空の存在を演じていたに過ぎない。親は子を持てば親となるが、人間はそうもいかない。

    「人間は誤った育児を行う能力を脳が仕組みとして獲得している」というのは、恐ろしい文言であった。ライオンは、象は、親子が3代、5代、10代と続いても同じ子育てをするが、人間の親は、人間以外の生物のような、いつも正しく、決まった、何代も同じように子どもを育てることは非常に難しい。常に、右へ左へと錯誤を繰り返しながらの子育てとなる。

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    なぜ、人間は何代も同じ子育てができないか?理屈は簡単で、人間が良く深い生き物だからだ。小学校入学時から、将来は普通の子でいいという親と、将来は何としても東大に入れたいという親が存在する。「中庸は徳の至れるものなり」という言葉が示すように、人間は何代にも渡って正しい育児をできない。教育ママという言葉は、自己イメージの高さの象徴だ。

    学歴コンプレックス、知識コンプレックスが教育ママを生むという考察も周知されている。にもかかわらず、勉強ができない=バカという身勝手な自己イメージが災いする。勉強も習慣、食事も習慣、部屋の掃除も習慣、うんちも習慣、何事も習慣が大事なのだから、それができるように、環境を整えてあげるのが親というサポーターと思うが、形式主義の弊害に思う。

    最近「教育ママ」という言葉を耳にしないのは、特殊ではなくなったからのようだ。以前は特殊だったが、塾に行かせる数をみればいい。いい学校さえ出てればいい人生が送れる(はず)と幻想を抱く親なら仕方ないが、白日夢であると目が覚め、気づくまでは好きにやらせておくしかない。が、金属バットは捨ててプラスチックの物に変えておくことは大事だ。

    自宅に金属バットがある家庭というのは、誰かが野球をやっていたということで、実数は50%にも満たないと思うが、包丁で刺殺するよりも、金属バットで頭を打ち砕く方が、憎悪の深さを感じる。それともう一つ、体のどこかを刺すという不安(死ななかったら)よりも確実性があるのだろう。昨年12月26日に名古屋で、明けて1月23日は静岡の浜松で発生した。

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    金属バットの重量は900グラム以上と規定されている。男が振り回すのにはさほどの重量感はないが、2014年3月に長崎・佐世保女子高生殺害事件の娘が、就寝中の父親を襲った事件はやはり金属バットで、父親は陥没骨折で重体だった。娘は現金100万円を渡され、マンションに1人暮らしをすることとなり、それが友人高校生の殺害死体解剖事件に繋がる。父親は自殺。

    この少女には、「頭が良すぎて特殊な子」という同級生のイメージ評があったが、おそらく学校の成績をいうのだろうが、これには納得がいかない。人を殺すような頭のいい子がいるのか?どうにも自分には、頭のイカれたバカ人間としか判断できない。金属バット殺人は悲しい顛末だが、親子の事は双方の責任だ。善意の第三者が巻き添えというのは許しがたい。


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    「ゆめタウン」といえば広島が発祥の、「イズミ」が闇市からの仕上がり、昨今は地場を代表する大店舗スーパーに成長した。大型ショッピングモールとこじんまりの店舗がそれぞれの地域に密着し共存している。広島店と廿日市店は、巨大なショッピングモールを運営するが、五日市店は10分の一程度の小型店舗。その敷地内に、「千」というとんかつ屋さんがあった。

    「千」は山形県平田牧場のブランド三元豚や、幻の品種と言われる金華豚を取り扱っていた。が、高料金設定もあってか、客足も途絶え店を閉めてしまった。広島の中華の名店とされた陳建一の、「四川飯店」が閉店したときも信じられなかったが、こちらも高値設定ということで客足が途絶えた。こういう名店が店仕舞するのは、いかに不景気であるかを示している。

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    閉店の知らせが玄関ドアに張り出された「千」は改修工事が始まり、次はどんな店かの期待もあったが、そうそうにあがったのは、「コメダ珈琲」という看板だった。珈琲を飲まない自分は興味もなかったが、「へ~、ここにコメダ珈琲できるんだ?」と友人がいうので、「それって有名なんか?」と聞くと、「超有名だよ!」という。行くこともないと思いながら、有名な店なら流行るかなと…

    カメダのあられは知っているが、自分はコメダ珈琲を知らなかった。広島市内には5店あり、うち、「ゆめタウン」に2店舗となっている。発祥地は名古屋で、愛知県内には250店もある。そんなに必要なのか?と思うが、フランチャイズ方式で店舗数を拡大し、全国に700店以上のチェーンを展開している。それくらいに日本国民に愛されているということでもある。

    喫茶店には昔から行かない自分だが、喫茶店好きなタイプもいて、特に女性はランチ後には毎日のようにおしゃべりを楽しむ場であったりする。それほどに有名なコメダ珈琲をデータからを社会学調査を行ってみる。平成26年度と少し古いが、全国の喫茶店事業所数(69,977店)のうち、人口1000人当たりの事業所数で愛知県は、高知県、岐阜県に次ぐ第3位の8,428店。

    また、喫茶店従業者数は全国で東京をしのぐ第1位。年間の喫茶店消費金額においては、平成25年~27年の家計調査(2人以上の世帯)によると、全国平均は5,770円。さらに県庁所在地、および政令指定都市別に見たとき、名古屋市は14,301円と全国平均から2倍以上の金額となっており、これは突出した数字である。そもそもなぜ名古屋には喫茶店が多く、消費も多いのか?

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    「喫茶店王国」と称させる名古屋といわれるが、その理由については諸説あり、明確なことは分かっていない。コーヒー代だけでトーストやゆで卵がついてくるモーニングサービスや、ピーナッツなどのおつまみに代表される喫茶店が多い激戦区であるからこそ独自のサービスが生まれ、名古屋、あるいは愛知県特有の文化として認知されたのは間違いない。

    それがビジネスマンの商談から、年配者や主婦の息抜きのひと時、家族の団らんまで顧客の幅広い利用法に支えられ、広大な駐車場がいっぱいになり、さらには渋滞まで起こる圧倒的な集客力など、他県人が驚く要素に事欠かさない。名古屋の喫茶店はなぜこんなにサービス満点なのか?名古屋人はなぜこんなに喫茶店が好きなのか?他県人には不思議で仕方がない。

    数年前にあるテレビ番組で紹介されて驚いたのが、名古屋人の定番と言える、「小倉トースト」なる奇怪な食べ物は、あの浅田真央も好きだと言っていたし、本当か嘘か、テレビ番組では、「名古屋人のキッチンストッカーに小倉缶は欠かさない」という。もちろん、喫茶店のモーニングサービスに小倉トーストがないわけがない。名古屋には約4000件の喫茶店がある。

    「コメダ珈琲」という名からして、名古屋人はさぞやコーヒーが好きな人種と思いきや、コーヒーの年間消費量を見ると愛知県は47都道府県中36位(平成21年・総務庁調べ)となっており、このデータに関する限り、コーヒー好きの名古屋人ではなく、あくまで喫茶店が好きといえる。「コメダ珈琲」が愛される理由をもっとも周知し、把握するのがコメダ自身である。

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    「お値打ち好きであか抜けないのが落ち着く」と、これが名古屋人気質にマッチしたコメダ珈琲のコンセプトである。これほどに有名なコメダ珈琲であるゆえに、各地域の初出店場所で社会的ブームといえる現象が起きており、2016年8月10日に開業した「東札幌5条店」(北海道札幌市白石区)では60人以上の行列ができ、「ゆめタウン五日市」でも行列はあった。

    なぜ日本人は行列好きなのか?を心理学的にいうと、人が並んでいるのだから並ばなければ損をした気になるという、世知辛い動機である。並ぶ、待つ、のが嫌いな自分には考えられないが、店舗数1位と2位のスターバックスやドトールとは違って、旧態依然の、「昭和型喫茶店」のコメダ珈琲が、なぜに店舗数を増やせるのか?社会学・経済学的考察は興味を惹いた。

    「コメダ珈琲店がもっとも大事にしていることは、『コーヒーを大切にする心』です。また コメダ名物、大人気の、「シロノワール」、コメダと言えば、「シロノワール」と言うぐらい、全国的にも認知されつつある、「シロノワール」は、ひときわサクサクふんわり焼いたデニッシュパンの上に、たっぷりのソフトクリームの熱々冷々の加減はコメダの奥義とされている。

    さほどコーヒー消費量の多くない名古屋人にコメダが、「もっとも大事にするのは『コーヒーを大切にする心』」というのも、「?」であるが、コメダの人気を探る以下のレポートを読むと納得できる。「愛知県半田市の『コメダ珈琲店 半田やなべ店』は来年で開業20年を迎える。人口12万人弱の半田市は知多半島の中心地であるながら、店は繁華街から離れた場所にある。

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    それでも1日に約600人も来店。平日の昼前も10人ほどの人が座席が空くのを待っていた。新規店でもないのになぜこれほど人気?「当店はお客さんの居心地を重視してきました。コメダらしさでこだわることは、『スピード』、『仕込み』、『段取り』です。お客さんが来店されたら、大きな声で、『いらっしゃいませ』と言い、冷たい水と温かいおしぼりを出す。

    ご注文を受けたら、温かいメニューは温かいうちに、冷たいメニューも冷たいうちにすぐ出してお客さんを待たせない。そうした接客を地道に続けてきました」と、同店を経営する有限会社ウチヤマ代表取締役・内山清氏。全国各地の、「コメダ珈琲」には読み放題の新聞や雑誌も置かれている。主要な新聞・雑誌を揃えつつ、店の立地によってその構成は変わる。

    特に地域事情が出るのはスポーツ新聞で、『半田やなべ店』では、同じ中日スポーツを何と9部も置いているという。普通は一店舗に同一紙を複数置くなど余程の繁盛店だが、同一紙9紙はスゴ過ぎる。これもサービス的に当然と言えば当然であろう。内山氏は言う。「中高年の常連客も多く、モーニングを食べながら新聞や雑誌を読むのを楽しみにしている方も多い。

    中日ドラゴンズの地元ですから、中日スポーツが取り合いになるほどです。お客さんの希望をかなえるうちに9部を揃えるようになりました」。愛知県内で、「コメダ珈琲 日進米野木店」、「日進竹の山店」を経営するのが株式会社カプリ。2店舗ともに最寄り駅から徒歩20分以上かかるロードサイド沿いにあるが、こちらの店舗も連日多くのお客さんが訪れている。

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    代表取締役の樋口宗彦氏は、「コメダ珈琲」起業前にホテルのバーやレストランで勤務した。「ホテルのバーやレストランは1人当たりの単価は数千円でしたが、景気が悪くなると顧客は一気に減りましたが、それより単価の低いコメダは景気に左右されない。お客さんから、『ステーキ店にはたまにしかいかないけど、コーヒーやパンは毎日食べる』と言われる手堅い商売です」。

    コメダがここまで店舗数を伸ばせたのは、「本部主導でノウハウを授かるブランド力としての強さ」と、誰もが思うコメダの店舗展開論理だが、実は地域事情を知る各FC店オーナーの創意工夫による運営によるものが大きいといわれている。FC店率がわずか2%の「スターバックス」は例外にして、「ドトール」の同83%と比較してもコメダのFC店率の高さは突出している。

    コメダ臼井興胤社長は言う。「本部主導で施策を実現できる直営店がブランドの強さ!』と思う人もいますが、実際は逆です。中央集権的な本部主導でやる店と、700店の現場が創意工夫で行う店と、どちらが来店客のためになるでしょうか。FC店の集合体がコメダブランドなのです」。「なるほど…」。本部のノウハウに任せっきりで胡坐をかいてはダメなのだと…。

    外食業界では、「繁盛店をつくるのは奇手も妙手もない。店の魅力を打ち出し、新規客を常連客にし続けること」といわれることだが、コメダの強みは、地道な取り組みの徹底にある。それが飲食店で思い思いに過ごしたい消費者に受け入れられているのかも知れない。回転率を上げるは商法として邪道。「顧客が長居する店こそ繁栄店」こそが近代経営である。

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    ブックオフが「立ち読み大歓迎」を打ち出した時に、多くの古書店が店を閉めた。なぜ立ち読み大歓迎だったのか?そういう顧客は潜在需要者であること。古書店になど素通りしても中に入らない顧客はに比べて、いかに潜在需要者を大事にするかが、近代経営である。広島に40店舗を有していた、「花いち古書センター」は全てビニールカバーをかぶせていた。

    立ち読みをさせないためにである。顧客の自由意志を尊重し、大事にする経営手腕の差が、如実に表れた格好である。「花いち」はブックオフの、「損して得取れ」の理念を理解できないままに廃れていった。かび臭い、狭い通路、立ち読みに気が引ける、といった古書店のネガティブイメージを一新した、清潔で自由で明るいブックオフの近代的経営の勝利である。


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  • 02/20/17--15:59: 個人と社会性と…
  • かつて、日本は信頼を必要としない環境だった。なぜならコミットメントの作成による安心があったからだ。組織に属することで自分たちを保護していたし、外部を遮断し、排除することで安心感を得ていた。信頼できるか否かを調べる心配もない環境だった。かつて「安心」は安定した社会によってもたらされていた。ところが現代は、安心崩壊の危機にある。

    安定した社会とは、集団や関係の安定性をいい、そのためには内部の者が勝手な行動を起こさぬようコントロールしていたことによるものだ。集団は内に対しては安心、よそ者に対しては強い不信を示すという特徴がある。現在の日本にあっては、今までのような関係を維持することによるメリットよりも、それに伴う機会費用の方が多くなっているのが問題である。

    個人主義のアメリカ人に比べて、日本人が安定した集団主義を好むというこれまでの日本人イメージは、個人中心主義の時代に移行することで、集団への帰属意識が失われつつある時代である。保守的な村落共同体には、「寄り合い」という交流が定期的に行われ、そこに顔を出しておけば陰口をたたかれなくて済む。つまり、話し合っていれば安心の世界である。

    それは別の言い方で、「近所付き合い」ともいった。近隣同士が顔を見せあい、声を掛け合うことこそコミュニケーションである。このような人と人の行動傾向の原因というのは、本人の意向や意思というより、そのように行動した方が過ごしやすい環境に置かれていることを皆が知っていたことになる。新たに住み着く外部侵入者もない平和な土着性文化であろう。

    狭い国土に人口増加ともなれば、山を切り拓いて宅地を増やさねばならず、三代、五代、いやもっと続く村落共同体の土着文化が、外部侵入者によって壊されて行く。新たに宅地や建売りを購入する若い世代は、じじむさい年寄りたちとの交流(近所付き合い)を面倒がってしない。年寄りはそんな若者に、「今どきの若いもんは…」の称号を贈ることになる。

    若者は保守一辺倒の老人たちに、「大した話をするわけでもないのに、集まっているだけ」などと冷ややかである。これってどちらが正しい?老人は老人で正しく、若者は若者で正しいと考える。裁定は?といえば、どちらにも、「分」ありという事になる。したがって、「どっちが正しい」などといういう視点で判断する以上、対立は深刻さを増すばかりとなる。

    自分も外部から老人社会への参入の経験があり、それ以外にも部外者としてさまざまなコミュニティ参入を経験した人は少なくない。子どもが親の転勤で転校するのも分かり易い事例だ。大林宜彦監督の『転校生』の冒頭シーン、幼稚園時代に過ごした街の高校に転校してきた小林聡美に、幼稚園で一緒だったと馴れ馴れしくもウザイ彼女を一喝をする尾美としのり。

    「転校生ってのはな、もうちょっと大人しくて、慎ましくて、おどおどしてるもんなんだよ。なんだよオメぇは、馴れ馴れしすぎるんだよ」

    転校経験のない自分だが、多くの転校生を見ていると、転校生にはある種の同情観を抱いていた。転校生の寂寥感は子どもにも理解できるし、さらには友達との別離など、転校は嫌に決まっている。が、子どもは柔軟であるからして、「環境の変化に対応できる!」という自信や、環境の変化をポジティブな機会としてとらえるなどは、転校生ならではの貴重な体験だ。

    むしろ底意地の悪い大人などから、いじめを受けた、無視されたなどの話は「公園デビュー」において若い母親の悩みとなる。男には存在しないいやらしい世界の話はいろいろ聞かされた。なついて行こうとしても、相手のご機嫌が悪いと、無視の連呼で孤立させようとする女子のいじめは、小学校辺りから派生するようだが、無邪気で単純な男の子にそれはない。

    自分などはどういうコミュニティに参入しても、気づいたらいつの間に旗を振ってる側だからあり得ない。昔から物怖じしない自分の性格で、困った感を抱くことはない。ただし、気をつけるのは出しゃばらない程度に、場の主導を目指すが、そうした性向は自分以上に周囲がよくわかっていて、自然に押し上げられたりするし、自分も人の風下に立つのを好まない。

    若い頃に老人社会に参入したことで一悶着あるにはあったが、コミュニティを取り仕切る長老に眼目をつけて怯まぬことで、黙らせることはできる。「長い者には巻かれろ」を良しとしないなら、若者は怖じ気ることはない。相手は自分を煙たく避けるようになるまでやればいい。「出る杭は打たれる」というが、「出過ぎた杭」は打とうにも脚立が必要である。

    コミュニティの中に嫌な奴がいると思った時点で負けなので、相手から下がるのではなく、相手よりむしろ上に上に出ようとするのが、勝負術である。若者は姑息に迎合するよりも、バイタリティを見せつけるに限る。戦前の家長制度など、長老支配による統治よる一見平和は、若者を抑え込んでいたに過ぎない。それを変えたのが、ディラン、エルビスが、ビートルズ。

    社会学的にはそういう見方もされるが、彼らの表立った体制批判は、若者に反抗の勇気を与えたのは間違いない。あの時代に我々は、気づいたときには大人たちからあれこれコキ降ろされていた。マンボズボンは不良、ポニーテールは不良、エレキは不良、長髪は不良…、今に思えば大人の我欲と若者の我欲の衝突であって、価値の押し付けに反抗した。

    大人や長老が牛耳っていた時代にあっては、大人が若者を支配し、相手を隷属させていた。それとは別に、自分さえ犠牲になればいい、個を棄てて大人に従っていれば安泰という考え、長幼の序を仕方なき妥協と自らに言い聞かせていた。そういう社会状態があまり長く続いた結果、人と人との合理的な関係や組み合わせを作ることは不可能だと考えられていた。

    確かに日本人は、他人と衝突することを嫌う。意見を戦わせることを良しとしない結果、あまりにも他人に無関心な社会になってしまっていたが、そこに風穴を開けたのが若者主導の文化である。本来、世の中は不条理と不合理に満ち溢れている。それなら、世の中そういうものだ!と考え方を切り替えて、タフになる。そういった柔軟さやしたたかさも必要。

    大人と若者の我欲のぶつかり合いもそうだが、社会生活というものは、二個の人間の我慾がぶつかったときに、それを両方とも生かして、適当に調和させるべき方策を模索すべきである。我慾を持った人間が主張し、他人も主張する。それで解決がつくのか?それを学ぶのが学校という社会生活の場でなければならない。ところがこの国の初等教育現場にそれがない。

    他人の意見にたいする賛同を良しとし、反論を求めない事なかれ教師。「協調、協調」とだけを重視するから、自立した考えが育まれない。人と違うことはむしろいい事なのに、同じ目の色、髪の色、そして肌の色という単一民族を誇る日本人は異端を認めない。さらには、同じ制服に同じ鞄に同じ靴を履かせて、同じ人間の量産を目指すのが初等教育現場。

    協調というのは、真に自立があってもたらせるという本質を知らない、許容量のない教師が、学校ゴッコを、逞しき強き人間を作ろうという社会的使命感もない。こんな教師はいらないと嘆く親がいても当然だ。全ての人間関係において、自分の正当性だけを主張するのではなく、硬軟両面を併せ持ち、それを使い分けることができる人間が真に豊かな人生を送れる。

    そのためには感情(自己)と理性(冷静)での折り合いをつけることが大切だ。「理性的に生きる」ことと、「本能的に生きたりする」ことの、両方のバランスを兼ね備えた自分を作ること。社会のさまざまな場や時々にあって、この二つのうちのどちらかを生かして使える人もまた、生活の熟達者であり、人間らしさを保っていける人のように思えてならない。偏ってはダメだ。

    真面目も不真面目も、善も悪も、利己も利他も、「清濁併せ持つ」ことが人間であろう。自分だけが清く正しく生きればいいではなく、悪を行為した人間にどう寛容で入れるか?である。クソ真面目で道徳的な人間ほど他人の非を責めるが、こういう人間はまさに神気取りである。他人に厳しくは、我が身に厳しくでいいことだが、本当にそうなのか?自問は必要だ。

    70歳にも80歳にもなっても、将棋に負けても相手を称えることもできず、言い訳ばかりする人間は、そういう度量がないということである。そこで腹を立てるのではなく、「(この人は)そういう人なのだ」と思えば、むしろその人を笑っていられる。「大人気ない」、「強がり坊主」、「キャパがない」、これらは年齢からしても笑える材料だ。ただし腹で笑う。

    ひと年取れば、人から見下げられ、笑われるより、穏やかな紳士と思われるのがいいに決まっている。思われるとは、そう思われたいではなく、自然にしていれば相手が勝手に判断する事。その判断が、笑いものであるのは無様である。60歳の人が70歳になったら自然に素敵になるのではなく、人は自分がなろうと思う人間を目指さぬ限りは20歳程度のままである。


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  • 02/21/17--18:22: 孤独に耐えうる強さ
  • 自分が何時、どこで、どのような死を迎えるのか、誰も予測はできないが、昔友人たちと、「自分の未来がわかるといいよな~」などと、他愛もない会話をしたことがあるが、予測や想像の範疇ならあれやこれやと話も弾むが、もし、タイムマシンで未来に行き、自分の数十年後の未来を目の当たりにすることになれば、人間は計り知れない苦悩に陥るのではないか。

    何が苦しく、何が辛いといえど、自分の将来や未来が確定されたものであって、その動かせない事実を知ることが、どうして幸福であろうか?どう生きても人生が定められ、決められているというなら、それこそ人間はどう生きたらいいのだろう?そういう苦悩に襲われるハズ。先のことは見てみたい気もし、知りたいのはやまやまだが、知らないから幸福であろう。

    2027年2月22日に自分は死ぬ。タイムマシンでしかとその日、その場面を見て来た。こんなことが分かって、明日が楽しいだろうか?2027年は、「明日」とはいえない、遠き将来だが、一日一日とその日に近づき、やがては明日がその日となる。いや、何年、何月、何日に死ぬという事実が、人間にとって希望といえるのか?その前に「希望」とは一体なんであるか?

    ♪ 希望という名のあなたをたずねて 遠い国へとまた汽車に乗る。という歌があった。初めて耳にした時、不思議なインパクトがあった。詩の持つ世界の特異な表現であり、希望をあなたと擬人化しているところは言葉の魔術に感じた。希望とは、好ましい事物の実現を望むこと。希望希望についての逸話として有名な、「パンドラの箱」というギリシャ神話がある。

    人類の最初の女性であるパンドーラー(パンドラ)が、好奇心から、「パンドラの箱」を開けてしまい、あらゆる悪いものが溢れ出た時に、最後に箱の底に残ったのが「希望」だったとされる。別説では、「パンドラの箱に最後に残ったのは、『未来を全て分かってしまう災い(前兆)』であり、それが解き放たれなかったことから、「希望が残った」とも言われる。

    「パンドラの箱」とはこんにち、「開けてはならぬ災いの種」として比喩的に使われるが、この「パンドラの箱」を開けまくっているのがトランプアメリカ大統領である。トランプの事は後に回し、人間は間違いなく死ぬけれど、その死を実感をしないことが、「生」という希望である。末期がんで余命いくばくなくとも、それでも死への実感は希望に打ち消される。

    健康体の人であっても、死について漠然と思考はする。が、不治の病を告げられ、日々命を削られる境遇の人にとって、死はまさに眼前の重石であろう。そういう人たちの気持ちを推し量ろうとするが、そういう状況にない者にとっては、到底推し量ることができない。同じ人間に生まれながら、刻々と命を削られる人の心中はいかがなものであるのだろうか。

    分からないことを人は想像によって明かそうとするが、生を限定された人の気持ちを想像するのは無理からぬことで、分かった気になることを自ら鬩ぐ。明日の死を実感しながら、希望の淵に生を見出す人たちを、ただ見守る以外に手立てはないが、いつしか自身もそれの答えを見いだす日がくるであろう。「生」とは意志であことをつくづくと感じている。

    「生」はまた過去や未来ではなく、「現在」という時のみにおいて確実であるように感ずる。人間にとって死の恐怖が何かといえば、かけがえのない「現在」を失うことである。過去や未来を失っても、現在を失うことが死の苦悩である。自分という個体は紛れもなく死によって終焉することになるが、火葬され、骨壺に入れられる儀礼より、意思の消滅が死の切なさである。

    他人の死は認識すれど、自己の死を認識できないのが、唯一死というものの救いであろう。死んだ自分の屍を見る事もできず、自分が死んだことさえ分からない、それが自己の死である。死後に意思が反映されるなら、人間はどれほど我が死を悲しむであろうか。意思なきことが自己の死の最大の救いであり、人は幸いにして自己の死を見ることはない。

    永井荷風や坂口安吾は、自分の葬式はまっぴら御免と言った。列席の友人や知人に自分の死に顔など見せたくないという理由。死んでいるのだから、照れ臭くも羞恥も無かろうと思うが、上記の文章は死んだ後に書いていない。よって、死後の自身の意思の無さを生前に代弁していることになる。死んでは何も言えないわけだから、意思は生前に述べるべきかと。

    末期の乳癌で余命2年を宣告された主婦が、「手術」や「抗癌剤による治療」をせず、「がんと闘わない」宣言・選択をした。彼女は医療に頼らず、「そのままの寿命を全うしたいと強く思った」というが、自身独自の選択というより、『患者よ、がんと闘うな』という著書でである近藤誠氏の意思が反映されている。近藤医師は癌の治療に一石を投じた話題の人物。

    医療に頼らない医療とでもいうのか、先進の医療が実は患者の寿命を縮めているという近藤氏の考えに即した、一つの選択といえる。医学界内外から批判と賛同の渦のなか、癌という恐ろしい事態に遭遇した患者が、近藤氏の考えに触れ、自己責任における意思の選択をで自身できる時代になったことに批判の余地はない。手術や癌ん剤治療以外にも道はあった。

    近藤氏は主に乳癌診療をしていた。悪性度の高い癌は何をやっても再発してダメだし、悪性度の低い癌は再発はするが、5年、10年、なかなか死なないという現実。初期から全身疾患となる乳癌と、局所腫瘍であり続ける胃癌の病態の差が、癌に対する認識の差となっており、 乳癌診療に携わる医師が、近藤誠のような感覚になるのはむしろ自然ではとする医師もいる。

    上記の主婦実香さんも、30代半ば頃から右胸にしこりを感じていたが、仕事の忙しさから放っておいた。次第に右胸のしこりが悪化し、痛みだけでなく出血や膿まで起き、診断を受けることを決意。告げられた病名は「乳癌」だった。ステージ3でリンパに転移しており、早く手術をしなければ余命は2年と宣告された。手術をしても完治するかは分からないといわれた。

    宣告を受けてから、常に『死』を意識しているという実香さん。そんな日々の中、続けていることがあるという。それは「エンディングノート」を書くことだという。夫はは妻の死について、「覚悟はできていない。出来ていないけど、そのときはそのときで対処できる自信はある。僕がそういう人間だと妻も分かっているから、『倒れても連絡しないよ』と言われている。

    だから、毎日確認しますよ、生きているかどうか。ずっと妻を見てきて思うのは、治療しなかったからこそ今があるのかなと。妻は『闘わない』と言っているが、僕は『闘っている』と思っている。だから、家族ぐるみで闘っているという解釈でいる」と夫は言う。確かに覚悟とか死の実感とかいわれても、乳癌で元気に普通に生活する人を見ていると、それは沸かない。

    やはり、覚悟はそれなりの状況の時に強く感じるものだろう。妻が闘病中の海老蔵の気持ちも似たものではなかろうか。「覚悟」という本当に切羽詰まった、そういう時の言葉である。いつ死ぬか分からないなかで、「私が死んでからしなくてはいけない事」を書き綴る彼女だが、人の死の順番は若い者からと決まっているわけではない。親より先に逝く子どももいる。

    順番というのは「ある」ものではなく、「あってない」のも順番である。それこそが世の中の不条理と不合理である。いかなることも踏み越えて行くべきと考えると、死に行く者より、残されし者の悲しみが大きい場合もある。都合のいいことは誰でも受け入れられるが、受け入れがたきことでさえ受け入れることも人間の試練であろう。あらゆる幸福は消極的ある。

    だから、人は自分の幸福を思いたいがために他人の不幸を間接的に喜ぶことをするが、これを積極的な悪意と言わず何とする。しかし、自身の幸福は他人の不幸の上に存在するほどに、人間の心はいかにも弱い。強きものは他者を妬まないのは、自己の価値に尊厳を置いているからだ。自信といってもいい、自分の生き方であって、他人からとやかく言われるものではない。

    「意志の肯定は、いかなる認識によっても妨げられない永続的な意欲をいい、それは一般的に人間の生を満たしているもの」とショーペンハウエルはいったが、その通りであろう。分かり易くいうなら、人間を支配する欲が、少しも認識に妨げられることなく、持続的にその欲を貫き通す。「生」が意志であるなら、「自殺」は意志の否定という見方もできる。

    「生」を見棄てる以上の「利」が自殺者にはあるのだろう。さらに自殺者は意欲することを放棄するから生きることを止める。意欲を捨て、感傷に我が身を埋没させる死を止めるのは自分である。感性を傷つけることを止め、孤独を選択する勇気があれば、自殺の多くは食い止められるのではないか。意志の否定は、「無」であるが、孤独は厳然たる「有」である。

    孤独という言葉は、ネガティブな響きを持つがそれは間違い。孤独を嫌がる者がネガティブであるだけで、周囲の煩わしさや情報を遮断するだけで、どれだけ開放的になれるかを知らない人間が孤独を怖れる。他人といればすかしっ屁さえ躊躇うが、一人でいると強烈な臭気さえ香しい。社会のストレスから解放される点において、孤独は精神的健康そのものだ。

    自殺の一つの原因が孤立感であるなら、孤立も孤独もネガティブは思考である。孤立を怖れて安易な徒党を組む人間は少なくないが、孤立を何ら怖るに足りぬという強い精神力は、親の子どもに対する教育カリキュラムに存在する。いじいじ愚痴ばかり人間、周囲の迷惑この上ないが、強く逞しい人間が、周囲から重宝されるように、そういう自己教育力を育むべきかと。


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    病気になったら病気と闘わねばならない。風邪やインフルエンザにしろ、ケアは必要だ。何もしないで自己治癒に委ねる方法もあるが、自分のように医者嫌いは少々のことでは医者にかからない。理由はいろいろあるが、嫌いなところへわざわざのこのこ行きたくないというのが最大の理由。何もしないでも体内で抗体が頑張ってくれているのを知っている。

    すぐに医者に行く人もいるが、行かない人の性格は大雑把では?自分を念頭にそう想像する。捻挫をしても医者に行かず自己治癒に努めたし、どうすれば治るくらいはネットに情報が満載だ。直近ではウォーキングによる足裏筋膜炎で、酷使が原因なら、安静とまでいわずともなるべく使わないようにすれば治るのは当然で、ネットにもそのように記されている。

    医者に行ったところで、飲み薬があるでなし、塗り薬があるでなし、ネットには親切に、「足裏筋膜炎の改善のための6ステップ」なるサイトもある。尿路結石になった際も医師が処方してくれた訳の解らない薬は全く飲まず、ぴょんぴょん飛び跳ねればどんどん下に移動するだろうし、そんなことは医師でなくとも常識だ。意思は10mm以上の石は自力で出ないといった。

    衝撃波による破砕術を勧めるが、それをすぐにやらなければ死ぬわけでもないしと、自力で排出宣言をする。石が出た時、医師は、「良かったですね~、頑張りました」の言葉くらいかけてもよさそうなものだが、医師自身が、「絶対に出ない」、「聞いた事こともない」と言い切ったものだから、返す言葉がなかったのだろう。それを見て医師なんてこの程度の人間かだった。


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    患者の容態を心配するというより、自分の指示を聞くか聞かないか、それが医師の患者手なづけ法である。今度結石になったもう医者には行かない、そういう自信にもなった。「黙って座ればピタリと当たる」は易者の殺し文句だが、言葉の裏には、「ごちゃごちゃ言わずに聞け!」という傲慢が潜む。インチキ易者如きが何をいうかであり、自分は占いなど信じない。

    人の未来なんかわかるわけないだろう。医者も似たようなものだが、どうしても医者にかからなければならない疾病もあり、そこはまあ臨機応変だ。五木寛之の本にこう書かれている。「私は闘病という言葉が好きになれない。ある有名な医師との対談のなかで、医師はこういった。『結局、医者を信じて、絶対に病気に打ち勝つという強い気持ちの患者は治る」。

    これに対して五木は、確かにそうかも知れない。が、無気力な患者では医師の治療の甲斐もないだろう。治るものは治るし、治らないものは治らない。人間は所詮は死のキャリアであり、いずれ死ぬわけだ。老いにも病いにも、勝利などということはない。健康法や検査や、いくら努力しても病気は向こうからやってくる」。医師の言葉は患者を励ますもので、医者とて完ぺきではない。

    どんなに大金を積み、どんな名医にかかっても病気で死ぬ人は死ぬ。そこらの町医者であっても、治癒する人はいるわけだ。最近言われている、「QOD」という言葉は「Quality of death (クオリティ・オブ・デス)」で、直訳すれば、「死の質」だが、「QOL」=「Quality of life(クオリティ・オブ・ライフ」と共に定着してきている。こちらは、「生活の質」と訳す。

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    我々人間の人生の最終ゴールは死であって、したがって人間の人生は、「死へと向かう道」である。ゆえに、「死の質」とは、「生活の質」ということになろう。そうはいっても、「生活の質」となんぞや?ということだが、「生活の質」とは、「死の質」と表裏にあると考えれば、「理想の死を選ぶ」ということになる。それでは、「理想の死」とは何ぞや?である。

    何をすれば、「理想と思える亡くなり方」と言えるのか?昨日、「がんと闘わない選択をした」主婦の、「エンディング・ノート」もその班長となる。自分は自分なりに、ブログを書くことで、自分という人間についての自問自答をしている最中である。これまで人にイロイロ問うことはあったが、この年になれば我が身に問い、我が身に答えさせるのも一興である。

    自分の考えや意見を客観的に眺め、思考し、判断するのはいわゆる、「自己問答」、「自己対話」であり、相手が自分であるだけに面白い。自分に何かを問い、答えられないことなどあり得ない。答えが正しいとか深遠とかは関係ない。今の自分に問い、今の自分が答えることで良い。15歳の頃の日記には15歳なりの答えがあった。30歳には30歳の答えがある。

    何より自己問答は、時に自由な発想を生み出すものであり、何も真理や理想などを追いかける必要はない。「何が正しい」というのは、多くの場合に相対的であるのが人間社会なら、そこに絶対的真理を説くことが、どれほど重要かと自分は考える。つまり、対手にいるところの相対的善悪こそ、人間界に有用ではなかろうか?神の絶対真理を自分は必要としない。

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    その場の事象に合わせた有益なる相対的真理を思考できれば、人間は有能である。その程度の有能さが人間にとって十分と思っている。人間は世俗の事で悩み、苦しむものだが、そうした個々の悩みや苦しみを神に問うのか?いじめで自殺を考えている15歳に、「神に問え」というべきなのか?そんなことは露とも思わない。それで自殺が防げるわけがない。

    人間は絶対的真理というものを信じ、求めたいのだろうが、あまりに飛躍しており世に何の効用となる?宗教は難問を解決してくれるものではなく、神と自身の対話が信仰かなと。したい人はすればいい。自分は自己との対話の方が興味深く面白いから、それをしている。何をすべきかはそれぞれが自分にあった事をすればよい。だから、宗教者を批判はしない。

    ただし宗教者と会話をする時、彼らがいちいち聖書の記述を真理が如く羅列するから話が噛み合わない。神の言葉を暗唱する人間より、自身の、人間としての考えをいったらどうだ?それをしない宗教者と会話は何ともつまらない。彼等は神の言葉という真理をいつもぶら下げているようだが、神の言葉を知って行うなら、誰でも神の領域に近づくことになろう。

    おそらく神は立派であろうから、そういう人間がこの世に増えるのはいいことだが、自分的にはあまり仲良くしたい相手ではない。自分のようにバカをいい、羽目を外し、ドジもするような人間の方が親近感が持てるというもの。道徳的に立派な人は、あまりに世俗離れしていて避けられること多し。人間の目標は神に近づくことより、より人間になることかと。

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    結局のところ、人間は人間を目指すものである。他人が堕落していくなら、自分も同じように堕落する可能性を持つと考える方が人間的である。人間はどのような制度の中、無制度の中にあっても愚かである。そんな人間が、どう考えてみたところでユートピアに描かれる人生を送ることはできない。自らの愚かさを棚にあげて法外な要求をするところに誤りがある。

    人間がどうしても知るべきことは、さまざまな他人との関係の中における自分の存在であろう。「存在の限界」といった方がいいだろう。自分のような人生だけが人生だということは決してないが、そのように思う人、押し付ける人がいる。確かに社会というのは、これが人生だというような人生を作り、それを社会的圧力として集団の成員に強制をしてくる。

    「皆がやっていることをなぜあなたはしない」こうした圧力は人間の中に自動的に内面化され、内側から人間を規制する。当たり前のことが本当に当たり前なのか?と疑問を抱くなら多少は人間的だが、当たり前の事に批判を持たないのは、社会の奴隷である。その方が生きやすいから人間はそれを選ぶが、問題意識を持ち、問題提起をする人間への非難は集団いじめである。

    少し前、自治会(町内会)への入退会問題について記したが、「入退会は自由」との最高裁の判例で強制もどき圧力はやりづらくなったようだ。さらには任意団体でしかないPTAに強制加入を促され、会費を払わされたと訴訟を起こす人間も出現する時代になった。社会という集団圧力の中で、個の尊厳にひたすら向き合おうとする人間こそ、先駆者となり得る。

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    PTAなどに入りたくないという自由な考えを抱く保護者のために大きな礎となろう。その意味で自由を自由、任意を任意と叫ぶことは社会のためでもある。「自分の意思が反映されないままに支払ったPTA会費は、PTA側の不当な利益だとして14年6月に提訴したのは、おそらく自己の独善というよりも、こういう社会であってはいけないとの大義であろう。

    大層な金額ではないことを考えれば、こういう面倒な事にかかわろうとする社会正義への挑戦と考える。昨年2月における下級審の判決は、「会費納入袋を使って会費を納めていたことなどから、『入会していたと認めるのが相当』として請求を棄却されたが納得できないと、高裁に控訴していた。高裁は判決を出すことをせず、和解勧告に留まり、双方が合意を得た。

    和解条項には、「PTAが入退会自由な任意団体であることを将来にわたって保護者に十分に周知することや、保護者がそうと知らないまま入会させられたり退会を不当に妨げられたりしないようPTA側が努める」ことなどが盛り込まれた。自分が小学校でPTAに携わっていたころから、「PTAは盲腸のようなもの。必要とも必要ないともいえない」と言われていた。

    が、子どもに関わる事でもあり、取り立て問題にするような保護者も教師もいなかった。が、曖昧にされてきたものは何時の日か裁断は下される。人間にとって分離ほど怖く不安なものはない。それ故に集団に属す、埋没することは心のよりどころである。孤立を怖れぬ人が強いのは、集団の圧迫よりも、何が正しいかを見極め、追及しようとする勇気である。

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    哀しいかな人は社会的動物である。とはいっても、人間が個人よりも社会を尊重し、社会という場で力を合わせて生きて来た歴史をたどれば、いかに人間が個人として非力であるかを現わしている。恐竜と戦い、大型哺乳動物を餌として確保するためには、集団という圧倒的力が必要であった。また、物々交換で欲しいものを手にし合うことも社会の論理である。

    それはともかく、人間社会が複雑になるにつけ、社会の利点から一転し、社会と対峙しなければならなくなって行く。単純な例でいうなら、一人の女性を二人の男が見初めたにどうするのか?誰かに仲裁を頼んだところでどうにもならない。死をかけた決闘を編み出す以外になかった。これらの行為は「弱肉強食」と言われ、強い者が勝つという社会の掟である。

    「弱肉強食」は体力の問題と思われがちだが、人間に限っては「良心」の問題でもある。人間の体力には限度があるように、人間の良心にも限度がある。したがって、良心を否定するような行動をとる人間が、すべて悪人とは言い切れない。女性を得んがために決闘で互いを殺し合うという行為は野蛮であるが、決闘者たちが悪人とは誰も言い切れないだろう。

    無様な殺し合いなど止め、自分が身を引いて相手に譲ろうと考える人間が善人というより、理性的であるのはその通りだが、決闘を行う同士は良心の限界を知ったのだろう。限界を知るには力を尽くして倒れなければならない。良心を否定するか、相手を殺すか、自分が死ぬか、というところに追い詰められた人間にとって、上記の選択は自らの良心を問う行為であろう。

    単に野蛮、単にバカと眺めるのは簡単だが、誰より良心的であろうとした人間であるからこそ、良心的であることの苦しみを味わうのだ。「決闘など愚かなこと」という人間は、別の見方をすれば、自身の良心に無関心に生きようという結果かもしれない。武士が責任を取るために腹を切る行為も、自らの良心に忠実に実行する行為であろう。三島がそれを美化した理由がわかる。

    自身が正しいと信じた「理」が通らない時、それについて言い訳や言い逃れを用意すれば許される現代にあって、そうした殺伐な現代人を否定する証でもあった。三島は弱い人間であったかも知れない。が、それ故に死んで見せることで自らの弱さを克服した。負け犬は尻尾を足に挟んで、遠くから吠えるだけだが、自らの理念の敗北を知った三島はそれをしなかった。

    弱い人間が、その弱さゆえに大っぴらに社会に反抗せず、かといって抑えることのできない人間的な欲求の中に生きる姿を、多くの犯罪の中に見る。小金井市女子大生殺傷事件の被害者には同情するが、これを機に路上パフォーマンスの演者は、ファンから安易に物を貰うという行為を考えなければならないだろう。断るのも難しいが、断り方を学ぶしかない。

    素人であれ、ファンには崇める存在である。そこにはアーチストとファンという純然たる関係が成り立っている。そこに個人という自己をどのように持ち込むべきなのか?「アーチストは、ファンから頂き物は当たり前」という、誰もが身につけた道徳や価値体系では、どうすることもできない事態に直面した時、人間は個人の責任において態度を決定するしかない。

    裏返していうなら、その時になってはじめて真の個人が生まれ、アーチストという枠を超えた社会的存在となる。人間と人間との社会的約束事は、アーチストとファンという関係を超えた、社会と個人という問題に突き当たり、双方は苦しみ悩む。冨田真由さんは頂いた時計に返却に悩み、贈った側の岩埼友宏被告は、返却されたことに怒りを増幅させた。

    頂いた時計を返そうと思った理由を想像するに、そのことでファンという一定の原則を超えた何がしかのアプローチがあったと考える。贈り物で人の心や気持ちを支配しようとするのは、人としてはしたない行為だが、人は目的のためなら手段を択ばないというはしたない生き物である。物で釣るのが悪いのか、釣られる側が悪いのか、そのような思考は誰も持たない。

    そういう事について思考を深めれば、それをしない、受けないスタンスに行き着く。人間がいかに欲であるかは、頂き物を都合の良い論理で正当化できる名人であることで分かる。相手に何かをしてあげたいというのは、自身の都合であり、論理ではあるが、時間の経過とともにその事は不純な汚れた考えに移行する。利害の及ばない純粋な人間関係を自分は模索した。

    母親から純粋な愛情と与えられたものの一切が、交換条件となり、心を動かそうとする醜い動機になりつつあることに敏感にして気づいた自分は、人から頂くものを純粋と思わなくなった。したがって、自分が相手に贈り物を行為する場合は、そのことで相手にどのような仕打ちを受けようとも受け入れなければ、それをすべきではないという境地に至る事になる。

    お金を生み出すことのできない子どもは、欲しい物ばかりである。それを良い事に親は子どもの心に誘惑を投げかける。与えることで信頼を得、人気を得ようとする。とどのつまりは行為の恩を着せようとする。こういう不純で汚い親子関係がありか?人間関係があっていいものか?幾度も親に裏切られ、嫌な気持ちにされられた少年は、二度とバカには従わないを決めた。

    「親切とは何か?」、「純粋な愛情とは何か?」その答えをくれたのが坂口安吾であった。彼の「赤頭巾ちゃんについての親切の考察」に触れて、自分は自らの卑しさと格闘することになった。卑しさとは物をいただくことだけではなく、贈る卑しさも同等の卑しさである。「人を裏切らない」、「人に裏切られたくない」。早い時期から思考がプラスになった。


    人間の集団への帰属意識は強烈だ。自ら属する集団であらば、たとえ自分の心が他人とつながっていなくとも、また、互いに信頼していなくとも、その集団に属していなければ自分の行く場所はない。現代人が不安解消の場としての集団は、たとえ形式的なものであっても、人間の集団への帰属本能である。人の不幸にお悔やみをいうのは、純朴な涙を誘う付き合いにおいてもである。

    お悔やみの言葉を言わないと相手から非礼扱いされる怖さからお悔やみをいう、ただそれだけである。あらゆることに気を使い、細心の注意をもって、意味のない礼儀を行為する。そうんなにまでしても、人間は集団と共にいることを望む。自分が決してそれをしないわけではない。人間には「個」の顔と「社会」の顔があり、それを使い分ける必要がある。

    昨日愛知の知人からコメダ珈琲についてメールがあった。なんでも「小豆小町」という新メニユーらしく、粒あん入りコーヒーであるという。お汁粉をコーヒーで割った感じの甘いコーヒーで、まあまあ美味しかったです。彼女は「コメダでコーヒーが美味しいと思ったことないです」というほどの「通」である。以前「小倉トーストmilky」も紹介いただいた。

    彼女は社会と個のかかわりについて一文を寄せた。「寂しがり屋で人との関わりをたくさん持つことが好きな私でした。もちろん今も友人らや仕事関係などなど人との関わりは私なりに大切にしていますが、少し無理をしているように感じ始めていました。ブログに『ひとりでいることで、自分の心の中のあれこれが静かに燃やされる』という一文は、心の中にすっと入ってきました。

    自分は以下の返信を送る。(要訳)「多分あたなも、変わったように思われます。あなたがブログを止めたとき、そう感じました。孤独を避けたい、孤独は淋しいと思うのが人間でしょう。が、他人が自分の孤独を解消してくれることはありません。一時的効用はあっても、根絶的な孤独解消はしてくれません。ならば、いっそ孤独を楽しんだらいいんです。

    孤独から逃れるよりも、孤独を選ぶ方が、孤独を楽しむことになるんです。あなたも、人から、"いい人"と思われたい、「しょぼい自己満足」が軽減されたのではないでしょうか?他人に自分の貴重な時間を分け与えることを抑えれば、それだけで孤独を楽しむことになります。「独りで生きていける人が二人で生きていける」という言葉を随分前に聞きました。

    大体の意味は分かったようでしたが、今はよくわかります。自分なりに思う、「二人」とは、孤独同士という意味なのです。それぞれの一人を大事にすることで、それぞれが楽しく生きていける。つまり、相手に覆いかぶさらない、束縛しない、尊重する、それでこそ人と人でしょう。二人は、個人と個人という分かり易い団体さんに思えます。最近はいろいろなものがよく見えます。

    生きてるのが以前にもまして楽しい。これくらいになれて、やっと死ぬ価値がみつかりました。親子も個人、友人、知人も個人同士、互いが相手のことをよく分からない誰もが個人同士。こんなことが今までどうして分からなかったのか?おそらく、自分ばかり見ていたからでしょう。相手を見るとは、よく見る、観察するではなく、そっとしておいてあげること。

    見ていながら見ていないフリをする、それ即ち『相手を見る』ということではないでしょうか。」ブログも長文だがメールも長い。これで要約だから本当はさらに長文。数か月に一通というやり取りだから、若い人にありがちな5文字、10文字メールとは意を異にする。たまにコーヒーを飲むときココアを混ぜるが、小倉あんコーヒーとはいかにも愛知。行ってみようか…


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    全国大学生活協同組合連合会(東京)が行った調査でこんな実態が明らかになった。書籍購入費も減る一方、スマートフォンの利用時間は増えた。調査は学生の生活状況を調べるため、毎年行っており、全国の国公私立大学30校の学生1万155人が回答した。1日の読書時間が「ゼロ」と回答したのは49.1%で、現在の方法で調査を始めた2004年以降、最も高かった。

    平均時間も24.4分(前年比4.4分減)で、04年以降で一番少なかった。1カ月の書籍購入費も減る傾向で、自宅生が1450円(同230円減)、下宿生が1590円(同130円減)で、いずれも過去最低だった。2014年の調査では40.5%だったが、2年を経て約10%近く上昇したことになる。数字の上昇は何を意味するか?本を読まなくなった大学生が当たり前に増えたということだ。

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    その事が大学生の今後にどう影響するかは社会学の分析だが、本を沢山読む子どもと読まない子どもは単純に知識量の差を示すように、大学生にもその影響はあろう。ただし、どういう本を読むかについての詳細がなく、情報入手に関していうなら、ネットの情報が新しく優っている。したがって情報の量や知識については昔と同水準もしくはそれ以上かも知れない。

    「本を読まない」ことにそれほど驚くことはないが、文学部の学生が小説を読まないのは今に始まったことでもないが、法学系の学生が法律書を読まず、医歯薬系の学生が専門書を読まないのはどうだろう。本を主体的に読み自分で物事を考えるという習慣を身に付ける必要のある学部生はいる。では、「なぜ本を読まない?」の前に、「なぜ本を読む?」を考えてみる。

    単純にいえば、「欲求の充足」だ。本は読みたいから読み、読まないのは、「読みたい」充足がないのだろう。医学系の学生にたくさん本を読んでもらい、知識を吸収して欲しい理由は、社会において自分の欲求を充たすことが、そのまま他人を利することに大きく繋がることになる。「本を読みたい」、「知識を習得したい」という利己心は、利他的な結果に直結する。

    専門学生には出来るだけ多くの知識を吸収し、能力を高めてもらいたいと誰もが思うことだ。こともあろうに、先般、千葉大医学部生による集団暴行事件は、学生が本を読まなくなったなどとは比較にならない呆れた事件である。彼らがそのまま医師になることなど誰も望まないが、彼らの顔写真や実名が伏せられた来た背景には胡散臭い事情があったようだ。

    千葉大学医学部の山田兼輔、吉元将也、増田峰登が、藤坂悠司が企画した実習後の飲み会で女性を酩酊させて暴行に及んだという事件は、既に山田兼輔たちは逮捕されていたが、事件が報道されたのは11月22日である。逮捕されているにも関わらずに、実名報道が無いことに物議を醸しだしていた。それに対して千葉県警は報道機関に対し、下記の返答をしている。

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    これに対してネットを中心に、「慶応ミスコン事件」の時と同じように騒がれ出したのは、犯人の親が大物だから千葉県警は事件を隠蔽しようとしているという見方だった。他にも在日だからだという推測も飛び出すなど、千葉県警が実名を公開しないことで憶測が飛び交っていた。ネット内での騒動に対して千葉県警は、『実名を公開する可能性がある。』と前言を撤回。

     
    その後、日刊ゲンダイが実名を伏せた状態で事件を先行記事にし、それらの情報を元に山田兼輔の名前と親の華麗な経歴が露わになる。その結果、千葉県警は報道機関に実名を公開し、12月5日に報道された。あれだけ実名を公開する事を伏せようとしていた千葉県警は何故、実名公開に踏み切ったのか?日刊ゲンダイの取材力もあるが、ネットのパワー、影響も大きい。
     
    本件について容疑者の親族・身内が地元の有力者であることへの配慮であるなら、国家権力の堕落である。警察や司法が信頼を失った国家は国家とは言えない。それほどに国家権力による真実の隠蔽は、民に大きなストレスとなる。ジャーナリズムは国家の嘘を暴き、社会正義を貫くことだが、今や日本のジャーナリズムは萎縮し、国家の番人になり下がっている。

    ならば、「日刊ゲンダイ」のような小紙に託されるべく正義もある。千葉県警の実名公開判断に賞賛の声もあったが、そこに至る段階で隠蔽しようとした節があるのは消せない事実である。地元の名士であろうが、有力者であろうが、法の元には等しく平等であり、司法関係者はそれに乗っ取って対処すればいいことだが、有力者の方が頭を下げるのだろう。

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    容疑者たちにあっては、その後において医師としての道を閉ざしたくないという親戚縁者の思いであろう。「親バカ子バカ」という言葉は、「バカな親からバカな子ができる」ともいえるが、「バカな子の親はさらなるバカ」という認識を抱く。つまり、「バカな子ほど可愛い」という親の欲目が、バカな子の親をより以上にバカにする。犯罪者は医師にすべきではない。

    医師法第四条に以下の規定がある。次の各号のいずれかに該当する者には、免許を与えないことがある。「3.罰金以上の刑に処せられた者」(一部省略)。「免許を与えないことがある」は、免許を与える場合もあるという事。速度違反で罰金刑になった医学生が、国家試験を受ける際に厚労省に嘆願書を提出し、免許取得の許可を貰うのはよくある話らしい。

    「罰金刑はダメ」としながら、許可を出すのか出さないのかもどこかキナ臭いが、許可が下りなければ、免許を取得は不可能だ。また、弁護士においても弁護士法第七条には、次に掲げる者は、第四条、第五条及び前条の規定にかかわらず、弁護士となる資格を有しない。「1.禁錮以上の刑に処せられた者」(一部省略)。司法修習にも同等の欠格事由がある。

    となっているが、自分についた弁護士があまりにも無能すぎて、自分が弁護士になるしかないと一念発起して弁護士になった元犯罪者もいた。大阪弁護士会所属の大平光代弁護士は、いじめ~割腹自殺未遂騒動を経て、14歳にして暴走族に入る。さらには暴力団の世界に入り、組の人間に認めてもらいたい思いから、16歳で“観音様に蛇”の刺青を入れる。

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    その年に組長と結婚し、その後離婚する。21歳の時に組を離れて大阪・北新地のクラブホステスとして働き始めるも、父親の友人大平浩三郎と再会。後に光代の養父となる浩三郎の強い勧めで立ち直る決意、近畿大学法学部通信教育課程に入学後、同大3年の29歳で司法試験に合格した。2000年、波乱の半生を描いた自伝『だから、あなたも生きぬいて』(講談社)を公表する。

    人にもよろうが、自分は弁護士免許と犯罪歴は関係ないように思う。ただし、前科や犯罪歴のある司法試験合格者は、検察官や裁判官には絶対になれない。中学1年時の担任Kは、「本を読みなさい」としつこく生徒に言っていたが、自分に本の魔力を教えてくれたのは秀才のYだった。彼が当時松本清張を読んでいることに驚き、それに負けたくないと追従した。

    担任Kは、「本を読んで偉くなれ」といかにも教師らしい能弁を吐いたが、昔は教師といえばKの如き命令口調が普通だった。もちろん、昔の学校そのものが封建的であった。歴史に出てくる、「封建制度」を機に、「封建的」について考えたことがある。学校で学問として教えない、「封建的」、「封建性」というのは、人間の差別観に立つ尊大な、あるいは卑屈な態度や行動をいう。

    人間の差別観とは言うまでもなく、男尊女卑、身分の高低、人種による有能感など、性別・身分・人種の違いから前もって価値を決定しているばかりか、必要以上に威張り、また反対に必要以上に自分を卑しめる態度や行動である。日本の封建制度は、「士・農・工・商」に代表される身分制度にあった。武士の子は武士、百姓の子は百姓としての人生を全うする。

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    武士は刀を持ち、暴力を背景に人々を支配し、物を生産することもせず、農民の勤労をしぼり取る。商人に対しては、金の働きが自分たちの特権を奪うことを心中で怖れ、表向きに商人を批判していた。現代においても、「親は封建的、教師は封建的」と思われ、言われるのだろうか。中3の孫を見ていると、自分たちの中3とは別世界に生きているように感じる。

    スマホを駆使し、コミュニケーションをとり合う。こんな時代背景で、本の魅力などは当然ながら陰る。本には文字しか書いてない。したがって本を読まぬ人は、文字の奥に広がる想像の世界観とは無縁である。漫画も本だが、あれは噛み砕いて平易にしてあり、あまり脳に汗をかかない。高価なゲーム機に部活で使用するシューズとてプロと同等の数万円という値段。

    すべてに満たされた今の子どもを羨ましいとは思わない。物質的なこと、金銭的なことを優先して考えるさまを即物的な生き方といい、また、主観を排して実際の事物に即して考えたり、行ったりするさまを、即物的な表現というが、「即物」とは、「見えない物には価値がない」という考え方にある。我々の世代観でいう男の価値は、「信・義」、女の価値は、「気立て」である。

    大学生の読書時間の少なさに懸念はあるが、スマホ全盛時代にあって、当ブログもそうであるように、ネット内に思考材料は事欠かない。よって、「本を読まない=知的水準が下がる」というのは早計であろう。印刷・製本の時間ロスを考えるなら、ネットのリアルタイム情報は、本よりはホットである。本を読まぬ学生50%より、全体が即物的思考の流れに憂慮する。

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    昔、二宮金次郎を称賛されたが、偉くなろうと読書した記憶はなく、読書は単に面白かった。今の時代、偉くなるためには塾に行く。今時の偉い人間とは、難関校に行く人であるが自分は批判的だ。自分が思う偉いの本質は、学業成績とは無関係の幅の広い人間的魅力である。「人間的魅力」とは抽象的な言い方だが、「人間的魅力」を具体的に指摘しろと言えば可能である。

    時代は変わった。薪に読書の金次郎の銅像は、どんどん廃れ、今や歩きスマホ全盛だ。ただし、歩きスマホの銅像が建った話は訊いてない。「魅力的な人間でありたい」と、「魅力的な人間になりたい」は違う。「ありたい」は願望、「なりたい」は、願望に努力が加味された意志となる。他人はともかく自分も、「魅力ある人間になりたい」の意識はあったが、未だ山麓…。

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    「魅力的な女になりたい」と女は言うが、女の言葉は一般的に外面的魅力を言う。「内面美女」という言葉もあるにはあるが、女性がどれだけ外面に思いを抱くか男にはワカランこと。外面的魅力といっても、「容姿端麗」以外にも、洋服のセンス、メイク、笑顔、姿勢、マナー、それにしぐさや振る舞いといった個人の外に現れるもの。要は見た目、外見である。

    女性に外面的魅力を求めるのが男であった。昔から男は女性に利発など求めていなかった。その事が女を見られる意識を強めたのだろう。女は子を産む道具、男の性欲のはけ口、家事・育児をするだけで良いという封建制度の奴隷であり、女性蔑視の思考や言葉は当たり前に存在した。ショーペンハウエルのような女嫌いになると、女性に対する言葉は手厳しい。

    「女は18歳から28歳までがよい。この年齢以外はどんな女も魅力的でない。生理の終わった女には嫌悪の情を抱かせる。美しくなくとも若い女は魅力的だが、美しても若さがなければ魅力はない。さらに、痩せた女には拒絶反応を起こす。豊満な女の乳房が男たちに魅力的なのは、女の生殖機能と関連する。とはいえ、あまりに肥満し過ぎた女は嫌悪感を与える。」

    こうした男の女への「品定め」は現代にも通ずる点が多い。「商品」としての女性に反抗し、「ミスコン」中止を叫ぶフェミニストもいるが、「商品」としての魅力に順応する女性に、「ミスコン」否定者はいない。「美しい」、「綺麗である」というお墨付きやレッテルを貼られることで、自己愛が満たされる不思議な生き物が女である。女性に対する次の言葉も納得する。

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    「女性が鏡に映して自分を見るのは、自分の姿を見るためでなく、 自分がどんなふうに他人に見られるかを確かめるためだ。」

    そうかどうかは、女になっていないからわからないが、思春期時期の女は一日中でも己の顔を鏡で見ていられる。男は髭を剃る、鼻毛をチェックする以外、自分の顔をあまり見ない。自分の顔に興味もない、誰にどうみられるかなども同様だ。「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」。この言葉は作家の藤本義一と言われている。履歴書はさて、請求書の意味は?

    「あれが欲しい、これも買いたい」などの物欲女を請求書に見立てた比喩表現であるという。確かに男の顔には、「苦難や苦労を乗り越えて生きてきたその男の人生が宿る」、と言われるほどに社会は厳しい。社会が厳しい事もあるが、社会は男にとってさらに厳しいという現実だ。元々は藤本義一の言葉ではなく、大宅壮一の言葉をタイトルにして発刊した。

    物欲の根源が何であるかの心理学的考察が、「欲求不満」とは言い得ている。不満が「欲」を強めてしかりである。他にもストレスや情緒不安定などの要因があり、貧困が生格を卑屈にしたという環境的要因もある。自分さえ満足ならそれで良いと言う、「身勝手」な心根の持ち主に顕著だが、己の身勝手は人に迷惑をかけるという思考に至らないのは何故?

    だから自己中になれるということか。以前、とある新興宗教に熱心な知人が、「元品の無明」という言葉を説明してくれた。人間の根本の煩悩の一つだが難しい説明なので、「もっとも根源的な無知」と理解した。仏教には難しい言葉、用語が山ほどあるが、自分が生きるために得る理解ならそれで十分だが、人に説いたり説明したりしたい人にとっては一つの素養である。

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    人間は生まれ落ちた時点においては世間に暗い。当然にして何も知らないことになるが、物事の原理や道理や人の心の動き、移り変わりなどは社会体験で得るだけでなく、書物などから知ることも大切だ。「5」しかない自分の頭の中身を、「10」に増やすのも、「100」に増やしてくれるのも書物である。それはまた、人間的教養や魅力として自らに蓄積されて行く。

    「本など読むのが面倒くさい」という人の思いは理解する。わざわざ面倒くさいことをする理由は一つもないが、わざわざ面倒くさいい事をやる人間には、それだけの理由があるということだ。面倒くさいことを単に、「やる」、単に、「やらない」ではなく、面倒くさいことをやる理由を、「持つか」、「持たないか」であり、面倒くさいことをやる人にとっては面倒でなくなっている。

    面倒なことでも報酬を貰うから仕方なくやる。という理由もあるように、自分の人格を向上したい、魅力ある人間になりたいという内面的理由も、人を行為に駆り立てる。これを自己啓発というが、「面倒くさいことはやらない」と、好きに生きるは人の自由。そういう人間に批判はないが、たとえ周囲の誰かが読書の効用を説いたところで、「馬の耳に念仏」であろう。

    本をまったく読まない人間が職を求めて人事担当の自分の前に座ったと仮定する。「本なんか面倒臭いので読みません。そんな暇があったらスマホでゲームします」という人を入社はさせない。「本は素養・教養を高めるので、時間を割いても読むようにしています」と、こちらの人間を入社させたい。これは読書量の差ではなく、それがもたらす人の質差を想像する。

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    「読書は好きです。特に霊や宇宙についての本しか読まない」という人がいたとする。さらには、「本は好きです。世間は広いし、世の中のあらゆることが興味の対象です。だからジャンルを設けず乱読しています」なる人物。自分が人事担当なら、後者を雇いたい。人間の質差というのは、会話や雰囲気に現れようし、広い視野を持った内面的魅力ある人材に期待したい。

    内面的魅力とは、気配り、思いやり、優しさ、謙虚さ、力強さ、素直さなど、内部から滲みでる言動をいう。どう見たって男にはこちらが必須と思うが、イケメンになりたいと願う男もいないわけではない。ただ、イケメンになりたいと願ってなれるものか?女性は美しくなるためには金銭も労力も惜しまないが、男が努力してイケメンになろうとするとは思わない。

    それもあってか、男は、「内面的魅力」を重視する。ない物ねだりをしても仕方がないと男は理性的である。『ピーターパン』といえば、ウォルト・ディズニーのアニメ作品で有名だが、ウィルトは原作者ではなく、イギリス・スコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲、『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』(初演1904年:全三幕)が原作で知られる。

    ジェームズ・バリーはこんな言葉を残している。「魅力があれば他に何もいらない。魅力がないなら、他に何があろうと役に立たない」。それほどに、「魅力」に拘っているバリーにとってかけがえのない、「魅力」とは何であったろう。自分の場合、魅力的な人間の位置取りは、むしろ魅力的でない人間への反面教師としている場合が多い。理由はその方が身につきやすい。

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    世の中に、「魅力的」なる人は沢山いるが、人の長所、いいとこを模倣し、身につける努力よりも、他人の短所を非難し、そうなりたくない、ならない努力をする方が即効性がある。嫌な性格や態度の人間を沢山つかまえ、そんな風にならないよう心掛ける方が、いいところを真似るよりも簡単である。羅列すると、貪欲、傲慢、無慈悲、卑屈、姑息、自慢、差別、陰口など…

    「人のフリ見て我がフリ直せ」という奴だ。人を理解することはなかなか至難である。障害者を理解しようとしても、自分に未体験のさまざまな事柄や分からないことも多いが、それでも我々がそういう人と付き合っていけるのは、「理解をするフリ」ができるからだ。人を理解することの難しさは、人間が他者とのかかわりのなかで、かかわる限界を知ることにある。

    昔、妹が万引きをして親が呼び出しを食い、その後に自宅で執拗に責められた妹を見るに堪えかねて、万引きとは何かを知りたくて姉は万引きをしたのだという。「いい子で親に好かれてるお姉ちゃんに何が分るんよ」と妹に言われたことが姉にはショックだったらしい。この話を聞かされた自分もショックだったが、姉の気持ちは何となく理解に及んだ。

    が、そこまでするものかという驚きであった。「私は知らないことを知らないと思う」とソクラテスがいったように、自分が知らないことを知るためには、行動するのが手っ取り早い。思考だけでは、「分かる」という部分においてはほど遠い。「本は読みません。面倒くさいし、興味ないです」。という生き方は個人の自由だが、他人がそれを認めないなら文句は言えない。

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    親が我が子を、「世界一の息子」と信じるなら教育の成功だろうが、親の欲目や思い込みでなく、本当に良いかどうかを実証して見せる必要がある。「可愛い子には旅をさせ」という言葉は、他人からの客観的評価を得ろということ。親が我が子を社長に世襲させても、会社が親個人の所有物でない以上、経営者は有能者であるべきだが、当然ながら世襲社長には無能が多い。

    「自分の会社は息子に譲りたい」、という子に美田を残したい気持ちはわかるが、会社の創業者や親から会社を受け継ぐことは、社の内外から反対や批判が出るのも当たり前だ。ただし、「社長の息子というだけで、能力があるとは限らない」という周囲の目など、創業社長にとってどうでもいい。だからか、「会社は誰のものか?」が問題にされない個人経営、中小企業に世襲社長は多い。

    親バカ子バカの連帯なら種々の問題も出ようが、親がバカでも有能な息子もいる。「社長の息子なら仕方がない」と迎える場合も多いが、問題の本質をいうなら、やらせることは悪い事ではない。経営的資質の有無を知るためにやらせてみるのは構わない。ただし、ダメなら降ろす、クビもある得るという責任論が明確にあれば、息子の社長抜擢に異論はない。


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  • 02/27/17--16:03: 理想の肉じゃが
  • 「日本人の好きな食べ物ランキング」というサイトがあった。見た。順位があった。が、それがどうなんだ。と、そんな順位に何の価値があるかと思えば、記事にしようとも思わなかった。ブログとは自己の主観であり、自己主張でいい。偉人の名言や発言は他者の主張だが、凡人が偉人の発言を引用するのは、凡人ゆえに自己の主張を強める意味において有用だ。

    引用は凡人ゆえに許される。学者が他の学者の発言引用は、学者の沽券に関わることでは?それでは学者としての価値を落とすばかりか、学者として羞恥の極みである。自ら言語学者を気取るある三流学者が、彼自身のブログで当ブログを、「日本語の使い方がなっていない」などと批判した。三流の証明と感じたのは、自分が相手にしなかったことへの剝き出しの返報感情である。

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    しつこく物を押し付ける人間には激しい嫌悪を抱く自分ゆえに、学者でなくとも見切った態度は頭にこようが、権威を傘に偉そうな物言いをする人間には、露骨な態度をとる自分だ。「頭に来て他人のブログを攻撃する度量の無さ」はともかく、何にしてもプロはアマに目くじら立てるようでは情けないとの持論もある。対等で罵り合いたいなら、まずは肩書を取ることだ。

    専門職や研究職とは自己に厳しく、それ故の功績である。学位や博士号を自慢したところで、それが何の足しになり、何の役に立つのか?医師が国家資格をとったからといって名医であることにはならない。少なくとも、静脈に打つ注射を動脈に打ち間違うことはないだろう。国家資格を取った程度で威張っていられる医者は、こちらが素人であるが故にである。

    高次専門職が人間として立派だ、優れているだのは他人からの称賛であればいいが、威張りたい専門職が多い。これが平等社会の弊害という見方もできる。つまり、彼らは平等では面白くない。だから威張ることで無言の階級闘争をする。学歴社会も同様の論理で、大学に入学したこと自体は、実は何の証明にもならず、本人のある手段に対する目的でしかない。

    ところが、「平等社会」を連呼・標榜すれば、下層階級は言葉の恩恵に預かるだろうが、上層には面白くない。それが、「学歴」あれ、何がしかの格差や能力差を格付けし、自分を認めさせたいという心理が働く。「平等」を強調すれば格差はさらに強まることになる。「芸能人の格付け」というテレビ番組は、やってることのくだらなさゆえに、シャレであること自体が面白い。

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    が、「格付け」という言葉を臭わせている。東大に入学、京大に入学したは、努力の結果であるが、そのことで、「かりそめ」とはいえ、自分たちへの格付けを彼らは求めている。なぜ「かりそめ」なのかに注釈をつくるなら、果たして大学出の彼らが、社会で即戦力足り得るだろうか?なのになぜSラン、Aラン大の人材を企業は新卒として一括採用してきたのか?

    確かに高度成長期における人手不足もあって、戦時中の将校などの幹部候補生を必要とした時代の要請もあった。地方の中卒を金の卵と称し、第一次産業を見限らせて都会に流用するほどに第二次産業、第三次産業は発展を遂げた。そうした中において、雑多な労働者階級に対し、1割、2割の大学進級組が支配階級として重宝されたのは言うまでもない。

    中卒・高卒の労働者階層にとっては、「大学出の偉いさん」という言葉も、普通にまかり通った時代であった。説明するまでもなく、それだけ大学出は特異な人材だったが、社会構造が変わりバカが大学に行く時代になると、「大学出の偉いさん」という言葉は死語となるばかりか、有能な職人を顎で使えるほどに専門的知識を持つ大学出が少なくなった。

    そこで生まれたのが、「大学出のおぼっちゃまがどれほどの者」と、見下げられる現場管理者として悲惨な大卒エリートたち。「習うよりは慣れろ」という慣用句がある。単純に言えば、東大の秀才が入社後にスーパーのレジを卒なくこなせるか?キャリア10年のパートさんとどっちが優秀か?極端な例ではなく、どんな仕事であれ、能力の限度を超えた量はキツイ。

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    電通過労死自殺の現実は今回に始まったことではなかった。有名大を出ても有名大だから入社させてやったのだという姿勢は、変わることのない驕り高ぶる企業の論理である。確かに東大生は優秀かもしれないが、スーパーのレジに東大生を雇う必要はないというなら、東大生には東大生としての仕事があることになる。それがいかなる仕事であれ、いかほどの有名企業であれ…

    死ぬほど辛い仕事をあてがわれ、要求された東大生は幸せなのだろうか?世間には、「電通に勤務している」と自慢できるが、どこの会社でどれだけ辛い仕事をしているかまでは言わない。高橋まつりさんは、そのことをブログに綴り、自らを癒すしかなかった。スーパーのパートなど誰でもできる仕事と蔑まれる事もあろうが、そういう仕事も誰かがやらなければならない。

    企業において社員教育というゆとりのあった高度経済成長期、「歩留まり」の申し子社員たちはいい思いをした。日本企業が豊かだった時代はいにしえ、今はそんなゆとりはない。「大学は出たけれど」は、小津安二郎の1929年度作の映画。人間の陽と陰を巧みに描いた名匠小津ならではの作品である。時代の要請や流れもあって、企業の一括採用は続いて行く。

    ソニーが履歴書に大学名を不記載などの案を出し、有名大学信仰に問題提起をした事もあった。それ以降も、学歴という「かりそめ」の人間的格付けを信じたことへの後悔は、多くの人事担当者が経験させられた。近年は筆記試験よりも面接のウェイトを重んじると企業が多いが、これすら、「かりそめ」の人的格付けからの脱却を図らんとする意図である。

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    こんにちほど企業が疲弊した時代にあっては、さらに良い人材を求めたいというのが、企業の生の声であるが、その判断基準として、東大や京大を筆頭とするSラン大、私立の雄としてのAラン大が課した、高度なる試験、あるいは難しい試験を合格した者を、「以て尊しと為す」という判断基準は、その出発点において、「かりそめ」といえども合理性がある。

    あの「森下仁丹」が、2017年3月1日から、50代をターゲットにした、「第四新卒採用」を始めるという。前職でのキャリアを問わないポテンシャル採用で幅広く人材を募集するが、狙いについて同社の広報担当氏は、「イノベーションを起こせるのは若い人だけではない。豊富な人生経験、ビジネス経験を積んだシニアの方が大きな可能性を秘めている」と説明する。

    3月1日から求人広告を出稿するというが、求人広告のキャッチコピーは、「オッサンも変わる。ニッポンも変わる」だ。均一的価値からの脱却こそ、「イノベーション」の語句に相応しい。「やる気」に関してはおっさんも若者も関係ない。自分なども、そこらのくたびれた若僧よりは、何倍もやる気も体力もある。あとは、自信が実感できるか否かの証明である。

    誰もが、「平等」という言葉に欺瞞を感じながらも、いかなる平等社会にあっても、組織には必ず「上・中・下」があるその現実を知っている。にぎり寿司の、「特上・上・並」をみれば、素材の差が価値の差である。かつての貴族社会、封建社会のように、「上・中・下」が血筋や身分や階級で決められているなら、文句や言い分は別にしても、一律納得のいく決定である。

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    そでなくなった現代社会において、「遊ぶ」時間を犠牲にし、自らに束縛をかけ、恋愛や趣味すら自己制御をして、自らを教育するという能力を持つ者、あるいは強制的に管理下に置かれる者でない限りは人間の、「上・中・下」の質は定められない。そればかりか、学問以外の、「徳」や、「知性」といった能力も含まれるとあらば、平等社会とは実は大変な社会である。

    だからといって、封建的階級社会を擁護するのではないが、端的にいえるのは、平等主義社会というのは、自分自身を教育能力(自己啓発能力)があることを証明する必要が要求されることになる。家康から15代、264年続いた徳川封建時代にあって、「世は生まれながらにして将軍である」の3代将軍家光だが、考えてみるに、封建制度には良い点も無きにしも在らず。

    封建制は、現在の社会システムでみて欠点ばかりで何も良い事はないが、中世初期のヨーロッパの国々は封建制を導入したくてしたわけではなく、封建制を導入せざるをえない状況であり、否応なく封建制になっていったが、もし、中世初期のあの時期にに封建制が導入されなかったら、ヨーロッパは一時期のソマリア国のような無政府状態になっていたと思われる。

    東大入学者も、フランスのバカロレア大学入学資格試験も、医師や司法資格の国家試験も、最低限ここまでの能力に到達したという証明である。ありがちなことだが、中学入試で偏差値70の難関中学に入学したはいいが、エレベーターで高校に上がれるものの、高校入学段階の偏差値は50以下で、公立高に行ける力もないほどに、学力を落とす子どももいる。

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    本記事内容のどこが、「理想の肉じゃが」という表題?と、他人は思うだろうが自分的には理解している。昨日自分は苦心の末に、「理想の肉じゃが」を作ることができた。正確には、「理想(に近い)肉じゃが」であり、理想の余地はまだまだ残っている。そういう書き出しで始めたのだが、思考が変わり、表題とは違う方向に文が行く。思考より先に指が動くのを止められない。

    そのうちどこかで、「理想の肉じゃが」レシピに落ち着くハズだ。それで良しと、結果よりプロセス重視はいつものこと。拘りの無さが物事の形式論を打ち砕く。人はもっと自由に、人はもっと自己主張を…、何をやっても許され、怖がるものは持たぬ方がよい。人が何か言おうとしたとき、叩いたり文句をいうのは非生産的である。その事を知らぬ無知加減が滑稽である。


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    何においても事物の奥は深い。浅海に比べて深海の探査・調査が至難であるように、物事においても奥を探ることは一筋縄でいかない。だから潜入したくなるし、出来る事なら極めたくもなる。『スターウォーズ』や、『E・T』や、『未知との遭遇』の面白さと、キューブリックの、『2001年宇宙の旅』の面白さは別物であろう。前者は痛快、後者は難解といっていい。

    痛快は感性の快感、難解は理性の快感、とこれは自分なりの感想表現だが、痛快活劇映画は血が騒ぎ、手に汗をかく。抽象的で難解映画は脳に汗をかく。キューブリック作品の難解さは、次作、『時計じかけのオレンジ』においてもトラウマ級衝撃。痛快と難解は人の好みだが、巷いわれるように、頭脳労働者は漫画を愛読するなど、日々酷使の脳休めをする。

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    逆に、普段あまり頭を使わない人は、脳が錆びつかない程度に、難解書を読むなどして頭の体操をした方がよいだろう。簡単平易なものよりハードルをあげれば、心理的高揚感を味わえる。ふと、最近の子どもを見て思うは、競争社会の激化の中で彼らは自分の立ち位置をどこに求めている?競争社会である以上周囲は煽り、どの程度の抑圧を感じているのか?

    主体的に勉強をして、偉くなりたい、有名大学に入りたいと、小学生、中学生からそんな風に思う子もいることが自分ら昔人間にとって脅威である。「遊びをせんとや生れけむ」という時代の生きた世代だ。「末は博士か大臣か」とも言われたが、これはいつの時代においても、親の子どもに託す心情である。塾の夏期講習で鉢巻姿の子どもたちにはかなりの違和感がある。

    夏休みが始まった当日、部屋に鞄を投げ出し、その鞄が8月30日くらいまで同じ場所にあった小学生時代が懐かしい。「子どもは遊ばなきゃ、ロクな人間にならん」という父の言葉が背中を押した。昔と今を比べ、今の時代は確かに恵まれているが、それイコール幸福とは言いきれない。時代を比較するより、今の時代はおっさんには分からないというのが正解だ。

    子どもを早くから学問へと追い込むのも親の欲目であるが、それなくして、子どもが主体的に勉強したいなどあり得ない。勉強より、遊びから多くのものを授かったのは間違いない。となると、今の子どもは勉強から何かを授かるのだろう。早くから物を覚える訓練を強制されることで自発的な活性脳が低下するのは、パター認識の弊害である。それでも親は勉強を強いる。

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    小学生が遅くまで塾通いする光景は、理解する、理解できない以前に、「一体どういうこと?」の疑問でしかない。目指すものが何かを理解するが、そのことで失いものの大きさを憂うからだ。ある灘高OBが、「東大受験は朝起きて歯磨きをするのと同じくらい簡単なこと」といっていたが、学校内が毎日それで動いているなら、そういう言葉も普通に出よう。

    「ああ灘高、日本で一番勉強ができた子達の『その後』…」というサイトに出身者がたむろしているが、内容自体は各県の天才が集いながら研鑽して行く将棋連盟の下部組織、「奨励会」と似たようなものだろう。糸谷哲郎八段の幼少時代を思い出すが、彼はやはり普通の子どもではなかった。広島は糸谷の他に故村山九段、山崎八段、片上六段らを輩出した。

    奨励会というところは、全国から天才少年が集うが、その中で研鑽し、揉まれながらも、多くがプロ棋士になれずに脱落し、なれたとしても最高クラスのA級にあがるものは数%、ましてタイトルを取るなどは、さらに一握りの棋士である。親から無理やり将棋を強制されることはないが、自分が好きで入った世界で、同じように励んでも人と人には格差が生じる。

    なぜに格差という能力差は生まれるのか?誰とて生きている以上、他人との差が気になる。生まれながらの貧困や富裕などの外部環境的格差は、本人の努力だけではどうにもならない部分があるが、同じプロ野球、プロゴルフなどの世界に入っても、歴然とある能力差。これは不平等というものか?自分で招いた不平等なら納得するしかない。でなければやけっぱちである。

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    「勉強をしなかったから、いい学校にいけないかった」。「まじめに働くこともかったから、ずっと貧乏なままだ」。こうした自己責任で片づけられる問題に、文句や愚痴を言っても始まらない。が、生まれながらの格差、環境による不平等は、自分の責任ではない。だからといって親を恨むよりも、ポジティブな生き方を課した方が、自らのためになる。

    愚痴や不満ばかり言ってる人は、ポジティブに生きられないのだから仕方がない。本人は不満のはけ口として他人を利用し、同情を乞うが、愚痴ばかり聞かされる他人はうっとうしいだけ。そこに気付かぬ人も憐れといえば憐れである。確かにさまざまな格差が存在するが、同じ格差といえど、自らが責任を取らねばならぬ格差とそうでない格差が存在する。

    そこを見極めて理解することだ。ただし、自分が責任を取れない格差(例えば、生まれながらにして貧富や身体的障害、あるいは容姿など)であっても、人は前向きに生きる方が幸せに近づく。他人は意地が悪いものだから、生まれながらの環境についてもアレコレいう。人を阻害して自分を満たそうとする。そうしたことへの対処や強さも学ばねばならない。

    いじけたり悲しんだりするだけでは、幸せは遠のくばかり。誰もが勝者の一族として生を受けるわけではない。例えば、ひどい親を持った不幸な子どももいる。が、鬼親を持ったことで自分の将来や幸福が閉ざされる事はない。自分は、自分に降りかかる後天的障害を振り払う事しか考えなかった。当たり前の生き方であり、それでいいのでは?そうすべきでは?

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    のように思う。「降りかかる火の粉は払え!」という慣用句を支えに生きて来た。だから、それをすべきだと、ここに執拗に書きなぐっている。「当たり前」を、「当たり前にすえう」、「出来るようになる」そのきっかけは、戦う姿勢である。人は容赦しない、同情もしてくれない。そうした依存を願うより、依存を排除して、自分の通る道を自らが舗装していくしかない。

    これが「当たり前」という風に思えたら、その子は強くなっている。動物の生存本能とは、戦うことが基本である。「降りかかる火の粉を払う」のも火の粉に対して戦う姿勢である。いつの時代にも、その時代がある。人はその時代に生きる。その時代にしか生きられない、そのことを切実に感じる。学校から帰っても、近所に子どもの集団があった時代に自分は生きた。

    今はそうではないから、「昔はよかった」を今の子には意味のない言葉。リュックを背負い、足早に塾に通う子どもに考える事はあるが、それぞれの子どもは親の価値基準の中で生きている。眺めながら思うに留まる。「高い山ほど登りたお」のか、「高い山を強引に登らされているのか」。どちらにせよ、今の子どもたちの未来を見ることは我々にできない。

    「東大中退者は高卒である」という、今の時代を象徴する対論バトルがあるが、中退は学歴ではないから、東大といえども中退は五流大卒以下である。この当たり前の正論に嵌め込めない東大信仰が世間にある。卒であろうが中退であろうが、問題にすべきは現時点の人間的資質・能力、さらには人間的魅力であるべきだが、そうしたことは問題にされない。

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    そこに学歴社会の陰湿さが感じられる。本人がどう思うかについて、「東大中退者は高学歴ではなく、羞恥な優越感」と決めつけている。東大中退の堀江貴文に"羞恥な優越感"の有無は定かでないが、彼は2016年7月、ある雑誌のインタビューで、「大学にはブランドとしての価値しかないので、東大以外の大学など行く価値がない」と彼らしい持論を述べている。

    これは大学で資格を取得するというより、学歴としての大学の存在で、堀江と同質思考の主に受け入れらるが、そうでない者には寝言に聞こえる。堀江に対し、「もはや新卒一括採用は必要ないということ?」の質問には、「確実にいらない。日本の大学を出て即戦力にはならない。東大を含めてほとんどの大学は実務的に使える教育を一切やっていませんから」という。

    このことは事実であるが堀江は、「せっかく苦労して東大入ったのに、就職試験では東大よりもめちゃくちゃ簡単な大学の学生と同じスタートラインに立つ。東大に入るには入試で合格点を取るしかない。それなのに慶応やその他の大学とわざわざ同じ土俵に立つというのは、暇というよりバカなんじゃないかと思うんです」と、これは彼一流の偏見であろう。

    「東大生は能力は高いのだから就職なんかせず、やりたいことをやればいい。本当はやりたいことがあるのに、そんなことは夢に過ぎないとでも思っているのでは?」と堀江は結んでいるが、「東大出て就職はせず、好き勝手なことをやればいい」という考えが、東大生に当て嵌まり、また、東大生に支持されるだろうか?それで東大に行く人間がいるだろうか?

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    なぜなら、それではブランド力としての東大を生かす意味にはならない。グッチやシャネルやヴィトンを無人島で着る意味があるのか?という比喩に習い、ブランドとして東大を生かせという堀江の言葉は、前後が噛み合っていない。さらにいうなら、「東大を卒業したら就職しないで自由にしたい」との思いで、抑制し、節制して勉強した人間がいるとも思えない。

    抑制して勉強して東大に入った彼らが、真に自由人として自由を望むなら、禁欲で受験勉強などしないと思う。堀江は、「東大出たのだから自由にしろ」というが、東大という権威にぶら下がる人間の多くが、保守的であって、保守的な人間ほど権威を必要とする。彼等に、「自由になれ」は、一切を犠牲にした受験勉強を根底から否定することではないか。

    学歴優先社会の頂点に君臨する東大生において、「卒業したら就職はせずにすきなことやれ」という堀江の言葉は刺激的だが的外れに思える。そもそもそんな人間が果たして東大に行くはずがない。よしんば行ったところで、堀江のように、あるいはゲイツやジョブズのように、大学を中退して何らかの起業をする人間であろう。堀江の発言は中退者の言葉と見る。


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  • 03/01/17--15:20: 食べ物アラカルト ①
  • コメダ珈琲に行こうと思ったが機会がなかった。喫茶店に行く機会など簡単に作れそうなものだが、昔から喫茶店に行く習慣がなかったことも要因か…。コーヒー好きならともかく、紅茶やココアをわざわざ飲みに行かなくても、家で簡単に飲めてしかも安上がり。女性はおしゃべりや会合等で喫茶店を利用するというが、女性にとって喫茶店というのは所場代だ。

    コメダに小倉トーストを食べに行かなくても、自分で作れる程度のもの。ということで、名古屋名物、「小倉トースト」を作ってみた。バターを塗ったトーストの上に餡を乗っけるだけ、それを名物と言えるものかどうか?いわゆる名古屋めしの一つで、「作る」というほどのものでもないが、作らない事にはできない。今回は食パンではなく、Pascoの超熟ロールを使う。

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    普段、ロールパンの中にはさむ物は、ウィンナー、炒り卵、ポテトサラダ、ピーナツクリーム、ジャム、ハム、レタスなどが定番。最も頻度の多いのはウィンナーを使ったホットドッグだ。小倉餡は一度も試したことがないので、今回は初体験ということになる。やらなかった理由は、餡入りパンを食いたくばアンパンを買うし、家でアンパンを作る発想がなかった。

    ロールパンにスモークサーモンを挟む友人がいた。子どもの頃から親が食べていたというから、なるほど食は環境である。自分は食べたことはなく、食べてみたいとも思わない。ロールパンに塩鮭を挟んで食べるか?といえば、「No!」だし、生ハムサンドならまだしもだ。「スモークサーモンは塩鮭とちゃう」と、友人はいいそうだが、鮭はパンよりご飯がいい。

    ロールパンに焼きそばは商品化されているが、自分でわざに焼きそばパンを作ることはない。大概、焼きそばだけを作って食べる。ロールパンは人によっていろんなものを嗜好するが、ロールパンといえば、「ホットドッグ」。熱々ウィンナーにパンとケチャップの相性は良く、マスタードは入れない。アレをなぜに、「ホットドッグ」というかに疑問がわき調べてみた。

    hot dog」というからには犬に関係ある言葉というのが想像できる。「語源由来辞典」によると、「ホットドッグ」と呼ばれる前の名称は、「レッド・ホット・ダックスフンド・ソーセージ」という長い名で、野球場などで売られていた。その形状がいかにもダックスフンドに似ているとし、これに、『ニューヨークジャーナル』誌のスポーツ漫画家T・A・ドルガンが閃いた。

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    ドルガンは、ソーセージの代わりにダックスフンドがマスタードを塗られ、パンに挟まれている漫画を描いた。彼は、「ダックスフンド」と書かず、作品のタイトルをユーモラスに、『ホットドッグはいかが!』としたことからこう呼ばれることになったというが、実のところ、「Duchshund」というスペルが分らず、「Hot dog」にしたという。これが、「ホット・ドック」の語源となった。

    ところがところが、「ホット・ドッグ」に関する名称由来には三説あるという。ドルガン説とは別に、「ダックスフンド・ソーセージ」が熱々で、「こんな熱い犬の肉を挟んだようなもの食べられるか!」となり、「HOT DOG」と命名したという説。さらには、ソーセージが興奮した犬のペニスに見えたことから、「興奮した犬(Hot Dog)と呼ばれるようになったという説。

    英語の、「Hot」には性的に興奮したという意味がある。こうした諸説ある事柄は、クイズの問題としては不適格で、人によってはⒶ、また人によってⒷやⒸを記憶している場合がある。フランクフルトというくらいだから、元来ドイツ人の国民食だが、自由の国アメリカへ移民したドイツ人によって、アメリカ全土に広がりアメリカ人に愛された、「ホット・ドッグ」である。

    広いアメリカゆえにあちこちの野球場ごとに特徴あるホットドッグがあり、それは日本の立ち食いそばのようなものだろう。ハンバンガーよりもスナック感覚的で、今や名実共にアメリカ人の国民食となっている。さて、日本初のホットドッグ初お目見えは、米大リーグの強打者ベーブ・ルースらが来日した、1934(昭和9)年11月の日米親善野球大会とされている。

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    その際、甲子園球場でホットドッグを販売したのが、当時神戸に住んでいたヘルマン・ウォルシュケである。ドイツの食肉マイスターだったヘルマンは、第一次世界大戦時に旧日本軍の捕虜となり、広島県内の収容所に送られた。解放後は日本の企業でハム・ソーセージ製造の指導に当たったほか、東京・狛江に工場をつくるなど国内の食肉文化発展に貢献したという。

    ヘルマンのソーセージは次男が受け継ぎ、「ヘルマンソーセージ」というブランドとなっている。日本ハムにも、「ヘルマン工房」という名称の商品があり、価格も高級品となっている。現在、甲子園球場でヘルマンホット・ドッグは売られている。ホットドッグにも歴史はある。「風と桶屋」の逸話のようにすべてのものは関連し、関係し、流れに収まって行く。

    それがまた、世の面白さ、楽しさ、興味深さであり、自分のブログの特徴でもある。ハムをサンドするも良し、熱々でプリプリのソーセージもよし、焼きそばを挟むもよし、自分は食べられない納豆パンもある。ホットドッグにサンドイッチ、ま、何を入れようが、挟もうが、食べ物にルールはない。手軽で腹持ちも良い、これがファーストフードの原点であろう。

    日本人の平均寿命は女性で85歳、男性で80歳を超えているが、巷いわれることだが、現在の平均寿命は、一汁一菜の粗食と旬の食材を旨とした世代がもたらせたもので、合成色素、合成甘味料などの添加物汚染の公害をモロに受ける若い世代は、平均寿命という数字の恩恵にあやかれないと言われている。遺伝子組み換え食品に、300年続くという放射能汚染も深刻だ。

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    原発事故から6年、あの問題はどうなった?「あの問題」とはいうまでもない、食品の放射能汚染である。5歳の長女がいるある母親は、2014年に福島の知人からもらったという福島県産玄米を、東京都西東京市にある市民放射能測定所、「にしとうきょう市民放射能測定所あるびれお」に持ち込んだ。その結果は幸いにして深刻なものではなく、母親は安堵する。

    福島県産米は全量全袋検査をし、基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超えたものは市場に流通していないという。福島県が2月末までに調べた14年産米の約1090万袋すべてに基準値超えはなかった。それでも女性は、不安を感じて持ち込んだという。放射能の測定方法は、約900グラムの玄米を、容器に詰め、ベラルーシ製の放射線測定器にセットするという簡単なもの。

    30分後に出た放射性セシウムの判定は、「限界未満」。測定器の検出限界値(1キロ当たり6.62ベクレル)を下回った。11年3月。東京電力福島第一原発事故により、84京(けい)ベクレル(京は兆の1万倍)もの放射性物質が大気中に放出された。これはチェルノブイリ原発事故(1986年)による放出量の16%余に当たり、人々に食品の放射能汚染への不安が一気に広がった。

    事故から4年、人々の関心は薄まっていたが、15年2月下旬、2号機原子炉建屋から放射性物質を含む雨水が排水路を通じて海に流出していたことが判明。東電は14年5月、排水路での値が他の調査地点より高いことに気付いていながら十分に対策を講じず、公表もしていなかった。地元漁業者からは「情報隠し」との批判が相次ぎ、信頼関係を揺るがす事態になった。

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    食品に含まれる放射性物質量は、自治体や独立行政法人などの検査による数字はまちまちである。14年10月、長野県佐久市の山林で採取された食用キノコのチャナメツムタケで、基準値の15倍の1500ベクレルのセシウムが検出された。さらに同年10月、原発から300キロ以上離れた静岡県富士市で、キノコのハナイグチから360ベクレルの値のセシウムが検出された。

    これについて、独立行政法人「森林総合研究所」(茨城県つくば市)のきのこ・微生物研究領域長の根田仁さんはこう説明する。「山林の土壌はセシウムを吸着・保持する性質があり、森林内に分布する放射性セシウムのうち森林外へ流出する量は僅かで、自然の減衰を除けば森林内に留まっていますが、キノコはセシウムを吸収しやすい性質をもっていると考えられる」。

    そのキノコを餌にするのが、シカやクマやイノシシである。ということは…。基準値を超えた食用品目は、出荷も販売もされないことになっているが、いくら、「安全」と言われても、「納得できない」という人は少なくない。特に、行政が発信する、「安全・安心」に対する不信感は根強く、当然にして、自治体による検査体制に問題があると指摘する研究者がいる。

    原発事故以後、食べ物などに含まれる放射能の測定を継続している東京大学大学院助教の小豆川勝見氏(環境分析化学)もその一人。小豆川氏によれば、原発から近距離である北関東の、「道の駅」や自家野菜直売所などで販売されているキノコ類の放射性セシウムの濃度は、基準値を超えることは珍しくない。この点について栃木県は検査体制に不備はないという。

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    「月に一度、市町村ごとに食べ物の放射能検査を実施している。スーパーも道の駅も、体制は一緒」(林業振興課)。それならなぜ、基準値超えが検出されるのか。小豆川氏は、検査の「頻度」と「意識」の甘さを指摘する。「福島以外の自治体は食べ物の放射能検査の測定回数が少なく、基準値超えの食品が出るかもしれないという危機意識も低いのです」。

    14年8月、東京23区内のマンションの排水溝にたまった汚泥などを測定したところ、2万ベクレルを超える場所があった。指定廃棄物となる国の基準(1キロ当たり8千ベクレル)をはるかに超える数値だ。だが、関係する役所に通達しても、一切対応はなかったという。「いくらオフィシャルでは、『ちゃんとやっている』といっても、現実には抜け穴だらけ。

    この点は、放射能問題に関しては強く指摘できます」(小豆川氏)。放射能に汚染された土壌は、雨水で流され、湖沼や河川に入る。実際、栃木県の中禅寺湖では、サケ科のブラウントラウトから260ベクレルが検出された。そして、首都圏であれば多くが東京湾に流れ込むことになる。そこに暮らす魚介類は安心なの?してそれを食べる人間も安全なのか…?


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  • 03/02/17--15:24: 食べ物アラカルト ②
  • かつて、「現代人は1日30品目取りましょう」が声高に言われていた。1985年に厚生労働省によって作成され、「健康づくりのための食生活指針」で提唱された栄養目標だったが、まったく耳にしなくなった。理由は栄養バランスを取ることを目指したものではなかった。偏った食生活を続けると、食品に発ガン物質などが含まれていた場合、どんどん蓄積される。

    ところが、食品の種類が多ければ、それだけリスクを分散できることになる。だから、なるべく数多くの食品を食べるべきと考えたという。それが「1日30品目」という目安となったが、現在は厚労相のH.Pにも削除されている。となると、本当に体にいいのはやはり、「一汁一菜」か?料理研究家土井善晴氏にして、「一汁一菜」は食事の思想であり、美学であるという。  

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             30品目の「30」という数字に具体的な根拠はなく、あくまでバランスを奨励したもの

    土井氏の思想を信じるもよし、信じぬもよしというしかないが、間違いなく言えることは、「1日30品目」の奨励は、根拠のない事実であったこと。食は文化、食は生きる糧、ならば栄養面だけでなく、食べる楽しみも大きい。なにごとにも肩肘張らず、己を追い込むことなく、適量をいただくのがよいようだ。適宜に運動も欠かさない、これが血流を全身に促してくれる。

    食事も運動などの日常生活は行動にあらず、活動であると三島由紀夫は言った。なにも行動ばかりしなきゃならんこともない。行動が何かを知り、必要に際して人は行動すればいい。三島は行動がたたって短命であった。長生きが全てとはいわぬが、わざに悪い血液を全身に流すこともない。いささか面倒だが、運動は脳に綺麗な酸素を供給し、頭をクリアにしてくれる。

    「一汁一菜」は、シンプルライフの最終形態であるという。「シンプルライフ」という言葉は随分前に耳にした。アパレルメーカー、「レナウン」が1975年にデパート向けブランドとして売り出し、かれこれ40年が経つ。“be simple life”というメーカーのキャッチフレーズに、販路は全国各地の百貨店、メンズ・ウィメンズ合わせて相当な数の取り扱いがある。

    大橋純子の、「シンプル・ラブ」という楽曲は1977年で、松本隆の詞になる。「シンプルイズビューティフル」という言葉も言われ、思想的な概念として中学生の道徳副読本に、「望ましい生活習慣」として盛り込まれている。「シンプルさを追求した暮らし」はひとつの生活スタイルとして確立されつつあり、物の捨て方というのもシンプルライフの考え方となる。

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                土井善晴氏の父は、家庭料理の第一人者として人気のあった土井勝氏                  


    「超整理法」という本がバカ売れした。クローゼットやキッチンの整理法など、シンプルライフのハウトゥー本は山ほどあるが、「食」については盲点だったかもしれない。料理研究家土井善晴氏の、『一汁一菜でよいという提案』なる著書は定義どおり、「ご飯・味噌汁・漬物」を基本とした質素な食事をいう。彼はヨーロッパでフランス料理を学んだ料理人である。

    フランス料理の華美な世界観を知る土井氏がなぜに、「一汁一菜」を勧めるのか?詳しくは著書を読むのがいい。自分も読んではないので…。土井氏は、「一汁一菜をストイックな食事法として勧めているわけではない」とし、毎食お決まりの一汁一菜である必要はないというが、健康にいいというだけでストイックであるのは、人生を楽しむ点において続かない。

    健康にいいからとジョギングやウォーキングをしても続かないように、脳の活性化のためにブログや文章を書くのがいいとしても続かないように、生活の基本は楽しむことが第一であろう。不倫が道徳に反し、法に触れていても、楽しむという基本において避けられないように…。「一日30品目」の指導を真に受けるとなると、大変だろうし大きなストレスとなる。

    土井氏がいうのは、「一汁一菜でも十分なのだ」という意識・認識があれば、オシャレで華やかで手の込んだ料理である必要もない。質素であっても栄養的には足りており、基礎代謝の衰えた高齢者にとってはむしろ健康的である。「メザシの土光さん」の愛称で親しまれ、元石川島播磨重工業社長、東芝社長を歴任した土光敏夫氏の質素な食生活は有名だった。

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         「正しい者は強い」の信念と執着心で東芝を変えた土光氏だが、土光なき東芝は腐ってしまった

    1980年代に91歳の長寿を全うとした土光氏は、「物事を成就させるのは能力は必要だが、能力は必要でも十分な条件じゃない。機動力、粘着力、浸透力、持続力、そういうものが大切で、私はそれを執念と呼ぶ」といった。これは名言で、「能力信奉主義」に新たな視点を与えた。「能力があれば…」と、誰もが己の至らなさを嘆くが、なぜに執念の行動がない?

    「学歴がない」、「お金がない」、「ブサイクだ」、「チビ、デブ」などと嘆くが、執念という力はそれらを一蹴する。人間を偉大にするも卑小にするも、その人の志の問題である。自分が嫌いなもの、分からないこと、自分と異なるものを否定する自尊心を人は見せる。イソップ童話の、「すっぱいブドウ」ではないが、出来ない言い訳してどうなるのか?

    出来ないことは悔しい。人にできて自分にできないことはなおさら悔しい。それが執念を生む。人には能力の問題や限界は確実にある。羽生名人に将棋は勝てないし、ボルトに100mで勝つには50m以上のハンディがいる。そうではなくて、出来ることは何とかしたいもので、自分にとっては料理もそういうものだ。悔しいが料理はレシピ通りにしても上手くいかない。

    何度も挑戦し、失敗し、試行錯誤を重ねて到達するもの。自分は過去、肉じゃがを何度作ったか?ただの一度も満足いくものはできなかった。どんなレシピを読んでもダメで、上手く行く、行かないの問題は、ジャガイモに出汁の味を沁み込ませられないというその一点である。定食屋で食べる美味しいジャガイモは、同じ人間が作っていて、それで美味しい。

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       東広島市安芸津町には赤れんがの素材となる赤土で育った美味しいジャガイモがある


    どこかのおばちゃんが作っているだろうが、悔しいではないか。どこかに秘術があるとしか思えない。煮物に味を沁み込ませられたら、「一人前」と言われる日本料理である。なぜに煮物は難しいのか?洋食や中華と違って、薄味な和食の味付けは至難で、日本の至芸である。煮物は冷めた時に味がしみ込み、再び火を入れた時に味が安定するというくらいは誰でも知る。

    知っていながら、そのようにできるというものではない。30年くらいだったかこういうことがあった。スーパーのマネキンさんが、おでんの出汁の試食販売をやっていた時、何気に教わったのが、大根は強火で煮た下ごしらえをし、再度おでんの出汁で煮るという手間。「なぜ?」と聞くとおばちゃんは、「大根の繊維を壊して味を入れやすくする」と教えてくれた。

    なるほど、料理は理論でもあった。以後そのようにしたが、「知る」の大切さを実感する。煮物が作った翌日の方が、味がしみ込んでいて美味しいのも理に適っている。大根は長い時間煮ても、ジャガイモのように型崩れしない。さらに煮物は出し汁の加減が重要で、「ひたひた」、「かぶるくらい」など、水加減を指定した記述もあるほどに煮物の大事な要素である。

    「ひたひた」は、材料が水面から少し顔を出しているくらいの量。「かぶるくらい」とは、材料が全て隠れるくらいの量を指す。が、そうはいっても水加減が多いと味がぼやけてしまうのも経験した。「ひたひた」を、「かぶるくらい」にするのは、生状態になるのを防ごうとの意図のようだが、煮物は大体において落し蓋をするので、生煮えになることなどない。

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      肉じゃがをブログに載せる予定はなく、画像はない。昨日は「白菜」の煮物を作る。まこと美味であった…


    やはり、「ひたひた」が基本であり、水加減は味を左右する重要なポイントだ。さらに、隠し味として塩の効用がある。料理の奥義は塩加減というくらいに塩は大事で、塩の種類や素材にプロは並々ならぬ拘りを持つが、自分は普通の岩塩を使う。煮物の味が決まらない、ぼやけた感じの場合、少なくなった煮汁に醤油やみりんを足すようだとと味が濃くなってしまう。

    そういう場合は塩で味を引き締めるのが良い。淡泊な白菜などには最適で、大きな変化がもたらされる。いろいろな注意点、留意点はあるが、やはり最後は自分の味利き、つまり舌加減である。「良い煮もの」とは理論や技術もあるが、最後は、「舌」かなと…。しかし、あれやこれやの方法・努力は惜しまない。肉じゃがの最後にチューブの生姜を加える。

    チューブの生姜は邪道だが手軽で便利。入れる量は難しく、最適だと思わぬ効果がある。市販のレトルトぜんざいにもチューブの生姜を加えるが、それでぜんざいがピリっとしまるが、これも量が難しい。肉じゃがに生姜のレシピは少ないが、美味しくなるならいい。今回、ジャガイモを別鍋で強火で煮て下ごしらえとし、後で煮汁に加えるという手間をかけた。

    後は玉ねぎを炒め、レンジで柔らかくしたニンジンを用意する。牛のバラ肉はほんの少し、コクを出す程度の量を出し汁にいれ、糸こんや他の素材と一緒に煮込む。素材が煮詰まると別煮したジャガイモを加えて、落としブタをして味を入れる。味が沁み込むのをガードするジャガイモ表面の澱粉質は、切った直後から水に浸して落としておくことだ。

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      どう作っても基本は美味しい「肉じゃが」だが、さらなる上を目指すところが男の料理のロマン

    煮込んで一旦冷まし、本格的に牛バラを加え、堅くなり過ぎない程度にとろ火で再度煮る。この方法で二回やってみた。二回とも味が違ったのはジャガイモの素材が違ったこと。一度目は高級なジャガイモだったので、素材の甘味感と出汁の程良いバランスであったが、二度目は普通のメールクィーンだたのか、素材によって大きく味が変わることを経験した。

     理想の「肉じゃが」といったものの、今までできなかったことが少しだけクリアできたというだけで、さらなる欲が生まれたのは言うまでもない。それでも、出来た時は、「理想の…」という表現をしたが、自分の舌が知るところの、「肉じゃが」はまだまだ先にある。理想を超えた、「究極の肉じゃが」は、常に挑戦的な気持ちで向かえば、いつしか出来るであろう。


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    舎利殿というのを知ったのは高校の日本史だった。円覚寺舎利殿が有名らしく、禅宗様としての日本の伝統的な寺院建築様式である。簡単にいえば、仏舎利を安置した建物を舎利殿といい、仏舎利を正しく難しくいうと、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰燼を指す。つまり、「舎利」とは、遺骨または遺体を意味する梵語である。

    歴史の教科書にはここまで詳しくは書かれていない。それくらいに日本史には覚えることが膨大にある。したがって、円覚寺と舎利殿を傍線でつなぐと正解というテスト問題がいいところだ。その程度の知識であれ、知らないよりは知っていた方がよいということだが、こんなことを小学生あたりから、記憶させられる塾での勉強というのが、自分には無意味で気持ち悪い。

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    知らないでいいことを必死で暗記させるのが難関中学受験であって、そういう子は単に頭がいいというより、物を覚えることを強要された憐れな子どもに思えてしまう。受験のための知識を機械的に覚えさせられる今の早期受験教育は、どう考えても子どもを歪な人間にしてしまうが、難関中学というのは、そんなことはお構いなく、点数の上位者を入学させている。

    知識というのは、ある事とある事に関連した論理的な記憶と、ににんが4、にさんが6という機械的な記憶法もあるが、何でもカンでも機械的に人より沢山覚えておけば「賢い」など、人間の資質とは言えないだろう。一芸に秀でた個性ある子どもや若者を時代は奨励しないが、偏差値によって人間を切り捨てられた、「人間」を求めることはむしろ時代の要請であろう。

    「なぜこんな受験社会になったのだろう?」、「共通一次世代」といわれる問題世代について、問い正すことは山ほどある。大学入試における無意味な奇問・難問はこの際、「止めよう」ということで行われた共通一次は、上記のような受験で歪んだ高校教育を是正するという発想は、決して間違ってはいなかったし、それなりの成果をあげたといっても言い過ぎではない。

    ただ、もう一つの狙いである、「入試の多様化」がなおざりにされた。つまり、高校で学んだ基礎学力の評価は共通一次に任せ、各大学は二次試験で「学風」、「学科」に応じた、独自の、あるいはさまざまな尺度による試験を行うという、後に盛んに言われだした考えが当初の構想にあった。ところが大学は共通一次に甘んじ、二次試験を工夫をほとんど行わなかった。

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    ハタと気づいたときは、「共通一次世代」、「偏差値世代」という言葉がすっかり定着したいたのだ。日本人が、「画一的」好きの民族であるのは単一民族的国民性である。マークシート方式による、思考力の欠けた暗記型人間とひとくくりにしていいとは思わないが、そうした、「世代論」的傾向を目指したとは言わないまでも、結果的に求めることの、「負の遺産」である。

    若者はいつの時代にあっても、「安保世代」、「全共闘世代」、あるいは、「団塊世代」、「しらけ世代」、「バブル世代」、「新人類世代」、「ゆとり世代」などという呼び名で、一世代的にくくられてきた歴史がある。なかでも、79年に始まった、「共通1次試験」という一律のハードルを飛び越えた新人類は、マンガやアニメ、テクノポップを嗜好した世代であった。

    インベーダーゲームが大流行し、元祖サブカル世代とされ、一風変わった若者たちという趣旨で語られた、「新人類」を部下に持つ旧人類は大いに困惑し、悩まされた。彼らが世に出たころは、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、日本企業の国際的な地位が高まり、ビジネス環境が成熟してきた時代であっただけに、使う側にとっては苦悩と種となる。

    団塊が市場開拓を担った世代とすれば、新人類は量的拡大を求められた世代であり、彼らは特質的に、スマートに、段取りよくPDCA(計画、実行、評価、改善)を回せることが優秀とされた。このため、団塊世代に比べると調整型でややこぢんまり感がある。拡大一辺倒の60年代のアンチテーゼとして、「猛烈からビューティフルへ」というコピーも話題になった。

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    円覚寺舎利殿が話を伸ばしたが、今回は仏舎利でなく、「断捨離」について書いく。「断捨離」を初めて耳にした時に、「仏舎利」を想像した自分だが、「断捨離」なる言葉は誰の造語かを調べると、やましたひでこ(山下英子)が商標を取っている。ヨーガの業法である、「断行」・捨行・離行を応用し、彼女は、「クラタ―コンサルト」の商標も取っている。

     断…入ってくるいらない物を断つ。
     捨…家にずっとあるいらない物を捨てる。
     離…物への執着から離れる。

    やました氏が商標登録した、「クラターコンサルタント」とは、「暮らす」と、「ガラクタ」を組み合わせた造語で、英語の、"Clutter"(クラッター)は、片付けられてない、オーガナイズされてない、散らかった、がらくた、等の意味であり、そのことから、「クラッターコンサルタント」は、「散らかし (がらくた) のコンサルタント」という英語の単純直訳ということのようだ。

    受容の多少にかかわらず、世にさまざまなコンサルタントは存在するが、開店休業的に消えてなくなったコンサルタントも少なくない。何について開業しようが個人の自由、好きにおやんなせ~。「入らない物を絶つ」、「家にずっとあるいらない物を捨てる」、「物への執着から離れる」という、主体性、自制心があれば可能なことになぜコンサルが必要?

    というのは男の考えで、女性は自分のことをあれやこれやと他人に委ね、相談したがる人種である。タダならいいが、金は取るんだろう?商売なんだから…。東京・新宿、伊勢丹デパートの路地に、「新宿の母」なる占い婆さんに行列ができているのを初めてみたとき、「女がバカに見えた」ものだ。当時の10分5000円といえば、こんにちの弁護士の相談料金である。

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    「バカと思った」は、直接本人に向けて言うわけではないから、思うも勝手だが、何事も自ら切り拓くというより、「赤い糸」的な、運命論者的思考をする女性は多かった。男に分からない、それが女なら無視しておけばいい。女に分からない男の行動・素性もあろうことだ。「断捨離」の基本である入らない物を捨てることはいい。でなくばゴミ屋敷となる。

    「物への執着から離れる」これもいいことだ。死してなお執着し、幽霊になっても呪うというのは決まって女である。子ども時代、言いようのないほど母親に執着された自分からして、親は大いに子から離れてもらいたいし、自分の分身が如き子に付きまとわれるほど迷惑なことはない。それらをコンサルト料を払わなければできないのか、と、それは思う。

    別の見方をすればケチな女だから、「コンサルト料を払ったのだから、実行しなきゃ!」であるなら結果的にはプラスと言える。「地獄の沙汰も金次第」といい、とかくこの世はゼニが幅を利かすものだ。喫茶店で450円のコーヒーをバカげてると思う自分は先ず行かない。歩けば得した感しかない自分は、何千円も出してタクシーなど乗ることは絶対にない。

    貧乏性というより、思考が合理に満ちている。家の外壁のペンキ塗り、壁紙交換、さらには家まで建てるアメリカ人の「DIY (Do It Yourself )」の理念に近く、自分で出来るのもは人に頼らないという考えを信奉する。何でもカンでも外注ろいう金銭主義の考え方も近年は見直されている。DIYの基本は、作る喜び、作る楽しみだから、「面倒」という考えはない。

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    「忙しい」、「面倒」、「疲れた」を死んでも言わない三禁句にしている自分は、「忙しい…無能」、「面倒…横着」、「疲れた…弱音」と、徹底見下している。自分を見下してどうするのか?と前向きに生きたいものだ。自己を癒すといえば聞こえはいいが、自分には甘えとしか映らない。ただ、人はいろいろだ。したい人はご勝手にと他人批判まではしない。

    「断捨離」には評価の部分もあるが、それに感化されたか、「小銭預金を止めた」との言い分が面白い。「面倒だし、そんなにお金貯まらない」との理由だから、そんな人はむしろしない方がいい。小銭預金は蓄財ではなく、コインを溜める面白さである。貯めるではなく、溜めるだから、どこまで溜まるのかの楽しさを感じないなら、批判をするよりすべきでない。

    小銭預金を止めたことの満足感が、「これにより、小銭貯金用だったビン&小銭入れを断捨離ィ!」の自賛に笑ってしまった。人には人なりの、「断捨離」があるのだろう。部屋の空間を広げたい自分は、どんどん物を捨てるが、一番の理想はモデルハウスの物の少なさである。ゴチャゴチャしたキッチンさえも嫌だから、可視界には布巾さえもないのがいい。

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    部屋を綺麗にの基本は、物の無さ、少なさと理解する。ダイニングテーブルを物置代わりにするのは、美的というより便利という事しか頭にないのだろう。便利は美を損なうという考えに至らないと、ダイニングテーブルはゴミの山と化す。何もない広いダイニングテーブルは気持ちを落ち着かせる。少し前に公民館で出会った同輩が、家で指そうと誘われた。


    家に行くと玄関は靴だらけ、他人の靴を跳ねのけるわけに行かず、上がるのに距離があった。さて、ダイニングに座ったがゴミの山で、それを寄せてそこに板の将棋盤を置いたわけだが、長居はできず、以後は行かないことにする。一人暮らしだから散らかると本人はいうが、一人暮らしなら物は少なくて済むはず、と考える自分の価値がぶつかる。物はいいようだ。

    行きたくないところには行かなければいいだけで、人の暮らしを批判することはしない。なぜなら、豚小屋好きの人間に整理整頓の考えはないからだ。綺麗好きな人が他人を批判するのはいいが、批判は自分の向上のためだけでいい。人格批判までして自己を高めるなどは無用である。批判は何のためにすべきものか、批判の意味と無意味さは知るべきこと。

    哲学者ベーコンは、「反論したり批判するために読書をするな。さりとて信じたり、そのまま受け入れたりするために読書するな。ただ、思い、考えるために読書せよ」といった。知識も同様、他者を批判するために持つものではなかろう。人間の差別観というのはくだらない次元にまで行きやすい。自己向上のための批判はいいが、自己を堕とす他者批判に注意を。

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    時々思うのは、「何で生きてるんだろう?」。これにはちゃんと分かる理由がある。「死なないから生きている」のであって、言い替えると、「生きる理由は死なないから」というところに落ち着く。ただ、それは現象的にであり、生きている理由は考えるといろいろあるかも知れない。が、生きる理由は、「死なないから生きている」という現象以外にはあまり考えない。

    考えたあげくに何がしか発見があり、それがまた生きる理由を増進・加速することになるのか?「生きる理由を見つけました」という文や記事もみるが、人の理由だからそれはそれだ。あらたまって、「生きる理由は何?」と聞かれたら…。「いつか死ぬときのために生きている」と答えるだろう。こんにち、今の自分の答えで、数か月、一年後には変わっているかもしれない。

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    哲学者の、「生きる」について感銘やユニークな考えや、「なるほど…」の言葉がいろいろある。ラ・ロシュフコーは哲学者ではないが、こう言った。「命を長続きさせようとするのは勝利ではない」。この意味はいろいろに受けとれる。が、命を延ばすというのは医者にとっては勝利だろう。「命の擁護者」たる医者は病気になった時であって、普段における擁護者は自分である。

    擁護とは、侵害や危害からかばい、守ること。道路脇のガードレールや、歩道そのものや、信号機などもそういう種のものだ。自分を病気やケガの傷から守ろうとする力も、「生命力」である。ラ・ロシュフコーは哲学者というよりモラリストで、上記の言葉は正確にいうと、「情熱を長続きさせようとしても、命を長続きさせようとするのと同じに、われわれの勝利とならない」。


    「生きることは耐えること」。哀しみに耐えるは、怒りに耐えるより至難か。自己嫌悪の怒りから自死する人間もいる。失恋に耐えきれず、自死を選ぶものもいる。愛されていると信じたものが、騙されていると気づいたとき、あるいは、自分が本当に愛していると確信していたものが、何らかの事態に直面して、それが自分の偽りであったと気づいたとき、人は強烈なる自己嫌悪に陥る。

    つまり、相手の心が見えた時も、自分の心が見えた時も、憤りは同じこと。その人さえ気づいていない人の偽り、さらには、自分が今まで気づかなかった自身の偽りを見てしまったとき、人は沈黙をする。沈黙の理由は、ショックということだろう。人間が黙すのは、何も言うべき言葉を持たないときだけではない。激しい感情を失った時においても、人は押し黙る。

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    言うべきことが多過ぎる、また、あまりに激しい感情を抱いたときにさえ人は黙る。楽しいときは饒舌でも、不幸なときに人は黙る。自身の描く美味な世界観が周囲の何かの事情で圧迫され、壊れるとき、人は不幸の渦中に陥る。そのとき、周囲に対する憎悪が人を無口にさせる。人はあまりの驚きに遭遇したとき、口を閉じるというより開いてしまうものだ。

    閉じるのが意識なら、開くのは無意識だろう。親が子どもの躾けで、「バカみたいに口を開けてないで、キリっと閉じてなさい」などというが、実際問題、人は無防備に驚いた場合、「開いた口が塞がらない」状態になる。人が驚く画像で口が閉じているのは見たことがない。人間は難解である。自分の心さえコントロールできないし、ましてや他人の心を推し量るのは難しい。

    人の不幸にはお悔やみを、幸にはお祝いを言うが、どれほど人の不幸を哀しみ、どれだけ人の幸をうれしく思えるか。容赦のない悪を行為する人間であってはならぬが、あまりに、「善人」になり過ぎ、あまりに判で押したかのような常識人的な、「いいひと」であり過ぎては、人は遂には何者でもなくなる。適宜に悪を、適宜に善を行うのが、人間としてのバランスではないか。

    「悪」の奨励というより、「悪」は必然。「どういう人間になりたい」という人間の要求の多くは、「相手が望む人間」だが、その場合人間は、「商品」となっている。人に好まれてこそ、「商品」であり、人に嫌われる商品などは商品としての価値はない。だから人の望みに適った商品でなければならない。人間が商品になる、商品としての人間がいいとは思わぬが、類する職業はある。

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    職業の善悪はともかく、商品価値を高めているようで、実は価値を貶めている。人の行動に芝居が多いのは、人から称賛を得たいからで、こうした屈折心理を改めなければどんどん商品化する。我が侭な人間ほど優しく振る舞うが、裏に潜む嫌な部分を自らが嫌悪しているからで、我が侭は抑制できても、それが抑制なら消えることではない。商品に堕ちるか、我がままで生きるか…

    理想は偏らぬこと。抑制された欲望は大きな圧となる。凶悪事件を起こした人が、周囲からは一様に従順であったり、「真面目でいい人」であるのは、それら普段の抑圧の爆発である。抑圧は溜め込まず、爆発しない程度にすべきだが、いい人を演じることで自己矛盾をきたす。過去を思い出せば、危険な奴というのは、「性的」な会話において無関心を装っていた。

    レイプで逮捕された友人だが、彼が婦女子暴行など想像できなかったが、友人だから分かることもある。抑圧とは、したいことができないという自信の無さに起因する。受験を前に恋愛できない抑圧が、予備校生刺殺事件となった。恋愛は学校の教育項目、家庭の躾項目でない。ならば自由に開放し、「生きる楽しさ」を阻害する親や教師になっていいものか?

    学問も恋愛も実は難しい。同じ難しさであれ、学問は一人取り組むが、対象が存在する恋愛の難しさ、あるいは奥義は経験で学ぶしかない。男と女は磁石のように引き合うがゆえ、出会いそのものは難しくないが、続けることが難しい。成就となると至難である。恋愛はいつでもできるが、勉強は「今」、という考えに自分は否定的だった。ある女性を回想する。

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    権威的で傲慢な親を持った女性である。自分もそういう親だったが、自分と違って彼女は親に従順であった。「逆らう」などは、彼女自身にも、家庭内にもなかった。親は、「こんないい子はいない」くらいの自負はあったろう。そんな彼女は、威張り腐った男の奴隷になった。彼氏というより、奴隷の支配者で、彼女はまるで、『ルーツ』のクンタキンテのような奴隷となった。

    話を聞くと狂喜乱舞の世界だったが、親に盲従する習慣が沁みついていた彼女に違和感はなかったようだ。しばらくして彼女は、「彼氏と別れたい」と、自分に漏らす。彼女に知恵を授けたが、反抗すると、ぶたれる、叩かれる、蹴られる。「俺の彼女になれ。それがいい、後は俺が守る」といったが、「別れられない」、「仕返しが怖い」の恐怖感は切実だった。

    男とは電話で話したが埒があかず、会う画策を試みたが彼女の反対で叶わなかった。彼女はそれ以後、自分を避けたが、理由は想像できた。人が人にできることの限界はある。いらぬ節介は彼女をさらに不幸に貶めるだけだった。以後も傲慢男に抵抗できない奴隷女を幾人か見たが、所詮は自己責任かと自らを諭し、関わらないを決めた。優しなど、望まぬ人にとって無価値である。

    主体性が持てない、自分の思うように生きられない。他人が介在し、支配と主従ならなおさらそれを阻む。幼児期~児童期~青春期をこのように過ごし、それが当たり前として自身に内面化してしまった人間につける、いかなる薬があろう。同じような例は、妻に虐げられて反抗一つできない夫にみる。それでも恋人、それでも夫婦なら、他人は傍観者を決め込むことだ。

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    男に奴隷として骨抜きにされた女が悲哀と思うのは、彼女の不満や苦しみを聞き、同情し、寄り添う他人である。奴隷女に君臨し、カッコつけてる男など、子どもが親に、あるいは親が子に寄せる依存心という支配に気づいてないおこちゃまである。どう見ても自分だけが得意になっているさまは普通でないと思うが、そういう人間は常にそういう対象を求めている。

    いわゆる、「いじめ」と同じ、弱い者いじめの典型で、弱い者いじめというのは、弱い人間が目ざとく自分より弱い者を見つけることから始まるという。「弱い者いじめって弱肉強食、自然界の淘汰原理だろ?」といったバカがいた。その程度の思考で、その程度の結論を出すバカに広い視野があるハズもない。弱肉強食は自然界の摂理だが、弱い者いじめのどこがだ?

    弱肉強食には、「食物連鎖」との理由もあり、それが自然界に正常な機能を果たすが、「弱い者いじめ」は、何ら生産性もなく、不条理以外になにもない。封建制度と言われる歴史の中、力や武器を持った者が弱者を虐げるというのはあった。理不尽ではあるが、制度として寛容された。力が支配する時代には無理も通るが、それでも踏みつけられたものは動く。

    「一揆」を起して強者に抵抗した。世界史において西洋社会は、さまざまな「革命」が歴史を彩った。フランス革命、ロシア革命、文化大革命は有名だが、英国にも名誉革命、無血革命という国政大改革があった。フランス革命のような派手な流血は無いが、それによって英国は、「議会民主制」という民主主義を手に入れた。ロシア革命もどれだけ血を流したか?

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    それでも70年後には失敗に終わっている。スターリニズムとして国内でもスターリン批判は多いが、2009年のメドベージェフ大統領の声明は、愛国主義団体に反発を招くことになる。スターリンは900万人ともいわれるクラーク(富農層)を銃殺し、シベリア流刑で完全に撲滅しようとした。強制集団農場化に従わないムジーク(一般農民)に、容赦ない弾圧を加えた。

    これに反発するムジークの暴動は激化し、斧や熊手、猟銃、旧式のライフル銃を手に地方の政府施設を襲撃、放火や焼き討ちなどで抵抗したが、スターリンは村ごと焼き払うなどで粛清する。1929年の1年だけで、一般農民の銃殺、シベリア流刑は、1000万人に上った。大粛清の嵐は、党や軍などあらゆる分野に波及、軍では8割の将校が銃殺されたと言われている。

    最後は粛清を執行した秘密警察官たちにも及んだ。スターリン政権下30年間で、ロシア本土で4000万人を下らない人間が連行され、有罪判決を受けた。ソ連全土となるとその数は膨大であろう。国家的英雄として天安門広場に肖像画が掲げられる毛沢東も、4000万人以上の殺戮を行っている。ロシアも広いが中国も広く、その広さは日本人には実感できない。

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    崩壊前のソヴィエト連邦の総面積は、22,400,000 km²で、日本の総面積378,000 km²の約60倍だが、それでも理解は難しい。変な例えだが、一般的な3LDKマンション(約70 ㎡)の60個分(4200 ㎡)に居住したと思えばいい。これで分かるか?自分でも実感がない。他方中華人民共和国の総面積は9,597,000 km²で、こちらは70 ㎡マンションの25個分の広さだが、同じく実感はない。

    玄関からLDKまで徒歩数分なら、自転車かバイクが必要だ。国土が広ければ人口も多い、人口多ければまとめるのも大変で、粛正数も半端ない。1930年の日本の総人口は、約6450万人だから、4000万人も殺したら、昼間でも人が外を歩いていない状況か。日本で不思議に思うのは、小規模の一揆や乱は起こっているが、革命はなぜ起こらなかったかということだが…

    その前に革命の定義とは何であるかだが、法学解釈などを除いて簡単に、政権の転換を目指すとするなら、成否はともかく日本でも起こっている。ただし、全国統一がなされていなかった時代が長かった日本では、民族対立・宗教対立といった食うや食われるやの戦いなどでなく、規模的にも局地的でこじんまりした、「乱」程度のものが多かった。

    天下統一がなされた幕藩体制以降の政治体制にあって、個々の藩ならびに藩の中枢や、お家継承やトップを巡る権力闘争が、小規模・短期・地域限定)としてあった。戦国時代の下剋上や、大化の改新、大政奉還による明治維新などは、長期に渡る革命と言えるものではないか。ただ、「革命」という言葉自体が明治に入ってきたので、以前では使われなかった。

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    「愛=amorelove」という言葉も、日本に渡来した切支丹の伴天連が持ってきたもので、彼らは日本人に外国語を教えたりする必要があったこともあってか、そのために辞書も作ったし、対訳本も出版した。その時、「愛」という字の飜訳に困却したといわれていり。そこで苦心の末に編みだされたのが、「御大切」という単語で、これを、「愛」の訳とした。

    「御大切」とはいうまでもない、「大切に思う」の意であるから、「I love you」を、「余は汝を愛す」という代わりに、「余は汝を大切に思ふ」と訳した。さらには神の愛を、「デウス様の御大切」とし、基督 (キリスト)の愛を、「基督の御大切」といった。明治になって、「education」をどう訳すかについての論争もなされた。

    西洋や諸外国の恐怖政治時代や、封建時代という、「負」の歴史を超えて、人類は聡明で文化的な時代を築きあげてきた。未だ渦中に過ぎないが、こんにちほど人権が叫ばれ、平等が説かれる時代はかつてなかった、タテマエといわれながらも、弱者・強者の差はないとされ、家長絶対時代の終焉で、「勘当」という卑劣な行為も消滅した。夫婦も親子も対等な時代である。

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    にも関わらず、子どもを支配的に手名づけようとする親はいる。前途の彼女は犠牲者であった。子を手名づけることは、親にとって便利でこの上ないが、すべては親の都合で、子どもが実社会で主体的に生きることには、明らかにマイナスとなる。その事に無知な親が、自身の都合で子育てをする。我がままに甘やかせ、子どもの言いなりになる盲従型の親も問題だ。

    子育ての難しさはその辺りのバランスである。が、親の価値を基準にし、「仕込む」子育てを実践すれば、偏るのは自明の理。それでも、東大入学を最終目標に置くなら、表面上は成功となる。ある物を得ることで、ある物は失われる。が、親の絶対的価値基準で支配される子どもは、人間の脆弱を示している。学歴だけが人間評価にあらずという価値観もある。

    日本人は個の尊重(子の尊重)より、親の見栄と付和雷同主義型の子育てが蔓延する右向け右の国民性である。いい例がダイアナ妃。階級社会の英国にあって、彼女は伯爵家のお嬢様として生を受けたが、勉強嫌いの彼女に勉強を強制するような見栄は親になく、本人重視を優先した。これが日本なら幼少時期から親がふんずる反って「お嬢様教育」をするだろう。

    お嬢様でもないそこらの月給取りさえ、「お受験」に躍起になる愚民である。ステータスがないから、子をブランド漬けでステータスにしたい日本人と、ステータスにありながら、親の地位・名誉・見栄を子どもに要求しない外国人の質差に考えさせられる。良いものは良い、悪いものは悪いを自分の欲望や利害を排して考えられるようになれば、人間は普通に生きられる。

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    子どもの生き方は子どもに選ばせるというのは、神からの贈り物であるという宗教観に根差したものであり、子どもを親の意のままに支配したという日本教を信奉する国民には、永遠に授からないものか。子どもの生き方は子どもに選ばせるというのは、ただの一度きりの子育てにおいて、リスク感を抱くのでは?やらないよりはやった方が良いとの考えに固執する。

    支配型の親を持ち、奴隷同然に育った彼女は、自己受容ができない劣等感のかたまり人間であったろう。だから、他人の機嫌に敏感になり、それが内面支配となる。そうなった責任は彼女にないが、自分は変わりたい、今の自分を捨てたい、向上したい気持ちがあるなら、己の欠点をあげつらい、己を責め続けない方がいい。そういう人こそ、「自己受容」が必要かと…。


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