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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    「女性の道を切り拓いた人たち」という表題で歴史をさかのぼってみたが、そのきっかけは、今回のアメリカ大統領選挙だった。女性初のクリントン大統領が生まれるのか?歴史的瞬間を見ようと、アメリカ国民ならず全世界の人々が注視していた。残念ながら歴史は生まれなかったが、政治経験も軍隊経験もない初の大統領という新たな歴史を生んでしまった。

    詳しく調べてはないが、政治経験が全くない企業家の大統領というのは、立候補者のみにとどまっている。アメリカというお国は日本の議院内閣制と違って、国会議員でなくても大統領に立候補できる。立候補できるということは、大統領になる資格があるということだが、アメリカ大統領の資格というのは、アメリカ合衆国憲法の第2条に以下規定されている。

     ・「ナチュラル・ボーン・シチズン(生まれながらのアメリカ市民?)」であること 

     ・35歳以上であること

     ・14年以上アメリカ国内に住んでいること

    ただのこれだけ。上院・下院いずれの経験がなくても立候補は可能だが、過去に大統領経験のある者はダメ。トランプ新大統領は、「不動産王」の異名がある実業家である。かつて、「歌う不動産屋」と呼ばれた千昌夫が総理大臣になったようなものだが、彼はバブル崩壊で落ちぶれ、借金地獄である。政治家以外で大統領選に立候補したのは、1992年のロス・ペローがいる。

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    民主党・共和党、どちらも支持しない元IBM社員で、ITサービス企業経営の独立候補者だった。2月に立候補表明したが、7月に突然不出馬を表明する。1984年の大統領選では、牧師で黒人運動家のジェシー・ジャクソンが、民主党指名を得るための予備選に立候補したが得票数は伸びなかった。上院議員歴の長い政治家も多いが、オバマ、ヒラリーは一期だった。

    今回、米国民がワシントンの政治家に不満を抱いているのが如実に現れた格好だが、だからといって、アメリカ国民が政治家以外の大統領を、本心から望んでいるのだろうか?こればかりは、実際にアメリカに住んでみない事には実感できない。それより、小池百合子はなぜ東京都知事になれたのか?こちらを思考し、分析する方が日本人にとって分かり易い。

    自民党はなぜ党員の小池を推薦しなかったか?当選後、「都議会の冒頭解散」とぶち上げた小池に都議会長老たちは怒り心頭だった。小池は都議会の既得権益との対決姿勢を鮮明にした。小池と同様、既得権益にメスを入れた猪瀬は、都議会のドン内田茂の画策で辞任させられた。舛添は神輿を担いでもらうただのお人形。石原?彼の裏の顔は卑屈な小心者。

    「我田引水」という言葉がある。権力を持つ政治家がこれをやると国は崩壊する。都民のための仕事をしようとする知事は潰されるようだ。知事一人に数の都議が造反なら、孤軍奮闘するしかない。橋下徹のように論は長けても、論だけで議会は牛耳れない、ゆえに潰される。飴と鞭が大事というが、橋下や小池は飴をしゃぶらせるタイプではなさそうだ。

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    いみじくも猪瀬が言ったように、都民がハイエナ都議をしっかり監視するしかない。どこの誰にどのような既得権益があるのかを把握するのは至難である。また、いかなるハイエナも選挙の時だけは土下座をする。小中校のいじめと同じで、周囲が見て見ぬふりをするから発覚しない。議員たちもこれと同じであろう。まさに子どもの世界は大人の縮図である。

    「平和で住みよい世の中にしましょう。一緒に祈りましょう」などの宗教勧誘言葉は、どうにも寝言に聞こえてしまう。祈りを否定はしないが、祈って世の中がどう良くなるというのか?悪を排除、排斥するためにはどうすべきかを考え、啓蒙する方が真に世のためになる。神の言葉を暗唱・復唱し、観念的な言葉をいったところで、メシのおかずにもならない。

    本気で何もしようとしない人間が、道徳や良心をもちだすのが、いい加減うんざりの昨今である。最近は山本七平の本を取ることが多い。が、文庫本1ページに20行もの小文字が苦痛である。本を読むことがこれほど苦痛なのは、眼鏡嫌いということもある。せめて七平の本くらいは読みたいが、これがしんどい。七平信奉者の谷沢永一も、『山本七平の叡智』を著わしている。

    谷沢をして、「史上最高の日本人」と言わしめた著書の冒頭文。「自分のリクツを見せびらかすために本を書く人がいる。(略) どうです、私は頭がいいでしょう、と反っくり返って見せるわけであるから、確かにいい気分ではあるだろう。その正反対が山本七平である。読者のひとりひとりが自分の考えを練ってゆくのに、少しは参考になるでしょうかと、控えめに思うところを差し出す。」

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    いささか飽き気味の観念論を無理して読んだところで、腹の足しにもならない。七平の『空気の研究』の初読は30代だったか、手元の版は、「1988年第2刷」とある。最近これを再読した。その理由というのが、巷でひっきりなしに耳目にする、「空気読めよ!」という流行り言葉に腹が立ったからだ。「空気読めよ!」って、直に言われたことはないが、言われたらカチンだろう。

    「何だと?空気を読めだと?お前はバカか、空気は吸うもんだろが!」くらいは言い返すかも…。「空気を読め!」なる言葉は、どこかのヘタレが、「何を偉そうにバカを言ってやがる」くらいにしか思えない。そんなヘタレバカに、「お前な~、空気を読めないんか?」などと言われて、焦って、ドギマギして、「はい、スミマセン」などいってるようでは、この国は終わったも同然だ。

    そんな言葉はなかった。場の空気はさまざまあったにしろ、空気を察知する者はいるにせよ、「空気を読め!」など誰もいわない。それにして、「空気」感というのは付和雷同型日本人の典型で、グローバルな時代において時代遅れも甚だしい。人の意見とは、空気に支配されるくらい軽いものか?他人がどうあれ、自分の意見は空気などに吹かれない。七平は言う。

    「『空気』とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが『空気』に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。」

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    様々な「場」で、空気を感じることはあった。場の空気はなぜ澱み、なぜに漂のか?その場の空気を作り出している張本人は誰なのか?まずはそこを読む。読んで判断し、空気を醸すターゲットに攻撃をかける。よって、空気に順応することはなかった。暗黙に空気に支配されたこともない。金魚のうんちのような自分ではありたくない。場に抗うのではなく、標的は空気の主である。

    地域の寄り合いに顔を出した。自分は転入したばかりの新参者だ。が、ここでは長老が決めて皆が従う。そういう所であるのはすぐに実感した。自分は長老と考えが異なるので反対した。すると長老は、「あんただけど、反対するのは」というので長老にいった。「『長いもには巻かれろ』っていうけど、それって若い者は意見を言うな!ってことでしょう?」。

    長老は絶句し、言葉を返さなかった。が、会がお開きになるとすぐに自分のところに来て、「あんたは長い者に巻かれろといったが、あれは貧乏人の言葉で…」と言って出ていく。「貧乏人の言葉?」さっぱり意味が分からないが、プライドを壊された長老は何かを言おうと躍起になって考えた言葉である。周囲が持ち上げる長老だが、「この人の頭の中身はこの程度」と思うしかなかった。

    昔はなかった、「空気を読め!」という言葉。こんな言葉が支持され、流行るようでは、穏便にいえば日本人は田舎者だ。「長い者には巻かれろ」より、陰湿な感じがする。若者がこんな言葉にひれ伏し、自分を閉ざすようでは話にならん。「空気は吸うもんだろ?バカいってんじゃないよ」と反発し、あげくは、「そんなくだらん言葉、二度と口にするな!」くらい言ったらいい。

    イメージ 6何かを決める時に、「場を混ぜ繰り返すのはよくないから黙っていよう」という人はいる。日本的にいうと彼らは善人かもしれない。が、良い考えやアイデアと思えば遠慮くなく言うべきである。「どうせ自分の意見なんか、大したことじゃない」などと卑屈になることもなければ、尻込みすることもない。意見が乱舞してこそ熱心である証拠。アメリカ人の管理職はそう判断する。
    まさか、「黙っている社員は善良」と判断するおバカな日本人管理職はいないだろうが、いたらヘタレ会社であろう。シドニー・ルメットの、『12人の怒れる男』を見た時、これがアメリカのいう民主主義の強さなのかと感じ入った。先日観た松本清張の『疑惑』は、現代風にアレンジされていたが、そのワンシーンで、裁判員裁判員が、「 (容疑者には) 疑惑はあるけど、証拠がない。」と困り果てる。

    同席の判事に、「こういう場合、どうすればいいんでしょうか?」と尋ねる。問われた判事は、「そういう場合は、刑事裁判の大原則に照らして評決をしてください」とアドバイスする。刑事裁判の大原則とは、「疑わしきは罰せず」となっている。刑事裁判ならそうであるが、三浦九段疑惑は裁判になってない。彼は将棋村の村民であり、村の長から疑わしきを罰せられた。

    第三者委員会が処罰の妥当性等を探っているが、名誉棄損が回復されない場合、裁判に持ち込むべきとの意見は多い。ただ、三浦九段のケースは民事であって、民事訴訟というのは、私法上の権利の有無、請求権の有無についての判断を裁判所に求める場であり、刑事事件にいう犯罪事実の有無や、被告人の犯人性の証明ではなく、あくまで権利の有無となる。

    また、民事裁判の場においては、原告と被告は対等であり、刑事裁判のように一方が弱者とまではいえず、したがって、推定による原則を持ち出さなくても不相当とはいえない。よって、推定無罪という刑事裁判の原則は当てはまらず、民事の原則は第三者である裁判官の判決より、当事者双方の話し合いでの妥協による和解であろう。この件の推移を見守っている。

    推論を述べるなら、三浦九段は将棋村の一村民である。その中で棋士という仕事をさせてもらう以上、村の論理が大きく立ちはだかり、従うしかない弱者である。こんな会社は辞めて別のところで働くわけにいかない。いかに無実といえど、嫌な相手と対座し、対峙して将棋を指すしか道がないのを彼は知っている。理不尽ではあるがそれが彼の生きる道だ。

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    何をするも人生、しないも人生。人生とは両極だ。「人道」や「人権」や「正義」のためなら行動を惜しまぬ人もいれば、取り立て行動しない人間もいる。昔のことだが、出不精自慢の、「パジャマ党」を自負する友人がいた。「家にこもって何かイイことあるんか?」と聞くと、「大丈夫、果報は寝て待てっていうだろう?」と返した。シャレのつもりだろうが…

    「果報は寝て待て」なる言葉を出すとは意外。「果報は寝て待ては、行動したうえでの結果待ちだろ?」というと、「飯も食うし、糞もするし、野糞はしないが、たまに外食にも出る」というので、「それは行動と言わない、活動だと三島由紀夫がいってる」、「三島が何といおうと生活のための行動よ」、「生活は生きる活動って書くだろ?」などともたれ合うのもお遊び

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    「食べるために生きるのではなく、生きるために食べよ」はソクラテスの言葉。「食べる」は日常活動(生活)であり、食べていれば生きることはできるが、生きるための活動と生きるための行動は区別されるべきかと。ソクラテスの言葉は、「食べる」ことより、「生きる」ことを目的化している。食べて生きのびる事ではなく、「生きる」ために食べるが行動とはカッコいい。

    「生きる」にはいろいろ意味があり、解釈の幅も広い。黒沢明に、『生きる』という作品がある。主人公は役所務めの市民課長。彼はどう生きたか?映画から感じるのは、日々の生活の中から、「生きる」ことを真剣に、本気で考えて実践するのが行動である。だらだら生きるのも、「生きる」というが、それはやはり活動だろう。クラブ活動というが、クラブ行動と言わない。

    食べるための生産物や加工品を「食品」といい、動物にはない。彼らは、「弱肉強食」で生きている。考えてみるに、人間が動物の肉を食すのも、「弱肉強食」という野蛮な行為ではないか。人間社会も比喩的に、「弱肉強食」といわれている。良いことか、良くないことかはともかく、新自由主義に席捲されたこんにちの社会は、「弱肉強食」で成り立っている。

    動物の、「弱肉強食」が自然の摂理なら人間社会においても自然なこと。弱肉強食は、格差社会で一段と増したようだ。子供3人を灘高から東大理Ⅲに合格させた母親の子育て本が話題になった。「ここまでやるのは凄い」という一面は認める。が、この種の子育てハウツー本は、これまでにも何度も出版されてきた。代表的なのは『パパは塾長さん』が浮かぶ。

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    1988年に刊行され、著者は芥川賞作家の三田誠広で、純文学小説とは比べ物にならないくらいに売れた。自分も同世代の三田に影響されてか、本は読まなかったが同じようにやってみようと、書店に行って中学受験の問題集を一冊買ってきた。家に帰って本の中身を見ているうちに、段々と腹が立ってきて、ついには頭に来て問題集はゴミ箱に捨ててしまった。


    国語の問題集だが、「何でこんな無意味な漢字や諺や熟語を、受験というだけで覚えなければならないのか?」そういう腹立ちだった。物事を機械的に記憶するというバカげた作業など、とてもじゃないが我が子に強要できない。「できない」の詳細は、「したくない」である。こういう考えになると、受験勉強などは無意味でくだらないが、そう考えないからやれるだろう。

    感受性の高い時期の子どもに、ひたすら物を覚える訓練を強いるなど、百害ばかりと思うが、高偏差値中学に入学することが唯一の利であろう。そのことで失われるものとの対比を考える親はいるのか?これを契機に、子どもには子どもの、大事な、大切な、育まれるべく情緒があると考えさせられた。受験制度批判もあるが、子どもの心に寄り沿った教育を親が見失なわないことが大事。

    社会は偏差値教育の只中であったが、多数派に属さない親の信念は子どもに反映する。人は人、自分は自分であって、煽りは完全無視、煽られることも、染まることもない。『パパは塾長さん』はエンターテイメント本である。ハウツーものとしてはいかにも古く、役立つとも思えぬが、6年前にこの本を、純粋にユーモア小説として読んだ方の書評が微笑ましくもあった。

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    「私はこの本を読んでいて、ほんの少しだが羨ましかった。私は両親に勉強をみてもらったことがなかったからである。私は小中学の9年間で塾に通ったのは小学5~6年生の2年間だけだった。小学4年生のときに遊んでばかりで、急に成績が下がったことを担任にクラス全員の前で責められ、その担任を見返すために悔しさまぎれで塾に通ったのが偽らざる動機である。 

    この本の書かれている父と子の受験奮闘記は、奇しくも私が塾に行っていた小学5、6年の時期と合致する。当時、私は塾の隣りの女の子の消しゴムや筆箱を隠したりして困らせていた。彼女たちは同じ空の下で何処で何をしているのだろう。本を読み終え、学習塾で私のヤンチャに付き合ってくれた女の子たちがいたからこそ今の自分がここにいるように思う。」

    なるほど。やんちゃは塾に行ってもやんちゃなんだなと。塾にもこうした楽しい時間があるんだなと。子どもが塾に行きたいと言ったことがあった。仲の良い友達が行ってるとの理由だが、行けば行ったで楽しいこともあったろうが、「塾に行って100点とるより、自力で50点を褒めたいね~。ウンチと勉強は自分でするものだ」と、説き伏せ行かせなかった。

    そんな言葉に納得したとも思えぬが家の決め事である。塾で100点より自力の50点を褒める親もいれば、カープの鈴木誠也の父は、「宿題する暇があるなら走って来い」だった。いろんな親がいてもいいだろう。勉強ができるから可愛いではなく、バカでもいい子はいる。もし自分が今、子どもであったとして、バカだからの理由で親から嫌われているなら、悲しくはないのか?

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    そういう想像力を発揮すれば、あるがままの子どもを愛することもできよう。三田誠広は、百瀬昭次著『受験子育て戦略――わが子を成功型人間に育てるために』(1984年)を読んで感化されたようだ。日本人は相も変わらずホンネとタテマエで生きている。タテマエは、「学歴なんて関係ない」、「良い大学を出ても社会で役に立つわけではない」などと言ったりする。

    ホンネは子どもに良い学歴を求めるおもしろいお国である。例の、「灘高3兄弟」の本のとおりの子育てをしてみたところで、良い子どもが育つわけではないと思いつつ、この手の本を手に取る親の性。「お金があるからできるのよ」という言い方(批判)をする親もいたりと、これは批判というより妬みである。お金があっても受験批判スタンスの人は、黙して語らずだったりする。

    お金があったからといってできることではないし、あれは母親の狂信的ともいえる情熱の賜物であろう。的外れな批判を耳にするくらいなら、自分はこの母親の側を持ちたい。学費なんか借金してでもどうにかなる、くらいの意気込みと情熱があればやれる。ローンで3000万円の家を買ってがむしゃら働くようなもの。お金があってもできない、なくとも情熱があればできる。そう解釈すべきかと。

    そもそも書籍で紹介されているような、労力と時間を子どもにかけることのできる親がどれ程いるか? できない人は、「パートで働いてて、できるわけない」などの言い訳をする。「もし、あなたが専業主婦であったとして、同じようなことができるのか?」、「そういう情熱があるのか?」と言いたくもなる。つまらん言い訳には、嘲笑のご褒美を差し上げたい。

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    批判というよりあの母を、「甘い」と感じた。勉強だけで他は何もしなくていい、これは勉強させんがための論理。塾講師の、「今でしょ」が流行ったが、躾も「今でしょ!」。都合の良い論理を基調に、「簡単なことはいつでもできる」などは、自己正当化の詭弁である。生活習慣を見くびる親は多く、だから身につけさせられない。難しいことはやれても、簡単なことができないのが人間である。

    生活習慣を身につけるのがいかに大変か。親が息子にいかなる夢を託すも結構、すべては他人の家庭の問題であり、他人が他人を批判する理由はない。が、本を買って読んだ人が、「勉強は今しかできない、他のことはいつでもできる」という考えを盲信しないよう警鐘を鳴らしたに過ぎない。生活習慣の難しさは、取り返しがつかないほどに難しい問題と自分は考える。

    「三つ子の魂百まで」ではないが、親がおろそかにしがちな問題に目を向けなければ、その子は身の回りのことができない大人になる可能性がある。子どものときに泳げないと大人になって泳げない。子どものときに自転車に乗れないと習得が大変。将棋のルールも同様だ。子どもの時期はあらゆる点で大切だから、勉強だけしていればいいというものでは決してない。

    そういう事をすべて知ったうえで、それでも勉強だけでいいというならそれは選択の問題だから、無知であるのとは違う。昨今は、「男子厨房に立つべからず」という時代ではない。卵焼きはともかく、目玉焼きさえ作れない子どもがいる。男が掃除、洗濯せずとも女がすればいいという時代でもない。勉強ばかりで「生活感」のなさも困ったものだが、そういう子が多い。

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    掃除ができない、片づけができない妻、ダラダラして何もしない、蛍光灯さえ交換できないグータラ夫。生活習慣が身についてないことが原因で、夫婦の仲がこじれたり、裂かれたりすることもある。幸せな結婚、家庭を夢み、年収4000万を覆して夫を射止めた西川史子が、「ペットボトルのラベルをどちらが剥がすかで喧嘩になった」。これは決して笑い事ではないのだろう。

    夫婦の軋轢とは、日常生活の細かいことが積み重なって起こる。昔の御主人様というのは、「縦の物を横にもしない」で威張っていられたが、今はそんなではさっさと離婚されてしまう。女性側から離婚を突き付けられる時代にあっては、男の子にも生活習慣を身につけさせるべきかと。医師で稼ぎがよくても、IT企業の社長で年収〇億であっても離婚は生じる。


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    「弱肉強食」という響きは、ネガティブに捉えられているのか?考えてみるに、動物界で弱い者は強いものに食べられ、強いものはさらに強いものに食べられるのは自然の摂理であり、至極あたりまえのことではないか。人間には食物があるから、人を襲って肉を食べないが、強い者が弱い者を凌駕する、「弱肉強食」は、いかなる場においても自然に派生する。

    社会の中で自然派生する善や悪を、法や決まりで正していくのが政治の目的なら、本来は殺人事件や詐欺やいじめはあってはならないものなのに、社会は人間を完全にコントロールできていない。政治で至らぬ点は、道徳や躾など教育の手助けが必要となり、その担い手であるべく親や教師が、これまた機能できていない。となると、人間は自らを律するしかない?

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    宗教はどうだ?人間が神の命で自らを律すれば、戦争もない犯罪もない平和で理想的な社会になる?「もちろんです」という人は観念的な人。こんなことを言う人がいる。「平和は作るものではない。平和というのはもともとあったもの。宇宙には平和しか無かった。その平和を崩したのは誰あろう人間である。その人間が平和を作ろうなど矛盾もいいところである。

    平和とは、戦争のない状態をいうのでは無い。一人ひとりの心に、憎しみや、怒りや、欲得が無くなって、はじめて真の平和といえる。その一人ひとりの心が整えば、いやでも世界は平和になる。その意味において、平和は一人ひとりの心の延長線上にあるといえるはずだ。世界を平和にしたくば、まず自分の心を平和にすることからはじめるべきです。

    どこの仏典にもどこの聖典にも、修行して神・仏になるとは書かれてはない。何と書かれてあるか?『人間は生まれながらにして神・仏である!』と書かれてある。お釈迦さまも、イエスさまも、人間の本性は神・仏である、すなわち生命である、とはっきりいっておられる。インドのサイババ先生も、"私達は神の化身である"とハッキリといっている。

    人間が戦争をしたり様々な犯罪を犯すのは、人間と思っているからで、もし生命だと知ったら、決して戦争も犯罪も犯さない。だから私はいう。もろもろの罪の所在は宗教家にあると…。宗教の仕事は、人に正しい生き方を説いたり、葬儀でお経を読んだり、お墓の番人になったりではなく、一人でも多くの人に人間の本性を知らしめ、生命の自分に目覚めさすこと。

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    人間が生命に目覚めたら、教えなくても愛深い生き方をするようになり、教えなくても正しい生き方をするようになります。そうなったら、何もしなくても世界は平和になるのです」。美しい言葉である。間違ったことは言っていないし、これを読んだ人が、感動し、共感し、言葉の主に会いたい、授かりたい、と思うかも知れない。おそらく、「信じる者は救われる」などという。

    自分もそう思う。信じる者は精神的に救われると思う。精神的に救われるという意味はよく分からないが、救われたと思う人ならそれでよし。では、言葉の主に、「信じない者は救われませんか?」と聞いたら何と答えるのだろうか?聞くこともないし、答えを求めてはないからいい。答えは自分の中にある。「別に救ってなんか欲しくない。救われる必要性もない」。

    ようするに、救って欲しいという人は何らかの苦悩がある人。だから、救われたい、救って欲しいと願い、そういう人は、「信じなさい。救われます」という言葉に耳を傾ける。自分などは全く傾けないし、上の言葉など美辞麗句の極みとしか思わない。嘘ではないが、現実性は乏しい。だから、「信じて、力を合わせて頑張りましょう」と永遠に言い続けるしかない。永遠に…

    おそらく、その人が死ぬまで戦争もない理想的な平和な社会は訪れない。なぜなら、30年前、50年前に、上記の言葉を信じて宗教に入った人は、理想世界を見ぬままに死んでいる。10年前、1年前に入信した人もいよう。その人の一生の中で、理想社会は実現するのか?30年後、50年後、生ある間に上記の言葉にある社会が実現できるのか?と聞いたらなんていうのか?

    イメージ 3「だから祈るのです」。「可能性はありますから」。などと言うのだろう。結局祈って実現しないままで終わり(と推察する)。「それで死んでも別にいいんです」というかも知れない。信者がそれでいいならいい。が、自分が言いたいのは、「あまりにも壮大な理想社会を掲げなくては遺憾のか?そんな言葉を並べなければ、信者を勧誘できないのか?」である。

    宗教に限らず、「勧誘」とはそういうものだろう。都合の悪いことは化粧品や生保のセールスレディや、クルマのセールスも誰もいわないし、美しい言葉で興味を抱かせる。そのこと自体は詐欺でも何でもないからいいのだが、「真言は美ならず、美言は真ならず」である。宗教は、「願い」、「祈り」だから、虚偽もへちまもないが、どうしてもお金をつぎ込みがちとなろう。

    自主的という暗黙の強制でお金を調達するのが宗教である。新興宗教の家屋は立派なものが多い。どこからお金が?すべて信者からだ。以前、知人が宗教を止められず、ふわふわしていた。止めると災いが起こるなどと不安を煽られる。宗教側は卑劣とは思わず、本気でもなく、止めさせない口実だった。義憤もあってか、信者に、「止める」と電話をさせた。

    人が強くなるということは、今まで言えなかったことが言え、できなかったことができるようになること。金持ってこい宗教に依存し、心が救われたとしても、自分が強くなったわけではない。宗教に依存する知人を止めさせ、自由に生きることが、どれだけ心の解放になるか、罰など当たらないか、それらを体現させたかった。依存は楽かも知れぬが、強さとはほど遠い。

    人間が人間を律するために体系づけられたものが宗教である。信仰と言ってもいい。人が神の命なら自らを律することができる。ルソーは、「生きることは息をすることではない。行動すること」と言った。「人間の名に値する唯一の人間は、行動する人間」と言ったのはロマン・ロラン。「私が知る唯一の自由は、精神および行動の自由である」はカミユの言葉。

    「行動とは裸で公道を歩くことではない」と、これはhanshirouの言葉である。くだらない自分を除いて様々な行動讃美がある。後醍醐天皇は行動する天皇だった。陽明学に影響を受けた大塩平八郎や三島由紀夫らの行動は、「狂熱的」、「狂信的」だった。大塩も三島も効果という点において有効性が見えず、世の中にとっては全くの迷惑な行動であったように映る。

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    「大塩の行動自体は完全な失敗に終わった」と、三島は顛末について語ったが、自らの顛末について彼に言葉は出せない。国民には三島は痛々しく、滑稽に見えた。自衛隊に決起を呼び掛けるも、上官の命令でしか動かない隊員を、軍隊ゴッコ好きの小説家が、本気で動かそうと思っていたのだろうか。隊員たちに静聴を促す映像に見る三島は三文役者である。

    広場に寄せ集められた隊員には、三島の演説を静聴しなければならない、「法的義務」などなかった。三島は彼らに、「それでも武士か!」と叱責したが、返ってくるのは野次と嘲笑ばかり。自衛隊がどうして武士であるのか?彼らは自衛隊法に基ずく国家公務員でしかない。大塩が生きていれば、「三島の行動自体は完全な失敗に終わった」と書いたであろう。

    将棋の天才である羽生が、「天ざるのてんぷら抜き」と注文したからといって、「さすが」、「すごい」、「哲学的」などの評価は、一笑すべきバカの戯言である。三島の一連の行動を、「さすが、天才」などとは思えないが、我々凡人に11.25の行動を理解するのは難しい。三島は、通例として使われる、「行動力」という言葉の意味について疑問を呈している。

    三島が大塩事件について、事の成否とは別に、大塩の直線的で一途な行動を評価する一文がある。大塩の代表作で読書録の形式で陽明学を説いた書、『洗心同箚記(せんしんどうさっき)』の中の、「身の死するを恨まず、心の死するを恨む」という言葉である。吉田松蔭も、「取りて観ることを可となす」と評価し、西郷隆盛も禁書の同書を所蔵していた。

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    「心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れずして心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを知っているならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することはない。そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩はいった」と、三島は『洗心同箚記に共感し、紹介している。

    三島はこの文章のうちに、「陽明学」という精神の核心をみていたようだ。「百歳まで生きながらえたところで、天命を知ることなく酔生夢死の一生に終わる」とした三島が、市谷駐屯地で命を断った1970年11月25日。彼は、『行動学入門』を著し、「行動とは何か」について、すでにある一切の、「理論」や、「学」にとらわれない、生身の体験に分け入った。

    第一章において、「小説を書くのは行動でない」としたが、ひたすら机の前に坐して動かず、せっせと頭の中身を働かせるばかりで、あとは僅かに手先を動かすだけの作業だからではない。子どもを生み、育て、料理をすることも、絵を描き、作曲すること等々、人間の行う一切の活動は、日常生活であれ、芸術活動であれ、ほとんどのものは、「行動にあらず」と、三島はいう。


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    「行動論」、「行動学」はあるが、「活動論」、「活動学」はない。「活動家」はいるが、「行動家」を聞かない。一人で家一軒建てたとしても、それを行動といわない。何故なら、「それは時間と共に歩み、時間の内になされ、時間から垂直に飛び出していく行為ではない」。だから、活動は行動ではないと三島はいう。ならば、三島のいう、「行動」とは何であろう?

    「行動とは、一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約する不思議な力を持っている」。これが三島のいう行動である。つまり、「行動学」とは、行動というものの持つ、その、「不思議な力」を解明する学だとする。自分に照らせば、ウォーキングやブログを書く、自転車で走るギターを弾く、将棋を指す、本を読む、それら一切が行動ではないらしい。

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    月刊「ポケットパンチOh!」に連載されたの三島の『行動学入門』は、ユニークでリアルな行動論である。彼は、「行動」をこう結論づける。「無効性に徹することによってはじめて有効性が生ずるというところに、純粋行動の本質がある」。これはよく分かる、納得する。踏襲したいところでもある。作為は不純であると、大作曲家のチャイコフスキーも言っている。

    人為・作為を不純と批判される場合もないではないが、純粋をそれほど評価することもないと思うも、純粋美学に傾倒する人間がいる。純粋性が無意識に発露されたからといって、無意識殺人が意識でなされる殺人に比べて正当性があるとは言えない。人の無意識行動は実に97%といわれるが、三島の行動学とは、行動の不思議な力を解明するものである。

    無意識の行動、即ち「盲目的」、「無目的」であるが故に生ずる、「無効性」と、真の「行動」のみに現れる、「無効性」は別であろう。一例をあげるなら、「全共闘運動」をあげてみる。60年代末期から日本全国に吹き荒れた一連の学生運動は、誰の目にも、「無効性に徹する」運動の典型であり、彼らは大学を改善するとかの提案があったわけでもなかった。

    訳の分からない、「大学解体」のスローガンを掲げ、「狂信的」、「破壊的」に暴れまくった。教室を壊し、他の学生をゲバ棒で殴るなど、暴走族にも増しての世の中にとっての迷惑行為であった。が、彼らは、「純粋行動」と思い、「正義運動」と信じ込んでいた。三島は彼らの行為は、「無効性に徹しない純粋行動にあらず」と喝破し、その理由を述べている。

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    学生たちが自分たちの所業を横目でちらちらと、それがマスコミにどのように報道されるか、してもらえるかを意識しながらなされる、「ゲリラごっこ」に過ぎないとし、全体的には、「政治的無効性」という印象を人々に与えたのも、実は彼らが内心では、「有効性」を意図したからであって、つまり、「無効性」に徹しないが故に無効であると述べている。

    三島はまた、『行動学入門』の第6章「行動と待機」で、「待機」の重要性も述べている。彼のいう、「待機」とは、怖ぢ気づいて実行を先送る、「待機」でもなければ、楽観主義に寄りかかった生温い、「待機」でもない。それは、肉食獣が全神経を集中させて獲物に向けて距離をつめ行く類のもの。というが、そういうえば市ヶ谷駐屯地における演説で三島は、「待機」を述べている。

    「俺は四年待ったんだよ。俺は四年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を…、そうした自衛隊の…、最後の三十分に、最後の三十分に…待ってるんだよ。諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ」

    ここでも三島は自衛隊員に、「待機」を伝えているが、野次と罵倒で悲壮感漂っていた。演説の達人という歴々に比べて、人を魅きつける迫力もトーンもない。高校の生徒会長の演説の方が野次・嘲笑のない分ましである。「おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。」、斯くの押し付けが虚しく響く。


    「行動」の人物は様々いるが、足尾鉱毒の田中正造や教育者林竹二も、「行動の人」と称された。ソクラテスや田中正造を研究した林が行動の人になったのは必然であろう。そんな林の言葉に、「活動は手段で、目的ではない」というのがある。「行為や行動はそれ自体が目的であり、そうした活動の結果に何が生まれても、それ自体は目的ではない」と林はいう。


    三島の「待機」は効力とならなかった。さまざまな人が行動を称え、さまざまに論じている。カミユやルソーの時代から現代にいたるまで、人は行動に、「在処」を見出そうと格闘し、あげく見出す。「人間は経験したものからしか言葉と行動は出てきません」と、これはトヨタ自動車社長豊田章男社長の言葉である。逆読みすると、「経験なき言葉に意味はない」と響く。

    言わんとすることは分かるが、言葉の動物である人間は、知識や御託を並べ、いかにも行動であるかのように言うが、知識の伝達は学者の仕事であって、彼らはこれで食っている。吉田松陰は、「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」と、塾生に説いた。彼は塾生たちを理屈で、「教化」したのではなく、自ら教えを実践した人である。だから、強い。

    学者顔負けの専門知識が溢れるブログ。膨大な知識が役に立つのだろうか?「情報は知識にあらず、現実の理解は実験に始まり実験に終わる」とアインシュタインはいい、「多くの人は『見たり』、『聞いたり』ばかりで、『試したり』をほとんどしない。」と憂えた本田宗一郎。彼らは、「知る」という行為には、いくつものレイヤーが存在するのを理解していたようだ。

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    「なぜ賢い人が必ずしも事業でうまくいかないのか?」、リアルにおいては合理的に見える判断が、結果として最悪の決断であったり、その逆もしかりである。利害重視で掌を返す人も入れば、信念のために非合理的な決断をする人もいる。これが、「行動」という現実である。言葉通りにはいかない、それこそが行動であって、行動を真価とするなら怖れることはない。

    映画を観たり街を歩くのは活動と三島はいうが、活動は経験である。三島のいう行動は高貴であるが、活動も行動と凡人は考えたい。『書を捨てよ、町へ出よう』の寺山修司評論集のタイトルは衝撃的だった。耳年増を戒められているようで、町に出て年増ばばぁでもいいから漁れと聞こえた。自分勝手な曲解であるが、読書は行動ではないと教えられた。

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    「青年よ大尻を抱け」は、「少年よ大志を抱け」に匹敵する名言(?)である。少年が青年に替われば中身も変わる。クラークの言葉は抽象的・観念的だが、『書を捨てよ、町出よう』と題された言葉はいかにも現実的である。昔は何かの情報に触れる度に、「そんな事は知ってる」だったが、行動を通して得たものは、「結局、何も知らなかった」ということ。

    「行動とは一瞬に火花のように炸裂しながら、長い人生を要約する不思議な力を持っている」。三島の指摘する行動を具体的に理解し得ないのは、「火花のように炸裂」という原体験がないからであろう。「噴水のように放出」なら、男の自分にはよくわかるが、「火花」は凄い。「不思議な力」とは?異性に対するあくなき魅力ではないのは分かっている。

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    同著で彼はこのようにも述べている。「会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争している男がどうして行動的であろうか? 後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であろうか?」。三島の批判の主旨はわかる。よくわかるが、それを行動と言わずとも、与えられた仕事の評価である。

    したがって、三島の思想とは、行動と評価は別であると、そのことが大塩の評価にも現れている。現代人は、評価=メシの種だが、行動はそれらと無関係な純粋なものであるという三島の思想背景を読み取るなら、「11.25」もうっすらと分かってくる。現代社会は金銭とビジネスが主、人間や社会が従。「霊主体従」になぞらえ、「金主人従」の価値観である。

    「霊主体従」を優位とする思想は危うく、「金銭至上主義」も間違っている。三島は現代社会に蔓延るこれらの価値観に我慢がならなかったのだろう。金と名誉と社会的地位があれば、それらを何一つ弄すことなく一生安泰でいられる。それが人間の何の行動であるかをアンチとし、「あり得ないもの」を、「あらしめる」ものが行動であると三島は説いた。

    そして彼のわが生涯を閉じた。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉がある。身を捨てる覚悟があってこそ、活路が見出せるとの意味だが、その言葉と三島の行動は多少ニュアンスが違うかもしれん。が、三島が見出さんとした活路とは、我々後人への遺言であろう。多くの人に茶番と嘲笑された稀代の文学者は、文字以外の何かを伝えようとした。

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    日本人の精神史を大きく変えた、「11.25」に対し、多くの著名人らが言葉を残している。友人で親交のあった澁澤龍彦の、「エロチシズムの極致」、「どうにも扱いきれぬ大変孤独的なもの」小林秀雄、「思想のために自らを亡ぼす真の思想家」加藤諦三、「あまりに自然的な…精神の地下室の消滅」柄谷行人、「切腹ではなくて、HARAKIRI」といった塩野七生。

    「さくら散るいまも三島の死の光芒」と詠んだ野村秋介、「松陰の思想ではなく、松陰らしくなることが重要だった」松岡正剛、「『不道徳教育講座』を書いた三島を縛りつけていたのは実は『道徳』」武田泰淳、「〈昭和元禄〉への死を以てする警告」村松剛、「無名のテロリスト」橋川文三、「わたしにはいちばん判りにくいところで彼は死んでいる」吉本隆明など。


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    ふと気づいた、昨日で11月が終わっていることに。なんとも早く過ぎ去った今年の11月であろう。まさに、「光陰矢の如し」を実感する。来年はさらに早く感じるかも知れん。経年で思うのは一年が早く、それだけ死に近づいているわけで、何だカンだいっても、「死ぬまで生きよう」である。向日葵は南を向くものと思っていたが、朝は一斉に東を向くという。知らなかった。

    試したわけではないが、中三の孫に、「西向く侍知ってるか?」と問うと、おそらく,
    「知らん」というだろう。娘(長女)である孫の母に問えば、「知ってる。30日までしかない月でしょ」と答えるだろう。あくまで想像だが、今度試してみる。が、「なんで11月を侍というんだ?」と聞くと、おそらく、「知らん」というだろう。知らない理由は、そこまで興味がないからだ。

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    11月を侍と覚えているだけで、それで終わっているのは勿体ない。好奇心があれば知ろうとするよ。なくても生活に困らない好奇心だが、あればあったで楽しく暮らせる。物を知らない人が頭が悪いというではなく、ほとんどの人は好奇心の欠落と思っている。好奇心は子どもなら誰でも持っているものなのに、大人になるとどんどこ失われていく人もいるようだ。

    本来、知的好奇心はいくつになっても失われるものではなく、外部から与えられて活性化する人もいれば、自ら内的好奇心を活性させる人もいる。興味のあることを自主的に学ぼう、取り組もうとする方が楽しいはずだ。例外もあるが、学童期の勉強は苦痛であるのに、主体的にやる勉強は楽しいのはなぜ?理由の一つは好奇心、一つは無力と未熟さの自覚である。

    いずれも自発的に学ぼうと取り組む意欲の要素となる。天才について様々な言葉や比喩があるが、「天才とは日々努力し続ける人」といった将棋の羽生善治の言葉を自分は気に入っている。「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」という諺がある。 確かにこの手の事例は多いが、諺は事象を示しているのではなく、「あまり自惚れるな」の戒めであろう。

    羽生の言葉は、自身への戒め並びに自己啓発であろう。努力も無用な天賦の才を持った人がいるのだろうか?学校に行かなかったエジソンの言葉には、さすがに、「努力」の文字がある。羽生もエジソンも、その他多くの天才と言われた人たちも、努力なしで何かをやれた人がいるのだろうか?目に見える努力はなくとも、周囲の環境が何かをもたらせたというのはある。

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    モーツァルトはそうではなかったか?科学者や棋士、スポーツ選手で天才と言われる人の多くは、努力の賜物だが、音楽、文学、絵画などの芸術分野では、努力というものは補足程度に思われる。彼らこそ天賦の才を有した人ではないか。3歳でチェンバロを弾き、5歳で最初のコンチェルト、8歳で交響曲、11歳でオペラを書いたと言われるモーツアルトである。

    彼の教師は父であったが、その父が驚くほどに教えたこと以上の才能を開花させた。そうしたモーツァルトの天才性を具体的、客観的に説明できるのか?映画『アマデウス』で、モーツァルトがサリエリの書いた曲を一度聴いただけで披露するシーンがある。また、幼少時に9声の曲を正確に暗譜してみせた、作曲が異常に速かった、譜面に訂正の跡が少ない。

    こういう事実からして、モーツァルトに音楽的才能があることは疑う余地はないが、こうした例は他の作曲家にもある。ただし、モーツァルトが20歳過ぎても天才であり続けたのは、幼少時期の稀有な事例ではなく、彼の書いた音楽の素晴らしさこそが天才の証明であろう。その意味においても、天才とは幼少児期という限定された期間だけでは、まがい物ということになる。

    モーツァルトは35歳で世を去ったが、羽生は現在46歳であり、彼の天才ぶりを匂わせる若き日の棋譜が指摘されている。同年代の佐藤康光、森内俊之らが負けが込み、ことごとくタイトルを奪われ、勝率もどんどん下がっていく中、複数のタイトルを保持し、45歳を過ぎても勝率を落とすことなく維持できている羽生は、日々の努力を怠らない天才であろう。

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    将棋界にあって、天才の異名を持つ棋士は加藤一二三であった。坂田三吉を奇才、升田幸三は鬼才と呼び、加藤一二三を、「神武以来の天才」と呼んだ。神武以来の意味は、日本という国が始まって以来の意。先崎学は神童的天才の異名があったが、彼は20歳過ぎて凡人となる。稀代最強棋士大山康晴を天才といわないのは、彼には苦労の一面を見聞きする。

    力はあっても、鬼才升田のような独創的で奇抜な手を指すこともなく、淡々と勝ち星を積み重ねていった地味な棋士である。よって、大山に天才の文字は似合わない。加藤一二三は、その大山が天才と呼んた人物である。天才も年を取ればただの変人爺という言葉がお似合いの加藤は2013年に、『羽生善治論 ――「天才」とは何か』(角川oneテーマ21)を著した。

    読んではないが、著書紹介欄に、「『神武以来の天才』と呼ばれる著者が、天才棋士「羽生善治」を徹底分析。なぜ、彼だけが強いのか?七冠制覇達成を可能にしたものとは?40歳になっても強さが衰えない秘密とは?」とある。その中で加藤は、自身を天才と公言したことはないとしながらも、「もしかしたら、自分は天才じゃないか…?」と思ったと述べる。

    以下引用。「タイトル戦、しかも名局で勝ったとき、具体的にいえば、難しい局面で好手、妙手を発見して勝ったときなどに、そう思ったことがあるのは事実だ。別に驕ったわけではない。掛け値なしに、虚心坦懐に、謙虚に自分の将棋をみつめた結果、『天才』と呼んでもいいんじゃないか、そう思ったのである。率直で、正直で、いかにも加藤らしい記述である。

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    仮にも天才と言われた加藤が、稀代の名棋士大山にも天才と墨付され、それらが講じて自らを天才と認識するに至ったと加藤。その彼がいうところの将棋の天才とは、「勉強をしている、していないにかかわらず、早く指すことができて、しかも着手が正確で、なおかつ勝つこと――これは、間違いなく天才の共通点である。絶対だ。天才は、盤を見た瞬間に、パッとひらめくのである。

    もっとも強力な一手、最強の一手が、局面を見た瞬間に浮かんでくるものなのだ。こうした能力は努力したからといって身につくものではない。もって生まれた、並外れた素質としかいいようがない。若くして長考型に天才はいない。断言してもいい。子どものころから、一手、一手、考え込んでいたような棋士はかなり将来が危うい。はっきりいって、早いうちに棋士をやめたほうがいいとさえ思う。」

    と、辛辣に述べている。確かに、「あまり考えずにどんどん指す子どものほうが伸びる」とは、将棋指導の一般論としても言われている。理由はいろいろな説が考えられているようだが、羽生自身、「若い頃は才能とは一瞬のひらめきだと思っていたが、努力を継続できることが才能だと思うようになった」と、才能に対する考え方の経年的変化を述べている。

    元天才と現天才の二人が、天才についての異なる考え方で象徴的なのは、「生まれ持っての素質」(加藤)、「努力を継続できる才能」(羽生)という点で、さらに羽生には、「自分を客観的に分析できる視点」という考えが加わることで、彼は過去になき突出した存在となっている。天才の安売りはどの世界にもあるが、それぞれ別の次元であるのは言うまでもない。


    まあ、人間がやるから天才であって、機械が天才をこっぴどく負かしても天才とは言わない。受験勉強の達人を秀才というが、それについて自分は否定的だ。学問の秀才は認めるが、あらゆる過去問を詰め込んだ受験学力のどこが秀才であろう。モナリザを描いたダ・ビンチは天才だが、モナリザの模写の達人を芸術家と呼ばない。昔からこういう人を看板絵描きといった。

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    世界に目を向けると天才の名に値する人は多い。スティーブ・ジョブズは発明の天才とされるが、実は彼はパクリの天才であった。ゼロックス傘下の研究所では、絶対にパクらない約束をしておきながら破っている。彼はまた文句を言い出す天才、プレゼンの天才との異名がある。尾ひれはついて回るが、一代で製造業の会社を時価総額世界一にしたのは並みの才ではない。
     
    最近目にとまったのは、15歳のジェイコブ・バーネットくん。様々な子どもの天才の行く末を見て、天才少年には懐疑的であったが、このIQ170の自閉症天才児は、将来のノーベル賞候補と言われている。天才や偉人共通点があるとすれば、幼少期に勉強が苦手だったり、勉強をあまりしていなかった。彼もアスペルガー症候群のために普通のクラスで、「学ぶことができなかった」。

    勉強嫌いにはエジソン、ダ・ヴィンチ、アインシュタイン、ニュートン等の例がある。そんなジェイコブくんも、「天才とは学ぶことを止めた人」という。いうまでもなく学問は、「既存の理論や知識をインプット」するものであり、かつて学校一のバカだったアインシュタインは、「物理学者になりたいなら靴磨きになれ」といったが、これは彼ならではの比喩である。

    天才は、「存在しない全く新しいモノを創造する」という点においては、既成の学問は不要なのかも知れない。学力信奉者は、「基礎が大事」というが、「諸学の基礎は哲学」である。したがって、天才たちは必然と哲学者となる。アスリートにおいても、イチローの例を出すまでもなく、彼一流の哲学を持っている。哲学はまた、事物や事象の根本から問い詰め考える。

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    これを基礎と言わず何という。1+1=2と答えるのは学問だが、なぜ、1+1=2であるのか?これが哲学である。親がナニをしたから自分が生まれたは生物学だが、「なぜ自分はここにいるのか?」を問うのが哲学である。それを精子と卵子がくっついて…などは物足りないと考え直すのが哲学である。「そっかー、勉強しなくていいんだ」と、喜ぶのはバカである。


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  • 12/01/16--16:49: 北向きの鬼瓦
  • とかく人間は権威に惑わされやすいものだ。スーツを着ている人と、だらしない格好の人の言うこと、どちらを信じるだろうか?いうまでもないことだ。惑わされやすいばかりではない、騙されやすいことにもなる。こうした問題意識を自分はあることがきっかけに、自らに問いかけたことがあった。それが講じて今は、「誰が言ったか?」よりも、「何を言ったか!」を重視する。

    このようにすると、贔屓の人間や尊敬の念を抱く対象であっても、発言を妄信することなく、是々非々に思考できる。ある対象のファンであるからと、することなすこと何でもカンでも正しい、何をいっても許せるというのは、自分からみると熱病患者のようである。度々書くことだが、少年期から自分は母に苦悩した。自分のすること一切に批判的で、文句ばかりいう母である。

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    友人宅に行けば、彼らの母親はみな優しいまなざしで自分を見つめ、温かい言葉をかけてくれる。それに比べて自分の母親は夜叉の目つきで友人たちを睨む。「おかん、こわいな」と、友人たちは自分の家に来るのを嫌がった。母にとって自分の友人は息子を悪の道にそそのかす悪人と思っていた。ナンだカンだと普段から友人の悪口ばかりをあげつらう母。

    自分は当時、信頼していた京都に住む叔父に思い切って母への苦悩を手紙に書いた。叔父は母の弟である。叔父は以前、親族が寄って談笑するする中で、母と言い合いをしていたのを中身も含めてしっかりと覚えている。自分にとっては権威である母も、叔父たちには対等なのが、見ていて心地よかった。母に文句を言える人間がいるんだという小気味よさである。

    その時の言い合いは、煮物か焼き物かどっちだったか鯛の料理についてである。母は、「この鯛は天然ものだから美味しいよ」と自分が購入し、料理した鯛をそのように口添えした。そのとき叔父が一言。「こんなん天然物やないで、日焼けして肌が黒ずんでる。生簀で養殖するからこうなるんや。天然物はもっと赤い」。言葉はともかく、話の中身はそういうことだ。

    その言い方にムカついた母は、「何をいってるんか、魚屋は天然物だといったし、あそこは養殖物なんか扱ってないで」。「魚屋がどういおうとやな、こんなん素人でも分かることやで。騙しとんのや」。その後の母の言葉は覚えてないが、自分が買い、料理した鯛をそんな風に言われてさぞ頭に来たのだろうが、叔父の遠慮ない発言は姉弟ならではだろう。

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    叔父貴たちが京都に帰ったその晩にぐちぐちと悪口をいう母に無性に腹がたった。日焼けして肌が黒づんでいる鯛は養殖物という叔父の慧眼に感動し、知識を得た気分だったし、目の前の鯛がそうであるなら、魚屋が何を言ったところで事実が示している。母はその事実に目を背け、魚屋の言葉を信じたのも、それが自分の利益に合致するからであろう。

    弟のいちゃもんより魚屋の権威を信じる母と、世に蔓延る本物と偽物をしかと自身の目で見極め、判断する叔父。「魚屋が何を言ったところで己の都合」と喝破する辺りは、さすがに叔父貴である。中学を卒業して家出同然に故郷を立ち、今では外車を乗り回す叔父は少年時代からの自慢であった。そんな叔父に母への苦悩を手紙にしたためた。内容は覚えてない。

    少したって叔父から電話が入る。しばらく母とやり取りした後で自分に代われといったらしい、胸の鼓動を抑えて電話に出た。叔父貴はこんなことを言った。「大事なのは自分やで。誰がナニいっても自分を信じたらええのや。親もせんせも間違ったこというさかい。自分が間違ったら自分で責任とったらええのや」。叔父は祖父(叔父の父)と喧嘩して家を出たと聞いた。

    後年、叔父の言葉をアレンジして子どもたちに言った。「親だから、学校の先生だからといえ、自分が見て尊敬できないようなバカを言ったり、したりするなら、尊敬なんかすることはない。見下したらええよ」。親は自分を生み育ててくれた恩人、教師は偉い人、そんなバカなことあるか?どんな人でもバカを言えばバカ、バカをやればバカなのだと。

    イメージ 3しっかりと目を開き、耳をそばだててみる事。生み育ててくれた恩人、勉強を教えてくれる先生としたその上に、「尊敬」という言葉があるのではない。すべては親としての義務、教師という職業である。尊敬できない親がいる、尊敬できない教師がいる、がゆえに、真に尊敬という対象が存在することになる。このことを小学生の時に自力で考えついた。

    ヒステリー甚だしき母は、自分がむしゃくしゃしたときなど、たんびに、「誰に産んでもらったと思ってるのか?」「誰に大きくしてもらったと思ってるんだ?」、「親不孝者が!」、こんな言葉を日々浴びせられたなら、どんな子どもだって、「ナニを偉そうな事いってやがる」と思うだろうし、「誰が産んでくれと頼んだ?」なる言葉は必然的に出てくる。返されて困るような言葉は、的を得ない暴言である。

    親の恩というのは、子どもが自発的に感じることであって、親の側から恩着せがましく押し付けるものではなかろう。人に善行を施して礼を要求するようなもので、それでなんで善行といえる。「善は善意思によってなされるべきもの」とニーチェは言ったが、暗に謝礼や見返りを意図した善意なき善行は醜い。「自分がそれをした」のは、「自分がしたかったから」に他ならない。

    あなたのため、君のため、世のため、人のため、というではなく、自らに率直な自らの意思であるべきもの。股旅に生きる世捨ての渡世人が、とある宿場で救いを求める人に助力をする羽目になった。「お助けいただきありがとうございます」の言葉を尻目に、「礼は無用に願いたい」と去って行く。これを美学というなかれ。これが人の当たり前の姿であろう。

    自らの内に自然に沸き立つ、「義憤」が行為となっただけで、誰のため、誰かのためではないだろう。自らを作り、自らを高めるものなら、自らに加算されるもの。様々なことを通じて、自らをより良いものにしていくなら、大きな何かが備わるだろう。それが何かは分からないが、分かる必要もない。己の、「良心」などは、気づかなくて当たり前かもしれない。

    むしろ、他人から批判されたり非難の中に、「善」や、「良心」は存在するかもしれない。他人に喜ばれ、迎合するだけが、「善」とは思わない。子どもの頃に毎日のように遊びに行った友人宅に、たくさんの絵本が置いてあった。絵本というより漫画である。漫画に飢えていた年代だから、何でもよかったろう。友人の父は熱心な日蓮宗の信仰者であった。

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    時折、「南無妙法蓮華経」の声が聞こえ、狂信的な連呼に気味の悪さを感じたが、普段はやさしい友人の父であった。今思うと、創価学会だったのだろうか?漫画は子ども用に平易に日蓮上人の伝記のようなもので、日蓮が路上説法をするが、石を投げつけられたりで、それはヒドイものだったが、それでもひるまず、「南無妙法蓮華経」を唱えなさいと訴える。

    日蓮についての知識は親鸞同様、一冊の本さえ読んだこともないし、「法華宗」、「浄土真宗」の開祖くらいの知識しかない。が、日蓮が迫害にあいながら路上説法を続けたのは、意図的な信者勧誘活動ではなく、純粋なる布教活動だったかも知れない。昨今は、「まず宗教ありき」で、それで信者を勧誘するが、あの時代は、先ずは何よりも布教であった。

    キリスト教があったのではなく、キリストという人物がいろいろな言葉を残した。それを信徒がまとめた物が宗教となる。日蓮と法華経の経緯がどうだかの知識はないが、親鸞の言葉を弟子が書き留めたものが浄土真宗となったと聞いたことがある。宗教への知識欲は薄く、したがって不確かな記述だが、折角なので、「日蓮はなぜ迫害を受けた?」で検索した。

    以下の文があった。「『日蓮自伝考』には、日蓮の主張する道理は、既得権益を守ろうとする者からは、当然敵として認識されることになるとあります」。「自界叛逆難が起こったのも、幕府内部のそういう事情があったようで、既得の権益を守ろうとするものと、そこから排除されるものとの生き残りを賭けた戦い、それが自界叛逆難の真相であると」。

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    ま、そういうことらしい。興味のないことを記述するのは寒々しいので止める。弱い立場の者などを追い詰め、苦しめることを迫害というが、自分は母親から迫害を受けたと思っている。当時も今も、母の思い余った行為は、妨害などというものではない。自分では分からないが、あれで少しは強くなったのかも知れん。まさに当時の母の顔は鬼に見えた。

    あるとき、どこから仕入れたのか、「北向きの鬼瓦みたいな顔して、吠えるんじゃないよクソババ!」といった時、投げつけられたコップが自分の左の眉の上に当たり切れて血が噴き出した。傷口を押える自分に、「フン!」と、「ザマ~みろ」といわんばかりの態度で、タオルを持ってきて投げつけた。夫婦喧嘩で茶碗やコップを投げるシーンは映画にあるが…

    親が子にコップを投げていいものか?殴る蹴るはあったが、物を投げつけられたのは初めてだった。よほど、「北向きの鬼瓦」が頭に来たのだろう。この言葉を一度だけある女に言ったことがある。あまりの暴言に腹が立ち、「北向きの鬼瓦みたいな顔して喚くな!」といったが、言われた女は意味が分からなかったのか、「北向き?」「オニガワラ?」、「何よそれ!」。

    これには拍子抜けである。ま~仕方がない。知らない言葉に反応しろというのが無理だ。朝日新聞に、「天声人語」なる連載コラムがある。これが時候の挨拶がごときつまらなくなったという批判文の中に、「まるで北向きの鬼瓦みたいに、冷たい強風に歯を食いしばっているよう…」という記述を見、強烈な侮蔑語がこういう使い方をされるんだなと、感じ入った。

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    じっと目を凝らしてみると少しづつではあるが、世の中の変化に気づく。じっと目を凝らさなくとも大きな変化を感じるだろう。ディランの、『時代は変わる』の歌詞には現代を象徴するようなセンテンスはないが、時代は猛烈なスピードで変わって行った。自分たちが子どものころ、「世の中変わったな~」と大人たちが言っていた。大人たちは何が変わったと思ったのだろう?

    自分たちもあの時の大人と同じように、「世の中変わった」と感じている。一体、世の中が変わる(変わったと感じる)スパンは何年くらいだろうか?「10年ひと昔」というから、10年程度なのか?以前、6歳年下の男と話したときに、こうも世代感が違うものかと躊躇ったことがあった。同世代を定義づける様々な要因はあろうが、大体上下3歳くらいを同世代とする。

    同じ教科書で学び、同じテレビ番組を観、芸能人や女優や男優やアイドルと称するカワイコちゃんや、ゲームや玩具の種類から文房具に至るまで、日常社会の多くを共有する同世代である。それからすると6歳の差は、さすがに世代を異に感じるものだ。文明の利器と言われる機器や家電は日進月歩と言われたが、ある時期から秒進分歩ほどの勢いをみせた。

    記憶をたどればあの時代にシャーペンはない。アプルペン、パイナプルペンもない。筆記用具の主流は鉛筆で、自分はHBが好きだったが、女子の多くが2H、3Hを使っていた。借りると何とも芯が固く、筆圧の強い自分には紙が破れそうだった。「何でこんなん使うんだ?」と聞くと、「減らないから」と意外な答えが返ったが、貧困という点では、誰もが貧困な時代であった。


    それでも鉛筆が2~3cmくらいの長さに減っても、本体の尻から差し込む器具で、短い鉛筆を長くして使ったりしていた。あんなもの今は売ってないだろうと探してみると、ちゃんと売っている。金属製で耐久性も豪華感もあり、滑らないようにギザギザまで施してある。「補助軸」という名がついていた。こうまでして使われる鉛筆もしあわせものだろうな。

    これはもう貧困というより節制である。当時はセルロイド(プラスチックという言葉はなかった)製で、自分は使ったことがなかった。鉛筆削り器も早くから所有し、電動鉛筆削り器もすぐに買った。「削り器使うと減る」という女子は、自分からみればいかにも女であり、機械で削ったかの如く美しく綺麗に削る彼女らには、男にはない女の魅力を感じたものだ。

    自分は親がせっせと削ってくれていたので、鉛筆が削れなかった。親が面倒だから削り器を買ったのだろう。その点は過保護だったのかも知れん。鉛筆は削れない、裁縫はできない、リンゴの皮はむけない、みんな母親が、「男の子はそんなことしなくていい」と、させなかった。生活習慣の大事さは自ら実感しているし、そんな過保護のいいとこは何もない。

    母は長女で二人の弟がいる家庭で、女であるがゆえに家の労働力としてこき使われたと察する。だからか、女は家のことはなんでもするのが当然と思っていたようだ。女子から教わったネギを刻んで醤油と砂糖で炒める料理を台所で作っただけで、「男がそんなことするもんじゃない!」と、烈火のごとく怒る母だった。"男子厨房に入らず"信奉世代である。

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    何もかもが便利になったのは文明の利器といわれる恩恵だが、器具や道具ばかりではない男女の価値基準も大きく変わったし、人間の精神的な価値観も大きく変わった。昔は女が木登りするだけでお転婆娘と称されたが、男にできて女ができないことはないほどに、様々な世界への女性の進出があった。かつて柔道、剣道、レスリング、相撲、野球は男のスポーツであった。

    女性ができないではなく、してはならないゴルフであった。ゴルフは紳士たしなみ、女がやるものじゃないという差別主義であろう。漫画『野球狂の詩』の主人公水原勇気は、プロ野球選手になったが、当時、女性がプロ選手になるためには、野球協約改定が必要だった。というのも、「医学的に男性でない者の登録禁止」の項目があったが、今は撤廃されている。

    野村克也元監督は、実写版の映画『野球狂の詩』に選手として出演し、水原勇気役の木之内みどりと対戦し、「気の強い子や、応援しまっせ」と、勇気を選手にしたい岩田鉄五郎に言った。その野村は女性のプロ野球選手について、「投手限定、左で変則フォーム、変化球を一つ極められれば、対左で道があるかも」と語っている。投手以外は無理という事だろう。

    左投手で、変則フォーム、変化球一つ、まるで水原勇気のことを言ってるようだ。彼女には、「ドリームボール」という凄い変化球があった。さてさて、いろいろハード面における時代の変化を取り上げたが、表題にあげた、「ハゲがカッコいい時代」はいうまでもない、精神性の問題である。ハゲだけにあらずで、マツコの売れっぷりからして、「デブもカッコいい時代」である。

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    「ハゲ、デブ、チビ」が日本人の「三大見下し語」であろう。チビはハゲやデブに比べてさほど感はある。女性はハイヒール、男はシークレットブーツで誤魔化せる。キムタクの公証176㎝の身長は、7cm上げ底シューズといわれている。おデブのまん丸顔は、以前からテレビという四角画面に、日の丸の旗のように調和して違和感がない、むしろ好ましいとされていた。

    ホンジャマカの恵俊彰よりも、石塚英彦の方が癒されるというのもそういうことだが、他にも松村邦洋、内山信二、天野ひろゆき、日村勇紀、森三中、なんしぃ、渡辺直美、柳原可奈子など、テレビ露出の多いふとましいデブたれが並ぶが、マツコ以外は、どう見ても悪気のない、いい人っぽさが売りであろう。案外とおデブも市民権を得ているのではないか。

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    そんななか、ハゲはどうなのか?「デブ」もそうだが、ハゲにとって「ハゲ」という言葉ほど、酷な響きはないのではないか?ハゲといえばアデランス、ヅラといえばアートネイチャーが席捲した1980年代に、颯爽と乗り込んできたのが外資大手のかつらメーカー、スヴェンソン。当時の社長ローランド・メリンガーが日経産業新聞にこのように述べている。

    「日本に来て初めてわかったが、日本人は髪が薄くなると真剣に悩む。ヨーロッパなら全く髪がない人でも街中を闊歩している。一方、日本人は抜け始めの時点で考え込み、品質のよいかつらを探し歩く」。よく言われることだが、日本ほど「ハゲ」に対して不寛容な社会はない。おそらく髪の毛の色が黒く、外国人に比べてチョー目立つからだろうか?

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    アデランス、アートネイチャーの二大メーカーの市場シェアは、広告展開もあって90%を超えていた。アートネイチャーより後発のアデランスは、その強みもあって、アートに追従し、いいとこ取りでのし上がった。アートが3段階に分けて増やす、「トリプル増毛法」を打ち出せば、アデランスは5段階の、「サンク増毛法」を発表する。3段階より5段階がいかにもよさげである。

    さらにアデランスはテレビCMや、新聞、雑誌などの広告展開によって、顧客を取り込んだ。ものすごい量のテレビスポットからして、一体どのくらいの広告費を計上しているのか、非上場会社につき想像もできない。料金の高いゴールデンタイムにけたたましい量のCMを流していた。そんなおりの1984年、アデランスの経営の中枢にいた元社員の告発本が出版された。

    これによると、アデランスが昭和56年1月から12月までの1年間に使った宣伝広告費が38億6028万円とある。数字が細かいのは経営情報を知る社員のデータからして当然だろう。翌57年度は52億1900万円に上がった。これで獲得した新規顧客数を広告費で割ると、何と顧客一人当たりが24万6600円もの広告費を払っていることになる。これはいかに原価が安いかを表す。

    タバコは税金を吸っているようなものと言われるが、かつらは、「広告代金をかぶっているようなもの」ということか。告発本、『アデランス商法残酷物語』によると、当時のかつらの実質原価は、韓国にある下請け工場で作られ、サイズにもよるが、2014円~4340円程度で、これに人件費、輸送費、関税などの諸経費に下請け業者の利益を乗せても16100円である。

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    それが40万、50万で売られるわけだから、広告料など痛くも痒くもない。このようにかつらを法外な価格にしているのが、膨大な広告・宣伝であり、顧客はその事実を知るすべもなかった。告発本によると、当時のアデランスの市場シェアは60%を占め、広告展開で絶対有利の市場構造が、業者間の過度な競争を阻害し、かつらの高値安定に結びついていた。

    ライバル社アートネイチャーもCMは流していたが、実はアートネイチャーは、夜11時以降にしかテレビCMを流していなかった。当時、かつらというのは日陰産業であり、おおっぴらに語られるものではない、というのが、「常識」であった。人知れず薄毛の悩みを抱え込む男性をターゲットにした宣伝・広告を、深夜にひっそりと行っていたのは、包茎治療同様に正攻法である。

    そんなわけで、夜6時~7時という時間帯に流されたアデランスのファミリー層向けCMは、当時として「衝撃」だった。40年前に、「かつら」でこれをやるアデランスに対する世間のインパクトはすさまじいものだった。白い一戸建て住む家族。かわいい娘2人と、美しい妻が楽しそうに食卓を囲む中で、夫だけは鏡の前で薄い毛をなでつけながら、どこか浮かない顔をしている設定。

    ところが夫の髪が急にボリュームアップし、ニコニコ顔で出勤する父親に娘たちが抱きついて言う。「パパ、アデランスにしてよかったね」。うっすらと覚えている人もいようこのCMによって、もともと存在していた、「ハゲ=恥」というネガティブイメージをさらに進化させ、その逆説として、「ハゲを隠した男は幸せになる」というポジティブキャンペーン攻勢をアデランスは仕掛けたのだ。



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    当時のアデランス宣伝企画室課長は、『日経ビジネス』にCMの狙いを以下のように説明する。「かつらをつけてから家庭が明るくなったというようなイメージを与え、奥さんや子どもに好感を持たせるよう努力するところを描いている」。斯くも斬新なCM効果もあって、アデランスはアートネイチャーに追いつくや、一気に突き放して業界のトップに躍り出る。

    商品価格の半分超を広告費として顧客が負担することで急成長したアデランスだが、「かつらは高い」という噂はどんどん広がっていった。内緒で購入し、内緒で装着するから価値があり、数十万円のかつらを使っていることを自慢する者などいない。同僚がある日ふさふさになり、かつらをつけたらしい噂が立ったが、「値段はいくら?」と聞く者などいない。

    縁なき人には気にもならないが、少しばかり縁が近づいてきた人は気にもなろう価格であり、電話で値段を聞こうにも、「絶対に値段はいわない」というマニュアルが徹底されていた。実際「かつら」は、世の人々が想像している以上に高額であるにも関わらず、価格は伏せられていた。が、ネット時代に入り、相場が分かって来たことも顧客の伸びに影響した。

    価格を伏せ、無料訪問相談もしくは、社内に設けた相談室に足を踏み入れたら最後、あれよあれよという間に契約させられるという、人の弱みに付け込んだコンプレックス産業にありがちな強引な営業姿勢であった。さらにかつら購入後には自毛の調髪が必要となり、定期調髪のための専用個室ブースを設けているが、そこでは盛んに別商品の売り込みがある。

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    販売はかなり強引で、そうした非難がネットのかつら苦情サイトに書き込まれたり、消費者センターへの苦情の常連は、かつら、エステ、美容整形などのコンプレックス産業が占めた。調髪に行くたびに商品を勧められる顧客もたまらないが、一般の理容室に行けない弱みもあってか、嫌でも行かなければならない。それについて告発本には以下の記述がある。

    アデランスには、『スペア・アタック』という社内用語がある。これは、調髪に来た顧客にカツラのスペアを売りつけることを言うが、そのやり方が実にあくどい。(略)「購入するまで顧客を帰すな!」を合言葉に、カツラを外して点検の名目で、しつこく購入するように責められ、顧客は追い詰められる。悪夢の時間から解放されるために購入するしかない。

    以下は大阪在のK氏(59歳)の投書。「接客態度に申し上げたい。執拗にスペアを勧めるので散髪がおろそかになるばかりか、予定した時間もオーバーするし、家庭の経済問題にも影響する。余りのしつこさに不快を表明しても怯まない。散髪に行く度に説教めいた勧誘を受けるにいたってはうんざり。弊社に通うことが苦痛となり、他店に代わろうと思っている。」

    アデランスは膨大な宣伝広告費と、顧客の弱みに付け込んだ押し付け商法で、業績を伸ばしてきたが、「仏の顔も三度」ではないが、耐えに耐えた顧客も、ついには足を遠ざけることになる。社内データによると、昭和57年12月現在でのアデランス使用者は、会社側の発表で約25万人だが、定期調髪来店者を常用顧客とすると、わずか17400人程度となっている。

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    全顧客数に対する常用顧客の割合は7%であることから、購入後に使用しない顧客がいかに多いかを示している。使わない理由を聞いたことがあるが、自分でかつらを洗って整髪するのが大変難しいらしい。洗って乾かして頭にのっけて、ドライヤーでセットしても、歪んだりして不自然になったり、かつらは所詮はかつら、バレないようにするのは大変という。

    アデランスの長引く業績低迷は、「驕れるもの久しからず」的な要素もある。本年4月、2016年2月期決算発表の席で津村佳宏専務は業績悪化の理由をこう述べた。「これまでの高価格帯のかつらを売るビジネスが崩れ始めた」(日経産業新聞 2016年5月16日)。実は津村氏とは旧知の関係にあり、同じ広島人で自宅に来たこともある。時期社長候補筆頭の彼の苦悩は深刻だ。

    津村氏は5月26日付で副社長兼COOに昇進したが、10月14日の記者会見で、投資ファンドのインテグラルの子会社を通じ、経営陣による自社買収(MBO)を実施すると発表した。業績が悪化しているために株式上場を廃止し、中長期的に経営基盤を立て直す必要があるとの判断である。インテグラルは中堅航空会社のスカイマークなどに投資して企業を再建した実績がある。

    アデランスは事実上インテグラル傘下入りで支援を受けることになり、MBO成立後は、創業者の根本信男会長兼社長と津村佳宏副社長の出資比率が合計で50.1%になる。残りはインテグラル側が保有する。会見席上津村氏は、「今回の決定は短期的な利益を求める投資家に迷惑を掛けないため」と説明したが、アデランスは来年2月中旬をめどに上場廃止となる。

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    本年3月、中華の陳建一の店として名を馳せた、「スーツォンレストラン陳(旧名四川飯店)」の閉店に驚いた。以下は、『帝国ニュース(3/30)』から。「消費者の低価格志向や、同業他店との競合で収益性が悪化しており、厳しい資金繰りが続いていた。メニューの見直しや内部合理化を進めていたが奏功せず、3/17付で広島地裁に破産手続き開始決定を受けた。」

    ここにも、「消費者の低価格志向」の文字がある。アデランスにおいては、低価格志向以前に、おじさんのかつら離れという現象がいわれる。ビジネスモデルが崩れる理由にはいくつかの要因があるが、「消費者の低価格志向」というユーザー自主防衛がアデランスにのしかかった。大手メーカーでは実現できない低価格のかつらを提供する新興勢力が増えている。

    インテグラルの佐山展生代表は、経営破綻した国内航空3位のスカイマークを再建させた実績があるが、飛行機はインフラである。国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設である航空会社とかつらは異なる。スカイマーク社に役員を派遣し、佐山氏自身も会長に収まっているが、アデランスの場合は筆頭株主を旧経営陣に譲り、役員派遣もしないようだ。

    非上場化のメリットは、株主に気兼ねすることなく思うような経営ができる点にあるが、低価格路線にシフトするにしても、40万円の商品を急激に20万円にはできないだろう。NHKが視聴料金を下げると発表したが、聞いてビックリたったの50円ではへそが茶を湧かす程度で結局取り止めた。380円の牛丼を300円にするのとは違ってアデランス低価格路線は難しい。

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    2000年に創業したかつらメーカー、「With(ウィズ)」のWebサイトには、オーダーメイド全頭かつら16万8000円、部分かつら14万8000円など料金表を公表している。これは大手メーカーの半額以下であり、これまで、「かつらのために働いている」とした大手メーカーかつらユーザーの嘆きが、ここにきて安価な新興勢力に乗り換えてしまうという時代の到来である。

    さらには上記のした、おじさんのかつら離れの加速がある。「ハゲを隠した男は幸せになる」というプロパガンダを成功させたアデランスだが、竹中直人や西村雅彦らは、「ハゲ」を個性としており、ジョブズにしろ、孫正義にしろ、かつらを100個も200個買えるお金持ちセレブが、堂々ハゲでいるというのは、お金があってもかつらを買わないとの意思表示である。

    孫氏は、「ハゲは病気ではなく、男の主張である」といったというが、これは名言であろう。ここで、「ハゲとづらバレとどっちがオカシイ?」という質問を路上でやるとして、どういう結果が出るだろうか?圧倒的に、「づらバレ」と自分は予測する。となると、カッコ悪いずらバレより、「堂々として自信に満ちた潔いハゲ」は、カッコわるいどころか清々しくもカッコいい。

    芸能人や有名人のハゲは一目瞭然だから探す必要はないが、づら探しは結構話題になる。づらバレに怯えながらのネガティブな人生より、堂々とハゲで生きる方が、人生を攻める強さがある。「高価格帯かつらのビジネスが崩れ始めている」というメーカーの分析は、日本人のハゲが、「カネはかかってもハゲを隠したい」という劣等感が薄れつつあるということ。

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    「カネはかかってもハゲを隠したい」⇒「カネがあってもかつらは買わない」という流れは、カネがないから買えないというネガティブさと違い、かつらを不要とするポジティブ思考の時代への変化であろう。安売りかつらを提供する新興メーカーの、ユーザー保有数を知ることはできないが、かつらは安くても不要とする時代は、大手メーカーや新興メーカーにも危機的である。

    このようなハゲびとの価値観の変貌とともに、かつら業界は斜陽産業の道を辿るのか?投資ファンド会社に資金的な救いを求めてはみても、重要なのは、「男性かつら」の新たな価値観を生み出せるかにかかっている。かつて、「道を歩くことすら恥ずかしかった」ハゲが、個性といわれる時代にあって、一体どうやってかつらを売る?「津村くん、頑張っちくり!」


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    ハゲがカッコいいなど津村は思わないだろう。以前彼と言い合いしたのを思い出した。広島でいちばん美味しいお好み焼き屋さんについて自分は、「みっちゃん」とし、彼は、「ふみちゃん」と言う。彼は、「みっちゃん」を知らない、自分も、「ふみちゃん」を知らなかった。それで言い合いである。親和性の女は同調が基本だが、男の言い合いは、闘争心と幼児性である。

    広島人はお好み屋如きでしばしば言い合いするが、気に入った店以外は行かなくなる。他店に行ってガッカリ損した気になっては、お好み焼を食った気にならん。「みっちゃん」は鉄板が厚く、水分が飛んでべたべたがなく、中に入れたそばもカリカリ気味だ。「ふみちゃん」に行ってみた。しっとり感があってまるで違う味だが不味くはないし、これはこれで一理あると納得。

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    さて、「ハゲがカッコいい」という表題にしたが、ハゲがどうカッコいいかについて書いていない。これからそれを書くが、多少の言葉のあやはあっても嘘は書きたくないし、自分が本当にカッコいいと思わないのに、無理して書くようなことはしたくない。「カッコいい」は男の言葉で、女性を、「カッコいい」といわないし、代わる言葉は、「かわいい」だろう。

    容貌の醜い女性を醜女(しこめ)というが、不細工は男女ともに使える言葉で、元は細工(工芸品)の出来が悪いことをいったが、転じて物事一般に体裁が悪いこと、好ましくないことを指す。通俗的に女性はブスといい、男はブサオと言ったりする。ブスは一般的に見下され、嫌われるが、自分はブスを避けることはなかった。ハナから見下す男は顔しか見ないなら仕方ない。

    美人でも性格が悪いとダメだし、ブスでも性格がいいと得した気分になる。ブス・美人に関係なく好きになるから特に、「ブスが好き」、「ブスが嫌い」とはちがう。よく友人からは、「あんなブスのどこがいい?」と付き合う女を批判された。そういう時は、「ノータイプだから…」と言っておく。コンパなどで、「好きなタイプは?」と女性に聞かれて、「ノータイプ」と答えていた。

    自分のことを自分がよく分からぬことはあるが、容姿だけが人ではないし女ではない。「ノータイプ」を別の言い方をすれば、「好きになった女がタイプ」といえば分かり易いか。ブス以外にも、デブ、チビ、ペチャパイ、障害者、足が太いなどの女性と付き合ったが、いずれも、「かわいい」女性だった。自分だけがそう思うのだろうが、自分がそう思えばいい。

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    他人には関係のないこと。自分が抱く価値は自分が見つけるし、自分の好き嫌いは他人に関係ないし、批判も気にしない。「いい女だ」とか、「かわいいね」とか、「美人だな」とか、そんな風に言われて喜ぶ理由がない。他人の品定めなど適当だし、いい加減なものよ。人から褒められて有頂天になる人間は、腐されたり批判されると気にしたり、怒ったりするもの。

    「褒められても腐されても別にどうってとこないよ」というと、「人間じゃないな~」と言われて以来、そのことはいわないようにした。自分には普通でも他人にそうでないことはあるが、反応が面倒くさいと感じるなら黙っておくのがいい。自分は、「少数派」くらいに思っておくことだ。他人の評価に一喜一憂しないは、ニーチェから学んだ事だが、マナーとして礼はいう。

    外人女性にお世辞を言うと、しらっと、「thank you!」をいうが、日本人ほどの突飛な反応はない。クールというより、レディへの世辞くらいに思っているようだ。ちょっと褒めただけなのに、まるで盆と正月が一緒に来たかの如く大騒ぎする女性がいるが、それはそれで少女っぽくてかわいい。日本人はそういう女を評価し、前者を、「かわい気がない女」という。

    「かわい気がない女」と思われようが、言われようが、いちいち気にしないのがアダルトである。確かに外人の男は歯の浮いたような言葉を平気で女性にいう。まさに言葉の文化であり、女性を言葉で悩殺するくらいのボキャを持った男に女は落ちる。日本人が、「綺麗だね」くらいの言葉を言ったところで、だから、しら~っと、「thank you!」と返す。

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    「かわいいね」くらいで大騒ぎする日本人女性とちがって、知性が感じられる。ということは、日本人女性も知的に振る舞うなら、そういう風にしたらいい。「せっかく褒めてやってるのに、可愛げがないよ」などの言われようは、覚悟して知的に振る舞う。もっとも、こういう日本人男はバカ丸出し。お世辞にしろ何にしろ、褒めて愛想がないからと文句をいうのはいかにも幼稚。

    自分の思うようにならないからと、「可愛げがない」など、知性なき三文男に知性ある女が口説けるはずがない。男の知性とは、「no thanks」を、「OK!」にもっていくことだ。知性ある営業マンは、断られてからがスタートというが、答えのある学問に長けた秀才と、答えのない問題に解を出す知恵者とは別物で、どちらに憧れを抱くかによって方向が決まる。

    本題の、「ハゲがカッコいい」の前に、「カッコいい」は外見ばかりでなく、内面のカッコよさもあれば、行動や生き方のカッコよさもある。もともと備わっていた髪が無くなることは、本人的にどうなのか?他人の目にはどう映るのか?確かに髪は顔の一部であって、髪がないのは変としたものだろう。が、誰もハゲたくてハゲるのではなく、不可抗力である。

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    そこをどう捉えるかによって意識は変わる。視力が失われて、眼鏡がなければ何も見えなくなるのも不可抗力である。眼鏡といういびつな物体を顔に当てれば容貌は変わる。だからか眼鏡を嫌だと避ける人はいる。別に眼鏡が変ではあないのに気にするようだが、メガネ美人もいるわけだ。眼鏡のいびつさ、髪が無くなるいびつさは似て非なりでも、考え方的には同じこと。

    自分はハゲてないので、ハゲびとの心境の理解はできていないが、自分がハゲたとしても気にならない部類であろう。とかく他人の事が気にならない点において、ハゲても気にならないと思う。気にしなければいけないものでもないわけだし…。その前提でいえば、ハゲてカッコわるいは心の問題であり、だからといって、「カッコいい」ということもない。

    ハゲにかぎらず何らかにおいて自分を、「カッコいい」と思えるナルシ的要素はない。容姿であれ、生き方であれ、行動であれ、何にしても、自分がカッコいいというのは人の見方であろう。自分のすべきは、カッコ悪くならないように努めることかと。ただし、カッコ悪くない=カッコいいではない。そういう前置きで、カッコいいハゲの他人を探してみる。

    先にあげた孫さんやジョブズのハゲ面は、カッコ悪くないばかりか、むしろカッコいい。それはなぜか?を、冷静に考えるなら、彼らのハゲ面がカッコいいのではなく、彼らが資産家のセレブ企業人だからではないだろうか?まあ、それもカッコいいの範疇だが、同じ部類に、ブルース・ウィルス、ジュード・ロウ、ジャン・レノ、ショーン・コネリーらがいる。

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    彼らがハゲていてもカッコいいのは、ハリウッドセレブだからであり、純粋なカッコいいハゲというより、お金持ち・有名人であることがカッコいいいの要素だろう。「カッコいいハゲ」で検索すると、必ず出てくる彼らであるが、ちょっくらこれは違反ではないか?違反というのも変だが、ハゲてなくてカッコいい彼らは、ハゲてもステータスは変わらない。

    言いたいことを決めて書いてないゆえか、こうしてどんどこ突き詰めていゆくと、だんだんと見えてくるものがある。ハゲの何がカッコいいかについての本質である。ハリウッドスターやセレブ企業人を、カッコいいハゲに引用せずとも、生き方や内面にこそカッコいいハゲの本質がある。ブスが可愛いように、内面のカッコよさこそ、ハゲの真のカッコよさである。

    例えばジェイソン・ステイサム。彼はハリウッドスターであるが、それとは無関係にカッコいいハゲである。カッコよさは彼の言葉が示している。「俺は自分がハゲだってことを神に感謝しているぜ。そもそも俺に髪の毛なんて似合わない!」。ハゲを肯定する言葉において、これ以上の決めセリフがあるのか?こんな言葉を吐ける彼は、見事に、「カッコいいハゲ」No.1である。

    ブルース・ウィルスの、「男ってのは髪の量じゃなく、ハートで決まるんだ」のセリフが翳んで聞こえるくらいに説得力がある。さらには、これぞセレブでもなんでもない、フランス人の普通のオヤジは、「ハゲることは男の力。(ハゲでいることは)周囲の目を気にしないことを示すし、男らしさがすごく出ている」。これもカッコいい。このセリフは素人No.1である。


    「健全な精神は健全な肉体に宿る」が、WHO憲章なら、「健全なハゲは健全な精神に宿る」。人にはさまざまな健康上の悩みがあるように、身体的・精神的な悩みもある。ハゲもしかりだが、そうしたコンプレックスにどう向き合うかが人間の課題であろう。心身ともに健康な人は、「そんなことは気にせず、気持ちを大きくもって、前向きにいきるべし」という。

    他人に向けてだけではなく、自身においてもそうであるなら、口だけ人間ではない。ステイサムにしろ、普通のフランス人オヤジにしろ、彼らにできて日本人にできないことはない。ウサギ小屋に住み、年収300万、軽自動車に乗り、アデランスなど無縁。言葉には出さずともハゲに屈せず、大らかに生きるハゲびとを、自分は、「カッコいいハゲ」と結論する。


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    「ハゲがカッコいい」なら、「デブもカッコいい」でなければならないが、デーブはともかく、デブははやカッコいい時代になっているようだ。マツコらデブタレを企業がCMに登用したり、テレビ業界が盛んに露出させる理由は、デブがカッコいいからでは?ハゲと同様、好みの問題もあるが、デブがますますカッコいいと囃されるなら、ダイエッターはいなくなる?

    まあ、デブにも種類がある。ハゲにも種類があるように。てことは、カッコいいデブ、カッコいいハゲ、そうではないデブやハゲがいることを念頭におくべきだ。そこで、まずはカッコいいデブとはいかなるデブであるか?夏は暑苦しい、冬はダウンジャケット不要と嘲笑され、虐げられたデブが市民権を得て、カッコいいと持て囃される理由は何だろうか。

    「デブとハゲとドブスに栄光あれ!」という社会にエールを贈るべきか否か、その辺りをじっくり考察しておきたい。クルマに轢かれてもハンバーガーを手放さなかったデブがいた。バスケ界にスキンヘッドを流行らせた功労者がいた。「もし、あたしがブスだったら…」と話し始めるドブスなど、彼らの社会的影響力を決してあなどることなどできない。

    そうはいっても、自分はハゲになるのはなんでもないが、デブにはなりたくないその理由は、数十キロもの肉襦袢を纏い、負荷をものともせずに歩けるハズがない。さらには、今ある洋服などを捨ててユニクロに行かねばならないのも理由の一つとなろう。自分にとって、ユニクロはデブの用達ブランドである。デブがオシャレをするなら、せいぜい靴と手袋くらいだろう。

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    あとは健康上の問題からもデブを避けたい。ママス&パパスのキャス・エリオットが、1974年7月29日にロンドン・パラディアム劇場での公演の後、自室で心筋梗塞により死亡しているのが発見されたが、32歳であった。彼女は傑出した美声の持ち主だったが、あまりにも体重があり過ぎて、体に負荷がかかってしまったのか、睡眠中に死亡したとの検死報告だった。

    100キロ超級の彼女の死を機に、デブは危ないとの懸念を抱く。誰しも安らかに逝きたいし、できるなら苦しまずに死にたいものだが、クモ膜下出血、心筋梗塞、尿管結石は、痛みの三大王者と言われている。クモ膜下出血経験者は、後頭部を鈍器で思い切り叩かれたようだといい、救急病院に心筋梗塞で搬送される患者は、多くの搬送の中で最も苦しそうと医師はいう。

    尿路結石は経験があるが、クモ膜下出血、心筋梗塞に次ぐ痛みというが、あの痛みは筆舌にて表現できない。上記の痛みと違って発症後に死ぬことはないので、痛みは記憶にとどまっている。キャスのように、就寝中に死ぬというのも理不尽ではあるが、床に入って、気づいたら(気づくことはないが…)死んでいたというのは、痛みのない理想的な死に方であろう。

    デブになりたくない理由の中に、「見栄え」という要素は多いが、自分に関してはこの年齢で見た目というのはない。恋人探しの必要もないからだ。世の中には好んでなのか結構デブがいる。デブキャラで売る芸能人はともかく、容姿・容貌も仕事のうちというスターが、デブになるのは単に不摂生ではないかと邪推する。あるとき、ジュリーの近影を見て驚いた。

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    沢田研二といえば、若い頃はスリムな美形で、この世のものとは思えぬ美しい顔の持ち主であった。そんな彼が起こした、「イモジュリー事件」がある。1976年6月19日、新幹線車内で、「イモジュリー」と呼ばれたことに腹を立てた沢田が、相手の男性を殴ったり蹴ったりした事件。彼はそれくらいにナルシストだった。以後1ヶ月、自宅で謹慎、76年の紅白も出場しなかった。

    事件の詳細だが、男は沢田に面と向かって言ったのではなく、ファン何人かに囲まれているのを見た通りがかりの男が、「ジュリーなんて、イモだろ」と発言し、それに怒った沢田が男のキンタマを掴んだ。やられた男もジュリーのキンタマを掴み返した。どちらのタマが優れていたかは知らぬが、それがもとで双方が殴り合い、つかみ合いになったと言われている。

    ジュリーもバカだよ、男の急所であるキンタマを掴むなどは断固御法度。掴み合い(?)に発展するはマチガイない。どうあれ、チヤホヤするファンもいれば、アンチファンもいて当然だろが、そんなで怒る沢田もトッポい男よ。そんな美形男子ジュリーがイモかどうかはさて置き、自分がキンタマげた、いやブッタマげたのは、デブ化したジュリーの姿である。

    「こ、こ、これがジュリー?」。人間が経年で太るのは、基礎代謝の低下や運動不足での脂肪の蓄積であり、それは致し方ない部分もあるが、だからといって、太り過ぎは見栄えだけではなく、健康上にも問題ありだ。ジュリーが、「イモ」であることの真偽はわからないが、デブジュリーであるのは誰の目にも疑いようのない事実で、これにはネット住人も容赦ない。

     ・最近の特殊メイクは凄いね。まるで別人だわ
     ・六平直政じゃねえか
     ・若い頃あれだけ美しさとかっこよさを求めてたのに、もうどうでもいいんかな
     ・よ~く見たが、帽子しかジュリーじゃないだろ
     ・どんな不摂生な生活してたんだろ?
     ・よく見るとやはり沢田研二

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    太らない体質もあるようだが、経年においても体型維持の芸能人は、やはり節制のたまものであろう。新御三家と言われた郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎は、いずれも60歳を超えたが、かつてのアイドルに節制の様子は見える。顔のシワは増えたにせよ、それほどの激太りはない。中でも郷ひろみは三人のなかでも、美しい体型を維持しており、素晴らしい限りである。

    芸能人の多くはナルシストであろう。そのナルシストぶりも若いうちは熱心でも、ひと年過ぎ去れば、「もういいや」となるのか?食べること優先の、食道楽芸能人は結構いる。折角稼いだのだから食べるのは結構だが、食べた分を動いたりで、掃き出すなら問題ないが、そうもいかないのが横着人間。若い頃は自己管理はいらないが、問題は中年以降である。

    ジュリーも昭和23年生まれの団塊の世代であり、物のない時代に育ったこともあってか、この世代の特質は食い意地が張っていること。我ながら思うのは、炊飯器のご飯をしゃもじですくい上げた時、小さなご飯の塊が、ぽとりと床の上に落ちた。急いで救い上げて、少しはたいて茶碗の中に入れる。こうした当たり前の行為が、団塊の世代なのである。

    子どもの頃に床に落としたご飯の小塊を見た父はいった。「拾って食べなさい。弘法大師は牛糞の上に落ちた米粒を拾って食べたのだよ」と。床といっても土間である。弘法大師がどこの誰か知らないが、親の子への伝聞である。あれ以降、父の言葉が頭に残っている。後の世代の女どもは、「きたない、止めなさい」などと言うが、汚いと思ったことはなかった。

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    床に落ちたご飯を拾って食べるのが世代的なものか、自身の特性なのか、父の教えであるのかは定かでない。他人も同じようにするのかしないのかに関わらず、自分にとって、拾って食べるのは自然なことだ。さらには、道端に落ちている一円玉を無視したことはなく間違いなく拾う。拾うだけでなく得をした気になる。何の得にもならないが精神的なものだ。

    落ちている1円玉を見つけ、ニヤリする自分を不思議に思うことがある。人間は不思議な生き物だ。自分の行為を自ら説明できないことがしばしばだが、それとて自身の行為である。さて、デブジュリーをカッコいいと思うのか?正直、「思わない」。では、世の中に、「カッコいいデブ」はいる?すぐに閃いたのは森三中の女どもで、女性だから、「カッコいい」でなくかわいい。

    ファンではないが、あの屈託のなさがかわいい。ジュリーにもファンがいる。ファンはジュリーをカッコいいと思うだろうが、ファンでない者にとって、かつてのジュリーと今とでは別物である。よって、ファンとアンチによる、「好き・嫌い」、「デブ・非デブ」なる言い合いは不毛で止めた方がいい。好きには好きの、嫌いは嫌いの理由がある。が、今のジュリーにカッコいいは見つからない。

    「ジュリーはデブ」は、ファンにとっては痛くも痒くもないだろうが、「暴言許せない」などとムキになるのはオカシイ。彼は普通に見ればデブであり、赤を赤と言ってるに過ぎない。ファンとしての心情と、事象の対立をすべきではない。宗教は批判されて然りの部分はあっても、信者を批判しないように、ジュリーの不摂生を非難はするが、ジュリーを好きというファンを批判はしない。

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    デブを改善した人は一様に言う。「これまでが如何に不摂生であったか…」。それが反省の証ならよいことである。ジョギングの光景は日本でも珍しくなくなったが、かつては高カロリー食に寄りがちなアメリカ社会の光景であった。アメリカではデブは要職に就けないとされる。自己責任のお国ゆえに、己の体を管理できない人間が、人を管理できないとの論理。

    アメリカの一流企業はデブを役員にはしないのは、明文化というより不文律という。アメリカのデブと日本のデブは桁が違い、日本のデブはアメリカでは平均的だったりする。ヒラリー・クリントンを日本ではデブと見なすが、あちらでは標準形。日本の関取程度はあちらでかわいい、「小デブ」。それほどにアメリカの、「本デブ」は、「百貫デブ (1貫=3.57kg )」である。


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    普段は考えることはない身長が伸びるということのついていえば、身長が伸びるということは即ち骨が伸びること。デブは肉がつくことで骨は関係ない。身長は、骨の両端にある、骨端線という軟骨の部分が膨張することによって伸びる。男子の場合16歳前後、女子は15歳前後で思春期を終え、骨端線が閉じる。骨端線が完全に骨化すると、身長が伸びることはない。

    生まれてからの1年間で約25cm、1~2歳で約10cm、2~4歳は年間7~8cm伸びて、4歳で約100cmになるのが乳幼児期女児の一般的パターン。思春期前までは、年間5~7cmずつ伸び、徐々に伸びが減る。思春期(10歳前後)後、2年間は約7~8cmのペースで急激に伸び、その後の3年間は徐々に伸びが減り、15歳半前後で完全に身長の伸びが止まるとされているだ。

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    例外的に20歳になってもまだ骨端線が固まらず、身長が伸びる人もいるにはいるが、基本的には思春期を迎える時期によって、身長の差がつく。思春期を迎えるのが遅い人は、一時的に平均より下回ることになっても、最終的に高くなる可能性が大きい。骨端線が成長するための最も重要な要素として深い睡眠がいわれ、これは成長ホルモンを分泌させるからである。

    また、タンパク質、カルシウム、マグネシウム、ビタミンDなどの栄養素、骨端線に適度な刺激を与える運動の他に、親や周りから受ける愛情なども関係する。また、ストレスやフラストレーションをためない生活も重要とされる。身長が最も伸びる思春期時期に、伸びやすい環境を整えることが大事。カルシウム信仰は嘘ではないが、食材によって吸収率が異なる。

    昨今のサプリブームが来る前から、カルシウムは生活に馴染みのあるサプリであったが、サプリでカルシウムを摂るのはいいとしても、体内でちゃんと吸収されるのか?サプリに使われるカルシウムの多くは、貝殻や卵殻を原料とする、「炭酸カルシウム」で、炭酸カルシウムは胃液が少ない人、胃液が出づらい人にとってはあまり吸収が良くないとされる。

    胃液量のが少ない日本人は、飲んでも吸収されずそのまま排出されやすい。さらにカルシウム含有率の問題がある。炭酸カルシウムというのはカルシウム(Ca)に炭酸(CO3)がくっついたもので、純粋なカルシウムを取り出すと全体の1/4程度の量になる。したがって、カルシウムを摂取する場合、単純計算でその4倍量のサプリを飲まないと目的量の摂取できない。

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    巷で言われる、「カルシウムサプリは、分子が大きく吸収率が悪いので効果がない」については、吸収しやすい形に(分子を小さく)する方法がある。クエン酸(酢などすっぱいもの)と一緒に摂ると、クエン酸と結びついて小さくなり吸収されやすい。あとは日光に当たることでビタミンDが吸収を助ける。適度な運動をする。これも運動が吸収が良くなる。

    確かにカルシウム自体の吸収率はあまり良くないが、吸収されにくいが吸収はされるので、慢性的にカルシウム不足といわれる日本人は、撮り過ぎて問題はないので、積極的に摂るべき。一度に過剰に取っても一定量しか吸収されないカルシウム摂取は、朝昼晩と分けて摂取する。できるならサプリに頼らず、アジの南蛮漬けなど、ムシャムシャ食べませう。

    蘊蓄はこのくらいにして、チビについて考えてみる。「ハゲ、デブ、チビ」の三大悪口の中で、チビが異質なのは加齢的・後天的要素がないことだ。一応後天的ではあえい、10歳~15歳を加齢といえばそうともいえるが、チビは若い時分からチビであって、死ぬまでチビで行くしかない。10歳で肥満児はいるが、こちらは親や本人の努力で直せるが、チビは直せない。

    そうしたチビを理不尽と思うのは止めた方がいい。デブのような苦しいダイエットをする必要もないし、数十万もかけて育毛サロンや、高額なズラ購入に悩むこともない。せいぜい1万円程度のキムタクブーツで、7センチも確保できるわけだ。ただし、キムタクブーツも欠陥がある。座敷や部屋に入った途端にガクンと身長が落ちる違和感を周囲に与えることになる。

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    ま、チビとは長い付き合いもあってか、それほど深刻な人には出会ったことがない。ばかりか、チビをオカシイと思った事すらない。むしろ、女性は小ぶりで可愛く、170cmを超える高身長の女性の方がむしろ悩んでいたりする。女性で高身長と巨乳に猫背が多いのも、思春期の名残であろうか?森三中の村上知子 (146cm)は、チビでデブでブスゆえにかわいい。

    柳原可奈子 (153cm)もかわいいチビデブだ。矢口真里 (145cm)も、モー娘時代から人気があった。憧れの高身長をゲットしたのはいいが、高身長=高チン長でなかったのか、他の男に手を出して高額慰謝料を払う羽目になった。彼女は、素直でアクのない良い子のようで、あの件についても言い訳せず、「すべて私が悪い」と言い切ったことで人気回復した。

    が、テレビ業界とはそういうところだが、いい加減不倫ネタでお笑いとるのは止めるべき。彼女には取り立てチビで可愛いくらいしか芸がないからか¥か、いじられキャラで通している。彼女の何でも受け入れるところも可愛いのだろう。最近のモー娘は知らないが、キムタクブーツで身長を誤魔化していたチビつんくのアイデアなのか、結構チビが多かった。

    安倍なつみ (152cm)、加護亜依 (155cm)、田中れいな (151cm)、辻希美 (153cm)、福田明日香 (148cm)、高橋愛 (153cm)、新垣里沙 (149cm)、そして矢口真里 (145cm)。高そうに見えた後藤真希ですら158cmである。テレビでは分からないが、結構チビがいる。美空ひばりは147cm。山田花子 (150cm)、小泉今日子 (154cm)、持田真樹 (151cm)、安達祐実 (153cm)。

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    荻野目慶子 (152cm)、木村カエラ (155cm)、ジュディ・オング (153cm)、中山エミリ (153cm)、小柳ゆき (153cm)らは、いわれてビックリ。そんな風には見えなかった。男で低身長の代表といえば、トム・クルーズとマイケル・J・フォックスがともに163cm、アル・パチーノも不明だがそれくらい。プリンスは158cmだったらしい。ビリー・ジョエルも意外や165cmという。
     

    美輪明宏 (161cm)、Mr.マリック (162cm)、V6の三宅健が164cm、森田剛が162cmなのに、なぜか岡田准一の169cmはサバ読み疑惑がある。タモリ (161cm)、水道橋博士 (161cm)、片岡鶴太郎 (160cm)、岡村隆史 (156cm)、尾木ママ (152cm)は思ったより低い。ついでに、ワカメちゃん133cm、則巻アラレ139cm、ちびまる子126cmらは、永遠にその身長という特技を持つ。  

    女性のチビは可愛いが、男のチビは冴えないと言われたが、最近はジャニ系にも低いのが多いからか、そんないわれ方はなくなった。ハゲと同様、岡田准一やトム・クルーズなどのスターはチビに支障はないし、【背は低いがかっこいい!】と題された低身長のイケメン芸能人のサイトもある。これくらいにカッコよければ、身長はハンデにならない。

    何事においても言えるが、目が見えないなどのハンデを努力次第で逆に長所にできる人間である。ナポレオン (167cm)、野口英世 (153cm)、ラルフ・ローレン (163cm)らは、チビである理由が大いにあった人だ。「私はブスだから美に執着するのよ」といったコシノ・ジュンコも、ある種ハンデをプラスに変えた。福原愛は155cmだが、彼女の中国における人気は凄い。

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    2014年9月28日、仁川アジア大会の卓球女子団体で日本がモンゴルに圧勝した日本チームのメンバーだった福原は、11-0で勝利してしまったことをしきりに後悔していた。というのも、卓球の試合においては、10-0になった時点でリードしている選手は相手に1ポイントを与えて、"完封負け"を避けるという、"暗黙の了解"があるが、福原愛はそのまま勝ってしまった。

    「10-0になったときサーブを(わざと)ミスしようと思ったのですが、すごくいいサーブがいってしまって…。リターンに無意識に反応したら、相手がミスしました」と説明した。この試合後のインタビューで、福原のコメントが話題になっている。中国テレビ(CCTV)の記者のインタビューに流暢な中国語で答えた。福原は中国では、「磁娃娃」と呼ばれている。

    まるで磁器のように色白で、愛らしい顔立ちから磁器人形の中国語、「磁娃娃(ツーワーワ)」であるが、その時のインタビューはこんなやり取りだった。 記者…「アジア大会出場は何回目ですか?」。 福原…「4回目…、になったでしょうか。チームには私より一回りも若い選手もいて、もう『おばさん』って呼ばれてしまうくらいの年齢になりました」。に続いて…

     福原…「美女を見ると、ダイエットしなきゃという気になるんです」
     記者…「あなたは“美女”ですか?」
     福原…「違います。チビでデブだし」
     記者…「たくさんの人があなたを“美女”だと言っていますよ」
     福原…「(そんなにおだてて)何か私に頼みたいことでもあるんですか?」

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    これはお世辞に対するいい回答だ。「(そんなにおだてて)何か私に下心でもあるんですか?」ではキツイ感じになるが、「何か頼みたいことでもあるんですか?」が勝る。あちこちで頻繁に世辞の類の被害に合う女性は、こう切り返すのがよかろう。「あなたモテるでしょう?」といわれたら、「荷物なら結構モテますよ」というのを用意している自分なのだが…


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    慶応大学の10代女性が神奈川県葉山町の合宿施設において、同大広告学研究会(広研)に所属する男子学生数人から乱暴を受けたとされる問題で、大学側は関わったとされる4人の男子学生に対し、無期停学などの処分をした。この問題をめぐって大学側は当初、未成年者(18歳)への飲酒強要と、広研に解散命令を出したが、学生個人への処分はなされていなかった。

    その後大学は、▽商学部2年の学生▽理工学部1年の学生2人▽環境情報学部2年の学生の4人。商学部と理工学部の学生3人に無期停学、環境情報学部の学生は譴責としたが、無期停学の処分理由は9月2日、葉山町の広研が借用していた合宿所において、未成年飲酒やサークルでの性行為、その行為の撮影など、「気品を損ねる行為をした」などとしている。

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    「ミス慶応コンテスト」を運営する慶大広研の男子学生が、女子学生に集団暴行した疑いがある問題を報じたメディアの見出しは、『鬼畜の所業、慶大生による集団強姦』であった。被害女性は神奈川県警に相談し、県警も捜査を始めていたが、慶大広報室は、「性行為があったのは確認できたが、刑事事件につながる事実までは確認できなかった」とした。

    「文春」や「新潮」は口に性器を突っ込み尿までかけたという凌辱行為を報道しているが、これらの情報リークはどこで入手したのだろうか?警察か、被害者か、内容があまりに具体的であった。その後、女子学生側が被害届を取り下げる意向を見せるなどしたというが、暴行行為の一部始終をその場にいた学生の一人が動画撮影をしていたことが後に分かった。

    動画はコピーを重ねネットに流出した。自分もこの動画を目にしたが、感想をいうならこれを集団強姦といえるのかの判断は難しいと感じた。被害届が出されれば警察も捜査せざるを得ないが、個別に詳細な聞き取り捜査をするより、現場の一部始終を撮影した動画を見れば、「百聞は一見にしかず」であり、女学生も被害届の取り下げに至ったのかも知れない。

    明らかに動画を撮る目的で及んだ行為とも受け取れ、撮影側には悪フザケの延長程度で、犯罪意識はなかったようだ。例えば先の高畑の強姦致傷事件を警察が犯罪立証できなかったように、強姦の定義は、「暴行または脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫」もしくは、合意があっても13歳未満の女子を姦淫」という条件が満たされていなければならない。

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    もう1点は弁護士などが上記の条文以外に提示する、「人の心神喪失もしくは抗拒不能に乗じ、または心神を喪失させ、もしくは抗拒不能にさせて、猥褻な行為をし、または姦淫をした者」と、法律家以外にはあまり知られていない要件がある。被害女性は、「テキーラを10杯以上飲まされた」、「抵抗したが押さえつけられた」というが、男子学生との主張は食い違う。

    加害学生から話を聞いたという別の学生は、「女子学生が飲み過ぎて体調を崩し、翌日に病院に搬送された際、親に言い訳するために、『レイプされた』と告げたことで一大事になったのであって、これは週刊誌に取り上げられる前の、強姦の話が表に出てない時点でメンバー自らがそう明かしていたので、信じてもよいのかと思いました」。と語っている。

    集団暴行疑惑について慶大広報室は、「性行為があったのは確認できたが、刑事事件につながる事実までは確認できなかった」としたが、これは映像を見たコメントであろう。強姦行為の事件性の判断は難しいが、弁護士の見解は、「動画撮影に関しては重大な犯罪の疑惑があるとし、リベンジポルノ防止法違反、名誉毀損などに該当の可能性がある」と指摘する。

    さらには、「性行為を撮影することだけで違法にはならないが、他者に広める目的での撮影は刑罰の対象になる」とし、今回の場合、複数対1人ということもあり、動画を広める目的で撮ったと判断される可能性が高い。動画の存在は明らかになっているが、動画がないなら高畑ケースのように、女性は強姦被害を主張するだろうし、弁護士は代理人を受ける。

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    が、弁護士がこの動画を見たら強姦は争えないと感じるのでは?また、テキーラ10杯飲まされた女性も、後にこの動画をみたらどう客観的判断をするだろうか?動画の始まり場面はこうだ。女性はノリもあってか数杯のテキーラを一気呑みをする。数人の男が手拍子でそれを囃す。ここまではコンパや飲み会で見られる光景だが、問題はその後の行為に対する女性の対応である。

    男ども数人が彼女の周囲を取り囲み、後ろからサイドから、女性を触り続けているが、これは単に触り得という感じであろう。女性は明確な拒否の言葉も意思は見せず、見方によっては触らせている状態。口では、「いや~ん」などと言うが、毅然とした「NO!」でないのは誰にも明らかである。男はスカートをめくり、下着の上から撫で始める。女性はされるがまま…

    他の席の学生を意識したのか女性は、「見えちゃいますよ」。男は、「見えないから大丈夫」、女は、「見えちゃったらやばいよ」、「見えない、見えない」のやりとり。言葉の意味を解説するに、「見えちゃいます」は、行為を止めてという拒否でなく、「見えるのがイヤ」と受けとれる。ならば行為する側として、「見えない、大丈夫だよ」と安心させる。ここまでなったらもう止まらない。

    別の男は後ろから両手で胸を、下着の上からのお触りしていた横の男は、手を下着の中に入れ、ついには下着を取る。この時も女性は、「見えちゃう、見えちゃう」の言葉だけを口にする。部屋にはあちこちに別の集団もあり、女性はそれを気にしているようで、そのことに配慮したのか主導の男は後輩らに、「お前らここに壁を作れよ」と指示、4~5人の男が壁を作る。

    上半身の下着を剥がし、女性を弄ぶ男の行為を身を、乗り出して眺めようとする後輩たち。それを脇から実況中継する女性は、「何よこの子、沁みできてるし、嫌じゃないみたいよ。パンツ脱がしてあげなよ。欲しがってヒクヒクだね」などと男にけしかけ、ついには、「全裸にしちゃえ!」と号令する。この動画を同大の学生は、「AⅤビデオみたい」と言っていた。

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    行為はどんどんエスカレートし、被害女性の声も大きくなったことで男どもは、「やばいな、移動しよう」と、一旦は女性に下着を履かせ、服を着せて他の部屋に移動する。この時女性は男に支えられていた。上の画面がその時の移動風景。後はもうやりたい放題の無茶苦茶。部屋を移動した後、女性はずっと泣き喚いていた。これを見ながら自分は思った。

    これを強姦とするなら、自分は強姦のリアル場面を見たことになるが、もし、第三者として何かを証言する立場なら、最初の女性の了解からして、強姦とは思わない。自分は女性でないから女性の心情は分からないが、物事には始めと終わりがある。その間に経過(課程)がある。初めから断固拒否する女性もいるが、この女性は違っている。痴漢の被害者に置き換えてみる。

    最初は特に拒否をしないでいたら、男がどんどんとエスカレートしてきた。拒否の理由は羞恥なのか、自尊心なのか、嫌悪感なのか分からないが、拒否をしたくてもできない状況というのは想像できる。拒否が躊躇われる事情も様々あるだろう。同じニュアンスで言えば、飛び込みセールスを家に入れてしまったことで、断れず不要な物を購入するケースも、拒否ができない点で同じ。

    最初から、「断固拒否」であれば、ある結果は起こらない。結果とは原因がもたらすもので、その責任は自分にある。行為者が卑劣であったり、悪人の場合もあるが、どっちにしろ、行為者には行為者の目的がある。セールスなら売りたい、痴漢なら遂げたい。こうした相手の目的を察知するなら速攻防御すべきである。それをせずに、「相手が悪い」といって、どこが自己防衛だ?

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    相手の意図や相手の思惑を断固拒否し、実行させない態度こそクレバーである。法定速度で走っていて、相手がぶつかってきたら責任はないが、こちらも速度超過をしていた場合、防止(回避)できたと判断され、過失割合が発生する。痴漢被害も、強引なセールス被害も、厳密には過失割合は発生しており、弱者救済だけではいささか甘い。我が身は自分で守る気持ちが大事だ。

    刑事事件というのは弱者と強者が存在するが、弱者にも過失を認定することが、罪の軽減や量刑の基準となる。自分は何も悪くないなどは決してなく、自身に気づかない過失でも、第三者の目には判断される。過失を食い止めるのを「自己管理」といい、その度合を、「自己管理能力」という。それが高い女性もいれば、高くない女性もいる。後者は相手に付け入る隙を与える。

    自分は何も悪くない、誰々が悪い、すべて相手が悪いなどが人間の浅ましさで、言い訳も含めて自己防御本能というが、防衛とは防止できなかった言い訳より、未然に防ぐ方がいい。世の中は、「好事魔多し」、注意力がなければ、「犬も歩けば棒に当たる」。「棒が悪い」とでもいうのか?「人も歩けば棒に当たる」ではなく、「犬」である事の意味を考えてみるべき。

    言葉を持たない「犬」、言い訳のできない、「犬」としたことにこそ意味がある。「すべては自己責任ですよ」であると自分は解釈する。言い分け、屁理屈、自己弁護、いわせておけばキリがない。広島弁で言い訳ばかりいう男を、「カバチたれ」といって見下す。「男がカバチたれるんじゃないよ、みっともない!」などと使うが、女にはあまりいわないし、使わない。

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    おそらく、「言い訳する=女」という共通認識なのか?定かではないが、「男のカバチタレは見苦しい」。標準語で言えば、「男の言い訳は見苦しい」。将棋に負けてもああだ、こうだという人間はさもしい。多少こちらが緩めたとしても、勝った相手を称えるのが男の度量であろうし、「緩めたんでしょう?」といわれて、「いやいや、全力でやりました」という自分を称えたい。

    いかなる場合でさえ、言い訳を言わない自分を良しとする。そういう意識を高めて行くことが、少なからずキャパシティに寄与すると確信する。前よりはできるようになったが、まだまだの部分もある。多くの事件、幾多の事象から学ぶことは多い。社会に悪は山ほどあるが、社会に正義は少ないのも現実。文句を言って嘆くより、自己管理、自己防御を忘れぬ事だ。


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    成宮寛貴という名を目にし、彼を庇う芸能人の言葉を見出し以外は気にも留めず、SMAPほどの有名人ともいえない彼の存在を自分は知らなかった。基本的に芸能界に関心はなく、無知を自認する。芸能界の話題満載の週刊誌は何十年も買ったことがない。そんな成宮がいきなり芸能界を引退するという。何があったのかとの好奇心もあって、関連記事を読んだ。

    コカイン使用疑惑があったと、写真週刊誌「FRIDAY」で報じられたようだ。「根も葉もないこと、法的なあらゆる処置を取る。訴える。」と、事務所は発表した矢先だった。そこまではよくあることで、不倫にしろ、隠し子にしろ、大麻にしろ、収賄などの汚職にしろ、週刊誌報道をすぐに認めて謝罪する人もいるにはいるが、多くは進路が断たれるまで否定をする。

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    「文春」砲に代表されるスクープ週刊誌は、第一弾が出た時は、三弾くらいまで証拠を握られているもので、火が付いた時点で観念すべきであろうが、そこは生身の人間である。嘘に嘘が重なってほころんで行くばかりだが、「人の不幸は蜜の味」とばかりに、肥やしにしたり、眺めたりの時代である。清原しかり、ASKAしかり、ベッキーしかり、高樹沙耶しかり。

    「根も葉もないこと」という声明を信じるファンだが、嘘がほころべば根も葉もないのに茎があったとなる。最近の週刊誌の情報収集力は凄いの一語。数日前はテレビ朝日・朝の情報ニュース番組の局アナ不倫が報じられ、即刻番組を降ろされた。不倫を報道する側が不倫実行中なら、報道そのものが妙なことになるから、こういうアナに処分は必要である。

    まさか、「社会は不倫はダメというけど、私もしてますし、本人同士が望むなら、別にいいんじゃないですかね~」とコメントするわけにもいかない。「不倫はダメです」で、実はしていたでは示しがつかない。ある大泥棒は、「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」といった。折角のチャンスだから、「…世に不倫の種は尽きまじ」と名言すればカッコよかったが…。

    社内恋愛にお咎めの理由はないが、まともな恋愛より、不倫の方がスリルがあるのだろうか?ところで成宮の事務所は、「FRIDAY」の第一弾報道時見解は威勢がよかったが、二弾目であっさり芸能界引退という彼の決断は、どういう心境であろうか?いろいろな推測はできるが、彼は所属事務所をとおして、報道各社に以下の自筆コメントを発表した。

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    一読した印象を言えば、ナイーブな男のようだ。「心から信頼していた友人に裏切られ」とある。「複数の人達が仕掛けた罠に落ちてしまった」とある。彼の年齢は34歳であり、友人による裏切りは頻度にもよるが、ショックを隠せていない。経験を持つ自分は理解する。「セクシャリティな部分」というのが分からず、調べたところ、「ゲイ」疑惑であるらしい。

    これについては、彼の所有するバッグやファッションなどから、周知の事実であったらしいが、それによって彼の好感度が下落することもなかったようだ。「今後これ以上自分のプライバシーが人の悪意によって世間に暴露されるのが耐えられない」と彼が感じたならそう見るしかないが、ゲイ疑惑に関しては隠せないものとカミングアウトする愛好者多し。

    「今すぐこの芸能界から消えてなくなりたい」という彼は、速攻でその選択をしたようだ。自分は知らなかったが、映画の出演本数30本、テレビドラマの仕事も多い人気者なら、しっかり蓄えもあろう。自分に不似合いな世界、嫌だと感じる世界なら、金銭に関係なく辞めるのは正しい選択である。自筆で書かれた文を見ても、人間としての純粋さが感じられる。

    コカインの使用は分からないが、芸能人ゆえに嵌められた可能性はあるかも知れない。仕事上のストレスと好奇心から、「ちょっと試してみないか?」と口車に乗せられ、現場写真を撮らせることなど簡単だ。自分が芸能人ゆえにこんな目にあった、こんな汚ない世界などうんざりと、純粋な人間は思うかも知れない。彼の唐突な引退劇はそんな風に思う。

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    入ったら抜け出せない虚業社会と言われる芸能界から足を洗い、他業種に向かう人間は、おそらく労苦経験が沁みついているからか?一度味わったら抜け出せない芸能界と言われる所以は、楽をして稼げる職業の筆頭であろう。どっぷりつかると、ツブシの利かない職業であるのも間違いない。Wikipediaにある成宮の人物評をみるに、彼は高校に行ってない。

    母子家庭で育ち、中学生(14歳)の時に母親が他界した後、高校には進学せず、引越しのアルバイトなどで自ら生計を立てて、弟には毎日弁当を作って学校へ持たせるなどして面倒を見た。そんな苦労人の彼が、芸能界の甘い汁を吸った今も苦労を厭わない気持ちがあるなら、嫌な芸能界に留まることもない。だから固執しないで転職できるのかも知れない。

    少なくとも芸能界にしがらむ人間より、人間としての実在感がある。彼が友人たちを人間と見なかったように、芸能界のドロドロ感を抱いていたのではないか?これほどに短兵急な決断を見る限り、偽りと裏切りと虚飾の芸能界に、よほど嫌気が指したのかもしれない。1912年にノーベル生理学・医学賞を受賞したアレクシス・カレルがこのように言っている。

    「文明の進歩とともに、人類はだんだん不幸になって行く。なぜなら、それは近代文明というものが、ただ好奇心のおもむくままに、無軌道に発達していて、人間のことを考えていないからである」。素粒子レベルのミクロの世界を研究したり、果てしなく広がる宇宙をくまなく探査し、突き止めようとする人間にとって、もっとも未知なるものは人間である。

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    文明の進化は喜ぶべきだが、人間について一層の考察と、幸せについて配慮がなされなければならない。芸能界に生きる人間は、芸能界を去って行こうとする人間に新たなエールを贈るべきである。売れっ子である成宮を事務所は引き留めたようだが、本人の意志が固かったという。コカインの真偽よりも、芸能界への絶望感と人間不信は人生勉強と思えばいい。

    信頼していた友人に裏切られるのは苦しいが、裏切る側にはそれなりの利益や思惑があるし、金で友人を売る奴など珍しいことではない。AKBの指原莉乃がHKTに移籍することになったのも、元彼が週刊誌に彼女のことを売ったことによるスキャンダルだった。指原はそのことで逆に人気者になったが、そうした女の強さにくらべると成宮はいかにもナイーブ。

    友人に裏切られたことによる疎外感も分からなくはない。人間疎外などという言葉は、我々が人間の生活向上のために作りあげた所産が、反対に我々の生活を脅かすさまを指していう言葉で、この現象は誰にも起こっているし、今の若者はそのことを敏感に感じとっているようだ。自分たちが人間扱いされているか、物と同様に扱われたりしていないかなど。

    イメージ 5これはある種の被害者意識であり、コンプレックスであろう。成宮の突如の芸能界引退宣言は、否定したコカイン所持をくらますものという指摘もある。そういう見方は否定はできないが、受け渡しの現場をあれほど上手くカメラに収めること自体が出来過ぎという見方もできる。よほど用意周到に嵌めた手口ではないか?あまりの状況的出来過ぎ感からそう思う。嵌めなければ撮れない画像である。

    彼の純粋さ、脇の甘さ、人の良さを利用して、ひと稼ぎを企む者、あるいは彼を陥れようとの狙いを持った者の仕業という気がするのだ。それくらいに手際が良すぎるし、まるでFBIのおとり捜査による生々しい現場写真である。芸能人・有名人を利用し、ネタにした商売の可能性もある。有名人であるがゆえに気をつけなければならないことは山ほどある。

    嵌められたら簡単に芸能界を追われてしまう怖さがある。断定はできないが高畑の美人局疑惑もそれに該当する。慶大生広研も事件にならない可能性もあるが、高畑も刑事事件にできなかったとするなら、強姦(?)された女性はあまりに不幸である。ところが、高畑の場合は、事件にならないから不幸というより、ちゃっかり大金をせしめているではないか?

    強姦が事実なら女性は不幸であるハズだが、18歳の慶大生ならともかく、事件にならなかった不幸などと、大金をせしめた40ババァが言う事かと…。強姦というのは、事件になって相手を法的処罰をさせたとしても、精神的に失ったものは癒えるものではないし、だから被害届も出さず、泣き寝入りする女性は多いという。訴えて相手を罰することで何が癒される?

    男なら簡単にかかってしまいがちな美人局も卑劣な犯罪で、一瞬にして職を失うことになる。有名人は色仕掛けにはくれぐれも注意が必要だ。昔も今も人は安楽な生活を求める風潮がある。宝くじのCMを見て強く感じるが、あれには違法性がない。かつては清く明るく生きることが求められ、その後に名をあげる、好きなことをする、金持ちになるといった事が続いた。

    それがこんにちは逆転しているようだ。清く明るくなどは、今の時代には死語に等しいが、今も昔も変わらないことは、苦しみを味わって人は成長すること。誰もが過ぎ去った過去を後に振り返り、「あの苦しみを通らないで良かったか?」と問われるなら、多くの人が、「いや、通ってよかった」というだろう。自分では気づかぬとも、苦しみが自分を成長させている。

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    人間の純粋な心が弄ばれ、裏切られ、嵌められたのなら、そんな世界は飛び出せばいい。芸能界だけが世界ではない。「何だってやれる」、「何だってやれたのだから…」という、過去の労苦は勲章である。「全ての原因を作ったのは自分」という冒頭の書き出しに強い決意が見える。他人から注視されずとも、社会でひっそり生きる選択はむしろ一般的だ。

    シロと思えばクロ、クロと思えばシロ、シロと思えばシロ、クロと思えばクロ。他人の事など分からないが、クロであっても引退しない腹グロ政治家もいる。シロであるが、イメージダウンの責任を取って、事務所を止めたかも知れない。クロであるがシラを切り通せず、重圧に耐えきれないとの判断かも知れない。が、利用され、週刊誌に売られたのは事実。


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    「事件」は「経験」ではない。経験から人は多くを学ぶが、事件から学ぶこともできる。「明日死ぬかのように生きなさい。永遠に生きるかのように学びなさい」。という言葉がある。乗っていた船が沈んでしまった、これは事件である。自分だけが助かってなんとか無人島に漂着したのなら、それも含めて事件である。が、無人島での生活は経験となる。


    何の経験か?生きるための経験である。そこに社会はない。ゆえに、これまでに得た社会経験や人間関係ノウハウも不要である。果たして自分は生きて行けるのか?どうすれば生きて行けるのか?先ずは雨風をしのぐ住居を作る事から始めるだろうが、そのための大工道具はない。石器時代の石のやじりを思い出し、ナイフ代わりにこれを作ることから始まる。

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    6年前に「『経験』のみが人を成長させる」との一文を書いているが、石のやじりを知るのは本で得た知識である。知識も経験だが、石器を最初に作った祖先は誰にも磯和らず、草案・創作という経験である。本などない時代である。つまり我々の祖先は、なんでも自分で考え、生み出した凄い人達だが、知識という恩恵に預かる我々は随分と楽である。

    斯くの突飛な体験はダニエル・デフォーの、『ロビンソン・クルーソー』を読んでいたなら、幾分役に立つであろう。クルーソーは架空の人物だが、実際に無人島で生活したスコットランドの航海長、アレキサンダー・セルカークの実話を基にしている。マーク・トウェインの、『トム・ソーヤーの冒険』も同様、プラスになろう。考えることも大事、知識も大事である。

    『トム・ソーヤーの冒険』は、トウェインが少年の頃に自身や学友の実体験が基本にあり、当時の子供たちの迷信などもそのまま語られている。自分もトムの縮小版のようなことばかりしていた。楽しかったし、どんな大人が子どもに対し、「どんな大人になりなさい」とアレコレいうより、子どもは子どものまま成長発達するように定められているのである。

    とはいっても、我々が「幼児段階」の発達で止まったままでいるようプログラムされているではなく、あらゆる事例が示すように我々はとりわけ、"子どもの特徴"において、生涯にわたって成長発達しつづけるように設計されている。設計という言葉は、必ずしも計画者による偉大なる目的のためにではない。誰もが偉大にならず、多くは普通の大人になって行く。

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    確かに子どもは何にでもなれる可能性を秘めている。トルストイもゲーテもエジソンもベートーベンもべーブルースもかつては子どもだったように…。有体にいうなら、一人の子どもは人が多様に教育されうる可能性の一つに過ぎない。自発的に何かになろうとするのはいいが、他者が何かにさせようと躍起になるのはいかがなものか?ルソーを読んで以降に疑問となった。

    『エミール』についての記事にも書いたが、「職業を意図した教育をしてはならない」というルソーの考えは目から鱗だった。「子どもを物知りにすることができれば十分と考えるのは愚かなことだ。子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味を与え、この趣味がもっと発達したときに学問を学ぶための方法を教えることが問題」とする。


    勉強さえできれば職業選択の幅が広いと考える親は多い。果たしてそうであろうか?極端にいうなら、東大に行けば万能人間であるかのような錯覚を抱いていないか?東大に行こうが慶応に行こうが、勉強をするのは自分である。以前、そういった時に、「卒業証書があればいいんじゃない?」という母親がいた。自分は、その次の言葉をあえて言わなかった。

    大学の目的が学問よりも卒業証書に主眼を置いてる、そういう時代の到来はすぐにやって来た。子どもが幼児期に親は何を子に望むかはそれぞれだが、大体が優秀な高校に入って、優秀な大学に入って、優秀な企業に入社するという図式である。それを子どもの幸せとし、幸せである理由は、他者に比べて狭き門をくぐったことによる特別待遇という恩恵にある。

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    そこまで駆け上った思考を親はするが、果たして世の中の人はそういう思考をするだろうか?有名高校、有名大学を出ているだけで、有能な人間だと思うほどに現代は甘くない。有名大学が廃れているように、有名大学を出た人間が廃れた時代であるのは様々な事件が示しており、誰が求人担当者になったとしても有名大学信仰は崩壊し、人の中身を重視するはずだ。

    もっとも、親の夢をどんどん壊して子どもは成長していくものだから、親の夢など憐れなものよ。全校300人中100番程度の成績なのに、それでも何とか偏差値の高い高校に入れようと躍起になる親もいる。うちの子は勉強に向いていないと思えず、金の力に頼ろうと、塾に入れたりでいい高校に入れようとするが、三者面談で、「無理です」と烙印押される。

    「うちの子、〇〇高校に受かったのよ」
    「へ~、すごいじゃない! 優秀なんだね~」
    「そうでもないのよ。ほんとは無謀な挑戦だったけど、努力はしたみたいよ」
    「じゃあ、次は〇〇大学ね」
    「どうだかね。勉強するって口ではいってるけど。本人次第よね…」

    よくある光景だ。「本人次第」と口にする親は多い。教師にここらあたりならと低レベル校を勧められた親は、そこで現実に立ち返るしかない。勉強第一主義の親にとって、負け組を感じた瞬間である。それから15年、20年後にどうなっているかなど、考えるすべがない。低レベ高校に行った子は、とある会社の優秀な営業マンとなり、とんとん拍子に出世した。

    高校入試では差がついたが、営業成績を買われて営業所長、方や名前だけは大企業だがリストラ候補。二人の年収差は400万と離れた。何が悪いわけでもない、何がよいわけでもない。高校受験ですべての子どもを偏差値で輪切りにするシステムは、昭和30年代から続いている世界でも例のない日本の特質であり、これは昨今の高校全入時代においても続いている。

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    過去50年以上も繰り返されている光景だが、多少は中身は変わっている。「うちの子は近辺で一番頭のいいグループに所属してる」と。内心思っていたり、あるいは言葉に出して自慢はするが、多くの大都市圏にあっては、高校入試前の私立中学入試で優秀な子の囲い込みはなされ、高校入試はみんなが参加するレースでは、もはやなくなっているのだ。

    公立高校云々など自慢のレベルでもなんでもない。教育熱心で財力もある家庭においては、子どもを中高一貫校に行かせる。それでも我が子の学力に躍起になるのが親である。それはそれでいいが、先のことが読めない、見えないから必死になるのだろう。「社会に出て人に愛される子になるのがいい」と鷹揚に構える父親の方が、秀才の現実を知っている。

    いちばんいいのは、経済的余裕もなく、子どもの成績も中くらいの親が、学力は金で買うものと見切って、高校受験辺りから逞しい子どもに考えをシフトすることだが、親というのは尻に火がついても子どもへの自分の理想を捨てない。所詮は親の描く理想に過ぎぬが、子どもの製造者たる親の傲慢である。自分は、「親の傲慢」という言葉が大嫌いだった。

    学問で学ぶことと、経験で得ることと、どちらが社会に有効であるかは言うまでもない。勉強は学生の仕事、社会人の仕事は仕事である。どちらにも必要なのが社会勉強だ。学生は社会勉強など必要ないとさせない親もいる。そんなことをさせていては灘高にも東大にも入れないという親もいる。恋愛も社会勉強も親が子に教えることはできない大事なこと。

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    西川史子は100点取ったら1万円もらっていたという。いつも100点だからいつももらっていたという。勉強を餌で釣る親は手っ取り早いと思うのだろうが、お金のための勉強なら本来的な目的に合致しない。仕事に対する報酬は大事だが、さらに大事なのは自分に合った仕事であり、さらにさらに大事なことは、生きがいを感じる仕事にありつけるかであろう。

    ファミリーマートの澤田貴司は、ユニクロの柳井社長にヘッドハンティングされた1997年の翌年常務となり、同日副社長になった。フリース仕掛人の功績といわれたが、2002年にフリースブームが去ると、柳井は怒りの矛先を澤田に向けた。「業績が悪くなったのはお前のせいだ、お前がバカだから」と、さんざん澤田を罵り、吊し上げたという。(ユニクロ関係者)

    同年澤田は、柳井から社長要請をされたが固辞、ユニクロを去った。入社五年目にしてアパレルトップ企業の社長を蹴った理由は、ユニクロにも柳井氏にも生きがいを感じなかったからだ。柳井は澤田の紹介で玉塚元一を入社させ、社長に抜擢されるも3年後に解任された。玉塚の人望に柳井が嫉妬したと言われている。同年澤田と玉塚は、「リヴァンプ」を立ち上げる。

    2010年、玉塚は新浪剛史の誘いを受けローソン顧問に就任、2013年6月、ローソン社長となり、澤田ファミマVS玉塚ローソンの同門対決から目が離せない状況にある。ともに目指すはセブン追撃だが、澤田はコンビニ4位のサンクスを傘下に統合し、ローソンを抜いて業界2位に進出する。ともにユニクロ出身の、因縁めいた「同門」のプロ経営者同士の戦いである。

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    不思議というか、巡りあわせなのか、「事件」という言葉が比喩的に使われるように、"事の大きさ"を、「事件だ、事件!」などという。二人の有能な人材を失ったワンマン社長の柳井は、自著『成功は一日で捨て去れ』の中で、「実のところ、ぼくには後継者を育てる能力がないのかもしれない」と自嘲するが、このままユニクロはジリ貧という気がしてならない。

    仕事=生きがいに当てはめれば、「洋服の値段(安い)は重要だが、さらに大事なのは自分の好みに合った洋服、さらにさらに大事なことは、生きがいを感じる洋服であろう」。ユニクロにはそれがない。VANやTOMYやNIKEやNEW BALANCE社のような、身につけることで満たされる自己満足感のようなものがまったくない。タダでも着たくない、それがユニクロだ。


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    慶應大学の広告学研究会に所属する男子学生数人が10代の女性に乱暴したとされる事件は週刊誌で、「集団強姦」と報じられたが、当初、提出された被害届が取り下げられたこともあってかマスコミは、「集団強姦」から「集団暴行」としている。女生徒の親から被害の訴えられた大学側は、関係者に複数回にわたる事情聴取を行う等、可能な限りの調査を行ったという。

    被害者の母親は、大学側から性的暴行はなかったとされたことに納得せず、警察に被害届を出す。事件が表沙汰になる前、慶応大は飲酒による悪ふざけ的なものとしか発表していないが、警察が動き出せば表だって報道されるだろうとの思惑もあったようだが、親の気持ちとすれば当然である。その後、親と被害女性との乖離があったのか、被害届は取り下げられた。

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    大学のワンゲル部が、ヤリサー(不特定多数の男女と性行為をする)のは、昔からいわれていた。「たまらないんだよ。自然に囲まれ、下界の雑多から離れると人間は自然に溶け込むからな」と聞いたことがある。「自然回帰」とは、生まれたまんまの姿になるという含みであった。それはさておき今回の事件は、「慶応義塾広告学研究会」のヤリサーも有名だった。

    女子がどうか知らぬが、それを知って入部する者もいる。女子の、「大学デビュー」という言葉は昔からあったが、昔と今では言葉の用い方が違う。昔の、「大学デビュー」は、高校までは門限やら何かにつけて、親の監視(躾)がきつかったことや純潔教育の恩恵というか、女子の貞操観念を強めていたことも理由。昨今の風潮は、「貞操観念」の言葉を死語にし、メディアも性を煽る。

    それほどクラスで目立たつこともなかった非モテ女子(男子)らが、大学に入ってお酒の席なども増え、また、一人暮らしの孤独感もあって、異性とのナニの機会も増えることになる。これは三流大であれ、五流大であれ、普通にあることだ。昨今の東大、慶大などの一流大での強姦事件が目立つ背景には、塾づけで遊ぶことができなかった弊害もあろう。受験が終われば大学で羽を伸ばしたい。

    それは昔も今も変わらないが、難関大生が、強姦や強制わいせつという法を犯すようになったのは、バカが塾づけで難関大に入学したからである。学生の大学に行く動機も、入学後の自負心のようなものも大分変ってきているように思う。つまり、東大生や慶大生がそんなことをしていいわけない(してたまるか!)という自負心は、かつての有名大生に少なからずあった。功名心もあった。

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    それが希薄になった理由の一つに、身を穢さず有名大をでて、有名企業に入って幸せな人生を送りたいという人生目標が折れてしまうような、高い理想を抱けないような社会になっているのではなかろうか?ソニーやシャープなど日本を代表する有名企業が身売りしたり、業績も芳しくない。新卒の大学生がいい会社に入れないということは、負け犬意識を植え付ける。

    世界になだたる日本の企業が衰退した理由は様々言われているが、大企業の人材確保戦術も問題であった。昨今は幾分流れが変わってきているが、かつては学業成績がいいばかりではなく、お行儀も良くて大人しいだけの安定志向の保守的な人材ばかり集めていれば、会社に変化をもたらすこともなく、衰退するのは当然の理であろう。いわゆる、公務員病、大企業病というやつである。

    それと有名大での不祥事とどう因果関係があるのかというより、お利口で保守傾向の人間ばかり入社させた企業に責任がある。学生の未来に対する生きがいを持てないという虚脱感は間違いなく存在する。未来を見据えて今を生きつより、目先の快や楽に心が奪われてしまう学生たち。先日判決が出た東大集団わいせつ事件も、東大生という自覚のなさ、自負のなさが感じられる象徴的な事件。

    主犯格で東京大学工学部4年の松見謙佑被告(22)は今年5月、東京・豊島区のマンションで女子大学生(21)に、強制的に酒を飲ませたうえ、全裸にしてキスをするなどした強制わいせつと暴行の罪に問われ、東京地裁は以下判決を言い渡す。「犯行は集団による計画的なもので執ようかつ卑劣」、「被害者の身体的、精神的苦痛は耐え難く、学生の悪ふざけと評価することは到底できない」とした。

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    一方で、「反省し、今後一切、酒を飲まないと誓っている」などと、松見被告に懲役2年、執行猶予4年の有罪判決を言い渡した。性犯罪は心の殺人であり、強盗などよりはるかに罪は重い。それがこんな量刑か?「被害者の身体的、精神的苦痛は耐え難く…」とはいいながら量刑の軽さを見ると、暗黙ではあるが女子学生の非も指摘しているのだろう。女性の自己防護心の加減は難しい。

    ガチガチの堅い女がモテるわけもない。治安も悪く、自己責任主体の欧米女性のstreetwiseに比べて、人におもねる傾向の強い日本人女性の脇の甘さは、文化的な事情もある。が、それはそれとして、犯罪は犯罪であって、起こった以上裁かねばならない。裁判所は身を守る術を教えてくれるところではない。相手を口説く、説得するでなく強硬手段でしか女性にありつけない男がいる。

    そういう男はいつの世にもいるが、かつて、そういう男たちは自らの徳のなさにおとなしくし、女遊びの派手な友人の話を指をくわえて聞いていた。同月には、千葉大医学部の学生3人が居酒屋のトイレで20代の女性に暴行した事件が起こるが、学生を指導する医師が共犯であった。犯人はいずれも20歳を超えた成人にも関わらず、氏名は伏せられ、これについては専門家から批判がでていた。

    千葉県警は当初、逮捕した容疑者の実名を公表しなかった理由について、「捜査上の支障がある」、「被害者と警察当局との関係を重視した」と不可思議な説明していた。これに対して専門家などからは、「公権力の行使が正当だったか、外部の検証ができなくなる」、「被害者や被疑者について誤った情報が流布されるおそれが生じる」などいった批判がなされ、警察は公表にいたる。

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    医師を除く当初のレイプ犯は3人で、都内と神奈川県のトップクラスの進学校出身者だった。警察が氏名公表を躊躇った理由は、容疑者Aの曽祖父は最高裁判事や弁護士会会長を務め、高祖父は衆院議員で司法次官を歴任するなど、華々しい経歴である。Aの父親は上場企業の社外監査役をこなす弁護士、実兄も弁護士で、2014年に父親が代表の事務所に入所する。

    高祖父から5代続く弁護士一家で、親戚にも著名な法律家や大学教授がゾロゾロいるという法曹界きっての名家であった。だからどうなんだ?家名がどうであれ、「息子の躾くらいしろよ」というしかない。警察は公表せざるを得なかったが、警察が差別主義であるのが露呈したようなもの。実名が出たからではなく、彼らは資質的に医師になるべきでないし、わいせつ医師などとんでもない。

    彼ら以上に、医師にさせたい親や身内はいようが、教職や医師、弁護士というのは、一般人よりも自制心が要求される。彼らは人の命を預かる医師として不適格というまえに、患者にイヤらしい気持ちでエロ医師など許されない。どんなバカでもお金持ちなら、お金をつぎ込めば医師になれる時代だが、医師を志す人間が医師になろうという時代は遠のくばかり。親はこの際、別の道を探してやれ。

    「母親が夜なべして内職で仕送りしているからこそ、頑張って勉強しなければ…」。そんな奥床しき時代に戻ることはないが、今のような浮かれた時代に、学問に向き合う新たな価値観を模索するのは国家の仕事である。が、その意を汲んだ家庭における末端の親が、取り組むべき事でもある。教育には、「美しい自然環境」、「ある程度の貧困」、「親の子への教育愛」という言葉。

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    「教育」について様々な言葉がある。上記の40年前の言葉は古びたのか?古びたとしても、「いい」ものいい、「正しい」ものは正しく、自然と頭にもたがるが、古いものは若い人の頭の中に浸透しないのか?それなら言うだけ野暮ということになる。子どもの健全な育成を図るに、好ましくない環境がある。さらには、健全な育成を行えるだけの教育者が少ないというのが問題の昨今だ。

    そういう時代にあって、子どもを真に教育するのは親しかいない。人に何かを教える(人に何かを説く)ということは、説く人が、教える人が、自ら、それに向かって日々孜々とし、営々とした努力をする人でなければ効果はあらわれない。そう考えると、夜なべをして内職する母には無言の説得力があった。自らに厳しくしたというよりも、せざるを得ない時代であったのだが…。

    とすれば、せざるを得なくない満たされた時代にあっては、無言の教えを子に与えることは難しい。時代にあった躾や教育を親が考えていくしかないだろう。どんなに息子を可愛がっても間違いを起こす子どもはいる。どんなに立派な教育を施しても過ちを犯す子どもはいる。これは親が負った宿命である。様々な親の話を耳目にするが、吉展ちゃん誘拐犯の小原保の母は印象に残っている。

    刑事が福島県の小原の実家に聞き込みに行った際、応対した母は刑事の後を裏山まで必死に追いかけて来ていった。「保を悪いことする子どもに育てた覚えはねェ。でも…、保が犯人なら、何とも申しわけねェ」と、土下座をし、泣き喚いたという。この言葉を刑事から聞かされた小原は、事件から2年3か月を経て全面自供をする。自供後、小原の母トヨさんは次のような手記を残している。

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    「村越様、許してください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。

    おまえはそれを考えたことはなかったのか。保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし…」。文学者である曽野綾子の言葉に比して考えるに、教養もない、名もないトヨの言葉には人間の血が流れている。


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    12日夜、栃木・宇都宮市のアパートで28歳の看護師の女性が、血まみれで死亡しているのが見つかり、警察は、殺人の疑いで知人の27歳の男を逮捕した。殺人の疑いで逮捕された、菅野龍容疑者(27)は、宇都宮市御幸本町のアパートの室内で、この部屋に住む、知人の看護師・根本紗貴子さん(28)を、室内にあった文化包丁で刺して、殺害した疑いが持たれている。

    根本さんは9日以降連絡が取れなくなり、家族が警察に届け出ていたが、12日午後7時ごろ、自宅を訪問した警察官が血まみれで死亡している根本さんを発見した。なくなっていた根本さんの車を捜索していたところ、福島県内で発見し、乗っていた菅野容疑者を任意同行のうえ逮捕した。菅野容疑者は、「根本さんから、冷たくされたため、刺した」と、容疑を認めている。

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    東京・目黒区で9月から行方不明になっていた24歳の女性会社員について、10月25日に死体遺棄の疑いで住所不定・無職の佐賀慶太郎容疑者を逮捕した。女性は警視庁に、「この男が私のことを探っている」と、4度相談していた。佐賀容疑者は、先月17日から20日ごろにかけて、東京・目黒区に住む会社員の中元志織さん(24)の遺体を捨てた疑いが持たれている。

    中元さんの自宅マンションからは中元さんの血液反応があり、佐賀容疑者は調べに対し、「遺体をバラバラにして利根川や荒川、自宅の排水口などに捨てた」などと死体遺棄容疑を認めているという。警視庁によると、佐賀容疑者は中元さんの元交際相手だったということで、「ケンカになって刃物で刺した」と、殺害についても関与を認めているという。

    事件が発覚したのは先月20日。東京都内にある中元さんの勤務先から、「中元さんと連絡が取れない」と警視庁に届け出があった。その後の警察による捜査で、中元さんの元交際相手である佐賀容疑者が、届け出のあった数日前に、中元さんの住むマンションの近くをレンタカーで走行していたことが確認されるなどしたため、25日の逮捕に至ったという。

    「見た目はおとなしい子。びっくりした。そんな子ではなかったので」(中元さんを知る人)

    そんな子とは、年齢50歳の中年男と付き合っていたこと。中元さんは昨年11月、当時、アルバイトをしていた店で、客として来ていた佐賀容疑者と知り合い、交際に発展。一時は同居していたこともあった。しかし、二人は今年5月ごろまでに別れ、7月には中元さんに暴力を振るったとして、佐賀容疑者が暴行の疑いで埼玉県警川口署に逮捕されていた。

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    佐賀容疑者は、7月27日に釈放された際、「中元さんに近づかない」との誓約書を埼玉県警に提出していた。しかし、その後も中元さんは自宅を管轄する目黒警察署を訪れ、「佐賀容疑者が私のことを探っている」などと、事件のおよそ1週間前まで4回にわたってストーカー相談をしていたといい、目黒署では自宅を引っ越すことなどを勧めていたという。

    中元さんはそのまま事件に巻き込まれたとみられ、今も行方がわからないままである。警視庁は佐賀容疑者の逮捕を受けて、「被害者のアクションがなかったということはあるが、結果として残念」などとコメントしている。ちょい待て、中元さんは警察にストーカー相談をしているではないか?なのに警察は、「アクションがなかったことは残念」って何だそりゃ?

    と思うだろうし、ネットの書き込みにも、「被害者のアクションが無かったと警視庁は言うが、狙われているとか、ストーカーされてるとか、アクションを出している。もし、これで被害者女性が殺害されていたら、警視庁は怠慢だと叩かれるでしょう。楽しみです」という意見もある。「楽しみ」はともかくとして、警察のいうアクションの意味が分かってないようだ。

    警察のいうアクションとは、引っ越しなどの身を守る行動のことだ。警察に相談したからと常時監視をしてくれたり、ボディーガーつけてくれるわけでもない。「男に分からぬよう引っ越しをするなどで行方をくらましなさい」と、これが警察のいうアクションである。何処に行くにせよ、家探しも大変、勤務先も知られてるなら変える必要があり、お金もかかる。

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    が、ストーカー被害を防ぐにはこれしかない。命の危険性を感じるのか、感じないのか、感じるべきか、まさかそこまはないと思うのか、起こることは誰にも予測できない以上、最悪の事態を考慮して行動するにこしたことはない。警察はそうアドバイスをするしかなく、後は自己判断である。佐賀容疑者は、なんと女装して待ち伏せしていたというから恐ろしい。

    以前、自分の知るある女性は、マンションのベランダで洗濯物を干しているとき、隣室に越してきた男がベランダの境界ボードから顔を覗かせ、「こんにちわ」などと挨拶程度に話しかけられるたことが怖くなって、すぐに引っ越しをしたという。男の自分は、「それだけで引っ越し?」と驚くしかなかったが、付き合って分かったのは、幾分臆病な女性であった。

    臆病な性格を別の言い方で慎重派という。今の女性はそうまでないだろうが、昔は臆病な女性が多かった。ワザに引っ越した理由は、「キモチ悪くて」だったが、そこは当人にしか分からないことだ。確かに、ベランダの境界からワザワザ顔を覗かせるような男は、気持ち悪いというよりマナー違反も甚だしい。下着などを室内干しする女性の気持ちも理解に及ぶ。

    別のある女性は窓を開けなかった。ばかりか、カーテンすら引くこともない、そんな部屋だった。初めて部屋を訪れた自分が無造作にカーテンを引き、窓を開けると驚いたのか、「止めてください」といった。鈍感な自分は、「何で?」と聞くが、前の部屋住人からの視線が気になると、言われてビックリ。そんなことは説得するが、女の一人暮らしは大変と知った。

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    そうした男女のさまざまな差異を思春期時期に学ぶのだが、相手を殺すに至る男女関係はなんとも理解しようがない。「男女関係のもつれ」と簡単にいうが、もつれにもいろいろあろう。事件は体験ではないゆえ、報道から想像するしかないが、それでも男女のもつれからの殺人事件の報に触れ、「人を殺すなどは大変なこと。絶対すべきでない」と学ばないのか?

    様々な事件の報に触れるだろう?なのに、なぜ学ばない?人を殺さないを学ぶくらい簡単だろうに…。と、思ってしまう。追いかける男がいたとし、最悪の事態を考慮するなら逃げるべきだが、最悪の事態というのは、起こって見なければ実感しないのだろう。「まさかのときに共和火災」というCMが頭にこびりついているが、それが保険というものの主旨だ。

    アクションを起こさなかったことで、殺されてもはや後悔もくそもないが、警察のいう、「被害者のアクションがなかったということはあるが、結果として残念」という言葉は、そういうものかも知れない。つまるところは自己責任なのである。中元志織さんは、24歳の若さで交際相手に殺されてバラバラにされて、川に遺棄されたが、自分の身は最後は自分で守るしかない。

    何が問題だったかについての正解はない。26歳も年上の男と付き合ったことが悪いわけでも、若い男ならよかったわけでもない。栃木の看護士は28歳、彼氏は27歳だから、年齢のことは理由にならない。一切は運が悪いという以外に答えはない。こんな男と付き合ったのが間違いだったといっても、こんな男がどんな男か、付き合う前にはわからないのだから。

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    執拗に追い回され、あげく殺されることになるなど、付き合うまえも途中も、誰が考えるだろう?。ならば、何が悪い?運が悪いとなる。中年男には、若い男の二人分くらいの魅力があり、だから結構若い女性にモテるという。も26歳の年下の女性を、「ケンカになって刃物で刺した」などと信じれん。27歳男の、「冷たくされて」よりも理解不能だが、これが世間である。

    何が起こるか分からないし、何が起こっても世間である。事件の報に触れたものが、心して学ぶ以外にない。人が寿命を延ばし、延ばす研究もされる一方で、日々の新聞は虫けら同然に扱われる命の儚さを報道する。ディケンズは、「あらゆるものが備わっているようで、なにもない」と憂いた。『二都物語』の冒頭の一節だが、まるで今の時代を予兆した言葉である。

    「それは、今までの時世の中で、最もよい時であるとともに、また最も悪い時でもあった。英知に溢れているようで、また愚昧な時代でもあった。信仰の時代であるとともに、また不信仰漲る時代でもあった。光明に輝いているようで、暗黒に閉ざされた時代であった。希望の春であったが絶望の冬でもあった。我々の前には、あらゆるものが、備わっているようにみえるのだが、また何もないようであった。」

    戦争を通して、戦争の悲惨さを学ぶように、殺人事件を通して、人を殺すことの慈悲の無さをなぜ学ばないのか。一部の低俗な民族が、先の大戦から学ぶことをせず、戦争を行っている。同様に、一部の低脳な人間が、殺人事件から何を学ぶことをせず、人殺しをする。何の罪もなく被害にあう人たちがいたわしい。せめて事件から人は身を守る術を学ぶことだ。

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    自分のしたいことをし、楽な生活を送り、本能を満足させることを幸福と思い、それを求めて生きる人の多いこんにちだ。あるいは現世的利益を約束する新興宗教が目覚ましく信者を増やし、発展を遂げている時代でもある。それに比べて禅寺で苦行を行う修行僧たちは、世間一般的に何とも奇異に映る。彼らの生活は幸福の要素をまったく欠いているようである。

    己の持ち物を持たず、結婚生活も営まず、しかも上長の意に従う日常を送ることをもって建前とするからである。禅寺の仏教僧に限ったことではない、キリスト教やイスラム教などの修道者たちにおいても、一体何を求めてその世界に入って行くのだろうか?ましてや彼らは、「世間を捨てる」といった「世捨て人で」はなく、世を人一倍愛するのが修行者である。

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    また、その者に精神的生命を与える使命を帯びているからであろう。富や快楽を求め、自我を主張して苦しむ世の人々に、それらのはかなさを諭し、それらを超越したところに真の幸福や安らぎがあることを、自らの生活をもって立証する責任を負っているからであろう。人間が自由を求めるなら、厳しい戒律に縛られる修行者は人間失格者ではないだろうか?

    なぜに人間が人間足らしめる自由を放棄するのか?これは素朴な疑問であるが、修行者にとっては愚問であるようだ。なぜなら、「拘束から解き放たれる」ことだけを自由とは言わないからだろう。分かり易くいうなら、自由とは、「自分が何を望んでいるかによって決まる」ということになる。翻って言うなら、何も望まない人間に自由はないということだ。

    自由人をドン・キホーテと比喩するが、日本人でドン・キホーテ的なのは誰であろうかと頭を廻らせば、俳人松尾芭蕉が思い浮かぶ。ドン・キホーテは、「騎士道」に恋い焦がれ、狂人として旅に出るが、最後に正気を取り戻して自宅の寝室で亡くなった。そんなドン・キホーテだが、彼は死の床において、「騎士道」に狂った自分に対する自省の念があった。

    最後に彼はドン・キホーテという仮面を脱ぎ捨て、アロンソ・キハーノという ひとりの人 間として亡くなったのだった。ドン・キホーテは人生の終わりにこのように遺言している。「確かにわしは狂人であったが、今では正気に戻っている」。芭蕉という人は、「俳句」という風雅の道に狂おしいほどの思いを抱き、旅の果て風狂の道を貫いて客死した人であった。

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    芭蕉の風狂とは、狂気が彼の精神を支配していたのではない。彼の句作への、「普遍不動の熱い思い」を象徴する言葉であろう。風狂とはつまるところ、「風雅に狂う道」を突き詰めて行くことだが、言葉でいうほど簡単なことではない。風狂の道は修羅の歩く道であろう。本家ドン・キホーテより、「狂」の道を貫き通した芭蕉は真に、「ドン・キホーテ的」なる人であった。

    芭蕉は『三冊子』の中で、「はいかいはなくても在べし。ただ世情に和せず。人情通ぜざれば人不調(ととのわず)と言っている。これは、文学などなくてもかまわぬ。文学活動などどうでもいいことだが、人間としての感情を欠き、社会に通用せぬは困る。と、人間としてのふくらみを強調する。俳諧(創作活動)とは、人間性の上にあるべきという主張でもある。

    「人間として真に誠実に生きているものでなければ、優れた表現など期待し得ない」と解釈し、芸術は心の修行であるとした。表現されたものより表現されないもの、作品の外側に滲み出てくるものを重んじたからであろう。真の誠実とは、決して善い行いのことではなく、「狂気を克服して正気に戻る」くらいに理想を追い、自身の思いに忠実になることをいう。

    信仰に誠実な人間、つまり修行者とはそうあるべく人だと言いたかった。さ~て、不倫についてこれまで何度も書いた。ちょい前だが、30代の女性が、「結婚してて不倫ってどう思う?」と聞くので、「結婚してるから不倫じゃないんか?」と答えたところ、「もういい!」とご立腹であった。「いい」なら別に構わんが、不倫の善悪なんか人に聞くなってことよ。

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    最近は何でもかんでも、猫も杓子も「不倫、不倫、不倫」である。「不倫は許されませんよね?」と聞かれることもあるが、「誰に許されないの?」と、逆に聞き返したくなる。道徳的に許されないから不倫(不倫理)なわけで、問いそのものがオカシイ。誰かに許されないと思うから隠れていやるわけだが、はて、不倫がバレ時にどう許されないかが分かろうというもの。

    離婚を突き付けられるのか、少々お叱りを受ける程度なのか、殴られたり蹴られたりで顔にあざを作るのか、「私もやるから」と言われるのか、人によって受ける処罰は違うだろうが、交通違反と同じで不法行為なら弁解の余地はない。人はよくないこと、悪いことをするときは、そういう覚悟でせねばならない。が、見つからなければセーフということになる。

    不倫の定義でいうなら、妻子ある夫と独身女性の恋愛は不倫ではなく浮気である。浮気も不倫理といいたいなら不倫でいいが、亭主の浮気など神代の昔からあることだ。一般的に不倫は独身女性と妻子ある男との恋愛をいう。それがなぜ不倫にあたるのか?人(妻)のものに手を出したからか?悪事はバレなくても悪事か、バレて悪事なのか、それが道徳である。

    道徳を口にする者が真に道徳的なのか?それはさておき、人のものに手を出したというが、物ではない意思ある人間だ。よろめいた側にも罪がないわけでない。よって、どちらが悪いなどは愚問である。どちらが悪いかは被害者が決めること。その方が分かり易い。というわけで、不倫も浮気もどの程度罪の意識で行為するのかというより、された側のダメージが問題である。

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    真の善人はこういうだろう。「配偶者に精神的なダメージを与えるようなことをしてはいけない」。もっともなことだが、こんな決まり文句は似非善人でも言える。人間の多くは偽善者であるが、果たして本物の善人が世直しできるのだろうか?人間社会には嘘も必要だし、悪事も快楽である。「嘘はいけません、悪事は止めましょう」と、こんな標語は永遠の標語である。

    誰だって人が持ってるものを欲しがるもの。人が持っているダイヤの指輪が欲しい、といっても指輪は静物だ。勝手に自分のところに来ることもない。が、動物である人間は、相手がのこのこやってくるなら、願い叶ったりである。妻がいても別の女とやってみたい。夫とは別のものを押し込まれたい。綺麗にいえば恋愛だが、露骨にいえば、まさぐり合いである。

    しない人もいれば、したい人もいる。止めさせる方法は今のところない。賄賂や汚職は聖徳太子の時代からある。なぜ、人は賄賂を好むのか?答えは簡単、人はお金が大好きだからである。この世から賄賂や汚職をなくするためには、人がお金を嫌いになるしかない。同じように、人がエッチを嫌いにならない以上、男と女は永遠にちちくりあうであろう。

    倫理や道徳で規制して何の効果があるという。汚職も賄賂も立派な不倫行為である。男女の色恋沙汰は、大らかなものもあれば性犯罪もある。ちょろちょろ始めたが、きれいに終わらず不幸な結果になることもある。様々な性犯罪が発生し、その定義づけも難しい。強姦というのはなぜか男が女に致した場合いのみで、女が男を凌辱しても強姦とはならない。

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    終戦直後、朝鮮にいた日本人がこういう証言がある。「侵入してきたソ連軍の女性将校によって、何人もの日本人がレイプされるのを見た。女性はレイプされるが、男性はレイプされないと言われるが、そんなことはない凄まじい光景だった」。男がどのようにレイプされるのか、興味はなきにしもあらずだが、具体的な証言がない以上想像するのみだが、できるのは間違いない。

    男女平等ならあきらかに矛盾であるが、男女の性器の構造からして仕方のないことだ。男は能動的、女は受動的である。口語的にいうなら、男は、「やる」、女は、「やられる」となる。最近の女性は、「やる」、「やろう」という言葉を使うほどに、「性」に主体的だ。昔の女性は、「されたい」、「して」といったものだ。まさに言葉は文化、文化は言葉によって培われる。

    賄賂や汚職が戒められる理由は、公務の廉潔が損なわれるからであるが、男女の不倫が、形骸化した道徳以外に、「よくない」何があろう?「廉潔」とは、私欲がなく、心や行いが正しいこと。の意味だが、果たして人間はそのようなものか?したがって不倫を戒める理由は、それが不倫に当たらず許されるというなら婚姻制度は意味を失い、崩壊するであろう。

    近代国家ならびに近代社会は、婚姻制度を土台に築き上げられている以上、秩序を維持しなければならない。つまり、倫理や道徳というのは神が作ったのではなく、共同体が自己の維持のために作ったもの。よって、芸能人の不倫がバレたら、干されたり、謹慎させられたり、社会的制約を受ける。が、社会のほとぼりが冷めるまでの期間でしかない。

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    それでいいのか?「それでいい」。社会が許すからだ。なぜ社会がそれを許す?誰もが所有する下半身のことであり、殺人と違って凶悪な刑事事件ではない。かつては「姦通罪」というのがあった。封建時代、妻に間男するは斬り捨てが許された。一夫一婦制度を厳格に取り締まる目的というより、武士という面子や体裁が重んじられたからでもあろう。

    人間を現実的に考えてみた場合、人間の実態からかけ離れた、「姦通罪」なる法律そのものが社会をギクシャクさせるであろう。パチンコやソープがあるように、人間を道徳的にがんじがらめに規制し、取り締まるだけではなく、社会の潤滑油として許容する方が人間の社会的意欲が高揚する。パチンコ愛好者、ソープ愛好者がいるように、不倫愛好者が存在する。


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    「夫とはもう10年くらいレス」という言葉で意味が分かるように、「セックスレス」という言葉は浸透している。なぜ、「セックスレス」になるのかいついて、「面倒くさい」という回答が多い。人間付き合いも面倒だからと避ける人がいるが、そういう人は案外社会性の希薄な人間であろう。夫婦といえども男と女である。男と女のすることには、すべてそこに社会性が成立する。

    男女において、男女の共同生活において、性は絶対不可欠とは言えない。確かに性は大事であるがすべてではない。熟年夫婦の愛情の絆を見れば分かろう。そう考えると性は一つの現象に過ぎない。人間は年をとると性に対する興味が薄れるが、性に限らず行動そのものが経年で変わるようだ。セックスも行動であるが、年をとると健康や体調に重点を置くようになる。

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    若い時代はサカリのついた犬である。それが経年になると、外出するより家でテレビを観るとか、外食より自宅で簡単に済ませたりとか、美味しい店を探したりするより、行きつけのレストランで十分というふうに、特定のものへのこだわりが消え、生活全般がエネルギッシュに活動するより、まったりとした時間を好むなど、体力の衰えからか、省エネ志向になる。

    ドイツの霊長類センターで霊長類の認知を研究している、チューリッヒ大のアレクサンドラ・フロイント博士は、「人の社会的な行動の変化は、人だけに見られるわけではない。これには進化に深い根がある」と述べ、実はサルにも人によく似た年齢による変化が起こることから、行動の変化には、生物学的な起源があることが研究によって明らかになった。

    サルも人間でいう定年くらいの年齢になると、他のサルとの社会的な接触が減るようだが、新しいものなどへの興味がないわけではなかった。ただ、見ていれば十分で、自分からは参加したがらない。なるほど、同じことは自分にも言える。ベッピンさんに興味がないわけではないが、「あの女とやってみたい」、「脱がしてみたい」はなくなり、見ているだけでよい。

    いわゆる視姦がなくなり観賞で十分となるが、性欲の強い高齢者もいる。若い頃は街に出れば、数十人もの女性を視姦したが、そういう脳構造だったのだろう。人が年を取ると新しいことを覚えるのが億劫になり、昔の思い出に浸ったり、思い出を懐かしんだりするようになるが、これらは脳の記憶が保管される場所である海馬が変化するためだといわれている。

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    人間は年齢とともに海馬への経路が退化するらしい。つまり、脳は情報がいっぱいで入らなくなるのではなく、脳の中に情報を書き込み、保存する機能が弱くなるという。脳の書き込み機能が低下するため、新しいことを好まなくなり、もともと保存してある昔の記憶を思い出すことを好むようになるという。新しい恋に興味がなくなったのはそういうことか。

    気持ちはあるのに、「やれない」、「できない」のは辛いが、気持ちがないなら体が動かなくても不自由の認識はない。この一年間で凄い距離を歩いた自分は、新たな挑戦気分を味わった。ウォーキングはやる気さえあれば、自分の自由意思で一人で簡単にやれることだ。女性をエスコートしたり、お世辞をいったり、美味しいお店を探したりの必要もない。

    「よくも飽きもせず、面倒がらずに、歩けるよ」といった友人がいたが、女性と過ごす時間に比べるとお気楽である。今に思えば女性を口説くなど、あんな面倒くさいことを飽きもせずにやったものかと感心しきりだ。女性とナニをする際に、半ば強引に覆いかぶさるという男は結構いたが、自分はその経験がない。承諾を得ないでそういう行為をしたいとは思わなかった。

    「男っていきなり激しく服を脱がすのよね~」などはしばしば聞いた。それが女にとって刺激であるというのも知った。暗にそれを望み、求める素振りの女もいたが、自分はそれを好まなかった。女の強姦願望は、受動性ゆえに刺激となるらしいが、自らの意思に殉じる女性の方が知的である。そういう事をするのに知性が必要か?と問われるなら、自分には必要だった。

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    「無理やりってのが男の本性じゃないのか?」などの友人は多かった。男の本質がどうであれ大事なのは自分である。「激しく迫られると犯されてるみたいで、興奮するのよね」という女は自分の趣味にあらず。いささか強姦気味にやるなどは低俗男の誹りであり、してそれを望む女も自分的には低俗に思えた。「無理やりはイヤ」という女が、清楚で可愛いらしく思えた。

    無理やり犯して何が満たされるのか?「凌辱」という言葉は暴力に等しい。男と女はいたわり合うもので、人格無視の凌辱は野獣の行為である。強姦という行為は、まさにそれに値する。人間には相手とコミュニケートしたい気持ちがある。古い世代の古い考えであれ、それが現象として発露したものが性的行為であって、そこには互いの人格が尊重されねばならない。

    男女の行為には愛情を感じるオーソドックスな満足感とは異質の、アブノーマルというべく憎しみの発露だったりする。男が自己の権威を見せつけるために女性を抱くこともあろうし、所有欲や独占欲でなされることもある。このように考えると、性行為というのは実にさまざまな形があり、一筋縄では行かない。よって、セックスとはかくかくしかじかであると単純に言うつもりはない。

    和姦と強姦は対比するものだが、強姦すべてが違法かと言えば、そうではない強姦もある。同じ強姦行為であれ、違法であるかないかは女性の腹一つで決まる。つまり、女が強姦されたといえば強姦である。たとえ男がそう思っていなくてもである。「それはオカシイだろ?」と言っても法がそうなっている。が、レイプ裁判で多くの男は和姦を主張するが、男にはそう見えるからだ。

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    間違いなく女性が被害者の強姦もあるが、被害者を装う強姦もある。ずいぶん昔だが、『世界残酷物語』という映画を観た。その中に強姦犯の男が行為の一部始終を録画していた。強姦場面のビデオ収集という性癖で、後に男は逮捕され、所有のビデオが裁判の証拠採用された。そこに映し出された強姦場面は悲惨なもので、女性の顔は恐怖でひきつっていた。

    声を発することもできず、まともに直視できないほどだった。これに比べて慶大生の強姦ビデオと言われるものは、AVビデオまがいである。被害にあったとされる女性は、事後にアレコレ言っているが、証拠の映像が残っている限り、後だしじゃんけんは無意味で、説得力もない。見ず知らずの男に凌辱される強姦行為は、嫌悪を遥かに凌ぐ恐怖体験だろう。

    顔を一発張られただけで、身動きできないほどに女性が怯え、屈するしかなくなるという。先に述べたように、女性だけを強姦被害とする日本の刑法177条(強姦罪)は、両性の平等をうたう憲法14条1項に違反するのでは?との議論も僅かながらあったし、裁判で争われた事例もある。体中を舐めまわし、指を入れようと性器挿入がない場合は強姦とならない。

    いかに暴行と脅迫によって衣服を引きちぎろうとも、挿入なきは強姦とならない。変態性欲者が、男児のケツの穴を舐めようが、何をしようが、強姦罪はあくまで女性の性器に対する場合のみ法的侵害行為としている。笑ってはいけないが笑える判例も結構ある。強姦目的であったが、被害者が生理中で中断した。寒さで被害者がガタガタ震えるのを見て萎え中止した。

    挿入前にイッてしまった。これらはいずれも強姦未遂罪だが、はたしてこれが被害者感情に適ったものなのか?性器挿入によって既遂と未遂という定義は何とかならないものか?様々議論もされたが、何ともならないようだ。にしても、相手女性が怯えて固まったり、イヤだイヤよと足をバタバタさせているにも関わらず、そそり勃つなどは、脳が爬虫類並みである。

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    強姦魔と言われた大久保清を思い出さずにいられない。彼は3月31日に群馬県多野郡で最初の殺人を犯したが、逮捕されるまでの1か月半の間になんと1000人以上の女性に声をかけ、150人ほどの女性が車に乗り込み、うち数十人と肉体関係を持った。さらに声を掛けて行動をともにした女性のうち、8名を容赦なく殺害、死体を造成地等に埋めるなどし、遺棄している。

    殺された女性は、大久保の事を詰ったり、からかったり、大久保の偽名や嘘の履歴に言及した女性であった。例えば殺された19歳のC子は、「あなたのこと調べたけどガッカリした。これで一緒になるなんて考えちゃう。奥さんのところには帰らないの?」などと素性を暴露されるなど、女の居丈高な態度に腹を立てた。父親が警察官と言っただけで殺された女性もいた。

    後先考えず、次々に女性をこの世から抹殺して、それで捕まらないとでも思ったのか?逮捕されたきっかけは被害者の兄が、妹から大久保の素性を聞かされており、その兄が夜通し捜索して妹の自転車が放置されているのを見つけた。その自転車をじっと監視していたら、大久保がそこに来て自転車に近寄り、軍手をはめて指紋を消すような動作をを見て声をかけた。

    大久保は脱兎のごとく逃げたが、兄がクルマのナンバーをメモっていたことでまもなく逮捕された。1973年2月22日前橋地裁は死刑を求刑する。1976年1月22日、刑確定後、異例の早さで死刑が執り行われた。刑務官が大久保の監舎の鉄扉を開けて呼びつけると、大久保は膝をガクンと折り、床にへなへなと崩れた。刑務官二人に引きずられ、失禁の雫をたらしながら絞首台に連行された。

    イメージ 5「これでいよいよお別れだね」拘置所所長の言葉に顔面を紅潮させ、真っ赤に充血さ保は、してもその場に腰を抜かして座り込む。「言い残す言葉はないか?」の声にもこたえず、絞首台の踏み板まで引きづられ、首にロープがかけられ、手錠とひざ紐が施される。ほどなく執行のボタンと同時に踏み台が開き、大久保は落下した。厳寒の冬、東京拘置所において、41年の短い一生を終えた。

    「事件から学ぶ」とした表題であるが、大久保清事件から学ぶものがあるとするなら、残念ながら自分には何もない。がもし、女を手に入れる方法として、強制わいせつや強姦が手っ取り早いと考える男がいたとし、実行を企てるなら止めなされ。大久保だけではなく、強姦で逮捕された事件など、いろいろ読んで、するのは止めなされ。最近の女は簡単に落ちる。そっちを試してみなされ。


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    パーティーに誘った女性に酒を大量に飲ませてわいせつな行為をしたとして、大阪府警は11月21日、大阪市中央区南船場、近畿大法学部4年、瀬戸和真容疑者(22)を準強制わいせつの疑いで逮捕した。瀬戸らは、大阪市北区曽根崎新地1のバー「MJ」で、知人ら数人とともに20代の女性にビールやシャンパンを大量に飲ませ、酔わせた上で体を触るなどしたとしている。

    瀬戸容疑者は大学に通いながらも、女性を集めたパーティーの主催者として、夜は別の顔を持っていた。瀬戸容疑者は知人らを通じて、「女性は飲食代無料」、「リムジンに乗れる」などと女性を誘っていた。バー「MJ」では数年前から同様のパーティーが数回開かれていたといい、府警は21日バーを捜索、経営者の吉鷹康寿(30)を準強制わいせつ容疑で逮捕した。

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    瀬戸容疑者は、「会社員がばからしい。女の子を扱って商売をやっていける。『女は商品だ』」といっていた知人は話す。が、瀬戸容疑者がこのパーティーで金儲けをし、風俗の斡旋などもしていた背景には、「MJ」経営者の吉鷹容疑者が黒幕であったようだ。瀬戸容疑者の知人は、「前から行われていて事件にならなかったのが不思議なくらい」という。
      
    店に通っていた女性は、「(吉鷹容疑者は)お金払うからその分、女の子呼んで、みたいなことは(瀬戸容疑者に)いってたようで」(Q.どれくらいの金額?)「1人につき3000円とか聞いたことがあります。『お前は3000円の女やんな』みたいな会話も普通にあったりはしました」と話す。呼んだ女性に酒を飲ませて、酔わせて、ちゃっかりいただくという手法は男のセオリーといわれる。

    しかし、バーの経営者がその目的のためにパーティーと称して女性を店に呼ぶというのは、何とも汚いやり方だ。「女性は無料」、「リムジンにも乗れる」という触れ込みプラス連れてきた女性には3000円の紹介料名目を支払うという手の込んだやり方だ。そこまでやるという余程の女好きである。酒を飲まない自分は、酔ってわいせつ行為をされてどんなだろう?

    意識朦朧のままなのか、多少は気づいても、「ま、いっか」となるのか、その辺が分からない。就寝中に金属バットで叩かれたらどんなだろう?と想像したこともあるが、即死するほど強く叩打されたなら、「痛い!」を感じる前にお陀仏なのか?就寝中は意識はないが、バズーカ砲ぶっ放して目覚めさせるドッキリがあった。叩打で目が覚めるのはやはり激痛か?

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    話がそれたが、死が永遠の課題であるように、経験なきことはいつまでも頭にもたがったまま消えることはない。就寝中に頭を叩打される経験は味わいたくはないが、考えれば考えるほどおぞましい体験だろう。男が女を襲うことを強姦と考えていた若い頃は、「なんで強姦でなく強制わいせつというのか?」素朴な疑問であったが、殺人罪と過失致死の違いもである。

    法律は細かく定義されており、細かく定義しないと人間の微妙な心理に正しく対応できないのだろうが、その逆もあって、細かく定義することで簡単な案件を難しくしているようだ。夫婦間や同居家族での窃盗罪は、「その刑を免除する」とした刑法244条の規定もあるし、友人間で借りた金を返さなくても処罰はされない。金を返さないと警察に駆け込むバカもいる。

    バカを言葉を変えれば無知であるが、日本の法体系上において、借りたものを返さないのは、不倫や浮気と同じ種のドロボー猫である。いわゆる日常的な微罪は許そうと、それでなくば日常生活が法や道徳でがんじがらめとなってしまう。男が女を見てやりたいと思うのは、日常生活の発露であろうが、だからと言って許可も得ずに「穴」を強奪するのは人権無視である。

    それ以外のものならいい?そうではない。魅力的なオッパイを触っても、「強制わいせつ罪」という罪に触れる。もちろん、お兄ちゃんが妹の胸を触っても罪にはならないのだが、近親相関はどうなのか?父と娘、母と息子、兄と妹、姉と弟、あるいは姉と妹、兄と弟…。近親相関を罰するためには、「近親相関罪」が必要だが、かつて日本にもあったが撤廃された。

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    「強姦」と、「強制わいせつ」に差があるように、どの程度を、「近親相関」というのかは厳密には難しい。難しいものを法で定義するのが法治国家であるが、刑事事件より複雑なのが民事である。近親相姦は人類社会において、文化的にもで禁忌扱いされるが、近親者間の性的行為は異性間、同性間を問わず発生し、大人と子ども、子ども同士、大人同士のいずれも起こる。

    その親族範囲や何をもって性的行為とみなすかに関しては文化的差異が大きく、法的に近親間の同意上の性的行為を犯罪として裁くべきか否か、国家間で対応が分かれる。ドイツにはこの法律が現存するが、日本では1881年に廃止された。廃止されたからやって良いのではなく、近親間窃盗のようにモラルを是とすべきものだ。言うまでもないモラルのない人間もいる。

    兄弟のいない自分は、兄との近親姦を耳にした時は、兄妹がなんであるかをさらに混乱させた。あっけらかんと父との関係をいう女もいたし、母との息子の関係も直に聞いた。自分という狭い交友関係で、これほど近親姦が存在することの驚きからすれば、節度の問題は別にしても日常的なもののようにも思えた。が、さすがに我が家においてないのは分かる。

     少女時代から叔父から触られる舐めさせられるの話を聞いたときは、さすがに胸を痛めたが、その女性は口唇愛撫ができなかったことから、そのことを知ることになる。家族・親族が寝起きする同士を異性として捉えるものなのか?自分にとっての異性は母であったが、どれだけ金を積まれても…という比喩に合致する異性である。理解に及ばぬ故この問題は避ける。

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    「強制わいせつ罪」は強姦罪以上に報道で目にする罪名だが、18歳未満の少女に対するわいせつ行為を禁じた青少年健全育成条例 (いわゆる淫行条例) に違反においてもしばしば耳目にする。この条例には問題や矛盾も多く、現実的に誘ってくる中高生もいるわけだ。「売り」と称する援助交際はバイト感覚で、いうなれば合意であっても、「強制わいせつ」に当たるのか?

    いかに少年 (少女) 保護の精神に照らしても合意は合意であろう。それでも合意を強制というのか?確かに矛盾であり、この場合、「強制わいせつ罪」に当たらない。だから、「淫行条例」を作って罰している。法令による、「強制わいせつ罪」の類型は、刑法176条の、「暴行または脅迫によって13歳以上の男女にわいせつな行為をした場合」という規定になっている。

    ただし、13歳未満の男女については、暴行または脅迫を用いなくても、わいせつな行為をしただけで強制わいせつ罪が成立する。「強姦罪」と違って、「男」も入っている点が異なる。小学生の女性教師がおちんちん触るのは、あたりまえにダメであって、おねだりされても、「強制わいせつ罪」で起訴される。親告罪につき被害者(もしくは保護者)の告訴が必要。

    近年の性犯罪の増加にともない、2014年10月、松島みどり法相 (当時) が、法務省内に性犯罪の罰則に関する有識者らの検討会を設置した。これを受けて2016年9月12日に行われた総会で、強姦罪の法定刑の下限を引き上げ、被害者の告訴がなくても加害者を起訴できる、「非親告罪」化する刑法改正の要綱を全会一致で採択し、この旨金田勝年法相に答申した。

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    「魂の殺人」と呼ばれる強姦罪 (法定刑懲役3年以上) が、強盗罪(同5年以上)より刑が軽いのはおかしくないか−−。そうした見直しは性犯罪被害者たちの声を受けて始まり、今回の厳罰化への答申を、強姦被害者や識者はどう受け止めた?自らの被害を手記の形で出版した小林美佳さん(40)は、これまで1万人近い性被害者の人々とメールなどで交流してきた。

    性犯罪の被害者は事件後、茫然となり、時には、「何か落ち度があったのか」と自分を責めるケースも少なくないという。今回の答申について小林さんは、「ひどい犯罪という意識が社会に広まってきた証し。被害者の期待は大きい」と評価をする一方、非親告罪化には複雑な思いもある。「ようやく自分の生活を立て直した時に加害者や裁判と関わりたくない」。

    親告罪の規定は被害者のプライバシーなどに配慮する目的で設けられており、被害者が望んでいないケースで事件化されることを懸念する。法務省幹部は、「被害者の協力なしに事件化は難しく当然、その意思は尊重される」と説明するが、性犯罪の被害者支援に詳しい村田智子弁護士は、「被害者が安心して相談できる体制が整っていない」と指摘する。

    電話相談や警察への付き添いなど被害者支援を1カ所で包括的に行う機関は東京都内でも数カ所。「非親告罪化は『恥じることなく重大な犯罪を早く届け出てほしい』と社会に示す意味もある。周囲でサポートする体制の充実が必要だ」と話す。非常にメンタルな問題だけに潜在被害者数も多く、「届け出」という垣根を超えることができず自らの中に留める被害者。

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    道を歩いていて、すれ違いざまに胸を触られた話は結構耳にしたが、それだけで精神的に落ち込むという女性もいた。その心理は正直男には分からない。「落ち込むものなんだ」という理解に留めるしかないが、そうした一件も含めて、いちいち警察に届けて、住所氏名を明かし、アレコレと根ほり葉ほり聞かれる事を思えば、面倒くさいというのも理解できる。

    そうした女性への、「強制わいせつ」や、「セクハラ」は、あまりに日常的過ぎて事件化するのも面倒…という心理もあろう。道で1000円札や1万円を拾って得したと思う輩もいるだろうが、単に警察に届けるのも面倒、億劫なのも事実である。いろいろなものが混入する財布なら絶対に届けるが、生の1万円札を拾って得したでなしに自分は届けないのは、善人ではないな。


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    いつだったか酒宴の席で友人に言ってみた。「何で人を殺してはいけないんだ?」それに対して普段は温厚なKが、「そんなこと聞かなくても当たり前だろ?」と吐き捨てるように言った。つまらん世俗の話をするよりマシかと思ったが、まあ、そういう答えもあるだろう。「当たり前のことを言葉にしていうのも難しいんじゃないんか?」と言おうと思ったが止めた。

    話を寸断されるなら止めた方がいい場合がある。話題を振っても盛り上がらないこともある。仕方がない、メンバー構成の問題だ。同じことを別の場であれば意見の乱舞や対立もあろうし、それは話題そのものへの真剣さだったりする。哲学的な話題を好む人間もいれば、低俗週刊誌ネタを好む人間もいる。後者が、「場」の空気を支配しているなら静観をする。


    重要な問題について話しあう席において、「空気を読めよ」という物言いに腹を立つことはあるが、下世話で盛り上がる場を濁すこともない。バカ話の席で意見の対立に意味はなく、バカ話に順応することも大人の「芸」であろう。が、対立を好まぬ人間もいれば、対立を怖れる人間もいる。対立のない集団、対立のない組織、対立のない人間関係はおそらくない。

    表に出す、出さないはあれ、人間のいるところ、必ず対立はある。男と女、大人と子ども、親と子、老人と若者、上司と部下、教師と生徒、体制と反体制…。こうした世代対立、上下対立、異性対立というのは、ないよりむしろあるのが健全であろう。対話は会話ではない。対話は結論を模索しない会話とちがって、是非や真理について意見を述べ合うこと。

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    それぞれの考えを表明するのは大事だが、親和性を好む人間にとって対話は喧嘩のように感じるようだ。確かに日本人にあっては、相手の意見に反対するということは、侮辱という考えになり、だから議論をしづらい雰囲気もある。細かく分析するなら、日本人には、「気心が知れる相手」と、「気心が知れない相手」という格差というようなものを重視する者がいる。

    こういう相手の性格を読み取って、自己規制を働かせるのも「芸」である。平易な言葉でいうと、気むずかしい人間もいれば、キャパの小さい人間もいる。知識のないことを話したがらない人間もいる。興味のない話題には閑古鳥を決め込む人間もいる。他人から物を教わるのを極度に嫌う人間もいる。これらは、気心の知る知らないとは別の人間的資質であろう。

    相手の自尊心を考えるのも優しさである。優しさはいたわりであり、同情や侮辱心があるのは、見せかけの優しさであり、優しい素振りで相手を見下げているに過ぎない。大きな心を持った人間は、言い合いや議論に勝って喜んだりはしない。和やかな「場」にあっては、己の強烈な「我」を通すべきではない。そいう自己規制を働かせるのも心の大きさである。

    無欲の人間が有能である場合と、まるで無能である場合とがある。他人を蹴落としたい、他人を言い負かせたい、そうした他人に勝ちたい人間は、どこか人間的なゆとりがない。「死んで花実(はなみ)が咲くものか」という言葉を信奉した時期もあった。生きているということは存在感をアピールすることで、存在感なき人間は生きてる価値すらないと考えていた。

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    これが若い頃の自分であった。存在感を懐に、前に前に出ようとするから、敵も多かったろう、厭う人間もいたろう、妬まれたり僻む人間もいた。が、そうした「僻み根性」などは気にもしなかった。こちらが手当てをすることも、治してやることもできないからだ。が、経年になって、「金持ち喧嘩せず」という言葉を美しいと思うようになった。これには様々解釈がある。

    ①精神的余裕があるので、イライラしない。だから、喧嘩になりにくい。

    ②金持ちは喧嘩になる前に些細なことは譲ってやろう、という意識になる。

    ③互いが痛い思いをする喧嘩も含めて双方に利はない。場合によっては賠償責任等が問われることもある。金があることに付け込まれ、狙われて喧嘩を吹っかけてくる人もいるわけで、それは注意して避ける。

    ④くだらない喧嘩をする暇があれば、金儲けの一つでも考える。

    ⑤大した金もないのに、他人(貧乏人)を見下した言い方として使われる。

    弱い犬ほどよく吠えるというように、金持ちは小者の戯言を相手にしない。という生き方は僭越だが喧騒を防ぐ意味で一理ある。相手にしないのは、無視する、バカにするもあるが、相手を尊重する意味もある。人が何を言ったところで、所詮は他人の人生であって自分には関係ない。これを信奉するようになった。人を見下さなければプライド維持できない人間がいる。

    自信がないのだろう。人のいいところを見つけて褒める方が得るものがある。まだまだ完成途上だから、得るもの、修正したところは多く、つまらぬプライドを振りかざしたりはしない。将棋仲間から、「強いね~」と言われるが、自分が強いと思ったことはない。相手がミスをするから勝ってるわけで、自分が手も足もでないほど強い人はいくらでもいる。

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    自分より弱い相手を見つけて、「弱いね~」と嬉しがる人間がいる。まさに「お山の大将」である。いつも自分より下を見ている人は、自分の思う、「つまらない人間」の代表である。吉川英治は、「われ以外皆師なり」といった。彼はまた、「職業に貴賤なし。いかなる職業に従事していても、その職業になりきっている人は美しい」という言葉ものべている。

    自分を成長させるという点においては、いかなる職業にも当てはまるという事を汲み取っているのだろう。自分の理想を言葉にするのは照れることでもないが、憧れの意味と自己確認のために記事として書いているが、自らに言い聞かせていればいいことであり、日常口にすることはない。自分の心の在り方を言葉や文字にし、他人に向けていうのは烏滸がましい。

    ブログの記事は他人に向いていうのは躊躇われても、自身に向けて言うなら素直に抵抗なしに言えたりする。己が是とするもの、あるいは非とするものは他人に関係なく、気にすることもない。自分の論に対する他人の異論・反論はまったく自由で、それに対する反感は抱かない。相手が真理と思えば納得し、称賛もするが、誤解ありと思えば説明をしたりする。

    論理というのは上手くできており、論理で物事を突き止めれば感情を封じ込めることも可能となる。一般的に、「人間は感情の動物で理性は感情を凌駕できない」などというが、それだと人はメチャメチャになる。人間が生身である以上、冷静になれないこともあろうが、鎮める努力はすべきである。日々の訓練で可能となる。その意味で自分は長期の訓練を強いてきた。

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    かつて人に殺意を抱いた自分だ。人とは母である。あの時のことは再現ビデオのようにくっきりと覚えている。台所から包丁を持ってきて、机の引き出しに忍ばせていた。刺せば殺せる。自分の日常生活の最大の障壁を亡きものにできるし、そうした障害物を排除したいと思うのは当然であろう。殺すなどは簡単で、やれる自信はあったが、その後のことを念入りに思考した。

    当然にして監獄に入ることになる。そこは冷え冷えとしたところであろうし、食って出して寝るだけの、殺伐としたところであろうし、友人もいない、誰とも会えない、娯楽もない、自由もない、そういう日々かと想像した。16歳であったが、「少年法」に対する知識もなく、大人と同じような刑罰を受けると考えた。思考で得たものは、母を殺しても何の得はない。

    そう結論した。理性が感情を封じ込めるものだと理解させられた。世界のあらゆるところで親を殺めた少年・少女たちが、自らの損得について思考したのか否か分からないが、どのような状況下であれ、人を殺めて収監されて、殺したことの得を上回る満足があるのだろうか?咄嗟の殺人はそうした思考は及ばないにしろ、計画殺人なら思考の余裕はあるはずだ。

    本気で人を殺そうと思った経験がある自分ゆえに、思考することの重要性を書いている。人を殺そうとする前に、せめて殺せばどうなるか、損得はどうかくらいは考えるべきかと。いうまでもないが、世の中には善人と悪人がいる。己も含めて悪人は分かり易いが、真の善人に出会ったかどうか分からないほどに、善人は分りずらい。善人らしき人には幾人かであった。

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    善人の定義は、「悪を行為しない人」?違うな。人間である以上、善人も悪を行う。なぜなら、人間は「欲」と「見栄」と「嘘」で出来ている。悪人とはいえイロイロで、普通の悪人、極悪人がいる。人を殺せばどうなるか?を考えないのが極悪人で、普通の悪人は、殺したあと、我が身の処遇について思考したり、あるいは捕まらないための算段をしたりする。

    「善人が人を殺すか!」でなく、善人も人を殺すが、だからといって悪人ではない。殺さねばならないのっぴきならぬ状況というのがあったのだ。そういう経験がないから分からない。食うか食われるかの戦争体験もないし、戦争による殺人は罪とならない。あくまで兵士に限りであって、武器を持たない無防備な民間人の殺戮は許されない取り決めがあった。

    それでも無差別爆撃や原爆投下など、勝てば官軍、強者の論理で如何様にも正当化する。戦争は事件でなく、戦争から学ぶことは唯一戦争しない事。文明も民族もすべてを破壊する戦争は人類にとって何の益もない。同じように人を殺す利益は何だろう。消えて欲しいと願った親であっても殺す利益は見つからなかった。それでよかった、正しかったと後にして思う。

    人は殺人を自己正当化する。2014年10月1日に北海道空知郡南幌町で女子高生が母親と祖母を殺害した事件があった。祖母や親から受けた虐待が動機の背後にあった。それを手助けした姉に殺人幇助の執行猶予判決が降りた。当初は幇助といわれたが、「祖母がいなくなればいい」という姉の言動が妹の殺人を後押しした。姉は自ら手を下さず、憐れな妹を助けたという。

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    事実は違った。何とも卑怯な姉である。人を殺す勇気が自分になく、妹を犯罪に誘導した姉。「困った」という言葉ばかりで何もできない人間に対し、義憤を感じて手助けする、これも人間の一面だ。が、そういう人間は人のフンドシで相撲を取ろうとする。何ともつまらぬ姉を持った妹である。妹は事前に友人にこう告げていた。「自分とお姉ちゃんの自由のために殺す!」

    一人っ子の自分はこの事件を思考し、兄弟の怖さを知る。もし、自分に兄(姉)がいて、兄も自分と同じような苦しみを母から受けているのを知るが、おっとり兄は、自分のようなやんちゃな性格にあらずして、親に逆らえないいい子である。「こんな母はこの世から消えて欲しい…」などと打ち明けられたらどうしたか?自分が慕う兄だったら…。そんな殺人の動機もある。


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