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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 08/21/16--20:09: 動機について

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    プロゴルファー松山英樹が日本を飛び出してがんばっている。ゴルフはまったくやらないが、彼のPGAトーナメントを朝早く起きて観るそんな自分に、「なぜ?」の疑問をもった。何気ない自分の行動に疑問を抱くことはよくある。時と場所を選ばないほどに頻繁にある。テレビで松山のプレーを見ながら、なぜ彼を応援するのか?と自問したりするのは同じ日本人だからか?

    が、同じPGAでプレーする岩田寛には興味がない。ならば、「松山が好きだから」といえば理屈にあうが、なぜ好きなのかという理由があるはずだ。それを知る意味は何なのか、自分に何をもたらすのかというより、単純な動機の解明である。では、動機を解明して何が得れるのか?子どもが親を殺せば、司法が動機の解明をする。その理由は罪の量刑判断という部分もある。

    が、世間の人々は「なぜ?」とその動機を知りたがる。動機は、「意図」と「理由」がかみ合わさったものだが、「動機なき殺人」もある。「暑いから人を殺したくなった」、「むしゃくしゃしたから殺した」と、そんなのが動機なのか?と訝ってみはみても、人を殺す動機の軽重というだけであって、動機は動機であろう。それほど簡単に人を殺す人間にとっては立派な動機となる。

    動機は、「意図」と「理由」としたが、それを解明すれば本性に辿り着く。「彼はその程度の動機で人を殺せる人間である」という性格であるというのが結論で、なぜそういう性格になったのか?という解明は別の問題であって、殺人の動機とは関係ない。自分はゴルフをやらない、興味もないが、松山を応援する意図とその理由を自ら知りたいと思った。それも自分を知る要素であろう。

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    話は変わるが、広島カープを応援する自分である。セ・リーグ6球団で唯一カープを応援するのだから、ファンといってもいいが、ファンもいろいろだ。試合の入場券売り出し日をチェックし、並んで買うファンもいる。自分はチケットを買い求めて行くことはない。三女の夫が大のカープファンで、時々自分のチケットを用意してくれ、そういう時は観戦に行くが、本音はテレビ観戦の方が好きだ。

    三女夫婦はカープのユニフォームに身をまとい、他にも応援グッズを持参するが、まあこれらはカープ応援の当たり前のスタイルである。ざっと見て球場に行く人間の80%が球団ユニフォーム姿ではないだろうか。もちろん、他球団においても熱烈なファンの応援スタイルであるが、その中でも阪神と広島は特別にユニフォーム姿のファンが多いという。そこにも意図と理由はあるはず。

    それについては以前から不思議に思っていた。が、深く考えたことはなく、「着たいから着ているんだろう」、「自分は着たくないから着ないし、着なくても応援できる」であった。が、少し掘り下げると、自分は球場に応援に行っていない。周囲と同じ応援パフォーマンスなど絶対にしないし、その理由はだまってじっと観ていたいからである。つまり観戦に行くが応援に行っていない。

    もちろん、心の中では勝つことを望むが、応援しても勝つときは勝つし、負ける時は負けるんだし、それでも必死に応援するファンのエネルギーは凄いものだと敬服する。自分にはなぜかそれができない。コンサートやライブでも絶対に席を立たないが、立てないのか立たないのか、どちらであろうか?(立ちたいけど)立てないではなく、立ちたくないから立たないのは自分で分かる。

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    野球の応援と同じ理由であるのは自分で分かっている。その理由とは、無理やりそれを強いられるというのが嫌なのだ。みんなが立つからお前も立てと言われてる気がするし、その圧に負けまい、自分はしたくないことはしないと意志を通す。おそらく周囲から見れば変わった人間に見えるだろうが、そんなことは問題でない。他人がどう思ったところで、したくないことはしない。

    自分はアーチストを応援に来てるのではなく、全身で音楽を聴き入っていたい。だから、雑音のないレコードやCDが断然いい。こういう疑問は前からあった。「生を聴きたい」、「生を聴かなきゃ」という友人に対し、高価なオーデオ装置を備えれば、好きな時に聴けるだろう。そんな合理的な考えが優先した。確かに生の音は違う。音の大きさだけではない迫力は圧倒される。

    武道館ライブ、後楽園球場ライブに足を運んだことも何度かある。PAで増幅された音圧は体に突き刺さり、脳を揺らす。それでも周囲の騒がしさが、音楽の雑音となる。「それでこそライブだよ」と友人は当前のようにいうが、聴き方が人と自分とでは違う。「クラシックを聴くようにロックを聴くのか?」、「そう、ロックをクラシックのように目を閉じて聴きたい」と自分。

    X japanのライブには、X japanもどき格好の若者がたくさん出現する。そういう光景を恥ずかしくないのか?我こそは、と皆がそういう格好をすること自体を羞恥に感じる自分にそれはないが、観る側として羞恥感を抱く。同じように、球団のユニフォームを着て球場に行くことは、大勢がそうであることからして自分的には羞恥の光景である。最近は観るのも慣れたようだ。

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    が、球団ユニフォームが市販され、3割~5割のファンがそれを着て球場に行くのを羞恥と感じていた。理由は、「なぜ人がしてることをするのだろう?」である。彼らには「人がしているからする」という観念はなく、「自分がやっていることを人がやる」と感じているのか?それとも、同士的な共感にひたれているのか?そういう想像はする。自分も球場に行けば周囲は同士と感じる。

    別段、ユニフォーム姿ではなく、会社帰りのスーツ姿のサラリーマンにも同じように同士感を抱く。最近はユニフォーム姿を、"これみよがしのファン"とは思わなくなったが、以前はそのように感じていた。批判というより人マネ、物マネ的羞恥である。生れたのはユニフォーム姿が当たり前のご時世だからであるが、したいとは思わないし、少数派にもファンはいるのを知っている。

    「人マネは最大の羞恥」、「付和雷同のみっともなさ」、「多数派より少数派」などの考えに組するようになった理由は分からない。何かあるハズだが、人が人のマネをしてるのは早い時期からおかしいと感じていた。確かに自分も、ビートルズを真似た時期はあった。圧倒的な影響力を持った彼らを真似るのは、時代の必然だった。そのことを自問するに、「熱き時代」だったと結論す。

    ベンチャーズの楽曲をコピーし、ビートルズの風貌を真似た若き熱い時代。それが答えだ。ゴム長をサイドジッパーのブーツに作り直したり、学生ズボンを手縫いで細く直したり、それはもう、少しでも彼らに近づきたいとの思いだった。ビートルズグッズなんか、何ひとつ売ってる時代ではない。サイドゴアのブーツは流行ったが、せいぜいグループサウンズのメンバーが履いたりと。

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    高校生の自分たちには無縁の代物だ。高校3年間は丸坊主頭だから、卒業と同時に長髪にあこがれたが、街の男の子はみんな長髪だった。ならば、なぜあのころ人と同じ長髪頭を羞恥と思わなかったのか?ライブで総立ちや、球場へ球団ユニフォーム姿で羞恥がないのと同じ理由ではないか?分からぬことを解明するためには、あのころを思い出してみる。それがヒントであろう。

    違うことといえば、昨今のスポーツ観戦者の行動を理解するうえで、観戦者の観戦動機をスポーツマーケターが的確にとらえ、集客戦略に生かしていることではないか。つまり、球団が観戦者をグッズ販売などの商売に利用しているのは明白だ。利用といっても押し付けではないが、人が意志を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因を動機というなら、動機を煽っている。

    プロスポーツ経営とマーケティングの一体は昨今の趨勢である。企業スポーツがバブル経済崩壊と共に衰退、プロスポーツのリーグ運営やチームマネジメントは地域に根付いた運営なしには成り立たなくなっている。プロスポーツチーム運営にチケット収入は貴重な収入源で、そのためには安定した集客が不可欠だが、近年の地域密着型運営による、関連商品販売は相当な利益収入である。

    入場料収入と放映権、グッズといえば選手のブロマイドかサインボール、あとは球団の野球帽の時代と比べて雲泥の差のこんにちである。もっとも、自分が子どものころに野球帽は全国区である巨人の帽子しかなかった。関西には阪神や野村や杉浦を擁した人気球団南海ホークスの帽子はあったろう。野球帽は主に子どものアイテムであったし、だからカープの帽子はなかった。

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    広島の子どもだからといって、カープが人気球団などとんでもない。やはり、長嶋・王のジャイアンツであった。カープファンだった父も、自分が子どものころは必ず巨人ファンの三塁側の席だった。三塁側スタンドから、ファンだったサード長嶋が目に前に見えたし、あれも親の愛情だ。あれほど欲しかった長嶋のサインやサインボールは、終ぞ手にすることはできなかった。

    今の子どもは恵まれている。が、子どもにすれば当たり前だ。例えばバスケットシューズ…、ハイカットのバッシューは自分たちが高校時代に7~800円だったと記憶する。今は中学生が軒並みナイキのエアジョーダン20000~30000円が当たり前の時代。巷に物が溢れるのは、ない時代に比べて幸せだ。ゴム長靴のサイドにチャックをつけ、ズボンの中に入れて履いたのが懐かしい。

    あるものは買うが、無いなら仕方がない。で、終わっては能がない。無いものは作るという発想こそが人間の原点。裁縫などまったくダメだった自分が、ゴム長の上部を広く、下部を狭くⅤ字に切り、そこにチャックを縫い付ける。よくやったものかと感心するが、ビートルズに近づきたい一心だった。「一念は岩をも通す」というが、ズボンも手縫いで細くしたのも立派である。


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  • 08/22/16--17:24: 「ジュース」今・昔
  • 子どもは甘いものが好きだ。チョコレートにクッキー、アイスクリームにケーキ、といった甘いお菓子にジュース類などで、それにはちゃんとした理由がある。食品の旨味は舌にあるといわれ、確かに味覚神経は舌にある。が、味覚神経は舌以外にも喉や頬の内側など、口の中全体に存在する。よって、食べ物は舌で味わうのではなく、口の中全体で味わうのが正解のようだ。

    「喉越し(のどごし)」という言葉がある。ビールのCMによく使われるが、言葉の意味は、「飲食物がのどを通っていくときの感じ頃」と、キリンの研究員さんの発言は飲料に限定されていない。「酒が飲めない人間には、あの喉ごし加減は分からないだろうな」とビール好きはいうが、確かにビールのイッキ飲みはゴクンゴクンと、その音からしていかにも喉で飲んでいる。

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    「バカいっちゃいかんよ」、ビールでなくても自分は日々その喉ごし加減とやらを味わっている。炎天下のウォーキングで、自宅まであと数kmくらいになったときは、頭の中は愛しの炭酸飲料の喉ごし加減を想像しただけで至福感に満たされる。途中、コンビニや自販機がオアシスになることもあるが、常用の炭酸飲料はどこにもないので、余計に至福感が増すことになる。

    せっかちな自分は、玄関から小走りに冷蔵庫に向かい、それを立て続けに二本を一気に飲む。炭酸が喉をチクチクと刺すその痛さが、ウォーキング後の何よりのご褒美である。仕事の後のビールが美味いように、また、ささやかな支えであるように、炎天下のウォーキングにもご褒美・支えはあった方がいい。歩きながらふと、「何でこんなことしてるんだ?」と思うことがある。

    快適な室内でオリンピックでも観戦すればいいものを、何をすき好んで外を歩くのか?人は苦しい時にネガティブなことを考えてしまう。熱中症で倒れてもシャレにならないので、気くばりはするけれども、それでも灼熱の太陽に照らされるのは防ぎようがない。数日前、久々に50000歩に挑戦してみた。2月に尿路結石が排出されて以降、歩く距離がダウンしたようだ。

    アザミの時節も過ぎ、夏ともなれば暑さに無理はよくない。4月19日に52763歩という数字を出して以降、20000歩台に落ち着いているが、久々、体が50000歩を要求した。地元の人間なら分かる50000歩ルートを気分を変えて逆走したが、途中で頭クラクラで、靴を脱いで川に入り、足を冷やし、腕を冷やし、さらには頭から水をかぶり、西広島駅までが限度と悟る。

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    西広島から電車を利用して帰路についたが、歩数は42452歩、走行距離28.867kmで、歩行時間は335分であった。多少の無理は若さゆえのバカさであり、己を熟知する年代となれば、無理が無意味であるくらい分かっている。50000歩を達成できなくて電車に乗るなど、かつての自分なら敗北であったが、今はそんな考えにならない。「一言」より「柔軟」を優先させている。

    無理をする人間は、責任感が強い。責任感は大事だが、無理をして体を壊しても言っていくところはないのだ。仕事で無理がたたって過労死や自殺の報に触れるが、今の日本には精神論よりも、自己責任、自己管理の重要性を説くべきであろう。己の痛みは他人には分からないから無理を要求されるが、痛みが他人に分からない以上、自分がキチンと管理すべきという考えに修正すべき。

    自分を偽ってまで他人にいい顔をしたり、他人に尽くすこともない。これも新しい日本人を造る「自己責任」の考えである。「無理」は度合であるから、他人の無理と自分の無理は必然的に異なる。無理を無理と思わないがんばりが破綻をきたすようだ。無理か無理でないかを自らに照らして判断するのは、気持ちの兼ね合いもあって難しいが、素直に判断するしかない。

    過去を振り返れば、"あの時はかなり無理をしたな"もあれば、自分的には何ら無理をしていないのに、"そんなに無理をしなくていいよ"と他人から言われたこともある。それはまあ、仕方がない。他人のことを自分の主観で判断するわけだから…。自分は以前から自分の事は自分で判断するとしたこともあってか、他人から「無理するな」を余計なことと捉えていた。

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    「優しい言葉」、「気づかう言葉」かもしれぬから、「大丈夫」などと返すが、腹の中では、「自分の事は自分で判断するよ」。余計なお世話とまでは思わないが、男同士にこんな言葉は無用である。「無理しないで」、「気をつけてね」というのは女に多い。女は、女同士の淡い人間関係だからこそ、この手の言葉をよく掛け合うし、それをそのまま男に持ってくる。

    男には必要ない。こんな言葉をかけられて喜ぶ男は少ない、男には黙っていればいいし、母親の小言ではないんだから。あまりにそういう言葉を言う女がいた。いちいち、「気をつけてね」、「がんばってね」などというので、「気をつけない」、「がんばらない」と返すようにしたら言わなくなった。男の天邪鬼気質を理解したのだろう。まあ、自分がさせたのだが…。

    今さらながらだが、多くの面で男と女は違う。女の優しさとは言葉よりも、黙って心で祈る優しさである。つまり、女は本質的に夜叉かもしれない、だから表面を優しく演じる部分がある。自分の過去の経験において、女の本当の愛、優しさというのは、これ見よがしな言葉を男にかけない女である。愛情や優しさを安売りしない女にこそ、本当のものが存在したようだ。

    男は基本は、「leave me alone」だから、ほっとく優しさが大事。最近のマザコンボーイが、女のちやほや言葉にかまけて、女性化しているようだ。放っておけば成長する男の子に、女性的なものをあまり吹き込まぬ方がいいし、男の子は突き放して育てるべきだ。近年の若い母親は理知より、目先の感情を大事にする。ほっといて男になれない男はどこかに問題がある。

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    表題は最初に決めて書かない。表題に縛られたくないからで、心に浮かぶことを浮かぶままに書く。兼好法師のセリフだが、作為を排すれば本来はそうなろう。学術論文ではないし、読書感想文でもない。いつだか映画のレビューを(ちょっとだけ)書いたら、「これがレビューなんですか?」と叱られた。叱られてこっちも驚いたことがあった。このコメントは記念碑と思っている。

    「僕がいままで見たなかでもトップクラスの駄作レビューでした。途中からよくわからない政治の話が出てきたり、最後は謎の命令口調で締められたりと、結局なにをどう伝えタイのかさっぱりでした。」

    あまりに率直、あまりに正直、そんなコメントである。これだけ素直に表現された文章には見習うものさえある。修飾したり、嘘の多い中で、斯くの生き生きした言葉に出会う感慨。まあ、大人になるということは汚れることだ。社会が汚れ、人が汚れ、そういう世の中に遭遇するからで、だからか、子どもと話すと洗われる。子どもの遊ぶ姿さえをみていて飽きない。

    二度と子どもに戻れないが、子どもに寄り添い、子どもの心に触れるとき、大人の汚い世界から解放される。心ある大人は誰も子どもを愛するだろうし、子どもに関する名言は多い。さまざまあるが、一番好きなのは以下のプラトンの言葉。「真理は子どもの口から出る」と、彼がいうように、子どもの言葉は怖いほどに正確かつ真実である。これを無垢というのだろう。

    「母が何かから解放されると、子どもも解放される」。この加藤諦三氏の言葉も現実を捉えている。あまり一つことに執着しない父親は、子どもを広い視点で眺める。あれも大事、これも大事、社会に照らしながら子どもを捉え、実際において社会は多くの大事で成り立っている。自分も昔は子どもであったが、「これだけが大事」という母親の奴隷にならないで正解だった。

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    昔のことは覚えている。コーラが日本に上陸したのは1919年の大正8年で、本格的に普及したのは1964年の東京オリンピック後であった。はじめて飲んだコーラは何時、何処でだったか記憶にないが、あの不思議な味は記憶に残っている。炭酸飲料と言えば、それまではラムネとサイダーだった。いずれも炭酸ガスに砂糖を加えたものだが、較べてコーラは大人の味だった。

    砂糖に飢えていた昔の子どもはジュース大好きで、当時の高価な砂糖に代えて、サッカリンという合成甘味料を代用したが、サッカリンは発がん性物質とされた。1970年代に実験室のネズミで、サッカリンと膀胱がんの関連性が指摘され、米議会はさらに研究するよう命じると共に、1977年には、FDA(米国食品医薬品局)が人工甘味料としてのサッカリン使用を禁止した。

    その後の研究で、ネズミでのがん発生は人間に当てはまらないと判明。1991年にFDAサッカリンの安全宣言をした。近年サッカリンは、がん細胞に加えると成長が遅くなることが発見され、抗がん剤を強化する薬につながる可能性が浮上しているというからして毒は薬にである。ラムネを買いに行くとおばちゃんが開けてくれるのはいいが、吹き出す泡が子ども心に悔しかった。

    だからか、「自分で開ける~」とねだって、吹き出す泡をすぐに口に含んだものだ。ジュースといえば当時は粉末で、粉をコップに入れて水を加える、「渡辺ジュースの素」が、子どものジュースの定番だった。大人はバヤリースオレンジジュースという瓶入りを飲んでいた。羨ましかったが大人の飲み物と諦めていた。昔の多くは、大人用と子ども用とに分かれていた。


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    今は大人と子どもの境界がない時代である。表題無視の自分だが、「哲学」シリーズのように決めて書くのも面白い。何を書いても「哲学」なので、哲学こそ自由に書けるが、映画のレビューが頓珍漢であるように、ジュースの表題に拘束されない。長編小説のタイトルが、タイトルもどき中身でないように、世間というものがそもそも雑多であるように人間も雑多である。


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    オリンピックが終わった。「祭りの後の淋しさ」という表現がいかにも相応しいが、いつまでも浮かれていては何事も成り立たない。オリンピックの度に4歳年を重ねるのは誰も同じだが、その間に生を終える人もいることを思えば、4歳年を重ねたことは喜ばしい。命が湯水のように感じられたころには、5年先、10年先に命が長らえているかどうかなど、考えたことすらない。

    子どものころの記憶だが、それは小学校の図書室だった。皆が昼の休みに校庭にでるが、自分は図書室に直行した。そこは知識の宝庫であったのは言うまでもない。図書室では図鑑をみるが、図鑑の種類の多いこと。図鑑が子どもの好奇心を高めないわけがない。ある図鑑を見ながら指折り数えると、その日は30年も先のことだったが、「早く年を取りたい」と願った。

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    自分が待ったその年は1986年だった。「早く1986年がこないか」と念じたところで、子どもにとって一年は長い。同じ一年でも大人と子どもの一年は違う。これほど一年が早いと、誰もが大人になって感じること。子どもにとって、クリスマスやお正月が来るのがどれほどゆっくりであったか…。今の子どもと違って昔の子どもは、お正月にならないとまとまった金は手にできない。

    そのお正月が来るまで、何年かかるかというほど長かった。じっとしてれば時は経ち、慌てたところで早くは来ない。そして遂に、待ちに待った1986年が来たが、なんとも子どもの夢を壊した1986年だった。こんなのが自分の描いたハレー彗星であるはずがない。図鑑で見た1910年に撮られた「ハレー彗星」、あれは何だったのか?それほどに失望したハレー彗星であった。

    待って損をした、年を取って損をした。そんな思いと閉ざされ気味の心をよそに、早朝子どもたち全員を起こし、海岸まで観測にいったが、1986年2月9日の大接近は、有史以降のハレー彗星の出現の中で、観測に最も不向きといわれていた。どんな風に見えるかは日毎の接近情報から事前に分かっていたが、子どものころの思いを実現するための行動だった。

    正直見えなかったといっていい。見えないものをがんばって観に行った。自分たちの子どものころの星空はいまはない。文明の公害は光害となって星を消した。今の子どもたち、特に都市部の子どもたちは夜空を見上げることはないだろう。最も、光学望遠鏡から電波望遠鏡に進化したが、それは国家的なプロジェクトで、アマチュア天文ファンにとって光学望遠鏡は必須である。

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    見えないハレー彗星を追って帰り道、「それでも76年周期の中に生を受けたことは幸せだった」と慰めもした。1910年大接近の前は1835年だった。この年に生を受けた小説家マーク・トウェインは、「私はハレー彗星が空に掛かる頃この世に生まれた。だから私は、ハレー彗星と共に旅立つのだ」と言葉を残し、その通り彼は、1910年の回帰時にこの世を去っている。

    人間は自分の死を予見できないばかりか、トウェインのこの言葉は早くからの予見であれば、なんとも不思議である。さて、東京オリンピックまでは生きているような予感もあるが、それなら楽しみでもある。1964年の東京五輪よりも、数段と楽しみである。あの頃はオリンピック後に、ヘイズ、円谷、三宅、遠藤などの名前を知ったが、今回は次回のホープの名を数人知っている。

    北京もリオも閉会式は見事であったし、さぞや東京はさらなりであろう。閉会式で安倍首相がスーパーマリオに扮して登場した。マリオでもポケモンでも別に日本のキャラということだったのだろうが、アトムは古いし、ゴジラの着ぐるみというわけにもいかないし、マリオなら無難だろう。それに対して口幅ったいマツコが、「恥ずかしいんだったらやるんじゃないよ」と言ったようだ。

    くだらん発言をメディアは伝えなくていい。羞恥心の欠片もないバカが、当たり前に羞恥心を醸す人間を批判するのをなぜメディアは批判しない?ヘンてこ衣装でCMにでるタレントが、一国の首相を同列に見るバカさに腹も立たぬが、即チャンネルを変えるほど彼はCMが多い。今の日本は普通の人間より、イロモノ尽くしが主流のようだ。彼が愛される理由がよくわからない。

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    分からぬ物もあっていいし、恥ずかしいけどやってみることも必要だろう。「恥の文化」の日本にあって、羞恥の無さ、羞恥の消滅こそ問題である。さてと、例によってメダルを取れなかった、あるいはメダルの色が違ったことで、謝る日本人の姿は目立ち、それに対し元アスリートの為末大が、「日本選手はなぜ謝るのか」と異議を唱えたが、このことは一考に値する。

    彼はこのように分析する。「負けた原因を分析したら言い訳と批判され、純粋な感覚を表現すれば負けたのにヘラヘラしていると言われる」。今回はマラソンの福士加代子が競技後の応対を批判された。「選手にとっては競技をすることが一番大事だから、変なことで社会から反感を買いたくない。結局、一番問題が起きにくい謝罪一辺倒の受け答えになる」と為末はいう。

    「変なことで社会からの反感」の意味はよく分かる。その暗黙の「圧」が日本人を謝罪好きな国民にしているのではないかと。自分のための競技、自分のための練習、自分のための目的であるはずなのに、常に他人を念頭に置いている日本人。為末もこのように言う。「一体どの程度の割合で批判をしている人がいるかというと、私はごく少数ではないかと考えている。

    私も含め多くの人は挑戦自体が素晴らしいし、一生懸命やってきたのは自分なんだから、自分の気持ちを素直に出せばいいと感じていると思う」。ミッツ・マングローブも少数の批判派なのだろうか。彼は、レスリング女子53キロ級決勝で敗れ号泣した吉田沙保里について番組で、「シラけた」とコメントし、そのことでミッツに対する批判がわいたことを改めて謝罪した。

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    「これは、非難されてしかるべき発言だと思います。申し訳ありませんでした。」とし、「誤解を生む・生まないとか、真意として、何に対して『シラけた』かを弁解する以前に、表現が稚拙で、無粋で、失礼です」と、真意がどうあろうと言葉として不適切だったと反省の意を示したが、これは違うな。これすら、「とりあえず謝っておけばいい」という安易な謝罪とみる。

    発言の真意を言ってないし、言おうとしないし、言わなくても許されるということだろうが、自分は認めない。動機には、「意図」と「理由」があるように、むしろ彼は発言の真意 (意図と理由) を言うべきである。それを言えばさらなる問題が膨らむからか、表面的な謝罪で済まそうとする。これが日本人が容認する社会観であり、いわれるところの、「タテマエ」重視の世界である。

    「そんなんじゃダメだ。真意を言えよ。思うところをハッキリ言ってみろよ」とはならず、これで手打ちが可能な人間関係である。人間は誰も善人ではない。ならば、人間は「良心」だけで生きてないし、良心はあったとしても、良心には限度がある。良心を否定するような行動をはじめた人間が、すべて悪人とは限らないし、そういう人の方が一般人よりはるかに良心的だったりする。

    つまり、世間で言うところの良心的であろうとし、良心を繕うことに邁進することで、良心の限界を知った人。誰よりも良心的であろうとした人間ほど、良心的であることの苦しみや難しさを感じ、悩む。そうした人間にすれば、良心的なことをぬけぬけという人間は、「何を気取って言ってるんだ?」と感じるかもしれない。口には出さないが、批判は当然にして芽生える。

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    あえていえば、人の気持ちを踏みにじる人間の中にこそ、人の気持ちを本当に大切にする人間がいる。メダルを取れなかった、期待に答えられなかったことで、ペコペコ頭を下げる理由にはどこか嘘がある。つまり、そういう人の内面に立ち入ってみれば、案外と傲慢なものをもっているのではないか。他人にペコペコして何の主張もしない人間にこそ傲慢人間は多い。

    為末は、「謝る必要はない」というが、謝る人間と謝らない人間がいることが問題で、西欧人のように皆が謝らないならともかく、謝る人間が印象がよいなら、謝らない人間は批判される。そこのところが問題で、彼のいう理想は実らない。ストイックに練習に励む人間は、その代償として自らに傲慢であっていいが、外野の人間や、ファンというのは当事者以上に傲慢である。

    福士加代子や吉田沙保里が試合に負けて泣こうが、笑おうが、どういう態度を取ろうが、何を言おうが、発露したものが彼女たちのその時の気持ちであって、なぜ選手の気持ちを尊重しないでガタガタいう?それを傲慢と言わずして何だというのか?つまり、くだらないコメンテーターをスタジオに呼ぶから、彼らは何かを言わなければならず、言ったら言ったで問題になる。

    日本のテレビのあり方として、芸能人やタレントを呼んで並べてコメントなんかを求め過ぎで、ハッキリいって彼らは無用である。呼ばれて黙っているわけにはいかない以上、くだらんことを言う。視聴者はタレントの主観を聞いてみたいのか?ミッツやマツコに何かを言わせ、局もそんなイロモノ衆に発言させることが視聴率に寄与するというなら、テレビは死んだも同然。

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    タレントすべてがコメンテータという現象は止めるべきだ。最後にSMAPについて。解散はいいとしても、グループ解散で謝罪するのも日本人の専売特許。解散に至った原因を言うなら言う、言わぬなら言わない。謝罪は無用、それだけでいい。キムタクが自分だけいい顔してるのは、状況から見て明らかで、男の集団で(女でもそうだと聞く)、"自分だけいい子"なんかやってられん。

    解散発表後は、それぞれが思うところを述べているが、キムタクがどうのこうのとは誰も口には出さない。周辺はあれこれいうが、中居も香取も稲垣も草も言ってない。そんな中、解散の元凶とされた木村だけが、「自分自身は変わってない」と述べたのは、自己弁護とも取れる。「変わってる」、「変わってない」を自分が言うのは構わんけれど、ちょっと筋違いでは?

    なぜかといえば、そんなのは他人が感じることで、自分が自分をどう思ったところで意味はない。当然ながら、木村なりに自己正当化の理由があり、彼から見れば自分の行動は悪くないし、メンバーに不満を抱いているハズ。そういう人間は得てして浮きやすい。メンバー存続に尽力したなどの自負が逆にチームやメンバーと軋轢を生むなどは、社会においていくらでもある。

    人間に飼いならされた犬は飼い主に従順である。自らの本性を忘れて飼いならされているに過ぎないが、同じ飼い主が4~5匹の犬を飼えば、犬同士間では不満や軋轢が生まれる。ただ、そのことはさして不幸ではなく、自らの本性の変化に気づいた方が、はるかに不幸であろう。あらゆるものを知らないで済めば、その方が幸せだったりする。だから木村は自身の変化に蓋をする。

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    さらに昨日は妻の工藤静香が姉さん女房らしさを発揮し、「みなさんの想像とは違うと思いますが…」と、庇った。身内が何をいうのも違反とは言わぬが、まあ身内は身内であって、何をもって、「みなさんの想像とは違う」なのか、身内がそれをいってどうなる?キムタク一人が悪いとは言わないが、メンバーが彼を嫌ってるのは事実だし、好きだ嫌いはメンバーの感情だよ。


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    前回述べたウォーキング後に喉を潤す愛飲の炭酸飲料とは、「Ceres 100% Sparkling」。後味の悪い炭酸飲料にあって、100%果汁は後を引かない。瓶入りなので紙製にくらべて冷えもよく、意匠的にもオシャレ感が漂う。白ブドウ、赤ブドウ、リンゴの3種類がある。ノンアルコールだが発酵臭があり、ドライバーの方やアルコールダメな方に良いとある。

    100%果汁でスパークリングといえば、以前は「BEL NORMANDE」だったが、750mlの大瓶は一人では飲みきれないのが難だが、コルク式なので2~3日は炭酸風味は残るし、この商品は炭酸が抜けても美味しい利点がある。日本酒やビールの銘柄を決めて飲む人、何でもいいという人に別れるが、自分はジュースは決めて飲む性質なので、それまでは口に合うものを探す。

    コーラは当初コーラの実(kola nuts)から抽出したほろ苦い味のコーラ・エキスを用いていたことに由来しているが、現在ではコーラの実は含まれていない。Fantaも無果汁で、かつて果汁入り炭酸飲料はなかった。あったとしても果汁100%などは考えられず、美味しいものを飲める時代になった。言い替えると口が肥えた、さらには贅沢になったということか。

    100%といっても、近年はノンシュガーに保存料ナシをうたったものも多く出回っているが、砂糖に代わる人工甘味料入りのものも少なくない。2007年に発売された「コカコーラゼロ」は砂糖をゼロに、砂糖の200倍の甘みがあるアセスルファムカリウム、スクラロースを砂糖の代用とし、炭酸ガス圧を強めに設定されている。まあ、人工甘味料のしつこい味はなじめない。

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    スクラロースは砂糖の600倍の甘さを持ち、砂糖のように体内で炭水化物として消化、吸収はされないために生理的熱量はゼロ。また、24時間後にほぼ100%が代謝・分解されることなく排泄されるため、血糖値やインスリン値にも影響を与えないばかりか、非う蝕性で、虫歯の原因にならないことが報告されている。世界各国で安全性が指摘され、日本でも1997年に認められた。

    のど越しに炭酸は不可欠で、喉にくる刺激がたまらないのだが、コーラとビールの咽喉超しの違いはある。コーラは強炭酸飲料、ビールは弱炭酸飲料であるから、喉にくる刺激の強さが違う。とってビール小瓶を一気飲みはできても、コーラの一気飲みは難しく、一発芸として確立されている。ビールのCMは「のど越し」を言うが、コーラのCMで「のど越し」は言わない。

    下戸の自分はビールの「のど越し」は分からないし、ノンアルコールの炭酸飲料で十分のど越しを堪能するが、ビールについてはこういう記述がある。「『ビールは喉で味わうもの。舌で味わうものではない』という可哀想な話はあちこちで耳にするが、のど越し最優先のビールなんて、アメリカンラガーかドライくらいで、普通ビールは味を楽しむものなんですけどねえ。

    味もへったくれもないスーパードライや、第三のビールばかり飲んでるからこんな風潮になってしまうんでしょうかねえ。つくづくスパドラの功罪は大きいと実感させられます」。こういう意見もある。「『ビールはのど越し』と言う人間は、まず間違いなく日本の大手ビールメーカーのビール以外飲んだ事がないハズ。味や香り、口当たり等一口にビールと言っても千差万別だ。

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    なのに日本の大手ビールメーカーは3桁に及ぶビールの種類のうちたった一つしか造ってこなかった阿呆だ。また、ビールにのど越しだけを求めるとか白痴以外の何者でもないし、酒が飲める、「ビールなんてただ苦いだけだし嫌い」なんて言う、人生の99%損してると断じざるを得ない」。と言い切る。ビールだけで人生の99%なら、まるで下戸は100%損をしているのか?

    「うーむ」分からない。酒が飲めなくて損をしたとの実感はない。ただ、飲めなくて申し訳ない(飲める相手に対し)、済まない(同)と感じることはただあった。やはりというか、飲む場というのは人間関係の必須の舞台であって、そういう場に飲めない者がいる意味は基本的にないように感じる。「飲めなくても食べたらいいんですよ」と気を利かせてくれるが、飲めるにこしたことはない。

    まあ、飲める人間にすれば飲めない人間を、ついバカにするような言動はしばしば体験したが、そのようにバカにされようと、バカにされたと思ったことはない。これはもう体質の問題なのだが、飲める人間は、「鍛えられた(訓練させられた)」みたいな言い方をよくする。だから、飲めないのは単純に「鍛えられていない」、「鍛えられ方が足りない」などの思うのだろう。

    何にしても人をバカにするような人間というのは、自分が他で別の面でバカにされているので、ここぞとばかりに下戸をバカにするのだろう。と、思っている。あることを自分が出きて、出きない相手をバカにするのなら、バカにする人間は何でもできるスーパーマンでなければならないことになる。現実に雑巾一枚縫えない者が、縫える者からバカにされてよいということになる。

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    自慢する、威張る、バカにするなんてのは、いわずもがな幼稚な人間である。飲む相手にいろいろな弁解をしたものだが、こんな風にも言ったことがある。「自分は酒がダメで、代わりに素面癖が悪いので、注意した方がいいぞ。酒を飲むと、せっかくの素面癖がダメになってしまうんだ」。これをまともに受け取る奴もいたりで、飲めないけど気をつけろ、などはオモシロイ。

    「何で酒を飲むんだ?」これはいろいろな人間に聞いてみた。返ってくる言葉の100%が「酔いたいから」である。したがって、アルコールゼロのビールは飲まない、アルコールゼロの日本酒、ウィスキーは飲まないというより、そんなものはない。「酔いたいから飲む」、その意味は気持ちが和やかになる。嫌なことが忘れられるなどだが、言い替えると「酒に逃げている」ことか。

    「酒を飲まなければ気分が和やかになれないものか?」というのも下戸には不思議である。何かにつけて酒の力を借りたい、借りようとしたことがない下戸にとっては、むしろ酒は迷惑なものでしかない。無用の長物である。お酒を飲むと動悸が激しく、ただしんどいだけの者からすれば、酒を飲んでいい気分になるというのは嘘みたいな話。では、下戸は嫌なことを何で忘れるのか?

    思い出してみるに、確かに嫌なことを早く忘れたいということはあった。その場合に、嫌なことがどうして自分にとって嫌なことなのか、なぜそれを嫌だと思うのか、などと「嫌の原因」を考える。これは逃避ではなく、正面から立ち向かうことになる。酒の効用はわからないし、実際問題、考える方がオモシロイ。これしか方法はないが、ある下戸は「そういう時は寝る」と言っていた。

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    酒を飲むのも、寝るのも一時しのぎで、根本解決とならない。考えても解決しない難問もあるにはあるが、「逃げる」という発想はなかった。「思考」は下戸に与えられた問題解決の方策なのかもしれない。同じように、酒は飲める人間にとっての方策であろう。かつて阪急ブレーブスに今井雄太郎という投手がいた。彼は1970年代から80年代にかけて活躍したエースである。

    彼はノミの心臓と言われた。当時の阪急は投手王国といわれ、米田哲也、梶本靖郎、山田久志らはそろって主戦級投手だった。そんな中、今井が二軍で好投して一軍に上げてもらっても登板機会も少なく、チャンスを与えられてマウンドに立つと、打たれた過去ばかりが頭をよぎり、結果を出そうと気負ってしまう。「今井は一軍のマウンドではアガる性質」と言われ始めた。

    そんな今井に先発が任されたある日だった。試合前、梶本隆夫投手コーチに呼ばれ、今井は紙コップを差し出されてこういわれた。「これ飲んで行け」。中身はビールだった。当時のことを今井は、「投手コーチの梶本さんがビールの入った紙コップを持ってきて、飲めと言うんだ。500mlだったかな。断ったんだけど、『どうせ、この試合が最後なんだから』ってコーチ。

    酒は強く、『これくらいなんてことない』と思って飲んだ。そしたら違ったんだ。マウンドに上がったら、心臓がドキンドキンしてなぜか、『キャッチャー、早うサインを出さんかい!』と 強気になれた。結局、7回まで投げて勝ったんだな。実はその後も2~3試合飲んだ。そのうち、飲まずにマウンドに上がっても平気になった。勝ち星を重ね、自信が付いてきたんだね。」

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    自信というのは恐ろしい。酒にはこういう効用もあるのかと。「酒と泪と男と女」という曲がある。詞・曲とも河島英五になり、彼はアルコール依存症ではとの噂があった。48歳で世を去り、死因が肝硬変であったこと、酒をこよなく愛していたことで、そのように言われたが、アルコール依存であったとの明確な証拠はない。長女あみるの結婚式に参列した後急逝した。

     忘れてしまいたいことや
     どうしようもない淋しさに
     包まれたときに男は酒を飲むのでしょう
     飲んで飲んで飲まれて飲んで
     飲んで飲み潰れて眠るまで飲んで
     やがて男は静かに眠るのでしょう

    酒が好きな英五が書いた詞ならこれが酒を飲む理由であろう。亡くなる2日前のライブが最後の仕事だった。前日に体調を悪くし、病院に運ばれるも既に手遅れの状態で家族に看取られ、彼は静かに眠りについた。「肝硬変」とは、慢性の肝障害の進行によって、肝細胞が死滅・減少し線維組織によって置換された結果、肝臓が硬く変化し、肝機能が著しく減衰した状態。


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  • 08/25/16--17:44: 逆転、なぜ起こる?
  • 昨日25日は二つの逆転劇に遭遇した。まずは一つ目だが、中3の孫が部活でバスケットボールをやっているのはここにも書いた。7月23日から始まった区対抗に優勝し、西区第1位として市大会に臨んだ。相手は前年ベストエイトで安佐南区優勝の強豪祇園中学校。やる前から孫の母は、「多分、勝てない」という。朝9時半開始に孫の両親に叔父(母の弟)、祖父母で観戦に臨む。

    バスケットの試合はクォーター制で行われ、1クォーターは10分間とし、第1から第4クォーターまで執り行うため、クォーターが4つで計40分間がバスケの基本的試合時間となるが、中学生は1クォーター8分の計32分。クォーター(quarter)は四分の一という意味がある。例えば日本では、父または母のどちらかが他民族、他人種、他国籍の人の場合をハーフと言う。

    祖父または祖母がそうである人のことをクォーターという言い方をするが、これはは民族や人種の異なる血が四分の一流れている人という意味合いがある。バスケットにおいてのクォーターは、一試合を四分割した試合区分のことを指す。試合は第1クォーターからスリーポインとがどんどん決まり、終わってみれば18対12という意外な展開であった。これは応援も力が入る。

    娘の他の母親と話が弾んでいる様子で、母親連中は声援もどんどん飛んでいる。父親というのは熱い人もいるにはいるが、大体が声を荒げることもなく寡黙に観戦するようだ。第2クォーターは6対8と、どちらも加点の少ないゲームであり、同じく第3クォーターも11対10と接戦となる。これは互いにディフェンスが出来ているということで、なかなかシュートが打てない。

    この時点で、孫の観音中は35対30とリードしていた。選手たちはどういう気持ちかは分からないが、思わぬ善戦にあわよくば…、という意識はあったろう。むろん相手チームは負けるなど考えてもいないし、応援の声援でいうなら相手チームの方が声の大きさやまとまり加減も勝っている。加点されたときの一体となった応援の質からして、我が孫の中学には精彩がない。

    運命の第4クォーターだが、始まる前までは誰も結果を知る者はいないし、観音中学の保護者は(自分も含めて)勝ちを疑っていなかった。が、こうして書いているということは予測ではなく結果を書いているわけで、結果をどのように書くかはライターの資質である。プロ野球にしろサッカーにしろ、ゴルフにしろ、今回のオリンピックの様々な競技においても結果は存在する。

    それらは各々ライターにとっての異なる主観で報じられる。結果は一つだが、様々な見方や感想があるのが人間的だ。10年近いブログでこのような記事を書くのは初めての自分であり、一つのプレー、一つの加点に一喜一憂したその過程を結果でどう現すかについては、当たり前に主観的になる。すべてのスポーツ解説者は、個々の主観を述べるが、中継アナウンサーは客観的?

    職業的にそうあるべきだが、区分なくなされるのは、NHKのアナウンサーのみといえる。NHKのアナウンサーといえども、相撲にしたって野球にしたって、贔屓の相手はいるだろうが、それをおくびにも出さずに客観的に放送する職業精神は見事であり、さすが公正中立をうたうNHKである。思い出されるのは、1936年、ベルリンオリンピックの「前畑がんばれ!」である。

    実況の主は河西三省というアナウンサーで、昭和初期におけるラジオのスポーツ中継番組の実況アナウンスで広く知られていた。女子競泳200M平泳ぎ決勝における河西アナの中継は、まさに放送史に残る歴史的偉業である。なぜなら、オリンピックがナショナリズムを背負い、それをあえて隠すことなく、ほとんど無意識に、また、人間としての人間性が現れていた中継であった。

    河西アナは「がんばれ」を13回、「勝った」(含勝ちました)が18回を没我の絶叫として残したのだが、そうはいっても当時NHK東京中央放送局勤務であった。ベルリンオリンピックに派遣されたが、彼は非常に有能で、例えば野球放送中継においても、「河西アナの放送を聴けば、そのままスコアブックをつけられる」と評されるほどの豊富かつ克明な描写で知られた。

    公正中立大原則の当時のアナウンサーの立場とはいえ、それでなくとも普段は冷静な河西アナが、なぜあのような放送をしたかには理由がある。海外での長期にわたる中継における疲労の蓄積や、日本の前畑秀子とドイツのゲネンゲルによる凄絶なレース展開などが影響し、普段の冷静さとは一転した、我を忘れんばかりの白熱したアナウンスとなったというのだ。

    後に河西は以下の懐述をしている。「「放送席のそばにいた陸上の西田、大江ら(いずれも選手)が、『そーれ、ガンバレ、そーれ、ガンバレ』と声援を送っていたので、俺も一緒になって『がんばれ、がんばれ』とやってしまった」。彼の放送について翌日の読売新聞朝刊においては、「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞されている。

    が、「あれでは“応援放送”で、客観的な実況放送とは言えない」、「第三位以下の選手の順位が不明で、スポーツ中継としては“欠陥商品”だ」といった批判も少なくはなかった。いつの時代も世の中は一筋縄ではあり得ないし、すべては個々の価値観、主観の違いである。日本人のアナウンサーが、日本人向けに、日本人を応援して何が悪い?という時代でもなかった。

    あくまで客観的使命を請け負うというアナウンサーの制約である。時代は変わったな。NHKはそれほどに変わったとは言えないまでも、それでもこれがNHKの番組?と思わせるものもある。チャンネルを見なければ、まるで民法放送、というような変質。こんにち、ローカル中継放送局のアナウンサーは、プロ野球にしても、それはもう100%地元チーム贔屓である。

    つまり、アナウンサーが地元に密着しているのが当然の時代であって、いや、それでこそローカルアナの使命であって、視聴者もアナウンサーの地元チームに対する贔屓的なコメントを聞きたがっている。それほどにテレビ(ラジオ)は今、ローカル主体で成り立っている。全国区もいいが、地方区を主体にした番組作りが、放送そのものを変質し、功をあげている。

    孫の試合についての記事が飛んだが、もちろん祖父である自分は孫の学校贔屓である。が、負けには明らかに理由があった。第4クォーターに入ると明らかに孫のチームは委縮し、相手チームの動きが一段と増した。第3と第4のインターバルの間、選手以外に大きく変わったのは、一段と増した声援の大きさと一体感もあった。コーチが授けた激や作戦もあったのだろう。

    さまざまな要素が選手にポジティブな何かを与えるものだ。また、選手の声も増した。勝負というのはスポーツに限らず、目に見えない何か大きなものに左右されることがある。それを「流れ」などというが、「流れ」もまた、様々な要素の構築である。将棋を指していて、圧倒的必勝だったものが、気づいたときには差が縮まったどころか、目を疑うほどに覆っている。

    その理由として、ハッキリいえるものは、勝っている側の慢心と、負けている側の執着心の差である。分かりやすくいえば、勝っている側は従来の気持ちであったとしても、負けている側に必至感が猛烈にあると、その気持ちに圧倒されることもしばしばある。10:1くらいの差があるにも関わらず、決して諦めることなく、頭に金が乗るまで誘うという姿勢を貫く相手。

    そういう相手に接したときにこちらは、「何で投げないんだ?そんな勝ち目のない将棋をなんで執拗に差し継ぐんだ?」と、自分はこういう性格である。だから、その反対に投げるのも早いし、勝ち負けを自分で判断するところがある。いわゆる戦中派という人たちは、恐ろしいほどに勝負を諦めない。一度聞いたことがある。「これはもう逆転はないのではないですか?」

    する相手は、「なになに、これからだよ」と、その言葉を耳にした自分は、正直驚いた。その方は76歳だから、1940年生まれの戦中派で、終戦時は多感な10歳の年齢である。当時は鬼畜米英相手に、「欲しがりません!勝つまでは!」のスローガンがこの国に充満していた。そうした戦中派の勝負を投げない加減が将棋にも現れているのだろう。つまり、「絶対に負けませんよ」である。

    こういう人たちだから敗戦後の復興がなされたのだろうと、敬意さえ抱いたものだ。「戦後」という言い方をする。「戦後」とは「戦争後」ではなく、「敗戦後」の意味であろう。負けると信じて疑わなかった神国日本が負けたことを、当時の子どもたちも大人も驚きを隠せなかったという。自分たちは皆殺され、焼き捨てられると考えたように、敗戦という未知への不安。

    当時の日本国民の心情は推し量る以外にないが、我々戦後生まれにはない頑張りは戦中派にあるのは間違いないし、立派である。が、自分たちが負っている時代観、世代観とでもいうのか、真似はできない。立派と言うからには見習うべきだが、我々はあまりに淡泊である。1:10で勝ち目のない将棋を頑張る気力はないのだ。そんな我々を戦中派は、「ダメだなこいつら」であろう。

    先人たちの労苦の賜物である「高度経済成長時代」の恩恵にあやかって、甘えて生きているに違いない。よくも悪くも人はその時代にしか生きられないのだ。戦中派の人たちの粘っこい価値観は、逆立ちしても我々に身につかない。さて、昨日のもう一つの逆転は巨人軍 - 広島カープの試合である。テレビ中継はあったが、前半の3回で4点入れられた時点で自分は見ない。

    いつもの如くで、それでもうダメと見切るからで、応援するなどという気持ちはない。勝ってる試合は気持ちよくみるが、負けてる試合は見る気が起きない。こういう性格って自分でもよくわからないが、ファンという気質ではないのだろう。どうせ見るなら気持ちよく見たい、イライラしながら見る意味はないという合理的感情なのか。さて、結果はと10時くらいにネットを開く。

    「へ~、勝ってるわ?」とビックリ。なんとなんと、9回2死からの大逆転というから、「観ればよかったぜー」、とちと後悔。観れば感動を味わえただろうに。「スゴイぜ、スゴイ、スゴイ」と、まあそこそこ喜んでいるが、負けても「負けたか!」という程度で人生への影響もない。が、野球結果に一喜一憂する人にも尊敬を抱ける。なぜにあれほど執着できるのか?

    今年こそはの優勝を目前に、選手の執着心、粘りが功を奏したのか。ならばそれとて「逆転の論理」である。とはいっても、今回の3連戦の第1戦の、あの残塁の山。ことごとくチャンスをつぶし、延長10回の裏に一発でて逆転だ。野球なんて、まさに徒労の山である。我々は結果に一喜一憂すれば、それで罪はなく、精神衛生上問題ない。艱難辛苦のゲームは観るのが疲れる。


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    高畑淳子という女優はイメージだけで言うと、"いい人"っぽく見える。我々が女優や芸能人を判断するにはイメージしかない。会ったことも、口を利いたこともない芸能人は、身近な人間を判断するのとはまるで違う。そういえば国民的女優と言われた吉永小百合も、イメージ的には何ら否のうちどころがない、日本一の清純派女優と言われた。そんな彼女の元親友が暴露本を出版したのが三年前。

    読んではいないが、「奔放で多情な彼女の真の姿をみつめるべき」と言うのが、著書の真意であるらしい。女性を、「多情淫奔」と定義する言葉はあるが、吉永は、「多情奔放」であるというが、「多情奔放」が悪いことなのか?我々は彼女の、「奔放で多情な彼女の真の姿をみつめるべき」なのか?であるなら、なぜそうしなければならないのか?著者は中平まみといい、映画監督中平康の娘である。

    作家という肩書は、1980年に『ストレイ・シープ』で田中康夫とともに文藝賞を受賞して話題となった以後である。自殺未遂や躁鬱病を体験し、『狂躁の日々』、『囚われた天使』にその体験を描いているといい、2013年には、「1991年当時、猪瀬直樹と不倫関係にあったと、「週刊文春」に暴露している。もちろん、金を貰ってのことだろうが、金のためなら何でもやるという言葉が彼女にはお似合いである。

    中平は吉永を多情で奔放といい、吉永のロマンスの相手として、「噂」が報じられた相手は山本學、山本圭、浜田光夫、中尾彬、加藤剛、石坂浩二、渡哲也などであると中平は言う。どの程度の噂か定かでないし、親友の中平に、「○○さんが好き」と言った程度を多情というのか、何をもって多情というのか不明だ。こんなことを独りよがり的に言ったり、書いたりするような女に、ロクなのはいないだろう。

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    多情奔放であれ、結婚後は貞淑な妻で、浮いた噂もないなら別に問題はなかろう。中平は吉永ネタでひと稼ぎしたかったのだろう。作家は他人の悪口など書かなくても、もっとイマジネーションを燃やしたら?と思うのだが。吉永小百合のいい人ぶりは、変わることもないが、高畑は今回の息子の事件でどうなるのか?イメージが商売道具の芸能人に、身内の不祥事は個人的にも営業的にも打撃であろう。

    息子の犯罪ということで、高畑が問題になるとしたら母親としての彼女の在り方で、今後はこの問題でいろいろ嗅ぎまわれるだろう。親は子の見本であるなら、いい親からいい子ができるのは本当か?「できる」とは産まれるではなく、生まれる(育つ)を意味する。親は子を映す鏡とか、子は親の背中を見て育つとか、とかく子どもの成長における親の存在の大きさについての慣用句や諺はそれこそ腐るほどある。

    高畑淳子がいい人であり、いい母親かどうかは知らないが、今回の記者会見の応答姿勢を見ても、いい人のように見えた。いい母親かどうかについては、基準も曖昧で定義が難しい。いい母親が難しいように、いい父親も、いい子どもという定義も難しい。何についても、「良い」、「悪い」ということ自体、難しいといった方がいいし、「善」と「悪」の境目も難しい。

    「いいものはいい」、「よくないものはよくない」などと簡単にいうが、「いい」、「悪い」は主観であろう。ならば、「主観的」ということ自体、悪いことなのか?しかし、主観と言うのは人の数ほどあるのではないか?自分は別に主観が悪とは思わない。他人から、「それって主観的だろ?」と言われたら、「当然だろ」という。要は主観の根拠を述べられるかどうかである。

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    「何でそう思った?」と問われ、「分からないけど、なんとなく」では答えにならない。「お前の主観はその程度のものか?」と言われても仕方がない。主観には、「その程度のもの」も、「なる程的な説得力あるもの」も、ある。それに対して客観的とは何であろうか?客観とは主観の反語で、主観よりも重視される、評価されることも多いがそれはなぜか?

    要はマジョリティってことか?主観がマイノリティ、客観がマジョリティというイメージはある。客観はまた、「社会通念」的なものかもしれない。我々はとりあえず、「社会的通年」を信じていれば社会で生きていける。それが人間社会のマジョリティであるからで、よって、「社会的通年」に反した言動をすると、変わり者、あぶれ者、反逆者などという烙印を押されたりする。

    たまに、「世の中なんて信じない」という人間がいるが、そんな人がこの世に生きていけるのか?何かを信じるから安心して生きていけるわけで、何も信じないなら気が狂うだろう。が、「通年」が存在しない場所はある。世間から分断された山奥で暮らす仙人がそうだ。彼には世間という場がない。よって、「社会的通年」もなく、必要もない。もう一つは、「戦場」である。

    そこは、「社会的通年」はない。よって、戦場は狂気の世界である。映画『地獄の黙示録』は、ベトナム戦争の狂気を象徴的に描いた作品で、最後にカーツ大佐は、「恐怖だ、地獄の恐怖だ」と言いながら死んでいく。カーツが育った西欧文明とはまるで異なる文明世界に身を置いたカーツが、そこを理解する上においては、人間の原初的感情の、「恐怖」が尺度となる。

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    話を戻すが、もし、「いい母親」が存在し、子どもに特化した「いい母親」を定義するなら、世間に顔向けできないような、法も犯さず、誠実のままに育てた子が、親が世を去る暁に「いい親」と定義される。親が85歳で死去したと仮定し、その前年の84歳時に息子が犯罪を起こした場合、世間は84歳まで生きた親をダメ親と烙印を押す。芸能人ならテレビで謝罪もなされよう。

    つまり、この世を去るまでは、「よい親」としての油断がならない。自分流の論理に当てはめると、「よい親」というのは、「よい子」を持ったことで得られる称号である。「よい親」から、「よい子」が生まれるのではなく、「よい子」がいて、「よい親」だったとなる。これなら理に適っているが、問われるのが、「よい子」の定義。博士か大臣かになった子どもを、昔は、「よい子」といった。

    東大卒の子を、「よい子」というのか?会社を興して社長になった子どもが、「よい子」なのか?世界を股にかけるアスリート、オリンピックのメダリストを、「よい子」というのか?これら「よい子」とは、よい学歴、大出世、お金持ち、有名人、という肩書に当て嵌まるが、そういうものがない、「よい子」もいようし、学歴、出世、金持ち、有名人だけが、「よい子」は間違い。

    よい子の定義は人の数ほどある。誰かに問われたとする。「あなたにとってよい子とはどんな子ですか?」それに対して今日の時点で、「自分が心に思うよい子がよい子です」と答える。「それはなんですか?」とさらに問われれば、「自分が心に思うことなので、いいません」という。確かに、自分が思っていればいいことだから、人に言う道理もない、義務もない。

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    「よい子」は自分の心に蓋をする。定義は共通のものかも知れぬが、人の数ほど主観があるなら、個人の定義もあってよい。説明できる主観、出来ない主観、説明無用の主観もある。日本人は是非論が好きな国民で、何かにつけて、「是か・非か」を論じる。子ども3人を東大に入れた親は、「よい親」?その子は、「よい子」?そんな定義もない。人それぞれの心に「よい」がある。

    基本、他人に関係ない。我が子を東大に入れた親が、我が子をよい子と心に蓋をしておしまい。子どもがその母親をよい親と思ったなら、心に蓋をしておしまい。それでいい。わざわざ本まで書いて人に共感を得ようとの自己顕示欲は無用。同じようにやったら東大行けると本気で思うのか?そのノウハウを知りたい思う人もいるなら本も売れるし、これも情報社会の在り方。

    出版を否定はしないが、親子の性格も違う。同じようにできるとは思わないが、やろうとする人はいるのか?とりあえず買うだけ買って、読んでみる親もいるのか?自分なら、「是か・非か」の前に、「可能か・不可能か」を考える。現実の問題として検討すべき事であるのに、ノウハウが大事とは滑稽である。何事も、「可能か・不可能」かを考える姿勢は大事であろう。

    思考し、検討し、不可能であるがゆえに諦める、放棄する、あるいは別の手段に移行する、そういう態度こそが重要なのだ。できもしないことをマイナスとし、ノーとするのを自分自身が判断し、納得するという精神の余裕なくして、「可能・不可能」を議論したり、思考はできない。日本人があることを検討し、「それはできないこと」と、相手から指摘されたり、自ら言うのが嫌な民族のようだ。

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    これは言葉の文化の問題か?「Yes,I do」、「No,I don't」のように肯定し、否定してその理由をのべる。何よりもまずは先に意思表示し、後で理由を述べる合理的で分かり易い言語体系だ。日本語は最後まで聞いても、意思がハッキリしない場合がある。日本人の曖昧さは言語の問題なのか?生後期から否定、肯定をハッキリいう言語に代えたら違う日本人になる?

    さて、高畑淳子の記者会見予定は当初40分だった。約40分が経過したころ、司会者が時間経過したことを告げたが、高畑本人が、「すべての質問にお答えします」と申し出て延長され、64分間、言葉を選びながら謝罪と現状報告をした。高畑はなぜ誠実にカメラに向き合ったのか?おそらく、こうすることが自らに対するケジメと考えたのではないか?隠すことに意味はない。

    との自尊心を捨てた。思ったことを言うのはある意味楽だが、遮るものがあるなら、見栄と自己顕示欲。自分を人に良く見せたい、息子を人によく思われたい。かつて曽野綾子はこのように言った。「もし息子が犯罪を犯したとき、世間がなんと言おうと、あたしは、絶対息子がいいと言おうと思っている。子どもが困ったとき、支持できるのは母親だけ。盲目的に支持していい人が他にないでしょう。」

    こと子どもについて母親は盲目であるというが、盲目にも節度があろう。曽野の発言は釈然としない。母親とは斯くも盲目的なバカなのか?さらに曽野は、「母親が一番愚かしく、盲目的になってもいい、親は困りものであっていいんじゃないかしら」と肯定する。曽野がどんな親であってもいいが、世間は彼女の独善を認めるのか?曽野にとって、「社会的通年」は存在するのか?

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    曽野の言葉を高畑の会見の場にもってくるとどうなる?「息子は悪くありません。相手の女性の方は有名人の息子の行為に、心では了解してたのではないでしょうか?うちの息子が、相手の意思を無視するような、強姦行為などするはずありません。警察はちゃんと調べて欲しい。断じて息子は悪くないことをこの場で申し上げておきますわ。おほほほ…」

    「おほほほ」はないにしても、これだけ毅然とできる母親もある意味凄すぎる。母の信念は岩よりも難し。麻縄よりも強し。まともな常識や、社会的通年の所有者では、到底口に出せない言葉を述べる訳だ。が、世間の誰もが曽野綾子を常識のないバカ母と嘆くだろう。彼女はまともな本をイッパイ書いてるが、ああいう持論の所有者の書き物など読む気もおこらない。


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    自分の息子が犯罪を起こしたとき、親はどういう気持ちになるのだろうか?犯罪といっても、その種類も度合もいろいろだから、殺人もあれば窃盗もあり、傷害もあれば誘拐もあり、そして今回のような婦女暴行や強姦致傷もある。さて、高畑淳子の息子の犯罪容疑は、傷害致傷のようだ。確定しないから容疑だが、本人も罪を認めており、あとは被害者との示談と量刑だ。

    情報化社会の昨今ともなれば、芸能人や有名人の起こした事件に向けて、各方面からさまざまな発言があるのは当然にして、また人の数だけ意見がある。人の不幸は蜜の味とばかり、知った口を利く人もいれば、相手の不幸を慮って口を閉ざす人もいよう。自分は高畑の謝罪会見を見ていない。見る機会も時間もあったが見なかったし、見る気が起こらなかった。それはなぜ?

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    息子の犯罪に対して高畑は、ただただカメラの前で頭を下げればいいだけで、それが自分に分かっているならわざわざ見る理由もない。会見場ではさまざまな質問が飛ぶだろうが、質問は高畑淳子と息子という親子に関するプライベートな問題で、それを聞いてどうする?「息子の事件をどう思う?」と聞かれ、「バカなことをしたというしかない」と答える以外、何がある?

    芸能人にプライバシーはないというが全ては母子の問題だ。「どう躾た?」、「甘やかせたのでは?」などと言われようと、一切は済んだことである。昔に遡って躾を責められるなら仕方がない。「甘い」と言われるなら詫びるしかない。何を問われ、何を言われようと、それらのことが、息子の起こした犯罪に関係のあるなしは分からないが、可能性は否定できない。

    だから謝るしかない。逆に息子が賞を取った、何かの栄誉に輝い場合でも、親は引っ張り出され、称賛の言葉をかけられれば喜ぶしかない。会見とはそういう場である。いずれにしても、あることないことをウジウジ掘り下げられる場なのである。高畑は問われたことについて、的確な答えを出せないこともあろうし、あの場ですぐに即断できないような質問もあろう。

    そういう場合は返答しないか、もしくは想像で答えるしかないし、そういうことさえ強いられる人民裁判のような場所であろう。そういうものを見る気が起こらない。おそらく高畑は想像や憶測で口を開くしかないだろうし、そうかどうかは見てはないが、そうであったらしい。誠実な対応だったというが、何が誠実かはともかく、問い・質問に正確に答える場ではない、鬩ぎを受ける場だ。


    母と息子と、一蓮托生の関係にあって、だから高畑は息子の罪を詫びに現れた。それが分かっていて、そういう母を見たいものだろうか?だから見なかったし、見たいと思う人は見ればいいよ。こういう質問があったという。「(息子の)性癖に関して気づくことはなかったか?」、「性欲が強いとか、性的嗜好がおかしいとかは?」。これらに高畑は、以下のように答えている。

    「男の子というのはこういうものかなあ、というぐらいのことしかない」。それはそうだろう。女である母親は、息子の思春期時期の性衝動や、その後の性衝動や度合いなど分かるはずがない。自分の娘の性衝動について問われても、まったく分からないというのが父親の感想だ。会見場に押し寄せたマスコミ・メディアの業界人は、母親にも分からぬことを聞いたりの図式である。

    そういうバカさ加減が想像できる。確かに息子は刑事罰を科せられる犯罪行為をしたが、その原因や理由を母親が知るとでも思うのか?と、それが事実であってもそのように言い返せば、高飛車な物言いといわれるのか?分からないものは分からないし、「兆候は?」などと言わせようとするが、母親が息子の性について、性衝動について分かると思ってるのかボケ!

    それら以外においても、親が子の何ほどを知ると思っているのか?浴びせられるであろう愚問を想像するだけで腹が立ってくる。自分のやったことならともかくも、芸能人の母親は、息子のことに問いただされなければならないのか?それが芸能人の母親の社会的責任なのか?子どもの責任は、重々親として責任を感じているだろう。芸能人であってもなくても親は親だ。

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    自分はこの一件をブログに記したが、その内容は、「息子は愚かなことをしたな?」である。犯罪行為者を、「愚か」は当然として、「愚かな母」の思いはなかった。言及したところで仕方がない。言うまでもないすべての親は、愚かな子どもにしようと育てるのではなく、それでも親は子に間違った言動を与えることもある。後にその子が刑事犯になったときは、「悪い親」となる。

    詳細は分からないが、そういうレッテルを貼られるのはしょうがない。意思の疎通が強く、仲のよい素敵な親子であっても、事件一つで、「悪い親」となる。もちろん、「悪い子」となる。レッテルはそういうものだ、と記事に書いた。息子は被害者勤務のビジネスホテルで、被害者の予定表を把握していたというから、計画性はあったろうし、この女とやりたい、と思ったのだろう。

    にしても、部屋に用事で呼びつけていきなり覆いかぶさるか?これはあまりに短絡過ぎる。自分はその状況を考えてみた。歯ブラシを所望し、部屋にこさせたとし、下心があったとしても、そんな突飛な行動をせずに、普通ならそこで談笑なりして機会を伺う。が、相手は部屋に長居はできない従業員。一人で切り回しており、すぐさまフロントに戻らねばならない。

    だから飛びかかったのか?理解できないが、そういう短絡的な行動をする人間は、そういう性向だというしか言いようがない。後は、従業員が抵抗せず、受け入れるという独善もあったかも知れぬ。そういう男なら前例もあるだろう。「女は押さえつけたらおとなしくなるもの」などと豪語する男はいるが、そういう経験から出た言葉もしくは、書物からの知識の場合もある。

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    とかく「女は○○」、「男は○○」といった決めつけ論は、例外があることなど頭にない、決めつけバカである。マニュアル世代は得てしてこういう信仰があるようだ。たしかに、そうした「HOW TO」本の蔓延は否めない。否めないが、妄信して実行するのはリスクを考慮しないバカである。事の成り行きが刑事事件に当たる行為なら、"問答無用のバカ"というしかない。

    高畑祐太がその種のバカで、淳子はその母親であったに過ぎない。息子がバカなら親も同質のバカといえず、親が賢いから子も賢いと言えない。が、バカを行為した息子の責任を親が感じるなら、子どもに変わって謝罪をするのは自然である。ただしこれは日本的な行為で西欧にはないが、「あんなバカ息子は親として縁切り」という親もいた。女優の淡路恵子がそうだった。

    地方公演で不在だった都内の自宅に、窃盗に入った元夫萬家錦之助の忘れ形見の四男を警察に通報した。あげく記者会見の場で、「立ち直らせるため何としても逮捕してほしかった。もう2度と会わない」と、涙の絶縁を宣言をした。警察は家庭内の問題として穏便に済ませる予定だったが、淡路が厳罰を求めて刑事告訴をしていた。息子は事件から6年後に自殺した。

    その時の経緯を淡路の事務所社長はこのように言う。「警察から電話が入り、淡路の代わりに私が警察署に行きました。『家庭内の問題だ』という警察に対して、『とにかく逮捕してください』と朝までずっとお願いして…。それが淡路の意向でした。仕事で署に来られない淡路が、電話口から署長に逮捕してほしいとさらにお願いして、ようやく逮捕に至りました。」

    イメージ 4その時淡路は事務所社長にこう言ったという。「女優は、子供なんて産むもんじゃないわね…、向こうに(あの世)にいったらサトちゃん(四男)をひっぱたいてやるの」。(どうして親より先に逝く親不孝をするの)、そういう怒りと、今度こそ母親として、子どもをちゃんと叱り、育てたい、そんな淡路の愛情表現だったのか。名は忘れたが、子どもを作らない女優の次の言葉が印象的だ。
    「女として、母親として、子育て以上に大事なことがありますか?それがまともにできかねる仕事に従事して、できないと分かっていて、子どもは作れません」。昨今は子どもを他人に預けても女性が働きに出る風潮が定着した。男がだらしなく、ダメになったのもそのことに関係はある。男と言うのは本来依存心の強いダメな生き物である。女が稼げば男は働かない、そんな生き物だ。

    男をまっとうな、男らしい男と持ち上げ、繋ぎ止めておくなら、責任を持たせて依存する、あるいは、家族の命運を縛りつけておくのが賢明か。所詮男はヒモになって遊んで楽して暮らしたいというだらしのない性向。男女の違いはさまざまあるが、基本的に女は環境と自分を同一視する。一般的に男はだらしなく、女は部屋をきれいに片づける生き物である。例外もあるが…

    「部屋が汚い=こんな乱雑な女だと思われる」という思考が働き、だからキチンと片づけなければいけないと思う、そのことが環境と自分の同一視である。しかし男は、「汚いのは部屋であって、自分ではない、自分と関係はない」と、環境と自分を切り離して考える。だから、部屋が汚れていても平気である。では、部屋が汚くても平気な女性は?答えはただの自堕落女。

    なぜ自堕落になった?親が躾をしなかったからである。「あなたは勉強だけしていればいいの」などと育てられた女性は、女としての確たる良い部分が育まれなかった。昔から手さき指さきを使った女の子らしい遊びがあったが、今はそれもない。自室を与えられ、部屋にこもって親が立ち入れば不機嫌で口も利かない。怖くて子どもを叱れない親はそういう態度を容認する。

    男女の違いを科学的にみれば脳回路が異なる。女性の思考は男性に比べて、右脳・左脳の交差する回数が格段に多く、一度に多くのことを同時に考えることができるが、男は一つのことに考えがいってしまうと、それに集中して他のことが考えられなくなる。したがって、女性は仕事と家事を同時にこなすことができるが、男は仕事を始めたら仕事にしか思考が及ばない。

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    テレビ見ながら新聞は読めない自分だが、女性は電話しながら別の細かい作業をやったりする。男の集中力と言えば聞こえはいいが、取りつかれたように一つことに邁進する。よって、天才は男の領域である。天才にもなるし、ズボラにもなるが、女性はやはり、几帳面で身ぎれいで綺麗な部屋にたたずんでいるのがいい。環境の美しさが女性を映えさせる。


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    昨夜は夏掛けにすっぽりくるまって…、そんな気候だったが一気に秋の到来か?「風が涼しい」と、今朝の印象だ。「春を眺める余裕もなく、夏を乗り切る力もなく、秋の枯れ葉に身を包み、冬に骨身をさらけ出す」という歌詞があるが、これって結構文学的では?ふと沸いた言葉か、考え抜いて出た言葉なのか、何かの引用か、いずれにしろ作詞泉谷しげるに感服する。

    その泉谷が高畑に、「とにかく男としてダメ。バカ野郎」と声を荒げた。「ニュースで見てびっくりした。これは相当の重罪事件だぞ。歯ブラシくらいてめーで取りに行けよ、バカ野郎!」と喝。泉谷らしいが、「歯ブラシくらいてめーで取りに行けよ!」って、もってこさせたから強姦したというより、強姦するつもりで持ってこさせたわけだから、威勢はいいがちょいとズレている。

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    この種の事件というか、子どもの不祥事に対する親の対応や、会見での発言について、いろいろな同業者(芸能人)らが参戦し、それぞれの一家言なりを述べている。一家言があるのはいいし、持論をいうのはいいが、昨日はRIKACOが高畑の会見について、「何のための会見だったの?」と苦言を呈した。彼女自身も2人の息子の母親で、長男はすでに成人している。

    彼女は言う。「母親として一番やらなきゃいけないのは、自分の息子を本当に叱ること。守ることも大事なんですけど、20歳も超えた自分の息子が犯罪を犯した時に、こういうことを起こしてしまった息子に対してまずは、叱るっていうことです。(今回の)事件は本当にただごとじゃないんです。そのことの重大さを本当に息子に伝えないと。そう簡単な問題ではないですよね」。

    こういうバカゲストを呼んではダメ。会見場で息子をどう叱るって?「こんなバカ息子はいない。呆れてものも言えないし、親の顔がみたい」と吊し上げろってか?そもそも会見ってそういうことのために開くのではあるまい。社会的影響力の大きい職業だから、そのことを世間に詫びるのが趣旨であり、局や番組に穴を開けたことは個別に局廻りをすればいいのだろう。

    となると、会見と言うのは息子が脱法的不祥事を起こしたことを、親として世間に詫びるのが主旨であって、「どう育てた?」、「親として甘いのでは?」などなどの、鬩ぎを負うことだろう。あんなところで鬩ぎを負う必要があるとも思えないが、マスゴミの奴らは吊し上げなければ気が済まないし、そういう「絵」を撮りたいわけだ。高畑も出てくる以上はその覚悟である。

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    マスゴミも世間も、罪を犯した息子を母親がケチョンケチョンのボロカスを言えばいいとでも思っているのだろうし、それでこそいい母親だと評価するのだろう。だったら高畑もそういう風に演じればいいわけだが、彼女は正直な人柄のようで、そういったマスゴミ受け、世間受けより自分に正直である人。RIKACOはその辺りが不満のようだし、ゲストに呼ばれたのだから…

    そりゃ、粋がるだろうよ。テレビの前で発言を求められれば、聖人君子のようなことも言いたくはなる。タレントや芸能人なんてのは、自分の株を上げればいいわけで、そのために番組に出演するわけだ。人気商売、人気稼業のタレントに学者のようなコメントを期待できるものではなかろう。だから、「呼ぶな!」か、もしくは面白半分に聞いていればいい、ともいえる。

    今回のRIKACOの発言に目くじら立てる訳ではないが、そりゃ、親だから不祥事を起こした息子は叱るだろう。RIKACOはそんなこと言わんでよい。ただし、自分の息子が留置されている警察署に、事件後顔を見に行くとするなら、そこでもって、ガヤガヤ、ゴチャゴチャは言わないだろうし、今さら叱るという段階を超えている。厳しい自分だが、警察で叱ることはない。

    罪を犯し、事の大きさを感じている息子と、そんな彼の顔をまじかに見る父親としては、「叱る」段階はもはや超えているという状況だ。記者会見はセレモニーである。マスゴミや世間の喜ぶような親の威厳と正義感と演技力とで、息子を詰ることにどれだけの意味があろう。息子を非難してポイントを稼ぐよりも、ひたすら世間様に謝罪する、それが会見の目的だ。

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    そんな分かり切ったこと以外に何がある?だから自分は見なかった。マスゴミの興味本位ともいえるくだらない質問に、答えの出ない問題の答えをその場で絞り出さなければならない母は憐れである。気丈な性格の女性もいれば、高畑さんは、適宜な答えも、上手くはぐらかすような利発さもないように思える。しかし、マスゴミはそんなことは容赦しない。相手は舛添じゃないんだ。

    か弱い女性である。記者会見以降、この件にアレコレ発言するタレントにはほとほとうんざりする。やったことはやったこととし、後は罪に服し、被害者への謝罪をすればいいこと。躾がどうだのと終わった子育てを蒸し返して、視聴率を上げようとするマスコミ、タレントを呼んで気の利いたことを言わせて、世間をミスリードするマスゴミは、まあいつものことだ。

    最近は学者よりもタレントを呼んでコメントさせる傾向が強いが、それだけタレントの現勢が強いというか、大きいのだろう。「神戸児童殺傷事件」や「秋葉原事件」のような複雑さはなく、学者を呼ぶよりタレントで事足りてるということだろう。自分からすれば、勘弁してほしい自己顕示に満ちたコメントもある。呼ばない方がいいが、それでは番組が成り立たないのだろう。

    高畑が甘いとRIKACOは言うが、高畑は高畑であって、急にRIKACOにはなれないのよ。息子を叱れも、今の状況は筋違いもいいとこ。希薄な想像力しかないタレントが、で気の利いたことは言わぬ方がよい。「もっと息子を批判しろ、私ならそうする」というなら、自分が同じ立場になったらすればいい。高畑を非難したからと、誰の人間性も向上はしない。

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    是非論好きの日本人は是非論を語るといったが、「是非論」の前に、可能かどうかを思考すべきである。局が呼んだコメンテータの自らのお株を上げるだけのパフォーマンス発言に先導されぬよう、視聴者は吟味すべきである。「おもいっきりテレビ」ではないが、近年はNHKまでも「やらせ」をやる時代であって、テレビには情報としての嘘も多いし、影響も大きい。

    「テレビなんて本当に見る番組がない」という声はよく聞くが、そんなことならいっそ観ない方がよい。高畑淳子への批判はいくらでも出ようが、高畑は高畑であって、彼女の自己変革はもうないだろうし、あのような質実な人はそっとしてあげることだ。まあ彼女も「育て方を間違えた」と言ってるんだし、以降は高畑が息子に、息子が母にどう関わっていくかである。

    終わった事件を手を変え品を変えてくどくどやるのがワイドショー。間違った子育てが原因とそのように結論してもう番組を終えることだ。これから被害者と示談交渉という大事な局面を前に、周囲がゴチャゴチャいうのは止めた方がいいよ。テレビ局も節操を考慮し、ゲストも、「被害者も番組を観るなら、外野が余計なことはいわぬ方がいいでしょう」くらい言えばいいよ。

    そんな矢先、一人の外国人女性がこの問題に加わった。キャサリン・ジェーン・フィッシャー。オーストラリア出身女性で、1980年代に来日し、日本に暮らしており、テレビでタレント活動をしていたこともあった。そんな彼女は2002年の4月、神奈川県横須賀市で在日米軍の米兵からレイプ被害に遭う。一部始終を『涙のあとは乾く』(井上里訳/講談社/2015年)にまとめている。

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    その時彼女は警察からの取り調べで受けたセカンドレイプ体験や、アメリカに帰国した犯人を捜し出して裁判で勝訴したことなどが書かれているという。彼女は会見で流した高畑の涙に怒り、以下ののように述べている。「なぜ彼女は泣いているのですか? 彼女の息子が獣のように被害者をレイプしたせいで、その女性がいま味わっている生き地獄のために泣いているのですか?

    もしくは、彼女の息子が逮捕されたせいの涙ですか? 悪いけど、私にはこれが理解できませんでした。 メディアがその母親に被害者女性に対して何を言いたいか聞いたとき、彼女には重大な言うべきことが特になかったのだと私は気づきました。けれども、もしあなたが私をレイプした男の母親だったら、私はあなたの顔を見たりあなたと話したりするのですらいやだったかもわかりません。

    レイピストの母の言葉は不適切です」。言ってることはよくわかる。至極当然かもしれない。高畑の会見を評価する人間もいるように、いろいろな人間のいろいろな思いや考えがあるだろう。立場の違う人たちの、一つ一つの意見はそれぞれに意味を持つが、それらを総合した見解や正解を出すのは難しい。東野圭吾は『手紙』で犯罪加害者の苦悩を描いているが、それも見方である。 

    こちらの考えを聞けばなびき、別の考えを聞けば頷き、一体何が正しいのか?それが世の中である。宗教のようにこれが真理と他を排除するならやぶさかでないが、様々な考えに触れ、自分の考えをまとめて行くのが人生でもある。相反する考えであっても、いずれも正しいとする中で、何かひとつの絶対的な答えを探す意味があるのか?真理とは信じるということだと考える。

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    高畑淳子が正しいとか間違いとか、いいとか悪いとか思いは個々にあろうし、高畑にも高畑なりの思いがある。息子の起こした犯罪の被害者が存在するとしても、息子の唯一の母も存在すると、高畑は正直に述べた。誤解のある言葉は、「言わぬが花」と知りつつ、母親の心情を現した。偽らざる母の思いを世間に理解を求めたというより、素直な表現は彼女の人間性である。

    発しなければ起こらない批判を、発したことで浴びるなら仕方がない。計算ずくというより、彼女は自然の人だ。事前に弁護士と協議し、「これは言わないこと」と釘をさされたか、そうでないか、彼女の様子から判断するしかない。とにかく、一つの事柄に100の意見があるご時世なら、いちいち気にするなとの考えもあろうが、公人は批判にさらされた日常を生きる人たちだ。


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    母親について書く、「息子の犯罪 高畑淳子」という表題を、祐太容疑者について同じ書式で、「息子は犯罪 高畑祐太」としたのを、いまいち変と感じるのは国語力の問題か?「息子が」、「息子も」、など考えたが、「は」としたのは逆読みなら、「高畑淳子の息子」に対し、「高畑祐太は息子」となる。「息子の犯罪 高畑祐太」とするなら、「高畑祐太の息子」となる。

    「悪い親」からも、「いい子」が現れるように、「いい親」から、「悪い子」も生まれ育つ。「いい親からだけいい子が育つ」というのは否定はしないが怪しさもある。悪い親の勧めというわけにもいかないので、「いい子はいい親から生ず」はマジョリティとして実践すべき事。「子は親を映す鏡」というのは、正しくもあり、正しくもなし。その意味はひとつだけではない気もする。

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    確かに、子を見ればどんな親かをある程度知ることができるのは、子への親の情愛や躾が子に反映するからだが、この慣用句は親の子に対する躾をちゃんとするようにとの戒めでもある。が、「子は親を映す鏡」には、別の要素、別の解釈もある。例えば、親が子を叱ったときの子どもの反抗態度や素振りだが、これは親の言動がそのまま子に映っているのかも知れない。

    つまり、親は子どもの態度・素振りを見ながら、まるで自分にソックリと感じることもあるだろう。鈍くて感じない親もいようが、周囲が客観的に見れば、なんと、「似たもの親子であろうか」と感じたりもする。「クソばばぁ!」と子どもに言われた母親が、「何ですかそんな言葉、そんな子どもに躾けた覚えはないですよ」と、子どもを責めたり叱ったりは、実は間違っている。

    そういう子どもに親がしたのは疑いのない事実として、自らを責めるのが正しい親の在り方である。そういう言葉を子どもが発するほどに、親が子を追い詰めたことに親は気づいてない。だから今、気づかなければならない。親が子を叱るとき、叱ろうとするとき、叱る側の視点でしか見ないが、叱られる側の子どもの視点で眺めてみる。そうするとバカな親だったりする。

    見えないものが見えてくるのは、見ようとするからだ。見ようとしなければ子どもの視点から見る親の存在など見えてはこない。そこを見る必要がある。躾の最中に、親自身が改めるべくことは多いが、そういう感受性を持った親こそ良き親であろう。「叱る」というのは、それほどに難しいことだし、感情にかまけてヒステリックに子どもを怒鳴る親が、子どもを心の病にする。


    成人後もちょっとした大きな声に反応し、怒鳴られた昔を思い出すという、びくびくした人がいる。注意欠陥・多動性障害(ADHD)は人生を台無しにするが、それは親の責任である。東大生4人に一人はアスペルガー症候群といわれて何ら驚かなかった。特に最高偏差値の理Ⅲ(医学部)に多いという。常識的に、普通におおらかに育って理Ⅲに行けたのか?

    無理だろう。それを示している数字だが、熱心な仕込みなくして理Ⅲに入れるわけがない。ならばどこか歪が生じる。どう育ててもどこかに問題が生じるなら、早くから塾に押し込み、ひっぱたいて勉強させた方がいいということだろうが、この考えの誤謬はルソーの『エミール』を読めば分かる。子どもを親の所有物として親の価値観に封じ込め、勝手に夢を抱き、ケツを叩く。

    まあ、そういう親ばかりではないから、スポーツ、芸能などの各分野で秀でた人間が存在している。何にしても、子どもは親から大いに影響を受けるのが一般的親子関係だが、犯罪といわれる善悪紙一重など、親は予見できない。どういう親が子どもにいい親か、どうすればいい子に育つのか、自分は文字に起こせない。締めれば荒れ、緩めれば甘える。どうすればいいのかね~?

    親がふつうに抱く子育ての苦悩だが、近年は核家族もあってか、同居の年寄りから子育ての知恵も授からず、どう育てていいか分からないと嘆く若き母親。まずはどういう子どもを望むか?との理想を持つことだが、頭のいい子にだけを目論む親が多い。たびたび引用するが、坂口安吾は、「親があっても子は育つ」といった。これは「親がなくても子は育つ」を言い替えたもの。

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    前者は物がない時代にあって、貧乏で食うコメもない、学用品さえ満足に与えられない、そんな親に対し心配は無用とする。子どもは草の根をかじり、ボロ服着ても育つものと、そんなエールである。対して安吾の、「親があっても」の大意は、「与えすぎる親、子どもを甘やかせるなど親の弊害はあっても、子はちゃんとまともに育つ」という彼一流の皮肉で、原文は以下。

    「親がなくとも、子が育つ。ウソです。親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがったできそこないが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ」。安吾の言葉には驚いた。

    さらに安吾は「家」の制度を、子育てにおける「邪」であると批判する。「家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。…中略…

    家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、家の子供にはないものである。人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。」安吾を読むと、心が洗われる。人は自由に、何かに頼らず、自己の責任で生きて行くべしと突き刺さる。


    高畑母子の一件おいて、当分の間はいろいろな言葉が耳に入ってくるだろう。別のめぼしい事件が起こるまでは…。口を開くメンバーは、尾木直樹、長谷川豊、森永卓郎、坂上忍、マツコ、ミッツマン、ホリエモン、テリー伊藤、松本人志、オリラジ中田、東国原らが常連か?彼らは人のことをアレコレ言うが、それが本業なのか?昨日は高橋真麻までが高畑敦子を批判した。

    裕太容疑者に、「どんなことがあってもお母さんだから」と呼びかけた母淳子について、「犯罪の内容が内容。一生お母さんはお母さんだよと言ってあげられることに、優しすぎるなと。うちだったらあり得ない」と、父の高橋英樹なら「絶対優しい言葉をかけない」という意味のコメントしたようだ。父を持ち上げるのはいいが、父親と母親を一緒にしたコメントは筋違い。

    「物言えば唇寒し秋の空」ではないが、「芸能人は黙っていることの価値はないのか?」である。犯罪当事者批判ならともかく、今回の母親批判は真に目にあまる。所詮は、「目糞・鼻糞を笑う」程度の批判であって、自分も同じようなものだが、鼻糞を笑う目糞になりたくはない。つまらん批判をするよりせめて、「人糞、鼻糞を笑う」くらいに昇華はしたいものだが…。

    高畑裕太容疑者はまだ22歳という。22歳はもう大人だ、いやいやまだ子どもだ、などの考えもあろうが、どちらにしても愚かな行為に変わりない。「強姦罪」という犯罪は少なく、近年の多くは、「強制わいせつ罪」である。言葉も違えば意味も大きく違い、「強制わいせつ」は、下着の中に手を入れたり、服を脱がしたりで、女性の部分を相手の意思に反して故意に触った場合。

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    「強姦」は、相手の意思に反して無理やり性交した場合であって、「強姦致傷」は重罪だからこのまま起訴となる。刑法181条の規定で、「無期または5年以上の懲役に処する」とある。短くても、「5年以上」であるため、通常、執行猶予は付かない。量刑で重要な点は、被害者への真摯な謝罪と誠意ある示談である。慰謝料の支払いを含む心からの謝罪が大事である。

    被害者の加害者への処罰感情が消滅する、もしくは減少し、示談が成立することがなにより大切である。さらにもう一点は、その状況だ。裁判で明らかにされるが、高畑容疑者がどのような暴行を加えたのか。また、その暴行行為は被害者の抵抗にあってもさらに暴行を加えたのか。あるいは被害者が観念し、すぐに抵抗を諦めたのか、そのあたりが争点となる。

    犯行内容の詳細は報道されておらず、強姦致傷という行為は、強姦行為そのものはどうであれ、身体のどこかにケガを発生させた時点で既遂となる。よって、性器挿入という強姦行為そのものについて、未遂の可能性は排除できない。群馬県警による逮捕容疑は、「強姦致傷」としているが、今後は公判において、「未遂」と変更されることは十分考えられる。

    県警発表によると、高畑祐太容疑者が、「歯ブラシを持って来て」と女性を部屋に呼び出したのが、午前2時から同2時25分ごろで、同3時32分には女性の知人から110番があったことからしても、犯行時間は長いものではなかったと推察する。また、被害者のケガも加療1週間程度の打撲で軽傷であることを考えると、強姦行為そのものは未遂の可能性もある。

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    祐太容疑者に限らず、罪を起こした直後に動転したり、反省と改悛に襲われてか、警察の取り調べ段階で、言われるままに、「強姦」を認めたことも考えられる。今後は、弁護人が祐太容疑者から詳しく事情を聞き、「強制わいせつ致傷」として罪状を争うことになろうか。あるマスコミ関係者は、「高畑容疑者の酒癖の悪さは業界では有名だった」などの批判を持ち上げる。

    全ては一事が万事か、「ああいう事件を起こしても仕方ないな」のレッテルを貼りたいのよ。過去があんなだからこんな事件を起こしたと、寄って集って言いたいのだろうが、事件を起こしたからアレコレ言える。他人を、「どうの、こうの」いえば自分は立派だ、みたいな姑息な民族。自分はテレビ断食であるが、時代はネット論客が、「どうの、こうの」の時代である。


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  • 08/31/16--18:59: 歩いても 歩いても

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    『歩いても 歩いても』は、映画監督是枝裕和の第6作目作品で、2008年6月28日に公開された。町医者の横山恭平の家に15年前に亡くなった兄の命日として、次男の良多家族と姉の片岡ちなみ家族が終結する。恭平宅は姉・弟の実家である。冒頭は母と姉が台所仕事の場面だが、そこを抜け散歩に出かける恭平に、ちなみが「コンビニで牛乳買ってきて」と声掛けするが無視。

    母がちなみに、「コンビニの袋をぶら下げて歩くのがイヤなのよ」と囁く。子からすれば、"立ってるものは親でも使え"ということだろうが、連れ合いというのは相手の性格が判っており、嫌がることを強要しない。これも夫婦間のいさかいの原因を防止することでもある。ゴミ出しも洗濯物のたたみも嫌がらない夫もいるが、恭平のような武骨者はいかにも昔の亭主である。

    「男子厨房に入るべからず」の時代の遺物ともいえる。自分なども、"亭主に用事を頼むなどもっての他"という世代観でもある。まあ、昔風の良妻賢母というのは、"亭主は家で威張らせておけばよい"という操縦法を身につけていた。近年、男女平等思想がはびこることで離婚が急激に増加した部分はあろう。もっとも夫の言いなりになるくらいなら離婚を選ぶという妻が増えた。

    過去や現代に様々な見方があるが、自分は「男が男で、女が女だった時代」、「大人は大人で、子どもは子どもだった時代」との見方をする。自分なりの「良い」価値観をベースにすれば、現代の世相は「悪い」というより、「醜くなった」と感じている。女子高校生が当たり前に化粧を始めるようになったときに思ったのは、「なぜにそんなに早急ぎするのか?」だった。

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    大人になったらアレもしたい、コレもしたい、そうやって昔の子どもは、したいことを我慢し、してはいけないという自覚で生きてきた。自覚とは言葉を変えると、暗黙の強制だったろう。自分たちの世代は中学~高校と丸刈りだった。これは強制だったが、丸刈り強制は軍国主義の名残と言う、日教組などの人権運動も嵩じて、自分たちの次の年度から丸刈り強制はなくなった。

    愛知、愛媛、山口などの保守志向の強い県は、丸刈り強制はなかなか解禁されなかった。自分たちは早く18歳になって髪を伸ばしたいという気持ちも強く、同様に早く18歳になって成人映画を堂々と観に行きたいなどは自然に備わっていた。つまり、「早く大人になりたい」という子どもであって、現代はそれに比べて大人と子どもの境界線がなくなった時代と言える。

    例えば女子高生の化粧にして、昔の女子高生が化粧をしようと思ったら、親の鏡台の引き出しから取り出すしかなかったろう。自分用の化粧品を買うお金も勇気もなかったのではないか?今やコンビニで何でも買えるわけだ。周囲も高校生を大人と容認している社会でもある。大人と子どもの差がなくなった理由は様々考えられるが、テレビの影響が大きいのではないかと指摘した。

    テレビでダチョー倶楽部のバカ芸を見たとき、こんな大人を真近にみた子どもが、大人をバカにしても仕方がないなであった。ドリフターズのバカコントも子どもからみれば、大人がバカをやっているように見えただろう。自分たちの子どものころに見たクレージーキャッツや、植木等、伴淳三郎、花菱アチャコなどの喜劇芸人は、あくまで「芸」を披露する芸人であったこと。

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    バカを演じているという認識だったが、ドリフに志村が加わって以降、彼らはどんどんバカに見えて行った。演技と「地」の境が無くなったいった。漫才でバカをやるのも芸であったが、B&Bやダチョー倶楽部のような類が出現したとき、本当のバカが芸人になる時代に思えた。漫才の質は聞かせるからドタバタに変わり、コントもいかにバカげたことをやるかのバカ芸に移行した。

    子どもが大人を尊敬の対象と見なくなったのは、子どもが大人を怖がらなくなったことも一因であろう。たしかに厳父慈母という言葉は消え、近所にも怖いおじさんはいなくあった。よその子どもにアレコレいうのは余計なこと、そういう地域社会の教育力が減衰したという社会学の考えである。また、栄養状態もよくなったことで、子どもは子どもといえないくらいに背丈も伸びた。

    大人と子どもの差異もであるが、「男が男で、女が女だった時代」を象徴するものは何かといえば、戦後であろう。「戦後に強くなったのは靴下と女」と言われるように、靴下は弾力性のある化学繊維で強く、綿のシュミーズも肌触りのよいスリップとなった。戦後というのは、親父も大人も一斉に沈黙したことだ。つまり、男たちが何も言わなくなったということだ。

    一家の親父が戦争を指示采配していたわけではないが、まるでそうであるかのように、偉そうにお前はこうすべきだとか、教訓めいたことを言っていたのに、もう何も言わない。黙っている。それが戦後の男の変貌である。子どもを食わせるために奮闘する母親を黙って見ているだけ…。だから母親は強くなっていった。他人にもできるだけ頭を下げ、これは男にはできないこと。

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    女は子どもを育て上げるため、生きるためなら見境いなく何でもできた。着物を売り、家財道具も売ったりして家を支えたが、男にはそういうみすぼらしいことができない。あの時点で男と女は大きく逆転したのではないか?あの時はただ、「母」が強かったのだけれども、それが今は「女」に変わってしまった。日常性における知恵や発想は、男が女に適うはずがない。

    日常を生きるという発想は紛れもない女の発想である。男は能書き垂れて、論理で理論武装をし、敵と対峙する生き物であり、戦の発想である。みんなが「お国のために死ぬ」といっていたが、それが戦後になり豹変した。事実、お国のために死んでいった者たち、あれは何だったのか?そういう訳の分からぬ問いかけをされたこと。それが戦後である。それはまた男の苦悩である。

    維新になって、断髪令や帯刀禁止になっても、男は武士を捨てられなかった。士族の反乱といわれた「西南戦争」がいい例である。昭和天皇を守るという大義名分をタテに、指導者の戦争責任問題などを曖昧にしてきたのは、日本人的体質の源泉というのか、客観的に眺めれば日本人の醜さであろう。木戸内大臣が終戦直後に昭和天皇に「ご退位なさい」と迫ったのが印象的。

    男はだらしない生き物だと、我ながらに思う。何かにとりつかれたように力(能力)を発揮するが、何もなければな~んにもしないでいれるのがグータラ男。世の利発な女性が、どれだけグータラ男に苦労し、嫌気をさしたことか。「父性の復権」などと、まことしやかに言われる昨今で、元東京女子大教授で経済学者、心理学研究者の林道義は『父性の復権』が評判を呼んだ。

    イメージ 5彼は「父性」を、①家族をまとめ、②理念を掲げ、③文化を伝え、④ルールを教えると定義している。「まとめる」のは大切なことで、「家族をまとめるのは女だっていいじゃないか」と仰る女性がいるが、これは。男でなければいけないと林氏は言う。だから『父性の復権』である。家族をまとめる、組織をまとめるに大切なのは、「中心というものを明らかにすること」。

    そうした中心の人物なり、理念なりを中心にして全体の組織化が行われていく。戦前は家父長の命令権は絶対で、よきにつけ悪しきにつけ、父親や戸主を中心にして家族がまとまっていた。しかし、戦後は男女平等・親子も平等ということになり、どんどん家族がバラバラになり、最近ではもっぱら家族の絆は薄れ、家庭教育もろくに出来ない親なりが増えているのが現状。

    したがって、家庭教育、家族の再強化ということがいま日本の課題になっている。林は地べたに座ったりの行儀の悪い女子を例に、そういう女子の家庭は必ず父親がしっかりしていない。躾もされていない、礼儀がなっていないという共通項を指摘するが、大学で女子学生を密かに生態観察し、20年来研究してきたという。またこういう風潮は「フェミニズム」の影響もあるという。

    また、「腰抜け男に、ふしだら女」というキーワードに当てはめて社会を眺めているが、先入観を排除してみても、「腰抜け男に、ふしだら女」を実感する。父性の意味も父性社会の重要性も分かったが、そもそも父性というのは、女子どもがいて、こいつらを守らなきゃ死ぬんだとの思いから自然発生した原理あり、それが今、女子どもを守らなきゃという死活問題がない。

    だから父権も男らしさもすべてかき消えてしまった。つまり、女が男を奮起させるのであって、女が主導で父権もくそもない。東日本大震災のとき、押し寄せる津波に妻子を見放して、我先にと逃げた夫に対する批判があった。それで「震災離婚」というのも数件に及んだという。こういうことをいう女性は、おそらく家庭で実権を握っていた妻ではないかと推察した。

    尻に惹かれ、少ない小遣いで働きづくめにされ、子どもの教育など一切を妻が仕切って、単なる働きアリの夫であったという実態は提示されていない。ただただ、妻子を放っぽいて夫が逃げたとの批判である。男はダメだと何度もいうように、だから責任を持たせ、依存して男の責任感や能力を引き出すのが女の役割でもある。そんな役割はいい、夫に期待しないという妻もいていい。

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    父性は夫になければいけないものでもないし、妻にあればいい。母性が夫にあってもそれは構わない。あればいいということ。どちらにあってもいいが、必要なものであるなら、五分五分ということだ。母子共生家庭で育つと、ルール・礼儀知らずの子どもたちが出来上がるし、少なくともそういう傾向になる。それがもっと程度が悪くなると、無気力という症状になる。

    タイムリーでいえば、高畑敦子が「子育てを間違えた」と言ったが、事件が起こってそういわざるを得なかった。何もないなら、「母手ひとつで立派に育てた」となる。起こるべくして起こった息子の事件と言うより、起こったことは事実で、母子家庭の子どもすべてが、何らかの事件を起こすとはいえない。林氏もいうように、母子共生家庭には、上記の問題が顕著である。

    最初に書こうと思っていたことと、まったく違う方向に行ってしまった。よくあることだが、やはり自分は感性人間である。心にあることを躊躇わずどんどん、速射砲のように書いてしまう。考えてなど書いていない。欠点ともいえるが、修正が難しいなら、欠点を生まぬ方法として「表題」を決めないことも一理ある。が、「歩く」については明日書くことにしよう。


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    母子家庭・父子家庭にもそれぞれ問題点はある。問題というのは、母子家庭には父親がいない、父子家庭には母親がいない。は冗談として、母子家庭の平均年収は120~140万となっており、養育費・母子手当等を足しても、ほとんどの母子家庭が200万以下での生活を強いられる。一人で子育てのフルタイム勤務は無理があろう。母子家庭は経済的に困窮し、父子家庭は精神的に困窮するという。

    母子家庭にも精神面の問題はある。父親不在を母親の視点で補うことが必要だが、「母子共生」という密着型がそれを阻む。父親に代わって母が父性をやるというなら、秩序感覚を子どもに分からせることが、父性の本質であろう。子どもに対して欲や夢を抱くのもいいが、「分際(身の程)」を分からせることも大事。即ち、子どもの分際、学生の分際などをしかと教える。

    女子がシャネルのバッグを持つことも、男子学生がポルシェ通学する必要はない。幼児期の子どもにブランドを着せて喜んでいる母親は、中学になり、高校生になった娘にもシャネルやヴィトンを与えたがるのか?果たしてそれが学生の分際か?援交やAVビデオに出演する若き女性は、自分にお金をくれるのは単に若い魅力だけと、そういう分際を知るべきではないだろうか。

    若さなくして実入りがないと知ることが、自分の長い人生を生きて行くフォームとして、身の程知らずな短絡性という遺恨や悔いを残さないでいれる。「大人は子どもを映す鏡」というなら、そういう時こそ大人は鏡であるべきだ。つまり、援助交際というのは、お金をやらなければ絶対にできないわけだから、大人の節操のなさが節操のない女を生んでいることになる。

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    男も同様。若いころは性欲ギッシリ満載で、やりたくてやりたくてたまらない。だから女性にあの手この手でお願いする。ズルい女は男の弱みに付け込みアレコレ要求する。「バカだろ!」そんな男。男にお願いされて威張る女も身の程知らずだが、それを生じさせているのは紛れもない男。それが、「オッシーくん」、「メッシーくん」などといわれる男を生んだ。

    人の弱みに付け込む人間は卑劣だが、文句を言う前に、弱みを利用されていることに対する反発心を抱けばいいのよ。頭が剥げてしまって、高価なズラを勧められるなら、「スキンヘッドにしてやる!」くらいの気概が欲しい。人がシャネルを持っているから私も欲しいではなく、そういう虚栄心をいかに葬り去ることができるかを、考え実行するのが一味違う女性だろう。

    「別に持ちたい人は持ってもいい、そういう分際でもない私は持ちたくないだけ」というおだやかな思考は、卑屈というより明晰な論理である。女が女に対し、見栄と対抗心を持たず、しかと自分を見つめられるかどうかで、女性といえども感情より理性優位は可能であろう。男も見栄とつまらぬ対抗心を捨てれば、楽に生きられるし、見栄とは自分に無理をすることだ。

    『歩いても 歩いても』という映画は何も起こらぬ平凡な、ありきたりの日常を映している。その辺りは小津映画を彷彿させられるが、是枝は小津に影響受けたのかについて、このように言っている。「僕自身もデビュー以来ずっと、小津安二郎から受けた影響を聞かれることも多くて、はじめのころは、『あんまり観ていないし、影響もうけていません』と答えていました。

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    が、自分の中に流れている家族観や死生観は小津映画と共通し、日本人としての特異性を感じますね。それは大切なことだと思います」。是枝は欧州でも"Ozuの孫"と称されてきたし、5月のカンヌ国際映画祭に出品した新作、『海街diary』は、小津安二郎の作品世界と通じる印象が強く、小津の孫ぶりに拍車がかかった。が、是枝が好きな映画監督は成瀬巳喜男である。

    それでいて是枝は脚本を書く際に、小津が脚本執筆時に定宿にした神奈川県茅ケ崎市にある旅館、「茅ヶ崎館」に泊まり込んでいる。その辺りを是枝は、「この旅館で脚本を書くようになったのは、『歩いても 歩いても』以降です。いい部屋ですが、最初は冷やかしで行ったんです。小津さんが行ってた宿があるらしいから、ちょっと昔の映画人っぽく、旅館を借りてと…」

    小津は好きではないという是枝だが、『海街diary』は、原作漫画を読んだ時点で、「小津を意識せざるを得なかった」という。「人間ドラマというより、人間を取り巻いている時間が積み重なっていくのが、ちょっと小津的だと思った」と語り、撮影前に小津作品を何本か見て、以前よりも小津を身近に捉えることになったというが、いいところは取り入れるようだ。

    創作家はみな影響を受けた先人はあろう。隠す必要はないが、小津と是枝の目指すものが同じであるというふうに捉えたらいいし、あまりに小津調、あまりに小津風と言うのは是枝に失礼ではないか。確かに小津は偉大である。『歩いても 歩いても』というタイトルはどうしてついたのか、映画の中ほどで明らかになる。特段この映画は、「歩き」に関係する映画ではない。

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    のっけに恭平は散歩に出かける。杖をもっての老体だから、ウォーキングなんてものではなく散歩である。勘の良い視聴者は、「歩いても 歩いても」のフレーズに何かを思い当たる。いしだあゆみの歌う、♪歩いても歩いても 小舟のように わたしは揺れて 揺れてあなたの腕のなか…といえば、彼女のヒット曲『ブルーライトヨコハマ』。それがこの映画にどう関係する?

    次男一家と夕食を食べながらの音楽談義。カラオケで演歌を歌うと妻とし子にからかわれた恭平は、むっときて良多の妻ゆかりに、「『昴』は演歌じゃないよ、そうでしょう?」と念を押す。ゆかりは頷いたものの、悪い空気を察知し、和やかに持っていく。「お二人の想い出の曲とかないんですか?」と問う。とし子はニコニコ顔で「あるわよ思い出の曲。歌謡曲だけど…」

    そう言って自室の机の引き出しから一枚のシングルレコードをもって来て、良多にかけさせる。その曲が『ブルーライトヨコハマ』。「歩いても 歩いても」のところからとし子はレコードに合わせて口ずさむ。恭平は風呂に入り、着替えを置きにきたとし子に、「いつ買ったんだ?」と問うが、ここの場面が面白い。とし子は、「あのころですよ」と意味深に答えるのだ。

    あのころとは?とし子は続ける。「板橋のあの女(恭平の浮気相手)のアパートまで、良多をおぶって行ったんですよ。そうしたら部屋の中からあなたの声が聞こえてきて、"歩いても 歩いても…、"邪魔しちゃ悪いと思ってそのまま家に帰って、次の日駅の西口のカナリヤ堂で買いました」と、皮肉たっぷりにいうとし子に、恭平は苦虫を噛んだような、脂汗の浮き出た表情が面白い。


    「歩いても 歩いても」の『ブルーライトヨコハマ』は、確かにとし子と恭平の二人の共通の想い出の曲だ。が、それぞれにとっても因縁深い、いわくつきの想い出である。何事もない日常を描く是枝にとって、このシーンは"さすが"というか、彼のアイデアである。とし子は恭平にとっての想い出の曲『ブルーライトヨコハマ』を、わざわざ買い求めていたということだ。

    恭平は70歳代の戦中派、とし子はそれより少し若い。長年連れ添った夫婦であるが、それぞれに秘めたものがあり、とし子はそれを執念深く曲と一緒に頭に刻んでいる。一見して夫唱婦随の典型的な昔風情な夫婦であり、縦のものを横にもしない、亭主関白の恭平だが、とし子の秘めた思いを知ることになり、自分がとし子の手の平で踊らされていたことを思い知る。

    ガミガミうるさい女は困りものだが、寡黙な女も負けずとも劣らぬ怖さが漂っている。映画のタイトル、『歩いても 歩いても』には、夫婦にとって奥の深い意味があるようだ。『ブルーライトヨコハマ』は名曲である。作詞は橋本淳、作曲は筒美京平だが、是枝は京平に恭平をかけたのだろうか?『ブルーライトヨコハマ』は、1968年度レコード大賞作曲賞に輝いている。

    同業者である作詞家なかにし礼は、このように評す。「『ブルーライトヨコハマ』は、日本の歌謡曲の中でベストワンだと思う。あんな曲は世界にも例がないでしょう。決して褒め過ぎではなくて…。リズムからいっても、メロディーもコード進行も…。この曲が出てきて、日本の歌謡界も随分よくなったな~って思いましたよ」。こんな名曲が日本にあるって素晴らしいね。

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    ♪歩いても 歩いても 小舟のように わたしは ゆれて ゆれてあなたの 腕のなか…って歌詞の意味は何だろうか?プロの作詞家の現実離れした様式美であろうか。われわれ凡人には浮かばない発想だ。さて、歩いても歩いても目的地に到達しない日々のウォーキングに目的地はないが、目的はある。歩いて歩いて、脳がゆれていろいろ考えるのが何とも楽しい。

    ブログネタを考えることはないが、書くものは映画、事件からいろいろ膨らませられる。ビッグバンのようにどんどん膨らんでいく。表題を決めて書いても、自分の発想がそれを追い越すこともしばしば。表題を決めて、準じて書くことより、とめどない発想で頭が廻ることの方が楽しい。泉のように湧き出る発想がある限り、若さは癒えてないなと、自賛をするのだ。

       1日 23372歩 15892m    90/分
        2日 27447歩 18663m    87
        4日  23141歩  15735m    88
       5日  24949歩  16965m    87
       6日 32011歩 21767m   90
       12日  24034歩  16343m    87
         13日  19742歩  13424m   86
       14日 11061歩  7521m   90
         16日 18030歩  12260m  86
         17日 23717歩  16127m  87
         19日 42452歩 28867m   86
         20日 32805歩 22310m  89
       21日 29316歩 19943m    87
         22日 22487歩 15291m   89
       23日 17813歩  12112m   89
       24日 24563歩 16702m   86
         25日 10144歩    6897m   82
        26日  25509歩   17346m    87
       29日 29975歩  20383m   90
         31日 25485歩 17329m  90

         Total  488053歩  331877m 

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      10月   425974歩  291133m 
     11月   468475歩  322635m
     12月   458508歩  311674m
      1月    427959歩  295002m
      2月    396480歩  269597m
      3月    441295歩  300095m
      4月    549318歩  373403m
      5月    567095歩   381612m
      6月    453428歩    308253m
      7月  481400歩    327338m 
      8月    488053歩  331877m 

    8月は一族旅行もあって月間300kmを下回ると思っていたが、集計してビックリ。なんと、歩数・距離数ともに過去3番目の記録なのが意外だった。休んだ日が多かったので、あらかじめ歩数を伸ばそうと日々意識したことが数字に表れたのだろう。途中集計は一切しないで月末に計算するようにしている。その方が楽しみが増す。かつ丼のかつを最後に食べるようなもの。

    ウォーキングも結構マメにやるが、何かにつけてそうなのが自分の長所であり短所でもある。決して真面目一途な性格ではなく、行為を遊びに代えて楽しむところが何においても継続の要因か。真面目な人間がどんなかは、真面目な人間でないのでよく判らないが、真面目さとは自分に強いることか?それとも強いることナシに真面目に考え、真面目に行動する人なのか?

    その辺はよくわからない。真面目の定義もいろいろあると思うが、一般的に言われるところの真面目さ、真面目人間と言うのは、ある程度共通した定義があるようだ。例えば女に交際を求めるときに、「真面目に付き合ってください」という言い方があるが、この言い方は自分的には嘲笑もの。「よくもあんなこと言えるよ」と、白々し過ぎてケツが痒くなりそうだわい。

    が、そういう言い方が似合う奴はいる。似合わない奴も言るが、それでも言ったりする。これを女たらしの友人が、「口説き言葉に結構使える」と言っていた。女が喜びそうな言葉だという。意味は分かるが、死んでも言えない、こんな言葉。というより、絶対に言いたくない言葉。そもそも「真面目に付き合う」という意味がワカラン。中学生の男女交際じゃあるめ~。

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    人間社会には様々な言葉があるが、その中でいくつか好ましい、あるいは好まれる言葉がある。「真面目」はその筆頭だろう。お見合いの釣書の定番として、「お酒も煙草も博打もやらない真面目人間です」などと書いたりする。自分を真面目と言えるのが凄い。だいたい「釣書」という言葉、釣るために書いた「釣書」なら、魚を釣るみたいに餌を撒いて相手を釣るのか?

    といいつつ、実は「釣書」は以前調べたことがある。お見合いの身上書をなぜ「釣書」というのか疑問を抱いた。しかるに「釣書」の由来は、魚を釣る(ように相手を釣る)といった不届きなものではなかった。「釣る」は「吊るした」との意味で、本来は血縁関係などを示す「系図」を意味し、氏名と氏名を線で結んだ様が文字を吊るしたように見えることから「釣書」となる。

    したがって、「吊書」ともいうが、本来は「衡書」が正しい。両家の釣りあいが取れているかどうかを、系図にして見るためのものであった。封建時代に武家同士の縁談に用いられた。現代では学歴・職歴の他に身長・体重や、資格、趣味、特技、宗教なども書いたりする。さらに備考欄にも希望女性の要点や、自己アピールなども盛り込まれるが、「真面目」もアピールなのか。

    結婚は家庭をつくるためであり、家庭を作る能力という意味でいろいろ書くのだろうが、近年の離婚の多さの要因は、家庭を維持する能力に欠けた人間が多いからと推察する。「作る」というのは意志であり、意志は強さに由来するとするなら、「作る」能力は積極的な強さであり、「維持する」能力とは消極的な強さであって、「強さ」をなくした人間が家庭を維持できない。

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    家庭崩壊は浮気の露呈で一気に終焉することもある。が、昨日「暮らしニスタ」というサイトが、離婚申し立て理由のベスト10を掲載していた。結婚は簡単だが、離婚が簡単でないのはその理由云々よりも、離婚に踏み切れない精神的要素が多いからで、確かに離婚申し立て理由なるものはあるが、それはあくまで書式であって、そこに至る苦悩や迷いは誰にでもある。

    離婚については幾度もここに書いた。離婚は決して悪いことばかりではないし、離婚原因の第一位は、不貞行為を超えて男女ともに性格の不一致となっている。性格の不一致とは抽象的だが、離婚申し立てにおいては便利な言葉である。考えてみれば性格が一致するなんてことがあり得るだろうか?同じ性格傾向よりも、真逆の性格の方が互いを埋めあっていい場合がある。


    したがって「性格の不一致」というのは方便であって、差し障りのない言い方でもある。外に出たい妻と家でゴロゴロ好きの夫、節約妻に浪費夫、清潔好きの夫に自堕落妻など出せばいくらでもあるが、互いが結婚するまでは別の環境に住んでいたわけで、一致する方がどうかしている。まあ、不貞は別にして離婚の大半が、米粒のようなことが一俵だわらになったのだろう。

    新聞や雑誌の離婚相談の多くは女性であり、相手の悪いことばかりを気晴らしのように書きなぐっているのが多い。まともに読めば気の毒な部分もあるし、ヒドイ夫だなと言えるが、これは一方的に書いているからである。果たしてけしからんのは夫だけなのか?何事においても一方だけが全面的に悪いということは、停車中のクルマにぶつかって来たを除いてそうそうない。

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    恋愛し、結婚したが、五年も経って子どももいるのに夫が遊び歩いてるという相談でも、妻に精神的な過失はないのか?いや、それよりもこの男と結婚を決意したのは妻ではないのか?自分で選んだ相手を自分で貶すのは、貶しのあれこれを聞いてくれるところがあるからだ。本来は自己責任であり、言って行くところなどないハズ。よって人生相談とは愚痴や不満のはけ口の場。

    結婚が予定通りいかないのも当たり前である。男と女ほど計算通りにいかないものはないだろう。それを前提にどういう解決方法をとるかも能力である。問題解決能力と言う。問題解決能力とは、数学で100点取ることではないのよ。世の中で、今目の前に起こっている答えのない問題に、いかに答えを出すかという能力であって、学問の秀才や才媛など関係ない。

    人生相談に名を借りた、腹いせや不満のはけ口に女の情念をみるが、心につっかえたものを吐き出さないと思慮が乱れるのだろう。男は我慢、じっと我慢、我慢を強いられて育ってきた。最近の不抜けた若者は、我慢をさせないように親に育てられた向きが見えるが、「やせ我慢」、「武者震い」なんてのは男の言葉である。男の我慢は男の価値を高めるものだと考える。

    だいたいにおいて、他人を攻撃できるうちは、人間は罪の意識を持たないものだ。「私も悪いけど…」と前置きし、その10倍も悪口をいう女がいる。男は人の悪口を嫌う。相手も聞いてくれないし制止させられる。だから、男たちの中で悪口の花は咲かない。女は相手が聞いてくれるし、聞く側も一緒になって三昧する。女は批判型というより同調型、あるいは一緒になって非難型だ。

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    人間の思考回路は自分に都合よくできていて、攻撃心が外に向くことを許される人間は、なかなかどうして自分を責めることをしない。外罰型傾向は女に多く、悪いことは何でも相手に押し付ける人間には、徹底的な処罰を与えるしかない。それでやっと自分を責めることになる。罪に対する罰の本来的な目的というのは、犯罪を起こした人間を内罰型に誘うことである。

    男がよい思いをした時代も確かにあったし、それは女が虐げられた時代でもあった。男と女の性差を考えると、ある意味それでよかった部分もある。女の我慢強さは男の比ではないと知られている。生物学的にも男は脆弱だし、だから母親は男の子に我慢を強いる教育をした。昔の母親は男を強くすることが一義であったが、浮かれた現代は、男の子を賢くしたい母親に変貌する。

    女の武器は古今を通じて口である。だから、言い訳や責任転嫁で身を守る。男の一般的な身の守り方は争うこと。格闘であるがそれは知性なき男。松下幸之助は「知性なき男は汗をかけ」と明言を吐いた。肉体労働の勧めである。たしかにこれなくして橋もビルもできない。女がどのように強くなろうとも、そのことは一向に構わないが、言い訳や責任転嫁では困る。

    強くなったら強くなっただけの責任を取るべきである。家庭を取り仕切っている妻が、子どもに問題があると夫を責める。他人のせいにして自分の罪を軽くするのだが、そんなことは企業や会社では許されない。家庭の権力者はイコール責任者であって、責任者というのは、責任を取る人をいう。法律で男女平等になり、女性上位と言われながら、よき社会になって行ってるのか?

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    いかなる社会においても権力者は存在する。為政者という意味での権力者は必要な存在である。が、よき社会というのは、権力者が責任を取ることではないか。そのためには責任感の強い人間が権力者であるべきだ。「男でしょう?」、「男なんだから!」はポジティブな意味で言われるが、「女の子だから」、「女性は特別に」などは、配慮として与えられる場合が多い。

    映画『歩いても 歩いても』の恭平の妻とし子だが、夫には反抗しないいわゆる良妻賢母型である。が、よくよく眺めると、威張って君臨するプライド高き町医者の恭平について、、彼の自尊心を歪めることなく夫唱婦随に徹し、精神的に君臨しているのは実はとし子であるのがわかる。男なんていくつになってもガキ大将、威張らせておけばイイ子をしてるものだ。

    夫の操縦法に理知的だった昔の女性は、男に従属することで弁証法的にいえば男を隷属させている。男には責任を取らせるべきだし、男は責任を取るべきである。それが家の対外的な「顔」でもある。奥様は「奥」にいるから奥様であって、奥様が前面に出る家庭を否定はしないが、ならば一切合切女が責任者となるべし。都合のいい時だけ夫を表に出すのは見苦しい。


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  • 09/04/16--16:56: 「真面目」の未来学
  • 自分という人間の好きなところは何だろうか?と、まあこういう風に何事も疑問や問題提起をするところかも知れない。そのことに、「事の大小」はなく、どんなことでもひたむきに接することか。接するとは考えることもあれば、行為もある。自分は自分の定義では、「真面目」な人間ではないが、たまに人から、「真面目ですね」と言われると、面白いと感じる。


    イメージ 1なぜこの人は自分を真面目と言う(見る)のかの面白さ。について、相手の視点で考えてみたりするところ。人には人の見方があるのだが、人の見方を否定・肯定する前に、「なぜそう思うのか?」を思考するくらい時間や度量はあってもいい。何事もハナっから否定したがる人はいるが、否定の後にその理由を言うならまだしも、言わないで否定だけの性格である。

    「安倍総理はダメだな」と切り出し、「なんでだ?」と聞くと、「そう思わないか?」と振る。自分で切り出しておいて相手に同調求めるのか?「そう思わないけど何でだ?」と問い返した後が問題となる。仮に自分が安倍総理はダメだと思っていても、相手が振ったことの意見を言わせるためにあえて、「何でだ?」といわせる場合がある。いや、必要がある。

    自分の意見を言わず、人の尻馬にのって批判する人間かどうかを見るためだが、その手の人間は結構いる。批判を言うからには責任をもつべきだし、でなければただの悪口である。男の世界観としてそういうのはつまらない。ちゃんと意見をいってこそ論理であるが、男の世界観に限定はしない。そういう女性は論理的だが、感情的な批判だけでも女性的と容認している。

    いちいち突っ込んでも相手は困るだけで、それは女性いじめだと思っている。が、男にはそうは思わない。男女差別なく同じように接するのがいいし、正しいと思うが、差別というより区別と考えるのも、これまでの経験則だ。「男女差」という言葉は差別ではなく区別に使うこともあるのに、区別を「差」というのは適切なのか?もっとも「男女差はない」と言いたがる女性はいる。

    本当にないなら男も楽だが、世間は「配慮」という言葉で男女差を承認することが多い。配慮というのは「いたわり」だと思っている。高齢者への配慮、未成年者への配慮と同様に女性に対する配慮は存在する。「配慮なんて面倒くさい、そんなもん必要か?」みたいなことを言いたがる奴はいるが、配慮が面倒という人間は、本質的な優しさが欠けているのだろう。

    「配慮」は優しさから出てくるものだと思う。常々「配慮」なる意識は持っているが、「女性に対して配慮がないですね」と言われることもあった。今ではなく過去であって、今では配慮についての認識がかなり高まってきたからであろう。「配慮認識テスト」があれば70点の及第点はとる自信がある。それでもブログに女性観を書きながら、立腹する女性はいるかも?

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    と思うことはある。男に比べてよくあることだが、「女性は〇〇なところがある」、「女性は××だしね~」という一般論を言ってる矢先に、「何でそういうこと言われなきゃいけないの?」、「上目線で何を気取ってるの?」など言ったりする。「お前のことを言ってるんじゃないよ」とフォローすると、「そういう言い方むかつくんだよね」と、ご機嫌斜めもいいとこ。

    こういう場合は結構腹が立つ。一般論を自身と勝手に曲解し、誤解とフォローしたにもかかわらず、それでも理解できないのか、矛をおっ立てたままでは、怒りも当然であろう。怒りにもいろいろある。声をあらげ態度に出す怒り、成り行きを静かに傍観する怒り、いっぺんに口を利く気をなくす怒り、理路整然の言葉で相手の気持ちを鎮めんとする怒り。最後も一応怒りである。

    優しさという怒りだが、それさえ通じないで乱れた情緒が抑えられない。男なら即座に「お前のことを言ってるんではないだろう?耳があるなら穴をほじってよく聞けよ!」と遠慮ナシに通告できる。それで「そっかー、わりい」となるのが男である。こちらの立腹を感じて、自分の不備・勘違いを許すという、謝罪に近い言葉である。が、情緒の荒れた女はそう簡単ではない。

    そういう時に女は、相手に「ごめん」を求めている。自分の怒りは相手のせいだから、謝ってもらわなければ収まらないということか。「勝手に思い違いをして、説明しているのに耳を貸さず、俺を罪人扱いするなら、お前みたいなバカとは口を利けんな!」というしかない。こういう外罰型女には徹底的な処罰を与えてこそ、やっと自分の非を責めるようになる一例だ。

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    何でも相手の非にし、相手に非を押し付ける人間にもっとも効果的な対処法。愚かな罪を犯し、それでも自己の論理で罪を認めない犯罪者は多いが、死刑判決でやっと目覚め、改悛する人間もいる。すべては遅きに失すだが、人間がそうであることは珍しいことではない。自尊心が強く、我がまま放題の女が、男に逃げ去られて、やっと彼がどれほど自分に大切かを知る。

    失ってみて分かる女は、失うまでは自分を客観的に見ていない。自分しか見えない、相手のことなど、相手の気持ちなど考えない女だろう。そういう女性は、お灸をすえられてやっと自身の至らなさに気づく。それまでの主観的な行動が嘘のように自分を客観視できるようになった。これはどうにもならない状況にのたうちまわって、自己変革を決心した利口な女の類である。

    女を分からせるために男は毅然とすべきである。毅然としなければおそらく分からないままであったろう。相手を許容するにもほどがあり、あまりの害悪を許容するのは、相手の世界にっもうひとつ別の世界をプラスすることになる。これは真実とはいえない。真実は一つであって、相手のもつ世界をガタガタに壊して、はじめて真実である。だから、男は女に厳しくあるべきだ。

    逆もある。働かないでヒモのように依存し、女に尽くさせて色男ぶってる男を、惚れた女の弱みというのは演歌の世界だ。そういう男を立ち上がらせ、真の男にするには男の甘えを許さぬこと。厳しい言葉で真実を女に突き付けるのが賢い男であるように、グータラ男を甘やかせる女は賢い女とは言えない。相手がバカならどちらかが賢くあるべきだが。

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    相手がバカなら自分もバカは平和であるが、弱者の共同体である。人間は不思議なもので、相手が弱いと手加減する。自分も将棋を指すとき、なぜかそうなる。が、心を鬼にして負かしに行くのは、例えば自分の子どもであったりするが、それを本当の愛情と考える。相手が弱いと手加減するのは、相手が弱いと思えばこその手加減であり、それを蔑みという。

    逆に、相手が強いと思えば人間はどんなことでもできる。だからか、そうした意味で、互いがどんなことでもできる人間関係こそが、人の目指す関係であろう。「何も言わず、見て見ぬふりや、心地いい同情や加減であるより、どんな冷酷な真似さえできる間柄こそ、もっとも理想的な関係かも知れない。真の誠実さとは何か?相手にも自分にも嘘をつかないことであろう。

    それに耐えるだけの強い精神の持ち主がどれほどいるだろうか。曖昧で欺瞞に満ちた人の世にあっては、真に心やさしい者が、時には冷酷と断罪される。いうまでもない誤解であるが、善悪を超えて物を言うことが許されない場合は結構ある。昨日、遅ばせながら『シン・ゴジラ』を観にいった。7月29日公開だから一か月以上になるが、観ない理由は観たいと思わなかった。

    日本で生まれたゴジラは今やアメリカに出没するが、日本に帰ってこられてもね~。予想に反せず、感想はつまらなかった。ゴジラ映画に名を借りた、官僚の意思決定におけるドタバタ喜劇であった。規則や制約にがんじがらめの日本にあって、首相でさえ内閣の一員であって、善くも悪くも日本的合議制である。「公務員的」という言葉を改めてこの映画で実感させられた。

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    そうした閉塞的な日本的美意識にあって、新しい形の官僚が今後の日本をリードしていくべきとの、観測が見えた。内閣官房副長官矢口蘭堂の奮闘ぶりが際立っていた。新しい時代の指導者は、日本的な「和」、「因習」、「旧態依然」に縛られていてはダメということ。降って沸いたパニックに苦悩する国のトップ。が、もっとも苦しいのは、苦しむ側でなく、見ている者。

    小説『ジャン・クリストフ』のなかにそれと同じ箇所があった。見る側の苦しみに耐えることのできる人間こそが何かをなし得る。マキャベリーも政治の世界から宗教や道徳を切り離したが、その理由というのが、政治の世界にはそれらとは違った法則があることを見抜いていたからだ。あらゆる仕事の世界とは、感情的なものとは違った法則に従って生きるしかないのだろう。

    漱石は、「真面目とは行動すること」といったが、その点でいえば自分は真面目かもだが、真面目を保守的とするなら自分は大変に不真面目であり、真面目とは古いものを壊すことにも当てはめられるべきと考える。未開社会研究のある学者がいった言葉。「古代社会というのは、あまりに我々と違いに驚くが、またあまりに我々と同じであるのに驚く」。なるほど…


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    イメージ 1「『死ぬ』とは何かを考えたが、答えは出せなかった。それが答えだ」。と聞いたようなことを言う奴がいた。「答えは分らない。それが答えだ」の言い方をカッチョいいと思っているのだろう。ウルフルズに、『それが答えだ!』という曲がある。知らない、聴いたこともないが、歌詞の内容は、いかなる問題、いかなる事においても、「それが答えだ」。が、「答えは分らない、それが答えだ」と言ってない。「分からなくても、分らないなりに答えは出るだろ?

    答えは分らない。それが答えだ。などと気の利いた言い方をカッチョイイせりふと思ってるんだろうが、カッコよくはないな。どんな答えであれ自分なりの答えは出せると思うけどな」と、言いたくもなる。こういう言い方をする奴ってのは、どことなく気取った奴だし、そういう奴は気の利いたセリフをストックしている。答えを出すとはいえ、正解である必要はない。

    それぞれの人が意見し、それぞれの答えは出せばいいのだが、「正解が分らないから答えを出せない」というのは逃げだろう。間違って笑われるくらいなら、言わない方がいいと、こういう性格所有者はいる。なぜに間違いを怖れる?笑われることで自尊心が傷つくとでもいうのか?間違うことが怖いというのは、間違うことで恥ずかしい思いをするのが嫌なのだろう。

    「いいではないか!」間違ったところで、それが何だという?間違うことが恥という感覚は理解できないが、誰だったか、「プライドの問題かな?」と言った奴がいた。その程度で傷つくプライドは、腰抜け野郎と言うべし。プライドの正確な意味は、「誇り」、「自尊心」、「自負心」であるが、「うぬぼれ」、「傲慢」、「虚栄心」などと、悪い意味でもしばしば使われることもある。

    どちらにしろ人間の大切な心を表す感情で、人には誰しもプライドはある。このプライドが人によって高かったり、低かったり、中程度であったりする。それが人間関係上において、さまざまに影響する。高い場合、低い場合の影響はわかるが、中庸であっても影響はあるらしい。人間にとってプライドは高い方がいいのか、低いほうがいいのか、普通に中庸が無難なのか?

    いろいろな人間を思い浮かべて思考するに、「答えは分からない、それが答えだ」。を自らに向けて言って埒があくのか?考えるのは答えを求めるからだが、考えても答えがでない問題はいくらでもある。これを能力と言ってしまえばそういう事だ。ウォーキングをやってるというと、「歩いてるならポケモンGOやったらいいんじゃないですか?」と、言ってきた若い男。

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    ポケモンGOの知識はまるでないし、言われても意味がわからない。歩いているときは何かを考えることが楽しい。思考すること以外にすることがない。ヘッドホンで音楽を聴くことはできるが、思考の邪魔だ。トイレでうんちingタイムも同様、考える以外にすることはない。読書にも最適であり、ストーリーを目で追う小説などよりも、哲学書などの方がふさわしい。

    「死」についてはさまざま考えるが、死んだ経験のない人間に死が分かるのか?状況はともかく死の実体については分らない。ならば死を経験すれば死が分かるのか?それもないだろう。我々が「死」といっているすべては他人の死であり、自分の死は自分に存在しない。人間は死に、自分も死ぬが、人は誰も自分の死を体験しないし、自分の死というのは他人の体験である。

    「死にたかった。だから自殺をした」。まあ、そうであろう。死にたくないものが自らの意思で死ぬことはない。死を科学することは可能で、死を哲学することもできるが、残念なことに死は経験できない。いかなる人間も、他人の死をもって自分の死を想像するしかない。17世紀の哲学は、「実体」を原理とし、18世紀を支配した哲学は、カントに代表される「理性」であった。

    19世紀に入って「生」がはじめて哲学的範疇の仲間入りをする。そしてニーチェを経て、20世紀に及ぶ「生の哲学」の要素は、ショーペンハウエルから享受する。「生」はいうまでもない「死」の対極、反対概念である。「生」そのものを理性的に考えたところで、生きるというのは、一般的な人の盲目的に突き進むところの、理性で把握できない非合理な衝動であろう。

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    世の中(人間の社会)が非合理ということでもある。だから人間は物事を合理の範疇に押しとどめようとするが、決して押しとどめられるものではなく、だから哲学が必要となる。生は意志であり、生の意志をなくすものは死に至る。したがって意志があれば生があるが、生とは過去や未来ではなく、「現在」という時が生の実態である。よって、主観的な生とは、「今でしょ!」となる。

    「現在」が意志から逃げることもなければ、意志が、「現在」から逃げることもない。とならば、意志の表れである生は、「永遠の現在」と同じである。この観点に立てば死など恐れる必要もない。人間は個体として滅びはするが、哲学的な「死」は恐れるものではなく、死の恐怖は錯覚として追い払うべきもの。死は現在を失わせるという考えすらも錯覚とするのが哲学である。

    ショーペンハウエルという人は、釈尊の教えに多大な影響を受けた。彼はすみやかに終点に辿り着くこと、つまり自殺によって生、即ち死の恐怖を超えようとした。これらからショーペンハウエルは自殺肯定論者と見なす人は多く、しかしそれは大きな誤解である。確かに厭世の究極が自殺であるかの考えはあるが、世を最悪視するのと、世を儚んで自殺する厭世主義とは別だ。

    インドには「ヴェーダ」という宗教文書がある。紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけて編纂されたものだが、「ヴェーダ」とは元々知識を意味する言葉。そこに以下の教えがある。「人が死ぬとその視力は日と一つになり、嗅覚は地に、味は水に、聴覚は空気に、言語は火に合一する。すなわち、死んで人の力はことごとくその子に伝わり、それによって永続する」。

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    対手がどう解釈しようが、なるほど、教えとはこういうものであろう。上手い言い方だなと感心する。人間の占める場所など、宇宙の小さな点に過ぎない。が、個人の真の存在は「現在」のうちにあり、個人の現象としての存在は、時間の流れのなかにある。この現象という次元で見れば、個人の過去の生というのは、現在へと引き継ぐ役目を終えたところで、もはや死以外のなにものでない。

    したがって、人の生の過去の内容が苦痛であった、快楽であったは問題とならない。と、ショーペンハウエルはこのように考えるが、人はいろいろだ。それぞれの人はどのように考えるだろうか。確かに、過去は現象を生まない点において死んでいるが、過去は記憶の中に生きている。記憶(過去)にどういう意味があるのか、あるいはないのか、あるいはどう意味づけるのか。

    過去を重視する人、過去に見向きもせず、常に未来を生きる人、そうした様々な人間を見て来たが、問題の核心はは自分がどのような考えに至れるかだ。過去という非生産的なものを無意味とする人間は、ある意味偉大かなと…。常に前しか見ない人間は自分の周囲にも大勢いるし、筆頭として浮かぶのはイチローである。最近、驚いたCMがある。

    「イチローが嫌いだ」。

    「あの人を見ていると、限界という言葉が言い訳みたいに聞こえるから」
    「あの人を見ていると、自分に嘘がつけなくなるから」
    「あの人をみていると、努力すら楽しまなきゃいけない気がするから」
    「あの人を見ていると、どんな逆風もチャンスにみえてくるから」

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    これは新しいタイプのCMの形で、世の中の変化ともいえる。なぜ、こういうコピーができたか、イチローを見れば分かるし、イチローを見ていれば自然と思いつく。つまり、イチローは人から嫌われる生き方をしているように見える。どういうことかといえば、他人に媚びない、おもねない、他人の称賛に一喜一憂しない、そうした自己一辺倒主義が、自己中のように見える。

    だから、「イチローは嫌いだ」というのは、「和をもって尊しと為す」の日本人気質に背いている。CMはそうしたイチロー的生き方を逆説的にとらえ、そういう人物を嫌うのは間違っている。そういう日本人であることはもう、「およしなさい」と、新たな日本人観を推し進めている。他人に媚びず、おもねず、称賛にも動ぜず、常に自分を見つめて生きていく。

    新しい生き方というより、そういう生き方を苦手とする日本人、他人を見て暮らす日本人への警鐘である。イチロー的生き方を非難する理由は何もないどころか、間違っている。「イチローは凄い」、「イチローは素晴らしい」はクズ籠行きの言葉。今やイチローは日本人にとって反面教師として、新たな日本人的価値観を作っている。今の社会に「偉人伝」など無用である。

    それほどに情報化社会になった。もはや嘘や虚飾は誰もが見抜ける時代になっている。人に好かれる人間の虚像を追うよりも、人に嫌われる人間の、「嫌い」の部分に、実は素晴らしいエキスがあることを日本人は見抜いていくべきである。それをなされないでは、いつまでも小物的日本人で居続けるしかない。言い訳と理論武装で巧みに生き抜いていける時代ではない。

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    他人にちやほやされて生きる人間のなんと脆弱であろう。「勝って奢らず、負けて腐らず、喋らず」は将棋をやることで身に着けようとした生き方である。心の狭い人、人間の小さい人は、負けても自慢する。言い訳ならまだしも、負けて自慢する人は、勝者を認めたくない。あまりの傾向の強い人にはそれとなく言っておく。「言い訳して強くなるわけではないですからね」。

    何にしても、言い訳をしたから罪が免れるわけでもあるまい。あまりに見苦しい言い訳だが、言わねば生きていけないなら、それ自体が見苦しい。遅刻の言い訳がくだらないと思った自分は、どんどん昇華し、すべての言い訳が醜く見苦しいと思えるようになった。勝った相手が、満面の笑みを隠し、「暑いから調子悪かったんですね」などと謙遜した言葉をくれることがある。

    そんな時は、「とんでもない!力を出し切って負かされました」というようにするが、相手に敬愛心を抱く自分が好きだからやれる。「暑いから調子悪かった?」と謙虚な物言いの相手に対し、「ちょっと体調がね…」などと返す人間は、自分からみてバカである。バカは確かに多い、そんなバカにはなりたくないし、人にバカというのは、自分を戒めるためでしかない。


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    表題は誤解を生むかも知れない。誤解は構わないが、上沼ファンのために少し弁解しておく。もし、上沼と同じ言葉を自分の面前で吐く奴がいたら、「人前でなく鏡に向かって言ってろ!」くらいは言う。彼女の、「過保護が服着てしゃべっている」の言い方は、見えない他人の家庭に立ち入る妄想言葉で、上沼に向かって、「ブタが服着てしゃべってる」と同質の暴言だ。

    確かに女同士の悪口は見境のない言葉を聞くが、悪口好き女とはいえ、公共の電波には節度があるはずだ。将棋に「ブタの手」というのがある。共通用語ではないが、ある棋士が、ある棋士の対局を大盤解説する際にテレビで述べた言葉。解説のある棋士とは先崎学九段、対局棋士は先崎の師匠米長邦雄永世棋聖である。米長は2012年12月18日に他界した。享年69歳。

    それにしても師匠の指した手を、「ブタの手」と言える先崎のやんちゃぶりがユニークだが、師匠の米長といえば、負けず劣らずのやんちゃ棋士で、そこは師匠譲りとするなら、米長も反論はできまい。おそらく、「ブタの手」なる言葉は、将棋の長い歴史のなかで初めて口にされた言葉であり、あまりの品の無さか、以後踏襲されることもなかったが、「クソ手」というのはある。

    「クソ手」は下品というより、「クソ~!」、「クソったれ!」は日常用語だから、さほど下品とのニュアンスはないが、「ブタの手」の意味を想像するなら、「くだらん手」、「笑いもの(ブタを笑いものとする風潮から)の手」の意味であろう。自分はこの場面を放送で観ていたが、発言したのが先崎ということで、「らしい」との印象だった。師匠も許すだろうと。

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    先崎のこの発言は、実は師匠に対する恨みつらみがあったといわれている。大山康晴十五世名人の葬儀を欠席した先崎は、羽生に「香典出しておいてくれないか。お前と同額でいい」と頼んだところ、羽生が数十万包んだ件について、「あいつおかしいですよ」と師匠(米長)に言ったところ、「大山先生の葬儀に出られないほどの用とは何なのか」と叱責された。

    ばかりか著書で、「こんなつまらない若手がいる」とネタにされてしまった。そのことに対する意趣返しと言われている。「師匠のクソったれめが」は腹に据えかねていたからこそ、思わず出た言葉であろう。先崎のことを周辺から耳にした米長は、先崎のいるスタジオに電話を入れ、「師匠の指し手をブタの手と言っている者がいるらしいが…」と皮肉交じりに言ったという。

    対して先崎は、「師匠もヒマだな~」と意に介さず、テレビで発言した。何事も「度」が過ぎれば笑いになることの見本のような師匠と弟子である。さて、「ブタの手」はともかく、上沼恵美子の、「ブタ発言」は、関西ばばぁのどぎつい言葉として、大阪では笑いで済まされようが、「上沼・高田のクギズケ!」は関西・中京と一部日テレ系ネットで首都圏での放送はない。

    とはいえ、近年はネットでの拡散が早い。上沼の発言は4日放送の上記番組の中で、高畑敦子の会見を、同じ息子を持つ母親として、8月26日の会見を穴が開くほど見たという。それで、「過保護が服着てしゃべっている感じがしました」、「芝居がかっている」、「息子にホンマに怒ってない」、「被害者が見えてこない」などと厳しい口調で親子ともども猛批判した。

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    息子に対する批判は、祐太が芸能界入りのきっかけとして淳子の舞台に感動したことを挙げていることに、「その時点で甘い。どの世界に行っても怠け者で、母親の舞台に感動したというよりも芸能界が、『楽やなあ』と思って入った。母親もバックアップしてくれるし」と、俳優としての意識の低さについて持論を示した。まあ、上沼が女優だったら息子も感動したかもしれんな?

    さらに、「朝の連ドラ、そんなとこいくのに何年かかる、普通。それは後ろに高畑淳子が見えるから、プロデューサーも起用したわけで。七光りを全部知って、受けている」、これを「悪賢い」と批判したが、ここまでいうと、悪口より妬みに聞こえる。“西の女帝”と称され、大阪では「見ない日がない」といわれる上沼出演の毒舌番組は、高視聴率を記録している。

    「悪口大好き」を公言する上沼であるが、悪口にも節度はあろうし、大阪のおばちゃんの節度は大阪のおばちゃんらが決めることになる。が、大阪以外の人間が上沼の発言をネットなどの記事で見れば、当然に批判があがる。ただし、「私は関西の人間やし、関西人が楽しんでくれたらそれでいい」くらいでないと、上沼のようなハチャメチャ発言はできないだろう。

    批判を恐れず、むしろ関西以東の批判は織り込みづみと推察する。関西ローカル局もそういうものだとの認識だろう。多少の偏見はあるが、大阪人は、「人を食って生きている」。といっても食人種ではなく、「人を食ったような発言が、関西人の醍醐味」くらいは自分も分かっている。上沼の発言にも、「大大大大大賛成!私もそう思う!!!」などエールは少なくない。

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    それに対する上沼発言への批判は、冷静な言葉が多い。「会った事も無い人の事よくそこまで言えますね。必ずこういうの出てくるね」。「文句言うのは簡単やねん。自分とこたまたまなんにもないんかもしれんけど、頑張って死ぬ気で育てても、子供も十人十色やからね。親も初心者やし」。上沼は著名人ならもっと自分の発言の意味、影響力を考えてしかりだろう。

    「子どもがいるくせに、子どもが犯罪を犯してしまった親の気持ちがわからないのか!?あなたならどうする?と聞きたい」。「親が子を守ろうとするのは当たり前のこと、後は司法に任せて、芸人は芸を見せればいい」。などの理性発言は、上沼のような感情が道を歩いてるような人間には無理。つまり、理性がない(=上沼に思考能力まるでないい)ブタの発言だ。

    これくらいの芸歴のある人間だから、わざと問題発言をし、番組の存在度、周知度を高める意図もあるだろうし、スポンサーや制作サイドはそれが判っているから、取り立ておとがめもしない。芸能人は話題を振りまいてくれれば、それが視聴率に反映する。大阪人の節度は大阪人が判断するように、大阪人は、何を言ったら大阪人が喜ぶかを念頭において発言するようだ。

    「よう言うてくれた」と、喜ぶ人は喜び、「言い過ぎだ」と責める人は責める。それが雑多な社会であるが、「節度」とは恣意的にならず、理性を加味すべきものと考える。自分も高畑親子に言及した。が、母親の言葉ジリや、息子の祐太の過去の言動を問題にする気はない。過去が良かろうが悪かろうが、人間がある日突然犯罪者になったりする事例を多く見聞きした。

    イメージ 5人が何たかの事件を起こした後に、過去のアレコレが堰を切ったように噴出するさまは、あまりに子どもじみている。未来は過去の蓄積という部分もあるが、人はある日を境に別人になることもあるわけだし、後だしじゃんけんで得意がる卑怯者を自分は好まない。高畑母子批判の泉谷しげる、RIKACO、高橋真麻らに対する自分の批判は、下に示す通り理性的である。

    泉谷の「歯ブラシくらい自分で取りに行けよ」は筋違い、会見場で「息子を怒れ!」一点張りのRIKACO、「父ならあんな言葉はでない」の高橋にも、母と比べるな。我々は他人の息子の母親に、どれだけのことが言えるだろうか?批判はしても、出過ぎた批判は自分の無知を露わにしたようなもの。したがって上沼自身の意図や思惑も含めて、彼女の「ブタ発言」とだけしておく。

    同僚が長嶋一茂に、「長嶋茂雄ってお前の親父か?」と聞くことはなかろう。聞かずとも分かっていることだが、一茂の気持ちになってみれば、「何で自分の父は長嶋茂雄なんだろうか?」という苦悩はあったはずだ。上沼恵美子の息子たちは中高生の頃から「上沼恵美子の息子」と学友にからかわれることが多かったらしく、上沼恵美子自身が怒鳴り込んだこともあったという。

    怒鳴り込むのが間違いともいわぬが、息子たちによくよく話して対処法を模索する方法はあったろう。親が乗り込んで解決するのは過保護では?まあ、上沼らしい行動だが、上沼はこのように子どもを諭したという。「この家に生まれたからあんたら他の家よりいい肉食べてるやろ」、「他の子らは行ってへんハワイに、あんたらは何回も行ってる」。これも子育てである。

    親の言動は別の親から見れば批判はあるのは当然で、わざわざ他の親の批判をあげつらうことをしなくても、違いを認識するだけで糧にもなろう。ブログは自分の意見を書き、自分と問答・対話する楽しさがある。歩いているときも一人問答すればあっという間の2万歩だ。しかし、消えて残る問答内容を、ブログなどの文字にして残すのは後で読む楽しさがある。

    自分の文を読むのは客観的で面白い。考えているときは主観だが、書いた文は客観的である。「こんなこと書いたのか?」と疑いながら読む。自分の意見に他人がいちゃもんつけても、違って当たり前だろ?と動じない。気にもしない。反対に、「共感します」と言うのもあるが、生まれも育ちも違う人間が、考えが違って当たり前のように、同じ考えに帰することもあろう。

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    と、これも気にしない。考えが同じだからと言われて喜ぶこともないのは、違って気にしないと同じ理屈である。同じを喜び、違いを憎むなら論理の一貫性がない。違って当たり前の中で、同じ考えもあってしかりで、嬉しいレベルの問題ではない。社交辞令は言うかもしれぬが…。批判に動じないなら、賛同にも動じないでなければ、嘘をついていることになりはしないか?

    どちらが先でもよいのだが、もし、他人の批判を気にしない、動じない生き方を目指すなら、とりあえず賛同に動じない訓練をするのがよい。褒めたのではない、たまたま考えが同じであるのを、それほど喜ぶのは可笑しなこと。が、折角褒めてるのにそっけないし、褒めて損した気分という人間は、見返りを求めて人を褒めない方がいい。他者への声なき称賛こそ真実かもしれん。


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    イメージ 1上沼の発言に対して、元宮城県知事の浅野史郎氏は「言い過ぎだ」と反論。「お母さんというだけでこんなに厳しくしていいのか」と続け、逮捕後、共演した芸能関係者から「あいさつできない奴」、「芸能界の仕事が減るぞと言った」など、裕太容疑者への批判が相次いでいる現状についても、「親の責任だけでなく、周りの責任というのもあるのではないか」とした。

    「強姦致傷」が軽いとはいわぬが、殺人事件というわけではない。捜査段階で自白し、全面的に罪を認めたといっても、加害者の供述は明らかになっていないし、弁護士に依頼すれば、可能性のある一切のケースを考えるであろう。芸能人でもひときわ有名である高畑敦子を母に持つ祐太というのは分かっており、被害者は本気で抵抗するより、損害賠償を狙ったのか?

    もし、被害者にそういう目論見があったなら、それを暴いていくのが有能な弁護士の仕事である。強姦の経験もないから想像するしかないが、強姦熟達者に言わせれば(もちろん犯罪者だが)、強姦をこちらの思い通りに遂行する場合、まずは相手の頬を一発ぶつなりで、恐怖心を与えて抵抗の意思を奪うことだという。女性の抵抗というのは、それほどに厄介らしい。

    もっとも、ナイフや銃などの凶器で脅すのが手っ取り早いが、頬を強くひっぱたくのも抵抗心を削ぐ。弁護というのは被害者を悪者にするのではなく、加害者の利益に立った場合に、被害者=善、加害者=悪という単純な論理だけで真実の解明はできないし、弁護士業務は成り立たない。犯罪は加害者が起こすが、被害者が犯罪を誘発するケースは少なからず存在する。

    ホテルの従業員を部屋に呼びつけ、殴る蹴るの暴行もなく、ナイフなどの凶器もちらつかせることなく、強姦を果たせたというなら、そんなに簡単にできるものなのか?いかなる手段を講じても、阻止するという気概が被害者にあったのか?という情景は、弁護士でなくとも、男なら想像できよう。本気で抵抗すると仮定した場合、暴力なしに強姦する自信はとてもじゃないがない。

    致傷は、どういう経緯でできた傷なのかにおいても、明らかにされていない段階であれ、とりあえず事件にするのは警察の仕事だが、犯罪というのは様々なケースがある。「強制わいせつ罪」は、合意であれば犯罪とならない。強姦や強制わいせつは、込み入った複雑な事件であって、様々な判例が示している。和歌山地裁で2006年6月に判決となった強制わいせつ事件がある。

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     強姦が減ったのは、女性が抵抗しなかった昔に比べて、近年の女性の強い抵抗が強姦を阻止?


    《被告人は、地面に仰向けに押し倒した被害者の両足の間に体を入れ、両手で同女の両足を持ち上げて膝を立てたような形にした状態で、同女に「俺が一方的にやったら犯罪になるので、お前が入れろ」と命じた、被告人の陰茎を手にした同女が、これを自分の陰部に容易に挿入できなかったため、いら立って「早くしろ」など言って挿入をせかしたところ、とにかく早く射精したいとの思いでその場で立ち上がって同女に口淫させたことが優に認められる》

    口淫のあとに続きがある。《被告人は、その後、泣き出した被害者に対し、謝罪しつつも警察に通報しないよう懇願し、泣き止んだ同女が立ち去ろうとした際には再び性欲を募らせたことから、自己が射精するまで帰らせない旨告げて、同女に自己の陰茎を手淫させ、あるいは同女の乳房を舐めるなど猥褻行為を繰り返し、結局射精し、自己の性的欲望を充足させるに至っている》

    この被害者は16歳の少女であり、これが強姦でなく未遂というのだから、いたたまれない。事件後、被害者は一人で外を歩けなくなってしまった。この事件の判決文の重要箇所を以下記す。《被害者が幸いにして姦淫されるまでに至っていない》とし、懲役5年の求刑に対し、懲役2年半で結審。強姦は性器挿入が判断基準で、挿入なき場合は強制わいせつ罪となる。

    女性の肉体もしくは精神の強迫的拘束なくして、女性の陰部に挿入できるものなのか?男なら分かるがあれはじっとしているから可能であり、挿入をさせじと右に左に腰を動かせばそう簡単ではあるまい。となると祐太容疑者の被害者は強姦未遂ではなく、強姦致傷(警察発表)だから、強姦は完遂している。抵抗すれば難しい性器挿入ゆえ、抵抗はなかったと推認される。

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           抵抗すれば強姦は強制わいせつとなるが、本件はなぜ強姦?素朴な疑問が沸く


    それは何故か?それとも被害者が執拗に拒否をし、腰を振って抵抗したが祐太容疑者は挿入できたのか?裁判で状況が説明されるだろう。《強姦罪》は性器挿入の前に、《暴行または脅迫を用いて》という但し書きがつく。被害者が13歳未満なら、たとえ合意であっても《強姦罪》は成立する。あと、会社の上司が何らかの職権で部下と性行為に及んだ場合も《強姦罪》は成立する。

    もう一つ、専門家以外はあまり知られてないが、「抗拒不能」という用語がある。「抗拒」抵抗の「抗」に、拒否の「拒」であるから意味は想像できよう。抵抗したり拒んだりできない状況にさせてだから、手足を縛る、アルコールや睡眠薬など薬物を用いたケースは「暴行または脅迫を用いて」に補足しきれない。ゆえに「抗拒不能」というケースが必要となる。

    サークル仲間と女子大生に卑劣な行為をしたことで、強制わいせつと暴行の罪に問われている東大4年生、松見謙佑被告(22)の公判が5日、東京地裁で開かれ、検察側は懲役2年を求刑し、弁護側が執行猶予付き判決を求め結審した。5日の公判では、松見被告の母親が証人として出廷し、被害者には6度、示談や面会しての謝罪を申し入れたが、全て拒否されたと証言している。

    被害者を全裸にした上、胸元に熱いカップラーメンの麺を落としたり背中を強くたたいたほか、他の東大生ら4人と共謀し、女性にまたがりキスをしたなどは、「性欲を充足するための行為とはいえず、悪ふざけ的な暴行やいじめの側面が強い」として弁護側は情状酌量を求めた。が、被害者の見地からすれば到底納得できないし、加害者の母親からの謝罪拒否は当然だ。

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           「遊び」を「女の扱い方」に代えて自分は考える。女を遊びの道具に、ここまでやるのか?

    祐太容疑者に強姦された被害者は、あらゆる手立てを講じて拒否したのか、それとも暴行・脅迫を用いられて性行為に及んだのか?あるいは、抗拒不能となる要因があったのか?であるならいかなる要因か?は、当然に湧きでる疑問である。コメンテータ気取りの芸能人がしょぼい想像力をひっさげ、単純に被害者と加害者に二極化してなんやかんやと、まさに娯楽番組である。

    またその方が視聴者受けするのだろう。現時点で加害者=悪、被害者=善の看板を立てかけれ、アレコレいうのは付和雷同で問題ナシということか、日替わりでこの問題で参戦する人間が目立つ。上沼恵美子のブタ発言に対し、口の多い坂上忍が「お見事」と賛辞を贈ったとかどうとか、こんなことを報道する意味があるのか?坂上はこのようにブタ発言を評価している。

    「上沼さんの意見は、いろんな意見が出ている中で最上級に厳しい意見」とし、「ここまで厳しい意見言ってくれる人ってほぼいない。上沼さんの意見があるから浅野さんの意見も出て新たなお題が出る」、続いて、「当たり障りのない意見を言っている人よりも、母として、芸能人として、自分の言葉でおっしゃっている。お見事」。坂上は上沼の提灯持ちか?でなければバカ過ぎだ。

    「これだけきついこと言ってくれる人っていないんだよ」と芸能界の自己保身さを言ってるのだろうが、大阪人だけに向けていうなら、「よう言うた!」の関西ローカル上沼発言であろう。名古屋ローカルが現段階で「中日優勝」と言ってもエールがくるというものだ。他人の不幸は蜜の味というのか、甘くて美味しいのだろう。視点も広く頭の良さを感じさせるフィフィの意見。

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             よく言えば坂上に理性があるが、この言い方からして坂上は上沼のように言いたい?


    「そもそもなんで母親が(謝罪会見を)するの?犯罪を犯したのは母親じゃないし、(息子は)成人している。事務所が謝るならまだしも、お母さんが出てくるのは不自然」というように、自分も会見は見る気も起きなかった。フィフィは、東国原英夫の「会見やってもやらなくても叩かれる」という意見にも、「会見で自己保身するより、叩かれるなら、叩かれればいい」とした。

    上沼、坂上らと一枚違うフィフィだが、ブタ発言代表者上沼らの芸人は、もっと考えて理性的な発言をすることだ。「過保護が服着てしゃべっている」などは、関西では受けたとしても批判を超えた誹謗・中傷以外のなにものでもない。フィフィは別段考えなくて、普通の日常言葉そのものが明晰だ。聞くに堪えない芸人と、一聴に値する彼女の言葉の本質的な差は知性であろう。

    人についての判断基準として、「知性と教養」の有る無しといった見方をするが、知性とは、物事を考え、判断する能力のこと。したがって、考えたとは思えない、感情的、恣意的発言に知性はない。他方、教養とは、散歩中や通勤途中などの、ちょっとした体験を他人に話すとき、そのことをどれだけ客観的に、興味深く語ることができるか、そういう物語力であろう。

    その出来事や体験が、どの程度のダメージを、あるいは、メリットを自分にもたらしたか、話す相手の好奇心をどれだけ満足させることができたか、を推し測る。これを仮説力といってもいい。「教養をひけらかす」などの言い方は、クイズ的知識のことで、それも教養の範疇なら、ないよりあった方がいい。が、ひけらかすかどうかは、個人の教養観の問題である。

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                  彼女は物事を正しく、誠実に思考し、判断しようとしている

    教養のある人は、普通にしゃべって教養があるが、教養なき人は、普通にしゃべるとバカを言う。であるなら、教養なき人が教養を身につける手段として、リラックスして普通にしゃべる時でさえ、少し考えてしゃべることだ。感情に歯止めをかけ、理性を加味し、にじみ出る持論は置いておき、何が正しいかを一呼吸おいて考えた上で話すのが、多少は教養人たる資質といえよう。

    「バカは黙っとれ!」という言葉は結構正しい。自分も若いときに結構言われた。確かに若さというのは、物の見え方がまるでダメだった。その時は自分で分からないが、周囲の大人は分かったのだろう。言われないように、知識を積み重ねるしかないと思ったのを覚えている。今は逆の立場だ。とんでもないことを言い出す人間には、ついこの言葉を口にしたくなる。

    「バカは黙っとれ!」、言われて発奮する人間ならいいが、しょげたり、ふてくされたり、反発したりの人間には逆効果。強圧的で見下す言葉ではなく、いっちょ前のことが言える人間になれと受け取るべし。この言葉には大人の若者へのそういう思いがあったのだろう。ただ若者を見下すことで自尊心を満たすという、ゲスな大人ではなく、明晰であった。


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    「フリーセックス」という言葉をはじめて耳にしたのはティーンエイジ期で、ハイティーンだったと記憶する。「11pm」か何か深夜番組で、あの頃はドクトル・チエコや奈良林祥といった人たちが、ブラウン管で活発な「性」談義をしていた。二人は性評論のパイオニア的存在で、押し入れの隅にかくまわれていた純潔教育世代の性意識の偏見解消に尽力されていた。

    性表現は文化に関係するようだ。セックスなどという言葉を口に出すことさえ躊躇われた時代に、深夜放送のテレビは、「フリーセックス」などと軽々しく言う。ティーンエイジャーにも関わらず当時のわれわれは、「セックス」はいけないことだと思っていたし、奈良林やドクトルチエコらにこそ偏見があった。日本は性に閉鎖的、北欧はフリーセックスの国などと煽る。

    フリーセックスの意味も分からず、その言葉の意味からとにかく誰とでも自由に行うことだと考えていたし、それは道徳的に間違っていると思っていた。おそらく女性は結婚まで処女でいなさい、男性は女性を大切にしなさいという「純潔教育」の刷り込みである。セックスは不浄なもので愛こそ美しいとの考えになびいていたし、男も女も湧きあがる性の抑制に苦悩していたろう。

    道徳的規範の順守と、本能に目覚めよと語り掛ける先進的な性の評論家、巷には恋愛賛美の純文学と臆することのない性描写なる猥本、淫本が出回っていた。そんな時に、坂口安吾の一文に触れた。「春本を読む青年子女が猥セツなのではなく、彼等を猥セツと断じる方が猥セツだ。そんなことは、きまりきつているよ。君達自身、猥セツなことを行つている。自覚している。

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    それを夫婦生活の常道だと思つて安心しているだけのことさ。夫婦の間では猥セツでないと思つているだけのことですよ。誰がそれを許したのですか。神様ですか。法律ですか。阿呆らしい。許し得る人は、たゞ一人ですよ。自我!肉体に目覚めた青年達が肉体に就て考へ、知らうとし、あこがれるのは当然ではないか。隠すことはない。読ませるがよい。人間は肉体だけで生きてゐるのではないのです。

    肉体に就て知らうとすると同じやうに、精神に就て、知らうとし、求めようとすること、当然ではないですか。(中略) 露出だの猥本などというものは、忽ち、あきてしまうものですよ。禁止するだけ、むしろ人間を、同胞を、侮辱しているのです。そういう禁止の中で育てられた諸君こそ、不具者で、薄汚い猥漢で、鼻もちならない聖人なのだ。人間は本来もつと高尚なものだよ。

    肉体以上に知的なものですよ。露骨なものを勝手に見せ、読ませれば、忽ちあいて、諸君のやうな猥漢は遠からず地上から跡を絶つ」。思春期時期に読んだ文は、壮年期に読んだ同じ文章と、その内容はすこぶるほどに異なる。どう読んだかの記憶よりも驚いたという実感だった。安吾の文は思春期の年代には理解されないだろうし、自分もそうだったが、どことなく背中を押す。

    それが当時の読解力である。われわれの時代にあった規範というものは、今、眺めてみると古文のようにしか見えない。おぞましいほどの道徳規範は、若者を袋小路に閉じ込めるものだったのか。たまたま、自分の家庭は、自分を育てた母親が規範や権威ではあり得なかった。父親は母親のヒステリーに恐れてか、一年中寡黙な人であったゆえ、規範というに影響はなかった。  

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    したがって同類連中のなかでも自分は、規範を失った類だったかも知れぬ。立派な親ならその言葉には茄子の花如く、万に一つも無駄はないが、言うこと為すことがトンチンカンの母親は、バカにする対象だったが、それでも親と言う傲慢さと虎の子的権威と対峙しなければならない。今にして思うに、戦うエネルギーというのは大切だった。当時は大切どころか必死だった。 

    そのせいでか、アイデンティティを得、失うこともなかった。自分の実在感は、目上の母親を否定することでしか得ることはできなかった。だから戦ってよかったと思っている。戦わずして自由など得れようものではない。母親はことごとく自分の価値観の前にはだかった。恋愛の邪魔までするというような息子に対する強烈な独占欲、これは愛情というより支配でしかない。

    母の言うことの反対をやることがすべてにおいて正しいという法則を見つけることになった。昨今の傲慢な親の大半は同じであろう。親の言うことの反対を生きること即ち親のエゴに抗うことである。即ちそれは自分を実在させ、自分を生きることである。親が子の自由な生き方を望まないのはなぜだろう?親子ほどの年齢の違う(変な言い方だが)子を見くびっているからだ。

    親が子を見くびることなく自主性を尊重する西欧と、子は親の所有物との概念に蹂躙された日本との違いは如実に感じる。日本の親は、子どもが親の言いなりになることを望んでいる。坂口安吾もそういう厳父を持ったことで、権威に抗わぬ人間を矮小とした。「親などヘタレ」だと実際に思っていた。即ち彼は、いいもの、よくないものを見分ける理性があったということだ。

    イメージ 4「ここまでやるのか!」母親に恋愛を否定されたときに思ったのは、これ以上自分の障害になる奴は殺してしまおうとまで考えた。それほどに異性を恋うる感情と言うのは強烈である。その時の感情をたまに思い出すが、あの恋愛が実っていたなら今の自分はなく、いったいどういう自分であったろうなどと、歩きながら自問するが、「たら」について明確な答えは見つからない。いにしえの文学者、哲学者、詩人は、「恋愛とは、人間の両性の間に営まれる、もっとも美しく、かつ難しい愛の行為である」と述べている。美しいの主観はそれぞれだが、難しいという実感は多くが経験したことだろう。そんな恋愛をさらに現実的で冷酷な見方をすれば、「人種の保存という超個人的目的のために、何者かが人間の両性を結びつけているのであろう」。

    そのことで病みがたい執着とほとばしる性の衝動に駆り立て、個人としての男女を熱狂の渦に埋没させる。これを残酷なる自然のカラクリという見方もできる。残酷というのは、個対個のぶつかり合いを生じさせるからだ。はじめはいいと思っていたものが、だんだん悪くなるのは、はじめにいいと思っていたことが間違いなのか、いいものが経年で悪くなったか、いずれかであろう。

    離婚というものが、ある場合においてはどんなに必要なものであるか、少し考えれば誰にも分かることだが、離婚はざらにあることでもないし、ざらにあることのようでもあり。「ざら」の基準は難しい。「一生」という約束事が、誰にとっても重荷と言うわけではないが、他人と過ごす一生がどれほど苦しく負担に感じる人もいる。別にそう感じる人が悪いわけでもあるまいが…。

    人は冷ややかな視点でみる。互いが愛し合い、理解しあい、尊敬しあい、そんな二人が、互いに相応の注意をはらうならば、何の重荷を感ずることなしに日々を過ごし、いつしか生涯を閉じるであろう。理解が行き届かず、互いが侮辱しあったり、口を閉ざしたり、即ち愛が消えた以後も、惰力や情実でつながる一生もある。それを善とせず、二人を助けるのが離婚であろう。

    もし、制度としての離婚がなければ、相手を殺めたりの悲劇が増大するだろう。よって離婚に至った者を他人が色眼鏡で見るのはまちがっているし、離婚した者はわがままで、ふしだらで、忍耐力もないなどの非難はすべきでない。離婚を理解できる人間こそが、離婚のネガティブな部分をカバーして婚姻存続に役立てられる。浮気で離婚が嫌なら行わないか、周到に行うか。

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    確かに熱烈なる恋愛で結ばれた二人であっても、愛の消滅や理解の欠乏、子育てにおける価値観の相違から冷たく、未練なく別れてしまったその後で、当初のバカげた情熱に誤らされたものと互いを侮辱しあうのは、いかにも見苦しい。問題は結果ではなくプロセスにあったということをそっちのけで、自己を正当化してみたとしても、この場合「自己」は二名である。

    昔から、「結婚と恋愛は別」といわれるが、恋愛して結婚するなら恋愛と結婚は同じでないか?確かにある種の結婚は、恋愛を土台にするし、結婚後も継続している事実もある。が、このような言葉で自らの離婚を戒めた女性がいる。「私は結婚と言うものにまったく盲目であった。40歳を超えていながら、相手の言葉の意味は理解しても、相手の気持ちはまるで考えなかった。」

    確かに言葉には、「意味を伝える」だけではなく、「気持ちを伝える」要素がある。労をねぎらう言葉に、「おつかれさま」というのがある。意味は考えなくともわかるが、この言葉に果たして気持ちがこもっているか、それとも社交辞令的に発しているか?"やはり労をねぎらう"言葉なら、気持ちで伝えるべきだろう。意味だけ伝わって喜ぶ人間もいるにはいるが。

    「ごめんなさい」も「ありがとう」も、気持ちより社交辞令的に使われることが多い。飲食店や衣料品、雑貨店などの商売用語でも、片手間なバイトが「いらっしゃいませ」、「ありがとうございました」の意味だけ伝えるところがある。注文した商品と別のもの押し付けられ、「頼んだものと違う」とやり取りの最中、「こんな店には二度と来ない」といえば、「来なくていい」と言った店。

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    後にも先にも、こんなことを言われたお店は初めてである。どっちもどっちといった言い合いはあるが、100%お店のミスを認めない理由を自分は理解しがたかった。VAN系列の、「加盟店からの返品を受けない」という規約からのゴリ押しとしか考えられなかった。無理をいう客はともかく、商売というのは善意な顧客を怒らせて何の得はないことを、客の立場から経験した。

    離婚後に反省した女性の言葉は美しい。後に西川史子が離婚したときも同様である。つまり、西川も結婚というものに盲目であったということだろう。彼女は結婚する前に、相手にたくさん要求を突き付けたが、自分が満たされたいという要求はともかくとして、相手が自分に満たされなければ婚姻は継続できない。西川は要求ばかりで結婚が上手くいかないのを悟ったのだろう。

    自分の要求も大事だが、相手の愛を得ることは、自分の欲求以上に大事である。西川は、「(元夫が)家を出ていきたいということは、やっぱり私がいけなかったんだと思いますね」と反省を見せた。離婚原因を言葉一つ、あるいは言葉50で語ることはできないが、結婚生活に対する互いの価値観の違いは、現実路線に徹してキチンと話し合うこと。結婚は夢物語ではないんだから。


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    AがBに〇〇した。AはBが喜んでると思っていたが、Bは喜ぶどころか、迷惑に感じていた。が、Aにそのような素振りを見せなかった。これではAはBの自分に対する真意を理解できない。Aの性格を理解できる人間も、Bを理解できる人間もいるが、AとBを照らし合わせて客観的に眺め、どうするのがいいかなどを考えるのが人格向上に寄与する。

    一言で向上心といっても、人によって目指すものは違う。何をやるにしても、現在の状態に満足せず、より優れたもの、より高いものを目ざして努力する心であろう。上に示した例でいえば、Aはどうするのが良いのか、良かったのか、BはAに対してどういう態度をとるべきか、あるいは発言すべきかを、それぞれAの立場、Bの立場で思考し、答えを模索する。

    Aは自分の行動が人にとって良かれと信じているが、それは独善ではないかと疑ってみる。もう少し相手の気持ちになって思考する必要がある。今度はBについて思考する。AはBが喜ぶと思っているようだが、Aの勘違いを正してやるのはAのためであり、また自分(B)のためでもある。これら思考で導かれた結論が、正しいと思うなら行動を起こすこと。

    考えて答えは出たにも関わらず、行動しないことはままあるが、思考と行動はセットと強く自分に言い聞かせる。「知行合一」の陽明学は、『知識を行動に結びつけよ』となる。せっかくテストの問題を解いたのに、答案用紙に答えを書かなければダメなように、書くと言うのが行動である。まずは考え、出た答えを行為に移す。それも「向上心」だろう。

    芸能人とエッチをしたことを、自慢話の一つにしている女性がいた。好きなグループやアイドルの追っかけをやるティーンエイジャーなどは、彼らが宿泊のホテルの部屋どころか、トイレに連れ込まれただけでもドキドキ、舞い上がってしまう。強引にキスをされよう、が抱きしめられようが、パンツを脱がされようが、それはもう喜び以上に自慢になる。

    そこでレイプなどは起こらない。普通ならレイプまがいの行為でも、合意は犯罪とならない。高校時代にあるグループのメンバーに、部屋に連れ込まれた女性の話を聞いた。それが処女をなくした相手だといい、それを彼女はずっと誇りに思っていた。追っかけは少女は抱かれたいのではなく、1mでも50cmでも近づきたい一心のようだ。が、男にとってはカモである。

    ファンは何をされても喜ぶのを知っている。危険だし、やるせない話だが、それがファンの思いなのだ。グループやアイドルにとって、ファンは有り難い存在だが、時にそれは事件に発展する。また、事件性の行為があったとしても、ファン心情からして被害届を出すことはない。そんなことをしようものなら、同じファンの間から総スカンを食らうだろう。

    以前はそんな話はどこにでもあったが、現在は表沙汰になれば致命傷なので、自制するようマネージャーが目を光らせている。そうかと思えば逆にファン側が、アイドルを襲ったとの例もしばしば発生する。古くは1957年の国際劇場で、美空ひばりが顔に塩酸をかけられ、3週間の火傷をおった。犯人はファン女性で、「大好きだから憎い」と屈折感情を述べた。

    これは、無理心中に近い心情と考えられる。1963年、当時18歳だった吉永小百合の自宅に、銃を持った男が押し入り、駆けつけた警察官を撃って重傷を負わせた。小百合と家族は逃げて無事だった。岡田奈々も自宅に暴漢が入り、彼女の手足を縛って5時間も部屋に居座った。2016年6月10日、クリスティーナ・グリミーがライブ会場でサインに応じていた際、ファンに銃撃され死亡した。

    1980年12月8日、ジョンレノン暗殺事件も記憶に消せない。また本年5月芸能活動をしていた大学生の冨田真由がファンの男にナイフで首や胸など20カ所以上刺される事件が発生した。幸い命はとりとめたが再起不能となる。ざっと羅列したが、繰り返される悲劇である。ファンがストーカー化する理由には執着型、妄想型がある。あまりの熱狂が高じて自他の境界が見えなくなる。

    人間には、「自分は自分、他人は他人」という「自己」の自立性が大事で、子どもを持った母親に自立性欠如が多い。自分で産んだという分身の名残か、母子同一性というのは、男からすれば奇妙でしかない。高畑問題において、マスコミがしきりに問題するのが母親の祐太に対する依存性だ。あることないこと、ないことあることを書いて、雑誌を売る。視聴率を稼ぐ。それはそれだ。

    他人の口車に乗るのもいいが、基本は自分で考えるべきであり、芸能人だか有名人だかでも、おかしいものはおかしいと批判はすべきである。「善意の隣人」ほど困り者はいないが、芸能人なんてのはテレビを観なければそれで済む。確かに日本人には善意の隣人が多く、いろいろ関わろうとするほどにウザイ。に、比べて悪意の隣人は楽である。いくらでも無視できるからだろう。

    のっけに書いたのは、善意の隣人をいかにして除去するか。この方策を講じずして、文句や愚痴をいっても埒はあかない。自己防衛のためにも、キチンとものを言える人間になるべきである。そのことに関連して想像するのが、高畑祐太の一連の事件である。事件とは言えないようだが、当初から事件でない可能性はあったが、祐太の供述が事件性を否定しないなら事件となろう。

    今回の釈放が一時的な保釈でなく全面釈放であるなら、当初警察発表による「強姦致傷」とは何だったのか?強姦が和姦に覆ることは、裁判でも珍しくはないが、致傷は刑事犯罪であり、これさえも示談で不起訴処分にて終わらせたことに驚いている。さらには、高畑側の弁護士はこのように述べた。「今回のことは合意の上での行為だった、起訴されていたら無罪主張してた」。

    男なら分かるであろう行為の仔細について、なぜに高畑は警察で、「彼女は抵抗もなかったです」と、言わなかったのか?担当弁護士はこう述べている。「知り得た事実関係を照らせば、高畑裕太さんは合意があるものと思っていた可能性が高く、少なくとも逮捕時、報道にいわれる『歯ブラシを持って来て』と呼びつけいきなり引きずりこんだなどという事実は無かったと考えております。

     
    つまり先ほど述べたような悪質な事件では無く、仮に起訴されて裁判になっていれば無罪主張をしたと思われた事件であります。以上のこともあり不起訴に至りました」とコメントを発表した。これならすべてのつじつまが合う。あのような場所で、いかに高畑が"歩く陰茎"といわれるような男とはいえここまでやるか?そのことに懸念も抱かず、悪者にするばかりのテレビ報道。

    絶対にない、あり得ないとはいえない。が、強姦なら強姦に至る状況が一切出てこないままで、どうして強姦だと思えるのか?強姦を拒否する相手に、強姦するのがいかに大変であるか、強姦経験がなくても男なら想像で分かりそうなものだ。中高生なら、「蛇に睨まれた蛙」という状況も考えられるが、相手は50歳に近いおばちゃんである。坂上は上沼のブタ発言を最大に持ち上げた。

    「そこまで言える上沼さんは、お見事」が、事件性のない「和姦」という事実であっても、向き合う素養はない。本人も認め、警察も発表してるんだから、「強姦だろうし、信じた俺らはな~んも悪くない」とでもいうのだろう。警察がどうであれ、本人がどうであれ、自分の頭で考えたら疑義は山とあった。誰かが、「強姦は疑わしいと思う」といえてこそ「お見事」では?

    誰もが高畑を「強姦魔」に仕立てている場で、「被害者の行為がオカシイ」とは口が裂けても言えないのは、芸能人が人気稼業であるからで、だから、彼らを責める気はないが、責めない代わりにバカな意見は耳に蓋をする。芸能人を集めてバカを言わせる番組ばかりか、専門家をほとんどみない。「強姦に疑義あり」と勇気ある発言のタレントはいない。

    無罪を争う案件でありながら、高畑が警察で「強姦致傷」を了承したのは、頑張りが効かなかったのか。いきなり部屋に警官が立ち入り、寝ぼけ眼で連行されれば、頭はふやけるだろう。さらには、「強姦の被害届が出ている」などと言われば、合意の行為であれ、パニックになる。警察への連行は、それほど高畑にとって先制攻撃であったはずだ。

    警察は犯罪を作るところだから、弱者(女)の言い分を真とし、強者(男)の言い分を言い逃れて見る。人間だから先入観は当然だ。よって、正しい捜査というのは先入観を排除といわれている。「女性は強姦されたと言ってるんだ。弁解などはいいから、どういう状況でやったのか、ちゃんと言えよ」。こういう状況が、無いことを有ったかの如く作られて行く。

    取調室における孤独感とはそういうものだ。だから、外国のように「弁護士を呼んでくれ。それまでは何もしゃべらん」というのが、最大の防御である。容疑者は、容疑をかぶせられたら、それを刎ねつけるにはあまりに孤独である。では、なぜ被害者は「強姦」などといったのか?もっともらしい傷なら事後につけられる。第一報したのが、友人とあるが弁護士であるという。

    いろいろな想像がつくが、まあ、強姦の方が何かと都合がよいのは分かる。和姦で何が問題かといえば、業務中に客と性行為をしていた従業員なんか、クビもいいところだ。ホテルの従業員はマッサージ師ではないんだし、友人弁護士の入れ知恵もあったろうが、この件について下種の勘ぐりは止める。濡れ衣は裁判で晴らすべきだが、それをしないのも高畑敦子の存在ではないか?

    「損をして得を取れ」という慣用句も浮かぶようで、事を荒立てて彼らに何の得はない。やってないものをやったと言われても、抗えない弱い性格であるようだし、被害者(一応)のことをアレコレ言ったところで、「金持ち喧嘩せず」が利口だろう。どこぞの誰が、「業務中に客とやる従業員がいるビジネスホテル」と、揶揄もしようし、経費けちらず一人態勢は止めることだ。

    高畑敦子という母の存在が、取り調べの祐太を殊勝な人間にしてしまった可能性がある。言いたいことはあったろうが、ひと暴れして事を複雑にせず、黙して司直という権力にも抗わず、順応することが、世間から母を傷つけない、また、笑いものにされないと感じたのではないか?いや、元々そうした心の弱い子だったのか。貧乏人の自分は、「何だ!ひで~女。許さん!と争うが…


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  • 09/10/16--08:10: 高畑問題 フィナーレ
  • 強姦致傷容疑で逮捕されていた高畑裕太が不起訴処分らしい。これはまったく予想外で、一体どういうこと?「強姦致傷」も警察発表というより記者のリーク。強姦致傷という非親告罪が不起訴になったのは驚きだが、婦女子強姦は力でもって弱者を凌辱するという卑劣な犯罪であり、高畑の担当弁護士がいうように、金を払えば許されるという簡単なものではない。

    今回の不起訴に至った理由は、被害者とされた女性との示談成立が考慮されたことと弁護士はいうが、強姦致傷罪は親告罪ではなく、被害者の告訴がなくても起訴できる重大犯罪であるからして、これを示談成立だけで不起訴とするなどあり得ないが、不起訴理由を述べない以上、想像するしかない。5日に結審した東大生の強制わいせつと暴行罪の被告には懲役2年であった。

    20歳の女子大生の心身を弄び、いたぶり、人格の尊厳さえも否定する卑劣な犯罪を、悪ふざけ的、いじめの側面などとした裁判官に対し、本人並びに親族は怒り心頭であろう。が、専門的見地からすれば妥当であるというから、市民感情と裁判の判例に大きな乖離を感じる人は多い。が、「性欲を充足させるための行為といえず」という裁判官の判断は、自分には承服しがたい。

    なぜなら性欲は、異性に触れたい、交わりたいという真っ当なものだけとは限らない「異常性欲」というものもある。SM行為やスカトロジーなども愛好者にとっては性欲を満たすものだから、主犯の東大生が歪んだ性欲保有者であることへの踏み込みがあまりになさすぎる。被害者である女子大生の受けた凌辱行為は、「謝罪拒否」という親族の怒りからしても許しがたいものだった。

    示談と不起訴で完了した今回の高畑事件には触れないつもりでいたが、千田有紀といういう社会学者がまたもアホなことを抜かしているではないか?前回(2016年4月5日記事)も感じたように、この社会学者の希薄な原体験が、貧相な想像力を生んでいるではないか?彼女は東大卒というだけあってか、学問的素養にみちた意見に対し、「この学者、どうにかならないのか?」である。

    学問に長けた賢さとは別の頭の良さとは、想像力や創造力に卓越していることだが、彼女の高畑の依頼人に対する批判は笑ってしまう。弁護士に批判的であるのは、高畑に批判的であり、それが被害者とおぼしき女性に最大限の配慮をする。被害者なら当然にして配慮はすべきだが、高畑担当の弁護士は被害者という文言を避け、「被害とされた女性」という書式となっている。

    これは明らかに弁護士が被害者側と対決姿勢を見せている。その理由が親告罪でない強姦致傷を警察が不起訴にした点を挙げている。示談は別にしても、これは犯罪が立件できないということだ。一般的な刑事事件なら何億円積もうが、起訴は免れないのが妥当。被害者に何の疑いもなく証言に辻褄があえば、警察は加害者を起訴するはずだが、不起訴の理由は公表しない。

    強姦され傷を負わされた憎き相手がお咎めなしでは納得できないだろうが、被害者は示談を優先した。示談とは告訴を取り下げること。これに対し千田氏は以下のように弁護する。「被害者を支援するひとは、きちんと法廷で闘うことを望むことが多い。加害者の側に立つひとは、「示談を受け入れるなんて、お金目当てだったのか」という非難をぶつけることもある。

    被害者の側からすれば、これだけ注目され、報道されている事件に関して、長い裁判に付き合い、そして闘っていくことは、心身ともに疲弊することである。また時間も労力も多大な犠牲を要求される。たとえ相手を許していなかったとしても、示談を選択する事情は、じゅうぶん理解可能であるし、その選択もまた非難されるべきではない」。千田氏の考えは考えだ。

    自分とはまるで違ってもそれぞれ人の考えだ。ただし、「長い裁判に付き合い、闘っていくことは、心身ともに疲弊し、時間も労力も多大な犠牲を要求される」というが、それをして被害者であろう。が、金銭で相殺してもいいという人はいるが、その理由は千田氏の言うような場合でないことがほとんど。「金の問題じゃない、相手を許せない」強い怒りが根本にある。

    長い裁判に付き合い、闘っていくメリットの無いのはむしろ有名人である高畑側であり、「示談金に額は先方の要求を呑む」という高畑側の姿勢で、有名人にありがちなこと。千田氏の以降の文は読むに耐えない独善的解釈で読む気がせず、よって後のことは取り上げない。自分の書き込みも他者からすれば独断と偏見に満ちていようが、多くの疑問を根拠を前提にする。

    まず、自分が考えたのは、「なぜ強姦が可能か?」である。再度いうが、卑劣な犯罪である強姦が成立するための物理的な状況をあれこれ想像することは可能だ。「やらせてくれるか?」、「嫌よ」、「うるさい、つべこべいうな」と、強引に下着を脱がしたとして挿入すれば強姦が成立する。果たして口や言葉だけで強姦が可能かといえば、簡単ではないし、おそらく無理。

    本当に嫌がる相手に対し(真意はともかく男には嫌にみえた)、言葉だけで性行為が可能であったなら、「いやよ、いやよも、いいのうち」という女であったのでは?男は事後にそういう判断をする。では、「いやよ、いやよもいいのうち」という女性と性行為が既遂となった場合、それは強姦罪となるのか?「いやじゃなかった」という事実は女性のみぞしる本心でしかない。

    よって他人には、「イヤなのに犯された」、「無理やりされた」と言えるわけだ。警察でそういえば相手は即刻逮捕監禁となる。まさか、「あんた本当はいやじゃなかったのでは?」などと聞くバカ警官はいない。とにかく挿入すれば強姦で、射精の有無は問題でない。これが強姦の判例となっている。では挿入するまえにお漏らしした場合はどうか?これは強姦未遂となる。

    強姦未遂はものすごく罪が軽い。女性を脅迫なしに裸にできるのか?下着を取らせられるのか?これはまあ、いろいろなケースがあるが、今回特筆すべきは49歳という年齢だ。そんなおばさんでなくとも、ソープに行けばもっと若き美女はいようが、今回の被害者とされる女性の容姿はわからない。腰が曲がっていようが、入れ歯の老女であろうが、穴さえあれば立派な女というのは下世話。

    千田氏は合意という点についても「勝手に合意と思うのは合意でない」というが、お前は男と恋愛経験があるのか?男女の機微というのは言葉だけじゃないのよ。本当は合意であるのに、「いやよ」といえばそれは合意無視の強引になるのか?あのあたりの綾をキチンと掌握するために、あるいはウソや矛盾を突き崩すために尋問をするのであって、聞かないで分かるわけがない。

    こういう可能性もあり得る。非番の時にホテル内に自分だけしかいないのをいいことに、めぼしい客にすりよるというような、そんな女などあり得ないと言えるのか?高畑の相手がそうだとは言ってないが、そうである可能性はあり、だから様々な矛盾が生じる。ましてそういう女であったと仮定したら、宿泊客の中で「ああ、おれも」、「おれも」「おれもだよ」という可能性もある。

    前橋市駅前のホテルの名も判っていることだ。「なぜ強姦できた?」と最初はアレコレ考えたが理由を見つけるのが難しかったが、強姦でなく合意の性行為というならすべてが理解できた。強姦強権発動がなければ既遂できない。女性は49歳、高畑22歳、この差はとてつもないものだ。言われるように、歯ブラシをもってこさせて、それを理由に性的凌辱をしようとした場合に…

    「そんなことは止めなさい。警察を呼びますよ。あなたもあなたのお母さんも、そんなことをしたら終わりですよ、バカなことは止めてソープでもいってらっしゃい」と、たしなめる年齢差と言える。盗みに入った強盗を、言い含めて帰させたという話がある。もし、親子ほどの年の差もある高畑の血迷った行動に対し、将来ある彼にそういう言葉をかけることもできた。

    それがむしろ、強姦の歯止めになることもできた。我を忘れた横暴な行為だったのではあるまい。強姦は問答無用の刑事犯罪だ。犯罪が犯罪でなくなる理由はいろいろあるが、高畑の弁護士は経緯を聞いて、ハニートラップを想定したのだろうし、そのこともあって、異例ともいえる見解文書をファックスでマスコミ宛に配信した。それについて別のある弁護士はこう分析する。

    「率直に申し上げると、どうしてこのファクスを送ったのかなというところは、疑問に思いました、印象として。『被害者』の方の気持ちを思うと、やっぱり傷つけてしまう可能性が大いにありますし、じゃあ逆に翻って、高畑さんが反省しているのかどうかっていうこと自体を、ちょっと疑問に思ってしまう人は出てくるかなあという」。弁護士の目に、デメリットと映る文章をなぜ、公表したのか。

    これについて、「今回の件は示談したこともあるけれど、それに加えて、悪質な犯罪ではなかったというような要素もあったので、不起訴になったんですよということは、弁護人の立場として、主張しておきたかったんじゃないかなというふうに思います」。確かにお金持ちは喧嘩を避けた。実を解明するより、さっさと金銭で解決するのが得策と考えたのだろう。それが有名人の選択だ。

    だからか、有名人のそういった弱みに付け込んだ犯罪も多い。多くが闇に包まれた事件や事柄にあって、真実を解明するのは難しい。その意味で我々は真実の中に生きていない。そうした中でああでもない、こうでもないと、口角泡を飛ばして言い合いする。見ようとすれど見えないものもある。分かっていても言えないこともある。口が物をいう代わりに、金が物をいう世の中か。

    お金で解決できないことも多いが、お金で解決できることもある。この一件で様々な嘘と真実が明らかになったが、最も驚いたのは、「部屋に歯ブラシを持ってきて」と呼びつけた事実はないという弁護士の言葉。歯ブラシの件は捜査の段階で判明したとしたが、これは相手女性側からの発言だが、これは嘘なら「凄い」話である。警察も、「さっさと示談してください」だったろう。

    歯ブラシの一件が相手の創作ならこう考える。高畑をハニートラップにかけた女性が、被害者を装うために、あたかも高畑の部屋に呼ばれて行った口実にした。女の色仕掛けは巧みであり、22歳の男なんかチョロイものだろ。被害女性に敵意さえ感じさせる高畑側の弁護士の文言であり、訴訟で潔白を進言するも、敦子はそれを断り、穏便に示談の意向を示したのではないか?


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    自由ブログに定義はない。日常のことや、趣味のこと、育児日記や世相談、政治経済や世界情勢など、あまたのブログがにぎわっている。いずれも「書く」という表現行為を楽しんでいるのだろう。最初のころ、「ブログが怖いんですよ」という人が何人かいた。それがブログを止めた原因といい、しばらくして復活した人もいた。ほとぼりが冷めれば嫌なことも忘れるのだろう。

    嫌なこととは、声を荒げるような無神経な暴言コメントである。むかつくコメント、気に障るコメントも見せてもらった。他人のことは他人には分からないし、何月何日の〇〇のコメントにイラっとしたとかで、自分がそれを読むと、「こんなんで?」と思うものもあったが、他人には他人の思いがある。人が何に立腹し、何に気分を悪くするなどは案外分からないものだ。

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    明らかなる誹謗・中傷は別として…。自分も駆け出しのころはよく他人のブログにおじゃました。ある人からそれがブログで、ブログは交流するためのものとの教えを乞うたことによる。確かに交流するための適格条件は、リアル世界に比べて淡泊である。互いの事情や日常を秘匿できるし、先入観なしに純粋な人間と人間の交流が可能で、だからいいという部分はある。

    文字世界交流においては、異性・同性・年齢・居住地くらい以外は、必要ない気もするが、既婚・独身・バツイチくらいまで膨らませる人もいる。さらには趣味・道楽の域にまで広げることもあるが、大事なことは節度であろう。何が節度かも人によって違うわけで、自分の節度は分かっているが、むしろ相手が節度とするものは何か?を知ることが節度を生かすことにもなる。

    自分自身の道徳概念もあれば、相手の道徳基準もあるように、自分の節度と相手の節度を照らし合わせながら交流することだ。自分などは無節度、非道徳を自負していたので、相手は自分に合わせるものだという傲慢さがあった。なぜなら、すべての基準は自分に立脚していたからだ。「俺はお前に合わさん、お前が合わせよ」というのは、傲慢だったとつくづく思う。

    「相手に合わさん」というのは、合わすことができない、自分の生き方なり、信念なりは変えられない、あるいは変えてはいけないと思っていたフシがある。今に思うと、若さというもの、若者の代表のような柔軟性の無さである。今の自分からみて当時の自分は大嫌いな人間の類で、多くの人に言動で嫌な思いをさせたと自戒もあるような、抜き差しならない人間だった。

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    何より嫌いだったのは、「きまり」である。「規則」ともいい、大きなものは、「法」という。「法」を守れるかは社会人の基本である。社会人とは社会で生きて行くことだから、当然に規制があるが、子どもに対しも横断歩道の赤信号は守らんでよしの父親だった。遠足の菓子類の規制や水筒には水というきまりも、「ジュースを入れろ」、「もっともって行け」の煽る。

    小学生中学年になると、夏休みの宿題の定番である朝顔の観察はしない、ラジオ体操には行かない、そういうきまりが胡散臭いと感じていた。夏休みだからといって、規律正しい生活をさせるために、そんなことをさせるんだと、子どもながらに感じていた。家の台所に、「食い合わせ一覧表」というのがあって、何と何がダメというのは見ているだけで自然に頭に入った。

    頭に入った、といっても食い合わせを気をつけるためではなく、食い合わせを試そうとの気持ちが強かった。食い合わせでハッキリ覚えているのは、「スイカと天ぷら」、「ウナギと梅干」で、「ウナギと梅干」はまず無理(ウナギなど見たことも食ったこともなかった)だから、「スイカと天ぷら」を試したが、ヒドイ目に合ったのを覚えている。それはもう凄まじい下痢と嘔吐だった。

    その他は何ともなかったが、「スイカと天ぷら」はトラウマになった。大人になって、「ウナギと梅干」をやろうと思ったことはない。そんなガキの好奇心はどこかに飛び去った。経年で好奇心がだんだん癒えていくのは、スッカタナカんべ~。ブログが怖いというのは、結局コメントが怖いだろうから、居ついてもらわないように、さりげなく去ってもらうようにすればいい。

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    無視(返信しない)だと、執拗に言ってくる相手もいるから、「何バカなこと書いてんだ?」とか言われた。さてどうするかだが、基本ブログは自己主張だと思えばいいのでは?わざわざ他人の発言に文句をつけて、自己主張したい人間もいるけど、自分のブログでいくらでも自己主張できるだろうに?交流がメインなら、互いが自己主張しあう対話ブログなどもいいね。

    相手の意見は聞いても、批判や賛同より自分の意見を返すだけでも交流はできる。互いの意見が違っても、どっちが正しいなどに拘らず、指摘もしない。自分にとっての正しい、正しくないは、相手が自分で見つけるものだ。他人の人生に干渉しないのがいいかも。長く続いて親しくなれば、相手から意見を求められることもあろうが、基本は自分のことを話せばいいんだし。

    「どうすれば続けられます?」と問われたこともあるが、相手の性格に合った方法は、他人に見つけられない。自分で見つけるしかない。「ブログ始めました」と宣言した、それ1回だけというのも結構ある。確かに始めるのは簡単だが、続けるのは大変なんだろう。10年続けてる自分には大変でも何でもないが、なぜ続かないのか分からない。が、一つだけ言えることがある。

    「続かない」のは、「続けない」から、というのが持論だが、「続けたいんだけど、続かない」と言われたことがある。それに対し、「続ける意志がないから、続かないんだよ」と執拗にいうのもくどいし、「続けるためのハードルを下げたらどうだ?」と言ってみた。「ハードル」が何かはさまざまあるが、とりあえず、「ツイッター」で超短文をやってみるのも方法だ。

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    ブログに比べハードルは低い。ブログのハードルを高いと感じない自分はツイッターはやらない。「よく続けられるね?」と言われるが、自分は自分を怠情な性格と思っている。横着で、怠け者で、飽きっぽいの三拍子そろっているし、そんな横着で怠け者で飽きっぽい自分が好きではない。自分でいたくない。その気持ちを常に念頭に置くから続いているだけの事。

    これが自分のやり方だ。怠情と知っているからこそ、意志力だけで何かを続けられるなど、夢にも思っていない。意志力で続けられる人間を怠情と言わないだろう。したがって、そういった自分の性質と環境を利用して、「続けざるを得ない仕組み」を作るようにする。それが効率的、しかも楽だ。例えば禁煙しようとする。意志の強い人はスパッと止められる。

    「意志が弱いからできない」なら誰でも言える。そうではなく、意志が弱いなら、意志に頼らない何か仕組みをつくればいい。誰か、賛同してくれる人をみつけ、「もし止められたら5万円くれるか?その代り陰でこっそり吸っているとか、見つけたら10万円出す」。これらは意志に関係ない仕組みである。「努力」という言葉を使い、生かすなら、現状に満足しないこと。

    現状に満足する人間は、本質的に努力しようがないし、する必要はない。つまり煙草を止めたいなら、煙草を吸う自分に満足しないこと。自分流は、徹底して嫌うようにする。自分を嫌えば、嫌われたくない自分は努力をするよ。「いいんだ自分は、どうせこんなだから」は、努力をしない人間の常套句。所詮は自分のことだし、そういう自分と付き合えばいい。

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    禁煙する上手い方法や仕組みを見つけることだ。無理はしない方がいい。無理は破綻をするし、無理はまたストレスの要因となる。自分は何かをするとき、それを継続するとき、絶対に無理はしない。健康のために良いとされる運動であっても、無理をしてストレスを溜めればかえって不健康ではないか。そういった様々なこと、あるいは自分について知ることは大事である。

    自分を知らずして成長はできない。「自分を知る」とは、何かを変えようと思う時に大事な視点だろう。自分を怠情だと知っている、三日坊主だと知っている、だから継続のための方策を考え、編み出すことができる。飽きっぽい性格の自分に妥協して変わることはない。妥協する人間は、変える気がないといった方がいい。厳しい言い方をするなら、それを「甘え」という。

    自分に甘えて生きるのはそれも自分の人生なら構わないが、自分の何かを変えたい、変えようとするときに「甘え」は無用だ。そういったいくつかのポイントを知っておけば、いろいろな方策に結びつく。自分を変えたいのは向上心だから、せっかく向上心があるなら行動につなげるようにしたい。ブログは自己主張と、自己対話である。対話なら自己と自己の主張が必要。

    が、何でも自己主張すればよいということでもない。大事なことは、「自分が書いたことに責任を持つ」であろう。責任もいろいろあるが、例えば、自分の文に寄せられた批判に対して謙虚ということでもある。批判に論理もへちまもない「バカ」、「死ね」的な批判もあるから、それらに律儀に反応する必要はないが、なるたけ真摯に耳を傾け、間違いの指摘に納得すれば礼をいう。

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    いろいろなコメントがあった。あまり記憶にないが、将棋の羽生が寝癖を直さずに和服を着るのが、身だしなみとしてどうか?学者バカと言われる人が、そのことしか興味がなく乞食同然の身なりであるなら、羽生は将棋のこと以外に神経が行き届かぬ将棋バカである。それに対するコメントは、「あなたは羽生さんより将棋が強いのですか?」と、こういうバカを言う。

    そんなことしか羽生を擁護する言葉がないのか?であり、そんなことしか言えないなら言わぬ方が利口だろうが、立腹からか、見境なく言ってしまう。ファンとか信者というのはそういうものかと。将棋も強いし、社会人としても立派な人ならそれがいい。「たかだか寝癖くらい放置したっていいだろ?」というなら、「たかだか寝癖を直すのに何分かかる?」ということになる。

    始めた頃のコメントには、誤字・脱字の指摘があった。親切半分、茶化し半分か、自分は一切しなかった。「親切半分・茶化し半分」の数式は、1-1=0となり、ゼロなことはしない。が、親切と受け入れた。行為の責任、しない責任、どちらもある。親が子にする行為の責任、何もしない責任。いずれも反省が不可欠。我々バカ人間は、反省するから成長するのだろう。


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