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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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    8月末に診断された尿路結石が、2月の末についに排石なる。医師のいう、「10mm以上は出ない!」に抗う気持ちで頑張った。それで提言は表題の、「石は医師より意志で出す」。確かに、指示通りに水を沢山飲むとか程度の生活状態では、おそらく出なかったろう。特段努力とは思わないが、前向きな気持ちで石をどんどこ下に下に落すように坂を駆け下りたりした。

    それを努力というのだろうが、自分的には、「出したいなら重力を利用して落としていくしかない」という論理的な考えに基づいただけのこと。食べれば太る、食わねば痩せると同じ理屈である。尿路結石も痛いが、心筋梗塞で逝った友人には状況は聞けないけれども、あれも痛いらしい。昔は、がんも痛いと聞いたが、近年は緩和ケア体制が進んで楽になったという。

    痛みを感じる病気はさまざまあって、痛みのベスト3にあげられるのが、その痛みの度合いの順序として、①くも膜下出血、②心筋梗塞、③尿路結石だそうな。①も②も経験はないが、確かに尿路結石の痛みは、今までに経験した事のない痛みであった。また、①や②は生命の危機に関係するが、尿路結石で死ぬようなことはない。が、死ぬような痛みではある。

    痛みが起こる理由は、尿路につまった石が尿の排出を堰き止め、それでも腎臓はどんどん尿を生産、水腎症を引き起こす。水腎症とは、尿細管から腎盂、尿管、膀胱、尿道までのどこかで尿の流れが閉塞された状態(尿路閉塞症)をいい、とくに腎盂よりも下部の尿路閉塞によって腎盂と腎杯の拡張が生じて血流障害を起こす。この状態が続くことにより実質腎は萎縮する。

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    腎臓に石がある状態では痛みは起こらないが、石が尿管に落ちてきた時に痛みが生じる。痛みの治療は、単に痛みどめを処方して「自然に出るのを待ちましょう!」というのが一般的だ。石を出す効用のある薬はあることはあるが、泌尿器専門医師はその効果をあまり信用していず、「おまじない程度、飲まないよりは飲んだ方がいいかも…」程度の処方のようだ。

    裏ワザ的には、前立腺肥大症に使用する薬を処方すると、尿管が拡がり石が出やすくはなるが、保険診療では適応疾患とされていない。よって医師は、「石が出るようにいっぱい水分を摂ってください!」という言葉を添えるしかない。今回は、前回(6年前)のような激痛は一度も起こらず、大腸がん予後検査のCT影像で偶然見つかったときは、11mmの大きさになっていた。

    泌尿器科の医師の第一声は、「自然排出は見込めません。体外衝撃波結石破砕をお勧めします。」であった。「いいえ、自力で出しますから…」と言うと、「10mm以上の石が自然排出したのは聞いた事がありません」という。(「じゃかましい!出すと言ったら出すんじゃ!」)と腹で思いながらも、口では「とりあえずやってみます」と穏やかに言っておく。

    それにしても、石がここまで大きくなるまでになぜ気づかなかったのか?2月のCT検査では見つからず、8月のCT検査で見つかった。見落としなのか、それとも半年間で11mmにまで石が成長したのか?単刀直入に聞いてみた。「半年前にはなかった石が急にそんなに大きくなるものですか?それとも見落としですか?」。「2月のCT画像を調べて見ましょう」と医師。

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    「2月の時点では腎臓内にあります。腎結石ですね。腎結石の場合、見つかっても患者さんにお知らせしない事もあるんです。特に悪さをしないし、問題は尿管に出てきたときですね。痛みも伴うし、水腎症を発症もあります」。「尿管に石が出るまで患者に知らせないなら、腎結石は病気ではないんですね」。「いえ、知らせないこともあるということです。」

    「知らせないこともある」というが、知らせて悪いわけではないだろう。と、斯様に自分は思う。知らせないメリットがどこにあるのか分らないし、医師は誤魔化す言葉はいうが、間違ったことはいわないという立場のようだ。立場は分かるけれども、「今、腎臓内に10mm程度の結石が認められます」を、あえて言わない理由は、常識的に考えても解せない。

    今回、これほど大きな石にも関わらず、痛みがなかったのは幸いである。尿管が広がっていたのだろうか?痛みを伴わない、自覚症状のない尿路結石は、前回の激痛を体験してるだけにありがたい。結石の長径が5ミリ以下では自然に排泄の可能性が高いとされ、手術が行われるのは、結石が自然に排出されず、閉塞や感染によって腎機能が障害されている場合。

    前回は7mmの結石だが、排石まで一年数カ月を要した。今回は11mmということでもあって相当身をいれた。医師の「10mm以上の自然排石は聞いた事がない」の言葉に、「なんとしても出してやる!」ろ抗する気もあった。出た石は半年前に比べて成長し、13mmになっていた。尿管から膀胱に落ち、膀胱から尿道に出てきた感じは、痛みが増すことで分かった。

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    石で尿道が刺激されることで、頻尿になり、たびたび小用を足したくなるが、つまっているので出にくい。排尿の勢いを借りるために、頻尿を我慢し、多くの尿を溜めてイキム感じで出ない尿を強く出すが、苦痛と違和感が数日続いた。「つまっていやがるな、この野郎!」と、痛みと格闘の数日間。膀胱から尿道に入って約2週間くらいで排石したようだ。

    いきなり、ポーンと飛び出るのだが、その時の喜び、安堵感は、出産後の妊婦の気分と想像した。思わず、石を拾い上げ、生んだ赤子を眺めるように、しげしげと石を眺める。「こんなものがお腹の中にいたんだ」という感慨と、やれやれという安堵感に、出産を重ね、そこで一言。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」

    石を出す理由で始めたウォーキングだが、石が出てしまって、目的を失ったわけではない。ただ、跳んだり跳ねたり歩きをする必要がなくなった。全身の血流がよくなる、脳に酸素を含んだ良い血液が流れるなどの利点もあるからして、今後も続けるつもりだ。買ってまだ一度も履いていないシューズもあるし、月に400kmも歩けば潰したシューズも2足になった。

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    普段はあまり気にも止めないふくらはぎだが、専門家の間では、「第二の心臓」と言われているらしい。ある医師がふくらはぎに着目したのが40年前。こんな理由からだったという。腕の点滴が入りにくい患者のふくらはぎが変に冷たく、マッサージしたら点滴が入りやすくなった。同じ経験が続き、どうもふくらはぎが上半身の血行を左右していることに気づいた。

    心臓から出た血液は動脈から全身に行き渡り、静脈を通って心臓に戻る。体中に新鮮な血液を届けるため、循環システムは活発なほど良い。ところが、下半身のふくらはぎ部の静脈血を、重力に逆らって心臓まで送るのは容易でない。静脈内には2~5センチおきに弁がある。下から上がってくる血液は通すが、通り抜けた血液は通さない。これは逆流を防ぐため。

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    心臓の鼓動や呼吸に伴う体の動きだけでは、弁を押し広げて血液を送り出すにはどうしても力不足となり、そこでふくらはぎや足の筋肉がポンプのように収縮し、血管を圧迫する作用が不可欠となる。これがふくらはぎが"第二の心臓"といわれる理由である。したがって、ふくらはぎが硬くなったり、筋肉が衰えたりすると、血液がうまく心臓に戻らない恐れがある。

    専門家にいわせると、革袋に似たような、弾力性のないふくらはぎの人は腎臓が弱く、硬く膨らんで熱いと血圧が高い。また、第二の心臓ふくらはぎは、「エコノミークラス症候群」とも関係がある。エコノミークラス症候群とは、飛行機のエコノミークラスに乗った人が、到着後に急に具合が悪くなり、死亡する事故が相次いだことなどから、言われるようになる。

    ワールドカップ前に、サッカー選手がこの病気を起こしたことなどで広く知られるようにもなった。この病気は長時間、同じ姿勢で座ったままでいると、脚の静脈の血が流れにくくなり、膝の裏あたりの静脈に血栓ができる事で起こる。足の静脈の血栓から、肺や血管が血栓で詰まって死ぬ人もいる。狭い所に長時間座っていることでポンプ作用が弱まるらしい。

    「旅行者血栓症」や「ロングフライト症候群」などと呼ばれることもあるが、 医学的には、「深部静脈血栓症」といい、血栓が肺に運ばれ、肺の血管が詰った場合は「肺塞栓症」という。ちなみに肺塞栓症は乗り物だけに限らず、長期入院で寝たまま(下肢の骨折など)だった患者が起きあがって、やっと動けるようになった途端、肺塞栓症になることもある。

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    近年はかかとよりもつま先が高い靴など、ふくらはぎを鍛えるための商品もある。が、器具を使わなくてもふくらはぎは鍛えられる。オリンピック選手の強化担当を勤めた東京大学の小林寛道教授は、「ふくらはぎは健康のバロメーター。よく歩く人ほど発達している」と話す。歩くときはひざの後ろを伸ばす感覚で踏み出し、かかとから着地するとよいという。

    単純で、素朴で、歩きながら様々なことを思考できるウォーキングは、電車に乗ってすぐに携帯やスマホを取り出すよりもはるかに健康的価値が高い。以前は電車内でも沈思黙考、いろいろ思考できたものだが、最近の若者はすぐにスマホである。全員が横並びで携帯をいじってる姿は異様である。思考を止めた弊害は、おそらくあると思うが…?


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        1日 23023歩  15655m   92/分
       2日 23385歩  15901m   94
        3日 46638歩  31713m    93
       4日 25279歩  17189m     83
       5日 11604歩   7890m      89
       6日 16084歩  10937m     86
       8日  28602歩  19449m     88
       9日 23880歩  16238m     92
       10日  6177歩    4200m     82
        11日  16586歩   11278m     74
        12日 24532歩  16681m     88
       13日 11429歩    7771m      92
       14日 22988歩  15631m     89
       15日 32818歩  22316m     89
       16日 12370歩   8411m      87
       26日 24125歩  16405m     85
       27日 12646歩   8599m      85 
       29日 34314歩  23333m   86

       total 396480歩  269597m

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    ということで、2月はインフルエンザもあり10月に始めて以来400000歩を割った。前月比歩数ではマイナス31479歩、距離数でマイナス25405mとなった。こうして数字の積算を眺めると、『千里の道も一歩から』を実感させられる。そういえば『三百六十五歩のマーチ』という歌もあった。♪1日1歩、3日で3歩、3歩進んで2歩下がる、比喩であろうがオカシな歌だ。

    その後に、♪人生はワンツーパンチ、と続く。まったくなんのこっちゃで…?出だしも変な言葉に思えた。♪幸せは歩いてこない、だから歩いてゆくんだね、って大意は分からなくもないが、もう少しいい言葉があったのでは?は否めない。実はこの曲は、水前寺清子当人がレコーディングを嫌がり、それを作詞家の星野哲郎が懸命に説得したという。

    水前寺が嫌がったのは、歌詞の「ワンツー」という英語読みの部分で、演歌歌手としてデビューし、これまで日本人の心を歌ってきた彼女としては、どうしても「ワンツー」と英語で叫ぶ歌詞が受け入れられなかったのだという。今でこそ『三百六十五歩のマーチ』は水前寺の代表曲となっているが、レコーディング時にはこういうエピソードがあったのだという。

    1日に一歩づつ、地道に進んで行けばいいという意味だろうが、幸せは歩いてこない、だから歩いて行くという歌詞に、引っかかりを感じるのは自分だけであろうか。伝わればいい、通じればいいというなら問題ないが、幸せは向こうから歩いてくるというより、こちらから見つけに行くものではないのかと。来るとか、来ないではなく、動いて探しに行くものだろう。

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    幸せの定義は、それこそ人の数ほどあるのだろうが、それはまた言葉を変えれば、定義づけられないということでもある。それでも定義づけたいのが人間であり、偉人、賢人、宗教家、哲学者などが、幸せを定義づけようと幾多の言葉を残している。ある童話作家は、幸せの青い鳥を見つけに行くと画いているが、これまた幸福の抽象的概念である。

    10年近くブログを書いた自分も、おそらく幸せについてページを割いたことだろうし、ハッキリと記憶はないが、記憶というよりも幸せというものを定義づけてはいないはずだ。できるなら定義づけてみたいが、自分の幸せ観については、自分のことだから分かっている。しかし、万人に対する普遍的、絶対的な幸せというのは、宗教者の様に持っていない。

    瞬間的な幸せ感に浸ることはできる。断続的な幸せ感もあるように思う。が、長期継続的な幸せ感となると、人によって変わってくる。テレビが大好きという人間は、テレビが幸せ感をもたらせてくれるものだし、映画やスポーツ観戦、読書、グルメ、旅行など、人それぞれの幸せ感はいろいろであろう。学者は学問する事が仕事であるが、それはまた幸せ感でもある。

    学者でなくとも、勉強に青春を捧げた人は、難関高校~難関大学に入ったことで幸せ感を抱いたはずだ。どういう幸せ感であるか、これまた人にもよるが、勝ち組的幸せ感であったり、将来の前途に光明が見えたような幸せ感であったり、自尊心を満たす幸せ感であったり…。言われてみると、テレビが幸せ感に浸れるほどに面白かった時期は自分にもあった。


    時期なのか、時代というべきか、どちらでもあったような気もする。大人たちが花見や酒宴の場で、楽しそうに歌い、踊っていたのを思い出す。『炭鉱節』や『安木節』、はたまた『野球拳』が、戦中派世代にとっては他愛もない宴会芸だった。子ども心に何が楽しいのかも分からぬままに、大人たちのあどけない幸せ気分を眺めながら、自分もあんな大人になるのかと…

    『野球拳』とは、どちらも歌って踊って、その中で歌にあわせてじゃんけんをし、負けた側が服を一枚づつ脱いでいく。『野球拳』の歴史は、幕末当時に流行の発信地であった横浜の遊郭で流行り、『横浜拳』と呼ばれていたが、これが愛媛県松山の遊郭に伝わり、松山で郷土芸能とされた。これをテレビでやったら受けるのでは?と、プロデューサーの発案で始まった。

    当時のテレビ番組を観るに、よくもこんなバカげたことをやっていたものだと呆れもするが、テレビで女性が洋服を脱ぐという、そのことで視聴率を稼いだ。TBSの『時間ですよ!』も、銭湯が題材であることが、女性の脱衣所や入浴シーンを必然的とし、それがまた視聴率を上げた。「面白くなければテレビでない」をキャッチフレーズにのし上がった局もある。

    フジテレビである。現在のフジテレビのあまりの凋落ぶりは、バラエティー依存の無能プロデューサーが、バカ番組しか作らなかったからであろう。元NHKでチーフプロデューサーでもあった評論家立元幸治は、著作『誰がテレビをつまらなくしたのか』で、「テレビ番組がつまらなくなった原因と責任の多くはプロデューサーにある。」と、以下述べている。

    イメージ 3「海外ではテレビ番組の国際市から売れている番組を購入したり、一流プロデューサーを使い、大金を投じて番組を作る。日本はコネ入社の三流プロデューサーが思いつきで番組を作る。彼らは年収1,000万以上の高給取り」と指摘、「お笑い芸人やタレントらには1回の出演で数百万から数千万の出演料を出しながら、クイズやバラエティの景品は安物の山。

    しかるに芸能人は、大金をもらいながらも安っぽい景品や食事で一喜一憂し、一般視聴者と同レベルの生活を演じている。完全に視聴者を肴にし、バカにしている」と、切り捨てる。長年テレビに関わってきた大橋巨泉も、近年の知性の欠片もないバカ芸能人の騒ぎっぷりに、「バラエティーと称する、わけの分からないものは日本にしか存在しないんです。

    外国では台本がきちんとあるシチュエーションコメディーと、ライブだけ」。「今のバラエティー番組は、芸能界の内幕ネタばかりで、芸能人が使い捨ての状態になっている」と批判した。バカを演じるのは知性だが、バカをさらすだけの地バカ芸人を観て喜ぶ視聴者も問題だ。社会評論家の大宅壮一は、テレビの出現を機に、『一億総白痴化』という言葉を生み出した。

    大宅は、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」との懸念を述べた。これを裏づけるかのような研究が、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)と、竹内光准教授(同)らによってもたらされた。2013年11月、川島・竹光らのグループは、子ども長時間テレビ視聴に異を唱えた。

    川島らは、言語知能などをつかさどる脳の前頭極に悪影響を与えるとする研究結果を発表。以前からテレビが子どもの読書能力や注意能力低下が言われていたが、研究によって科学的に解明されたことになる。「テレビ視聴制限の必要性が脳科学でも裏付けられた。生活習慣が脳の発達に影響することを子育て中の親に知ってほしい。」と川島教授は警告する。

    女子高生売春についても言えるが、自身の短絡的行為が、今後の自分の将来にどのような影響を及ぼすかなど考えず、場当たり感情で動く人間が多くなっている。時給2~3万の"身ウリ"が沁み付いて、どうして時給800円の地道な仕事を黙々と頑張れるだろう?低俗番組で幸せ感に浸る者も、万札数枚で身売りする女子高生も、一応その場の幸せ感は得れている。

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    が、如何様に考えても継続的な幸せ感には結びつかない。ばかりか、ともすれば継続的な幸せ感に到達できる要素を失っているのではないか?どうすれば人は幸せになれるのかは分らない。18歳までは学力がすべてと考える青年もいるだろう。彼らは自分たちの周囲及び、塾や予備校などの受験産業で食い扶持を得ている人たちの言葉しか、耳に入ってない。

    受験や受験産業従事者以外の高齢者や大人たちと話してみれば、人間がいかに健康や人間関係が社会生活の機軸になるかを耳にする。自分も受験産業に利害のない立場であり、だから「どうすれば幸せになれるか?」についての根本には、学力や経済力は関係ないことを知っている。金がすべてという風潮もあるが、ゲイツは幸せなのか?ジョブズはどうだった?

    格差社会は、「貧困は遺伝する」などの新語を生んだ。確かに子どもの学力が親の経済力によって左右される世の中はオカシイと言わねばならないし、変えるべき事案である。が、そうはいっても、それで個人の幸福や不幸が決まるわけではなかろう。『受験必要論』を書いた予備校講師の林修、あんなものは我田引水で、彼らが自身の存在意義に肯定的なのは本を読まずとも当たり前。

    予備校講師でありながら、『受験不要論』を書くというなら買って読むかも知れぬが、受験学力を金で売っている受験産業従事者連中が、『受験必要論』などと、何を「今さら!」である。『患者よ、がんと闘うな』(文芸春秋)の著者で、元慶応大病院の近藤誠医師は、「医師不要論」で学界から孤立したように、現実にみても、「テレビ不要論」をテレビが報じるわけがない。

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  • 03/03/16--15:06: 貧乏は遺伝する?

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    格差の要因は単に親の経済問題にとどまらない根深さがある。格差は家庭における文化として伝達され、生活様式全般が子に受け継がれて行くことになる。「貧乏や、貧困は遺伝する」という言葉が言われるような、そんな危険な状態に入ってしまった日本である。2015年8月28日、安倍首相は子どもの貧困を防ぐための政策を年内にまとめる方針を表明した。

    政府は、「子どもの貧困対策法」の具体化の一環として、ひとり親家庭の支援策などをまとめた。親の失業や離婚などによって家庭の経済状況が悪化し、貧困状態に置かれる子どもたちの問題は依然として深刻で、「貧困線」を下回る所得しかない世帯で暮らす18歳未満の子どもの割合を示す「子どもの貧困率」は、2012年に過去最悪を更新して16.3%にのぼっている。

    子ども6人に1人は貧困家庭で、給食費が払えない子どもも珍しくない。また、ひとり親の増加によって放置児童も増え、夜中に外をうろついて事件に巻き込まれる子どもも出てきている。子どもの虐待も増え、児童虐待相談も急増するなど、貧困から派生する問題が深刻化し、そのしわ寄せが子どもたちに及びとあっては、もはや政府も座視することができない。

    2015年11月4日、厚生労働省は就業形態の多様化に関する総合実態調査の結果を発表した。これによると、パートや派遣労働といった正社員以外の労働者の割合(事業所調査)は昨年10月時点で40.0%となり、調査開始以来、初の4割に達した。今回の調査から官公営の事業所も調査対象に入り、厳密な連続性はないが、2010年の前回調査から1.3ポイント増加している。

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    日本の企業は高齢化対策もあって、企業が雇用する従業員の数はむしろ増加している。その雇用を維持するために正社員の数を減らし、非正規社員の割合を増やすことで総人件費の抑制を進めてきた。この動きを止めるためには、企業が生産性をさらに向上させ、賃金増加の原資を確保する必要があるが、現在の日本企業はそのような状況になっていない。

    したがって、非正規社員増加の理由は「賃金の節約」であり、その根本要因は、日本企業が儲かる体質になっていないこと。「貧困は遺伝する」など遺伝学的にはあり得ないが、子どもの貧困を放置する無策政治を行っていては、子どもの将来及び、日本の社会全体に大きな問題を及ぼすことになる。その理由の一つとしていわれるのが、「貧困の連鎖」である。

    貧困世帯に生まれ育った子どもは貧困から抜け出せず、あたかも「貧困が遺伝する」ような様相を見せることから生まれた言葉である。長野県に住むあるシングルマザーは悲惨である。2年前に生活保護を受けるまで、彼女の食卓に常に並んだ献立は、白飯、サラダ油、しょうゆである。ざっくり混ぜて食べると、油のコクで空腹が満たされるというのだ。

    最初はツナ缶の残りの油をかけていたが、缶詰は買えなくなった。長女(9)と次女(8)は「おいしいよ」と食べた。おなかをすかせた2人は生活保護を受ける前には、母に隠れてティッシュペーパーを食べていた。次女は塩をふり、長女は、「ティッシュって甘いのもあるんだよ」と、教えてくれた。いい香りのもらい物ティッシュは、噛むと一瞬甘いという。

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    2010年、夫の暴力に耐えきれず家を出た。派遣社員として工場で働き、月収は多くて15万円で、うつ状態で休みがちになる。収入は減少、光熱費を滞納し始めた。滞納が国民健康保険料にまで及ぶと役所から呼び出され、「収入10万円でも払っている人はいる」と職員に言われた。12年暮れ。次女が風邪をひいた際に訪れた病院の小児科医に生活保護を勧められた。

    申請の申し込みに行った役所で欝と話しても、「もう少し働いたら」と促され、申請をあきらめた。その後、クレジットカードのキャッシングを繰り返したが、数カ月で返済が滞った。13年暮に電気を止められた。ろうそくのともる部屋で長女から、「死んじゃうの?」と聞かれて決意。小児科医の助言もあって生活保護を申請。欝で就労困難として認定された。

    現在は月18万円ほどで暮らすが、なかなか申請に行けなかった理由を振り返る。「周囲の厳しい視線を感じて殻に閉じこもった。周りの人もがんばってるんだから自分だけ甘えるのは恥ずかしく、なかなか言い出せなかった」と…。かと思えば、大分県別府市では、朝からパチンコ三昧の生活保護受給者が遊戯施設巡回員に見つかり、支給額を減らされた。

    2年前にも、生活保護費の不正受給やギャンブルへの使用を禁止した、「小野市福祉給付制度適正化条例」が兵庫県小野市で施行されたことで、多くの賛辞が寄せられた。「市民感覚からすると、受け入れられないでしょう」、別府市の職員は言う。別府市の調査は、2015年10月の計5日間、市職員35人が市内にある13のパチンコ店と市営別府競輪場を巡回を行った。

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    見つけた生活保護受給者25人を一人ずつ市役所に呼び出して注意し、次の巡回で再び見つけた場合は1か月分支給額を大幅に減らした。調査を始めた理由について市の担当者は、「別府市は他都市に比べて生活保護の受給率が高く、遊興施設も多いです。市民感覚からすると、受給者が昼間からパチンコ店に入り浸る様子は受け入れられるものではないでしょう」と話す。

    受給に該当すべく人が受給に敵わず、受給に相応しくない者が受給を受けているといった、これも世の中の矛盾である。貧困世帯の遺伝(連鎖)があるというなら、生活保護を不正に受給しながら遊びほうけるような親も、子どもに受け継がれることだろう。子どもは環境の中で育ち、多くの刺激や様式を受けていく。親の貧困は子に責任はないが、ズルイ親の責任は大きい。

    遺伝と言えば容姿や性格や、気質・体型が遺伝するというように、肉体的・精神的なものについて、親のDNAを受け継ぐことを指すが、貧困とは社会現象であって、遺伝とは結びつかない。だから、「貧困が遺伝する」という言い方は適切ではないが、それなのに、遺伝と結びつけられている。「貧困が遺伝する」という言葉には、実は2つの意味が含まれている。

     (1)貧困者の子供は自動的に貧困生活になる。
     (2)貧困者の子供は一生貧困のままで終わる。

    重要なのは、(2)の部分。貧しい家庭に生まれた子どもが貧しい生活をするのは当たり前の現象だが、問題は彼らが一生その世界から抜け出せない可能性が高いということ。なぜ、貧困の中で生まれた子どもたちは、そこから抜け出す可能性が低いのか。キーワードが「教育」である。現代社会は複雑、専門的であり、そこで働くためには一定レベルの教育が必要となる。

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    したがって、現代社会が高度な知識・技術・技能を求めている以上、教育レベルは高いほど良い。その人間が妥当な教育レベルにあるかないかを出身大学で判断したりの企業もあろう。特に専門職なら高いレベルが必要となる。そういった教育を受けるためには本人の資質も重要なのだが、その資質を伸ばすための学校なりに通う「教育費」も重要になって来る。

    ここに資産家の子どもが比較的「高学歴になりやすい」理由がある。お金持ちにとって教育費に何の問題もなく、ありとあらゆる教育サポートが可能になる。本人が望まなくとも与えられ、何ら資質がない子どもであっても、資質を伸ばすべく環境が用意される。財力があれば、場合によっては学歴さえも金で変えるなら、どう考えても「金持ちは得」、「貧乏人は損」となる。

    中身はともかく、表面的には学歴や所持資格で「飾る」ことすらも可能になっていく。貧困層は日々の生活をやりくりに精一杯で、子どもの教育に投資することなどできない。また、貧困層の環境も、学歴を向上させるような雰囲気になっていないことも多く、子どもにいくら資質があったとしても、その資質は活かされることなく眠ったままになってしまうことが多い。

    ここまで書くと、貧乏人は何の活力もない、どうにもならない状況に思える。が、そうならないようにするのが親の親力であろう。貧困家庭に生まれながらも知性と能力を発揮し、努力で成り上がっていく子どもたちもいる。そういう子どもたちの何が違うかは親であろう。資産家で金持ちの子どもにどうしようもないバカ、マヌケがいるが、親の態度遺憾で子どもは変わる。

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    諺や成語や慣用句ではないが、こういう言葉がある。「一流の親から一流は生まれない。一流は三流の親から生ずる」。自分はこれを「一流は三流からの法則」といっている。世の中を見渡せばそういう例は少なくないし、心当たりも多い。親が一流であるのは最高の師という環境であり、遺伝子的にも恵まれているはずだが、なぜ一流から一流が生まれないのか?

    様々な理由があるが、独断と偏見で思考した法則である。物事に100%はないし、例外も少なくないが、こと、「一流は三流からの法則」においては、極めて例外が少ないようだ。「親バカ子バカ」、「蛙の子は蛙」、「瓜の蔓(つる)に茄子はならぬ」、「トンビが鷹を生む」など、才能の遺伝はあってもなくても、こと一流に関しては遺伝を超えた努力のたまものだろう。

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  • 03/04/16--15:12: 貧乏は遺伝する ②
  • 街がイルミネーションで彩られ始めた11月中旬の夜。九州のある街で、母の梓(42)と小学6年の美雪(12)、小3の直樹(9)、小2の沙織(8)=いずれも仮名=の3きょうだいが「子ども食堂」ののれんをくぐった。母親は入るときためらいもあってか、少しうつむいていたが、子どもたちを、「ただで食べられるレストランがあるんだ。ママも料理作らなくて楽だから行こう」と連れ出した。

    「家が貧乏だと思われたくない」から、ごまかした言い方である。子どもたちは、食堂の和室に座ると、「レストランじゃないじゃん」などと、正直なのがあどけない。それでも、ミンチカツの載ったカレーライスとナシが運ばれると子どもたちは、「すごーい、ナシだよ。カレーだよ」と素直な笑みに変わる。無言でカレーをかき込み、カチカチとスプーンが皿に当たる音が響いた。

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     元気な声で、「おかわり!」。美雪は3杯、直樹も2杯をたいらげた。「おなか、ぺこぺこで来たんです」と母の梓は涙声。来たときは緊張した様子だった子どもたちも、カレーを食べ終わると、沙織が、「しちろく しじゅうに」と学校で習ったばかりの九九を唱え始め、みんなの笑い声が上がった。久しぶりのだんらんで、「おなかも心も満たしてもらった」と梓は感謝した。

    夫とは数年前に離婚。パート従業員としてスーパーで働き、賞味期限が切れた食品をもらっていたため、食べるものには困らなかった。ところが夏にスーパーが突然閉店し、働き口を失った。貯金もなく、月に16万円あった収入は10万円程度の失業保険だけになった。就学援助を受けて小学校の給食費は免除されているが、アパートの家賃に光熱費、持病を抱える子どもの通院代などの支払いは待ってくれない。

    豆腐ばかりの鍋やキャベツの千切りで我慢し、食費を節約してぎりぎりの生活を続ける。子どもたちは、給食以外に食べ物を口にできない日もあり、「おなか減ったよ」と繰り返した。そんな時、インターネットで子ども食堂の取り組みを紹介する本紙の記事を読み、「自宅近くにもないか」と探して見つかった。すがる思いで運営者にメールを送った。

    「財布に小銭しかなく、悩んでいます。子どもたちだけでもご飯を食べさせてください」初めて子ども食堂に来た日、梓の財布には200円ほどしか入っていなかった。「またレストランに行こうね」、「今度はどんなごちそうが出るのかな」。子どもたちも食堂を気に入った。あれから何度か通い、古米をリュックサックいっぱいに詰めてもらったこともあった。

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    美雪が熱を出して寝込んだ時は、家で雑炊を食べさせることができた。だが、失業保険はあと数カ月で切れる。来年、美雪は中学生になり学費もかさむ。せめて高校までは行かせたい。美雪と直樹が夢中になっているサッカーも月に4千円ほどかかるが、続けさせてあげたい。ハローワークで再就職先を探す日々。子育ての制約があり条件がなかなか合わない。

    ほかの公的支援が受けられないか福祉関係者に相談しながら、なるべく早く生活を立て直したいと思っている。「子ども食堂に偶然出合えて、ありがたい。生活が安定したら私が子ども食堂に寄付して支えたい」この子ども食堂が開かれるのは週に1度。梓のような親子のほか、住む家がない少女、子どもたちだけで暮らす少年たちが訪れ、寄る辺ない生活の中でひととき、空腹を満たす。

    経済的貧困や親のネグレクト(育児放棄)など、さまざまな事情で十分な食事を取れない子どもたちのための「子ども食堂」が、九州でも広がっている。ひとり親世帯の3割が経済的理由で食料を買えなかった経験がある、との調査結果もある。気軽に立ち寄って、悩みを相談できる居場所づくりを兼ねている場所も多い。だが、運営は自費や寄付で賄うところが大半だ。

    善意が、子どもたちの空腹を満たしている。「おかわり!」、「僕も!」。ちゃぶ台を囲んだ子どもたちが元気な声を上げる。10月25日、福岡県久留米市の「くるめこども食堂」。商店街のイベントスペースで8月に開設され、毎月最終日曜日にカレーライスを提供している。子どもの負担は300円だが、絵を描いたら100円引きでおかわり自由。この日は約40人に100皿を提供した。

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    運営する河野大助さん(38)は子どもたちにあえて事情は聞かない。「自分が子どものころは近所のおっちゃん、おばちゃんが何も聞かずに世話を焼いてくれた。そんな大人が必要」という。子ども食堂は2012年8月に東京都大田区の青果店が始めた。河野さんは今年7月にニュースで知り、電気やガスも止められ、満足な食事にありつけなかった自分の少年時代を思い返した。

    「同じようにおなかをすかせた子は今も大勢いる。見過ごすわけにはいかない」。支援者などから野菜の提供を受け、足りない分は自費で運営を続けている。国立社会保障・人口問題研究所の12年7月の調査によると、子どもを抱え、過去1年間に経済的な理由で食料が買えなかった経験のある世帯は、ひとり親世帯で32%、両親がそろう世帯でも16%に上っている。

    福岡県の教育関係者は、「給食頼りの小中学生で、夏休み明けにげっそりとやせてくる子もいる」と明かす。長崎市の内にはうどん屋を改装した「夢cafe…ひまわり」がある。昨年11月から、毎週木曜日の午後6時半~9時にカレーを無料提供している。「今日初めてのごはん」とうれしそうに食べる子ども。自費で運営する川井健蔵さん(68)は子どもの学習会も開いている。

    「問題山積の子どもにも夢や目標を持ってほしい。必要な支援へと、子どもをつなげる場を目指したい」。福岡市博多区の板付北公民館では、食育活動などに携わる人たちが今月28日から、毎月第4土曜日に昼食を出す準備を進める。子どもが持ち寄る200円と公の基金を活用する。若者の貧困や孤立問題に取り組んできた、福岡市の一般社団法人「ストリート・プロジェクト」も動き出す。

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    昨年4月から、JR博多駅前のマンションで15~25歳を対象に無料で食事を提供。支援者が寄付の食料を利用したり、古本の売却益などで運営する。坪井恵子理事長(55)は「ここに来る子たちは虐待など重い課題を抱えているが、まずはおなかを満たしてもらわないと本音も聞き出せない。『ご飯を与えれば解決』ではなく、長い目で多方面から支援していきたい」と語った。

    ひとり親家庭となる原因の8割は離婚。厚生労働省の調査によると、年間の離婚件数は1950年代は7万台で推移していたが、2002年の約29万をピークに、14年も約22万2000と高い水準にある。11年度の調査で、母子家庭は約124万世帯、父子家庭は約22万世帯。一般世帯の男性の平均給与所得(10年)は507万円だが、母子家庭の母親の平均年間就労収入(11年度)は181万円。

    母子家庭の場合、パートやアルバイトなど非正規の割合は47.4%に上る。父子家庭の父親も360万円にとどまる。厚生労働省の調査では、平均的な所得の半分を下回る世帯で暮らす18歳未満の割合(子どもの貧困率)は、2012年で16.3%と6人に1人となり、過去最悪となっている。母子家庭を中心に大人1人で子どもを育てる世帯に限れば54.6%に上る。

    九州はより深刻で、就学援助受給率などから西日本新聞が試算した結果では、ほぼ5人に1人が貧困状態とみられる。こうした状況は周囲からは見えにくい。貧困家庭の子どもが必ずしもぼろぼろの服を着ているわけでもない。公立高校の教師は「制服を着ていると同じようにみえるが、授業中、机に突っ伏して空腹に耐えている子もいる」と話す。

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    大学や短大への進学率は13年の全世帯の全国平均53.2%に対し、生活保護世帯は19.2%にとどまる。学歴は生涯賃金に大きく影響する。中学3年生の通塾率が6割を超える中、十分な教育を受けられない貧困世帯の子どもの貧困が次世代に連鎖、抜け出せなくなる構図がある。貧困は子どもから「機会の平等」を奪う。「困っている子どもを救いたい」と思う人は少なくない。

    どうすれば子どもたちに必要な支援が行き届くのか。政府の貧困対策の充実など具体的な解決策に結びつくのか。多くの子どもは親の何がしかの理由で、貧困生活を強いられるこ戸になる。「子どもに明日を…」社会全体で考えるそんな状況にある。親の離婚や破産の例もあるが、病気で働けなくなった場合もある。特に親が欝や統合失調症など精神疾患などは深刻だ。

    厚労省が2005年1月~14年3月に子どもが虐待死した777事例を分析したところ、実母に「育児不安」があった事例が25%、「精神疾患」と「うつ状態」がそれぞれ14%(複数回答)みられた。一方、東京都の05年の調査では、育児放棄などの児童虐待が行われた家庭のうち、3分の1が貧困状態であり、子どもの生活や命にまで影響を及ぼしかねない状況である。


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  • 03/06/16--15:45: 貧乏は遺伝する ③
  • 2013年5月24日、大阪市北区天満のマンションの一室で、母子2人の遺体が見つかった。室内には食べ物はなく、食塩があったのみ。預金口座の残金は十数円で、電気やガスも止められていた。大阪府警天満署は生活に困窮して餓死の可能性が高いとみている。発見されたとき、2人は布団の上に仰向けに倒れ、目立った外傷はなく、幼児には頭から毛布とバスタオルがかけられていた。

    親子は職業不詳の母親井上充代さん(28)と、瑠海(るい)君(3)である。「最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」と、ガス料金の請求書の封筒に母親が書いた見られるメモが痛々しい。2人は昨年10月ごろ、同マンションに入居したが冷蔵庫はなく、2月ごろ死亡したとみられている。瑠海君が先に亡くなった後、間もなく母親も死亡した用である。

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    母親の井上充代さんが数年前、夫から配偶者間暴力(DV)を受けていたことが府警などへの取材で分かった。井上さんは夫と別居してマンションに移ったが、広島の実家にも居場所を伝えていず、これは夫に自分たちの居場所を知られないようにするためとみられている。行政に支援を求めた形跡はなく、頼る相手もいないまま孤立を深めた可能性が高い。

    【 父親は息子に食事を全く与えず、奨学金も流用…生徒の食「配給」が命綱 学校に米やカップ麺 】

    上は2016年2月16日付、西日本新聞の記事の見出しである。福岡県内のある公立高校。「生徒指導室」に置かれた段ボール箱には、パック入りのご飯やカップラーメン、レトルトカレー、缶詰などが入れられている。家で十分な食事が取れない生徒が持ち帰るために用意されているが、他の生徒には知らせていない。Tくんは生活保護を受ける父親と2人で暮らし、奨学金をもらい高校に通う。

    生徒支援担当の田中教諭(31)がTくんの異変に気付いたのは2年生時。修学旅行費の積み立てなど、月に約1万円の校納金がまったく入金されなくなった。現状視察のために家庭訪問しても父親は居留守。何度も通うと、「うるさい!せからしい!」と怒鳴る。父親は息子に食事を与えず、Tくんの奨学金も流用していた。Tくんは夕方から飲食店でバイト、店のまかないで食いつなぐ。

    生徒指導室の食料は、Tくんにはありがたい。間もなく卒業、専門学校に進学希望し、学力は申し分なかった。が、田中教諭はこう諭した。「学費は1年間で100万円かかる。奨学金をもらっても、お父さんが流用する。就職したほうがいい」。教諭の言葉を受け入れ、Tくんは専門学校への進学を諦めた。田中教諭が生徒指導室で食料提供を始めたのは約3年前になる。

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    生徒の相談に関わるうちに、経済的な理由や養育放棄で食に困窮するケースが少なくないことに気付いた。がりがりに痩せ、「最後に何を食べたか覚えていない」と話す生徒もいた。教諭は民間の支援団体代表にこうした現状を話すと、「私たちが食品を提供しましょう」と申し出てくれた。田中の個人的努力と民間団体の取り組み巧を奏し、これまで継続的に受け取った生徒は約10人。

    「学校は子どもを救う最前線。子どもたちが抱える問題は、目を凝らさなければ見過ごしてしまう」。家庭や行政の福祉部局を日々、走り回る田中教諭は自らにこう言い聞かせる。奨学金の給付を受けているにも関わらず、父親がそれに手を出す家庭も少なくない。まして奨学金は後に返済義務を負う。奨学金には2種類ある。返すべきものと、返さなくてもいいもの。

    文科省が所管する日本学生支援機構が給付している奨学金はすべて「貸与型」で、つまり返さなければいけない奨学金。また、貸与型には有利子と無利子2種類があるが、共に返済が必要な点ではローンと変わらない。この奨学金が近年問題を抱えている。つまり、卒業後に返済に追われて自己破産のケースもある。生活が苦しいために奨学金を借りるわけだが、これでは本末転倒だ。

    貸与型だけでなく、返さなくてもいい「給付型」の奨学金が望まれる。返済の必要がない給付型にすれば勉強に集中することもできる。他の国の状況をいえば、アメリカやイギリスなどOECD(経済協力開発機構)のほとんどの加盟国では、給付型奨学金が導入されている。これぬついて馳浩文科相は、給付型奨学金の導入に積極的な姿勢を示した。しかし検討すべき課題が多い。

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    日本学生支援機構の統計によると、2015年度は約134万人の利用が見込まれ、貸与額の合計は約1兆1000億円にのぼり、利用者の数も貸与額も年々増えている。給付型を実現するには、(1)財源、(2)給付対象者の基準づくり、(3)公平な支給方法など課題が多く、実現のメドは立っていない。特に深刻なのが、虐待や貧困で家庭から保護され、児童養護施設などで生活する子どもたち。

    児童養護施設に暮らす子どもたちの数は約3万人。厚生労働省の調査では、児童養護施設で暮らす子どもたちで高校卒業後に進学するのは約2割。全国平均の8割にはほど遠いのが現状だ。進学率が低い理由の一つが学費の負担。たとえば月に10万円借りた場合、4年間の奨学金総額は480万円。去年3月に借り入れが終了した学生の場合、利子も含めると返済総額は約512万円になる。

    学生の中には奨学金を生活費にあてざるを得なくなり、進学しても中退してしまうケースが見受けられる。これらに対し、地域ではさまざまな支援活動がなされている。長野県諏訪中央病院・鎌田實名誉院長が掲げる、「社会的共同親」が注目されている。親と離れて児童養護施設などで暮らす子どもたちを、地域の大人たちが親代わりになって支援する取り組みだ。

    取り組みの背景にあるのは、施設を出た子どもたちを取り巻く現実の厳しさだ。NPO法人「ブリッジフォースマイル」の調査によると、2013年度に児童養護施設を退所した子どもたちの7割が就職している。ところが、時間がたつほど「仕事を続けている人」が減り、4年3か月後には、「転職者」、「離職者」の数が半数以上を占めるほどになっているという。

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    現在の状況がわからない「不明」のケースも1割程度あった。施設退所後の子どもたちをフォローするのは非常に難しいという現状がある。他にも、京都の中小企業経営者ら約40人が子どもたちを支えようと、3つの児童養護施設などで「社会的共同親」の取り組みを始めた。代表者であり、「京都中小企業家同友会」の代表メンバーの前川順さん(56)は写真スタジオを営む。

    その傍ら、児童養護施設を訪れて七五三の写真を撮影するボランティアをしていた。その中で、18歳になって施設を出た子どもたちが仕事をすぐにやめてしまう実態を耳にしたという。前川さんは、「とりあえず自立ありきでか、焦った就職をするので、自分が本当に何がしたいかがわからず、それが就職してもすぐに辞めてしまうのでは?」と、そのように分析する。

    「社会的共同親」は実親でないという難しさはある。こういった活動を「社会的共同親」と名付けたのは、京都府立大学の津崎哲雄名誉教授。イギリスの「コーポレート・ペアレント(社会的共同親)」という制度に似ていたからと話す津崎名誉教授は、「社会の構成員すべての人が、どんな立場でも子どもたちに、自分の立場から養育の支援をする考え方」という。

    イギリスでは、この取り組みが1990年代末から広まって、今ではすべての自治体で実施されているという。児童養護施設の業務には、退所した子どもたちの自立支援も含まれているが、実際には入所中の子どもの世話でていっぱいのようだ。津崎名誉教授は、日本で「社会的共同親」の取り組みが広がるには、施設の側ももっと門戸を開放し、外部に助けを求めてほしいと話す。

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    児童養護施設ではないが、次のケースは小学2年の葵ちゃん(8)。母子家庭で中学1年の兄と3人暮らし。母親は精神疾患を抱えており、育児もままならない。自宅アパートは脱ぎ捨てた服やごみ袋であふれ、散らかって足の踏み場もない。母親は、体調がいい日は食事を作るが、そうでないときはコンビニ弁当か菓子パンである。一日の食事が給食だけの日も珍しくない。

    教師たちが葵ちゃんにおにぎりやパンを買い、職員室で隠れて食べさせているという。スクールソーシャルワーカーの山田由希子(50)によると、ある日のこと、葵ちゃんが口元に前日の給食で飲んだ牛乳の跡を付けて登校した。顔を拭きながら「ちゃんと顔を洗っている」と聞くと、葵は「顔とか洗ったことないよ」。「歯磨きは?」と聞くと、「保育園のときにしたことがある」。

    この現状を見かねた山田が昨年夏、母親に「夏休みの間だけ、児童相談所の一時保護施設に預けませんか」と提案すると、母親は二つ返事で応じたという。さぞや寂しい思いをしているだろうと、山田が施設へ面会に行った。葵ちゃんは、「ご飯が3回あって、おやつも出るとよ」「お部屋がきれいで、お布団も1人ずつにあるんよ」と満面の笑みで話したという。

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    予想に反した返答に山田は、「食事を満足に取れない子には、児相の保護施設ですら天国なんです」と言う。葵ちゃんにとって、1カ月間の施設生活は楽しい思い出だった。「またあそこに行きたいんだけど、どうしたら行ける?」。葵ちゃんは屈託のない言葉を山田に問いかける。山田が黙っていると、「また行きたいなぁ」と独り言のようにつぶやいていた。 

    児童養護施設で育った子どもたちは、「どうせ自分なんて…」と自分を肯定できない部分が見受けられ、人と関わることが苦手な子どもも多い。親に捨てられたという自覚を持っている子も少なくない。母子家庭の乱雑な環境よりは、規律的には養護施設の方がキチンとしているが、どちらにも長短があろう。が、自分は思う。実親には子どもを支配する強欲さがある。

    血のつながりのない子どもには、愛情は捧げても支配する親にはならないだろう。そういった客観性は、他人の親ならでこそではないか。何が子どもにとって正しいかを、欲やエゴで捉えると実質的には正しくない場合が多いが、他人の子どもに接する場合、情念より理性で子どもをみれる利点はある。実親の情と比して足りないものがあるなら、それは何であろう?

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  • 03/07/16--16:25: 福岡・予備校生刺殺
  • 福岡市西区の路上で2月27日夜に刺され死亡した予備校生北川ひかるさん(19)の死因は出血性ショックによるもので、北川さんの首や顔、後頭部など計数十カ所に刺し傷や切り傷、手には凶器を防ごうとしてできた傷もあった。北川さんは何者かに背後から突然襲われたようで、事件直後に同じ予備校に通う少年(19)が手にけがを負い、「女性を刺した」と交番に出頭。

    北川さんは事件当時、帰宅途中だったとみられ、現場に逃げ回った形跡はなく、後頭部や背中の傷などから、突然背後から襲われている。少年は交番に出頭した際、服に血がついた状態で、両手の指の付け根にけがをしていたが命に別条はない。「(北川さんに)ばかにされたと思い、腹が立った」などと話し、2人の間にトラブルがあったという内容の説明をしている。

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    北川さんの傷は20カ所以上あり、現場には凶器とみられるナイフ2本と斧(いずれも全長20cm)があった。県警は2人スマホを押収し、やりとりの有無を調べる。2人が通う予備校幹部(52)は、「北川さんは非常に真面目で真摯に勉強に取り組んでいた。欠席などは少なく模範的な生徒でした」と話し、出頭した少年については、「真面目な印象と聞いている」とだけコメントした。

    2月25~26日に国公立大の2次試験を受け、3月9日の合格発表を待っていた。事件現場近くに居住する男性によると、ベランダにいた妻が、女性に馬乗りになって襲う男を目撃したという。男性が外に出ると、若い女性が仰向けに倒れていた。「『大丈夫?』と声をかけたが反応はなかった。抵抗したのか、右手に短い髪の毛をつかんでいた」と生々しい状況を説明した。

    少年は出頭時に、「北川さんに告白したが、あいまいにされた」などと説明したことで、福岡県警は少年の一方的な恋愛感情が事件の背景にあったとみて、任意で事情聴取を始めたが、2人が交際していたという情報はない。 少年は北川さんを含む予備校の数人とグループを作り、一緒に学んでいたようで、グループのメンバーから事情を聴いて実態解明を進める。

    事件は8日で発生から10日目を迎えるが、両手に重傷を負った少年は現在も入院中である。熊本県天草市出身の北川さんは、地元では何十年に一人出るかの才媛といわれ、中学時代は生徒会長を務め、剣道部でも活躍した後、県内最難関の熊本高校に入学した。北川さんは高校から現役で九大に合格したが、あえて東大に挑戦するとして、福岡で単身浪人中だった。

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    犯人の少年も北川さんと同じ東大の同じ学部を受験している。愛くるしさ漂う北川さんの容姿とは裏腹に、犯人の少年は少年法に守られ顔を見ることも阻まれている。同じ予備校内で同じ国公立大文系コースに所属する二人が会話をする姿を数人の予備校生らも目撃していたが、同居する北川さんの兄も「交際関係はなかった」と否定したが、何故このような事が起こるのか?

    天草市といえば天草島である。面積683.78km²に総人口81,701人(2016年2月1日)で、数十年に一人とまで言われた才媛少女が、生活の多くを最高学府の東大受験に費やし、試験も終えて後は発表を待つばかりの身だった。そんな彼女が、何故同じ予備校学生に殺されなければならなかった?悲劇は少年側に視点をおいても言え、今まで何のために勉強を頑張ったのか?

    テレビコメンテーターで経済学者の安田洋祐は、「いま浪人生は数が減っている。あえてそれを選んで、合格すれば4月からは東京生活だった。これが少年の一方的な思い込みだとしたら、やりきれないですね」。という以外に適切な言葉が見当たらない。片恋慕は辛いといえども、これまでの勉強の労苦も含めた人生の一片は、木の葉のように風が吹けば終りなのか?

    あらゆるものは変わっている。悲しみの朝に、苦しみの夜に、絶えず時はめぐり、繰り返されている。荒んだ日々に、歪んだ日々に、休みなく時は過ぎている。人生は吹きすさぶ荒野のように、生きる道を誰もが忘れているのか?流れゆく時に、映りゆく社会に遅れてはならない(斉藤哲夫『悩み多き者よ』)。我々の青春の苦悩を癒してくれた2篇の歌を捧げたかった。

     


     『されど私の人生は』 詞曲:斉藤哲夫

     もう、どうでもいいのさ  つまらん事は考えないで
     そこからの道を 急ぐのさ それが最も肝心さ
     幻の道は いくつにも分かれ 振り返る時は 全て灰色に
     心の中は 荒れ果て尽きて 先を見ることさえ 苦しみ覚える
     変わる 変わる 目の前が
     変わって それで おしまいさ
     されど私の人生は
     されど私の人生は…

    受験勉強に邁進、東大の前期試験も終ったこの時期に、いかなる理由があるにせよ人を殺せば、これまでに費やしたすべての努力及び、自身の未来の展望一切が崩壊するくらいの想像力や思考力はあったろう。それでもナイフ二本、斧まで用意して背後から人を襲うという恨みとはいかなるものか、まるで想像がつかない。出来心の過失致死ではなく、計画殺人である。

    思春期の恋情とストレスの狭間にある心情は難解で、少年にとっては彼女の存在を超えた受験の労苦があったろう。異性に告白してフラれたくらいで、いちいち人を殺していたら、人口なんてあっという間に半減する。自らの将来を見据えた努力やさえもドブに捨ててしまうような、バカげた短絡的な殺人は、おそらく少年の思いつめる性格に起因すると考える。

    光GENJIに『ガラスの十代』という曲があり、KinKi Kidsにも『硝子の少年』という曲があった。どちらも、傷つき、壊れやすい少年期を歌ったものだが、この時期は歌にあるように誰もが傷つき、壊れやすい。それを耐え忍び、別の何かの光明(あるいは諦観であれ)を見出すから生き続けられるが、それでも傷つくことに耐えられず、自らの命を投げ出す場合もある。

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    荒井由美の『ひこうき雲』は、投身自殺をする少女からインスパイアされたというが、地面に落下する少女を、"空に憧れて、空をかけていくあの子の命はひこうき雲"という絶妙の感性で死を表現している。自殺というのは、自己愛偏重のナルシズム傾向を否定できないと自分は見ている。恋に憧れる少女は、恋の対象に恋するよりも、恋をする自身に酔っているように。

    そういう微妙な少女心理を、「恋に恋する少女」という言い方をした。大失恋は自己愛的にみれば、命を投げ出しても相殺美化され、そのことで周囲は自身の苦しみの大きさを理解してくれるはず。斯くのナルシズム的美意識を少女が抱いたところで不思議はない。男と違ってどこか女性には、少しでも長く「女の子」でいたいという社会的、感情的背景があるといわれる。

    少年が失恋を「バカにされた」と解釈するのは、過去における恋愛経験の有無も含む「バカにされる」体験の希薄さに思える。「バカにされた」未経験の免疫の無さが「バカにされた」を独善的拡大解釈する。「バカにされた」を怒るか、自己妄想とするか、そういう自己処理もできる。他人の言葉を自己の都合のみで考えるのは、子どもにありがちな精神の未熟さである。

    「あんた、どの面さげて私に告してんの?」、「止めてよ、冗談は顔だけにしてくれる?」、「あなたなんかと付き合いなら死んだ方がマシ」、「お願いだから私の前から消えてくれない!」と、こんな類の言葉を女の暴言とみるか、思慮ないバカ女とみるかは男のキャパである。言葉は女の武器、壁になればいい。「一日中壁に向かって吠えてろ!」と言ってもいい。

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    人に「バカにされた」と思うのは自己愛、自尊心の処理法を間違っている。バカになんかしていないのに、「お前はオレをバカにするのか?」と言う奴がいる。人を選べない以上、いろんな人間に遭遇するが、こういう被害者意識丸出しの言い方には、「お前はすぐに被害者になりたがる。傷つきやすいのはいいが、勝手に人を加害者にせんでくれるか」と釘を刺す。

    「お前はオレをバカにしてるんか?」と言う発言など、過去に一度も発した事がないのは、惨めったらしく情けない言葉である。相手の言い方で、「コイツはオレをバカにしてるな」と、腹で感じることはあるが、それを口に出していうほどに防御を必要としない。「勝手に言ってろ!」と思えばいいこと。人が人をバカにしたからとて、そいつが偉くなるわけでもあるまい。

    「お前はオレをバカにしてるんか?」は、完璧な防御言葉(反応)である。自分はそういう惨めったらしい防御言葉は使わないし、相手の発言に言葉で反論する。なでしこ佐々木監督が選手に、「お前はオレをバカにしてるんか?」といったらしいが、これはもう指導者としての体をなさない。斯くの醜態丸出しの被害者面が、リオを遠ざけたといって過言ではなかろう。

    少年が北川さんを背後から切り裂いたのは、被害者としての返報感情である。彼女の何がしかの言動が少年の自尊心を地面に叩きつけ、そういう女に報復を決意したのだろう。それも殺人という短絡さで。何で殺人なのか、を考えてみるに、こういう弱ったれ男は、人を蹴ったり殴ったりの勇気がないからで、殴る蹴る顔が怖い、生かして恨まれることが怖い。

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    一流大学に入る学力はあっても、人間的には三流以下である。賢い人間がこんなことで人を殺すか?人を学力だけで判断するのが如何に間違っているか。少年はアスペかも知れない。アスペルガー症候群(広汎性発達障害)は自閉症の一種で、他人とのコミュニケーションや周りの空気を読むことを苦手とする一方、高い集中力や優れた記憶力を持つ例も多いとされる。

    東大生4人に一人がアスペといわれる時代、"勉強オタク"とアスペとの関連の科学的論拠はないが、現実的に東大では対人関係スキルを身につけるためのアスペ対策セミナーを、全学生に向けて開催しているという。「好き」を告白し、断られて人を殺すか?そんな人間、三流どころではないが、看過できない現実である。問題を抉り出し、実体を探る必要がある。

    告白を無碍にされて逆恨みするような自己愛所有の脆弱人間。「自分は有能な人間でありたい」。そう願っていた。自分は彼女(人)に好かれる人間でありたい。そう願っていた。そう信じたかったし、信じようとした。しかし、現実に彼女に嫌われてしまえば、自身の内に隠匿していた感情と直面せざるを得なくなる。現実にそういう事態になったときに噴出するものがある。

    それは、必死に隠しておいた「実際の自分は無能でダメ男」というひ弱な感情である。それが浮き彫りになれば以降、真の自分の感情に向き合うべく絶望感・恐怖。禁欲から解き放たれた恋愛感情から体得した自己喪失。「やはり自分は人に好かれない」、「やはり自分は無能な男」そうしたやりきれない孤独感が、これまで積算してきたすべてのものを崩壊することと等価となる。

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    己に自信を持ちたいなら、他人に好意をもてばいい。が、競争社会の現実のなか、フラットな人間関係は恋愛をよりどころとする。ところが、恋愛オンチの人間は、捧げる愛情より求める愛情が強い偏愛志向となり、これも自信のない人間の特質である。自信とは、他人の一挙一動にフラつくものではない。恋と自信は別にした方がいいのだが…

    「フラれた女を殺す男をどうやったら止められる?」。という設問があった。それは無理だが、「フル男に殺されない方法」はある。告白を断るときに、「ごめんなさい。好きな人がいます。好意はうれしいけど本当にごめんなさい」と、必要以上になだめ、丁重に謝る。恋は一人勝手にやれるが、恋愛は相手がいる。それを高校の道徳で教えるか?こういう当たり前の事が分らないなら…


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    スニーカー女子は、2016年も増えるばかり。今や女性にとってスニーカーは、楽チンアイテムからお洒落アイテムへと完全にシフトされている。芸能人のスニーカー女子代表といえばPUFFYである。彼女らがスニーカーを履く理由は必然だったことを大貫が明かした。スニーカーが主でジーンズ・Tシャツになったかは分らないが、あれも芸能人の衣装である。

    演歌歌手の着物を始めとする芸能人の衣装は、商売道具とばかりにあえてお金をかける女性も多いが、PUFFYといえばデビュー当時から、Tシャツにジーンズ、スニーカーというラフなスタイルで親しまれている。そんなPUFFYが、2015年11月10日放送の日本テレビ系「今夜くらべてみました」に“NO MUSIC NO LIFEな女”として出演、数々の秘話を語った。

    お笑いタレントのいとうあさこに、ミッツ・マングローブらと思い出の曲や、自身が衝撃を受けた歌唱映像などについて盛り上がる。音楽談義のなかで話題が女性ボーカルダンスグループ・MAXに及ぶと、PUFFYの吉村由美はMAXの衣装に「いいなぁ、ああいうきらびやかな服…」と憧れを感じていたことを明かし、大貫亜美も「高い靴履いて、いいなぁ」と続けた。

    自然体イメージの二人の発言に、MCのタレントSHELLYは「そんなこと思ってたんですか?」と驚いた。そもそもPUFFYのスニーカースタイルは、どのように生まれたのか?大貫は「私、魚の目があるのでヒール履けないんですよ」とぶっちゃける。小学4年生から両足に2個ずつ「根深いの」を抱える大貫が、スタッフに「魚の目があるので高い靴は履けない」と伝えた。

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    それで衣装の足元がスニーカーになったという。いまや海外でも認知されているPUFFYのスニーカーにこんな裏事情があったとは…。なんとも情けない誕生秘話に、お笑いコンビ・フットボールアワーの後藤輝基は、「まさか魚の目とはね~」と苦笑する。スニーカーが女性に持てはやされる最大の理由は、ハイヒールやパンプスにくらべて伸縮性があって楽チンチン。

    他にも以下の理由がある。嘘か真か、"デートにスニーカーを履くと男ウケする3つの理由"として、①カジュアル感が「打ち解けている」という彼女からのアピールに感じられる。②「安上がりデートでOK」というアピールに感じられる。③アンバランスな大きな靴がかわいい、などの理由があるという。女性はデートの時に着る服装、履く靴について常に工夫するものだ。

    たとえば、高級レストランでディナーデートなら、当然それなりの服装もし、「勝負靴」、「勝負パンツ」(これはどうだか?)を履くことになるが、そうでない普段のデートにおいては、ハイヒールなどよりスニーカーのほうが男ウケする。これは男には分かるであろう列記とした男性心理である。男の心理を女が理解し、女の心理を男が理解できれば恋は上手く行くのか?

    いやいや、人の心は分らぬもの。同性でも分らないのに異性がそうそう簡単に分かってどうする?といったところだが、そうではなくて恋を成就させる方法はある。これについては後に述べるとして、スニーカーは女性のカジュアル感を一層惹き立てる。女は偽るもの、飾るもの、という先入観が男にあるが、カジュアル+スニーカーは、女性の普段着魅力を高める。

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    「カジュアル(casual)」とは、格式ばらずくつろいでいるさま。気軽な服装のさま、の意味だから、彼女がカジュアルな服装をしているならば、「自分に心を許している。打ち解けている証拠」などと感じてしまう。一般的に男は女性のファッションに疎く、女性が「カジュアル」を意識したコーディネイトをしてみても、それが彼氏に伝わらないケースも少なくない。

    そんな時にカジュアル感を惹きたてる効果を発揮するのがスニーカー。いかに女性のファッションに疎い男でも、スニーカーを見れば、彼女がカジュアル感を演出しているのは理解できるはず。普段着感覚の「カジュアル感」なら、一緒にラーメン屋にも吉野家にだって行ける。つまり、「安上がりデート、ぜんぜんOKよ!」というアピールが、金欠彼氏を安心させる。

    これを「彼女の優しさ」、「細やかな心遣い」と受け止める男も少なくない。また、スニーカーには上に挙げた3つ以外にも、「女の子が大きな靴を履くとかわいい」と感じる男は多いようだ。スニーカーは、ハイヒールなどと比べて、見た目がボリューミーであり、女性が履くとさらに靴が大きく見える。靴が大きく見える分、足が細く感じられる効果もある。

    こうした靴と足のアンバランスは、大きな頭が目立つ学童少女の、3~4等身的可愛さに一致しないか?ヒールやパンプスのコツコツ音に比べ、フタフタ柔らかなスニーカーのスポンジ感も自然である。コンバースなどの薄手のキャンバス地スニーカーに比べて、てんこ盛り型の大きなスニーカーの代表は、NIKEのエアマックス、同じくNIKEのエアハラチであろう。

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    ナイキマニアとして、エアハラチの魅力を取り上げる前に、ハラチ(HUARACHE)とは一体何?ハラチ(ワラチ)とは、メキシコの伝統的な履物で、革紐を交差させ編み上げたハンドメイドのメッシュサンダルを言う。ハラッチ、ワラチェとも言い、ネイティブメキシカンやメキシコの農民が履いていた革製の靴を起源にし、ソール部分に安価な古いタイヤを用いて一般化した。

    1950年代には北米に上陸し、リゾートサンダルとして人気を博した。国の伝統的な靴といえば、オランダの木靴、アメリカ先住民のモカシン、エスキモーのムートンブーツ、日本の草鞋や下駄は知るも、ハラチは知らなかった。1963年にリリースされた、ビーチボーイズ『サーフィン USA』の歌詞に、「You'd see 'em wearing their baggies Huarache sandals too」とある。

    直訳すると、「彼らがバギーパンツをはいてるのを見るし、ハラチサンダル(を履いてるの)も見るだろね」。このスタイルが、当時の最先端のサーフファッションである。ナイキのエアハラチは、メンズから大きな支持を得、その人気の度はわざわざNYなどから取り寄せるほどで、そんなハイテクスニーカーがボーイッシュな女の子たちにも「かわいい」と大絶賛となった。

    エアハラチは非常に大きなボディーが特徴だが、コーデの主役となる派手なカラリングも、エアハラチの大きなボディーを絶妙に緩和してくれている。華奢な女性が大きなボリューム感のあるスニーカーを履く可愛さに、クッショニングと快適性を提供してくれ、かかと部分を取り囲むストラップが、ストライドごとに確かなサポート力と構造性を生み出している。

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    1991年に初登場したが、日本では人気がなかったエアハラチ。「限りなく素足に近いシューズ」というコンセプトが、クッション性とフィット性を追求し、履き込むほどにその人の足の形にフィットするメキシコの伝統的サンダルの機能性を応用した。一度足を通すとそのフィット感に驚嘆する。日本では2015年に復刻版エアハラチが大ブームとなり、勢いは2016年も衰えてない。

    ファッションに敏感なby.S世代は、売り切れ続出のNIKEエアハラチに触手を伸ばしているし、はたまたオーダーメイドコンバースでラブラブ気分を盛り上げるなど、こと自身や自分たちを演出することに果敢な世代でもある。歩きやすいのにお洒落なのがエアハラチが満点ポイントである理由だが、別の見方をすると、モードっぽくもなる変幻さも魅力に挙げられる。

    自分はエアハラチを2足買ったが、外でコーデとして履くよりも、ジムなどの室内で運動するためであったが、もっぱら安上がりのウォーキングを継続中で、わざわざ有料のジムなど行く必要性もない。「結果にコミットする」キャッチフレーズで、お馴染みとなったライザップのCMだが、あれは肥満改善であって、ウォーキングは、「健康にコミットする」ものだ。

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  • 03/10/16--03:10: 恋は誤解で瓦解する

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    恋を成就させる方法があるといった。ただし、恋の成就とは何を以ていうのか?本来「成就」とは、物事が成功するとか、達成したりとか、願い事が叶うことをいい、それに当てはめて恋の成就とは何であろうか?難しいことはさておき、恋の成就とは、付き合いが上手く行くことにする。なぜなら、付き合いが上手く行かない、楽しくない、むしろ苦しいという状況もある。

    それから比べると、交際が上手くいっている状態は、日々の楽しさに満ちている。何も恋の成就を「結婚」と定義せずとも、それなりに楽しければ恋は成就していると言っていい。そこで、恋を成就させるためにはどうするのがいい?その最大のポイントは、"自分の本心が言えること"であろう。本心が言えるなら恋は上手く行く。その理由は簡単、誤解を生まない。

    男女に限らず人間関係には多くの誤解が発生する。相手の気持ちが分らない、自分の気持ちも正直に伝えられないなら、誤解が生まれるのは当然である。同じ誤解といっても、いいように考える誤解、ネガティブに考える場合もある。先日発生した、福岡・予備校刺殺事件を想像するに、加害男は被害女性から好意をもたれていたと誤解していたのではないだろうか?

    愛想のいい女性に対して、男が勝手に錯覚することはままる事。愛想のいい女性というのは、基本は誰に対してもそうであるから、ナイーブな男は自分に気があるのではと感じるのだ。愛想がいいのも実は良し悪しで、相手が勝手に気があると思われて困ったという女性に話を聞いた事がある。愛想がいいのは何の罪でもないが、実は罪を作っていると、女性は感じていた。

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    思春期にあっては、少し親切にされただけで、それがハンカチを差し出された程度のことでも、男は好意と錯覚する。そのように感じ始めると、寝ても覚めてもその女性のことで頭が充満する。これはよくある事例である。「勝手に好意と思われて困っている」という女性の気持ちも分かる。人の感情はどうにもならないし、愛想をふりまくのも程々に、というしかない。

    何事も自分で対策を講じるべきだ。とにかく自分で…。いかに思い込みとはいえ、「彼女は自分に気がある」というのが実は違った。まったく勘違いだった。こんなハズでは…。の心情も分からなくはないが、よくよく考えてみると、すべては自分の独り相撲である。そうした独り相撲の勘違いの責任は自分でとるべきことであるのは、猿にでも分かる簡単な理屈。

    それを理解せず、「なんだ、この野郎!絶対に好意があると思ったから、フラれることはないと思ったから、勇気を出して告白したのに…」そういう宛てが外れた場合、ナイーブな小心男は、どうにもならない屈辱感を抱くことになる。羞恥を超えた屈辱感が、「バカにされたと思った」という言葉に現れている。今の若者はニヒルな世代で、その原因も分かっている。

    20年前に大学生から耳にしたある言葉に呆れてしまった。彼はこのように言った。「好きな女がいたとしても、自分からは絶対に告白しない。相手から告白してくれるように持って行きます」ということだった。なんという姑息な男であろうかだった。どういう意味の姑息かというなら、「男らしくない」である。何でわざわざ相手から告白されるように持って行くのか?

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    自分などには到底ないじれったい行為である。これが今の男か?いろいろ思考して分かったことは、今は女性から告白が行われる時代。だから、慌てずニヒルな態度であっても、そのうち女から告白してくるだろう。自分から言って断られるよりは、傷つかないで済む、という事のようである。女性が主体的にのし上がって来たことで、男がダメになってしまった。

    「当たって砕けろ!」の精神こそ男。自分たちの青春期に当たり前にあった「男らしさ」の価値観は、形骸化どころか陰も形もない。「男らしさ」という言葉そのものが死語になっている。フラれた男が、返報感情で女を刺し殺すなどあってはならないし、それキンタマ持った男か?その面見せてみろ!昨今は女性からの告白は多いかも知れない。女は弱い仮面を脱いで行く。

    元々気質的に強い女が、弱い仮面をかぶっていたのは社会の趨勢であり、「女のクセに」、「女だてらに」という言葉が、女性の主体性を封じ込めていたからである。それが取っぱわれ、女性が地を出したとあらば、男などはヘたれ種族である。様々なことで男が苦しみ、苦しめられるときに、「お前は男だろう?」という声が沸きあがる。そういう自分たちの世代である。

    そういう問いかけがなされ、さしもの「俺は男だ!」と、自ら言い聞かせる。世間や社会や、あるいは幼少期から家庭で、学校で、「男だろう?泣くんじゃないよ」と仕込まれた世代である。ボーボワールは「女は女に生まれない、女になって行く」としたが、「男も男として生まれない。男になって行く」のだ、同じように。今の時代はそういう社会教育がなくなった。

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    家庭にもない?「勉強してくれたら何もしなくていい。何でもママがしてあげるから…」という家庭もあるというが、これはもう親が子どもの勉強の奴隷である。して、「男は男に生まれない。男にもなって行かない」時代に思えてならない。男が背後から同じ年齢の女を殺す時代を憂う。告白を拒否された相手の背後から刺し殺すなど、絶対的に男が弱くなっている。

    まあ、この言葉は今に言われたことではない。「戦後に強くなった女と靴下」なんて言葉は刺激的であったが、今は取り上げられることもない程に当たり前になったのだろう。とてもじゃないが、我々旧人は、我々の青春時代にしか生きてはいけない。人はその時代を生きて行くしかないし、今の若者と混じって、同じ19歳を40年の感性のままでは生きてはいけないだろう。

    今の若い男に背後から、「しっかりしろよ、男だろう?」の声は届かないのか?それなくして、「俺は男だ!」という実在感は育まれぬように思う。「自分から告白しないで、相手から言わせるように仕向ける」という男の言葉は20年前なら、男はさらに退化している気もするが、見方をかえると、これを男の退化と言わず、今の男にとっては進化といえるのかも…。

    団塊の世代の長男は40歳当たりと見る。昔オヤジからみて、今の40歳は男の同類として見れるか?自分の長男は32歳だが、骨のある男になるよう頑張っているのが分かるし、その向上心があることで合格だ。今の20代男は、どれだけ男なのか接点がないのでよく分からぬが、リベンジポルノ事件とも言われた三鷹の女子高生刺殺事件も、袖にされた女性への報復だった。

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    こんなことで命を落とす女性がいていいのか?女が男を刺すなら分かる。我々世代の女たらしは、「お前は絶対に畳の上では死なない!」などと、半ば揶揄、半ば勲章のように言われた。自分も言われた記憶はあるが、恋の終焉をどうすべきか?「別れ上手は恋上手」である。別れの際はとにかく相手から嫌われてやること。未練を残すより新たな恋も芽生えよう。

    弱い女が強い男を刺す時代であった。現代の逆転現象は、強い女が弱い男に刺されるということか。男女の強弱は逆転すれど、男と女の狭間に生じるさまざまな「誤解」は消えることはない。「相手が自分に何を望んでいるか」についての誤解、「相手は自分がどのように振舞うことを期待しているか」という誤解、「相手は自分の何に魅かれているか」についての誤解。

    さらには、「相手は自分の何がいやなのか」についての誤解。それらの誤解に基づいて男も女も行動する。個人的なこと以外の大きな視点についての誤解もある。「そもそも人生に何を求め、望んでいるか」についての誤解は、相手の心の内側そのものの誤解である。人と人との関係の難しさにあって、誤解を生まぬためには、可能な限り本心で接するべきだ。

    相手の本心が読めない、分らないことで誤解が起こる。恋人であれ、夫婦であれ、友人であれ、互いの誤解によってどれだけ多くの人が離別した。不幸なことである。離別した二人が三十年後に再開し、「あの時あなたはどう思っていたの?私の本当の気持ちはこうだったわ」。「そうだったのか…、ボクはてっきり君が…」というのも、ロマンである。

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    過ぎ去った日々、時間は戻せないが、誤解が解かれたことで、清々しい気持ちが呼び戻される。あの時、誤解さえなければ二人の関係は続いていたとしても、それが本当によかったのかといえば、答えは藪の中であり、、想像の世界で考えるしかない。推理と実践は違うもので、やはり二人は別れて正解だったのではないか。何より現実を最善とすべきであろう…

    誤解は心の底にある本当の気持ちを言わないことで起こる。本当の気持ちを言えば、相手を失うのではないかという恐怖が真実を拒む。もし、二人が本心を言えば、別れないで済んだカップルもあった。が、別れたことで生じた互いの未来である。「誤解してたんだね。誤解がなかったらずっと一緒にいれたかもね…」と、二人が夢を語るのも素敵じゃないか…



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  • 03/11/16--06:48: ぼくたち男の子
  • 子どもを生き甲斐にする親など、とんでもないというのは、育児書など開かずとも感じていた。おそらく実母の影響であろう。子どもは希望の光、だから親よりも一歩前を歩かせ、親はその子どもの背中を押す役目を担うべきである。夫よりも子どもがいればいい、子どもが生きる支えなどと、これほど迷惑なことはない。それでも子どもに支えられたい母親は、子どもを潰す典型だ。

    支えてもらうべきは夫で、子どもはそういう対象じゃない。そこから抜け出ない母親から自立した逞しい子どもが育まれる気はしない。それなのに、「夫より子どもが生き甲斐」などとと口にする妻は多い。そんな考え、そういう甘えが共依存という弊害を生む。寝食を共にするだけで、親の価値観に影響される子どもが、反抗もせず親の考えに沿って生きるのは、一個人として考えて不幸ではないのか?

    自らの腹を傷めて産んだ母親が我が子への密着度は強いのは分かるが、決していいことではない。子育てで難しい点は、子どもの権利と親の義務に関する問題。一歩引いて子どもを見つめる親はなかなかいないし、それができるのはむしろ夫(父親)であろう。その父親が家庭で権威を失墜しているというなら、子育ての主導は、まさに秀頼の母、淀君状態である。

    感情ばかりが先走りする妄信的子育てを排し、理性的、客観的思考に基づいた子育てを、母親に分からせるのは父親の役割だが、家庭内の力関係もあってそうも行かない状況のようだ。妻の近視眼的な言動に対し、「よくもあんな事ができるよな」、「あんな行為は考えられない」と嘆くだけの父親は、単に愚痴を言うだけで、それでは何も変わらないし、はじまらない。

    リーダーの資質で重要なのは「No!」がいえること。それが言えないならリーダーにあらず。我が子に盲目で夫の意見を耳に入れない母親はいる。夫が何を言っても聞き入れようともしない。夫はやがて諦観から、子どもについて一切を閉ざすようになる。「この女はもう何をいってもダメだ」と夫が口出ししないのをいいことに、「うるさい夫が私の子どもに口出しがなくなって楽!」と、とうそぶく妻もいる。

    子どもを取り巻く教育観の違いなどが、実は離婚の要因となったりする。妻にも夫にも様々な考えはあり、問題点も利点はさまざまあるし、その中から何が良いかを話し合いで決めるのが、合議制というもの。大企業や優良企業はこのようにして方針を決めるが、中小企業のワンマン社長や親族で固めた会社等は、会社と言うより創業者商店。これはもう、親亀こけたら皆こける運命にある。

    自分の意見や考えが無視されて、子育てにやる気をなくす夫は結構いるが、そうなると男の意地もあってか、後に子どもに関わろうとしなくなる。父を奪われた男の悲哀というのか、母親の独断があまりに度を越すと、母子家庭にまっしぐらの可能性もある。妻に何を言われても、「ハイ、ハイ」夫なら離婚は回避できるが、夫の意見に耳に貸さない傲慢妻なら、「別れた方がいい」と自分は勧めている。

    家庭内に親が二人揃っていながら、実質的稼動は母親だけ、夫はお金を稼ぐだけの人に批判的だが、諦め加減なのか、「それでいい」という夫もいる。母親への問題意識を掲げる夫もいる。教育書などを読んで、私情に溺れず、客観的で理性的な子育てを目指す夫もいる。「お前はあまりに子どもを自分の意のままにやるが、夫としての自分をどう捉えている?」

    このような通告をされた妻はどうする?「私の子どもなんだから、余計な口出ししないで」と返す妻なら、「今後もそうしたいなら、母子家庭で好きにやったらどうだ?」と夫は言うべきだ。自分は、教育的主導を父が取っていたから、妻は案外楽であったようだ。自分も楽だった。「船頭多くして、舟山に登る」という諺があるように、リーダーは基本姿勢を吟味し、方針を決定できる。

    同じ屋根の下に住みながら無視され、教育に参画を許されない父親に存在意義などない。といえば、「あっ、そう。どうぞ御勝手に!私は私の○ちゃんを私の思うようにやるので」返す妻。口出し無用を今後も強いられるなら離婚した方がいい。この持論は過激ではない。間違った夫婦のあり方についての正しい選択であり、間違いと知りつつ継続はできないだろ。

    男と女の価値観の違いについての典型的な例をあげる。男の子は失敗をさせる事が大事であり、それら失敗を乗り越えて逞しく成長し、困難を乗り越える人間になる。したがって男の子に、「あれはダメ!」、「これはダメ!」と失敗を見かねてやらせないようにする母親だと、男の子は物事に、「やる気」を損なう。やろうとすることに、「ダメ!」と言われてやる気がなくなるのは当然。

    男の子にはでき得るかぎり「ダメ!」をいわず、やろうとすることの門戸を開放したほうがいい。早い時期から親が失敗をさせたくないとか、可哀想と思うよりも、失敗を怖れぬ逞しい子を主眼に置くなら、男の子はどんどん失敗させた方がいい。失敗することで物事の性質を理解する。例えば2~3歳のころに高いところから飛び降りるのを、「危ないから」などと禁止したとする。

    そういう子は小学生になってからいきなり高い跳び箱から落ちて怪我をするようなことが起きる。小さい頃から、知らず知らずの訓練をするわけだ。なのに禁止で「やる気」を阻むよりも、何事も体験させて「やる気」を育むのが大切。男のやんちゃやわんぱくは後の社会を歩く土台となる。それらを父親は同性として分かるが、その芽を摘む母親の多いこと。

    「ダメ!ダメ!」と行動を制限された子は、好奇心が乏しく、遊びや学びのエネルギーが不足になりがちになり、何をやってもつまらなそうに、言われたことだけをこなす子どもになりがちだ。「学ぶ力」も大事だが、「社会を生き抜く力」の大切さを親は知ること。勉強ばかりで、社会を生き抜けるはずはない。「学ぶ力」は、好奇心、やる気、集中力を育てることに寄与する。

    「社会を生き抜く力」とは、自立心、我慢、思いやり、自信などで、5歳前後にこの力が育つといわれている。何事も自分でやってみよう、やりたいというのが「自立心」、自分でやってみて思うようにいかなくとも、じっと耐えることで、我慢を覚える。そういう辛さを知ることで他人への気遣いを学ぶ。これが「思いやり」。そうしてそれらのすべての経験が、「自信」となって蓄積されていく。

    男親はこれらを体験的に学んでいる、だから息子にそれを望むが、母親がそこに割って入り、「何でこんな酷なことをさせるの?可哀想でしょう?」は、言語道断である。成長するということは、生きるエネルギーをつけて行くことである。子どもの成長を阻むのは親の無知、老婆心であったりする。「心配症なもので…」という母親がいるが、自分の心配症を子どもにも植え付けたいのか?

    「心配症」というのは、過保護、溺愛の別の言い方だ。知識や原体験のなさに加え、成熟していない親こそ問題である。祖父母などが同居する大家族制度に支えられた昔の育児に比べて、無知で原体験が希薄で、過度な心配症であったなら、それだけど子どもが脆弱になる。傲慢な親に対して祖父母の意見は貴重であるが、核家族の子育てにはそれが見込めない。

    幼児虐待が問題になっている。大家族家庭の中では、老夫婦の監視もあってそのようなことは起こらない。祖母が母親と結託して子(孫)をいじめていたケースもあり、その少女は母と祖母を刺殺した。とんでもないのは少女ではなく、親と祖母である。上記した夫の意見や忠告を無視する傲慢妻であるなら、居ながらにして無視される夫の屈辱は計り知れない。

    いろんなケースを見てきたが、こういう夫はゴルフか、なにか、別の気晴らしをみつけ、憂さ晴らしをする。「俺はもう子どもには一切関わらんぞ、お前が勝手にやれよ!」と意地をみせたりの歪んだ家庭は多い。なぜ人間だけがこのようになるのか?人の親はもともと生物的に健在であるべく育児本能に歪みがあり、誤った母性愛を持ち易いと分析されている。

    誤った母性愛が誤った育児をする。人間は、プラスの愛情とマイナスの愛情を有している。いいかえると、正しい育児と誤った育児が混じり合って子どもを育てる生物である。つまり、親は我が子をダメにする愛情も持っている。そこにどう気づくかどうかが問題なのに、当人には気づかない。そういうときに夫の理性的な視点や進言が効果的であるのだが…。

    ガミガミ母親を持った実体験でいうなら、そういう時の母親はまるで憎しみに溢れていた。人間は積極的に我が子に加害行為を行える動物。叱ることは教育であるけれど、ガミガミ言う親は子に敵意や憎しみを持ってる場合が多い。だからカッとし、攻撃性を発揮する。自分の育児に自信たっぷりの親ほど、実は間違った教育を行なっているもの。教育に自信はそぐわない。

    今さえよければすべて良しというなら、これほど簡単なことはない。されど教育とは、その結果が何十年も先に現れるもので、そういった未知のことに「自信」はそぐわないのではないか?いかに誤った育児を行っている親といえども、誤りに気づくことはない。一般的な親は、原則的には「私は正しい」という自信とは裏腹な、誤った育児を行っているものだ。

    理由の一つに自己洞察能力の不完全性が上げられる。人間における正しい子育ての原理は、他の生物と同様に難しいものではなく、人間形成医学の立場からみれば、生物的にはむしろ単純な法則に従ってこそ正しい育児が可能。なのに人間は、「誤った育児を行う能力を獲得した脳の仕組み」を持っている。それが他人との差別感(見栄)であったり、欲であったり、優越感であったり…

    人間のこういったものが誤った子育てを推進し、親はその誤謬に気づかず、批判に口実を用意する。「願い」という言葉に置き換えられた、親の子への過大な要求は、拡大するばかり。人間は動物と違って誤った育児をする。最近、若い夫婦の離婚に関わった(内情を聞くだけ)が、妻の独善的な子育てが問題であった。されど、外野は何の手立てもできない。


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  • 03/12/16--04:35: Uのこと
  • 同じ年に生まれた同級生は、たまたま同じ年に生まれた同士が学校の教室に寄せ集められ、勉学に励んだ。同じ年齢でも死ぬのはバラバラだ。人は必ず死ぬし、早いか遅いかの違いだ。なぜ人の死に早い遅いがあるのだろうか?人の死には様々な理由があるからで、自殺を除けば人が死ぬ理由は、事故死、病死、もしくは戦闘や事件の被害者としての死であろう。

    自分が嫌な死の順序は、①戦闘、②事件、③事故死、④病死となる。④の病死は必然の死、それ以外は偶然死といえる。疾病による突然死は偶然であっても、病気という必然である。脳卒中(は正式な病名でなく脳血管障害をいう)、くも膜下出血、心筋梗塞も、突然死の部類だが、いずれにも病巣という列記とした要因が存在する。無言で進行する病巣に人は気づかない。

    がんのように余命宣告される場合と、突然死で急逝する場合とどっちがいい?と知人などに聞たりするが、日常考えない突飛な質問に困惑を見せる者、速攻で答える者、「う~ん」といいながら答えを出せない者などさまざまである。速攻で答える者はそれについて考えた事があるのかもしれない、あるいは考えた事はなくとも、瞬時に実利を判断するのだろう。

    何もさせない、眺めるだけの絶世の美人と、使い放題のドブスとどっちがいい?と問われた事がある。自分は瞬時に後者と言った。前者がいてもいいが、「絵に描いた餅」、「花より団子」は、実利志向である。「美人は眺めるだけで十分」という男もいて、理由を問うと、「ブスが嫌い」という。「使い放題だぞ?」とけしかけても、「やる気せん」とニベもない。

    「ふ~ん」、人もいろいろだなと思うしかない。「よさほい節」という歌がある。「よさこい節」は古くから歌われる高知県民謡だが、「よさほい節」とは、数え歌形式の替え歌である。いわゆる「春歌」であり、春歌はまた人間の匂いのする歌でもある。その「よさほい節」の三番の歌詞に、醜い娘とやるときにゃ、ハンカチかぶせてせにゃならぬ、とある。

    顔を隠せば美人も不細工も同じという実利志向に依存はない。男も女も美人、イケメンに拘るのは、容姿コンプレックスの裏返しか。ファッションデザイナーのコシノジュンコが、「私はブサイクだから、美への執着が強いんだと思います」と言っていた。作家の松本清張も、「ボクの小説に登場する女性は、みなコンプレックスが生んだ魅力的女性です」と言った。

    上の二者択一は、女性は顔か性格かという問いに通じる。どちらがいいかを知りたいならどちらとも付き合ってみることだ。美人⇒不細工⇒美人⇒不細工⇒美人⇒不細工と三交替くらいで結論はでよう。自分の経験でいうと、巷言われる通り、「美人は3日で飽きる」はその通りで、飽きたからといって、他のいい点を探せばいいし、それが性格的なものであったりする。

    となると、究極的には性格に落ち着くということか。顔は飽きても性格で飽きることはない。良い物から悪いものが見えてくるより、良くないものから良いものが出る方がいいのではなかろうか?美人だったらどんな性格でも許せるなどという男もいたが、こういう男はおそらく美人と付き合ったこともなく、今後もおそらくない高値の花と願望が強いのだろう。

    不細工でも心の美しい女性はいるし、美人でも「ちょっとどうだろ?」的な性向の持ち主はいる。「会話を聞いたり、実際に話してみて、声が変、声がデカイ、言葉が汚い、自信過剰、話の内容がバカ過ぎ、空気が読めない、態度がでかい、媚び過ぎ、作り過ぎ…。こういう女性は5分でガッカリする」という投稿もある。が、美人礼賛は結構多いようだ。

    「顔より性格重視というのはウソですよね?」という言葉は、ネット内でもちらほらみる。分かりやすく言えば、本当は顔重視なのに、性格と嘘をいうということだが、何で顔重視といってはいけないんだ?顔重視はバツが悪いのか?おそらく、自分の顔を棚にあげて他人には美形容姿を求めることに気まずさを感じるのだろう。これも人間の屈折した心理である。

    自分は好きになる相手には顔はどうでもよかった。美形も可愛い系もいたが、やはり満たされる部分は性格である。仮に恋愛対象かそうでないかを容姿で判断し、付き合ったとしても、性格が合わないと思ったら速攻別れるから、続くか続かないか、性格で決まることになる。「顔がよければ後は我慢できる」って、人がそうなら結構なこと。自分にはあり得ない事。

    選ぶってことばかり言ってるが、選ばれる側である事も忘れるでない。少々不細工でも何てことはないが、少々でも性悪は対象外になる。求める対象は、自分の母が最大の反面教師で、母と真逆な性格の女性である。顔など問題じゃないほどに、優しい女性に憧れた。さて、「Uの想い出」の表題にあるUは、1月31日に心筋梗塞で他界した高校時代の友人である。

    彼も一人息子、自分も一人息子だったが、境遇は同じでも弁当のおかずは天地の差があった。彼は大好きな牛肉がほぼ毎日添えられていたが、自分の弁当に牛肉など一度もなかった。いいとこ魚肉ソーセージである。肉とソーセージは似て非なり、まるで違うものだが、なぜか当時はソーセージは高級食材にみえた。ハムなどはとんでもないさらなる高級品である。

    おかずの差は母親の差でもある。Uの母親は慈母観音のようであった。親になって以降、一度も声を荒げることも、息子を一度たりとも叱ったことがない人のようであった。「こんな人が母だったらいいな」と常々思っていた。父親はタクシー会社の社長で、タクシー需要が多い頃は羽振りもよかったようだが、マイカーの普及により経営はどんどん悪化、遂に倒産する。

    会社が傾き始めたころに、事業資金の確保に奔走する父の連帯保証人になったりし、その父が病魔に襲われた後は、Uが債務の返済を行っていた。Uは他にも友人の保証人になっており、結局友人は債務を履行せずトンズラしてしまった。保証人と連帯保証人に違いはある。どちらも、債務者の肩代わりをする可能性が生じる点は同じだが、いくつかの違いがある。
     
    簡単にいうなら、連帯保証人は「債務者と同様の義務を負う」が、通常の保証人は、「債務者がどうしても返済できない時にだけ、代わりに返済する」事になる。当然、連帯保証人の方が通常の保証人よりも責任が重い。連帯保証人は厳しく、「絶対に大丈夫」ということはない。他人の保証人になったせいで、自分が築いた幸せな家庭や人生が台無しになったケースは多い。

    連帯保証人になるということは、「自分が借金をすること」と同じ気持ちでハンコを捺すことだ。保証人を頼まれる場合の決まり文句に、「絶対に迷惑はかけないから連帯保証人になってくれないか。」そうやって仲の良い友人から頼まれたらどうする?絶対に受けてはならないし、だからきっぱり「No!」というべきである。色々理由をつけたり遠まわしに断るのはダメだ。

    そういう態度だと相手は脈ありと、執拗に食い下がるだろう。つまり、狙いをつけられないように、相手を諦めさせるようにすべきである。「いかなる友人の、いかなる理由であれ、連帯保証人には絶対にならない」といえばいい。理由を聞かれたとしても、「ならないと決めているので、なれないものはなれない。悪いが他をあたってくれないか」で十分である。

    情にもろい人間は、つい相手の困っている様子を見捨てられず、「O.K」してしまうが、そこには自分が同額の借金をしたという気がないのだろう。する必要のない借金をするか?つまり、連帯保証人になるということは、する必要のない借金をした事になる。その時点で友人を助けても、友人が行き詰ったとき、その友人は自分を助けてはくれないし、放って逃げる。

    これが連帯保証人の辿る運命と知っておくこと。Uは人を助けるつもりで、自身が借金地獄にはまってしまった。そうして返済途中で心筋梗塞で逝ってしまい、その災いは奥さんに降りかかることになる。夫の借金に妻は弁済義務はあるのか?民法761条には、「日常の家事による債務」については、連帯責任を負うという規定がある。が、日常の家事債務とは何か?

    たとえば米や食料品、マイカーのガソリン代、ストーブの灯油代、水道光熱費代金などの払いが滞った場合の債務をいう。したがって、夫が個人的な理由で友人の借金の連帯保証人になった場合、妻が連帯責任を負う必要はない。夫と妻は民法上は別会計とされている。夫の愛人への投資や、ギャンブルのためにした借金が、日常家事債務にはあてはまるわけがない。

    ところが、夫の借金一切を妻が背負うことになるのは、夫が死亡した場合である。この場合は、妻や子供などの相続人が法律で決められた割合で夫の資産も借金も相続する。夫名義の資産だけは相続し、借金は嫌という事にはならない。もし、借金の相続が嫌なら、相続放棄という手続をすればいい。これは夫の死亡から3ヶ月以内に家庭裁判所で相続放棄手続き行う必要がある。

    ただし、3ヶ月経過してしまっている場合でも、借金の存在を知らなかった場合などの事情によって、相続放棄が可能になる場合がある。プラスの財産より借金が多い場合には、相続放棄をすればよいが、どちらが多いか判明しない場合、相続した債務を相続した財産から弁済し、債務超過の場合は相続人固有の財産で弁済する責任を負わない「限定承認」という方法がある。

    「限定承認」は、法定相続人全員で家庭裁判所に申し出、夫のプラスの財産から借金を引いて、残った財産を相続する事も可能。死亡後3ヶ月の期間内に相続放棄も限定承認もしなかったときは、単純承認とみなされる。限定承認は、合理的な制度であるが、手続きが面倒さと相続人全員で行わなければならないほか、税務上の問題もあり、実際にはほとんど利用されていない。


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  • 03/13/16--16:39: Uの想い出
  • Uが実親や友人の連帯保証人になり、借金地獄で多くの負債を残して逝ったと記したが、決してUをあげつらうものでもなく、Uの名誉を汚すものではない。確かに安易に(安易かどうか分からぬが)友人の保証人になって労苦する者も多い。Uの心情に思いを寄せながら、Uの想い出を綴ったのであって、良くも悪くもそれがUの周辺であり、Uが起こした真実である。

    Uの妻も知らぬ人ではないし、知りすぎるくらいに知る女性。などと書けば、思わせぶりな記述となるが、そういう関係ではない。U(自分も)が高2の時にさかのぼる。「好きな女がいるんだ」とU。「誰だ?いってみろ」と自分。それが現在のUの妻で、いかなる顔かを別校舎に確かめに行き、そしてUに言った。「分かった!なんとかするからまかせろ」。早速、行動に出る。

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    どこで彼女を呼びとめ、どのように言ったかの記憶はないが、旧姓KのUの妻は、自分の申し出を了承、二人は目出度く付き合うことになった。KはUを知っていたようだった。イケメンで180cm近い長身、野球部の4番バッター。そんなUをクラス内で慕う女性もいた。後日Kに聞いたことだが、ある日Kは、Uと同じクラスの女性HとYに体育館裏に呼び出されたという。

    「同じクラスで付き合うのはいいけど、一級下でUと付き合うなんて生意気すぎよ!」と言われたという。これには自分もビックリ。HもYも知っているが、下級生を呼び出して、そんなイチャモンつける女とは想像もできない。Kは「怖かった」と言っていたが、「下級生のくせに生意気!」などと、訳の分らぬ言いがかりが女の世界にはあるのかと、バカらしくて笑ってしまった。
       

    自分もKと同じクラスのMに好意を持っていたが、自分は直接Mに交際を申し出、Mの了解を得る。以後、4人で会うなどした。ところが、Mの事が母に知れ、母は、Mの姉の勤め先の衣料品店に出向き、妹(M)に交際を止めるよう命令したという。なんとも卑劣な行為であり、こんなことまでする母親がこの世に存在するという怖ろしさ。これはもう怒りを超えた嘆きである。

    その事実に愕然とし、いいようのない悲しみに襲われた自分はその夜、UにKを呼び出させ、Kに頼んでMの家に詫びに行ってもらう。何とか思い直すよう働きかけてもらったが、母を怖がったMの気持ちは堅く、「もう付き合わない」とKにいったという。Mとはそれで終った。母の愚行に対する恨みの大きさは今でこそ消滅したが、当時の憎悪は殺したいほどだった。

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    計り知れない苦悩であったが、くよくよしたところで始まらない。自分は、Mに失恋した直後、さっさとナンバー2のOという女に鞍替えした。その変わり身の速さにはUも驚いたようだったが、Kがどう思ったかは気にもならなかった。Uとは同じクラスなので毎日顔を合わすが、以後Kに会うことも話すこともなく、Uたちその後の状況も自分には関係のないことだった。

    高校卒業後にUは大阪、自分は東京と離れたが、手紙のやり取りはしていたようだ。Uは自分の節操のなさを責め、松田道雄の『 私のアンソロジー〈1〉恋愛 』を「これを読め」と、送ってきたのを覚えている。本に何が書いてあったか、読んだ感想の記憶はないが、Uは男は一途であれという自己主張を持っていた。その理由は彼の父からもたらされたようだ。

    地元でタクシー会社を経営するUの父は地元の大実業家であり、羽振りもよかった。有り体にいえば、Uはお金持ちのぼんぼんという境遇になる。社長がいて、母親は社長夫人であり、Uは会社社長の息子ということになる。父には本妻以外にも公然たる妾がおり、妾の子までいた。Uとは腹違いの兄弟になる。「英雄色を好む」ではないが、そんな昔気質の人だった。

    狭い町内では公然と噂になったし、KがUと付き合うことを知ったKの周辺が、「あんなお父さんの子どもと付き合うのは止めなさい」、などと言ってきたと、後にKから聞いた。実際Uがどういう生活をしていたかまでは分らないが、弁当のおかずに毎日牛肉があったことで、自分とは異なる世界の人間という実感はあった。高校卒業後のUとKの動向は知らない。

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    当時自分は、高校時代の友人何人かと手紙のやり取りがあった。東洋工業(現マツダ)に就職したS、才媛だが家庭の事情で地元の農協に勤めたHらと手紙を交じえていた。仲のよかったSはともかく、ほとんど話したことのないHと交流する経緯は覚えていない。また、他のクラスのHとも手紙をやり取りした。Hは高1のときの級友で、2、3年は別クラスで話をしたこともなかった。

    なのに高校卒業したと同時に手紙が舞い込む。高校卒業という堰が切って落とされ、自分に思いを寄せていた女性がアクションを起こしたと推測する。同じクラスで会話もない女、2年間廊下ですれ違うだけの女のこうした主体的行動の理由はあったと見るべきだ。後者のHはしきりに会って話したいといい、それがあの時代の女性の、間接的な告白(求愛)であったかも知れない。

    あの頃は女心など考えることも、考えようとすることもなく、20歳前の男の子にとっては、自が思いのままに、ひたすら意のままに生きていた。人の心の奥にある何かを探ることもなく、気づくこともない。若いというのは今に思えば考えナシのぱーぷりん、それが無鉄砲な行動の源泉となる。「若さ」の良さというのは、無思考ゆえに無茶苦茶がやれる。特に自分はそうだった。

    どこの誰より"何も考えず生きていた"と実感できるほど、理性の欠片もない感性only人間であったろう。今はしこたま物事を考え、冷静な判断を模索するが、本質は感覚派、非理性派である。他人のことなどまるで考えない無軌道な行動で、迷惑をかけたことはいくらでもある。なぜもっと人の気持ちになれなかったか?おそらく我が侭に育ったからであろう。

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    今は何より相手の気持ちが見えてくる。相手の気持ちを汲み取りながら行動する。相手に批判をする場合も、相手の気持ちが読め、分かるからである。批判も同調も無視もどれも相手の心を読みとった末の選択である。それぞれに対応した選択で接している。一貫した対応というより、柔軟に臨機応変に対応する。敵も味方も作らず、時々に敵にも味方にも変化する。

    そもそも「敵」、「味方」という概念はなく、親しい人間であれ、そうでない場合であれ、理性判断重視に是々非々な対応を心掛けている。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」としたヘーゲルの言葉が正鵠を射ているように感じている。確かに、理性とは冷静な視点であり現実的な視点だ。人間は直観的視点と客観的視点を使い分けられる。

    これに対し、感情は熱い視点であるから、理想的な形を作りだすために人間は、客観と直観をミクロとマクロに使いわけるが、純粋な視点としての心や感情も持っている。また、夢や理想や創造性といった視点から、多次元的に物事を思考できるようになる。これが人間的な成長と思っている。いつまでも狭い視野で物事を判断する人間は、所詮はキャパが低いままである。

    ヘーゲルの言葉は彼の著書『法哲学』の序論であって、現実的なものはすべて合理的、合理的なものはすべて現実的と置き換えられる。現存するすべてのものを合理的なものとして神聖化し、専制政治の支配する当時のプロイセン政府の反動的な政策を、哲学の名において評価したに過ぎない。これに政府は喜んだが、半面、自由主義者たちは大いに憤慨したようだ。

    イメージ 5何事も理性的にもたらされたものが正しいと言うのではなく、例えば女性が言うところの「生理的に無理」という言い方は、本能的な嫌悪感を示しているし、思考で結論される以前の問題だ。本能的であるということは、説明不可能である。それでも説明を試みるなら、「この男性の遺伝子は私が残す価値はない」ことかと。話す内容・言葉以上に女は男を直感的判断をするもの。
    内容がUのことからそれたが、彼が自分のためにわざわざ送ってくれた松田道雄の著書に見る彼の真意は、「恋愛は一途であれ」ということだ。人にはそれぞれにいい部分がある。さまざまな洋服、さまざまな料理、さまざまな音楽、さまざまな国、都市、川、山といった自然に、さまざまな四季。毎日同じ服を着、同じ物を食い、同じ音楽を聴けといわれると、生きる楽しみは半減する。

    結婚は形式であるから、愛がなくともやっていける。虚しいか、つまらないかは別にしても、結婚を続けたい人、続ける人はいる。自分たちが続けているということを自賛して、離婚者を貶す偽善者もいよう。人はいろいろだ。自分がよければそれでよく、他人のことを貶したところで、愛が強まるわけでもあるまいに。添え遂げる人は立派、別れた人もよくぞ別れた、立派である。

    恋も相手によってまるで違う感情を呼び起こされる。一途な恋は一般的には正しくも美しいものだが、別の視点でみればつまらぬこと。人間は移り気で愚かであるのを知る創造者が、「汝は汝と共に生きよ」、「汝のみを愛せよ」と命令するのは、そういうことである。神が命令しなければ人間は一途な愛を遂げないし、神が命じても現実的に人間は一人を愛せない。

    あなたの境遇があると同じように、それぞれ他人の境遇がある。あなたが良くて他人が良くないと思うのは構わないが、それで自分の良さが増すのか?自分は良いが人は悪いと思うのも、人は良いが自分は悪いと思うのも、できることなら思わずに生きるのがいい。自分の人生だから、いいと思えることを探し、それを見つけて楽しく生きればいい。人には人の人生がある。


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  • 03/14/16--16:09: Uの近況

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    Uは死んだ。1月31日の23時30分頃である。Uはもうこの世にはいないし、死んで近況もないだろう。いや、そうではない。Uがいなくなっても、Uの遺族である妻がUが残したアレやコレやを、Uになり代わって整理に大わらわである。生前は知らされていなかった借金発覚、その返済を取り継がねばならない。3月6日には、少し早めの49日をとりおこなった。

    Uには40歳になる一人息子が現在鳥取県米子市に家庭を持っている。3月11日にU宅に自前のカレーを持参で伺った。妻のMさんは、Uの死後に知ることになった借金を返済することになるが、保険ナシ、預貯金ゼロでは多難であろう。父親の保証人分、友人の保証人分はUの個人的借金でないだけに妻もやるせない。10年前から返済に追われるUの苦悩が伺われる。

    築33年の一戸建住宅のローン残債は、強制加入の生命保険で相殺となる。後はUから妻に名義変更が必要だ。現在自宅は、金銭債権(借金)の執行保全のため仮差押えとなっている。仮差押えは一般的には債権取立て訴訟後に、裁判所が認めるものだが、裁判を起こす余裕がないほどの緊急性がある場合に、臨時の手段として裁判所の許可を得てに相手の財産を一時凍結する。

    家庭のある身で、個人的な人間関係の保証人になるのは、絶対に止めた方がいい。債務者は連帯保証人があるのをいいことに、債務完済の努力をしない。連帯保証人が肩代わりすることになれば家族に迷惑がかかる。頑張って払っていた矢先の突然死であった。Uも死ぬなど思ってはないが、思っていなくても死は突然に訪れる。それで一切の負債が妻子にのしかかる。

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    死ぬ者も辛いが、残された者も大変である。妻子が債権放棄をすれば借金は逃れられるが、唯一の資産である土地家屋も手放さなければならない。「私に仕事を残して死ぬなんてズルいよね~」と、妻のMさんは笑い混じりにいったが、少しづつ片をつけていかねばならない。彼女は今まさに、盆と正月が一度に来たような忙しさだが、重要案件から一つづつ解決の最中である。

    Uは簡単に死んでいい場合ではなかったが、そんな事情や状況を考慮に入れることなく、死は突然襲ってくる。なんとも無慈悲な奴だこと。まあ、死なないだろうと誰でも思っているが、こればかりは予定が立たない。死んだUに何を言っても無意味だが、人に言われることのないようにするのがなによりだ。生前にアレコレいっても人はなかなか人の言葉を耳にいれない。

    だからやっぱり死んだ後に、「バカヤロー!」と言うしかないのだ。「大丈夫、お金は天下の回りものよ」と、Mさんは笑顔で言うが、実際文句のやり場もないのである。生前Uに何かを言えば、辛そうにするから忍びなかったという。確かに言われる方も辛いだろうし、どうせ言っても聞かないのなら、それこそまったく耳に入らない死んだ後に言うのも同じことだ。

    困っている者の保証人になるということは、困っている人間を助けることになるのだろうか?しかし、困ってる人間を助けることで、自分が困ることになってもいいのか?いい訳ないが、仕方がないということだろう。人を助けてやりたい一心のとき、自分が困ることを誰も考えないから、保証人になる。つまり、人の保証人になるとき、なる者は困っていないときである。

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    奥さんはある事例を教えてくれた。「Uが保証人になって苦しんでいるときに、Uの事情をよく知っている、Uがもっとも親しいと感じた少年野球のコーチ仲間に、保証人を頼んだという。すると相手は、「君は人の保証人になって苦しんでいる身で、それなのになぜ人を保証人に依頼するのか?それって間違ってないか?」と言われたという。言った人は間違っていない。

    このように言われてUはショックだったとMさんは言っていた。言ってることは真っ当だが、違う断り方のほうがナイーブなUには良かった。困った人を助けたい、しかし自分が困ったときに、誰かが助けてくれるのか?多くの場合は「No!」である。が、Uのように他人の不幸を看過できない人間は、自分が困っているとき、誰かが手を伸ばしてくれると思うのだろう。

    神を信ずる者は、困ったときに神にあやかろうとする。が、無神論者は自力で乗り切ろうとする。普段は神など信じてもいないのに、「困ったときの神頼み」をする者もいる。そんな風に人間は神のつくった最大の矛盾である。その矛盾にもっとも激しく引き裂かれることこそ、人間の存在証明であろう。自分が人間であることの証明は、常に二つに引き裂かれることにある。

    Uが友人の保証人になったときのことを考えて見た。困った友人に心を動かされたのであろう。自己犠牲精神と言うより、まさか債務が我が身に降りかかると思わなかったはずだ。我が身に降りかかる(であろう)債務を怖れたら、保証人になどならないはずだ。万が一というリスクは考えただろうが、「いいや、そんなことにはならない。皆は保証人になるのを怖れすぎている」

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    Uはそう考えたかも知れない。保証人が債務を履行する立場というより、そういう人間を用意してやれば友人は資金を調達できるのだ。ならば彼を信じて保証人として名を連ねてやろう。そのように考えたのではないか。自分の気持ちによって動く人間は、物事を解決できない人間である。その気持ちがどんなに人間的なものであったとしても、自分の気持ちで動く人間は甘い。

    問題を解決するということは、自分の気持ちを押さえるということ。たとえそれがどんなに人間的な感情であっても、それを抑えることが問題を解決することになる。まさにリーダーがこうでなければいけないのがよく分かるし、リーダーとは、「No!」がいえなければその資質にあらず。情に負けると策を誤ったりするし、常に冷静、冷徹な判断が求められる。

    Uとは高校の同窓生だから、彼の社会での仕事振りを知る術はない。そんなことを知る必要もないのかも知れない。クラス会や同窓会での話題とは、共に学び共に遊んだあの時が楽しいのであって、社会に出た後の事などは、互いにとっても知らないこと。そんな話のどこが面白い。昔はこうだったああだったなど、利害抜きの罪なき話は何百回しても楽しき哉。

    U宅を訪ね、Mさんと二人で自前のカレーを食べながら昔話に花が咲く。枯れ木に花の賑わいではないが、初めて会って50年以上の二人が、爺婆気分など一掃して当時の気分で話す。人は誰も未来を生きるが、希望に満ちた過去があったのは紛れもない。誰も未来を覗くことはできないが、過去に立ち戻ることはでき、それが楽しい。MさんがUのアルバムを出し、見せてくれた。

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    Uと二人でクルマで旅行した写真があった。クルマには「日本列島 縦断!!」、「DISCOVER JAPAN」、「後援 NHK 日本テレビ」などと落書きしまくった。「本当に画いていいんか?」、「いいよ、好きに書いてくれよ」と、Uの言葉通り、好き放題に画いた。水性ペンキなので雨にたたられ文字は薄くなったが、あれもこれも若さと言う自己顕示欲である。

    Uのアルバムには「感傷旅行」とあった。センチメンタル・ジャーニーである。そういえばこの計画は彼から持ちかけられたが、アルバムの注釈からして、失恋かなにかがあったと推察する。一途なUからして、おそらくMさんのことであろう。広島を出発し、北に向かい、因幡の白うさぎ伝説の白兎海岸から鳥取砂丘に、そこから日本海沿いに東に向かい、天の橋立から能登半島をぐるり。

    南下して紀州へ。三重の尾鷲で自分の友人宅を尋ね、3人で銭湯に…。そこから本州最南端の潮岬を経て大阪に北上し、国道2号(山陽道)を兵庫⇒岡山、そして広島に戻るというルート。これで日本縦断とは威勢がいい。二人が何を話したかなどは何ひとつ覚えてはないが、ありきたりの日常会話など誰も覚えてはない…。が、彼はMとの苦悩があった。共に19歳の夏だった。

    これが自分の頭の中の彼の近況である。思い出すことのないいろいろなことを彼の死によって思い出す。彼は死んだが、言い方を変えれば、この世の約束事に従って生きた。不慮の事故や、事件の被害で命を落とす者もいるなら、それに比べて病死はすべての人間に与えられた最終的な約束事である。この世の約束事によって生きたことは人間として幸せであろう。

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    すべての人間は、その大小・多少はあっても、この世の約束事のなかで、自分の望むものを手にすることができる。Uは事業欲の強い男で、色々会社を立ち上げもした。人生の最晩年期に負債を抱えて苦労を強いられることになったが、彼の人生の失敗とは思わない。成功と失敗という現象はまったく逆であっても、二つの主人公の求めたものは間違いなく同じであった。

    Uは何を求めていたのだろうか。そして、何を失ったのだろうか。失いたくない物を得たかったのだろうか。それとも、得たいものを失ったのだろうか。自分に置き換えてみるに、自分が失いたくないものは何だろう。失いたくないものはそんなに多いとは思わぬが、もっとも失いたくないものは命である。だから死ぬまでは絶対に生きるし、だから「死ぬまで生きよう」と…、

    ささやかな号令である。死が身近にせまったときに人は慟哭する。さまざまな人の終焉に触れた。それらから得た結論は、「何ものをも失うことを恐れぬ人間でありたい」である。人間は失うものを得たいという願望がある。が、失うものを失うのは、失うものを得たいという矛盾から逃れられない。が、一切から自分を自由にしたいなら、やはり、失うべきものは失うべきであろう。

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    人間は自分の環境や過去の制約から物事を考える。幸福に暮らす人が離婚など考えられないという。腹の底ではおそらく離婚を卑下しているはずだ。子どもがいて離婚するなど、あまりに身勝手などと言い放つ。幸せ満載の人の立場からは当然の発想だ。離婚は身勝手であり、悪であると縛られる前に、実際問題、離婚のない結婚は地獄である。そこに考えが及ばないだけ。

    お金のことで苦労したUが、何かにつけて世の中のことを、お金という観点から考えていたとMさんはいった。旅行したり、生活を楽しむよりも、ただ一生懸命に働くことが自分の使命といっていたという。お金で苦しんだUからすればそのようになってしかり。しかし、彼に伝えたかったことは、そうした過去や現在の、置かれている状況から自分を自由にしたら?である。

    幸いにして、Uの妻であるMさんは、「こんな状況だけど、なるようにしかなりませんし、私はなるたけ人生を楽しみたいです」と言った。感傷的になることもなく、センチメンタルに埋没することもない楽観主義のMさんには、その爪の垢、臍のゴマでもUに飲ませてやればよかった。Mさんを励まし、勇気つける必要など全然ない。だから、今日もこれから二人でランチである。

    「奥さん…実は僕は以前から……」と、よろめきドラマ風に迫ったら、おそらく笑いこけるだろう?想像しただけで自分も笑える。が、シュチエーション的に面白そうな気もする。もしやるとしたら、プラカードを作っておいて、「ドッキリですよ~!」のオチがいる。さて、ランチ中に、「写メります!」。途端に下を向く。同世代女性の奥床しさ、Vサインなどあり得ん。

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  • 03/15/16--17:22: さらばU

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    彼とのハチャメチャ旅行を思い出したが、その写真から場面、場面の情景は思い出すが、二人が何を話したかはまったく覚えていない。アルバムの但し書きからして、ロマンチストの彼は、ロストラブを癒すために提案したのだろう。一途で真面目なかれは、思いつめる性格である。自分は、身を切られるような失恋をしても、別の対象を見つけて気分を一新させる。

    どちらがいいか悪いかではなく、思いつめる人間が行き過ぎると何をしでかすかわからないといった怖さがある。愛だの恋だのはその時点では深い感情であるけれど、薄らいでしまえばどうということはない。「人間は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する。」という言葉は、案外的を得ているものではないか。

    Uのセンチメンタル・ジャーニーの記憶は現地で撮った写真が物語るのみで、だから自分がもっとも彼の印象深い思い出を探したときに、「これだ!」と思ったのが彼から届いた一冊の恋愛本である。「Uの想い出」の記事に書いた、松田道雄の『 私のアンソロジー〈1〉恋愛 』を、自分宛に送った彼の真意は、"一つの恋を成就させよ"というものだったのではないかと。

    彼の思い出を残すために自分はこの本を購入した。今さら恋愛はないし、老いらくの恋などとシャレた情念も持ち合わせる身ではないが、そういう境地になった現在ならこの本に書いてある事をUと共有できるのではないか。「失恋したって女なんかいくらでもいるじゃないか。今よりもいい女がいるのかもしれない」。こういう気持ちにあった自分である。

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    異性に魅かれるのも根本はそれだ。もし、女が角ばったゴツゴツした体なら興醒めするし、低くて太い声で呻かれてもキモチワリィし、洗濯板の上に干しブドウ二つのような胸なら、自分と同じじゃないか、と思う。だから、ホルスタインのような巨乳に憧れる。すべての男とはいわないが傾向的に。ブスがイケメンに、醜男が美女に憧れるのも、ないものねだり。

    気持ちにあるのだから、そういう言葉をUに言ったはずだ。"一途の恋"を神聖とするUに自分のいい加減な気持ちは許せなかったと思われる。織姫と彦星のような、一年に一度しか会えない恋をロマンと憧れるU、多くの女と恋の花を咲かせる自分、二人は対照的だが、人間は自分とは対照的なものに魅かれるもので、その理由は、"ないものねだり"にある。

    子どもにとって七夕は、織姫と彦星が一年に一度の出会いをする大切な日と思っていた。何ともロマンに満ち、恋愛成就のイメージが強い寓話であるが、そもそも二人はどういう関係であったのか?七夕の話には表層のロマンとは裏腹に、看過できかねる現実がある。実は織姫と彦星は夫婦であり、なぜか天の川を隔てて別居状態に置かれている。

    その「なぜ」を紐解いてみよう。本来は真面目で働き者の彦星ちゃんであったが、いきなり女性をあてがわれ、新婚生活に酔い、遊んでばかりいたそんな彦ちゃんに、怒った天帝が二人を別居、離れ離れにさせたのである。天帝とは織姫の父親であり、二人の縁談をまとめた張本人でもあった。彦星は、機織りの名手である娘に相応しい相手として選んだ。

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    彼の仕事は牛使いで、まれにみる働き者であった。そんな二人を引き合わせたのはいいが、結婚してからというもの、姫といちゃつくばかりでまるで働かない彦星を見かねた天帝が下した苦渋の決断である。なんともヒドイ話ではないか。別離後、悲しみに明け暮れる二人に対し、技芸を磨き勤勉に働くことを条件に、年に一度の再会が許された。

    そして七夕の日、天帝の命を受けたカササギの翼にのり、二人は逢瀬を交わすようになった。銀河を挟んで織姫のベガ、牽牛星のアルタイル、二つの間には白鳥座のデネブ、これが天の川で輝く「夏の大三角形」といわれる。白鳥座がカササギという事だ。七夕に雨が降ると、子ども心にかわいそうと思っていたが、七夕に降る雨を「洒涙雨(さいるいう)」という。

    これは二人が逢瀬の後に流す惜別の涙とも、逢瀬が叶わなかった悲しみの涙とも言われている。多くの人は、織姫と彦星を恋人と思っているようだが、実は強制的に別居させられた夫婦であった。それにしても、天帝という奴の傲慢さ、権威的で非情な行為である。新婚早々、仕事おろそかにいちゃいちゃするなど、当たり前だろに。子づくりという仕事もあるだろに…

    母親に引き裂かれた恋を経験する自分としては、こういう傲慢な親は許しがたい。そういえば7月7日が誕生日という女性は、名を「七夕子(なゆこ)」といった。何とロマンチックで、惚れ惚れするようないい名である。名だけではなく、性格その他、いろんな点で申し分ない女性であったのを思い出す…。「○○ちゃんはどうしてるかな?」恋多き男ならではの、思い出である。

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    一穴主義のUに、恋多き男の心境など、なんとも理解できなかったようだ。「お前はこれを読んだ方がいい」という送ってきた押し付け本であったが、反抗することなく素直に読んだ。ストーリーのある小説と違って、書いてあることの何一つ覚えてはいない。今日の午後に届くはずなので、読後の感想として後編を書く。ひとまずここまで、本日は二部構成である。



    本が届いていた。ゆうメール便でおそらく夕方くらいではなかったか。4時前にはまだ未着だった。手にし、目次をみた。アンソロジー(選集)というだけあって複数の作家、詩人、芸人、音楽家らの短編やエッセーが収録されていた。何度も読んだ坂口安吾の『恋愛論』もあった。瀬戸内晴美、いずみ・たく、倉橋由実子ら総勢25人、の中には伊藤整、小田実もあった。

    これを読むには日数がいる。片手間に感想を書くなどという代物でもないので、それは止めた。一つだけ取り上げてみるなら、最初の頁にあるということで、なだ・いなだの「愛されるということ」と題するエッセイに、ルソーが彼の著書『懺悔録』の中で言っているという言葉が記されていた。そう知人から聞いたなだは、著書からその言葉を探したが見つけてないという。

    それでなだは、ルソーであれ誰であれ、その事は別に問題ないとして、以下の言葉を引用している。「人間、愛されようと思っている時には、愛されぬものだが、愛されなくともよいと諦めると、愛されるものだ」。どういう意味かを考える前に、これが事実であったとしても、諦めた時に愛されてもいいものだろうか?諦めていたときに愛されると想いが復活するのか?

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    「求めても手に入らず、諦めたら向こうから寄ってきた」と言い換えられる。つまり、物事はなかなか自分の思うようにならないということで、そういうものであるのは納得する。自分が好きだと思う相手が、自分を好いてくれてる場合もあるが、好きな相手が別にいる場合が多い。「俺はお前が好きだから、お前も俺を好きになれ」と、強制したから叶うものでもないし…

    好きな相手に告白したが、「ごめんなさい、好きな人がいるんです」といわれて、それでも一途な思いを継続するか、諦めて他を探すか、ひとそれぞれだろう。ルソー(として)の言葉では、断られた後もずっと思っているうちはいいことにならず、諦めた時に向こうから、「私のことまだ好きでいてくれる?」などと、アクションがあるということか。そうなるかどうかは疑わしい。

    そういうこともないではないが、諦めたら愛されるというのはレアケース。何事も断言するのは簡単だが、ルソー(として)の言葉の本質は、「とかくこの世は上手く行かないもの」という比喩であろう。自分ならダメな相手に執着せず、別の対象をみつけるが、Uの場合はフラれても心変わりせず、じっと好きでいつづけるということだ。これも善悪の問題ではなかろう。

    自分がいいと思うことは人にいう。例えば誰かが自分に、「告白したらフラれちゃった。どうしたらいい?」といわれれば、「仕方ないね~、いい女はわんさといるから探した方がいいよ。今の相手よりいい女が見つかるかもしれんしなぁ」となる。おそらくUなら、「フラれても思い続けていれば何とかなる。簡単に諦めないでじっと待ってたほうがいい」というだろう。

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    妻のMさんがこのように言っていた。「彼は何事も一生懸命に頑張っていたら、きっといいことがある。天はそういう人を見捨てない」が口癖だったと…。「私は甘い!といいましたけどね」。「Uは、ロマンチストなんですよ。他人からみるとそういうところは、甘いといわれるかも…」と自分は添えた。男は夢想派の理想主義、女性は現実主義といわれる。女性の夢想派は少女に限る。

    おばちゃんの現実主義志向を見るといい。かつて自分も超ロマンチストだったが、ある言葉に触れて考え直した。ある言葉とは、「相対的に男はロマンチストだが、ロマンチスト過ぎる男は滅びる」と、これはリゴール王となった山田長政に言われたもの。Uよ、お前はいささかロマンチスト過ぎた。まあいい、もう何もかも終ったのだ。安らかに眠っておれ…


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  • 03/17/16--02:23: 女を刺す男の幼稚さ
  • 2014年4月18日10時頃、東京都北区滝野川のマンションの1室で住人の女性が元交際相手の男に包丁で刺される事件があった。男は元交際相手の女性の新しい彼氏が部屋に居た事に逆上、包丁で刺した。通報を受けた警察官が駆け付け、男を殺人未遂の現行犯で逮捕した。男は「殺すつもりだった」と供述している。女性は、元交際相手と別れたいが応じてくれないと巣鴨署に相談していた。

    2015年5月22日午後5時55分頃、名古屋市中川区で通行中の女性を包丁で刺したとして、愛知県警中村署は12日、殺人未遂容疑で同県一宮市冨田、無職神出勝彦容疑者(43)を再逮捕した。「女性にもてず、自暴自棄になった」と容疑を認めているという。同容疑者は一人目を刺した直後に別の女性を刺し、現行犯逮捕されていた。女性2人は幸い命に別条はなかった。

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    2014年11月5日午前8時40分ごろ、大阪市北区兎我野町の雑居ビルで、「男が女を刺している」と110番があった。大阪府警や市消防局によると、女性(38)がナイフで顔や胸、背中など約10カ所を刺され、搬送されたが意識不明の重体。府警曽根崎署は、女性とトラブルになっていたとみられる男を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。男は同市西成区、無職中勝美容疑者(66)。

    中容疑者は京都府舞鶴市で平成20年5月、府立高校1年の女子生徒=当時(15)=が殺害された事件で殺人罪などに問われたが、今年7月に無罪が確定している。調べに対し、「ママが殴ってきたので上半身を数回ナイフで刺した」などと供述しているという。近くのホテルで働く50代女性は、「警察に取り押さえられると、男は興奮した様子で暴れた」と目撃の様子を語る。

    2016年1月20日午前5時47分、交際していた女性を刃物で刺し殺そうとした柳川市大和町の会社員古賀充容疑者(26)を殺人未遂の疑いで緊急逮捕した。同容疑者は大牟田市の会社員山崎有里沙さん(25)宅に窓を割って侵入、帰宅した山崎さんと口論になり、胸を刺すなどけがを負わせたが、山崎さんは命に別状はない。「殺してやろうと思った」と容疑を認めているとのこと。

    2016年3月16日昼前、愛知県北名古屋市のアパートで、17歳の高校2年の男子生徒が、復縁を求めたが断られたことで逆上、16歳の元交際相手少女の首や左わき腹など10か所以上をナイフで刺したとして、殺人未遂容疑逮捕された。事件現場は北名古屋市内のアパートで、刺された少女は、「元彼に刺された」と自ら110番通報し、集中治療室で手当てを受けたが命に別状はない。

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    男がひ弱な女性を殺すってのは、女性がひ弱ではないからだろうし、男がひ弱という以外にあり得ない。何というのか、情けないというのか、みっともなさ過ぎる。近年女性が強くなったことで、今後もこういう事件が減ることはないだろう。本日17日、全国の警察が2015年に把握したストーカー被害は、前年比3.7%減の、2万1968件だったことが警察庁より発表された。

    被害者の9割近くが女性。警察は被害者の安全確保を最優先に摘発を行っているほか、加害者の執着心を取り除くため、精神医学・心理的手法の調査研究も進めている。ストーカー被害は、統計の残る2000年以降で2番目の多さ。被害者と相手の関係は、配偶者や交際相手(いずれも元を含む)が合わせて6割近くを占め、面識のない相手からの被害も5.8%の1281件に上った。

    事件の摘発総数は2415件。内訳は脅迫362件、住居侵入315件、傷害197件など。殺人はなかったが、殺人未遂は11件に上った。「交際を断られた」、「復縁を断られた」という腹いせに、子どもじゃあるまいし、といいたいが、やってることは子どもである。「失恋」に対する免疫のなさ、傷つくことに慣れていない人間は、自らが悲恋感情を収拾できないということだ。

    「女なんかいくらでもいるだろう?」は、信条というより当たり前の事実。どうして他の女に気持ちが向かないのか、まったく理解できない。「失恋」は、恋を失うと記すが、恋を失うという状態といっても、恋は物ではないのだから、恋愛感情の不安定な状態を現す言葉にしか思えない。だから、恋愛中において失恋は、毎日とまではいわずとも、何度もしてるはず。 

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    恋愛中においては、もう頻繁に失恋感情に苛まれる、それでこそ恋愛である。だからか、完璧に恋が終った状態を「失恋」というようだが、自分的に本当に恋を失ったとは思えない。一般的に失恋が、悲しく、切なく、やるせなく、胸の痛む状態といわれているが、それは「失恋」というより、恋愛と言う「病気」の症状である。これを昔は「恋わずらい」と言った。

    では、恋愛の病気でない本当の失恋とは何か?思春期初期から15歳くらいまでに、相当数の女の子がジャニーズ病というハシカにかかる。して、高校生くらいになると、会うことも話すことも、手をつなぐこともできないジャニーズ病から、現実的な彼氏に目が向いて行く。これは、物事が普通どおり、当たり前に見えてくる状態で、オトナになったという現れである。

    ハシカは誰でもかかるし、一度かかれば二度とかからない。ハシカをやってオトナになる。高校生になっても、20歳過ぎても、ジャニーズ追っかけやっているような女は、ハッキリいって精神的な初潮が、未だ訪れぬコドモである。絵に描いた餅は食べることはできない不満が、少女がオトナになる始めの一歩である。生の男に触れたいという当たり前の感情が少女を脱皮させる。

    男の中に女性的な部分があるように、女の中にも男性的な部分はある。男は勇ましく戦にも行くが、いちゃいちゃねっとりの恋愛もする。勇ましいだけが男ではないし、ねっとり部分で恋愛をする男と言うのは、実は男の中の女性的な部分であろう。つまり男の恋愛は、男の女性的な部分で行っている。恋愛は上記したように、情緒に身をまかせる一種の病気である。

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    理性をかなぐり捨ててねっとり感情に身を埋没させるなどは女性的なこと。だから男の恋愛は熱しやすく冷めやすいといえる。昨今の男が執拗に女性に執着するとか、偏執的にまでのめり込む状況というのは、まぎれもない男が女性化している現象だ。男が女性化し、女が男性化する現代社会において、様々な問題が起こる。どうしてこうなったかは、女性解放も一因とみる。

    もう一つ、科学的根拠はないが、男の女性化は家庭の主導権を妻が握って、子どもの視線には明らかに父より母が強い。さらには教育権を母が握って、幼児期から男の子を溺愛するのが当たり前になって、父親が口を出せない情勢と想像する。こういう家庭は、自分からみて気持ち悪いどころか、あり得ない家庭である。絶対にそうはならない、そうはさせない家庭を作る。

    男の子の育て方は難しいというように、病気になりやすい、風邪をひきやすい、そんな虚弱体質であり、ばかりか男の子は実は精神的にも弱い生物なのだ。だから、筋肉や力や太い骨を与えたという。それなのに、強く逞しく育てようとせず、母親のペットのように育てた男は、青年になってすぐに分かる。壮年になればさらに分かる。逞しい男とそうでない男の比較が簡単なように…

    どう育てられても最初には戻らない。交際を断られた、復縁を迫るために、「だるまさんが転んだ」みたいなことをやるバカ。相手につきまとうのは、恋を失うことを怖れた行動で、それがストーカー。芸能人の追っかけと一緒で、失いたくない、少しでも傍にいたい、あわよくば体に触れたい、手にも足にも髪にもチン(?)にも触れたいという接触願望か。

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    人が成熟して理性を持ち始めると、恋を失うことなど何でもないことだと分かる。感情的な恋情というものであっても、理性で抑えなければならないことは山ほどある。それを抑えないから憎悪が増幅したり、自分勝手な行為で相手に迷惑をかけたりする。感情を抑制しないで先走った恋は一方的な思いであって、相手から喜ばれる、望まれる、尊敬されるものはまるでない。

    そんな相手が、どのように脅迫じみた言葉や態度をとっても、相手の心は離れるばかり。そもそも失恋をして文句をいう、不満を漏らす人間はバカである。相手が自分を好まない、嫌うということを何で相手のせいにするのだ?自分の問題であろう。なのに相手に対して怒ったり、憎んだり、あげくはナイフで刺したりと、こういうバカが増える世の中には、必ず家庭に問題がある。

    恋愛は猟場の狩りではない。ナンパにその傾向があるが、獲物が率先して食べられについてくる。だから、ナンパ師は親切な猟師である。だからナンパ師は声をかけても逃げる獲物は追わない。つまり、逃げる相手がいるというのを想定しての行動。「来るものは拒まず、去るものは追わず」の精神だが、逃げる獲物をとことん追いかけるストーカーは醜いバカ!

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    これはソニー創業者の一人盛田昭夫の言葉であり、先人から後人へのプレゼンであろう。「女」という生々しい言葉は企業人にとっての比喩であり、半面現実的な言葉でもある。「女」を「商談相手」、「消費者」、「販売店」に置き換えてみれば、女性を口説くもビジネストークも、説得という点で同じ事。女を口説けない奴が、「女を口説けなくても仕事はできる」と反論する。

    結構なことだが、人を説得する話術、交渉術があるなら、逆に女も口説けるのでは?ところがこの分野は"逆もまた真"とならず、それが「女を口説けなくても仕事はできる」に現れている。ナンパが苦手人間の負け惜しみとも取れる。ビジネスマンであれ、そこいらの男であれ、"女を口説かなければいけない"ことはないが、口説けて困ったことなど一度もない。

    「ある」は「ない」に勝る。知識をひけらかす必要はないが、知識ある者はない者に勝る。原体験の多い者は少なき者に勝る。お金のある者はない者に勝る。などは、どれも一面だけの指摘で、何かができたからといえ、すべてができる事はない。したがって、何かができて、その事を自慢する人間はケツの穴の小さい人間だ。小さきケツの穴から大物(ウンコ)は出ない。

    そういう意味かどうかは知らないが、ケツの穴の小さい人間は総じて小物である。知識や経験、お金がなくとも困らないのはそのとおり。「ない」はどの程度ないのか、どの程度あれば「ある」なのかの定義はない。ようするに、ないならないなりに楽しく生きていけばいいし、あればあったで、どちらも楽しく生きていける。問題は「ある」、「なし」よりも生き方であろう。

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    お金がない分際で、金持ちのように生きたいなら不満がでよう。知識欲のない人間が知識があればいい、ある奴が羨ましいと思うなら、さっさとそれをすればいい。そういう人間にとっては努力を要するが、楽しみながら知識を得るような人間にとっては、知識習得など一種の遊びで、努力などとは到底思っていない。自分は今、ウォーキングをやっている。

    月平均400kmを歩くが、「頑張っている」とは思わない、努力とも思わないのは好きでやっているからで、やりたくてやらない人間は「凄い」という。やる側にとっては凄くもなくて、道と足があるから歩いている。東大入学者を周囲は「凄い」というが、入った本人は「凄い」ことをやったと思ってはいない。まあ、「自分は凄い」と思うようではダメな人間であろう。

    「ダメ」とは、「入学することが目的」と、「入学は目的を叶えるための手段」という人間の差との意味だ。つまり、東大をゴールとする人間はダメとした。まあ、自分の「ダメ」であって、当人が「凄い」ことをなし得たと思うのは構わない。女を口説くのは(必要な)手段、ウォーキングも何かの手段であり、そのこと自体が目的ではない。だから「凄い」などと思わない。

    イチローや松井のように自らを高みに置く人間は、他人の「凄い」の評価に動じることはないし、賛辞の言葉にも他人事のような言葉を述べていた。それが彼らを高みへ至らしめるための手段である。話を戻すが、盛田の言葉を真に受ける者と、比喩としての広い視点で思考する者と、同じ人間でもそれぞれ振幅が違うが、盛田の真意はこういうことだ。

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    クライアント向けのプレゼンや、大事な商談は誰もが緊張する。成功させたいなら尚更で、意気込むほどに人間は緊張する。だから失敗の経験を持つものは多い。しかし、プレゼンや商談をしっかり決めれば仕事は前に進むし、当然ながら人物評価は上がり、給料も上がる。重要なプレゼンや商談は、会社の利益に直結するし、ビジネスにおいて最重要ポイントとなる。

    仕事の基盤となるのは何か?まずは、身振り手振りも交えたコミュニケーションである。人間は言葉の動物で、言葉を生かすための身振り、手振りは、欧米人なら当たり前に身につける表現手段で、それを総称してコミュニケーション術という。思うに、身振り手振りは教えるものでもなく、教えて身につくものでもない。アレは自然発生するものではないかと。

    大学の社会学部コミュニケーション学科に、body language(身振り・手振り)の講座はあろう。が、こういうものを教わらなければ身につかない人間は、コミュニケーション能力の弱い人間であろう。ないから身につけるというのは分からなくもないが、身振り・手振りは何かを伝えたいとの強い気持ちから生まれるものだ。よって、教える前の意思の問題である。

    世の中には、教えないものを身につけている人間がいる。年端もいかぬ少女が、ド演歌を情感込めて歌うのを聴くと、「あんな色艶をどうやって身につけたんだ?」と、不思議に思う。さまざまな分野でそういうことはあり、束ねて「才能」もしくは、「生まれ備わった感性」という言い方をする。盛田が女にもてたかどうかは知らぬが、彼が真面目であるのは伝わっている。

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    銀座のクラブで女性を口説きまくったというより、仕事に一身を捧げた人に見える。その盛田のコミュニケーション術の極意とは、「(商談相手を)恋愛対象だと思い、口説くつもりで話をする」と述べている。初対面の人でも30分話すだけで、相手に"また会いたい"、"話を聞きたい"と思わせる話術こそが、「世界中にソニーが進出できた強みであった」、と語っていた。

    自信に裏付けられた自負であろう。女を口説くときに原稿を持って臨むバカはいない。本当の心の想いを伝えたいなら、面と向かって自らの思いを伝えることだ。そういった真心が伝わり、相手もそれに順応する。これは「説得する話術」というより、「(相手が)納得する話術」と上位にランク付けて場数を踏んだ。本に書いてあるマニュアルなど読む気も起こらない。

    著者が自分に合った方法を述べているだけに過ぎず、性格の異なる他人が真似をする意味はない。自分に合ったもの、オリジナルティーが大事で、そんなものは自分が自分が見つける以外にない。さらにいえば、それらを見つけ、習得するために大事なことは、ピッチャーの投げ込みやバッターの素振りを見ても、頭で覚えるより、体に沁み込ませること。

    量をこなす、場数を踏むこと。対象の性格、指向性、価値観が違うように、バカの一つ覚えが通用するはずがない。対象に合わせた最善の話し方は、場数を踏む以外に身につかない。それが自信となる。膨大な過去問を解いておけば、どんな問題に対応できる自信がつくようにだ。が、過去問習得は悲しいかなマニュアルで、あれを勉強というなら、学力とは「受験学力」を言う。

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    受験学力の本質とは、パターン化されたテストの研究を(予備校などが)し、それを金を取って学生に売る。創造性もなにもない無益な作業を強いられる。生徒の学力を伸ばしてテストを受けさせるという本来の勉強は陰を潜め、テスト研究で得たテクニックを学力と称し、テスト対策を予備校が担う。短絡的だが現在の受験制度においては効果的で、これを受験学力という。

    つまり学力とは、テスト研究、テスト対策を模した能力に過ぎない。テストが形式に縛られているのは受験産業従事者なら誰でも知っている。それを生徒に悶々とやらせるわけだが、こういう作業を強いられる人間は、どこかが歪んでいても不思議でないし、ならないに越したことはない。そのためには、大学を受かったら無用の受験学力などはすべて忘れること。

    オカシな話しよ、忘れるために膨大な勉強を、わざわざ金を出してする何ともバカげた受験システムである。忘れるためにする勉強が勉強といえるのか?国家行政の中枢を担う人間もそこに気づきながら、受験改革諮問会議のメンバーが大学教授なら、大学の存在を貶めるような改革はない。塾など一掃し、無試験入学で何が困るといえば数兆円の受験産業だ。

    引退したテレビショッピングの勇、「ジャパネットたかた」の高田明社長もあることを実践している。それが何かは社長の次の言葉にある。「女性を口説くときと同じトーン、魅力的でしょ?といった眼で商品を紹介すると、主婦たちの心に刺さり、購買意欲が高まる」。彼はそのことを経験で突き止め、それを意識して実践した。カメラの前の聴衆の存在を意識して成功はなかった。

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    目の前には自分が口説く、「ただ一人の女」を想定し、その事で相手が揺さぶられるかどうかが重要であった。本田技研創業者、本田宗一郎は多くの企業経営者の中でも、最も愛され親しまれたカリスマリーダーである。彼もこういう言葉を置いている。「芸術でも技術でも、いい仕事をするには、女のこと想像できないとダメなんじゃないかな」。注釈はないが、この比喩が意味するものは何か?

    思うに男にとって、「女は美の極致、必要性の最たるもの」と考えられる。男が女性の裸体を描く衝動が物語る。盛田、本田、高田ら、社会に大きなインパクトを残す偉人、企業人達に共通して言えるのは、たった一人の好きな女を揺さぶる事にいかに頭を使っていたか。物怖じせずに相手に立ち向かい、いつの間にかリードする側に…、ナンパや商談の奥儀である。


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    目の前を歩く小学生高学年らしき男の子が道路わきのビルに入る。そこは進学塾で、しばしば目にする光景だ。「そんな所に行って面白いことでもあるのか?」などと思ったりもする。面白いかどうかはともかく、勉強はやらざるを得ないものだから、苦にもならない子もいれば、苦痛な子どももいる。親とて皆が行くのに行かせないのは取り残された心境になる。

    他人は関係ない、我が子に高い理想を抱いて積極的に通わせる親もいる。なぜにこれほど学習塾が隆盛したのか?最大の理由は受験制度であろう。日本の義務教育制度は、中学までは自然に上がられるから、受験の第一関門は高校受験となる。高いレベルを求める親にとっては小学受験もあり、中学受験もあるご時世だ。そういえば「お受験」という言葉が流行った。

    「お受験」は有名大学系の付属幼稚園から始まる。全く関心の無い世界であり、よって一般的な高校受験について考えてみる。まずは、「なぜ高校受験はあるのか?」試験を受けることを受験というが、試験は定員を選抜するために行う。全入といわれる高校進学だからいっそ無試験にと思うが、高校にも序例があり、生徒がハイレベル校に集中するなら試験は必要だ。

    ハイレベル高校は高学力生徒に合ったところ、低いレベル高校は学力の低い生徒にとっての受け皿的な意味もある。どちらも高校、どちらを出ても高卒である。ハイレベル高は、普通に勉強して学力がついた生徒が行くところだったが、いつごろからか、お金をつぎ込んで子どもに高い学力をつけさせたいという親が出て来、それを契機に世は競争社会に突入した。

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    子どもたちの競争激化社会は、親の思惑によって作られた。親が煽れば子どもはなびかざるを得ない。そうした親の要望から生まれた学習塾は、こんにち社会にあっては良くも悪くも公教育あっての存在である。今後、公教育はどうなり、学習塾はどうなるのか?2013年1月15日、安倍内閣は最重要課題の一つ、教育改革を推進するため教育再生実行会議を設置した。

     同月召集された第183 回通常国会において安倍総理は、「6・3・3・4制」の見直しによる"平成の学制大改革"を始め、教育再生に向けた具体的な課題について今後検討を進める」と述べ、学制改革への意欲を示した。昭和22年、教育基本法及び学校教育法の制定により、小学校6年、中学校3年の義務教育に、高等学校3年、大学4年のいわゆる6・3・3・4制が導入された。

    これにより教育の機会均等、学制の単純化、普通教育の普及、義務教育の年限延長が実現したのだが、その後、経済の安定成長下において、1971年の中教審答申、「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」、いわゆる46答申(昭和46年)が、4年間の議論を経てまとめられた。学制改革論議の経緯というのは、概観するだけでも大変だから省略する。

    6・3・3・4制に見られる現在の日本の学制は「単線型」と呼ばれるもので、初等教育から高等教育までが一本化されている状態を指す。その目的・利点は上記したように、教育の機会均等である。学校教育法が制定された1947年以来、実に70年もの長きに渡り続いてきた制度で、アメリカや韓国も「単線型」を採っている。これと対極にあるのが「複線型」。

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    学校の種類、その修業年数とも、あらゆる選択肢を設けようという制度であり、「小学校に6年、中学校で3年。そして高校へ」という既成概念は壊れ、中学でも高校でもない、新しい「学校」が出現の可能性もある。国民がそれぞれ学びたい教育機関で、学びたい事を学びたいように学べるといった自由さが特徴で、教育再生本部は「複線型」への移行を提言した。

    単線型・複線型それぞれに利点があるが、この発表を行った教育再生本部・本部長の下村博文議員は、当時民主党政権下もあって、「政権を奪還できたら、すぐ着手すべき内容」だと述べていた。「複線型」に拘る自民党だが、「単線型」の教育制度が制度疲労を起こしているのであれば、「複線型」も含め、新しい方向性を打ち出していくことは必要である。

    「複線型」教育制度は、リカレント教育や生涯学習といった概念で説明される、人生における学び直しや何度でもチャレンジを可能とする。OECD(経済協力開発機構)が提唱した生涯教育構想のひとつリカレント教育とは、リカレント(循環)を意味し、従来の教育が学校から社会へという方向で動いていたのに対し、一度社会に出た者の学校への再入学を保障する。

    これによって、学校教育と社会教育を循環的にシステム化することを課題とするが、社会とセットであるということなら果たしてこんにちの日本社会や、これからの日本社会において準備されているのかどうか。受験学力習得に躍起になる学生、保護者、学習塾・予備校による、受かれば忘れるためのバカげた詰め込み式受験学力は、本来の学力とはほど遠い。

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    「単線型」の主目的は「教育の機会均等」で、戦前は「複線型」であった。当時の日本は、家庭の経済的な事情やさまざまな要因によって、教育機会は必ずしも国民に均等に与えられていたわけでなかった。それが国内すべての公立小・中学校はどこの学校でも同様の内容を扱えるようになった。その点において「単線型教育制度」は一定の役割を果たしたといえる。

    「複線型」国家の代表はドイツである。10歳からギムナジウム、実科学校、基幹学校に分かれ、成績上位者がギムナジウム、成績中位者が実科学校、成績低位者が基幹学校に進学する。ヨーロッパ諸国はドイツほど明確ではないが、幾分、社会階級というものがあり、上層階級は上層階級用の学校に、中層階級は中層階級用の学校に通うという伝統の名残がある。

    成績によって生徒を分別して教育を行った方が、非効率性が少ないと予想されるが、実際は、そうした複線型教育システムを国家全体という単位でみると、必ずしも成功していない。確かにエリート養成には適していることは恐らく間違いないが、社会全体で考えた場合、上位層、中位層、下位層などと、早い段階から分断して教育を行うと、デメリットが目立つ。

    ドイツは下位層だけを集めてそれに適した教育を行っているが、低学力の問題が深刻である。ドイツは移民の多さという特殊性もあり、移民を含めた低学力層をまとめ集めて効率的教育を行ったとしても、学力向上は容易でなく、早期から階層を分断する教育システムは、下位層の活力を奪い、少年犯罪や麻薬、貧困の温床を生みだす可能性が高い。

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    そうした観点に立つと、日本の単線型の教育システムは、支持される点もある。あまりに同質的というデメリットは残るが、同質的ゆえに社会的安定がもたらされ、高いレベルのインフラが維持されているというメリットもある。また、地域住民が協力し合い、子育てをし、学校を支えるという仕組みが、高い水準で、ほぼ全国くまなく維持されている国は希有と言える。

    したがって、複線型への移行を議論するなら、現状の単線型によるメリットを十分に評価することが大前提だ。それぞれに利点、それぞれに問題点アリの二者択一をどう決定するか、最終的には数の論理か?「議論はし尽くした」、「出尽くした」が立法府の常套句である。いつまでも話し合うだけでは何も決まらないが、「ゆとり教育」のようにダメなら改めればいい。

    しかし、「ゆとり教育」世代は、本田、錦織、松山、浅田、羽生といった、国際レベルのアスリートも生んでいる。それぞれ長短はあるが、自分的には「複線型」が望ましいと考える。「単線型」の最大の問題点は、一斉に行われる入学試験で、それは資格のある人が随時入学する仕組みではない。さらには一斉に卒業してくること。これを企業が一斉に採用する。

    多くの学部で入学試験は難しいが、卒業試験は簡単なこと。しかしそれは、入り口での選別であって、製品(卒業生)の品質が保障されてはいないのである。企業側も、卒業生に専門知識や技能を期待せず、大学名=ブランドで採用する。その証拠に、文化系では学部卒も大学院卒も処遇に大きな差がない。その理由は、資格を得る学部と認識されていないからだ。

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    一括採用(入学)同時昇進という、企業と同じ丸抱えシステムなので、大学間の移動がないことも挙げられる。未就学児を持つ専業主婦の95%が再就職を希望している(リクルート社の調査結果)という。また、育児・介護支援制度を利用している部下を持つことについて、約7割の管理職が抵抗感はないと答えていると伝えている(日本能率協会の調査結果)。

    高度な実務能力を有す専業主婦より、新卒無能社員の方が正規雇用で給料も多いのはオカシイだろ。これが日本型社会に蔓延する国民の横並び意識である。顕著な例は、同世代の大多数が大学に行くなら、自発的・主体的選択に基づかない進学者が増える。大学で自発的に勉強するような人間でないのに大学に行く。だからバカチョン大学になる。

    「みんなが(大学に)行くから、自分も行く」という人々の意識が変わっていかないかぎり、個人の多様な能力・適性、意欲・関心等に基づく主体的な進路選択は行われない。大事なことは、「いつどこで学んだか」であって、「どこの大学出た」ではなかろう。「何をどれだけ学んだか」を社会が適正に評価する時代に…、この指摘はいつから言われているんだ?


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    先天的な頭の良し悪しはあるのか?超一流大に入学するような人間は、そのことだけで100%全員頭がいいのか?なわけないと思うが、世間は東大生というだけで頭がいいと思っているが、精神科医の和田秀樹は著書『バカとは何か』(幻冬舎新書)で、菊川怜を同じ東大卒の高田万由子と比べ「(菊川は)テレビでバラエティ番組に出ていてもシャープさがない」と言う。

    菊川は建築が専門のハズなのに、「真相報道バンキシャ」の耐震強度偽装事件報道の時ですら、まともな発言がなかった。せっかく、メインキャスターが専門家(?)の菊川に話をふっているのに…東大建築学科卒の菊川より、高卒の山瀬まみのほうが、人を食った面白い発言をする。誰がみても山瀬のほうが、本当の意味で頭(の回転)が良いのがわかる。

    いわずもがな菊川は、東京大学工学部建築学科を卒業しており、卒論テーマは「遺伝的アルゴリズムを適用したコンクリートの要求性能型の調合設計に関する研究」である。その彼女は1997年、大学2年生の時に東京・新宿でスカウトされ、翌1998年にはモデルデビュー。グラビアモデル、女性ファッション誌 『Ray』の専属モデルとして活躍している。

    同年『'99年度 東レ水着キャンペーンガール』に選出され注目を集め、1999年にはフジテレビ系ドラマ『危険な関係』にて女優デビュー。以後、バラエティ番組、教養番組、ドキュメンタリー番組などにも幅広く出演している。この履歴からして彼女が建築の専門家といえるのか?大学で建築の勉強をしたはいいが、学んだことをその後に何の役立てず、生かしてもいない。

    それでも彼女は建築の専門家なのか?バカをいうでない。彼女は学んだ建築のことなどすっかり忘れた芸能人である。でありながら未だ東大卒の才媛ともてはやされているが、困るのは彼女自身であろう。東大卒だからクイズ番組の成績もいい?バカをいうでない。東大受験に必要な勉強をしただけであって、そういう人間に広い視野や見識がどこにある?

    つまり、世間が東大生=秀才・頭がいいと言うのは単にコンプレックスもしくは、無知であろう。潮岬の灯台で働く高卒の人間の方が菊川などより、何倍も頭がいいかもしれない。建築を学んだなら、建築事務所に勤めて専門知識を生かしてこそ専門家であって、モデルや芸能人が東大出身である事の意味は何もない。あるとするなら色物の肩書きである。

    東大受験に必要な学力は、入学後、卒業後に何の意味もない。にしてもなぜ彼女は建築専門外の道を選んだのだろう?同じケースにオフコースの小田、鈴木がいる。小田も東北大工学部で建築を学び、鈴木も東工大をでている。コースを外れたからオフコースとしたのだが、二人とも学問より音楽の方が楽しくもあり、生きる糧にという決断をしたようだ。

    小田も鈴木も団塊の世代、塾づけで猛勉強という世代ではなく、単に地頭が良かったし、それで大学に行ったと察する。菊川は有名な女子高で有名な予備校で、駿台模試で全国50番内に入ったと自負し、慶大医学部も友人の付き合いで受験し合格しているというが、彼女の頭の悪さは受験学力に特化したもので、受験学力以外はバカだと言って過言ない。

    受験が終って普通の社会人としての頭のキレも素養も教養もないなら、「今は普通の人よりバカだと思います」と言った方が正直で愛されると思うが、そんなことを彼女はいいそうもない。大層な受験学力を持ちながら最高学府に入っても、建築の勉強より容姿を売ることを選んだのは彼女の自由だから、それはいいけれど、東大の才媛で困るのは彼女であろう。

    同じ東大卒でもホリエモンなどは、自負を維持するためにいろいろ勉強していると思われる。でなければ社会、経済、文化・芸能や国際問題などについて持論を言えるはずもない。東大に入学した時は同じでも、入学後から卒業を経て現在までの様々な差は人によって歴然とある。先天的な頭の良さはあってもなくても、継続的に頭脳明晰であるためには日々の勉強が大事。

    ある予備校講師がこのように言っている。「結論を言えば、(先天的な)頭の良し悪しは絶対にある。相当数の子どもを見て得た確信だが、努力でそのギャップは埋められる可能性も大きい」。努力でギャップを埋めるという事に注目すれば、努力すれば頭はよくなるし、逆に放置すれば錆びれて頭は悪くなるということだ。つまり、頭の良さは継続である。

    「継続は力なり」と言う言葉は、我が出身高の校訓であった。誰の言葉であるかまでは知らなかったし、教わることもなかったが、調べたところ、大正から昭和初期に宗教家として活躍した住岡夜晃(すみおかやこう)という方の言葉であった。夜晃の著書『讃嘆の詩』(樹心社)の一節に、かの言葉があるり、全体を読むと熱く、素晴らしく、心に沁みる詩であった。

      青年よ強くなれ
      牛のごとく、象のごとく、強くなれ
      真に強いとは、一道を生きぬくことである
      性格の弱さ悲しむなかれ
      性格の強さ必ずしも誇るに足らず
      「念願は人格を決定す 継続は力なり」
       真の強さは正しい念願を貫くにある
      怒って腕力をふるうがごときは弱者の至れるものである
        悪友の誘惑によって堕落するがごときは弱者の標本である
        青年よ強くなれ 大きくなれ

    「青年よ強くなれ」で始まり、「青年よ強くなれ、大きくなれ」と結んでいる。「強く」とは何であるか?強くできることの一切のもの。「大きく」とは何か?「大きく」できる一切のものであろう。子どもの学力向上にに携わる上記の予備校講師はこう続けている。「さほど成績のよくない子が、一旦"自信"を持つと飛躍的に成績の伸びる子どもに変身する。

    天才では?と思える頭脳の子どもを担当したが、その呑み込みの速さと圧倒的な記憶力に嫉妬にも似た羨ましさも感じた」という。別のある講師は、「進学校などの学生で、教科書をさっと見るだけですぐに覚える生徒や、難しい数学の定理を覚えるというより、自分から導き出せる生徒がいる。一見、ノンビリおっとりしているが、驚異的な理解力・記憶力を持っている。

    彼らは後天的な頭の使い方を知っていたのではなく、最初からこうだったと言うし、それはもう知ってる知らないの次元ではないのです。とてもじゃないが、一般の生徒は絶対に無理だし、彼らと一緒に勉強をしても絶対に付いていけない。全員が全員一様に能力が同じなんて事は絶対になく、生まれもった個人差はある」。なるほど、ある程度先天的なものはあろう。

    ヒトの知能や性格・行動等、その決定要因が環境なのか遺伝なのかと言うことについて、東京大学付属学校の双生児学級で数十年間研究が進められてきた。IQについては定義が曖昧だが、「学力」においては遺伝性のものと、遺伝性でないものがあるようだ。鍛錬が必要な体育・芸術等は環境が決定し、理数分野は遺伝的要素が強く、他の分野は半々との結果である。

    この結果から全体的には「お勉強」においては、遺伝的要素が強いと考えられるのではないか。ただし環境的要素もある。子どもは主に母親に育てられるし、知能の高い母親に育てられれば、子どもの生育環境が良いということになり、当然知能も高くなるはず。反面、遺伝的に優れた子であってもバカな母親に育てられれば生育環境が悪となって、知能が良くなるはずがない。

    子どもは両親の遺伝的な要素と、環境の要素が共に影響する。次のアメリカの例もある。10歳で大学を首席卒業した天才児がいた。彼には妹がいて、彼女も兄ほどではないが12歳で大学を卒業するなど天才的な頭脳を発揮し、このことからも彼らの知能は遺伝的なものと考えられる。ところが、彼らの両親もその祖先も、ごく一般的な知能しか発揮していない。

    これをどう考えるかだが、日本的に言えば「トンビが鷹を生む」、ということになろう。両親の平均知能指数が90程度なのに、子どもの知能指数が150だったり、その逆という事例もある。知能が先天的(遺伝)であるとするなら、親と子どものあきらかな知能の差について、知能を決める遺伝子は複数の遺伝子の組み合わせによって決まると考えられている。

    単純に知能の高い親から知能の高い子どもが、知能の低い親から知能の低い子どもが生まれると言いきれるものではなく、さらには幼少期の環境要因の影響も大きいと考えられており、測定を難しくしている。ちなみに環境要因は、3歳未満の幼少期の環境と、それ以降の本人の努力によるものは、脳に与える影響は全く別物だが、しばしばこれらは混同されることが多い。

    いずれにしても、人間の頭の良し悪しを勉強の出来・不出来だけでいうのも間違っている。「学力」は知能の一つの分野に過ぎない。錦織がテニスが凄くても、彼はバスケや野球は無理。イチローがサッカーや水泳が凡人と変わらないのは、野球の能力を切磋琢磨したからである。100mを世界一速く走るボルトといえども、マラソンなら間違いなく途中棄権である。

    塾で受験学力を高めることはできるが、頭がよくなることはない。受験に特化した勉強に、学ぶ喜びを堪能することはない。好きな勉強をさせてくれないなら、勉強を好きになることもないだろう。学者の地道な研究を見るに、学問はロマンであって、学ぶ喜びを教えられない教育は無意味でしかない。そこに受験が立ちはだかって、必要悪となっている。


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    世の親は幸せの方程式が如く、「勉強、勉強(学力)」と口うるさい。錦織や松山やイチローやボルトがアスリートとはいえ、自身の専門のみで力を発揮するように、「学力」は頭のいい人間の一つの分野でしかない。現在自分は、公民館で2人の小学生と将棋をしながら様々な会話をし、いろいろなことを感じとっている。一人は2年生、一人は5年生。2年生の子はいつも両親と来る。

    母は奥まった席に座って、なにやら添削のようなことをしている。おそらく教師かもしれない。父親は子どもの対局中に、席に近づいたり離れたり気を使いながら見守っているのが分かる。付きっ切りだと子どもが意識して力が出せないとでも思っているようだ。2年生にしてかなりの自己中心性格で、親が甘やかせて、気を使いながら大事に育てているのがよく分かる。

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    5年生の子は割りと遠くからいつも一人で来る。聞けば親とクルマで来て約2時間後に親が迎えに来るという。棋力は2年生の子が圧倒するが、5年生の子は学業成績を自慢風に話す。現在、塾は公文教室のみで、中学受験はしないという。理由は分らないが、彼の居住地は都心から不便で私立中に通うのは大変であろう。公文の進度はかなり進んでいる。

    英語も高校程度、数学も因数分解は終ったと言うから、高校生レベルに間近い。公式を覚える数学は簡単といい、漢字や意味調べの国語は好きでないというから、頭は理数系のようだ。1学年1クラスしかない小規模校だが、成績はクラスでトップらしいことを述べている。分厚いメガネの一見して秀才君という感じで、口数も少なく真面目で物怖じする大人しい子。

    自分が親なら、どんなに秀才であってもこういう感じの子は好みにあわず、もっと早い時期からいろいろけしかけ、やんちゃ坊主に矯正したいと、そんな風に思いながら彼と接している。秀才タイプは大人しく控えめなのが多く、中高生でも魅力を感じない。控え目でおっとりより、度胸と行動力がある男の方が社会でモノをいう。ひ弱な秀才は学者なら問題ないのだろう。

    それをひっくるめてアスリートは運動能力が凄いというのは違っている。あくまで自身の専門分野において凄いのである。同じように、学力が秀逸な彼は一般的に頭がいいといわれるだろう。それが世間の「頭のいい」尺度である。頭の良し悪しは学力分野だけではないのに、なぜか学力に限定して「頭がいい」という。自分はこの子を頭がいいとは感じない。

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    勉強ができる子という見かたをする。計算の速いコンピュータを頭がいいというか?世界屈指の実力の囲碁棋士とコンピュータの五番勝負で、棋士が1勝4敗で敗退した。棋士のショックはいうまでもないが、棋士を含めた誰も、4勝したコンピュータを「頭がいい」とは言わない。人間の能力以上の計算能力を発揮するも、コンピュータは機械であって人格がない。

    学力が秀逸な人間を学力の部分では認めるが、彼らが社会の様々な場面・局面で有用な能力や才を発揮し、収穫を上げることができるのかは疑問である。つまり、頭の良さは多岐に渡るもので、東大出が優れた才知で企業戦略ができるという事もない。学力と実務能力は別の問題である。常々「頭の良さ」とは、答えなき問題に明解を出せる人間と考えている。

    その場の現実に直面、対峙するとは、過去問を沢山解いて試験に備えるというような、システマティックなものではなく、相手の腹を読むとか、コミュニケーションがもたらす和やかな雰囲気とか、覇権の奪い合いといったその場の駆け引きやがものを言う。その人の知識、経験、洞察力、想像力、観察力など、技術と人間性が瞬時に絡み、溶け合う必要がある。

    コンピュータは高い計算能力で瞬時に解答を提示するが、想定外の対応をされた場合、バグを起こして混乱・自滅するようだ。囲碁の5番勝負におけるコンピュータの1敗は、斯くの状況であったらしい。この点は人間の柔軟な知略といえなくもない。「頭の良い」人間の実例として、アラン・ケイの功績があげられる。彼はアメリカ人で1940年生まれの75歳。

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    「パーソナルコンピュータの父」の異名があるケイは、幼少期からクイズ番組で神童ぶりを発揮したが、3歳から文章を読むなど才能を見せていた。彼はこのように言う。「私は幸か不幸か、3歳のときに流暢に読めるようになっていた。だから1年生のころにはたぶん150冊ぐらいの本を読んでいた。そして、私はすでに先生が嘘を言っていることを知っていた」。

    高校、大学は反抗的態度をとったことで退学となり、ロックバンドでギターを弾いていた。彼は21歳で空軍に入ったが、コンピュータの適正試験で「天才的」スコアを出して合格。あまりに優秀につき、軍の援助でコロラド大学で学ぶ機会を得た。1966年にユタ大学大学院に入り、1968年、パーソナルコンピュータを先取りした「ダイナブック」のコンセプトを発表。

    1972年にゼロックスのパロアルト研究所に入り、研究員の傍らパソコンの原型となる「アルト」を開発した。それを見たアップルコンピュータのスティーブ・ジョブズがいたく感動し、マッキントッシュのデザインはアルトの直接的な影響を受けてできあがった。多くの人間が「できるわけない、彼は頭がイカれている」と見向きもしなかったパソコンである。

    ケイは来日時の講演で、未来を発明する際、「新しいものの見方」がいかに大切かを熱っぽく語った。彼の有名な言葉に、「Point of view is worth 80 IQ points.(ものの見方はIQ80ポイント分に匹敵する)」というのがある。「単に賢いだけでは、なにもなし遂げられない」。知能が高くても、「普通の考え方」をしている限り、普通のことしか思いつかない。

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    だからだめなんだ、と。ケイに言わせれば、大人になるということは普通に考える癖をつけてしまうこと。そのプロセスは、学校に入るところから既に始まっているといえる。ケイは自身の体験からこのような理念を持っている。「子どもの教育には二つの条件だけ揃えばいい。一つは字が読めるようにすること。もう一つは話のわかる大人がそばにいること。」

    話の分らない大人や、画一的な価値観を押し付ける大人は、子どもにとって大いなる障害である。大概の親は、勉強して頭がよくなって、いい学校に行って、いい会社に入って、それで食いっぱぐれがないし、それが幸せの方程式だと思っている。子どもは何も言わないで放っておくと、勉強もしないでゲームばかりで遊ぶだけだ。それなら早くから塾に押し込めば安心だと。

    彼がゼロックス・パロアルト研究所で、6年をかけて現代のパソコンの原型となるアルトを開発。そのとき彼は、「子どもの感覚」を重視した。彼は、子どもが大人よりも「革新」に近いところにいることを知っていた。「大人は新しいもの、新しい考え方をとりあえず拒絶する傾向があるが子どもはそうじゃない。今迄見たこともないようなものも受け入れる力がある。

    子どもたちの要求は容赦ない。「もっと早く」、「もっと綺麗に」、「もっと自由に」、「もっと、もっと…」それについていくだけの技術を開発していくほうが、大人の「常識をわきまえた」要求に応えるよりも技術者にとっては、エキサイティングな研究だった。皮肉にもケイの意見が正しいことを、彼らの研究に出資したゼロックスが身をもって示した。

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    同社はケイの開発したパソコンでなく、周辺機器として開発したレーザープリンターだけを商品化した。そのことで、5~6兆ドルの市場を失った。パソコンは当時、大人たちの感覚では「新しすぎた」ものだった。大発明や大発見は誰にでもできるものではないが、可能性は天才や超人でなくても誰にもある。それこそがケイの言う「Point of View(物の見方)」である。

    ケイの言葉、「賢いだけでは何もできない」は、実際そのとおり。何かをするでなくとも、最高学府を出たと自慢するくらいはできるから、そうさせてやればいいのだが、自慢は自信なき人間の常套句である。親に牛耳られ、勉強が最高の幸せなどと不自由を強いられていた子どもが、ある日突然、何かのきっかけで自由に開眼したというケースは数多く耳にした。


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    自由というものは、あらゆる動物の本能的欲望で、廻り廻ったとしても帰結するのは当然だ。人間は自由を求めて組織や親に反抗し、反発しなければ勝ち取れない。が、しかし、どんなに自由を叫んでみても、一切制約のない自由はこの世にない。後先考えない行動を自由とは言わず、自由主義者を気取る人間が親であっても、子どもの自由を認められるだろうか。

    自身が自由に振る舞うのは自己責任でやれないことはないが、他人の自由を認めることは、自分の利害とリンクすることになり、よって、親が子どもの自由を全面的に認めるなどはあり得ない。そこにはどうしても「躾」という名の使命感に毒される。毒されるというのは、「躾」が人為による矯正であり、それが子どもにとって害なのが善なのか未知であるからだ。

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    最低限のしつけは必要だが、躾と称する虐待もある。何もせずに自由気ままを「放任」と言う。親になった以上、使命も含めた権限を「親権」と言う。ところが親は、思い余って、子どもにアレコレ自己の価値観を押し付けてしまい、それは生き方や人生観にまで及ぶこともしばしばで、それすらも「躾」と親は感じているが、子どもにとってはいい迷惑である。

    確かに押し付けの時期はあるし、それはそれで必要あろう。フィギュアの浅田、テニスの錦織などのアスリートは、子ども時代から続けた競技をトロフィーの数が増えるほどに、自らの糧にして頑張った。結果として名選手になるも、二流、三流で終るも、まちまちとなり、その差を才能と言う。多くの親が、子どもに「夢を持て」と激励し、応援をしたことだろう。

    「夢を持て!」の響きはいいが、夢を叶えたいなら払う犠牲の大切さも伝えるべきだ。やりたいことを我慢し、辛い練習に耐え、何かを続けるのは容易ではない。子どもが本当にその事を好きになるのが何よりであるが、「馬に水は飲ませられない」という諺がある。「馬に水」とは、馬を水辺に連れて行くことはできても、飲みたくない水を飲ませることはできない。

    人間でも同じで、子どもにも無理やり「勉強をしなさい」とたくさんの教材を買い与えても子どもに勉強する気がなければ効果はない。成果を出すには無理強いより本人のモチベーションを上げてやる気を出させる。自由とは勉強しない事でなく、「勉強しろ!」の強制に背く事。親にも無知な親もいようし、反発せてないためには相応の言い方があろう。

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    「勉強しなさい!」のバカのひとつ覚えは止めることだ。それに変わる言葉としては、「宿題すんだの?」と、自然に優しく問える母親は、子どもの気持ちを心得たいい母かも知れぬ。理由は、命令ではなく問うていること。命令は親の権威を傘にきせているが、親が子どもに問うというのは、子どもの主体性への尊重がある。上位者が下位者に何かを問うのはいいことだ。

    マゾは別にして、人は命令口調を好まない。命令口調ばかりの親子は、常に親から見下げられた感じを子どもは受け、奴隷になるか、反逆者になるか、無視を習得するかのいずれかだろう。命令で子どもを手なづけることは、ある年齢までは可能。ある時期までしか有効性がないことを知るのも親の任務だ。中学・高校になっても児童だと思っている親は無知者である。

    「勉強しろ!」と言ってさせられる時期も、ある年齢までと知るべし。中高生になって、親にいわれて「ハイ!」は、イイ子というより、オカシイのでは?この親に対する真の尊敬心があるならともかく、一般的には普通でない。それを「イイ子」というより、「(主体性のない)おとなしい子」と自分は感じる。それでも人間は感情の動物、心の赴きもあって、いつも素直とは限らない。

    「親の夢を壊して子は成長する」というように、人間の体内から生まれてきた子も別の人間である。父親にその概念は当たり前に存在するが、母親の認識はどうなのか?いかに想像すれども実際に子どもを身ごもり、産んだ経験のない者には分らない。が、問題にすべきは、「分かる、分らない」ではなく、何が「正しい」かである。巷の親はよくこのように言う。

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    「親の気持ちがなぜ分らないのだろう?」。これは別の言葉で、「親の気持ちを分かって欲しい!」という要求である。子どもは子ども、親になったこともない子どもに、「親の気持ち…」などと言ったところで、一方的な親のエゴ、押し付けである。なぜなら親がそう言った時に、「何で親は子どもの気持ちがなぜ分らないの?」と問われたら親はどう受け止める?

    「子どものくせに生意気な(ことをいうよ、まったく)!」となるのか?「なるほど、子どもの視点からみればそういうことか?」と思わないかぎり、親は子どものその言葉を理解しようとはしない。子どもの頃にそう母に言った時、返った言葉は「うるさい!子どもは親のいう事を聞くようになってるんだ」であった。こんな言葉で子どもが納得できるだろうか?「つまらん親だ」と思うだけだ。

    繰り返すが、子どもに親の経験はない。が、親には子ども時代の経験がある。となると、「○○の気持ちがなぜわからないの?」という言葉は、どちらがオカシくどちらが的を得ている?オカシイが乱暴なら、どちらに無理がある?まあ、この場合"親の権威"は抜きにして、対等に考えて…。噛み砕いていえば、「経験あるものと、経験なきものと、どちらが強い?」

    強いのか、深いのか、知りえるというのか、理解力とでもいうのか、どういう言葉が適切であろう。何でもいいから置きかえてみる。労働体験でもいい、性体験でもいい。経験なしと経験ありとで差は歴然。ただし、考えるべきは、経験があってもその人が正しいことを言うとは限らない。誰でも人間に生まれれば「人間」を経験した事になる。もちろん現在進行形だ。

    イメージ 4だからといって、誰もが人間的なこと、人間的に正しいことを言うか?それと同じ事で、親が子ども時代を経験したからといって、親の子どもに対する考えが正しく発せられるとは限らない。つまらぬ見栄や欲に毒された親は多い。どの親もみな子ども時代を体験していながら、なぜ親になった途端に、親のエゴが充満する?自分が子ども時代のことはすっかり忘れて…これが現象としての親だろう。本当の親とは思えない。親に大事なことは、自らが子ども時代に体験した様々なこと、貴重な財産を、我が子に生かすことではないだろうか?親になった途端に親の論理だけが優先どころか、それしか見えないというような親を見かけるが、それでよく親でいられると思わされる。実は、案外そういう親が昨今流行の親のようだ。

    「よくあんなことが子どもに言える」、「よくもあんなことが子どもにできる」、そういう親が多く発生する時代になった。まあ、多くといっても率でいえば少ないし、新聞記事や報道に見る親の信じられない子どもへの言動は、一部の特殊な親であろう。ただ、子どもにしてみれば、唯一無二のかけがえのない親なのだ。それが、あんな風ではやるせない。

    自分は、勉強であれ何であれ、子どもの人格を無視した強引な押し付けを見るだけで可哀想になる。おそらく幼児期に母から受けた拷問にも似た書き取りのトラウマであろう。右手中指のペンだこを見る度に思い出す。何かにとりつかれたように膨大量の書き取りを命じる母に、泣きながら従った幼き日。小1の記憶である。その光景は映像として脳内に収まっている。

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    子どもはいたいけである。いたいけなのは罪にあらず。そのいたいけさが親のエゴに便利なようだ。子どもに何かを押し付ける親は、果たして正しい親であろうか?今はすべての子どもが30歳を超えた自分だが、押し付けて無理やりやらせたこと、あるいは子どもの主体性を奪って、無理やり止めさせたことなどは永遠に忘れないだろう。すべては「悪」として…。

    子育て邁進中の折は、親の権威、親のエゴや欲によって子どもに押し付けた一切のことは、当時にあっては正当化できる。もっと、自由にできたのでは?もっと自由にしてやれたのでは?悔いともいえる悪行は親の無知から生まれた。子どもたちの「厳しい父でよかった」との言葉が本心であれ、悔いは癒されず、慰めにならず。「結果よければすべてよし」などというが…

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    この言葉は、世の不条理に対する慰めもしくは妥協の言葉ではないか?人はそ時々において正しい選択、正しい判断はできない。最善などは観念の世界であり、そういう事をやれる人間がこの世にいるのかと。だから人は絶対者(神)に頼るのだろうが、「なぜあの時こうした」、「なぜこうしなかったのか?」それが子を持つ親にとって、避けられぬ定めである。

    「私は子どもに最善の教育をした」などと本に書き、金を取って講演し、マスコミで放言するなどバカ親である。なぜなら、ごり押しに対する歪みの出現は何十年先のこと。他人の家庭に意見は無用で、親が我が子を煮ようが、焼いて食おうが勝手である。ただ、看過できないことに対する意見はそれぞれにあっていい。当事者に言う必要はないが、自問し、自答する。


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    近年、塾や予備校で身につけさせる学力は、勉強とは異質であると書いたように、だいたいにおいて、なぜと問うことが学問の始まり。物事の道理を教えるにも、教わるのも、なぜと問うことから始まり、したがって、なぜと問うことが、勉強の始点、教育の原点である。なぜと問うことなく物事本質は分らないが、なぜは無用とばかりに答えを求める塾や予備校。

    そこで間違いなく学力は上がるが、勉強を教えてはいない。子どもの頃、ケペル先生は、「どうして?」って聞いていた。「どうして」は「なぜ」でもある。「なぜ、本を読む?」、「なぜ、大学へ行く?」、「なぜ」という問い掛けを禁じられ、封じられた時、学問の本質は見失なわれている。知識や答えを得た後で、「なぜ」を問うことはもはや本末転倒である。


    子どもの時に、叔父貴が東京の大学から帰省の際に必ず買って帰る本は、『なぜだろう、なぜかしら』のシリーズ本だった。これを読むことで友だちから物知りといわれた。本にある疑問を人に投げかけることで、自分自身の復習にもなる。人に話すことは、自慢と言うより、相手のためというより、自分のためになるもの。今もその精神は変わらない。

      なぜ、空は青いの。
      なぜ、働くの。
      なぜ、生きるの
      なぜ、愛するの。
      なぜ、勉強をするの。
      なぜ、学校へ行かなければならないの。
      なぜ、なぜ、なぜ…

    「なぜ」という子どもの好奇心は、学習の最大の味方である。その最大の味方を最大の敵としてしまっている昨今の教育事情。求めもしないのに答えばかり押し付けられる。勉強というより、暗記と言う作業である。その結果として、意味もなく勉強し、意味もなく大学に行くことが何ら不自然でなくなる。そのために意味もなく努力し、生きる意味さえ分らない。

    こんな受験戦争に勝利し、大学へ行ったところで一体何が残るのだろうか?受験生にとって、人生について考えるなど野暮なことであり、そんな暇もない。学校は、塾は、予備校は、勉強をしに行くところであって、学ぶところではなくなってしまっている。教師も塾の講師も、学びの本質を教えることもない、勉強を教えるだけのただの労働者でしかない。

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    それが保護者のニーズに応えることでもある。ただ、ものを覚えることだけにあくせくの子どもが、問題を起こさないいい子なのだと。そんないい子が人を殺すという事が起こってしまった。大学に行くという高い志があれば、そんなことなどあり得ない。指示された課題ばかりやっていて、社会に出て指示された以外のことができるのか?自分で考え、問題的しろよ。

    そして、自分で答えを出せよ。それを教えるのが先人の後人への義務ではないのか?答えを教えるのではない。自分を頼れ!という方法を指摘するだけでいい。手取り足取りは主体性が身につかない。受験勉強を強いる親も塾の講師どもは勉強する事に疑問を持つなと言う。だだ勉強だけをやれ、余計なことは考えるなと。疑問をもて、主体性をもてだの言うはずがない。

    理屈をいうなと大人は言うが、理屈ではない、道理である。自分のことを自分で考えろというが、とんでもない。受験生にそんな時間もなければ暇もない。受験の勝利者は人生の勝利者であると唆す。そうであるなら努力も報われるが、有名大学をでて就職できないと若者は、勝利を掴むことができなかった。大学では得れなかった生きた知恵を社会の得ることだ。

    そうして、生きた知恵で自分の将来を、人生を考えてみる。まったく考えてこなかった人生であり、勝ち組になれば考える必要もなく幸せが約束されていた人生である。そうではなかったと分かった時に、過去の一切をフォーマットし、新たなる一歩を踏み出せば、それはそれで新たな人生の幕開けだ。愚痴や不満を牛のよだれのようにだらだら言うのは真の敗者である。

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    勉強の目的は幸せになる事だと大人は説いた。果たして大学を出ただけで幸せだったのか?そうであっても、そうでなくても、継続的幸せはどうすれば得れるか。そのためには、とりあえず生きていかなければならぬ。生きるためには、必要なことを学ばなければならない。学校で教わらなかった多くの、生きるために必要な事。それを身につけたら、次にどうする?

    難しい言葉でいえば、自己実現を目指す。簡単に言えば、自分が、やりたい事を実現する。そこに"やりたい事"があるという前提で…。本当はもっともっと前に考えるべきことだった。付和雷同に大学に行くのではなく、その事を考え、学校に行かなくても生きる事ができて、夢が実現できるなら学校など行く必要はない。考えるのは、行動より先であるべきだった。

    東大出て芸能人になったのが本人の意思ならそれも人生だ。なぜモデルになった芸能人になったのは理由があろうし、そんな程度に学んでいた最高学府での学問なら、学ぶ必要は全然なかった。モデルや芸能人になる事が上回ったのは、つまらない学問をしていた事になる。最高学府にまで行って…。他人の人生に口出しは無用だが学問は本来は役に立てるもの。

    大学に行くことは選択肢を広げること。そのことは詭弁でなく事実であろう。以前、その事を唾を飛ばして吐いていた母親がいた。選択肢を広げたいのは子どもではなく、なぜか母親であった。「弁護士になれる、医師にもなれる、本人が望めば乞食にだってなれるでしょう?」どこで仕入れた語句か知らないが、乞食になるといったらこの母親は卒倒するだろう。

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    卒倒しない気丈な母なら、刺しつ刺されつの大喧嘩をするだろう。選択肢という詭弁の前に、勉強の目的は、自分の夢を実現する事であり、確たる意志を持ってやるべきだろうが、親の選択肢の犠牲となったということだ。昨今の人間の多くは、自分が何をしたいのかが解らない。ならば、したいことを見つけさせるのが教育の目的なのに、それなき教育とは何だろうか。

    大学に行くにしろ、行かないにしろ、自分のやりたいことを見つけて、そのための手段であるなら、その時点でどちらも幸せである。高校卒業後にプロに入った田中将大、大学に行った斎藤佑樹、高校在学中にプロになった石川遼、実力がありながら大学に進んだ松山英樹だが、選択した時点でどちらが良かったなど誰にもわからないし、善悪は誰にもいえない。

    田中が大学に行かなかった理由を述べてはないが、早くプロでやりたかったという事だろう。それより斎藤がなぜ大学に行ったかは、プロより大学野球で活躍したかったからであろう。どちらも想像だが、行為は意志とみるべきだ。石川が高校在学中にプロ転向したのも、田中と同じ理由とみるが、実績も申し分なかった松山については以下の理由が述べられていた。

    松山が大学に行ったのは、高校在学中にプロ転向した石川の華々しい取り上げられ方、話題性に対し、実力がありながら地味で無骨な松山は、自身が華々しいタイプではないとの自覚があった。彼の石川に対する対抗意識は、容姿や話題性よりあくまで力で評価を受けることだった。これは斎藤に対する田中の妬みと同じものだろう。田中や松山の力は妬みもプラスになった。

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    と、これは自分の推測だが、「ハンカチ王子」、「ハニカミ王子」として同級生が話題になるのは、ジェラシーがないといえば嘘になる。それが彼らのバネになったのは間違いない。あの時期、田中や松山が同等の実力があっても、マスコミの話題性においては太刀打ちできない。「男は顔じゃないんだ!今にみておれ!」という気持ちがあっても不思議はない。

    田中と斎藤の実力さは、斎藤の年棒が田中の5日分ということで見ても分かるが、斎藤人気にジェラシーを感じていた田中に、今は斎藤が同じ思いであろう。石川と松山の実力差は本業以外の収入面では石川が圧倒するが、華々しくデビューして記念館を建てたり(閉館した)、自伝を執筆するなどあまりの浮かれようで、力が落ちるとその分精神的羞恥に襲われる。

    フランスの画家ギュスターヴ・モロー(1826年4月6日–1898年4月18日)は、こんな言葉を残している。「成功しないということは感謝すべきだ。少なくとも成功は遅く来るほどよい。その方が君はもっと徹底的に自分を出せるだろう」。人生は旅にたとえられるが、旅というものは目的地に達することだけがただ一つの目的だろうか?おそらく違うであろう。

    目的地に達する途中の苦しみ、楽しみを心ゆくまで体験することの方が、目的地に達するよりはるかに大切である。狭く小さな目標や、近くて安全な目的地しか持たぬ人は、遠い危険の多い、そして険しくも高い目標や目的地を持ち、努力する人に比べて安定感や幸福感に満ちているようだが、自分の能力を鍛え、発揮するという点で、はるかに貧弱である。

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    内容さえも貧弱なままでストップしてしまうのを、斎藤や石川に重ねてしまう。実力以上の人気に溺れ、自身を必要以上に過大評価するのは、若さゆえの至らなさであろう。中国の古い書物『戦国策』に、「百里を行く者は九十を半ばとする」という言葉がある。小成に慢心しがちな我々に、思いを新たにさせてくれる言葉である。将棋の升田幸三も以下の言葉を残している。

    「辿り来て、いまだ山麓」。この言葉は升田が将棋界至上始めてのタイトル三冠制覇(名人・王将・九段)のときである。学問とは決断である。学んだ後の結果は、学ぶ前には、解らないからだ。寝食を忘れて受験勉強をしても合格するとはかぎらない。合格しても自分の望む結果が得られるとはかぎらない。大学に入学できたとしても挫折することは往々にある。

    また、大学を出たからといって望む仕事に就けるという保障は何処にもない。況や成功するか、しないかは、大学を出たと言うだけでは解らない。ならば「学」は期待をし、求めるものではなく、己の「志」とすべきであろう。志も持たず、規定の路線に乗せられて勉強するものは、立ち止まって考えてみる価値はある。結果を先に求めず、思考をすることだ。


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