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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 11/12/15--17:10: エンコー天国 ③

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    親として、先人として、人間として「正しい」と思った事は言うべきだし、普遍的なものならなおさらであろう。社会学者の宮台真司はその著書『世紀末の作法』のなかで、「清楚な女子高生は淫靡な人妻に成長する」と言っており、成長の言葉に納得する。菅官房長官の発言や外務省の抗議を見ても、日本は構造的に「恥ずかしい国」である。人権の保証も成熟した自我も十分に信頼しきれない。

    その恥をものともせず、こうした豊かな成熟社会を我々が既に生きてしまっているいる以上、市井に充満する恥部を批判はできない。上辺の批判はするが、外国人から見た恥部には拒否反応を示す。高校生や中学生とパンツを見て喜ぶ大人が果たして諸外国の健全な大人にとってまともであるはずがない。商売女は買っても、高校生に数万も渡すバカは、日本のオヤジくらいではないか。

    『セーラー服を脱がさないで』という秋元の歌詞があった。「脱がさないで」は、「脱がされたい」と言ってるわけで、拒否の言葉がオヤジの制服願望を熱く刺激する。日本人には受けてもこんな歌詞は、諸外国にあっては幼稚園の学芸会の歌詞並で、それがこの国ではオヤジの慰撫史観である。このような親が子どもを教育しきれる環境をまさに失っている。国家的取り組みもなされない。

    風俗の生き過ぎをたまに当局が摘発するが、多くは闇の中で行われている。秋元康のようなオタクロリコン男が時代をリードし、それに群がる若者と一部のオヤジ。以前、女子高生の援助交際について海外から取材を受けた宮台真司は、「自国を肯定し続けるため、そんなおバカな日本を恰好の餌食しているようだ」との感想を述べていた。「中流子女」が売春するニッポンの本当の危険とは何?


    パンツを見てよだれを垂れ流すバカオヤジを見ながら、自身の父親に重ねることもあろう。クソオヤジの実体はこんなものかと、子どもが大人を浅ましく眺めてしまうこと。自分の経験で言っても、大人が子どもに見透かされ、眺められるのは悲劇である。大人としての存在感のない木偶の坊。「木偶の坊って何?」と聞かれたから、今では死語なのだろうが、「進撃の巨人」といえば、似て非也。

    大人が家庭で、子どもが家庭で、互いがよそいき面をしていること自体、親子関係に問題があるのだろう。夫婦とてそうであろう。子どもにウソをつかれ、「騙されて信頼を裏切られてショックです」という(バカ)な母親もいる。なぜ、信頼を裏切られたのかは、信頼されるだけのことをしていないからだし、さらに言えば、にも関わらず(子どもに)信頼されていると思い込んでることがオメデタイ。

    つまり、子どもがホンネをいえないような家庭環境であったということだ。ホンネのない人間関係から「信頼」は生まれないといったが、どう考えてもそれが事実であろう。子どもだってウソはつきたくないはずだし、だったらウソをついて良心の呵責に耐えないのはむしろ子どもではないか。それを親が「わたしが傷ついた」というところがオメデタイのだ。おそらくその子どもはウソを言うしかなかった。

    なぜなら、本当のことを言ったときの親の態度、返答が読めているからだ。どんなことをいっても、キチンと大人の対応で受け入れ、アドバイスしてくれるような親ではないのである。親にはウソをつくしかないのは子どもに見くびられているということ。母親を騙せるウソが父親に通用するだろうか?そういう知性と威厳が父親にあるのが望ましい。仕事場に目を配ってみるといい。

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    同じ上役でも、簡単に騙されるようなバカな上司、絶対にウソは通じないと思える利口な上司。簡単にウソをつかれるような親が子どもにどうみられているかは、これと一緒。本当を言えば叱られるしうざいだけ、そんなことが分かって果たして本当をいうだろうか?こういう場合のウソとは、本当を受け入れるキャパシティーの無い親、口うるさい親に対する防御である。

    ナイーブでシャイな幼児時代の長女にはピアノで自信をつけさせたいと思った。子どもというのは自分で現状を変えられない。だから親がキチンと見て変えるためにアレコレ考えるべきだ。たとえば、人見知りが激しくて、口下手な子どもは、「自分は口下手でいいんだ」と思ってしまう。そうしかできないことを正当化し、ますます殻に閉じこもる。そうなる前に施す必要がある。

    そんな長女をある日、妹と供に公園に連れて行った。公園で遊ぶ子どもたちに「"一緒にあそぼう"って声をかけてみなさい。きっと喜んでくれるから…。ウソじゃないよ、みんな声をかけてくれるの待ってるんだ。お前だって、声をかけられたら嬉しいだろう?父さんはここでじっと見てるから…」と諭して押し出す。妹もいたこともあってか姉は、勇気も出たのだろう声をかけた。

    「ねぇ、いっしょにあそぼう」の声はぎこちないものだったが、頑張る長女が愛おしかった。「うん、いいよ。あそぼう!」と返す女の子の声の方が、はつらつであった。本人は覚えてないだろうが、父はこの時のことはい今なおハッキリと脳裏にある。決して命令したのではない。一生懸命諭した。昔、コンドームを買いに行けない彼女に、同じように諭したことがあった。

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    別に自分が買えばいいのだが、「できない」、「いえない」という事が自分にはオカシイことだった。相手を意識しすぎるあまりに、自分が行為できない事は往々にしてある。自意識過剰というのだ。「お前が薬局の店員だったとして、コンドーム下さいと買いにくる客を卑下した目でみるのか?おそらく店員は、気を配って何事もないような素振りで対処するだろう。お前だってそうしないか?」

    そんなことを言われたからって、すぐにできるものではない。だから懇切丁寧に説得した。自分の中にある羞恥の理由が、いかに独善的で無用なものかを分からせることが大事である。今の時代でも女性の生理用品は、透明のポリ袋には入れず、中の見えない茶色の紙袋を用意する。別に見えたって何ともない女性もいるだろうが、だれかれの区別なくそのようにするのが、配慮である。

    自分は彼女の指定するナプキンを買ってきたことがある。ちゃんと銘柄を聞いて指定のものを買ってきた。お腹が痛くて動けないと言う彼女のためにという口実だが、それはウソ。自分は、堂々とスーパーでそれを買い、レジの反応を見たかったのが本当の理由。何がいけない?何がおかしい?まさかこの人は生理がある?なわけないだろう。店員がどう思おうと、彼女のために買うのがおかしいのか?

    そういう強い気持ちが土台にあれば、人が何を思おうと知ったことではない。最も自分が女性店員であったな、そうしか思わないし、そう思うのがプロの店員だ。「いや~、オレはとてもじゃないが買いに行けないな」、「お前は優しいね」と、好き勝手なことを言う。優しいわけでも、誉めてもらうほどのことでもないよ。売ってるものを買うことに、ためらう理由はない。それだけのことだ。

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    「君は女性の下着を買えるか?」という設問があった。買えないという男、買えるよという男。どちらにもそれなりの理由があるが、買えない理由というのは自意識過剰。その言葉を捧げている。「男のモラル」、「男のメンツ」とまで言う奴がいたが、そんな程度のことで「男のメンツ」などいう方が情けない。ま、自分としては「行為」できないことは、その理由を客観的、多角的に思考し、行為に持っていく。

    何でもないことを難しく考えることはない。自分の人見知りを正当化して、「あそぼう!」といえない子どもは、頭が柔らかいうちに親がサポートすれば解決つく。子どもにとって、顔から火が吹き出るような恥ずかしいことであれ、案ずるよりは産むが易し。できないことをできてこそ、人の自信となる。近年は母親主導の過保護にまみれた子どもが多いが、過保護のメリットがどこにあるのか?

    子どもを母親から取り返せという父親の啓発本があるが、それだけ熱心なお父さんもいないかもしれない。やれゴルフだの、飲みだの付き合いだのと、子育ての面白さを知らない父親の多き事。こんな可能性のある面白いことを母親になどやらせられないと、奪った自分のセリフである。「子育ては男のロマン」という言葉も当時は吐いていた。が、その言葉に聞き入った友人はいなかったろう。

    エンコーをするような少女、社会形態に馴染めないような子をどう修整するかは難しい。急に直るとも思えない。不良品になりつつある、そんな少年少女のための少年院、感化院のような更生施設もあるが、更生と言うのは目に見えないゆえに難しい。多くの少年たちが更生を経ないで社会に出てくることもある。梅川もそう、少年Aもそうであろう。問題は不良にしないことだ。

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    あえて難しい、修整や再生や意識改革をするよりも、そうならないように気を配るしかない。どんな親も子どもを罪人にするようには育てない。そんなのは当たり前だし、罪人は普通に育てた(と思う)中から生まれる。だから怖いのである。危機意識を常に持ち、今、発する親の言葉が子どもにどういう影響を与えただろうかと省察を欠かさない。そのように子どもと向き合うしかないだろう。

    自分が子どもだったとき、母親から発せられた何気ない言葉は、子どもに取っては無慈悲であった。そういう暴言をこともなげに平然と繰り返す親に苦しんだのはいうまでもない。どうしてこんなに親に苦しめられるのか、子どものいたいけな心は浮遊する。それを黙してじっと支えてくれた父の存在。自分をキチンと見てくれる人がいるんだという拠り所である。それでこそ子どもは生きていける。

    無言の中にある「信頼」を掴み取っていた。ぎゃーぎゃー喚く母親の父親というのは、その一言が敵意になる。妻を怒らせ、敵視させてもいいことにはならない。そういう父の立場、態度が今はよくわかる。何で助けてくれないかと当時は何度も思った。母の狂人ともいうべくヒステリー性格を見越した方策であった。が、本当に苦悩してるときは手を差し伸べてくれた。生きていれば年明け早々百歳だ。


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  • 11/13/15--16:00: 雨ニモマケズ

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    今日は朝からの雨…。今日といっても実は昨日のこと。この記事は昨日書いたものだと、本日そのように書いているところがややこしい。つまり、14日分を13日に書いたわけで、そういう場合にはあくまで14日を念頭において書くべきなのか、それとも13日の気分で書くべきなのか?そういえば、生きているうちに死んだ後の遺言を書くその場合は、死んだ気分で後のことを書くのだろう。

    生きながらに死んだ気分で書くと言うのも妙な気分であろうが、それが遺言である。死んだ後に書けるわけがない。ところが、実際に遺言を目にした遺族は、それが生前に書かれたものだという事を知っているわけだ。となるといろんな気分が過ぎるであろう。例えば子どもたちならば、「父は生前、こんな風に考えていたのか…」と、自分にとって善い内容であってもなくとも、不思議な気持ちではないか?

    生きてる間に死んだ後のことを考えるが、何日後、何ヵ月後、何年後に死ぬかも分かってもいない状況では、現在の気持ちを書くしかない。ところが、一度遺言を書いたとしても、その後にいろいろあったりと、それに対する気持ちの変化も当然にしてある。遺言には、「自筆証書遺言」、「公正証書遺言」、「秘密証書遺言」がある。「自筆証書遺言」はいつでも好きなときに書き直しが可能。

    が、「公正証書遺言」を書き直すときは、遺言書の写しが公証役場に保管されているため、手元にある古い遺言書を破棄しても意味がない。改めて正式な遺言書の作成が必要になる。「秘密証書遺言」は難易度的には最も難しく、万が一、遺言の法定要件を満たしていなかった場合は、無効な遺言となることもあり、利用者は少ない。費用を掛けるぐらいなら、公正証書遺言にした方がよい。

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    ま、資産も財産もない自分は遺言など考えたこともない。よって遺言のことはどうでもよく、問題は明日出す記事を今日書いた場合は、どちらの日を主体に書くかである。そんなことは問題なのか?と言われると、答がないだけに書き手の選択であろう。陽水はこんなことを言っていた。都会では自殺する若者が増えているが、そんなことよりも自分にとって問題なのは、今日の雨なのだと…

    雨がどうして問題なのか?その理由が傘がないのだと。う~む、分からなくもない。傘がなければコンビニで買えよ、100均で買えよと、そういうご時世でもない。実家なら玄関か物置に傘の一本くらいは出て来ようが、アパートで一人暮らしであって、朝からのザーザー降りに傘がないのは確かに困る。今なら300円程度のビニーる傘だが、あの時代は傘の値段もバカにならなかった。

    傘のなさに苦慮する陽水…。武田鉄矢が言うに、「陽水ってがたい(図体)あるわりに、歌(歌詞)が細かいんだよ」と吠えていた。井上陽水、武田鉄矢、財津和夫らの博多勢の丁々発止の話はオモシロイ。そういえば『傘がない』を始めて聴いたとき、吉田拓郎とはまるで違うセンチメンタリズムと、あまりの生活臭がにおう歌詞に驚いた。拓郎のドヤ声に比して、美しいハイトーンも魅力だった。


    今の日本の若者が、どこで死のうがどんな問題をおこそうが、今の自分には傘がない事が問題なのだと。あれを不思議な歌詞という奴は多かったが、確かにその時はありふれた歌ではなかった。また陽水には、『東へ西へ』という楽曲もあり、『傘がない』で雨に負けているところなどから、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に触発されたのではと、今でも思うし、当時も同じように思っていた。

     雨にも負けず
     風にも負けず
     雪にも夏の暑さにも負けぬ
     丈夫なからだをもち
     慾はなく
     決して怒らず
      いつも静かに笑っている

     (中略)

     東に病気の子供あれば
     行って看病してやり
     西に疲れた母あれば
     行ってその稲の束を負い

    この辺りがどうも宮沢賢治の影響かも知れない。確かに今日の雨は屋外活動を阻むし、ウォーキングを阻まれてしまった。賢治のいう雨にも負けずはどういう事をいっているのだろうか?雨が降って歩くのを止めたそのことを雨に負けたなどと思ってはない。傘を差したり、合羽を着てまで歩く必要がないと感じているだけであって、そうまでしてウォーキングを強いる気など毛頭ない。

    しばしば書くが、何かを自分に強いるのが大嫌いである。ブログにしろ、ウォーキングにしろ、行為の原点は、「問いと応答」。今日もブログを書かねば…、これを強いるという。そうではなく、「問いと応答」というのは、今日はどういう物が書かれるのか?一体自分が何を書くのだろうか?そういう問いが行為の原点にある。コップに注いだビールの泡のようなもの。

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    書く行為に面白さはない。何が書かれるのかという期待の面白さである。自身の可能性の発見と言う面白さである。ブログを書く前、頭は白紙である。何を書こうかは書きながら決めるし、最初の一行を書いたときから世界が広がっていく。ウォーキングも同じこと。歩くことは何も面白くはない。今日はどこまで歩くのだろうか、そんな可能性の面白さである。何事も己の可能性を追求することの面白さ。

    歩いてみて思うのは、クルマなら渋滞もある、信号待ちもあって、これは一種のストレスになるが、歩いて渋滞はない、信号はあっても無視も多く、ないに等しい。渋滞の車列を横目にすいすい歩きながら、「徒歩の方が速いじゃないか、ロスもない」など思いながら…。たまにクルマに乗ると渋滞や信号にイラつくこともある。信号待ちのクルマは車列の一番前には出れないが、徒歩だと常に一番前。

    一番であることに爽快感。などなど、思いながら歩くから、歩きがポジティブになる。昔の人は道路の渋滞と言うものを知らなかったろうな、そこだけ見ても現代はストレス社会。文明はストレスをも生んでいる。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、雨や雪や寒さ暑さに負けない体とした一切は比喩で、この詩の奥にあるものは、謙虚で自己犠牲の精神を持った人に憧れた、賢治の理想像を綴ったものである。

    遺稿というでもない死後に発見されたもので、人に読まれること を想定せず、晩年の病床で自身に向けて書かれたメモである。詩のモデルとされるのが斉藤宗次郎で、彼は1887年岩手県花巻に禅宗寺の三男として生まれた。無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人。内村は有島武郎など多くの弟子に裏切られたが、斉藤は内村の死の際には隣室に泊り込んで日夜看病した。

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    何かにつけて「できない」という人間はいる。「できない=したくない」にしか聞こえない。「したくない」は、「やりたくない」であろう。まあ、できると思うにせよ、できないと思うにせよ、その通りになるのは間違いない。ならば前者でありたい。「やる気があるときなら誰でもできる。本当の成功者は、やる気がないときでもやる。」といった者がいたが、「やる気がないとき」には工夫がいる。

    自己啓発にもいろいろあるが、自分の場合は自己卑下。「お前はダメな奴だな」、「そんな程度のグ~たれるのか?」、「どんだけ苦労した人がいると思ってるんだ」、「戦争にでも行って来いよ」などなど、いろんな言葉で自分を罵倒した。それがクセになると何かするのに、面倒くさい、やる気がおきない、かったるい、など思わなくなる。何かをする際、楽しむ何かを必然的に見つけるようになる。

    よって、次の3つの禁句ができあがった。①忙しい…無能。②めんどう…横着。③疲れた…弱音。当初、これだけは絶対に言わないとの自己啓発だったが、慣れてしまうと意識しなくても排除する。人間は何事にも刃向かえるが、自分に刃向かう時は都合のいい理屈をつける。○○すべきなのに、今日は疲れてる、忙しいだの、めんどうだの、そんな言葉を自分は認めない。

    だから、人にも認めないが人の自由をアレコレ強要しない。「やる」にせよ、「やらない」にせよ、そのとおりになる。自分はこういう意識なのに、なんてグーたらな奴だなど思わない。その人はその人を生きているわけだし、自分がどれだけやれるかにしか興味がない。若い頃は人に目を向け、サボる奴に腹が立ったり、文句を言ったが、あれも傲慢であった。

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    子どもに対しても一貫してそうであった。「やるにせよ、やらないにせよ、人はそのようになる」。ならば、無理やりやらせれば、やったことになるのか?そうかも知れないが、それは自分が好まない。自分が好きでないことを子どもにやらせる親も傲慢であろう。何だかんだと理由をつけるところなどは笑えてしまう。自分は本当に自由主義者だと常々思ったりする。

    真の自由とは自も、他人をも自由にすることである。自分には甘く他人に厳しいのは醜いエゴだが、多くの人はそれに気づかない。自分に厳しく他人に甘いのはどうか?水平の関係ならばそれでいいが、管理者という職責にあるなら、己の個性の没却は必然である。親ならどうか?子どもの普遍的な自由は認めつつ、人間として普遍的な律する心は育てなければならない。

    それが社会的動物の義務であり、責任である。したがって、強要や強制よりも、自己責任感を強めていくように仕向ける。何事もとどのつまりは、自己責任でしかないのが分かっている。面倒くさい、かったるい、忙しい、こんな言葉は自分が発するものだ。仮に、「そんなことは言うべきでない」と言ったところで、「言うなというから言わない」ではなんの意味もない。

    イメージ 5大事なことは、自らそうなる事だ。そういう風に他人の目を気にしながら生きていくようなことを、自由主義者は強要したりしない。したくないならしなければいいだけのこと。自分を他人も自由にするのは、オモシロイ、楽しい生き方である。「人は人」という言い方には二種類ある。捨て鉢な言い方と、相手を尊重する言い方。捨て鉢な言い方はいかにも幼稚で、しばしば耳にする。

    幼稚であるだけに人間的な狭量をみる。「人は人」と言いながら、実は言いたい文句を押さえていたりと、明らかに我慢をし、妥協的である。こういう人の「人は人」は、「だったら自分も勝手にする」と後の言葉が見えてくる。子どもの言い草であろう。「人は人にて善し」であるべきだ。自分にとって不都合であり、利するものでなくとも、「人は人」である。


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    欅坂46というAKB48の姉妹グループのメンバーの一人が、辞退という形で退団した。理由は毎度同じ男の問題で、だいたい思春期の少女に恋愛禁止までして金儲けを企てる運営会社は、もういい加減に解散した方がいいよ。運営会社には責任がないと言うのだろうが、青少年に与える影響が多すぎる。かつてのアイドル百恵や淳子やピンクレディ、キャンディーズ…

    彼女たちはしっかりとアイドルとして世間に顔向けできるようにプロダクション側から教育され、厳しく仕込まれることで自覚もあった。仕掛け人の秋元康はAKB48を、「彼女たちは未熟なんです。その良さを見て欲しい」といっていたが、未熟な少女を大量に世に出し、不祥事があっても「未熟なのだから…」と、いう逃げ口実を用意してるとしか思えない。

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    少女アイドルが一般少女に与える影響を考えれば、彼女らの自覚と責任をプロダクションが仕込む必要がある。素人っぽさを掲げ、自覚を持たせぬままに世に送り出すプロダクションの粗雑さ、無責任さをメディアやマスコミは問題視しない時代に成り下がっている。一人ではまともに歌えない団体合唱団と、そこらのブサイクが簡単にアイドルになる時代の落とし穴だ。

    簡単になれるなら、終ることも簡単。「○○は諸事情により、グループを辞めることになりました」と、ホームページで発表すればそれでいい。百恵ちゃんや、明菜や、聖子の時代だとそうはいかない。自覚も責任もないこういう安易さが今の時代の象徴である。よく分らないのは、こういう素人ブス集団に入れ込むほど、昨今の男は巷の女に無縁なのだろうか?

    昔の女に比べ、ナンパもコマシも相当にイージーと思うが、それでも彼女ができないから、団体さんにうつつを抜かすのであろう。確かに女を口説けない男は昔もいたが、昔と違って近年は、逆ナンも当たり前の時代であって、ようするに待つ女から行動する女が少なくない。それだけ、積極的な女は口説くのも簡単だろうに…。今回の不祥事とはチュープリ露出である。

    チュープリとは、チューをするプリであり、付き合っている男女が機械でそれをしたければやればいい。誰に迷惑がかかるものでもなく、観て楽しいなら別に悪いとも思わない。欅坂46のメンバーの16歳の少女の交際相手は中学時代の教師であるという。その教師と撮ったチュープリと、おっぱいをわしづかみにしたもう一枚、計2枚のプリが世間に露出した。

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    交際する二人がどこで何をしようが、自分たちの絵を撮ろうがSEX動画を撮ろうが、それはプライベートな問題であり、そのこと自体は交際相手が中学教師であろうが、牧師であろうが、寺の坊主であろうが、誰に迷惑をかけるものでも、社会的な背信行為でもなんでもない。問題なのは、なぜに二人しか持ち得ないものが外に出回ることになったかであろう。

    おそらく、少女か男かのどちらかが、二人だけが持つプリを誰かに見せたのではないか?あるいは、こういう事が可能かどうかは分らないが、プリクラと言う機器の中に残っていたデータを、設置所有者が閲覧でき、それが有名人であるからと出版社に高額で売りつけた可能性で、これ以外にプライベートなものが外に出ることはあり得ない。

    ラブホテル流出ビデオと言うのがあった。これはラブホテル所有者が、室内に隠しカメラを設置して録画するというもの。これらはもともとホテル経営者の秘かな享楽であったのだが、アダルトビデオ制作会社に買い取らせて金になるという時代になっていった。そこでプリクラ機もこのように、データが保存できれば他人のプライベートな画像で商売できる。

    プリクラ機の基本的構造といえば、OSWindowsが入っていて、それがプログラムとプリンターを動かしてるだけだけだから、入力データは簡単にオペレーション側で閲覧できる仕組みで、店員がコッソリ閲覧しているとしても何ら不思議でない。そこからリークしたのではないかとの疑念だが、プリクラ機からの芸能人流出画像について、プリクラ機を置いてある店員がネットで述べていた。

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    「昔(数年前)は画像データが残る機種も一部にありましたが、今はデータが残る機種はありません。アルバムにして公開するのは殆どの機種で出来ますね。でも、自分から公開しない限り流出はしませんし、自分のプリを見せたい人もいるので別にいいのではないでしょうか?ちなみに履歴画像が見れた頃でも、店員さんはほとんど見てなかったと思いますよ。

    営業中は見てる暇なんて無いし、閉店後に全然知らない人のプリ見る時間があったら早く家に帰りたいですし。ちなみにデータが残るのは、トラブルで電源が落ちた時用のバックアップ用です。でも、実際は撮り直してもらえば済む話なので、今の機種には各社ともにデータを残す機能は付いていません」。そうかも知れない。見知らぬ相手のチュー画像などどうでもいい。

    ということでこの店員も、「芸能人のプリ流出とされているものは、一緒に撮った人が何かの形で流出させたか、自分でツイッターなどで公開したものが後から、流出みたいに言われるようになったかのどらかかです。」といっている。確かに、データが残る機種があったとして、何のためにデータを残すのかは甚だ疑問。芸能人でプリを撮るのはAKBくらいだろう。

    芸能人のチューなら見る側もスキャンダラス感に酔えるが、そこらの素人のチューなど見て、今どき興奮する奴もいないだろう。となると流出の原因は、少女が誰に見せたか、中学教師が誰に見せたか、見せられた相手が流出させた意図は、妬みか金儲けかということになるが、この辺は想像する以外に分らない。誰かに見せたことが二人にとって命取りになった。

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    中学教師が16歳の教え子の乳もみしていいのか?については乳だろうがどこだろうが、相手が望むならやればいいし、中学教師が乳を揉んでは遺憾などの法もモラルもない。もっと進んだことをやっておるに決まっているから、乳揉みで騒ぐなである。少女の父親も交際は認めてるとのことだから、淫行条例だの何だのといっても、法は恋愛そのものを裁かない。

    父親認知の交際なら、違法に問われることはないと思うが、彼はもう教師は無理だ。教え子の乳揉み画像を好意的に思う保護者はいない。少女は学校生活に戻るが、欅坂をチュープリでクビになったという囁きやいじめはあろう。自身の巻いた種は乗り越えるしかない。何をしてもいいのが恋愛だが、「壁に耳あり障子に目あり」の悲劇というしかない。

    壁は厚いが耳を付ければ音は聞こえ、障子紙は指一本で簡単に穴が開く。それにしてもプリクラなどに群がる日本人の幼児性というのか、諸外国では幼稚園児~小学生くらいなら喜ぶだろう。ティーンエイジャーが、あんな幼稚なもの見向きもしない、それが外国で流行らない理由。幼稚な日本の若者が普通のプリクラ撮って喜ぶのはいいがバカプリは哀れだ。

    どうしても撮りたいなら、「壁に耳、障子に目」の意識をもち、プライベート画像は人には見せない事。当初は簡単に画像を撮れて楽しむというプリクラだったが、だんだんに進化、自分の顔を修整したり、文字を入れたり、さらにエスカレートし、エロプリ、チュープリと、昨今の女子高生の品性のなさは遺憾ともし難い。「躾」という女子教育は、男子より大事であろう。

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    外国人高校生が彼氏と撮ったエロプリを友人に見せ、「いいなぁ、私も撮りたい」となるだろうか?日本人なら、「うちも!」、「あたしも!」、「オレも!」、「おいらも!」となだれ込み、あげくはおっさんやおばさんも参入の事態。利口はバカを抑制するが、バカはバカを増幅させる。諸外国で一部のバカが楽しんだとしても、利口に「あんたバカじゃないの?」では普及はない。

    利口な日本の女子高生が、「何バカやってんの!」と言おうものなら、寄って集ってイジメに合うだけ。この国の付和雷同の怖さ見える。精神年齢の低い、幼稚な日本人がマジョリティとなるなら、聡明な子が、「私はやらない」、「興味ない」では仲間はずれとなる。個人主義は「個」の価値を尊重するが、この国は、異端を認めない同調圧力社会である。

    一匹狼は男の勲章だが、女の一匹羊は孤立した哀れな子羊。男に生まれ、女の世界は耳目にする程度でよくは知らぬが、孤立の苦しさ、虚しさ、居心地の悪さであるようだ。我々古い世代人は、このプリクラ乳揉み教師はバカに思えるが、今の若い子らにもそう見えるのか?が、「プリクラ撮ろうよ」と少女に誘われれば、「嫌だ!」は通用しないのだろう。

    「人はバカに生まれるのではない、バカになっていく」。また、バカは伝染するが、今時この程度はバカでないのか?バカな親に妄信すれば子はバカに、バカな友人やバカな社会に批判の目を向けないでいれば、バカに育っていく。親子という縦のラインと、友人・社会という横のラインでバカは増殖する。なぜ安易にバカになる?その答えは、人は楽を選ぶ生き物だから。

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    イメージ 1チュープリ教師の波紋は、彼の勤務校ばかりでなく、社会全体に広がっている。「こんな最低でモラルのない教師を採用した教育委員会にも呆れるわ」。などの意見も多いが、「最低でモラルのない教師」が採用時にどうして分かるというのだ?問題は公務員であろうと、一般企業であろうと、不適格と分かった時に、さっさとクビにできる法令整備が大事である。「法定の事由による場合のほかは、職員の意に反して、降任、休職、免職されない」。という法律上の文面にあるとおり、公務員は簡単に罷免できない。その前に、なぜ教師は公務員であらねばならぬのかという疑問。公務より私益優先教師がしばしば問題になるが、教育大や教育学部のカリキュラムを経て教員免許を取らずとも、教職は民間でもできる仕事である。

    採用時に人間の本質見通せないのは仕方ないが、不適格教師と判明すればクビにすべきだ。教員を民間に移行できない理由として、①手間がかかる。②民間に任せる際、その手続きを行うのが公務員以外いない。③簡単な事務手続きでも地域に密着する個人情報が含まれ、簡単に外注できない。よって、教員の民間委託先をベネッセや河合塾に任せるわけにいかない。

    塾の講師と教師では、仕事内容(教え方)が違う。公立学校教師は、文部省の指導要領に従うことが必須であり、塾や予備校の講師は、単純に生徒の成績を上げることが一義的に要求される。教師にストレスが溜まるのはそのためでもある。教え方にある程度の工夫は許されているが、指導要領から外れることは許されない。よって塾の講師に教員は無理であろう。

    橋下市長が公務員改革に取り組んでいたが、公務員の待遇改革を行うには、地方も含めた議員の改革が必要といえども、公務員に対して強く力を発揮できる議員が、公務員を敵に回すと次回の選挙に響くことになる。公務員の身内親戚を入れると、どの自治体であっても1割以上、多めにみて有権者の3割以上を敵に回す。それに目をつむることは政治家では無理。

    橋下のような人気がない限り、首長には絶対無理な仕事である。可能とするなら、選挙の際に投票者が公務員改革に消極的な議員に投票しないようにすれば、3割以上を敵に回しても大丈夫なはずだ。一度公務員になると身分は安泰かつ保障され、汚職とか相当に悪いことをしない限りクビにできない。「飛ばす」(左遷)くらいで何でも許されるのが一般的だ。

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    自分の経験でみても相当バカな教員は少なくない。教員がバカというより、バカでも教員になれるし、信じれないくらいのバカ教員を何人か知っている。そんな奴が採用試験を受かったときも、まあコネであったから仕方がないと思いつつ、教員には何も期待しない、すべきでないとの考えになった。そりゃあ、「あいつが教員に?」は、驚きであった。

    一言でいうなら、教員になるような人間は根が真面目で、独創的な思考もなく、他人の心を洞察できるような鋭い感性はない。言われたことを卒なくこなすという真面目人間さが共通する。文科省や教育委員会のお抱え教員がそれでいいのか悪いのかは分らないが、知識の伝達という単調な授業には向いてはいても、教育者というレベルには、到底おぼつかない。

    ある事を自分で考えたり、批判したりで仲間はずれになるより、同調してバカをやる方が楽だし摩擦も生まない。人は誰も自分で責任は負いたくない、だから「人がやってたから」というのがバカのお決まりの言い訳だ。「何でそんなことしたんだ?」、「○○がやれと言ったから」などと答えて怒った教師が、「だったら、君は○○に『死ね』と言われたら死ぬのか?」と…。

    こういう教師と生徒のやり取りは腐るほど聞いた。子どものこういう言い訳を生むのが家庭教育、学校教育を含む日本的社会であろう。これの何が問題なのか? 「朱に染まれば赤くなる」、「腐ったミカンは周囲を腐らせる」これが主体性のなさ、つまり自己責任逃避であろう。ようするに、弱い心を強くしようとしない。友達を庇って嘘を言うのは天に恥じることだと思わない。

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    そういう正義感を宿す宗教的バックグラウンドもない。日本人は、友だちを庇って自らも悪に染まるが、それは正しいことではないとするのが以下の話。10代の女性が3人にレイプされた。女性は告訴したが、容疑者も依頼人の弁護士も、「女性が望んだ和姦であるとした」。姦淫に加わらなかった少年が、検察側証人として、強姦の事実を証言することとなった。

    少年は出廷する前に留置されている友人容疑者を尋ね、「お前には悪いが、オレは事実を証言する」という。友人は泣きながら、「頼む。オレを助けてくれ。レイプを認定されたら5年は監獄だ、強制猥褻で弁護士が頑張ってくれている。それなら数ヶ月で出られる」という。少年は友人の懇願を聞き、「分かった!見なかった、知らなかったと言うよ」と交わす。

    少年は容疑者の依頼した弁護士に連れられ、検事の下を訪ねる。その場には打ち合わせもあって被害少女もいた。弁護士は言った。「彼は事件の際の記憶がないそうだ。君(検事)にいろいろ言ったのは強要された嘘であったと…。よって法廷では、前言を撤回するそうだ。告訴を取り下げた方がいいと思うが…」。うつむき加減の少年に被害少女が声をかける。

    少女:「なぜなの?」
    少年:「強制されて嘘を言った。証言台ではすべて撤回する」
    少女:「なぜ…?」
    少年:「本当に何も見てない、覚えてないんだ」
    少女:「汚い奴ね」
    少年:「汚いのはあの夜のお前だろ?」
    少女:「わたしがお酒とドラッグをやり、男たちといちゃついてたから?」
    少年:「……」
    少女:「でも、あなたはわたしが輪姦されるのを見てたし、自業自得だっていうの?」
    少年:「証言するとオレの友人が5年の懲役になるんだ」
    少女:「彼は立派な友人なの?女を強姦して罪を逃れようとするのが立派な友人?そんなクズ男に加勢するあなたって、何て最低でゲス男なの?」
    少年:「ひどいなその言葉。オレを見損なうなよ!」
    少女:「…なにかを怖れてるの?」
    少年:「……ああ」
    少女:「わたしも、怖い」

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    若い二人は問答の末、「怖い」という言葉に共感しあった。この「怖い」という言葉の意味は何なのか、特に被害少女の発する「怖い」の意味を思考した。少年の「怖い」は真実を述べる怖さであろう。真実の前には友人と言う美名も廃れる。自分が友人の罪に加勢する怖さであろう。少女の「怖さ」は何だろうか?これも真実に立ち向かう「怖さ」であろう。

    レイプ裁判なんてするものでない。いかなる官能小説など非ではないほど、被害者は女性として、人間としての尊厳を失ってしまうほどに裸にさせられるのだ。事実、彼女は法廷内では、耳を覆いたくなるような洗いざらいの告白をした。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということわざは、身を犠牲にする覚悟がないと何事も成就できない。の意味である。

    彼女は検察官に、「泣き寝入りしない。彼らを監獄に閉じ込めて!」と言い切った。意思の強さに見えるが、一少女の怖さを我々は知るべきであろう。男の傲慢で女性の心身を破壊させることがあっていいものか?多くの強姦事件が泣き寝入りになっているのも事実である。少年は彼女の「怖い」の言葉に同化し真実を述べた。映画『告発の行方』のワンシーンである。

    少年も怖いが、少女の怖さはそれに勝るもの。少年はそのように感じたのであろう。「友人を売る」という行為にはなるけれども、よくよく考えてみなければならないは、被害者の少女が言うように、「そういうゲスな男があなたにとって誇れる友人なの?」である。自分は常々言うのは、それでも親か?それでも教師か?それでも政治家か?医師か?弁護士か?である。

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    明らかに尊敬に値しない人たち、恥べき人は、大いに批判し、非難すべきである。「どんな親も親」という言葉がある。自分を産み、育ててくれた感謝は尊いというものだ。が、それはまた、自分が親になったときも同じように、「どんな親でも親」となる。それを自分は認めないし、子どもに認めてもらいたくない。親は、親らしいことをしてこそ親なのだ。

    親らしいとは?いろいろあるが、「これ!」と思うのは、子どもを私物化しない愛、所有欲とは別の愛。教師らしさとは?我を踏み台とし、立ち羽ばたくを喜ぶ愛。上司らしさとは?心配しないでいい部下を育てること。その愛。上司が部下を心配しないのは、部下の価値を認めているからで、与えられた仕事を越えて価値をもたらせば、次なるステージに進める。


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  • 11/17/15--16:10: さまざまな自己省察
  • 次女の首を絞めて殺害しようとした東大阪市に住む母親(49)を、今月15日大阪府警布施署が殺人未遂容疑で逮捕した。「生活態度を注意したが無視され、首を絞めた」と容疑を認めている。14日午後5時半ごろ、同市内の自宅で府立高校1年の次女(15)の首を電話機のコードで絞め殺害しようとしたが、次女が同署に「母親に首を絞められた」と電話、事件が発覚した。

    なんと言うべきか、こういう親も親なのか?「どんな親も親」という言葉がある。子どもに老後の面倒を見て欲しい、見てもらいたいと、そういう思惑から生まれた言葉と思いたくなる。昨今はもはやそういう時代ではない。親といえども生活基盤を犠牲にして面倒みるのは大変で、民間委託が主流である。親も子どもに負担をかけないよう、さっさと施設に行くべきだ。

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    ずいぶん前だが、親子についてある疑問を抱いたことがある。その際、疑問には明確な答えを出せなかったがこういうこと。自然界にあって、親が子を可愛がるのは人間だけではない。育児はあらゆる動物に自然本能として備わっているし、むしろ人間の方が子育て放棄や虐待がある。疑問と言うのは、子が親の老後の面倒をみるのが人間以外の動物には皆無であること。

    人間社会では当たり前のように言われているが、これは自然界の自然の法則なのであろうか?それとも孔子の説いた儒教思想の影響なのか?中国、韓国、日本など、儒教思想が色濃い国はどうもそのようである。外国によっては、子に面倒を見てもらうのは恥とする国もあるくらいだから、子が親をみるのは一般化されてはいない。欧米等は子に対する依存心は希薄のようだ。

    親を大事にするというのは美徳とされるが、自然にそうなる形がよいのではないか。20年近く親に世話をかけられた子が、親に対して自然な恩義を感じるのも不思議ではないし、思想で縛るよりはこちらの方が美しい。犬は3日飼えば死ぬまで恩を忘れないというのは、本当なのか?そのようにみえるが、まさか犬がご主人様に作為的素振りはないだろう。

    「親孝行をせよ」という儒教思想、「神に従えよ」というキリスト教、命令思想や命令宗教はどうも好きになれない。人を思いやる「仁」、私欲に囚われない「義」、上下関係を守る「礼」、勉学に励む「智」、嘘をつかない「信」など、良い教えもたくさんあるが、性格的に偽善を慎む「老荘思想」に傾倒した。確かに、「子が親の面倒を見るのが当たり前」という世代人はいる。

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    「当たり前」とは、そのように教えられたからであって、子の負担を考えれば、親は子に頼らずに生きていくのが無為自然であろう。子に負担や無理をかけても、それが子の親への恩返しと言うのは傲慢な考えと断罪する。つまり、育ててやったのだから、恩を返せということで、子を育てることは子を作った者の「当たり前」の義務であり、恩着せがましく言うことではない。

    孔子がなぜ動物のような自然性と違えて、人間は親の面倒を見るべきとしたのか?孔子は人間社会に秩序を作るためには、自然性を否定すべきと考えたのだろう。小犬に餌を与える親犬はいても、親犬の面倒を見る小犬がいないという自然性を、当然に孔子は知っていた。が、その自然性を否定し、「孝」という道徳を打ち立てない限り、秩序は維持できないとした。

    自発的に感じる「恩」と、要求する「恩着せがましさ」とはまったく別のもの。たとえ子であっても、他人(自分以外の意味の他人)に恩や、物品や、他の何かを要求するというのは、浅ましい行為である。他人に無理をいい、面倒をかけ、それがさも当たり前などという硬直した考えを「傲慢」という。人間が傲慢になるのは思いあがるからで、つまり謙虚さがない。

    ただ、謙虚さといっても意識して作ったものも多く、そうすることが人当たりがよいとか、人に善くみられるとかでやる人も多い。それを「腹黒い」という。真の謙虚さがいかに難しいか、「人間の生の目的は、他人への愛と謙虚さを身につけること」とニーチェが言ったようにである。愛と謙虚さはリンクする。愛があるから謙虚になれ、よって傲慢な人間に愛はない。

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    愛とは愛することで、愛されたいとは違う。人間が人に愛されたいと思うのは自然な感情だが、人を愛さないで愛されたいばかりを望む人も傲慢である。人を愛すれば自然に愛されるはずだし、言い方をかえれば、人に愛されたいと願うなら、まずは対象を愛することだ。そのために大事なのは、自己否定に始まる自己省察である。つまり、見えない自分をよ~く見る事。

    自分は自分をよく眺めもした。第一の理由は、人と自分に違いが多くかったからで、それで自己を省察するのは面白くもあった。「なぜ、人は○○なのに、自分は○○でないのだろう?」そういうことが多かったし、いつもそこで立ち止まった。なぜなら、「人が○○だから、自分も○○しよう」、「したほうがいい」、「しなければならない」というのを全く思わなかった。

    自分を知るとは、自分が他人をどう受け入れるかで、自分が他人にどう受け入れられたいではない。後者を主眼にすると、媚びへつらう人間になる。自分が他人に受け入れられることより、他人を自分が如何に受け入れるかが大事な理由は、友だちは自分で選び、自分で作るからだ。他人に自分の精神を搾取されてはならないし、自分を売ってはならない。

    「なぜお前は○○しないんだ?」と同輩、友人にはよく言われた。先輩にも、「みんな○○してるのに、なぜしないんだ?」をよく言われた。その辺りをいろいろ思考した。「人がするから自分もする」という安易さ、無責任さ、付和雷同さがなぜか大嫌いだった。自分の行為は自分の内から出たものであるべきだった。「酒くらい飲めよ」と言われても口をつけなかった。

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    前にも書いたが、遅刻常習犯だった自分は、遅刻の理由をいつも「寝坊」と書いた。友人は、「もっと違う理由を書いた方がいいよ」と言うが、「寝坊」は事実であり、なぜ寝坊がよくないのかが分からなかった。同僚は、「寝坊は過失だろう?仕事に対する意識が低下しているとみなされる」という。「そうかな、仕事は一生懸命やりたいし、やっている」と言い返したり、思ったり…

    いちいちありもしないもっともらしい理由を、考える方がどうかしてると本気で思っていた。あるものをあるがままに現すのは正しいと思っていたし、その方が自分も楽だった。虚実はどこかに無理があるし、その無理を恥ずかしげもなく押し通そうとする人間の心が貧困である。表だけを繕うことに皆が躍起になっていたのだろうが、それを自分は嫌がった。

    青春時代にディスコが流行った。が、自分はどうもあれがバカに思えたし、絶対に行かなかった。が、自分の中で「ディスコで踊り狂うのがバカに見える」と思うのは、人と違うと認識していた。人と違うことの社会性欠如感から自己否定になりがちだが、人と同じでありたい、あるべきかだろうか?という考えには馴染めず、違うなら仕方がないと自己肯定で収束する。

    ライヴに行っても騒がない、席も立たない、じっと座って聴いている。立見席でも座っている。みながやっていることをしないのは変かもしれぬが、人がどう思うは関係ない。自分は自分に正直に、したくない事はしない。それで浮いた存在などと全く思わない。浮こうが浮くまいが、そういう人の視点よりも、自分を生きていたいし、人と同じである理由は何も持たない。

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    それを「精神的に強い」という者もいれば、「変わってる」という者もいるが、どちらにも組しないのは、どちらも人の見方であるからだ。自分は自分のしたい事を自らに素直に正直にやるだけ。他人の目線も批評も関係ない。このように生きるのが心地いい。「そのように生きれたらいい」と言う奴もいるが、そういう奴には、「明日からでもできるよ」といつも言う。

    「バカになれよ!」と、これ以外に特効薬はない。「図太くなれ」、「人の視線を怖れるな」と言っても、そんなことすぐにはできない。急にそんな風になれたら人間は苦労しない。「バカ」は人の目を怖れない。これは明らかに長所であろう。「神経質」、「人の視線を気にする」というのが、短所と認識するなら、それを長所に変えたらいい。だから「バカ」になれ。

    「バカ」と指をさされるのを怖れないことこそバカの証明。自分は「バカ」にならないまでも、バカを演じることが出来るが、できない奴は「バカ」になる事だ。人から、「何でそうなれるの?」と聞かれたときも、「バカになれるからだ」と答えるのが簡単かつ手っ取り速い言い方だ。そういえばジョブズもそういってたな。「Stay hungry, stay foolish」は、今や名言となった。

    彼が「hungry」であったのは事実だが、「foolish」は手っ取り早い言い方だろう。おそらく、「人から見たバカでいいじゃないか」との意味。人から、「バカじゃないのか?」と思われれるのを、「怖がるな!」と戒める。自分やジョブズの、「バカになれ」は、「バカ(といわれるのを)怖れるな」である。他人の目を気にして、自分のやりたいことなどできるハズがない。

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    いろいろなシチュエーションで本当の自分を晒せば、他人はそういう自分をそれぞれに捉えたであろう。ライヴで席を立たず、耳を澄まして聴いている自分を、「クラシックのコンサートじゃないのに…」と言った者もいた。「なぜもっとのらないんだ?」、「のるというより、いい音楽をじっくり聴いていたいんだよ」。「ふ~ん…みんなと一緒に騒ぎたくないの?」

    「うん、オレは音楽を聴きたくて、だから金を出してる…」などと言っても、なかなか理解は得れない。外国から来たアーチストたちも異様におとなしい日本人の聴衆に驚いたらしい。日本公演を前に、「日本人はおとなしく一緒になってノったりはないから、そう思っておけよ」と、来日経験のあるアーチストからアドバイスを受けた、とあるロックバンドが言っていた。

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    実際、どうなんだろう?アーチスト側からすると、一緒にコンサートを楽しむ聴衆と、じっと聴き入る聴衆と、どっちが演りやすいのだろう。ミック・ジャガーだったか、「こいつら音楽を聴きに来てるんじゃね~。ただバカ騒ぎしたいだけさ!」そう聴衆を詰るような発言をしていたが、「ちゃんと聴いてくれる日本人の聴衆は好き」というミュージシャンはいる。

    リップサービスかも知れないが、その辺りのことは当事者でないし、本当のところは分らない。が、スタジオ録音よりもライヴの方が好きというアーチストは結構いるようだ。ライヴの雰囲気に熱くなって、演奏にプラスアルファが加味されるからだという。ハードロック系やジャズ系以外の、クラシックピア二ストのそういう発言も聴いたことがある。その逆もあった。

    グレン・グールドというピア二ストは、絶頂期にコンサートを止めた。その理由を彼はいろいろ述べているが、次のような言い方もした。これは、グールドが「コンサートは死んだも同然、レコードなどの録音技術のない過去の遺物であり、遺産である」。の発言に対し、「コンサート活動を主体に行っている同業者をあなたは個人的に傷つけていないのか?」に答えたもの。

    「ある意味そうとも言えます。私はコンサートを信じない。コンサートへ通う大部分の人たちも同じでしょう。人々は思い出を刻むためにコンサートに行くんです。その思い出を燃え立たせるとある程度音楽に近づいたと思える、そのためにコンサートに行くんです。音楽に近づくこと等ありません。コンサートに通う大部分は音楽家ではなく、音楽について無頓着と思うから。」


    ハッキリ述べているが、グールドなりの偏見もあり、的を得ている部分もある。別の理由としてこうも言う。「わたしにとって生の聴衆は負担なのです。コンサートでの演奏をやり直しができないことにむかつくんです。ある演奏旅行におけるわたしの演奏はヒドイものでした。おそらく練習不足のせいです。あるいはレコードの良い演奏と比較して思うのかも知れません。

    良くない演奏が進むと止めたくなるんです。曲の途中で止めて、もう一度最初からと言いたくなるんです。今まで何度もそういう気持ちになりましたが、スキャンダルと酷評を覚悟できず、できませんでした。もし、それが許されるならステージに戻ってコンサートを続ける価値はあると思います」。この言葉はある意味責任感に満ちた、また、独創的な発言である。

    ここまで考え、思うのか…であるが、このような発言をする者は他にいず、コンサートをしない理由がこのような考えにあるというのも驚きである。グールドの余りの率直な物言いは、彼の生き様にも現れている。聴衆を前に演奏することで、プラスアルファが加味されるアーチストもいれば、グールドのように、「聴衆が大きな負担になる」というアーチストもいる。

    人間は幅広く一筋縄とはいかないし、多種多様である。そういえばロックアーチストのライブの名盤と誉れ高いディープ・パープルの、「ライヴ・イン・ジャパン」。あれがなぜ名盤となったのか?様々な人が様々に書いているが、思うに日本の聴衆の演奏をじっと聴くという姿勢に、メンバーも触発されたのではないか?そのように邪推している。いつごろからだろうか?

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    ライヴでは1曲目から聴衆が総立ちとなり、最後の最後まで立っているのが通例、みたいになったのは…。「ライヴ・イン・ジャパン」のアルバム・ジャケットを見ても、結構座っている人が多い。遡って1966年6月30日 - 7月2日に同じ武道館で行われたビートルズ日本公演では、観客は座席から立ってはならないことを条件に、武道館使用が許可されたと言われている。

    それが、当時のロックバンドに対する日本的な作法であったようだ。いずれにしても、座席から立たないこと、つまりお行儀がよいことが武道館使用の条件であると、解釈していいのではないか。ビートルズ以降も、おとなしく聴いてくれる日本の聴衆ゆえ、演奏しやすいというアーチストの印象であろう。会場によっても違うが、武道館では特に立つことにうるさかった。

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    ビートルズ公演の10年後の、1977年のキッスのライヴ公演でさえ、映像で見る限りは誰もが座席に座っている。ところが、1978年のレインボウ日本公演札幌会場において、1曲目からファンがステージ前に殺到し、将棋倒しになって一人が圧死する事故が起こってしまった。この事故は当時社会問題となり、以来ライヴ公演で暫くは座席から立たないことが強制された。

    おとなしく聴きいる聴衆とディープ・パープル、「ライヴ・イン・ジャパン」の相乗効果のほどは想像するしかないが、ロックバンド「メタリカ」のラーズ・ウルヒッヒはこのように言う。「あれを始めて観たのは73年2月だったが、あれほど強烈なライブは今まで観たことがなかった。ロックが忘れかけていることだが、ステージに上がったら一瞬、一瞬が大事なんだ。」

    イメージ 3なるほど…。パープルはそのように演奏していたのだろう。メンバーだったロジャー・グローヴァー(Bass)は、「リッチーとギランはギターと声で刺激しあっていたし、一番いい時期にあった僕たちを純粋な形でとらえている」。キーボードのジョン・ロードは、「全員が熱くなっていた。だからあのアルバムは好きだ。皆が互いの音を聴いてそれぞれ最高のプレイをした。」

    リードボーカルのイアン・ギランはどうだったか?彼は73年の二度目の来日公演後にバンドを脱退したが、辞めると決めたのは72年だったという。「自分が入った頃のパープルとは違うものになっていった。楽しめないなら辞めたほうがいいと決断した」とギラン。彼はロジャーと共にバンドを去った。ギランと確執のあったリッチー・ブラックモアは多くを語らない。

    「『マシン・ヘッド』はヒット性を秘めたアルバムだったが、あれが広く受け入れられたのは、『ライヴ・イン・ジャパン』の後だ。ステージで取り上げたことで、より大きなものとなった。」とリッチーが言うとおり、「ライヴ・イン・ジャパン」は、「マシン・ヘッド」に影響を与えた。「ライヴ・イン・ジャパン」の企画は日本側から提案されたものだった、とジョン・ロードは言う。

    「日本限定のライヴ盤を出したいとのことだった。ライヴには自信はあったが、ライヴ盤には消極的だった。よって、日本限定という事で承諾した。当初、『メイド・イン・ジャパン』というジョークのようなタイトルをつけてね。なぜなら、当時のイギリスで日本製品は二級品扱いだった。だから、日本限定発売にしたわけだが、聴いてみたら予想以上に素晴らしかった。」

    元々ライヴ盤というのは、70年初頭は、金のためであって、音質クォリティなど望むべくもなかった。スタジオ録音でまともな作品が作れないとき、仕方なく出すという程度のものだったらしい。自分が始めてライヴ音源を聴いたのは、1964年にリリースされた「ビーチボーイズ・コンサート」であった。友人宅で、兄貴のレコードだからと、コッソリと無断で聴いた。

    純粋なライヴというよりODで手が加えられている。音質も良く、臨場感ある録音。この時始めてビーチ・ボーイズを知ったが、ブライアンのファルセットが好きになれずファンにはなれなかった。次に聴いたライヴ盤は1965年発売の、「ザ・ベンチャーズ・ライヴ・イン・ジャパン」で、これは衝撃だった。モズライトの力のある分厚い音と、メルのドラムが強調されて迫力満点。

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    グレッチの抜けのよいタムの音、カンカンに締め上げたスネアのリム・ショットにしびれた。スタジオ録音の美しい音よりも、ライヴ録音の粗雑だが鬼気迫る臨場感と、彼らの動きまでもが感じられた。最後の「キャラバン」で、ドラムのスティックでベースを叩くのはTV映像で観ていた。同じことをバンドでやろうとなったが、リードギターが「キャラバン」を弾くテクがない。

    それでもメンバーにせがまれ、おそらく血まなこになって練習したのだろう。とりあえずごまかしながらも一応の「キャラバン」が出来上がったが、いい加減に弾いている自分に嫌気がさしてか、リードの碓井さんは「キャラバン」に自己嫌悪を抱いていた。それはともかく、ベンチャーズ・コピーバンドは、リードギターさえどうにかなっていれば、それでよかった。

    懐かしい思い出だが、市民館でライヴもやった。が、高価なオープンリール・テープ・レコーダーなど誰も所有していず、残念ながら録音はないし、聴いてみたかった。自分たちの音楽は演奏で聴くのみで、それはまあ、聴くというより演るということである。それぞれのメンバーに、それぞれの演奏がおぼろげに残っていることだろう。昨今の進化した録音機材が羨ましい。

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    第57回「日本レコード大賞」の各賞が昨日発表され、松田聖子が最優秀歌唱賞を受賞した。聖子は92年の第34回、『きっと、また逢える…』で同賞を取って以来23年ぶりとなる。その時の司会は神田正輝で夫婦共演が話題となる、神田とは1985年に結婚、97年に離婚した。今回は、松本隆作詞、呉田軽穂(松任谷由実)作曲の、『永遠のもっと果てまで』が評価された。

    聖子は1980年に、『裸の季節』でレコードデビュー、今年が35周年記念となる。20歳も過ぎれば私生活ではいろいろあったとしても、仕事のときの顔や態度は常に笑顔を心がけていたし、それがアイドルとしての心根であるという自覚は伝わっていた。先輩の百恵、淳子、昌子という「中3トリオ」もアイドルであったが、聖子はその誰よりも愛想を振りまいていた。

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    最近は、ネコも杓子もアイドルになれる時代だが、かつてならオーディションでプロデューサーから、「アイドルになるのは無理。どこかに勤めて社会に貢献しなさい」などと言われたようだ。辛口業界人なら、さらにひどい言葉を言ったというが、夢を捨てさせる老婆心と思えばそれも愛である。ところが、近年は上記したように、なぜか速攻でアイドルになれる。

    旧世代人としては聞いた事もない、見たこともないアイドルも多いが、アイドルといえば一応芸能界の労務者である。芸能界がどういうところかは知らないが、ファンからチヤホヤされてのけぞったりする者もいる。ファンあっての職業だから、不特定多数のファンが存在し、またアンチファンからも耳障りな暴言を浴びても、ニッコリ笑顔が芸能人の自覚であろう。

    先日、新潟を中心に活躍するアイドルグループ「principal」のメンバーの女の子が、ファンのおじさんに「紳士ぶるおっさんオタク、キモイ!」とツイートしたという。この発言は聞き捨てならぬとばかりにグループのブログは炎上、後に本人から謝罪があった。本人はステージ以外の私服時にマックの店内で彼氏とのお喋り中の発言のようで、キモイの理由を以下。

    ツーショットの記念撮影時にファンがアイドルの小指と自分の小指を結ぶために赤い糸を持参する。そのことに対してキモいと言っているということ。であるらしい。不特定多数のファンに赤い糸を持参させて、このようなバカげたことで人気を得ようとする。歌や容姿や踊りでない無能アイドルないなら仕方ないこと。それを「おっさんキモイ」はあまりに無自覚。

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    まあ、自覚は仕込むものだから「持て」というのが土台無理。謝罪の内容は、アイドルとして不適切な発言をしたことそのことでファンの方々を傷つけたことについて謝罪と、「もう一度アイドルとしてチャンスをください」とあったようだ。同時に所属事務所もツイッターで同様の謝罪。果たしてファンの反応はさまざまで、そちらの方が世情を反映してオモシロイ。

    【ファンの反応】
     ・絶対に許さない!
     ・反省してすむとおもってんのか?
     ・こっちは家で泣いてんだよ!

    【ネット上の反応】
     ・オッサン頑張れ!泣くな!
     ・紳士ぶらずにオタク全開でいろ!…ということですね!!
     ・オタクすぎるおっさんよりいいじゃないかー。

    「裏じゃヲタクきもいとか言ってたくせに、私はまだアイドルとしてやっていきたいんです。だってよー。なめられたもんだ。他のアイドルにも失礼でしょ。みんな似たようなもんだろうけどー、辞めたらいいやん」

    「アイドルに彼氏がいたらだめなの?いや、確かに嫌な気持ちになるのはわかるさ。けど相手は年頃の女の子なんだよ?彼氏がいたって不思議じゃないじゃん?」

    「紳士ぶることすらできないおたくや冷やかし殺到!全然謝罪したいように思えない内容の薄さだな。 これフォローしようがないな!」

    「紳士ぶるぉっさんオタ気持ち悪いと言われたからか、コメントが誹謗中傷だらけ。その中にも、紳士ぶるコメントあるけと気持ち悪いって思われてるのかな」

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    謝罪文を載せたブログは非難の嵐で、「辞めろ」、「辞めろ」の大号令。「こんなに簡単に信用失ってしまう時代になってしまった」との意見もあるが、こんな発言で信用を失わない方がどうかしている。「時代になった」ではなく、そんな不用意な発言をかつてのアイドルはしなかったし、事務所もキチンと教育をした。それがアイドルを世に出す責任であった。

    【謝罪後のファンのコメント】
     ・わたしたちはまだまだがんばります
     ・大変だと思うけど、頑張ってね。アイドルやめてほしくない
     ・ブログにきてるコメントも紳士ぶってるオッサンオタキメエwって嘲笑ってるんでしょ?もう無理でしょw
     ・何か悪いことをしてしまったら其の後の態度で人間の価値が変わると教わりましたよ。なので、りっすん頑張ってください!!

    こんな発言を謝罪したからといって、「オタクのおっさんキモイ」という根本が変わるわけでもない。だから辞めさせるべきだろう。簡単にアイドルになれる時代だから簡単に辞めさせられる。「お客様は神様です」と言った歌手はステージでは笑みにあふれていた。松田聖子もぶりっ子だの、ネコかぶりだのいろいろ言われたが、笑顔は絶やさなかった。

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    聖子のような大物との比較は無意味としても、大した活躍でもないし、売れてもいないといっても、ファンをないがしろにするアイドルに存在意味はない。いや、だからこそ根っからのファンを大事にすべきなのだろうが、これだけ烙印を押されたら仕事も減るし、事務所も管理責任を明確にし、グループは解散させるべき。アイドルとはいえ、人として未熟だ。

    マックでの彼氏との会話を店内にいた高校生が耳にし、ツイートしたことで発覚した見識ない発言だが、晒した高校生に罪はない。まさにこの一件、「壁に耳あり」事象といえる。こういうオフレコ発言は表には出ないものだが、そこがネットの怖さである。表と裏の発言や会話は誰にでもあるが、まさにお気の毒という気もしないではない。自分が何かをいうとするなら

    こんな少女たちに群がるファン(おっさんも含めて)は、人間の腹黒さ、自己中心性を頭に入れて置けである。カネになればいい、売れればいい、教育などやってられるか、こんな事務所のこんなアイドルに一喜一憂する方がどうかしている。キモイと言われ、それでも我慢してへばりつくか、さっさとファンを辞めるかで、どこの誰に(本人を含む)文句を言うだ野暮。

    いかに素人っぽさが売りといっても、芸能事務所に所属し、コンサートもし、CDも出し、報酬をもらうからにはプロである。アイドルの自覚はもちろん、管理責任が大きく問われうべきだが、昨今の風潮としてそれがない。その理由は簡単、大人数だし、一人二人が不祥事で辞めても体制に影響はないとの事務所の考えだ。百恵や聖子をそう簡単に辞めさせるわけにはいかない。


    このようにすべてにおいて安易がまかり通る時代である。躾も教育もしないから責任も取らないし、「アイドルは恋愛禁止」みたいな不文律を曖昧に申し渡して、彼女らの動向を見るといった、姑息でズルイ事務所の方針であろう。なぜ、マスコミはこういうお粗末な運営を叩かない?人気があるし、叩けば彼女らを登用するスポンサーにも顔向けできないという共依存関係にある。

    だったら、もっとキチンと躾をしてプロにさせるべきだが、家庭教育にしろ、社員教育にしろ、教育と言うのはコストもかかれば時間もかかる。それでいて、「素人が成長する姿を見てほしい」などと言う秋元の方便が尤もらしく聞こえる。完成されたプロより、半熟・未熟な素人が売れると、「おにゃン子」で達観した秋元の商魂はさておき、無責任の謗りは免れない。

    有名人はとかく社会に影響を及ぼすし、一般人からは"求道的変人"と称された羽生善治名人の寝癖も今は見られない。彼も45歳で不惑の年齢だ。「寝癖がかわいい」、などの声に押されていては立つ瀬もない。いつまでもガキではないのだし、自覚が芽生えたのであろう。かつては寝癖に意を唱えただけで、「いかに将棋のことしか頭にないか」というファン。

    「羽生さんだから許される」、「あなたは羽生さんより将棋が強いのか?」などと文句をいうファンもいた。「寝癖は羽生さんなら許される」との個人の勝手な思いが、「よくないという人が間違い」となる。対象者を信奉するあまりに何事も正しいと判断する。「羽生さんより将棋が弱い者が文句をいうな」などと吠えるバカには、呆れを越えて返す言葉もない。

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    いろんなもの、いろんな人間のうごめく世の中にあって、「悪いものは悪い」が、主観であるのか、客観であるのかを見極める目を持たねばどうにもならない。「芸能人が○○してるから…」は、ありがちだけに怖い。まあ、年端もいかない子どもや頭の弱い大人が、芸能人に感化されるのは仕方がない。よって多くのファンをもつ有名人は責任が大きい。

    社会に与える影響を省み、よくない事は悟り、早急に改めることが寛容である。それでこそ、「羽生さんなら許される」などの愚かなファンを一掃できるというもの。羽生が成長することでファンも成長することになる。ボスがバカなら部下もバカになる会社はどうにもならんし、「親バカ子バカ」も同様で、この意味は"あの親にしてこの子あり"を揶揄したもの。


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    ♪ 男はどうして女を求めて さまよっているんだろう
        女はどうして男を求めて 着飾っているんだろう

    吉田拓郎のデビュー曲『イメージの詩』にはいくつか印象的な言葉があった。内容は、全体を通して自己に問いかける。問いに対する答えは考えなかったし、考えずとも分かっていた。難しい問いではない、本能のなせる技であろう。男が女を求めてさまようのは分かるが、女がオシャレをするのは男のためじゃない、自分のためと、ガンと言い張る女性がいる。

    こういう女性は自負心や思い込みが強く、だから、「男のためじゃない!」と言い張る。けれどもまったく男のためでないとはいえない。「自分のため」というのは、自分をよく見せたい、際立たせたいであり、対象は同性の場合もあろう。異性、同性どちらでもない、自分のためといえども、無意識下の領域に気づいてないだけで、そういう硬い性格を現している。

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    それに反し、臆面なくこう口にする女性もいる。「女性はお金がかかるのよ。お化粧やケアやエステなどもお金がかかるし、洋服代やバッグ、財布などの洋装品や小物にもお金がかかる。みんな男性のためにしてるのに、それを理解してくれない男性が多い。だからデート代は男が出すべき…」。いかにも女性らしい独善的な言い分で、女性に生まれたらこうなるのか?

    突っ込んでいえば、オシャレは彼氏だけのためではないが、デート代を男に出させる口実を自己正当化している。こういう女を腹黒いという。このような言い方で、男を手玉に取ろうというところがいかにも女の浅知恵である。男脳にはない独善的で稚拙な論理だが、「君とのデートのために高いクルマ買ってローンが大変。だからデート代出してよ!」という男もいるんだろう。

    女の言い分が正当で、男の言い分は正当でないとはいえず、このように自分の都合を一方的に相手に押し付け、それで「利」にあやかろうという思考回路は、「腹黒さ」の典型である。そういう人間はすぐに分かるものだ。女のズルさ、腹黒さこそ一生の不作であろう。男にもズルさ、腹黒さはあるが、論理で指摘すれば気の弱い男はすぐに気にしはじめる。

    が、女はいくら論理で説明しても耳に入らない。自身の感情が優先するからで、いかに正論といえども「豚に真珠」である。いくら言っても分らない女を男は「バカ女」というし、論理で考えれば子どもでも分かりそうなことでも、女は感情を優先させるから理解できないと、それはもう長年女と対峙してきた結論だ。感情を論理で分からせることが土台無理なのだ。

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    「理屈っぽい男の人はきらい」という言葉が示すように、すぐに感情的になる女は男だって嫌い…といいたいが、それでは多くの女が嫌いということだから、そこを上手くやり込めるのが男の作法であろう。「女は感情的になる」という前提でいなければ、女のよさも分らないことになる。感情的な女をたしなめる方法はいろいろあるが、大事なのはムキになって口論しない事。

    ギャーギャー言っても冷静でいること。大したことは言ってないので、心に耳栓しておけばいい。ひと通り言わせて、「ナニ?何かいったか?」などといい、「人のいう事聞いてんの?」っていえば、「わるいな、もう1回いってくれんか、ちょっと他のことを考えてた」といえば、相手は二度は言わない。ようするに、感情的なギャーギャーは二度も言えるものでない。

    論理なら何度でもいえる。このように対処すれば、「もう、いい」とか、「しらない」とか、それがまあ、女の可愛さだし、女の感情的な部分を可愛さに変えられる男はある意味で達人だ。自分の父親が、ヒテステリーの母親に黙して取り合わなかったのは、今に思えば最善であったし、中高生頃は、「何でああまで言われて黙っているんだ?」と、父の弱気に腹も立った。

    若き頃の父は泣き叫ぶ母を紐で縛りあげて、柱にくくりつけていた。ウチには紐があちこちの引き出しに用意されていたし、そんな父もだんだんとヒステリー女に対する心得を身につけて行った。それともう一つ、シェパードなどの大型犬が、スピッツなどのキャンキャンうるさい小型犬に吠えまくられても、無視して相手にしない光景を何度もみた。カッコイイなと感じていた。

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    相手への最大のダメージは無視である。一緒になって言い合うのは、相手と同じレベルに自分を下げていることだ。何事も相手の上に位置し、俯瞰するくらいのゆとりが欲しい。常に論理で対処し、下劣な言い合い合戦はしない。「バカ、カバ、デベソ」と言われても論理外の攻めは用いない。腹黒い女はともかく、多くの女性が「私は自分のためにオシャレをしています」

    自己満足と言いたげだが、それも無意識領域の賜物。他人がいてこそ自己満足であろう。確かに誰もいない部屋で、ひとりオシャレをして楽しむナルシスト女性は存在する。そういう事もアリだが、外に出れば人の山だから、オシャレは唯一自己満足のためだけとは言い難い。ま、そのように言う人にアレコレ言う必要もない。知っているからこそ押し黙る。

    「言う者は知らず、知る者は言わず」、そういう事だ。「だからデート代は男が出す」などに説得力のある論理などない。そんなことを言うものではないし、男女の機微は心を主体とすべきだし、それを思いやりと言う。「いつもキレイに居てくれてありがとう」という気持ちを感じるなら、自発的な行為は芽生えるものだが、バカ女はアレコレと恩着せをする。

    恩を着せたり、独善的な言葉や、思いあがりな物の言い方をする人間は、後のことを考えたら避けた方がいい。なぜなら、こういう人間に対しては、自発的、主体的な気持ちは沸かないからであろう。黙っていれば沸くであろうことも、口にされると癒えてしまう。さて、これから勉強しようかと思っている矢先に、ゴタゴタ言われたらやる気が失せると同じこと。

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    自発的にやらなければ効果は半減する勉強だから、何も言わないでじっと見守る親であるべきだし、子どもが勉強しない事で自分自身がイライラするような母親は、すぐさま井戸の傍で水でもかぶった方がよい。といっても井戸はないが、とにかく頭を冷やすこと。誰のための勉強を、誰がするのかである。今日は表題を決めて書いている。が、気づいたらズレかかっている。

    昭和二十年代の旧人だが、半世紀以上も生きながらえているにせよ、じっと目を凝らし、耳を澄まして辺りを眺めれば、確実に時代は変貌している。まるで時間は生き物のように、絶えず、絶え間なく動いている。さりとて兼好法師の時代鎌倉時代の末期に兼好法師によって書かれた文面を現代語訳で眺めながら、時代は変われども人間の本質、感性は変わらぬものである。

    「手持ち無沙汰にやることもなく一日を過ごし、硯(すずり)に向かって心に浮かんでくる取りとめも無いことを、特に定まったこともなく書いていると、妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになるものだ。」時代は硯がパソコンになった。男は女を、女は男を求めて喘ぐ姿は言い知れず面白い。熱心な時期は客観的でないが、不要になるとその様がなんともほのめかしくも、面白い。

    下は昨日見つけた、今どきのカレボ掲示板の書き込み。カレボというのはネットから派生した現代用語で、いわずと知れた「彼氏募集」の短縮言葉。こんなことは数十年前にはなかった。新聞や雑誌のいわゆるペンパル、文通希望というのはあったが、自分はやった経験がない。どこの誰か分からぬ相手より、素性の分かるどこの誰兵衛の方が生々しさを感じる。

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    それにしても、①から⑧まで全て当てはまる人というのが女の欲というのか、知性のなさ(無知)というのか、こんなことを書いても、読んで手を上げる男が仮にいたとして、それを実感するのは一体誰なんだ?女の要求に対する答えは自己申告でしかなく、自己申告の正誤をどうやって見分けるというのだろう。「ハイ、こう要求しました」。「ハイ、私はそういう人間です」。

    なら、いかにもバカげている。相手への要求は内に秘め、交際中に自分が相手から掴み取る以外にない。口で言ったからそうだなど、あまりに幼稚である。大事なのは言葉ではない、中身の真実であろうが、こういう要望を書いていること自体、思慮が感じられない。全ては自身の人を見る目、それが養われているかないかだが、それがないからこのように書く。

    それでもって、実際に事実が違ってた場合、「ウソついたのね」、「わたしを騙したのね?」となる。相手を判断しようとの労力を惜しむとかもなく、努力もせず、要求の言葉だけを並べて、是か非かという考え方の短絡さを棚にあげ、「ウソをついた」、「騙した」などは幼児の世界観だ。騙されないのが大人なら、それに見合った素養を蓄えよと言っておく。

    いずれにしろ、⑧キスが上手い人、ってなに?そんなことをまともに取り上げ、記すという頭の中身の軽さ。その理由が、キスが上手いと声を出してしまってえ○ちが断れなくなるから…。小・中学生がいうなら可愛いが、31歳となると結婚はおママごとか。くまのプーさんがすきというだけあって幼稚だな。ケツにプーさんプリントのパンツはいてそうだ、この女性…。

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    その昔、女の可愛さとは、「主体性などまるでない、無害のバカ」と言った有名人がいた。この女性の性格を想像するに、いいようのないあどけなさ、幼稚さ、悪気のなさ、素直さが感じられる。そうでなければ、書けないような内容である。であるから、男に利用され、遊ばれてポイされるタイプでもある。こういう女性にはクソ真面目で、もてない男が相応しい。

    そういう男なら大事にしそう。可愛いとかバカだけで結婚相手を選ぶならお勧めできる。が、一般男なら、カワイイも束の間、気が回らない天然気質に嫌気が指し、暴力漬けにされる可能性もある。だから同等の知性レベル男に限る。少女的で可愛さのあるキスのくだりだが、「声がでて…」の記述からみて、本当はキスではないだろうが、書きにくいのでキスとしたのだろう。


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    彼氏が欲しい、彼女が欲しい…は、自然なことだ。そう思うことは自然であるけれども、問題はそのためにどうするか?である。世の中、男と女しかいないし、外に出るとまさに男と女がうようよいるし、出会いというのはきっかけを作って親密になることを言う。きっかけはいろいろあり、わざわざ書くこともないし、世の恋人同士や夫婦は何らかの形で出会ったわけだ。

    彼氏が欲しい、彼女が欲しい…といいつつ、なかなかゲットが難しいといい、恋人がいない男女は多い。「欲しい」というのは要望であって、願ったら叶うものでもない。願えば叶うって、おとぎ話の世界ならアリだが、やはり行動しなければ何事も起こらないし叶わない。大分前だが、『笑っていいとも』で、ゲストの萩本欽一とタモリが、こんな風に話していた(要約)。

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    タモリ :「よくさー、『やりたい事が無いの』っていう人いるのね?」

    欽ちゃん :「うん。わかる!いるよねーそういう若者…」

    タモリ :「僕なんて若い頃は何でもやったし、やらされた。嫌だと思った事でも絶対に断らずに何でもした。」

    欽ちゃん :「それが当たり前だよねー!」

    タモリ :「そうですよね?とにかく色々やっていくうちに、自分のしたい事、やりたい事がわかってくるんだから。」

    欽ちゃん :「そうそう!『やりたい事がないの』ってやつは、結局自分から何にもしない奴なんだよねー。」

    タモリ :「そうなんです『やりたい事がない』なんて、当たり前の話ですよね!自分から動かないんだから…」

    出会いがない人って、こういうことだろう。あるいは、出会いはあるけれども、自分がワガママであるとか、要望が強いとかで、続かない、すぐに終ってしまう。それでいて、また別の相手を探すという状態なら、フリー時期が多い。相手への要望が強い人間ほど自意識過剰とはよくいったもので、妥協しないのは構わないが、その前に自分がどれだけの人間であるか…

    出会って意気投合して付き合うのは当たり前に普通だが、それが大変なのか?難しいことなのか?とりあえず、相手のいい面だけを見て付き合って行くうちに、少々の欠点はお互い様だから許し、あげつらうことはしないが、ただ女として、人間として、どうしても譲れない部分の性格の持ち主に遭遇すると、「これはダメだな。続けない方がいい」となるし、それは仕方のない事だ。

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    「相性」がいいと言うのは、全面的に「いい」のではなく、妥協する部分を含めて「相性」であるから、欠点は受け入れるが、これだけは許せないというものはしっかりと持っていた。つまり、そこは妥協できない点、する必要性を感じない部分である。「これだけは許せない」というのは、誰にでもあるし、あっていいし、それこそが"牙城"というものだ。

    「これだけは許せない」というものを持っている方が、人選びにおいて失敗は少なくなるだろう。それくらいに「これは許せない」というものを自分は持っていた。それに該当するようなら、付き合いを止めるし、該当部分は遠慮なくいった。「悪いね。おれ、そういう性格ダメなんだ。好き、嫌い、気に入る、入らないは誰にでもある。相性悪いし、終わりにする。」

    ハッキリ言った方がいい。「別れ話はしにくいよ」という奴もいるが、無理して付き合う意味もないだろう。ハッキリいう方が互いのためと思えばいい、フるとかフられるとかの問題じゃない、合わないんだから。嫌な相手が職場の上司や同僚ではないんだし、そうであっても嫌な相手との距離感、付き合い方もある。彼女や恋人は別れれば二度と会うこともない。

    別れたい相手、別れようとした矢先に相手から、「お願い、別れないで」といわれることがある。人によっては「わたしを捨てないで」みたいな言い方をする女もいる。"すがる女を撥ねのけて去っていくのが男のカッコよさ"って、いつだか先輩に言われたことがある。"モテる男のカッコよさ"という意味ではなく、合わない自分より、もっと向いてる男がいるという優しさだ。

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    すがられて踏ん切りがつかないままに抱えて置くのは男のやる事じゃないよ。放してやるも、突き放すのも愛情なり。確かに別れは「情」の部分で難しいが、ダメと思った相手なら毅然とするほうが互いによい。泣いてお願いされたからと置いておくのは、自分に無理をすることにもなるし、そういうストレスは相手にもよくない。男はぐずぐずしないでハッキリすべき。

    「いま恋愛したくない」って思ったらセーブかけられる。付き合う付き合わない自由、話したい、話したくない自由もあるわけで、だから女が、「捨てられた」というのは自己中心的な言い草だ。男でもそういう言葉をいう奴がいる。彼女から、「別れよう」、「終わりにしよう」といわれ、泣いて土下座されたという話も何度か聞いた。「ビックリした」と女は言う。

    普段は、偉そうにカッコつけている男が、別れ話を女側から切り出された途端、態度が一変すればそりゃあ女も驚くだろう。「男の芯の弱さを始めて知った」と、女がいうようにこの手の男はいる。攻めには強いが守勢に回るともろいということだろうが、「据え膳食わぬは男の恥」という男子の金言があるではないか。これは男の「こらえ性」を言ったもの。

    今は死語であろう「据え膳」とは、すぐに食べられるよう仕度が整えられた食膳のこと。それが講じて、「食べて下さい」と女から言われているのに、手をつけないのは男の恥との意味。主に女性からもちかけられた情事をいうが、別れ話とて同じ。「別れて!」というなら、さっさと別れてやるのが男の潔さだが、昨今は別れたいのに別れてくれないとこぼす女が多い。

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    もっとヒドイのは、別れをいったら殴るられる、蹴られるという。暴れられるのが怖くて言い出せないという女はたくさんいた。なんでこうなる?おそらく、男に余裕も自信もないからだろう。そういう風に弱ったれに育てられたのだ。暴力で脅してまで、女を手許に置いておきたいような男は、屁タレを越えた糞野郎。男の成りをしてはいるが、中身は腐っている。

    かつてダメ男を、「女の腐ったような男」と表現したが、今はこんなことは言わない。ダメ女を、「男の腐ったような女」と言えばいいし、ダメ男にも、「女の腐った」は失礼千万であろうし、こちらも、「男の腐ったような男」の方がいい。女が強くなったというより、男のダメさを切実に感じている。全ては親父が息子に後ろ姿を見せず、「お勉強、お勉強」のママの仕業か…。

    正確には分らないが、男がどんどんダメになっているのは間違いない。おそらく『光GENJI』だったと記憶するが、すね毛、わき毛を剃る男の子たちの元祖であったろう。それを聞いたときは唖然としたものだ。『光GENJI』とは、1980年代に熱狂的な人気を呼んだジャニーズ事務所のアイドルグループ。諸星と大沢くらいしか名は知らないが、大沢は時の人である。

    大沢とは大沢樹生で、彼と前妻の女優・喜多嶋舞と間の長男の実子騒動があったばかり。これについて大沢は騙された憐れな男、喜多嶋はヒドイ女という一元的な見方だけでなく、いろいろな思考が可能である。大沢自身は彼の思う選択をしたように、全ては彼の問題だ。他人がアレコレ言う前に、自分が当事者なら何をどうしたかを考えればいいこと。それが答え。

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    他人の選択が自分と異なるから批判は生まれるが、他人の選択は他人がする。喜多嶋も大沢を騙したヒドイ女との言い方をされるが、あのようなヤリマンの女狐を選んだ大沢の責任は?自分の子でないのを知らず、デキ婚で押し付けられた恰好だが、「それは本当にオレの子か?」と聞いても何ら差し支えないヤリマンであったし、疑わなかった罪もある。

    まあ、清楚な女で男の影もないならともかく、大沢が全面被害者とは思っていない。結局、言っていくところのない問題を大沢は数十年を経てやったことになる。ダメ女を選んだ責任を大沢自身、感じているであろう。物事を簡単に恣意的に判断する人が多いが、掘り下げて思考することで別の結論が出る。正しい、正しくないとは別に、広く考える方が面白い。

    実際問題、喜多嶋とて複数の男と関係していたなら、誰の子であるかを彼女自身が断定できたかは微妙。行為状況を回想したり、逆算したりと、特定を試みたろうが、複数男と回数を重ねていては、精子の特定は土台無理。人の子を押し付けられた恰好の大沢は、若さゆえの運の悪さもあるが、自分の子と信じたその事を誰の罪とするかは、彼が考えること。

    前回の記事に続いて、カレボ欄からの書き込みだが、書きも書いたりである。結婚相手には慎重であるべきだが、文字は文字、言葉は言葉、実際の行動から判断する以外に、正確なものは何ひとつ得られないであろう。「百聞は一見にしかず」だが、一見も行動からすれば「しかず」である。己の目でしかと見、己が心でしかと感じる以外にない。

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    股下数cmの女子高生のミニスカートは、外国人に不可解であるらしい。彼らはマナーもあってか露骨な失笑はしないが、あるフランス人女性が、「なぜ日本の女子高生は、太い足をあんなにさらせるの?」と、素朴な疑問を呈した。「アホ丸出し」は御幣もあるので、「アシ丸出し」と言っておくが、彼女らには何を言っても、「ウチの勝手でしょ!」である。

    「自分は男性です。」
    「スカートの中を覗くと犯罪(迷惑防止条例)といわれていますが、それに納得しにくい部分があります。覗かれたくないなら覗かれないなりの格好をすれば良いと思うし、そもそも男性を刺激してるわけですよね。 自分は外を歩いていて扇情的な格好をしているギャルなどを見ると目を背けてしまいます。とてもうざく感じています。

    こういった人たちのスカート内を見た人間は、迷惑防止条例違反になるわけですが、自分から言わせたら扇情的な格好をしている女性自体迷惑です。これって迷惑防止条例違反として訴えられませんかね?エスカレーターや階段、前に女子高生などミニスカ履いた人がいると大変迷惑しています。覗いたとみなされたら違反になるし、ほんと迷惑です。」

    というネットの投稿である。性別は分かるとして、"扇情的"などの文面から年齢は中年と想像できる。それにしても、お堅い、真面目なお人だ。女性のミニスカートに異を唱えている訳だが、そうした気弱な男は少なくない。意識的に見たわけでもない、なのに犯罪に絡まれたくないという心配のようで、こういう取り越し苦労をする人たちに一言いっておこう。

    例えば電車内でミニスカート女子高生と体面する場合、Ⅴゾーンからワザと目をそらしたりすることを自分はしない。視線がそこに行こうが関係ない。罪悪感もない。なぜなら、その高校生がミニでない場合、あるいはパンツである場合、どこそこに視線を置こうと相手は意識しないが、ミニを履いているからと自意識過剰なバカに遠慮しない。

    もし、「あなた、覗いたでしょう?」と因縁をつけられたらどうするか?「覗いただと?見えてるんだよ、勘違いするなボケ!」と言うだろう。さらに相手が悪態をついたり、言葉悪く罵った場合、「お前はな、パンツがどうこうより、その面を隠した方がいいんじゃないか?袋でもかぶって!」くらい言うかもしれん。自分に因縁をつけた罰だ。

    人間の首の構造から言っても、対座する相手のⅤゾーンに視線を置くのがもっとも自然で楽な角度である。そのことを何で遠慮しなければならない?気を使わねばならない?相手が自分に気を使わせるなどと思う必要は全然ない。が、気の弱い男は「目のやり場に困る」などという。自然にしていて犯罪だといわれるなら、堂々自己の主張をすべき。

    こういうバカを怒らせて、公安に言ってもらった方が、相手のバカ発言を指摘できるチャンスでもある。それが、上記した言い分(論理)であり、これに異を唱える言葉があるなど想像できない。道理であり、正論であろう。迷惑を撒き散らしておきながら、その迷惑から派生した事で言いがかりをつけるなどは、まさにヤクザ的手法であろう。

    自分はそこまで主張する。そんなことで、理解するとか、懲りるとかの女子高生なら真にバカではないが、おそらく通じないだろうし、そこは問題ではない。第三者が納得すればそれでいいことだ。「覗くと見える」の違いを混同し、少女の言い分を間に受けて善意な乗客を罪に陥れないよう、その辺も言っておきたい。だから、そういう場はあった方がいい。

    世の中、人間はいろいろだから、自分のやっていることや主張が正しいと信じる人は多い。それで何かを言われた側も、自分が正しいと言い返すが、売り言葉に買い言葉では、正しい範疇とはならない。何が正しいかは、冷静に理性的にキチンと判断していうべきであろう。このブログにも、異論や意見がたまに来るが、正しいものも、バカな意見もある。

    それらは、その人の人間を現している訳だから、正しいと感じる意見は称え、おバカな意見は諭すのが賢明だ。面倒臭がって、無視したり、詰ったり、見下したりは自分の人間性を表すことになる。何度言ってもしつこく絡む相手には、いつまでも関わっていられないので通告はするが、キチンとした意見を返す相手に対しては誠実に対応すべきと思っている。

    意見とは言えないような、誹謗や中傷の類には最初から無視する。自分の考えに対する異論や反論も人と人との縁であろう。諭す必要を感じる意見もあり、善意な対応を心掛けるが、「上から目線」と制止するならそれで終り。そもそも「上から目線」なる言葉は、過去に数度批判記事を書いているように、こんな弱ったれの被害意識丸出し言葉を自分は認めない。

    上でも下でも中(対等)でも、意見ならどうであれ何であれ気にはしないが、こちらが口を開いたらすぐに、「上から目線だ!」という被害者意識を持つ現代の若者に共通する脆弱さを見る。我々が若かった時代、「上から目線」なる言葉は存在しなかった。何を言われても立ち向かうよりなかったし、自分の意見を持つことが、相手は誰であれ闘う術だった。

    「上から目線ですね」と若者に言われて怯む大人はだらしがない。「上から目線」を怖れたり、気を使うのは、嫌われたくない気もちが背景に見える。そもそも、「上から目線」などの言葉を持ち出すことで防御を見せる若者はヘタレである。虚無の世代、傷つきやすい世代の蔓延から生まれてきた言葉であろう。自分らの若者時代にこんな言葉はなかった。

    「上から目線」などの気はなくとも、年齢的に「上から目線」とわれる側にあるが、女性から言われれば面倒くさいので以後の会話を止める。男なら「そんなバカな言葉使うな!」などと言ったり、諭したりすることもある。対話とはそうしたものだ。意見や考えに上下もヘチマもない。こういう言葉が生まれた背景は、いかに若者が甘やかされてきたか。


    甘やかされてきた人間は、自分が傷つくことを極度に怖れる。というのも、傷ついた事がないほどに周囲や親から甘やかされてきたのだろう。辛口を指摘する人間は友人として認識せず、排除する。自分にとって心地いい人間を友人として迎えるのだろう。互いが傷つかない、傷を舐めあう関係とは、「お前の悪口はいわない、だからオレの悪口をいうな」

    そうした虚無的な同盟を結びあう。何と言おうか、人間関係が姑息である。おそらく、そうした術を大人から学び取ったのではないか。近年の大人は、昔のような大胆な、個性的な、ヒトくせもふたクセもあるような、魅力的な大人でないのだろう。お行儀よく、失敗を怖がり、変に小さくまとまっている。それを姑息と判断するのが我々世代である。

    「姑息」を巷では、ケチや卑怯、ズルイとの意味で使われたり、言われることが多いが、その使い方は正しくない。姑息の「姑」はしばらく、「息」は休息の意味で、「しばらくの間、息をついて休む」が嵩じて、「その場しのぎ」という意味になった。つまり、深い考えで全体や先を見通さない、その場しのぎという事。展望や信念のなさがこういう生き方を生んだ。

    「その場さえなんとか逃れればいい」というのは、考えただけでゾッとする。後はどうなりと構わないから、今の現状をどうするか、を展望とはいわない。こんなことばかりしていたら、人間どうなってしまうのだろうか?「その場限りの生き方」に殉じる人間はいるにはいた。見習うべくは何ひとつない人間であったし、むしろ批判の対象である。

    「今さえよければ」は、自分さえ良ければに繋がる。物事を根本的に解決しようとはせず、一時の間に合わせ、つまりその場主義が、男として許されるはずがない。かならずボロが出るに決まっている。そこを考えると、こんな人間にはなりたくないと感じていた。あとあとボロがでるなんて嫌だろうが、ボロがでたなら出たで、またその場しのぎ?

    いかにも「その場しのぎの人生」である。女子高生に、「スカートの中を覗いたでしょう?」と煽られ、「覗いてませんよ」、「キョロキョロとしながら、時々覗いてるの知ってたんだからね」、「してません」、「してた」、「してません」と、何でこんな問答しかいえないんだ?ガキの絡みじゃあるまいし、「したでしょ」、「してません」の繰り返し。

    これをその場しのぎと言う。根本的解決などあったものではない。上に記したように、論理的で落ち着いた主張が、相手の言いがかりを粉砕するような、そんな堂々とした生き方をすべきであろう。「やった」、「やらない」は子どもの喧嘩だ。大人というのは、読んで字の如しで「大きな人」。物事の根本解決は、子どもにはできない「生」の証しであろう。

    女子高生のミニスカ如きでうろたえ、「これって迷惑防止条例違反として訴えられませんかね?」などとほざいているが、すぐに法に頼るとか、そんなくだらないことしか浮かばないのか?想像力の貧困さ丸出しだ。なぜにもっと思考しない?「生きてるうちに頭は使え」ってのは誰でも知っているように、学問と違って答えのない問題を出すのが人生かと。


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    「適当にやってます」とか、「適当にやらないように、もっと真剣に!」などと、「適当」にあまりよい意味はないが、「適当」の漢字自体は悪い意味でない。「適当」の意味は、①上手く当てはまる、②ほど良い、③いい加減の3つがあるが、上の「適当」は③であろう。というように、「適当」の漢字の、「適」は、「かなう」という意味で、字源は、「目的・中心とするところに寄る・進む」というもの。

    それらから、「目的が敵う・目的となるところへ行く」などの意味になった。「当」は「あたる・あてはまる」という意味の漢字。字源は、「田間で行う神への祈りの儀礼」という漢字。その儀礼は時期に応じて行うものであることから、「当の時期だ」と、「物事があてはまる」という意味となったようだ。よって、「敵」と「当」の二つの字を合わせると、「物事があてはまり、かなっている」という意味となる。

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    したがって、①上手く当てはまる、②ほど良いとの意味は文字に相応しい意味だが、ではなぜ③の「いい加減」として使われるようになったのか。どうもこの意味で使うことがほとんどのようだし、誤使用という風にも思えない。その辺りを考えてみたいが、「いい加減」の「加減」は、「加える・減らす」であるから、「程度や具合」という意味になり、「いい」=「良い」を加えて、「良い程度」という意味となる。

    ところが「良い加減」というのは、例えばお風呂を沸かしてる親が子どもに「良い加減になっているか見て来て!」などというように、良い加減というのは明確な物差しではない。もし、子どもが「うん、とっても良い加減だよ~」といって、火を消した親が自分で確かめたらぬるかった。「どうしてこれが良い加減なの?」となる。つまり、「良い加減」とはあてにならないことから、そういう使われ方となった。

    「適当」も「良い加減」と同様に曖昧さを持つ言葉であり、この二つが「適当」=「いい加減」と同じ意味になったのであろう。あるブロガーが「適当にやってます」と自己紹介に書いていた。自分は、抜目なくちゃんとやってますよ」という風には受け取らなかった。自分も、適当=いい加減という意味に取っている。おそらくほとんどの人間がそのように取っているだろう。自分はブログをいい加減にやっていない。

    正しい意味の「適当」にやっている。ブログに限らず物事をいい加減にやる事がどういう事かよく分かっていない。手をぬくこと、暇つぶし、大雑把などが、いい加減の意味であろうが、おそらくそういう事で何かをやることはない。これは性格上の問題である。だから、「しない」ではなく「できない」と言った方が正しい。言い方を変えると「根を詰める」という。ところが、本人はちっとも「根を詰めて」はいない。

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    普通にやっている。だから「根を詰める」という事がどういうことなのかよく分らない。他人はよく自分に言った。「そんな、根を詰めてやると疲れないか?」。自分が普通にやっていることを他人は「根を詰めて」というが、だから返答の仕様がない。当初は「普通なんだけど」と言ったが、どうも受け入れられない。面倒くさいから、相手の配慮に合わせて根を詰めてやっているように返答をするようにした。

    どうしたところで相手には根を詰めている状況なわけだし、「まあ、適度にやるよ」などと返す。「適度」も「適当」も本来の意味としては、「ほど良い」との同じ意味である。が、「適当にやるよ」とは返せなかった。なぜなら「適当」は「いい加減」の意味だから、「根詰めて大丈夫?」と聞かれて、「適当にやるよ」ではいい加減にやらなければならなくなる。だから、「適度にやるよ」ならいい加減とはならない。

    「適度の運動が体にいい」、「適度な飲酒は体にいい」などの「適度」という言葉は、「適当」と同じ意味でも、「いい加減」という意味に汚染されていない。そこは、「適度」と「適当」の使い訳の妙である。「適度」は「ほど良い」意味しかないが、今や「適当」は100%「いい加減」の意味になってしまった。「いい加減」という辞書は自分にない。いい加減にやりたいとも思わない。いい加減にやったという反省もない。

    なぜなら、「いい加減」という言葉も行動も自分にはないのだから。少し手を抜いてやることは本当にないのか?手を抜けない性分なのだろう。長男が子どものころ将棋を教えた。将棋の面白さを分からせるために手を抜かなければいけないと思いつつも、手を抜くことができなくてよく後悔した。なぜ、できないのか?やったことがないから慣れてないのだ。やろうと思いつつ、どうしても真剣になる。

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    だから、最初は王様一枚で始めた。そうして段々と落す駒を少なくしていく。以前、孫が将棋を知っているというので、やってみたら駒の動かし方を知っているというレベルだった。二回目にやったときは、王様と歩三枚で圧勝し、孫はもう「将棋をしよう」といわなくなった。どうしてもっと適当に遊んでやらなかったのかと後悔した。が、やってつまらないこと、実りのない事はやれない性格である。

    真剣になれないことを「実りのなき事」と捉えている。だからか、何でも真剣にやって、実りとするようだ。恋愛もそうであった。いい加減な恋愛とか、いい加減な男女の関係とかがどういうものか良く分らない。それでは、なぜ多くの女性と関係したか?「いい加減だったからではないのか?」と、問われたことがある。自分にも何度か問うたりもした。でた答えは、「飽きるまでは真剣だ」である。

    「飽きるまで真剣というのは、いい加減な恋だからでしょう?」と決め付けた女がいた。決め付けられようが、どうであろうが、自分のことは他人に関係ない。責められるいわれもない。飽きられるおそれがあるから、この人とは恋愛はしないと見越すならそれで結構。最初から自己保身の恋愛が恋愛か?恋愛に限らず人間は何事にも飽きる。好きな洋服、好きな食べ物、好きな音楽に飽きる。

    飽きるがの悪いと誰が言う?たとえ誰かが言っても、それが罪か?罪であるというならどういう罪なのか?何事も飽きないと正面きって言えるのか?人間は飽きるし、飽きなければ人間でない。2006年10月6日に始めたブログは、2015年の同日で9年となる。普段はしない回想だが、してみると驚きである。「へ~、もう9年になるのか?」などと。何に驚くかは、9歳年を取った、その事の意識であろう。

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    過去は振り返れるが、明日はどうなるのか分らないのが人間である。猿も犬も牛もそうだが、彼らはおそらくそういう事を考えない。人間だけが過去と現在と未来を持っている複雑な生き物だ。犬や猿は今だけを生きている。それはそれで純粋であろう。人間は奇々怪々だ。過去に悔い、未来に託さんとする。その狭間として今がある。過去の記憶も、未来の希望も、ない方が幸せなのだろうか?

    考えはすれど、そんなことは不可能だ。それにしても、「いい加減」はしないについて言えば、これは性格といったが「慣れ」であろう。他人がどのような適当=いい加減をしているかは、分らないが、「いい加減な仕事をやるんじゃないよ」と注意したことはある。そのとき他人は、いい加減であったのか、本人はそうではないが自分にはいい加減にみえたのか、そこは分らない。上司とは結果で判断する。

    だから、「一生懸命にやったのに、いい加減だと怒られた」などと言うのであろう。自分もその経験はある。一生懸命にやったのにいい加減な仕事するんじゃないよと。これは経験の差であり、求められた結果が敵わないときも、「ちゃんとやれよ!」といわれる。結果がでなければちゃんとやらなかったことになる。経営者というのは概ね「成果主義」が大好きである。

    会社が仕事をするところである以上、それは仕方のないことだ。個人的にあいつは話して楽しい奴だが営業成績はドンケツという人間を好む経営者もいるだろう。零細企業と中小企業、大企業とでは求めるものが主観的か客観的かとなる。聞こえはいいが自分は全力投球で何かをするが、そのやり方が好きだった。一心不乱に何かをするのが楽しく、それが結果や出来ばえに現れる。

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    全力で当たっても結果的にはダメなこともある。結果は重要なのか?結果は重要だ。そのために頑張るわけだし。同じことをやっても他人は出来て、自分は出来ない。それなら腐るだろうし、これをどうみればいい?問題は比較するからいけない。他人は他人、自分は自分、自分が出来なかったことを他人が出来ても、自分には関係ないじゃないか。なぜ比較する?

    同じように、他人ができないことを自分が出来たも同様に比較するのか?比較して優越感に浸りたいのか?つまらん事はするな。自分が出来たらいいし、できなければ自分の能力の問題だ。他人の出来、不出来も、他人の能力の問題だ。人は個々で能力が違うのに、能力を比較して一喜一憂するのは止めれ。自身の問題は自身で突きつめろ、自身で諦めろ。

    問題は、その事に自分が一生懸命に取り組んだかどうかである。自分の能力の範囲で全力でやったかを問えばいい。5の能力しかない人が5を出せばいい、10の能力を持つ人が10の能力を出すなら、自己の能力を100%出している点において2人は対等である。1億円持っている人も100万円しかない人もいる。他人が1億円をどう使うなど関係ない。自分は100万円をどうするかだ。

    「金持ちだからと褒めてはならない。彼がその金をどう使うかを見るまでは…」という有名な諺がある。香港の富豪が7歳の娘に59億円のダイヤモンドを落札して話題になった。人が自分の金で何を買おうが非難することはないが、賛美することではない。こういう金の使途は上の諺でいう、「褒めてはならない」でいいが、したい人は自分の意思でし、他人の意思は関係ない。

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    庶民には計り知れない金額の宝石である。7歳の娘が成長したら、「パパからのプレゼント」とするのだろうが、どれほど金を積めども世の中には買えないものがあるということを、愛する子供に伝える方がよっぽど大切ではないかと。息子三人を「灘⇒理Ⅲ」にやったという母親の息子自慢に、経済専門誌「東洋経済新報社」が批判記事をとりあげた。興味深いので再考する。


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    「灘高⇒理Ⅲ」三兄弟が話題の母親の語録から抜粋。「家事の習得はいつでもできますが、勉強は頭の柔らかいうちのほうがより多く吸収できます。だから勉強する時間のほうを優先させてきました」。「灘中の算数はスピードが要求されます。三男は筆圧が強く、書くスピードが遅かった。消しゴムで消した文字跡がケアレスミスを誘発してもいた。筆圧を矯正して、成績を上げました」。

    「子育ても仕事と一緒で、結果が大事。中途半端な感情をはさんではダメなんです。私の使命は、無事に試験会場に送り届けること。安倍総理のSPと一緒です。総理の車が自宅前に到着したあと、SPは玄関までの数メートルをひとりで歩かせますか?そこで事故にあったら?それと同じです」。その他にもたくさんあり、興味ある方は母親の著書を読むか、ネットで検索すればでてくる。

    勉強部屋はつくらずリビングに4人分の勉強机を並べて勉強させた。高2の長女(17)も現在、東大理Ⅲを目指して勉強中。四人とも上記の理由で、家の手伝いも学校の準備も一切させなかった。などなど特異な価値観を披露するためか、『灘→東大理III」の3兄弟を育てた母の秀才の育て方』(2004年12月)& 『受験は母親が9割 灘→東大理Ⅲに3兄弟が合格! 』(2015年7月)の著書がある。

    amazonのブックレビューに批判は多いが、本人はなんとも感じてないだろう。自分もこういう子育てに批判的なのは、ルソーの『エミール』にある、"子どもは自然からの贈り物"の考えに傾倒しているからだ。母親は、「子育ても仕事と一緒で、結果が大事」。といっているが、これを「子育て」というかは疑問。彼女は、灘⇒東大入学を子育てといい、その結果が大事と言っているだけ。

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    昨今の風潮として、高学歴=子育て成功、に合致している。人為的に仕込まれた子どもは、どこかに歪みはあると感じる。この母親に対する多くの批判は分かるけれども、批判の真髄というのは、「自分ならああはしない」であろう。ブックレビューや幾多の批判に対して、この母親が耳を貸したり、同意したり、納得することはおそらくない。なぜって、母親は子育てに成功したと思っている。

    だから、他人が何を言っても無駄くらいは分かりそうなものだが、他人の家庭をああまで醜く批判し、あるいは非難するのはある種の思いあがりだし、余計なお世話である。自分はあんな親にはならんぞ!」と、それが批判では?マネをしなければいいだけでほっとけばいいのだが、つい言いたくもなろう。最近、批判は何のためにすべきかが分かってきた。

    母親の怯まない態度は当然だ。彼女は己が信ずることをやり、その結果を実らせた。このまま何事もなく行くのか、どこかに誤謬が見つかるか、後者の場合において、「マズかった」と母親が感じるかどうか?同様の例で、バイオリニストの五嶋みどりの母親がいる。彼女は失敗など言わない。母親が灘に入れて東大理Ⅲを目指して頑張らせた目的は、おそらく母親の思う幸せの価値観だ。

    そういう価値観に至った理由は不明。ただ、医師は社会的地位の高く、高額所得者である以外に、人を救える職種を望んだというなら、ああまで躍起になるまい。あそこまでせずとも進学校も医大もたくさんあり、灘⇒東大理Ⅲが素晴らしい医師になれるという保証はない。思うにこの母は、目先の一番を目指したかった、という動機と考えるのが自然というもの。

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    東洋経済のコラムではこのように述べている。「子育てに正解がないということは、不正解もないということである。子供は親の思いどおりには育たないが、それなりのものには育つ。親がよほど余計なことをしなければ。私はそう思う」。この文面から、この母親がマチガイとは言い切れないと読め、実際にそうであろう。仮に間違ったとしても佐藤家の母子の問題であり、他人には関係ない。

    また、子育ての理想も述べている。「たとえばA地点からB地点まで歩くとき、最短ルートを行きたいと思う人もいれば、きれいな景色を見ながら行きたいと思う人もいる。安全な道を行きたいと思う人もいるだろう。本当は時間を手に入れようと思っていたのに、道を間違えたからこそ感動を手に入れられたということもある。子育ても同じ。今の子供たちは予測困難な時代を生き抜かなければならない。

    むしろどんな回り道も糧にできる力こそ、これからの世の中を生きて行くには必要ではないだろうか。その意味では、『最短距離』を歩ませることは決して子育ての「王道」ではない。また、子供にそういう力をつけさせたければ、まず親がそういう気持ちで生きて行かなければならない」。これはコラムの主が、"ビジネスの原理が教育を汚染しているのではないか"と指摘し、憂慮している点である。

    「東洋経済」だけあって、ビジネスの原理が教育を汚染するとはどういうことか?筆者はこのように関連づけている。「ビジネスとは、お互いにとって価値あるものを即時的に等価交換する仕組みである。前述のように、本来教育によってもたらされる価値は予言できず、教育にビジネスの原理はあてはめられない。にもかかわらず、無理やり教育にビジネスの原理を当てはめるとどうなるか。

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    教育に、予言できる成果を求めるようになる。筆者は、「教育の成果は予言できない」とし、以下説明する。「そもそも教育によって得られる成果は人によって違う。ある人は勉強して身に着けた知識と技能を利用して、画期的な発明を成し遂げ、大金持ちになるかもしれない。ある人は勉強して身に着けた教養とコミュニケーション能力で、たくさんの仲間をつくり社会を変革するかもしれない。

    またある人は数学の世界にのめりこみ、寝食忘れて数式の美しさに没頭するかもしれない。さらにその成果は、教育を受けたその瞬間に表れる場合もあるし、数十年後に表れることもある。それこそ、人の数だけ勉強の意味がある。つまり、その子供が勉強して何を得るかを、予言することはできない。勉強の価値はやってみなければわからない。教育とは本来、「こうすればこうなる!」と効果をうたえない類のもの。」

    なるほど…。「急がば回れ」で、回り道の中にこそ人生のエキスが散在するという点においては自分と同じ考えだ。おしなべて、親は我が子を特急列車に乗せたがる。終点まで切符を買って乗った以上、途中下車は許されないが、強引に途中下車する子こそが、その子にとって大きな意味を持つと以前に書いた。親の敷いたレールから踏み外すことで、真の自己を手に入れた人は多い。

    親の意図する幸福という特急列車に乗せられても、下車する勇気を持てと奨励した。現代の進学校には、ハッキリと教育の成果が見込まれている幻想がある。それが偏差値という教育の数値化であり、それによって子供の人間性まで数値化されている。この子の偏差値40、あの人は60、だったら60の人が上。社会に生きて思うのは、それが如何にバカげているかだが、妄信する親は多い。

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    であるがゆえに、「灘⇒東大理Ⅲ」三兄弟の母親を「すごい」と思う保護者の羨望である。コラムの筆者が、「子どもの進学を親の手柄にするオカシな風潮」というように、周囲の羨望の眼差しをも批判している。単に一家庭の自己満足に過ぎないハズで、本当に子どものために労力を惜しまないなら、なぜ子どもの自慢話が必要?黙っていればいいのでは?それを感じるのが松山英樹の父。

    灘に入ったのは東大に入るための能力を得るためで、東大出の医師は、他のどの大学出の医師よりも優秀という幻想もある。が、目指して悪いわけではない。医師の本当の能力とは自らが研鑽を積んで得るもので、受験の勝利とはわけが違う。能力は大切だが、その能力を何に使うかも問題だ。揃いも揃って三人が、妹も理Ⅲを目指すという、全員が医師になりたい不思議な家族ではあるが…

    これまでも、これからも粛々と行われるであろう、一流大学から一流企業という図式で、仮にそこで要人となったとして、その目的が自身や親のプライドや欲望を満足させたり、高収入を得てよい生活を目論んだり、その程度の動機を責めるつもりはないが、真に社会に役に立つ人は、たとえ十分な教育は受けていなくとも、お金持ちでなくとも、様々な形で社会的に貢献する立派な人はいる。

    親の期待に応えるために、自身を殺して何かを得ることがよいとは思わないが、そう暗示させられた子も少なくない。本当に素晴らしい親とは、子どもが自発的になりたい何かを、陰でサポートする親である。「親の干渉や期待がなかったのが良かったと思います」。と言った将棋の羽生善治名人。テストや受験勉強のスケジュール管理から何から何まで、あれは自己満足の要素を感じる。

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    親の自己満足は、子を煽動する危険さがある。「子育ては私が100%やってきました。主人は塾や駅への送り迎えをしていたので、0%と言ってしまうのは申し訳ないのですが、普段あまりかかわっていない主人が成績や勉強方法に口を出すと、子どもは反発するだけです。夫婦間で子育ての責任を押し付け合うことにもなりかねないので、『私が100%』としておくほうがやりやすかったです。

    支えあう家族にあって、こういう独善的な言葉は本心でも吐くべきでない。どれほど頑張ったにしろ、夫の収入が拠り所であったのだし、なのに自己評価ば過ぎる。お金を稼ぐ父親が30%、母親の頑張りが30%、息子たちの力が40%というのが妥当であろう。手柄を独り占めにして悦に入ってるところから逆算しても、この母親はただの受験亡者で人の魅力を感じない。

    「凄い」と共感する親ばかりではないのよ。他人の家庭の幸福に口出しは無用だが、母親が黙っておけばいい自らと子どもを含めた自慢話を、世間に伝えたくてならなかった。なんにも立派なことではないし、むしろマネなどすべきでないという批判はあったほうがいい。なぜなら、子どもはそれぞれ違うし、なのにのぼせた親の被害者になり兼ねない。

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  • 11/27/15--16:34: 宮島越え

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    「○○越え」でぱっと頭に浮かぶは、「鵯(ひよどり)越え」、「天城越え」、「(家康)の伊賀越え」くらい。これ以外にもあろうが、とりあえず上記の解説。「鵯越え」は、「鵯越えの逆落とし」ともいい、源氏と平家が戦った一の谷の合戦で源義経の活躍話。急降下するヒヨドリくらいしか通れない難所の屏風を立てたような急坂で、ひよどりの名がついた断崖絶壁を義経が馬で駆け下り、奇襲に成功した。

    奇襲とはいえ、よくもそのようなところを馬で駆け下りる決断をしたものだが、これは義経のある考え(発想)によって生まれた。この難所のことを道案内に尋ねたとき、案内はこう言った。「そこはもう急勾配の絶壁で、たまに鹿は通りやすが、人や馬の通れるところではありません」。それを聞いた義経、「まてよ、鹿は四足、馬も四足…、鹿が通れて馬が通れぬわけはない」。

    馬と鹿の「ちがい」より、「同じ」部分を発見した義経は、柔らかい頭の持ち主であった。「天城越え」とは、石川さゆりにも歌われている静岡県伊豆市と賀茂郡河津町の境にある天城峠を越える旅路のことをいう。 伊豆半島の内陸と半島南部の間には天城山の峰々があり、これを越えるのは下田街道の最大の難所であったが、1904年(明治37年)に天城トンネルが開通した。

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    次に、「伊賀越え」とは、天正10年6月2日の本能寺の変に際し、徳川家康が明智光秀の軍や混乱に乗じた落ち武者狩りなどとの遭遇を回避するために、堺見物後の滞在先であった河内国四條畷からわずかの供回りを連れ、山城国宇治田原、近江国甲賀の小川城に辿り着いた。さらには伊賀国の険しい山道と海路で領国の三河国大浜(愛知県碧南市)へ戻り、岡崎城へ帰還した。

    家康生涯の最大の危機といわれるのがこの「伊賀越え」であった。大久保彦左衛門尉忠教による『三河物語』では、家康の岡崎着は6月4日とあり、6月2日の本能寺の変から初めて歩く山道を堺から岡崎に戻っている。200kmを超える道のりを一揆と何度も戦いながら、命からがら逃げて帰ったにしてはあまりの早さだが、江戸幕府の公式記録『徳川実紀』にはこう書かれている。

    「七日に岡崎へかへらせ給ひ。主從はじめて安堵の思をなす」。本能寺の変に乗じた明智軍による落ち武者狩りの遭遇を回避するために正規のルートを避け、伊賀越えの難所を辿った。京都の豪商茶屋四郎次郎の早馬によって急を知らされた家康は、茶屋四郎次郎の物心ともに支援を受け無地脱出したといわれる。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる。

    大浜に到着した家康を迎えた松平家忠は、一行が雑兵二百人ほどを討ち取ったという話を日記に記している。当時、家康に随行していた供廻は、酒井忠次、石川数正、本多忠勝、井伊直政、榊原康政、本多正盛、服部(半蔵)正成、高木広正、大久保忠隣ら徳川四天王を交えた重鎮34名からしてさもありなん。信長急死の報に一度は取り乱した家康は、本多忠勝に自刃を諌められたという。

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    物騒な時代はいにしえのこと。昨日のウォーキングは「宮島越え」である。JR宮島口駅の一つ先の前空駅までの往復路だが、途中復路は6月にopenした「ゆめタウン廿日市店」に寄り、そこから廿日市大橋のある海浜ルートを利用した。日本三景で知られる安芸の宮島だが、正式には厳島(いつくしま)という。宮島というのは町の名前、厳島は島の名前。地元民はこぞって宮島という。

    宮島の地名の由来は、「厳島神社(宮)のある島」から来ている。題名は忘れたが、松本清張の小説の中に、「こちらから対岸を見ると、瀬戸内海はまるで広い川のように見えた」という文章がある。50年前に読んだ小説だが、いい文なので頭から離れない。確かに宮島を対岸から見ると、近く、大きく、島というより海が広い川のようだ。清張はここに立ったのではないか?

    中国の黄河の河口幅は17~18km、揚子江はなんと40kmもある。さらにアマゾン川は、の雨季の河口最大幅はな、な、なんと400kmというからぶったまげる。本州の廿日市町から宮島は、近距離で約500m、もっとも長いところで約2.5kmくらい。フェリーだとわずか10分ばかりで着く。厳島神社は海を敷地とした大胆で独創的な配置構成で、平安時代の寝殿造りの粋を極めた建築美をただよわせる。

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    世界文化遺産にも指定された日本屈指の名社ともあれば、全国からの観光客も多く、バックパッカーの外国人観光客にとっても人気のある日本の名所・旧跡のひとつである。廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくるとあたかも海に浮かんでいるようだ。登録された遺産のうち、嚴島神社の本社本殿・弊殿・拝殿等17棟、大鳥居・五重塔・多宝塔3基からなる建造物群は、6棟が国宝である。

    他の11棟・3基が重要文化財に指定されている。中でも海の中に建つ大鳥居は宮島のシンボルである。実はこの大鳥居の根元は海底深く埋められてはいず、自重だけで建っている。なのに台風や地震にも、動いたり、倒れたり、びくともしないのは何故であろうか?その秘密の1つは鳥居上部の島木は箱形の造りで、中にこぶし大の玉石約7トンを詰めて"おもし"代わりにしているからだ。

    また主柱・袖柱あわせて安定感のある6本足とし、柱と屋根の交差する部分には特殊な造りのクサビがほどこされ、柱と屋根の動きやひずみなどを自然に吸収している。海底部分は、松材の杭を打って地盤を強化したうえで、その上に布石を並べて基礎の代わりとしている。など、建て方に決して特別なことをしてるわけでもないが、数百年前にこれだけの仕掛けを行っている人智に驚く。

    厳島神社は平清盛の大きな功績であろう。2012年1月8日から12月23日まで放送されたNHK大河ドラマ『平清盛』は、清盛の生涯を中心に、壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を語り部・源頼朝の視点を通して描いていたが、さすがに同年は廿日市市全体の観光客数は100万人以上増加した。廿日市(はつかいち)と読むが、東京にいた頃、「広島にアマビーチってあるだろ?」と聞かれた。

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    「アマビーチって海水浴場か?聞いた事ない」というと、「宮島があるところ…」といわれて一瞬、「?」であったが理解した。なんと彼は、「廿日市」を、「甘日市(あまびいち)」と誤読していた。で、"アマビーチ"の語呂が面白くて大笑いしたが、本人は翳っていた。おそらくバカにされたと思ったか、傷ついたかのどちらかだ。彼は以後自分を避けた。バカにして笑ったのではないのに…

    後で考えたが、何の悪気もなく、その語呂が可笑しかったが、こういう場合笑うのはよくなかった。が、笑わずにはいられなかったろう。望むべくは相手が、「あっ、そっかー。廿日市ね!甘日市と勘違いしてたよ、ハッハッハ!」であって欲しかった。自分なら思い違いに、自身さえ笑ったであろうが、繊細な人もいるというのか、人のいろいろを見た思いだった。

    それくらいブスっとしていた彼が不思議だった。何で人はこうもいろいろなのか?バカになどしていないのに、「バカにしてるな、俺を…」、「バカにしないでよね、なによ!」などはよく言われたが、人を軽視もしないし、バカになどしない。なのに、「バカにされた」と思うのはなぜ?と真剣に考えたりした。「傷つきやすい人」、「デリケートな性格」しか答えは見つからない。

    そこで回答を求め、「バカにしてないのに、バカにされたという奴」のキーワードで検索をかけたが、「人に嫌な事・ばかにされた事を言われた時の対処法」の類は結構あったが、自分の求めるものはない。上記の質問者はこう問う。「もともと、短気のせいか何か言われると頭にはくるのですが、なにもうまく言い返す言葉がみつからず、それなら怒ればいいのですがそんな勇気もなく…。

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    特に会社ではしったぱのせいか何かわからない事があった時に、教えてもらえなくなると思ってしまうと、頭にくるようなことを言われても、何も言葉が思いつかず黙ってしまうことが多いです。そのせいか、会社ではなめられっぱなしです。こんな時、その人との仲が終わらず、うまく言い返す方法はないでしょうか?」。なるほど、自分にバカにされたと思った男も女も、こんな心境だったのだろう。

    こういう回答があった。「その気持ち、死ぬほどわかります。 僕も、今は辞めましたが、この前まで働いていた会社であるデブ上司にひどい事を言われまくってました。僕も、いい返したいことは沢山ありましたが、あなたと同じで、仕事を教えてもらえなったり、そうゆう立場上どうしようもない、状況だったので、黙ってました。ただ言い返したところで、自分にとってプラスになることはなにもありません。

     悔しいとは思いますが、黙ってるのが無難だと思います。まあ、あいつらはこの世のゴミ(有毒)です。そんなもんの言うことまに受けることもないですよ。でも、自分で辛くて辛くて限界と感じるようなことがあれば、その会社は辞めたほうがいいと思います。僕は、正直上司の性格が悪くて、2ヶ月くらいでもう嫌になっていましたが、ここで辞めれば、社会人として失格だと思い、無理してその会社で働いていました。

    でも、1年くらい耐えたのですが、結局は辞めてしまいました。もし、直やめていたら精神的にこんな状況になることもおなかったと思います。だから、重症になる前に辞めるというのも一つの手だと思います。それで人生終わったというわけでもないですしね。辞めたらスッキリしますよ。時には逃げることも大切だともいます。ホントに、人のこと憎い憎いと思うのって疲れますよね。今は耐えるのみです。」

    イメージ 9一読後、「ふ~ん」という感想。アドバイスというより、互いが傷を舐めあってるとしか思えない。バカにされたと思う人には、自信のなさというのか、自分には分らない被害妄想があるようだ。人はそんなに人をバカにするものだろうか?バカにして優越感をかんじたいものだろうか?大事なことを率直にいってるだけを、「チクショー、バカにされた」と思うだけでは?そんな気がする。物事をプラスに考えればいい。本当に人をバカにするような人間ってのは、バカで小物だろうから、そこが分かれば「バカにされた」とは思わないのでは?自分は幼少年期から母に無碍にあしらわれ、バカにもされたが、遂には彼女がバカであるのが分かり、バカがうつらないよう留意した。相手が親でも、上司でも、教師でも、自分が上から見る何かをもてればいい。

    ということでやっと本題に…。別に本題などなくとも、勝手に思うことを書けばいいのだが、懸賞論文ならともかく…。さて、昨日のウォーキングは「宮島越え」。国道2号だが、当地では宮島街道というなで親しまれている。東京湾も埋め立てて地面は広くなったが、その分、湾が狭まった。当地もおなじように瀬戸内海は狭くなって行くばかり。以下はそのデータ。

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  • 11/29/15--17:54: 西向く侍

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    11月は31日がない。同じように2月、4月、6月、9月にも31日がない。覚えておくと、ちょっと便利なこともあってか、覚え方として親から聞いた言葉が「西向く侍」である。小学低学年の頃に教わった。「西向く侍」は、「2、4、6、9、11(サムライ)」の語呂合わせ。「2、4、6、9」はともかく、なぜ11月を「侍」としたのかは疑問に思ったが、聞いた記憶はない。親に聞いて意味を教えてくれたかは謎だ。

    たぶん中学生のころ、「11月=侍」の意味を調べた。「侍=士=十一=11」ということで納得した。「西向く11」よりも「西向く侍」の方が覚えやすい語呂合わせであろう。この語呂合わせは、歴史の年表の覚え方に多く使われる。自分はこういう語呂合わせ的なお遊びが好きなので、遊び気分で重要な年代を記憶した。記憶して、友人同士で「大化の改新は?」、「平安京は?」などと言い合いした。

    ところが語呂合わせにも様々な言い方がある事に気づいた。例えば、「鳴くよ(794)うぐいす平安京」は有名な語呂合わせの一つだが、自分は「平城なくし(794)て平安京」と覚えていた。第一次世界大戦も、自分は「行く銃士(1914)」と覚えたが、友人は「行く意思(1914)あるのか一次大戦」ろ少し長めだ。「虫殺し(645)の大化改新」、「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」など同じものも結構あった。

    「遊びながら学び、学びながら遊ぶ」を地で行く年表の語呂合わせだが、「語呂合わせで覚える方が得意だという人が信じられません。それくらいなら、覚えるべき知識等だけを覚えた方が速いのではないでしょうか?」という人もいる。これに対して賛同する者が、「私も語呂合わせは大嫌いです。人間知性への冒涜だと思っています」などと言う。こういう考えも独善的、自己中心的であろう。

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    要は「人は人」である。山をどこから登ろうが、要は登ればいいわけで、記憶も同様に人によって能力差もあれば、方法にも向き、不向きがある。語呂合わせは、「論理的記憶力」、数字だけ覚えるのは、「機械的記憶力」と言える。自分は昔から手帳など持たず、友人の電話番号は語呂合わせで記憶した。それが自分に合っていたし、手ぶらでいれる。なぜ覚えられる?

    友人の顔と電話番号がリンクする。「661-6223」と数字だけで覚えてる奴、684-5794(むはしこなくよ)」と意味のない語呂で覚える奴、いろいろだ。大事なものは大事と思えば脳のパワーが増すのだろう。30人くらいは間違うことなく覚えていた。「語呂合わせで覚える方が得意だという人が信じられません。それくらいなら…」は人に対するお節介というもの。

    人のことをどうこういわずに、自分の心配をしろで、結局、こういう奴は、「覚えるべき知識等だけを覚えた方が速いのではないでしょうか?」と自己を正当化したいのよ。「無駄なことでは?」と他人に言いたいんだよ。他人のことに口出ししたい性格だろうが、だから「いらぬ節介するな!」とガツンといわれたりする。語呂合わせ記憶に批判的な人は、余計な文字数の多さをあげる。

    確かに年表に長い語呂合わせは多い。「鳴くよ(794)うぐいす平安京」より、「平安京794」なら6文字だが、「うぐいす」は「鶯」という言葉の記憶で、文字ではないので、「794鶯平安京」となる。どれだけ違う?もっとも自分は「794て平安」と短くしていた。鎌倉幕府も「いい国(1192)」だけだし、第一次大戦も「行く銃士(1914)」。肝心な語呂だけでも出来事が特定される。

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    「鳴くよ(794)うぐいす平安京」と長ったらしく覚える必要はない。あくまで覚え方の語呂であり、多くは「鳴くよ平安」と覚えていると思われる。語呂合わせにイチャモンつける人は浅はかと言っておく。そんな長ったらしい覚え方は誰もしない。「虫殺し大化」という語呂で覚えてしまえば、その後は「645」と聞いただけで、大化改新が呼び起こされるというもの。

    よって、自分は機会的に復唱して覚えるより、論理的記憶法を駆使した最初の語呂合わせは「リハーサル」的な意味で良い。あくまで、個々の向き・不向きの問題で、自分に向いた記憶法を見つけるべき。機械的記憶法は自分に向かないので、メリットは分らない。記憶の大敵はストレスという実験結果もあるが、「うざい語呂あわせがストレスになる」というのは違う気がする。

    確かに、自分に合わない方法でやってる人もいるだろうが、富士山をどこから登ろうとも善悪のいわれはない。さて、ひと月に30日と31日があるのは何故かを知りたい人は調べればいいとして、「なぜ2月は28日しかないの?」と子どもに聞かれたことがあった。古代の太陰暦を太陽暦に変えたのが、かの皇帝シーザー(カエサル)で、暦の理解は子どもにはムリ。

    「とても難しいので、大きくなって知りたいときに自分で調べなさい」と言っておく。それより、「どうして赤ちゃんは出来るの?」の説明の方が楽だった。あの時、長女とお風呂の中だったので、「(指差して)コレをお母さんのお尻に入れて、子どもが出来る薬を出すと赤ちゃんができる」と、言ったはいいが、お風呂からあがるなり、「お母さん、お尻くすぐったくなかった~?」と大声で聞いていた。

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    「西向く侍」がこんな内容になったが、想定外こそ面白い。自分はドッキリカメラが大好きで、人は何かを想定していない時の、生の声、生の表情に真実を見る。普段は自己を抑制し、かしこまっているが、SEXという行為も、人の真実に触れるところがよいのだろう。栗本慎一郎の「人間はパンツをはいた猿」ではないが、人は20%の人間性、80%の動物性から成る。

    パンツを履いている女性と、パンツを脱いだ女性と、どちらがエロティシズムを感じるか?言わずもがな、それが人間の動物的な感じ方であろう。ブロンテ姉妹を存じの方もおられよう。イギリスのヴィクトリア時代を代表する小説家3姉妹で、シャーロット、エミリー、アンの3人。ヨークシャーのソーントンの牧師の子として生まれ、3人共同の『詩集』を発表後、それぞれ小説を書く。

    シャーロットは、『ジェーン・エア』。エミリーは、『嵐が丘』。アンは『ワイルドフェル屋敷の人々』を発表し、イギリス文壇に多大な影響を与えた。彼女たちは、生涯一度も男の前でパンツを脱がなかった。ゆえに、女性から積極的に男を求めるという内容は、当時の社会常識から大きく逸脱し、ヴィクトリア朝の文学においても画期的と言われたのは、彼女たちがパンツを脱がなかった賜である。

    鈍才のかく下手なポルノ小説よりも断然エロティックである。聖テレーズ(リジューのテレーズ)をご存知の方もあろう。マザー・テレサのテレサはテレーズの名にちなんだもので、「神を愛すること=人を愛すること」に身を捧げることを渇望したテレーズは、信仰のあまりに恍惚となり、エクスタシーに達していた。抑圧のなかにこそエロティシズムはある。その事を我々は知る。

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    人間の性器がエロいのではなく、パンツを履くからそのようになる。だから性器は額にあってはならない。だからか、人間はパンツで身を飾るが、飾りすぎると引いてしまうのでほどほどに…。シャワーを浴びる前に女が、「下着をつけて来た方がいい?取っての方がいい?」と聞かれた。気負いのない、素直な女だから言葉で、そういう女ならどちらであろうと可愛い。

    自己の修飾に気を使う女も多いが、飾らぬ女の魅力はビリー・ジョエルが『素顔のままで』にて歌っている。綺麗に見せたい女心はわかるし、その心の在り方は着飾ること以上に可愛い。が、得てして男はすっぴんを好むもの。理由もいろいろあるだろうが、一緒にいて、すぐに出かけられるというのもすっぴんの良さ。作った美しさは虚飾であり、すっぴんの自然さには劣る。

    手を加えることで美しい生花と、野山に可憐に咲く雑草の美しさの違いであろう。いかなる造形より自然に勝る「美」はないという考えに自分はいる。以外や女性は肌のコンプレックスを隠すための化粧が多い。ならば、ニキビも、吹き出ものも、アバタも、開いた毛穴も、好きになってしんぜやしょうではないが、意外と男は気にならない。姉のところに遊びに来た妹と自分3人で出かけることになった。

    姉はいつも通り、すっぴんで出ようとしたとき、「ちょっと待ってよ、お姉ちゃんそんなんで出かけるの?止めてよ」と言われて姉ちゃんも自分も驚いた。人のすっぴんまで気になるという性分は、いかにも外を見て暮らす女と理解した。「お前が困ることではないだろう!」といいかけたが、姉ちゃんがうるさい妹に黙って従っているので、何も言わなかった。人の世話までやく女はホントうるさい。

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    最後に、侍と武士は区別するものなのか?同じものだと思っていたし、「侍」と「武士」の違いに特別疑問に思った事はなかったが、平田弘史の作品、『侍』の中に以下の問答があった。関が原後の東軍による西軍の残党狩りの最中、石田三成の一族石田正長の家臣であった戸田源左ヱ門が主君正長を斬ったと本多忠勝邸の玄関に現れ、その功により召抱えられるという話…

    戸田: 「武士の意地を守る…それは誠に大切なことであろう。しかしながら、拙者の場合は、武士の意地や体面を守るよりも、侍の意地を守り通す事が第一なので御座る…」

    矢崎: 「侍の意地…?分かりません。侍の意地とはどんな体面を汚されてもよいと云うのですか?」

    戸田: 「左様!そういう場合も御座る。」

    矢崎: 「不可解な!私に嘘を報告させておいて、他人の士道を汚す事も侍の意地ですか?」

    戸田: 「左様!」

    矢崎: 「まこと心からその様に考えておられるのですか?」

    戸田: 「左様!侍の意地を通すには、他人の迷惑をかけてでも通さねばならぬ…」

    矢崎: 「むう、侍の意地とは迷惑なものですな!」

    戸田は実は主君を斬ってはおらず、残党狩りの追っ手から主君かばい、僻地に逃すために嘘をいい、徳川方を騙す大芝居であった。戸田は本多家に召抱えられた後、家来衆から、「主君を斬って禄をもとめる愚か者と嘲られるのを耐え忍んだ。こうした戸田の真意を知った矢崎は、この回想した。「侍の道と云うものは、目的のために恥辱を忍ぶ心構えは、今の我々も心せねばなるまい…」。

    侍とは、「さぶらう=仕える」者との語源を持っていたが、やがて武士(軍人)と同じ意味になっていった。劇中、戸田源左ヱ門のいう「侍」とは、主君に従うもの、その心根を述べたものだった。

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    元禄2年(1689)3月27日、46歳の松尾芭蕉は、弟子の河合曾良を伴として江戸の深川の採荼庵(さいとあん)を出発し、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間で東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。紀行文「おくのほそ道」では、このうち武蔵から、下野、岩代、陸前、陸中、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれている。

    その記述を踏まえ、同行した曾良がつけていた旅日記をもとに芭蕉たちの歩いた全行程を図にしたのが、「奥の細道全行程図」。曾良の随行日記は、没後数百年を経て曾良本とともに発見されたもの。芭蕉はこの旅から帰った5年後、1694年に死去したため、「おくのほそ道」は芭蕉死後の1702年に京都の井筒屋から出版刊行され広まった。「奥の細道」ではなく、「おくのほそ道」と書くのが正式とされる。

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    芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句。紀行文は死後に刊行された。“侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現、そして「不易流行」、「軽み」。芭蕉は多くの俳人を虜にし、いつしか『俳聖』と呼ばれるようになった。元禄7年9月29日夜から下痢を発病し、病床に就く。10月5日に、之道亭が手狭だったため南久太郎町御堂前の花屋仁右衛門宅離れ座敷に移った。

    そして、死の4日前の10月8日深更、呑舟に墨を摺らせて「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を作句した。旅先で死の床に伏しながら、私はなおも夢の中で見知らぬ枯野を駆け回っている。との意味、思いが伝わって来る。 前詞に「病中吟」とあり、芭蕉の辞世ではなく、あくまでも生前最後の句に過ぎない。 芭蕉が敬慕してやまぬ偉大な先人、西行、李白、杜甫らと同様に、彼も旅の途中で果てたのだった。

    「文学的対象は言葉を透かして実現されるに違いないが、決して言葉の中に与えられているのではない。かえって、対象の本来の性質は、沈黙であり、言葉の対立物である」。これは、哲学者サルトルの言葉だが、作品の意味は言葉の合計ではなく、言葉のつくる有機的な全体としてみられる。作者の沈黙の部分は、言葉に先立つものであり、言葉の欠如であり、言葉が特殊化する前の未分化の領域である。

    したがって、「表現されたもの」をとおして、「表現されなかったもの」、「表現できぬもの」を発見し、創造するのが、読者の享受作業といえる。読者の創造的参加なくして作品の完成はない。「物の見えたる光、いまだ心に消えざるうちにいひとむべし」と芭蕉はいった。現代用語に訳せば、「心でものの本質のようなもの(光)が見えた瞬間、すぐさまそれを句の上に表現しなさい。」であろう。

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    竹のことは竹に習い、松のことは松に習う。ごく当たり前のことだが、私意のなす作意を離れた主客にこそ、射し込む光があるのだ。対象が現象か、本質かは直接開示はされないが、人間には直接に物の本質を理解する能力は与えられていない。現象は、本質を開示するため、しきりに自らを現しつづけるが、我々はそういった現象としての対象を、ありのままに見ることができるのだろうか?

    アニメの主題曲、『ありのままで』というのが流行った。原題は、『Let it Go』で、日本語訳は原文の意味を残しつつ、直訳では歌えない部位を意訳する。あくまで訳者のセンスによるところが多い。主人公エルサの悩み、苦しみの原因とも言える、特殊な「力」を隠していたが、無理に押し込むことをせず、「Let it Go!」(もういい!)、(気にしない!)と開き直ることで、以前にも増して輝いていく。

    それが日本語の「ありのままで」と訳された。何事も自然にあるがままに、ありのままに勝るものはないと。「Let it Go」は、ビートルズの「Let it be」に似ている。意味はどちらも「放っておく」だが、上の二つの違いは"何を放っておくのか"ということになる。会話中、「Let it go」は、かなり深刻な悩みなどにしか使わないし、思いのままに振舞うのであれば、「Let it be」でも良さそうだ。

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    この決定的な違いは、ビートルズの「Let it be」の歌詞にあるフレーズ、"神様はきっと見ていてくださる…救われることを信じて、今はじたばたせずに結果を待とう」という訳もある。よって、「Let it be」を、"なすがままに…"、でなく、"主の思召すままに"と訳して何ら差し支えない。whisperは、ささやく、耳打ちする、ささやき声で、小さな声でのお祈りであるなら、まさに、「Let it be」=「アーメン」である。

       Let it be Let it be Let it be  Let it be
       Whisper words of wisdom, "Let it be."

      主の思召すままに 主の思召すままに
      主の思召すままに 主の思召すままに
      英知の言葉「主の思召すままに」とつぶやきなさい

    こういう文化的背景からの訳を読むと、西洋音楽の深遠さも分かってくる。俳句や茶の湯にみる、「わび、さび」の世界も、外国人には騒音にしか聞こえない、虫の音や川のせせらぎも、日本人にとっては、"もののあはれ"の世界観である。したがって、エルサが思いのままにふるまう状況を「Let it Go!」としたのは、「神様や誰の意思でもなく、自分の意志で気にしないと決めた」ということになる。

    思うに「Let it be」はビートルズが解散まじかのころに作られた。これまでビートルズは、アルバムのたびに新しい音楽手法を生み出し進化して行ったが、この頃は行き詰り、メンバー同士の音楽的な意見の食い違いが大きくなって喧嘩にもなった。さらには、アップルレコードの経営状態も悪くなり、マネージャーの死去によって、発表してきた曲の著作権の問題(利益分配)も、噛み合わなくなった。

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    ポールはLet it beの言葉どおり、最後のアルバム「アビーロード」(リリース順では、「アビーロード」が先だが、製作日時は「レットイットビー」が先)完成後、ビートルズを離れてソロアルバムを出す。これでビートルズ解散が決定づけられた。「Let it be」の歌詞、「And in my hour of darkness」、「And whenthe broken-hearted people」などが、当時の状況を物語っている。

    ビートルズ解散は、1970年4月10日、ポールがイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表した日ということになる。最近になって解散に至る裏話がイロイロ出てきたが、ジョン・レノンがビートルズへの興味を失い、他のメンバーも独自の関心事や新たな恋人や配偶者の出現もからみ、結束が弱まる。加えてビートルズをとりまく様々な権利関係や、印税の取り分など問題を複雑にした。

    オノ・ヨーコも様々な事実を明らかにした。「バンドを去りたいと言ったのはジョンが初めてではなかったの。ある晩、リンゴがモーリン(最初の妻)と一緒に私と ジョンの元へやってきて、バンドを辞めたいと言ってきたのよ。続いてジョージ、そ してジョンという順番でバンド解散の意思を示したわけなんだけど、ポールだけは違った。彼はビートルズを守ろうとした唯一の人だった」と、当時のメンバーの状況だ。

    「でもね、他のメンバーはポールが自分のバンドとしてビートルズを堅持していくんだと思ったのね。当時ビートルズはポールのバンドのようになってきていて、他のメンバーがそれを良く思っていなかったのも事実よ」。また、オノはビートルズ解散が、自分とジョンとの関係性にも重圧を与えることになったと話している。「ジョンはビートルズを失い、全てのものが私に取って代わると思っていたようね。」

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    若い頃は、バンドが解散する理由は分からなかったが、あのような個性的な人間が一つに束ねていられることの方が不思議である。ローリング・ストーンズのビル・ワイマンは嫌気がさして辞めたが、50年以上も続いてるバントは奇蹟といえよう。まさにギネス物だが、ストーンズは更新中のギネス世界記録は、「最も成功したコンサートツアーの記録」であり、4億3700万ドル(約500億円)となっている。

    ローリンリング・ストーンズは言わずとしれたイギリスのロック・バンド。ローリング・ストーンズの意味は、母国イギリスでは、「(仕事などを)落ち着きなくコロコロ変えているようでは、何も身に付かないよ」と蔑み言葉だが、アメリカでは、"A rolling stone gathers no moss."(転がる石にはコケがつかない)との諺もあり、コケもつかなくいつまでも新鮮で変化に富む、というプラスイメージに使われることが多い。

    が、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、ある人間の「転落の人生」を歌っている。ディランはアメリカ人なのに、ネガティブな意味での「ローリング・ストーン」。ディランが自分自身の驕りを戒めのために作ったという解釈もあり、それならば…と思うが憶測の域を出ない。ギター一本に首からぶら下げたハーモニカに飽きてしまったフォークの神様が、躍進のきっかけとなった大曲である。

      How does it feel
     How does it feel
     To be on your own
     With no direction home
     Like a complete unknown
     Like a rolling stone?


      さあ、どんな気分だい
     たった一人で
     帰る家も無く
     誰からも見向きもされない
     石のように転がっていくのは
     どんな気分なんだい?

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    さて、本題である。11月のウォーキングは、後半、雨日にたたられたが、それでも前月より42500歩、距離にして31500m増えた。トータル距離613.768kmとなり、名古屋、静岡を越えて熱海近辺まで伸ばした。大阪⇒熱海329kmは直線距離で、車による実際の走行距離は422kmとなる。それにしても芭蕉の2400kmを日数約150日はおそれいる。一日平均16kmという数字は、常時出してはいるが…

      1日 13315歩  9054m 83/分
      2日 11468歩 11878m 91
      3日 28154歩 19144m 89
      4日 46762歩 31798m 93
      5日 17689歩 12028m 91
      6日 19799歩 13463m 89
      9日 13106歩   8912m 91 
     10日 29762歩 20238m 92
     11日 49379歩 33577m 89
     12日 35220歩 23949m 89
     15日 16647歩 11319m 83
     16日 18688歩 12707m 90
     18日  5725歩  3893m 90
     19日 32558歩 22139m 89
     20日 15511歩 10547m 95
     21日 23728歩 16135m 88
     24日 30669歩 20854m 89
     27日 38031歩 25861m 91
     30日 22264歩 15139m 93

     Total  468475歩  322635m

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    言葉はその人の考えから発せられたものとは言えない。だから、「言行不一致」などというが、考えとは別のことを言ったり、やったりするのは人間にとって自然なこと。言行不一致の犬や猫がいないように、言葉は人間にとって便利でもあるが、多いに災うものでもある。知識(考え)と行為は一致であるべきとした「知行合一」、心は理であるとした「心即理」の陽明学は、吉田松陰が教え諭したもの。

    「知行合一」はまた、「知って行わぬは知らぬと同じ」という逆の意味もあり、これまた、「行わぬ人は知らぬ人」ということ。「家事の習得はいつでもできますが、勉強は頭の柔らかいうちのほうがより多く吸収できます。だから勉強する時間のほうを優先させてきました」と言った、「東大三兄弟」の母親。勉強できれば後はどうでもようならいいが、これは見習わぬ方がいい。

    勉強が習慣づくように何事もそうで、勉強以外はしなくていいと躾をしなかった親の懺悔はイロイロ知っている。頭の柔らかいうちに習慣づけなければいけない事こそ、「生活習慣」である。部屋をキレイにとか、身の回りを清潔に保つとか、これらは勉強さえ出来ればおろそかでいいものではないが、「家事の習得はいつでもできます」などは、無知か口実かしかない。

    「あれはしていいが、これはしなくてよい」という優先順位はわかるが、「しなくてもよい」と躾けたことが、生活習慣になるなど気づかないから言える。勉強さえ出来れば他は何もできなくていい、後でできる、いつかできると、そこまで極端にせずとも、勉強以外にも大事なことだと並行して躾けたらよいではないか?それができないのは、視野狭窄であろう。親の頭が勉強一色になっている証拠である。

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    「勉強さえしてくれたら、後は何にもしなくていい。全部わたしがしてあげるから…」コレが親が子に対する正しい教育と思う人は、昔にも結構いた。自分の知ってる母親もそんな風だったが、この母親は絵に書いたような視野狭窄人間で、知識も素養もなく、ある事に凝り固まっているからまともな会話はできなかった。子どもを地元の私立に行かせたまではいいが、大学在籍中に年増男と失踪騒ぎを起こす。

    あげつらっているようだからこれ以上は言わないが、何事も「禁止、禁止」の親だった。朝起きた子どもの第一声は、「ママ、今日は何を着ればいい?」という場面を目撃した時は、まさに着せ替え人形と感じた。洋品店に生まれて昔からオシャレな母親だったが、幼い時分から子どもの着こなしまで指図をしていたようだ。失踪騒ぎまでは親から聞いたが、その後のことは聞くのもためらった。

    自分が熱中すること以外は何にもできない学者はいる。着の身着のまま、穴の開いた靴下であろうが、部屋がブタ小屋であろうが、学者だから許される部分もあろう。将棋の羽生名人の寝癖を問題にしたこともあるが、彼はあれをよくないと思うまでに40年近くかかった。よくないと思ったから、最近は見ないのだろう。いつまでも身だしなみに気づかないならただの変人である。

    ところが、将棋が日本で一番強いから寝癖は許せる擁護派が多かった。なぜ、味噌も糞も一緒にするのだろうか?あれだけ難しいことが出来るのに、1分あれば直せる寝癖を彼が放置したのは、周囲の批判がなかったからである。師匠も言わない、周囲も同僚も先輩も誰もいわない。はて、こういう状況って何かに似ていない?アンデルセンの童話、『裸の王様』である。

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    このブログで指摘したところ、多くの批判が舞い込んだ。文句をいう自由はあるし、言うのは勝手だからいいが、正しいことに文句をつけるのは独善的で無理がある。次のコメントもそうである。「羽生さんに将棋であなたは勝てるのですか?何様のつもりなんだろ? 愚痴なら面白くしないと…。羽生さんを批判する程度の常識しか知らないのですかね?人対人は感性の問題かと。

    総合すると、あなたの意見はオチがわかりにくくつまらないし、聞きたくない。このページしか見てませんがイラっとしたのでコメントさせてもらいました」。オモシロイ人もいるものだなと感じた。"何様のつもり"は、バカの一つ覚え言葉で、"愚痴なら面白く書け"、も勝手に愚痴と見たてている。"羽生を批判する常識しか知らないのか"は、分からず仕舞いで、改めて考えてみる。

    「人を批判する常識」って、それも常識なら、お前はその程度の常識しか持ち合わせないってこと?噛み砕いていえば、寝癖は批判すべき常識ではないということか?後に続く、「人対人は感性の問題」に現れている。この文面から自分はこう指摘した。「あまりにユニークな文から女性とお見受けしました。ここへのコメントは自由ですが、駄々こねてるみたいで可愛いすぎます。」

    普通に読めば女性と分かる。「人対人は感性の問題」などは女性の発想。「人対人は理性の問題」でもある。不潔で臭いプンプンな人を、「あの人の臭いすきよ。わたし臭いフェチ!」と思うのはいいが、「くッっせー、もっと清潔にしろ」と言いたい。オシャレは感性だが、身だしなみは理性。感性だけが女性とは言わぬが、書き手は、「人対人は感性」と言った。

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    まあ、否定してやればば分かることもあろうが、ムキになる者もいたりと、一筋縄ではいかないのが人間。ちなみに「寝癖のない羽生さん、お嫌いですか?」と問うてみたが返答ナシ。「ええ、寝癖のない羽生さん、わたしは嫌いです」というならオモシロイ対話も続いたろうが、「イラっとしたのでコメントさせてもらいました」と断りをいれる正直さを持ったお人。

    暴言吐いてトンズラするではなく、社会常識保有者と感じたが、そういう人手さえファンの対象を貶されると感情的になる。彼女の意見を代弁すれば、「いいじゃない、寝癖はかわいいし、なんでそんなことでゴチャゴチャいうのよ」であったろう。好きな人の○○は許せる、嫌いな人の○○は許せないという女の善悪の価値基準は、痴漢もイケメンなら許せるとなる。

    男には不可解な感性だが、女はこういうものだと思っている。女も男を、男も女を理解するのが望ましいけれど、理解は理性の範疇なら、男の方が女を理解しやすいのか?となると、女に男を理解させるためには、対等よりも尊敬を抱かれることが先決だ。女にゴチャゴチャ言われたくなくば、男はリスペクトされるしかない。それがムリなら言い合いの日々。

    「この人のいう事、成す事、信じて従っていけば間違いない」、かつて男は女にも同性に対しても、逞しさを身につけるべく生きていた。が、今はそれが希薄になっている。「黙って俺について来い」タイプの男が少なくなった。男っぷりが、腋毛剃り剃り、脛毛剃り剃りの頃から変貌したと思われる。男っぷりより中性男の魅力が好まれ、YOSHIKIやGACKTは好例だ。

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    時代の変遷と見るしかない。目を凝らしてみると世の中は移り変わっているし、その変わり方が、数年単位が数ヶ月単位に速まっているのかも知れない。ちょっと前まで変だと思ったこと、違和感を拭えなかったことが、すぐに何でもなくなるように…。ボブ・ディランの『時代は変わる』の歌詞にあるスパンとは比較にならないスピードで、時代が動いている。変わっている。

    慣れは習慣ともいう。習慣が躾で身につくなら、親はすべきである。きれい好きの女性はそのように躾られた。が、躾け以外で身につく習慣もある。自分は躾などされていない。立って飯を食べるなとうるさく言われた記憶もあってか、歩きながらのマックに驚き、抵抗があった。後ろめたい気持ちでやるったが、これがなかなか楽しかった。また東京には立ち食いソバもあった。

    お好み焼きを立って食べたことはないが、東京っつうところはすげーところだなと、田舎に比べてその自由度は凄かった。田舎は常に周囲の目が自分に向くが、せわしい東京人に他人のことなど構っている暇はない。都会のそういうところは自由人を標榜する自分にはたまらなかった。都会では自殺する若者が増えていると陽水は歌ったが、確かに都会には高いビルがあった。

    「傘がない」は1972年の詞であるが、誰の自殺というより名もなき若者の死を言った。1969年6月24日、『二十歳の原点』の高野悦子の自殺も、無名の女子大生の死であった。誰も知らなかった彼女の死が2年後に書籍になるや、あっという間に広まった。若者の自殺は高層ビルだけではない。田舎の納屋で首をくくる若者もいたし、今もいる。都道府県別自殺偏差値でトップは沖縄県だ。

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    沖縄県の自殺数の多さは男性で全国一位だが、逆に女性は全国で最下位となっている。理由はハッキリと解明されていないが、一般的に男性が女性より自殺者が多いのは、女に比べて男は弱い生き物だからであろう。阪神大震災後の仮設住宅や復興住宅で孤立した男性の多くが酒に依存するようになり、孤独死していっている。同じ独居老人でも未亡人や生涯独身女性は長生きするという。

    井上雪子(97歳)、宝生あやこ(97歳)、春日野八千代(96歳)、山田五十鈴(95歳)、山口淑子(94歳)、月丘夢路(94歳)、森光子(92歳)、加藤治子(92歳)、京マチ子(91歳)、中村紀子子(91歳)に加えて先日他界した原節子(95歳)。萬代峰子(96歳)、大路三千緒(95歳)、風見章子(94歳)、津田延代(94歳)、内海佳子(93歳)、荒木雅子(91歳)、赤木春恵(91歳)は存命中。

    97歳まで生きたら体がどうなる?そんな年齢の人を見ることはできるが、果たして体験できるのか?信じられない世界、想像すらできない。自分はくつまで生きるのか?生ある人がみな考えることだが、人の将来、未来は確たる想像ができない唯一のことだ。だから、考えても無駄である。自然に年を重ね、死ぬまで生きよう、生きて行こうではないか。


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    巷でよく見かけるポスターで、疑問に感じるのは「万引きは犯罪です!」と、「痴漢は犯罪です!」の二つ。なぜそんなことをワザワザ書かくのか?「殺人は犯罪です!」のポスターはない、ということは、痴漢も万引きも犯罪との認識が低いから?「万引き」に関して持論をいうなら、対処が甘い。犯罪としながらも常習犯や高額商品でなければ、被害側が許すこともある。

    捕まえて、商品も返ってきて、相手も反省して謝っているとなら、実害もないし、「まあ、いっかー」となる。万引きは常習になりやすく、一度で懲りて二度としない人は、「ほんの出来心」であった。「出来心」という言葉を正確に書いておくと、「計画的でなく、その場で急に起こったよく ない考え」という意味。「出来婚」は、その場で急に「結婚しよ」と言ったのではない。

    悪事を働いた側が見つかって、「すみません。ほんの出来心で…」というケースはドラマなどでしばしば見るが、本当に出来心なのか?本当にその場で急に善悪の判断がつかなくなって、瞬時に行うものなのか?「今日は万引きでもしに行くか」となって、出かけるのでは?自分は子どもの頃に、小山の神棚においてある1円、5円を盗むのにアレコレ考えた。

    瞬時に何の考えももなしにそういう事ができるのか?多くは言い訳であろう。「出来心」などという言葉が何の用意もなく、そう簡単に発せられるとは思えない。痴漢はどうか?痴漢と一口にいうが、痴漢の定義は難しい。もちろん痴漢は刑法上の「強制わいせつ罪」にあたるが、法律運用の実務では、下着の中に手を入れたケースを「強制わいせつ」として立件する。

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    下着の上から触る、撫でる、いじくるその他、盗撮も含めて、各都道府県の「迷惑防止条例」違反として取り扱われる。なぜそうなのか?例えばこういうケース。ウォーキングを始めて秋深きの時節、たわわに実った柿が食べて下さいと言わんばかりに実っている。誰にも見向きもされずに多くは地面に落ち、地の肥やしになるのだろう。案外、木の持ち主は長年における柿など食いたくもないのだろう。

    自分は、その柿をいただいた。所有者の庭の中ではないが、当家の柿の木のようであり、いただいたを有り体にいうと取ったである。実っているのに誰も取らないからいただいたと自分が勝手にそう判断しただけだ。見つかれば「どろぼう!」といわれるかも知れない。人さまの所有物を取るのは万引き同様、犯罪であろうが、唯一万引きと異なるのは、人目を気にしない行為という点だ。

    人目を気にしないのは、犯罪意識がないから。食べたいよりも、子ども時代の郷愁である。が、気持ちはどうあれ、見つかって叱られれば謝るしかない。万引きは一種の病気だろうが、野山の柿ドロボーに常習性はなく、わざに取りに行くより買って食べる方が断然手っ取り早い。万引き常習者は買うより取った方がいいのだろう。ネットにこういう書き込みがあった。「嫁がデパートで万引きした。

    嫁を引き取りに言って店員に頭を下げて謝り、もう店に来させない+商品の買取でその場は許して貰えたが、 家に戻って叱った事で嫁が実家に帰ってしまった。 嫁の言い分は「仕事で帰りが遅いのでストレスがたまってた」との事。 あげく、「済んだ事を叱らないで!」と怒鳴られた。俺が、「盗んだ額の問題とかじゃなくてお前のした事はれ列記とした犯罪だから、そのこと忘れちゃだめだぞ…」

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    と最後にそう言ったら、「もういい!」とそのまま家を出ていった。 嫁の実家側は完全に嫁の味方で、嫁の友達も、「ストレスでやったこと。男ならそれくらい許せる器みせろ」 と言うが、「犯罪を軽々しく笑顔で許せるかよ」って言い返す。とにかく嫁側の家族も、嫁の友達も嫁を庇う庇う…離婚していいですかね…。」と、男の言い分だが、一言いうと、こんな愚痴をわざわざ書くところが情けない。

    あげく最後に、「離婚していいですかね…」って、人に問うことか?男の愚痴は情けないよ。離婚するのか?これくらいのことで。実家の親が嫁の味方?それについては、「この親にしてこの子あり」。「済んだことを言うな!」怒鳴って言い返すのは感情の起伏が激しい。済んだことを注意しないで、済んでもないことを注意できるのか?こういう時に、返報感情を露にする人間は反省などしない。

    実家がいいならそこに居ろといえばいい。自立した娘だからわざに随伴しなくとも、 「お前が悪い!さっさと帰って詫びろ」と追い返すべき事案。夫の不祥事で実家に戻るならまだしも、それなら夫が頭を下げて連れに行くべき。自分の万引きを注意されたことで実家に帰ったという事情を知るなら、早々に追い立てて戻すべきであるが、「もう戻りたくない、実家がいい」と娘がいうなら離婚すべき。

    こんな妻と一緒にいても夫に幸せはない。とにかく、夫は悪くない以上、下手に出ることなく放って置くべき。妻が戻ってくるようなら、人間が一歩成長したと考えるべきだが、反省も成長もない女は自分ならいらない。こういう場合はなによりも謝罪が大事で、それが人間的成長である。悪事が露呈して「反省した」といいながら繰り返す人間は、「反省した」素振りを見せるだけで、本当はしていない。

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    妻はおそらく常習癖があり、だから注意されて怒ったりする。初犯で、出来心なら深く反省するし、声を荒げることなどない。自分に対して情けなく、深く後悔しているからである。おそらくだが、今回もたまたま見つかったのだろう。初犯者のとる態度ではない。こんな態度の無反省女は、今後も爆竹を抱えるなら、将来的にも不安である。両親も過去、娘の万引きについて周知の態度に見える。

    チュープリ教師の件ではないが、結婚前には見抜けなかったろうし、人間はすべてを見通すわけには行かないから、互いに欠点を持つ二人が支えあい、協力し合い、注意しあうのが同居生活だ。その注意を嫌がってあのような態度、これは余程甘やかされて育った女であるのが想像できる。娘(子ども)を叱れない親はダメだ。人さまのところに出した娘なら、なおさら叱り付けるべきだろう。

    それが出来ないのは、幼少期から叱っていないからである。幼少期に叱っているからこそ、他人様に嫁がせた娘をいっそう厳しく叱れるもの。昨今は、そういう親が少ないのかも知れない。娘の部屋がブタ小屋であるのを放置した母親が、嫁ぎ先で同じようにブタ小屋状態で、叱れるはずがない。娘の家に行っても散らかり状態がまさに我が娘という感じである。「この子にしてこの親」を実感する。

    娘のところに行って、「なんですか、この部屋は!」と叱り付けるような親なら、そんな風にはなっていなかったろう。幼少期の躾のしていなさが、すべて今に現れている。これで夫に嫌な思いをさせ、それが積もって離婚と言うのもあり得る。女の子はね~、その辺を厳しく躾けてなければダメなんだよ。夫の候補は年収4000万と豪語していた芸能人が、「やってられん」と夫が家を出、そのまま離婚。

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    これも親の責任が大きい。とにかき、「躾」というのは、自身のためでありながら、実は他人を不快にさせないためになされるもの。そこが分かっていないから甘やかす。その甘やかせが、ひいては娘の不幸になるんだよ。子ども時代と言うのは、実に短い。子どもはすぐに大きくなって、自我も芽生えれば親のいうことなどきかなくなる。それはそれでいいが、せめて親に従う子ども時代が躾のチャンス。

    その時期を逃したら取り返しがつかない。子ども時代は短い。親はそのときに心して立ち向かうことだ。躾の失敗は、時期をやり損ねたと自分は思っている。親が躾をしなくとも、自己教育力や向上心のある子はちゃんとやろうとするし、それはそれで天晴れである。ダメな親でも、親を批判すれば子は育つ。だから、「どんな親でも親は親」とは、儒家のたわ言である。批判に価する親もいる。

    イメージ 6しつこいが再々度いう。「子ども時代は短い。今、躾けなければ手遅れになる。」それをしなかった親、されなかった子は、しかと自分を見つめることだ。傲慢な親を持った自分は、母のロボット化に抗っただけで、「母の愛」というような教育など何も受けなかった。が、思春期時期に、周囲と比べて足りないものを感じとった。そのとき冷静に、「自分は躾らしきものをされてない」事に気づいた。

    まずは自己否定から始める修整には苦労がともなう。固まってしまった基本的な価値観の自己変革は、この年になってもいまだに続いている。ダメなところ、至らぬところを人はみな分かっているだろうし、その部分を別の自分に変える苦労は、想像しただけでも大変であろう。「自己変革は王国を変えるくらいに大変」といわれる所以である。


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    万引きは犯罪、痴漢は犯罪と知らしめる必要があるほどに、犯罪の意識が低い。そもそも犯罪とは何?狭い意味では 刑罰が科せられる行為をいい、広い意味では社会的に有害な行為をいう。したがって、警察沙汰にならず、注意だけでも有害行為としての犯罪だが、だから犯罪意識がないのだろう。軽微な犯罪として軽犯罪とする立小便や覗き、刃物所持など、なんと34の罪が規定されている。

    「痴漢は犯罪です!」と書かれた駅の掲示板のポスター最初に見たとき、万引き同様に、「はぁ?」と思ったが、ポスター作って貼り出さなければ分らない人がいるのではなく、やはり犯罪認識が低いのだろう。外国に痴漢行為はないというが、なぜに日本に痴漢行為が多いのか?日本ではそのためにわざわざ女性専用車両というものがあるくらいで、これには外国人もビックリである。

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        山手線に出没した痴女は、迷惑どころか警視庁より感謝状をもらったらしい (うそ)

    外国に痴漢がない理由を自分なりに考えると、日本女性に比べて"されるまま"という侮辱に耐えられないからだろう。社会学者がどう分析するにしろ、自分は、「No!」といえない日本人文化がもたらせた蔓延行為とみている。「痴漢」というのは、ドサクサに紛れた、陰湿な人権無視な行為で、コッソリが成立するから、「痴漢」と言うが、声が上がると衆目の面前で強制猥褻の現行犯である。

    日本人が明らかに人目を気にし、周囲を見て暮らす人種であるのは異論を持たない。痴漢体験者が、「声を出そうにも出ない」というが、「なぜ出せないのか?」の本質を追求すると、やはり人目を気にするからだろう。自身の危機に及んでも人目を気にするか?と考えるに、屈辱感に対する自尊感情の希薄さも、外国人女性と大きく異なる。他人の目より、自分をしかと見つめることだ。

    そもそも痴漢とは?鉄道研究者として有名な原武史氏は、痴漢の成立を1950年代とした上で、その重要な条件として、「和装から洋装への変化」と、「スカートの中への幻想の変化」を挙げている(『鉄道ひとつばなし』(講談社)。「スカートの中への幻想」って何だ?これについては、風俗史研究家でもある井上章一氏が自著、『パンツが見える』(朝日選書)で詳細な議論を展開している。

    パンチラを見たいという欲望自体が、社会的・歴史的に作られたものと井上氏は言う。元来、日本の和装(着物)は、下着を着けないのが当然であった。清少納言も北条政子もお市の方もみなノーパンであった。しかるに和装とあっては、ふとしたはずみで奥の院が見えることもあり、それはそれで仕方のない事であった。草鞋が雨や泥でぬかるんでも、それしかない履物なら、仕方ないと同じ。

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    ブルマからはみ出すのをハミパンと言ったが、そうならないよう、ちょうちんブルマであった

    陰部が見えても仕方ないという大らかさに比べ、今は布(パンツ)が見えたとギャーギャーいう時代で、それでありながら女性の下半身は年々緩くなって行くご時世でもある。女性がスカートめくりに立腹するのは、主体的な意思でパンツを脱ぐのは率先しても、意思とは裏腹にめくられるのは許せない。意思では脱ぐが、布の見えたを問題視する女性の感性を、道理として男は理解できない。

    さらにいうなら、和装からズロースへと移行した時代にあって、下着が見えることに対しては女性も羞恥心を感じていなかったのに、洋装とパンティの普及が、隠されるべきものとしてのパンティを立ち上げ、「パンチラという性欲」を意識的に作りだしたというのが、風俗史家の研究である。そして、それに触れることへの、「過剰な欲望」が誕生し、痴漢と結び付いたということになたという。ホンマかい?

    「白木屋伝説」というのを、どれくらいの人間が知らないほどに時代は変節したのだろうか?「白木や伝説」を分かりやすくいうなら、「白木屋ズロース伝説」と言い換えた方がいいだろう。女性が下着としてパンツ(ズロース)を穿くようになったのは、1932年12月16日に東京・日本橋白木屋百貨店で発生した大火災がきっかけという都市伝説が、長年の間、信憑性をもって伝えられてきた。

    パンツを穿いていないがゆえに、裾の乱れに気を取られたのが原因で、女性が大量に墜落死してしまったというもの。この悲劇を防災的教訓とし、女性の間で下着としてパンツを穿く習慣が広く普及して行った――という「白木屋ズロース伝説」である。これに真向から異を唱えたのが前出の風俗史研究家井上章一著『パンツが見える。羞恥心の現代史』(朝日選書 2002年)である。

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          ズロース、ああ…この名、この響き、なんとも言いがたきエロチシズム…??

    和装文化は男も女も日本古来の装束だが、女性はノーパンだが男はノーパンではなく、フンドシを着用していた。その理由はあれは現代女性のブラジャーと考えたらよい。フンドシなくしてどうして走ったりできようぞ?ブラもその役目を果たすが、和装時代は胸を締め付けるので、ブラは不要である。自分は若き頃、なぜ胸のない女性がブラをつけるのかがわからず、問うたことがあった。

    その時に、乳首を隠すためというのを知った。なるほど、揺れるから着けるではない別の用途に初めて触れた。そんなことを知る必要はなかったのだが、そういう発想がないゆえに素朴な疑問であり、『なぜ?どうして?』という科学書には書かれてない。それはともかく、井上氏の著書には、当時現役の消防士としてこの白木屋火災の消火活動に従事した、東京消防庁の鉾田昇部長に以下の回顧録がある。

    「私の見た限りでは、彼女達は…手の平の皮をむいて思わず手を放し、電車道に叩きつけられたり、反物が裂けて落下した為に死亡したものだった」。当時の新聞記事に、"パンツ"云々の記事は一切ない。それでは、なぜにパンツと関連されるようになったかは、ある人物の発言が元である。その人物とは、白木屋百貨店の山田忍三専務で、彼は朝日新聞の求めに応じ、談話を発表した。

    その中に、「女店員たちは五階、四階と降りて来て、二、三階のところまでくると、下には見物人が沢山雲集して上を見上げて騒いでいる、若い女の事とて裾の乱れているのが気になって、片手でロープにすがりながら片手で裾をおさえたりするために、手がゆるんで墜落をしてしまったというような悲惨事があります」。とあり、さらには「裾の乱れを強調した山田専務は、こう言い添えた。

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         全国の婦女子へ、「太田雅子考案のズロースを白木屋にてお買い求め下さい!」

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                          ズロース普及に伴い、何とも味わい深い小説のタイトルもあった。

    「こうした事のないよう今後女店員には全部強制的にズロースを用いさせるつもりですが、お客様の方でも万一の場合の用意に外出なさる時はこの位の事は心得て頂きたいものです」。山田専務は続けて言葉を添えた。「沢山の野次馬が『飛降りろ、飛降りろ』と騒ぐので、ついそれに誘われて飛び降りて死んだ者もあった様ですが、野次馬もこんな無責任な馬鹿な事をいわない様にしてもらいたい。」

    井上氏は、白木屋以外の責任問題を強調したがっていたことは疑いないとした。白木屋火災の十二日後、以下の見出しの新聞記事が載った。「婦人よ、如何な場合もズロースを忘れるな」、と、これは考えようによっては可笑しいが、しかるに真面目な呼びかけなのであろう。今でいうなら、「女性の一人歩きは危険です」みたいなものであろう。さて、痴漢には様々な種類があるという。

    道を歩いていた3人連れ女性の一人が、前から来た男にいきなり胸を触られ、男は賭けて逃げた。その後女性はショックで口数も少なかったそうだが、なんとも生真面目な女性であろう。同じような経験で、「もう何よ、変態男!」と笑って済ませる女性もいるから、「たかが胸…」という女性、「されど胸…」の女性である。通りすがりにチンを撫でて去り行く女性はいないだろうが、怒る男はいるのか?

    「されどチン…」なる男、いないこともなかろう。思い出すのは高校野球部のキャッチャーだったKである。修学旅行の時に、どこだかの名所旧跡に女子がたむろしてるその中に入り、出てきたときに我々に向かって、「○○のちちがここに当たった~」と満面の笑みであった。思春期到来の時期が遅かった自分に、Kのそのうれしそうな顔の意味が分からなかった。思春期はなぜくるのか?

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                  モモクロちちが当たりまくって満面の笑みの直太郎

    保健の教科書で習った記憶があるが、精巣と答えるところに「キンタマ」と書いて「×」をもらい、文句を言いにいったら、「ワシはキンタマとは教えとらんからマチガイ」と言われ、「でも、これってキンタマっていうじゃないですか?」といえば、「それは学問的正しい用語ではない。保健は学問だろろ?」であった。自分は精巣を知っていてワザとキンタマにしたが、教諭は知らないと思っていたようだ。

    思春期とは学問的に第二次性徴期といい、視床下部からの性腺刺激ホルモン放出ホルモンの増加が生じ、それによって下垂体より性腺刺激ホルモンが分泌される。これによって男性では精巣が発育し、女性では卵巣が発育がなされる。精巣からはテストステロンやアンドロゲン、卵巣からはエストロゲンが分泌し、第二次性徴が発現するが、時期、順序、見た目、発達具合などに個人差がある。

    ズロースに行を割いたが、痴漢は刑法上「強制わいせつ罪」にあたる。ですが、法律運用の実務では、下着の中に手を入れたケースを強制わいせつとして立件し、下着の上から触る場合や盗撮は、各都道府県の「迷惑防止条例」違反として取り扱われる。女子高生の前で、「ベロ~ん」とナニを出すのも痴漢と同列にいうが、「強制わいせつ罪」の痴漢でなく、「公然わいせつ罪」という変態である。

    和装時代、下着が見えることに羞恥心を感じていなかった女性が、洋装とパンティの普及から隠されるべきものとしてのパンティ、それが「パンチラという性欲」を作りだした。そして、それに触れることへの「過剰な欲望」が誕生し、痴漢と結び付いたという文面は一応に理路整然としているが、日本が痴漢天国であるのは、泣き寝入りする日本人女相手だから成立する要素が大きい。

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             OL…「きのう朝、電車で痴漢にあってさ、思わず声あげたのよ。キモチよくて…」

    女性の胸や秘所に触れたいという男の共通した欲望に対し、同意を得ぬ場で、コッソリと、姑息に、ドサクサに紛れて触るというのは、いかにも日本的な、陰湿な行為ではないだろうか?もし、最初から白人女性のような、少しでも妙な触れ方をしたら、手をねじり上げられるようであれば、痴漢は社会問題化しなかったであろう。人前で堂々するハグは痴漢でないが、いきなり抱きつくのは痴漢となる。

    また、白人女性はそのようなチキン野郎は好まないし、許さない。触っただけで、パンチを繰り出されることもあろうが、無抵抗で、モジモジと、うつむき加減で、助けを求めることもしないなら、痴漢だって調子に乗るよ、そりゃ。被害にあっていること自体が恥ずかしいという感性は、事なかれ主義の極みであろう。「女性になってみなきゃ、わからないのよ。声出したくても出ないんだから…」

    この言葉を日本人は、日本人男にいうが、同じことを外人女性に言ってみるといい。おそらく、正気扱いされないはず。善いこと、悪いことの分別のついていない子どもと見られるのがオチ。「女になって見なきゃわからない」の言い方は、男女同権時代にあって、それでなお女を打ち出した甘えである。フランスや英国で痴漢が皆無とはいわない。が、女性が大騒ぎし、周囲も助太刀してとっちめる。

    日本の女性が騒ぐのは、本当の痴漢でなく、自分が気にいった相手なら痴漢と認識せず、嫌な言葉を吐かれたとか、気に入らない相手に対する痴漢のデッチあげの場合のようだ。携帯使用を注意されたことで、痴漢にでっち上げられるなど本末転倒であろうし、この国はそうした、どこか歪な感じがする。



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    水木しげるが亡くなった。彼との出会いはやはり代表作の「鬼太郎」だった。近年の子どもたちには『ゲゲゲの鬼太郎』と親しまれているが、最初は『墓場鬼太郎』、しばらくして『墓場の鬼太郎』となり、いつしか『ゲゲゲの鬼太郎』となる。『墓場鬼太郎』、それはそれは子ども心に怖いマンガだったが、それでも、"怖いもの見たさ"に読んだ。鬼太郎の顔も今より怖く、絵もストーリーもグロテスクだった。

    あの当時、子どもの怖いものといえば、「墓場」と、秋祭りの時にでてくる「天狗」と「鬼神」であった。青年団の若者がお面をかぶっているが、それでも子どもには怖かった。それ系で有名な秋田の「なまはげ」は、作り物とはいえ出刃包丁を持っているところが凄い。「なまはげ」は怠惰や不和などの悪事を諌め、災いを祓いにやってくる使者(鬼・妖怪の類い)であるが、鬼神もそうであろう。

    大晦日の晩、なまはげに扮した村人が大きな出刃包丁(あるいは鉈)を持ち、鬼の面、ケラミノ、ハバキをまとって家々を訪れ、「悪い子はいねがー」、「泣ぐコはいねがー」などと奇声を発しながら練り歩き、家に入って怠け者、子供や初嫁を探して暴れる。家人は正装で丁重に出迎え、主人が今年1年の家族の行いの悪事を釈明するなどした後に、酒などをふるまって送り返す。

    そんな秋田県・男鹿半島の伝統行事、「なまはげ」の伝承に"黄信号"がともっているという。少子高齢化により、なまはげ役を務める20代の若者が少なく、行事の実施を見送ったり、高齢者が代役する集落も増えている。しかも、最近では幼児虐待だと言われることもあるのだそうで、これが取り止めとなったり、行事の見送りの理由でもある。まー、確かに怖いっちゃ怖い…

    若者時代似なまはげ体験のある者は言う。「よく本気で襲うフリをして怒られたものだ。 まあ、5時間追い回したときはさすがに疲れたが」。近年は、「脅されてる子どもがかわいそう」となまはげの受け入れを拒む家庭も増えているというのだ。オカシな時代になったもだ。「なまはげ」ってのは、元々そういうものであったはずなのに…。さらにはこういう理由もあるのだそうだ。

    なまはげがくることに備えて、家の中を片付けたり、綺麗にしておくのが面倒という面もあるのだという。「はっ?」一年に1回の行事だろうに?その日くらいは綺麗にしたっていいだろ!この横着嫁が!呆れて物が言えんよ。「子供が怖がる」、「残酷なものは見せたくない」という親も情けない。「恐怖」が排除されていく現代の風潮は、子供たちにとってある意味危険なことでは?

    そういえば、親や教師から「気持ち悪い」の声が「ジャポニカ学習帳」の表紙の昆虫を花に変えたのが3年前。何と言うバカな親と思ったが、家の主導権を妻が持ったことが影響したのだと思った。男が強ければ、妻のアホな言い分に、「何バカ言うんだお前は!花は家でも花瓶に挿せるが、昆虫なんてそうそう家に置いておけんだろ?こういう虫もいるんだこそ学習よ」と言える。

    ジャポニカ学習帳は、1970年に販売を始めたロングセラー商品で、累計で12億冊以上が売れた。学年や科目ごとに違うデザインをそろえ、表紙に昆虫、花などのオリジナル写真が載っていた。それを「気持ち悪いから」と、親の感性を疑ってしまう。綺麗なものだけを見、いい臭いだけかいで生きていけるわけないだろう。ところが、昆虫の学習帳が復刻されることになった。

    理由は、学習帳45周年企画として、消費者が1970~2000年代の計80種類から好きな表紙を1冊選ぶ人気投票をした結果、トップが昆虫だったことから販売を決めたという。ちなみに70年代はクワガタ、80年代はカブトムシ、90年代と2000年代はチョウが1位で、全て昆虫が占めた。母親や女教師の要望に圧されていた学習帳は、真に子どもの意を繁栄していなかった。

    花は綺麗だが、昆虫は汚い、気持ち悪い、そんな子どもが医師になって献体解剖授業で内臓を見れるのだろうか?内臓も死体も汚い、気持ち悪い以前に、実存するものである。事実から目を背けるような子どもなど望まない。復刻はよいことだ。学習ってのは綺麗だけを選び、気持ち悪いや汚いを排除することではないが、どうも女の感性が真実の妨げになっているようだ。

    子どもを強くするためには、気持ち悪いもの、怖いものを与えるのがいい。この世に存在するものをしかと享受するのが、世に生を受けたものの習わしである。善も悪もしっかりと見定め、醜も美も清も濁も同様だ。怖いもの、気持ち悪いものを好きになれとは言ってないし、避けてばかりはいられないということ。水木しげるからなまはげに話がとんだが、今日は書くことをあらかた決めている。

     『混血児リカ』という漫画の思い出だ。思い出といっても、題名は記憶にある。読んだ記憶もある。が、内容はさっぱり思えていない。どういう事で読む機会にあったかも記憶にない。作者も知らない。そこでネットで調べてみた。作者は梵天太郎(凡天太郎とも)という。何となく聞いた名だ。.彼は水木しげるの紙芝居時代の兄弟子にあたり、凡天が原画をかき、水木が色を塗るという関係であった。

    かの白土三平も凡天のアシスタントをし、白土デビューに凡天が尽力したという。一般にはほとんど知られていない凡天太郎は、紙芝居や劇画時代の巨匠であった。凡天は昭和4年生まれで、15歳で特攻隊に志願し、予科練を経て少年航空兵として鹿児島海軍航空隊に入隊。終戦後、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。学生時代より加太こうじに師事、紙芝居を描いて自立する。

    卒業後、少女漫画が評判となったが、突然引退。刺青修行の旅に出る。5年余り後に漫画界に復帰。「混血児リカ」や「猪の鹿お蝶」などをヒットさせる。など、奇異な略歴である。凡天の代表作と言われる『混血児リカ』(単行本全8巻に相当する)は、集英社の「週刊明星」にて1967年から連載されたが、当時は一度印刷された原稿は、簡単に捨てられたり、他人にあげたりが普通で、単行本化されていない。

    作品全編は電子書籍サイト「マンガ図書館Z」で有料にて読めるが、これは「マンガ図書館Z」を運営する、Jコミックテラスが凡天太郎事務所に保管されている貴重な「切り抜き」を使用し、完全保存版(600dpi)としてデータ化したものであり、"作家の望む形で公開したい"、"なるべく当時のままで公開したい"という方針の上、差別用語であっても修正せずにそのまま掲載したと、Jコミックテラス側は言う。

    そもそもタイトルの「混血児」自体が差別用語である他、本文も相当過激な内容であることからして、「日本の出版社での単行本化は事実上不可能だと思われます。」とJコミは言う。マンガはあまり興味がなく、「鉄腕アトム」や多くの子どもマンガ、青年マンガなど昔読んだマンガを読みたいとも思わないが、平田弘史と谷岡ヤスジだけはなぜか別格で、多大な出費も労も厭わず収集した。

    凡天太郎で検索すれば、多くの挿絵や表紙カバー絵などを目にするが、さすがに美術学校出身だけあってデッサンに狂いはなく正確な描写が目を引く。作品の著作権管理をする「梵天太郎事務所」は、2007年10月1日に設立されているが、世田谷区成城に居住の加藤弘氏が事務所の統括者で、以外の詳細は不明。凡天氏は2008年6月に他界したが、好奇心旺盛もあって幾多の肩書きがある。

    氏は昭和48年(1973年)、『混血児リカ』の連載終了を持って劇画から身を引いている。混血児とは馴染みのある言葉で、人種または民族の異なる父母との間にできた子どもを言った。欧米ではドイツ人とフランス人、イギリス人とギリシャ人などは普通であったが、島国で単一民族を標榜する日本人(実際はちがうが)にとっては、このような言い方をするしかなかった。別に血が混ざるわけではない。

    実際に混ざり合うのは遺伝子である。ただしヒトは、社会的動物であり、各々の人種・民族の単位で結束が固い社会にあっては、または封建的な社会において所定の氏族の政治的・社会的地位の格差がある場合などには族内婚で生まれた子供に比して、これら混血の人々が差別の対象とされやすい。現在では「混血」、「混血児」などは使われることはなく、一般に「ハーフ」と呼ばれている。

    してこの呼称は、1970年代に活躍した「ゴールデンハーフ」というアイドルグループの名称から全国的に広まったとされている。それまでの日本においては、特に戦後になって連合国軍兵士との間に生まれた人々(GIベビー)が社会問題となった。当時は、「混血児」や「あいのこ」と呼ばれ、母親が水商売や、当時パンパンと言われる売春婦、占領軍施設などで働く女性に「混血児」出産が多かった。

    兵士と自由恋愛の末に出産をしたケースも含めて、異端をよしとしない日本社会からは好奇の目を向けられた。やがて、差別やいじめの起因となることから、「混血児」という呼称の使用は避けられるようになっていった。ながらく「ハーフ」という呼称が疑問を呈すこともなかったが、1990年代に入り、「ハーフ」という呼称の語源に「半分」という意味があることから、差別用語ではないかとの意見が現れた。

    そして、2つのルーツ(出自)を持つという意味から、「ダブル」という呼称を採用しようとする動きが一部の親などから出始めたが、これまた様々な事由から定着しなかった。どうやら「ハーフ」に変わる言葉は見つからないのが現状のようだ。昔はイジメの元凶であった「ハーフ」だが、山本リンダ、草刈正雄などが先鞭をつけ、日本国内ではとりわけ欧米ルーツの人々は美男美女といわれるようになる。


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    ハーフには美人やイケメンが多いと巷でいわれていたし、自分もそう信じていた。根拠というより伝聞であり、ハーフの芸能人はほりの深い顔立ちに足も長く、スタイルがよいのが多い。背も高いし、明るく物怖じしない印象を受ける。根拠はどうなのかと調べてみるとこのように書いてあった。「外国のまじめな研究でも混血ほど個性的な顔立ちになり、肌も綺麗になる。

    遺伝的に離れている(例えば黒人と白人)ほど、肌の厚さや角質の厚さ等の差が大きいのだそうで、それらの差が無くなり優等生的な肌になり美しくなるようだ。これは74000年前にトバ火山が噴火し、人類の人口が2000人程度まで減り、絶滅寸前だった。その際に遺伝的多様性が失われて均質化した。遺伝的多様性は、黒人から白人が分岐し、最後に黄色人が分岐した。

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    多様性といった観点からは黒人>白人>黄色人になる。特に中華人は外人から見ると多様性が少なく、皆同じに見えてしまう。その考えで言えば、日本人も多様性が少ないで民族ゆえに、混血した方が美男美女になることになる。世界一美人の国と言われ、スーパーモデルを世界に供給するウクライナのコサック人は、欧州と中東とアジアの血が混ざった人たちだ。

    「ハーフは美人!」を疑問視する声も多い。ドイツ人の父親と日本人の母親を持つ作家で、タレントのサンドラ・へフェリン(本名・渡部里美)は自著、『ハーフが美人なんて妄想ですから! !』において、主観的だが真向否定している。彼女はハーフの辛さをこのようにいう。「一般的にハーフというと、モデルさんや芸能界など華やかなイメージを想像しがちです。

    ところが実際は、ハーフが社会で「普通に」生きていくのはとても大変なのです。私がずっと感じてきたこと。それは、世の中の人達がハーフに対して持っている「イメージ」と、実際にハーフとして生きる「現実」の間には、相当なギャップがあるということです」。彼女の他にもこういう意見もある。「私もハーフで30年以上前に日本で育ちました。

    私個人もハーフって言葉に違和感も偏見もないけど、世間の限りなく偏っているイメージってどうにかならないの!?って常に思っていました。今でこそハーフをたくさんテレビで見るけれど、当時は本当に珍らしくていろんな誤解と妄想と思い込みに悩んだものです。私はいわゆる普通の庶民の娘で、英語もしゃべれなかったからどっちかと言うと残念な方なのかなぁ…。

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    その後アメリカに渡り、英語も習得してやっと世間が認める普通のハーフになれたのですが、日本産まれの日本育ちで、漢字の名前しかない私は日本人として認めてほしい…、無理だけど。この気持ちは誰にも分かってもらえないんだと諦めていたけど、ハーフ仲間が少なからず同じ気持ちでいるってわかって嬉しかった。サンドラ・ヘフェリンさん、この本を書いてくれてどうもありがとう!」

    ハーフでない我々が、ハーフの人たちがどのような思いで生きてきたのかは分らない。ましてや、「ハーフに生まれてよかったね」などと言われようものなら、腹も立つのではないだろうか?「ハーフの何がいいのよ!」という言葉が口先まででかかるのではないか?ハーフでない我々は、ハーフの人たちへの偏見を持たぬ方がいい。好きでハーフになったのではないんだし。

    兵庫県在住の高校三年生マーガレットさんは、父がフランス人、母が日本人のハーフである。彼女もまたハーフである事で切実な悩みや苦労もことかかさない。「初めて会った人に自分の名前をいうのがうっとうしいなと思う。名乗ってもすらっと分かってもらえなくて、興味津々でみられたり…。でも、そういう風に思う自分が恥ずかしい。逃げてるなと思うから。」

    まずは、こういうところからハーフはうっとうしいのだと言う。言われてみると、「なるほど…」という気もするし、言われて見なければ分らないことでもある。彼女は幼児の頃から自分の名をいうときは、絶えず頑張ってるという自覚を持っていたという。「なるほど」そうかも知れない。他の子は、洋子、宏美、春奈であるのに自分はマーガレット。嫌だったろう。

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    小中で新しいクラスになると自己紹介がある。最初に隠さず言っておくと後が楽なので彼女はこう自己紹介した。「お父さんがフランス人なので、ちょっと名前が変わっています。でも、アメリカ人でないから英語はしゃべれません。趣味は読書と女の子なのに、木登りとか、ヘビとか昆虫採集が好きです」。父親参観のときも目立つ父が恥ずかしくて嫌だった。

    ただ、自分がそう思うことを父に悪いと感じていたという。「フランス人と日本人を見てるから違いも分かります。みんなと同じことをするのがいやなフランス人、日本人はその反対ですね。小学生の頃、友だちがみんな持ってるカバンが欲しくて『みんな持ってるから買って!』と父に言ったところ、『そんなのは欲しい理由にはならない』と買ってくれませんでした。」

    なるほどね~、日本人の子どもは、みんなが持ってることをあえて親に言って買ってもらおうとする。親もその様に言われると買ってあげなければ可哀想となる。文化の違い、国民性の違いはある意味すごいことでもある。「みんなが持ってることが欲しい動機なんて理由にならない!」と躾けたら、人がやってることは面白くない、という個性が身につくかも知れない。

    校則についての父とのやり取りも面白い。日本の学校は制服主体で、皆が同じ恰好でなければならないが、フランスは自由だし、アクセサリーもつけられる。彼女は言う。「祖母に会うためにフランスに行く前、父にピアスを買ってもらい、つけていったの。日本の学校では禁止だから外していたら父が、『どうしていけないの?つけて行けばいいじゃないか?』と言うんです。

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    でも、ダメなのはわかっているけど、禁止と言われてもつけて行く勇気のある人になりたい。でも今は、そういう事をする元気がないの。だからちゃんと守っているし、そんなわたしって、ハーフとしては失格なのかも。やっぱりわたしは日本人なんですね」。この言葉はハーフならではと聞き入った。日本人に抗う遺伝子と、日本人であろうとする心の葛藤だ。

    確かに子どもは親の遺伝子を受け継ぐという。親の頭の良し悪し(学力)は遺伝する傾向にあるが、知能指数と一緒で、知能指数の高い子は勉強すればどんどん成績はあがるし、そこは低い子よりもベースの違いの点で有利である。が、ある程度遺伝はあるにしても、勉強に向き・不向きはあるし、ひょんなことから勉強以外の他のことに興味を持つこともある。

    そういう子どもの興味や指向を無視し、あるいは止めさせてまで、親が勉強をさせていいものかについて自分は断固反対である。善悪を問うなら、子どもの主体性を無視という点で悪であろう。よくこのように親は言う。「子どもなんて、放っておけばゲームばかりして勉強なんかするはずがない。親としてそれでも放っておけっていうのか?」これが一般的な親。

    こういう場合に自分は親に問わせる。「では、ゲームを取り上げたら勉強するのか?すると思うなら、そういう確信があるならやったらいい。が、子どもの大好きなオモチャを強引に取り上げることの親の傲慢については、多かれ少なかれリスクはある。もし、お前の親が、お前の大切なものを取り上げたり、捨てたらお前はその親を一生恨むのではないか?」

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        ・「勉強しなさい!」などと怒鳴る
        ・ゲームを隠す
        ・1日30分だけに制限する

    上のような行為を一般的な親がやろうとも、自分にはとてもできない。なぜなら、親にこういう事をされるのが一番嫌だったからだ。自分は、親が隠したものは家の中のものを、それこそタンスの中の親の服類を全部外に放り出して探した。そういう行為は、それくらいに許せないことだという自己主張も兼ねていた。ところが以後、親は近所に頼んで預かってもらうようになった。

    ある日、「○○ちゃん、○○はウチで預かってるよ」と近所のおじさんが教えてくれたことがあった。「そこまでするのか!」。その時の親に対する不信感は言語に絶するものだった。近所のおじさんがなぜ教えてくれたか、その時には考えなかった。が、おそらく、「そこまで親がやっていいものか?」という批判では?もちろん、母はそのおじさんを責めた。これも場違いである。

    意に添わぬ相手を敵にしてしまう傲慢さは、いかにも思慮ない母親である。「チクった」といいたいのだろうが、おじさんは正義を行使したのだ。大人は大人の味方か、子どもの味方であるべきか?そうではなく、「善」の味方であるべきで、言い方を変えると「正義」に味方をすべきである。近所のおじさんは、母に嫌われたろうが、「義」の人として自分の中にいる。

    「携帯など子どもの大事なものを取り上げるな」とイロイロ親にいうが伝わらない。与えたものを勝手な理由で取り上げるなどの傲慢は許せない。よくもそういう事ができるのかと。買い与えた物の所有者は子どもである。面白くないからの理由で取り上げるなど、親以前に人間のすることではない。近所のおじさんは、母の余る行為に批判的だったという確信に至る。

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    子どもは社会的弱者。家庭においても支配される側。ひどい子どもも存在するが、それらは誰あろう親の責任だから、子を責める前に自身を責めるべきだ。か弱く、いたいけな子どもの人権をことごとく踏みにじられた経験から、子どもを操ろうとする親には否定的である。子どもは一生懸命に生きている。成長しようとしている。なぜ親がその障害にならねばならない。


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