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喜ばしいことに笑みを、怒りには鉄槌を、哀しい時は涙より奮い、楽しければハメはずす。長文愛好者限定ブログですが、我慢して読む方歓迎。「なげ~の書くな、このアホンダラ!」という方、さようなら・・・。

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  • 07/06/15--02:05: 日本人とアメリカ人

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    安倍首相が遊説中に暴漢に背中をナイフで刺された。急所は外れたものの、一刻を争うという事で、たまたま近くにあった総合病院に搬送された。そこは共産党系の病院で、医師の多くは共産党員でもあった。首相の意識は明瞭で、言葉もハッキリしている。救急車のストレッチャーに乗せられて手術室へと運ばれる首相に向かって、ある医師がこのように声をかけた。

    「首相、自分は共産党員ですが、今日一日だけは全員が自民党員になったつもりで頑張ります」。ジョークであろうが、同行していた官房長官が、「貴様、こんなときに悠長なジョークなんか言ってる場合か?不謹慎も甚だしいではないか」と、周囲に言葉を撒き散らし、「責任者を呼べ!ふざけた医師だ」と、怒りが抑えられず、その足で理事長室に駆け込んだ。

    と、これはフィクションであるが、もし医師がそのようなジョークを吐いたら、こういう事態になったかもである。これを新聞報道で知った国民の多くは、「共産党にはふとどきな人間がいるな」とネット投稿や当該病院はもちろん、共産党本部に苦情電話がかかるだろう。委員長も党員の不謹慎な発言であったと遺憾の意を表明することになりかねない。

    なぜこのような事態になるのか?それは日本だからである。では、なぜ日本人だとこのようになるのか?アメリカで以下の事件があった。1981年3月30日、ワシントンD.Cでアメリカのロナルド・レーガン大統領が銃撃された。銃撃直後にレーガンはシークレットサービスによって大統領専用車に押し込まれ、その直後は無傷と思われたために即座にホワイトハウスへ向かった。

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    しかし、その後に大統領専用車内でレーガンが吐血し併せて胸部に出血を認めたために、シークレットサービスの機転もあって、大統領専用車は近隣のジョージ・ワシントン大学病院に急行した。病院における検査の結果、弾丸はレーガンの心臓をかすめて肺の奥深くで止まっており、かなりの内出血を起していた。その後即座に緊急手術を受けることになる。

    レーガンは出血を伴う重傷を負っていたにもかかわらず意識ははっきりしており、自らの胸から弾丸を取り除く手術の前には執刀外科医に対して、「あなた方がみな共和党員だといいんだがねぇ」とジョークを飛ばす余裕さえ見せた。執刀外科医は民主党員だったが、「大統領、今日一日われわれはみんな共和党員です」と答え、レーガンを喜ばせたという。

    また、レーガンは入院中にも見舞いに訪れた妻のナンシーにも、「Honey, I forgot to duck.(避けるのを忘れてたよ)」とジョークを飛ばすなど、陽気な性格の一面をみせた。このセリフは1926年、ボクシングヘビー級のタイトル戦でチャンピオンのジャック・デンプシーが挑戦者ジーン・タニーに不意の敗北を喫したときに妻に向かって言った有名な「言い訳」である。

    余談だが、デンプシーは一年後にタニーと再試合を行ったが、7回にタニーから強烈なダウンを奪った。ところが、ルール改正によりニュートラルコーナーへ行くことを忘れていたデンプシーは、レフェリーに注意を受けるなど、その間カウントが数えられなかったために、タニーはカウント8(実質20カウントといわれている)で立ち上がってしまった。


    結局この時点でKOできなかったデンプシーは、8回にダウンを奪い返され前回と同様判定負けを喫してしまった。この試合は「ロングカウント事件」としてボクシング史にその名を刻んでいる。運悪く勝利を得ることはできなかったデンプシーの苦悩は想像できるが、彼はそのときに言った。「I'm not going to live in the past.(俺は過去に生きるつもりはない)」。

    引退後は、一時期プロモーターを務めていたが、現役時代から付き合いのあったアル・カポネの一味が八百長試合をけしかけるなど、試合に口を出すようになったことに嫌気がさし、プロモーター業に見切りをつけ、レストランやホテルの経営に乗り出した。当時のしがらみもあり、裏組織と手を切ることはできなかったが、デンプシーは男気のある人間だった。

    マンガ『はじめの一歩』の主人公、幕之内一歩のデンプシーロールという必殺技である。デンプシーは魅力的な人間だが、人にはそれぞれ、さまざまな魅力がある。レーガンの魅力は、頭の良さに加え、機智や茶目っ気ももっていた。それが、史上最大の地滑り的勝利をもたらすほどに全米を魅了した。これらは後の8年間の政権を通じて変わることがなかった。

    政策の失敗やスキャンダルなどでホワイトハウスが叩かれても、比較的高いレーガンの支持率は急落することがなかったのも、彼の「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかった。アメリカ歴代大統領の人気調査は年を変えて行われているが、ジョージ・ワシントン、エイブラハム・リンカーン、フランクリン・ルーズベルトの3人は、常に不動である。

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    レーガンも人気は高く、最高位は8位で、これはケネディの最高順位と同じである。クリントンも近年では人気の高い大統領で、その理由は、彼らの時代に生活が楽になった事が挙げられる。とりわけレーガンは、70年代は、ベトナム戦争の終結や、石油ショック、ウォーターゲート事件などで低迷したアメリカ経済は、80年代には目に見えて生活が豊かになった。

    レーガン政権前のカーターやニクソンが不人気すぎたという事情もあるが、レーガンは才知ある大統領であった。彼は政策のキーパーソンを厳選し、優れた専門家集団に任せその舵取りができる才能があった。元俳優という武器を用いて国民との対話で手腕を発揮した。実は、日本人も80年代のアメリカが大好きだったし、ロス五輪は最高にして強烈な印象が残っている。

    世界の多くの人がアメリカに憧れるような、そんなアメリカをレーガンは作った。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、1955年時代のドクに出会ったマーティが、「1985年の大統領は誰だ?」と聞かれ、「ロナルド・レーガンだ」というと、「あのへぼ役者のレーガン? じゃあ副大統領はジェリー・ルイス? ファーストレディはジェーン・ワイマンか?」

    などとドクは馬鹿にした言い草で、レーガン大統領を信じない場面がある。もっともこれらはロナルド・レーガン大統領と、彼が映画俳優出身であったことを知らない観衆には、何のことやらさっぱりわからないし、笑いも取れなかったろうが、日本風にいえば、「ええっ?総理大臣がビートたけしで、副総理が明石屋さんまか?」と、言ったところだろう。

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    レーガンを茶化していると言われたが、レーガンはこの場面を気に入り、一般教書演説に引用した。「私はアメリカのより若い世代の皆さんに率直に申し上げたい。なぜなら、あなたがたこそ我々の合衆国の将来を担っているからです。(中略) 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で述べられているように、我々がこれから行こうとする場所には、道など必要ないのです。」

    ネアカのアメリカ人にユーモアは必須である。ユーモア(Humor)とは何?ユーモア(Humor)の語源は、Humanという説もあり、ユーモアは人間だけに与えられ、人間そのものであろう。イヌやネコやウシなどの行動や素振りがユーモアに満ちていても、人間がそう感じているだけで、本人(?)たちは何ら意識にない。人間と人間に必須の潤滑油としてのユーモア。

    ユーモアを理解したり、創造したりするには、言葉の教養が必要かも知れないが、柔らかい思考をする人なら自然と発せられるはずだ。相手を思いやり、同じ人間として、自分と相手を対等の階梯に置く人なら、自然とユーモアは導かれる。大人と子ども、老人と若者、王様と乞食がユーモアでつながることはできる。ところで、オヤジギャグはユーモアか?

    面白い人間は仕事が出来る人間であろう。理由は、つまらぬ物を面白く変える力を有するから面白い人間であり、ならば仕事も楽しくやるであろう。ギスギスと堅苦しく、何の面白みもない人間よりも面白い人間の方が一緒にいて楽しい。嫌な世を楽しく、つまらない日常を楽しく変えてくれるからだ。オヤジギャグを連発するオヤジも、そんな面白い人間の範疇か?

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    「違うな!」、似て非也である。人間として面白い人、ユーモアをもって仕事をする人、いろんなタイプがあると思うが、自分の思う「面白い人間」、「ユニークな人間」は、適度に笑いどころがある話術を持ち、しかも話題も豊富なので、いろんなタイプの人を楽しませることが出来る。AにはAの、BにはBの、CにはCの引き出しが用意できる柔軟性がある。

    かつ面白い人間は、自分が楽しもうとしていること。ユーモアも同じように他人に向けたものではない。ウケ狙いのオヤジギャグとは一線を画すし、押し付けがましいオヤジギャグは嫌われる元凶である。同じオヤジギャグでも、これ見よがしな言い方でなく、さらりというならまだしもだが、押し付けはよくないからといって、一人でギャグってる人間も「変な人」である。

    お笑い芸人は商売であるが、これにもランクがあり、人を笑わせようと必死になったり、しゃか力になったり、バカなことをやったりばかりを続けると無残である。最初の1、2回なら笑いを取れる場合もあるが…。「芸の達人」はオーバーな言い方かもだが、無理して人を笑わせようとするのではなく、自分が面白いことを考えて披露することこそ、面白いの基本であろう。

    自分が面白いから他人も面白いとは限らないが、バカげたこと=面白いことではない。芸人は職業ゆえにそこが大変であろうが、職業芸人でない一般人なら、最低は自分が面白いと思うことを、人のためにではなく、自ら楽しむつまりでやる人が面白い人であろう。(ウケねらいの)オヤジギャグは止めて、ユーモア精神を学び、身につけることが大切だ。

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    「遊戯性」の人は遊び心をもち、好奇心も強い。人生を様々な角度から楽しむ生き方をする。他方、「現実性」の強い人は、その名のとおり現実的なものの見方、考え方を貫く人。これが高じて伝統や権威にしがみつく権威主義者になりやすい。融通性の利かない人もこの範疇だ。遊興心ある柔軟な人は相手に合わせられるが、融通の利かない人は遊興心ある人に合わせられない。

    だからそういう人を「ふざけてる」、「不真面目」などと批判する。自分が正しいと思うだけでは気が済まず、批判までして己の正しさを強調する。これらの批判を相手にしない方がいいし、基本は放っておくが、時たま融通性のなさを指摘してやりたくなる。本人のためと思って言うにしても、本人は自分の思う本人が正しいのだから、他人の意見に腹を立てたりする。

    同じ民族でも生育環境によって、価値基準は変わる。人は、自分の育ってきたものが正しいと思うが、自分を育てた親を間違っていると思わない人はいる。親や教師や周囲は正しいものだけを与えてくれるだけの人ではないのだし、正しいものと同等に間違ったものも押し付けてくる。それをキチンと見極めて、咀嚼し、価値判断をするのが正解であろう。

    「親や教師は正しく、間違っていない」は、間違っている。そういう人間は権威主義に惹かれていくであろう。「神は絶対者である。ゆえにすべてが正しい」と、コレは信仰であって、無神論者は、「神だって間違える」とは言わない。そもそも存在しない神に責任追及はしない。一般社会でありがちなのは、自国と他国を比べて、「それはオカシイ」といっても、それが文化であったりする。

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    上の画像は日本の首相とアメリカの大統領、いわゆる日米首脳会談の一コマだが、何か気づくことがないだろうか?「日本の首相は足など組まず、みなさんお行儀がいい」と感じるか、「日本の首相はなんだか遠慮気味でまるで、アメリカ親分の子分のようだ」と感じるか、「日本は見るからにアメリカの属国だ、みたいな主従関係丸出し」と思うか、人それぞれだろう。

    いや、首相に限らず、日本のサラリーマンが、得意先の社長の前でこんな足組はしないだろう。相手がそうしてもしないはずだ。理由は、「横柄だ」、「行儀場悪い」、「非礼な態度」ということになる。腕組もしないだろう。天皇陛下の前で足を組んだエクアドルのラファエル・コレア大統領は、「日本に来る前にマナーくらいは勉強しろ」と非難轟々であった。

    エクアドルはどうか分らないが、アメリカ人が足を組むのはチャンと理由がある。これは日本とはまったく逆の考え方で、足を開いて座るのが、無用心、だらしが無いという考えらしい。それと、急所を守る為に足を組むのだという。日本人にも、「足を組むなどとんでもない!」とか、「足組=非礼、と結びつけるのはどうか?」という人もいようが、"急所を守る"発想はない。

    そもそも椅子の文化はあちらの様式の輸入だから、あちらの考え方でいいと思うが、どうしても、「非礼だ、許せん!」というなら、いっそのこと外国の要人はみな和室で接待し、畳の上に正座させるがよいかもしれない。それをしないのであらば、外国では非礼にあたらない足組を許容すべき。もしくは、「陛下、キンタマ守るために、足をお組下さい」と言ってみるか?

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  • 07/07/15--04:35: 日本人とヤダヨ人
  • イメージ 1他国の文化や風習を批判するのは、無知の謗りを免れないが、どうであれオカシイものはオカシイ。長い鎖国の時代から明治になって異文化がけたたましく入ってきた。"異国情緒"なる言葉も生まれた。ヨーロッパからピア二ストが日本にピアノ指導に来ることとなり、先にピアノだけが貨物船で長い旅路で送られてきた。
    やがてピア二ストが来日し、和室のレッスン室に入ったら、すべての足が取り外されたピアノが畳の上に琴のように置かれていて、鍵盤の前には座布団が敷かれていたという。外国文化が入ってくると並行して、あちらの言葉が日本語になったものも多い。「ラムネ」⇒「レモネード(lemonade)」、「ワイシャツ」⇒「white shirt」、「サイダー」は「シードル(cider)」をサイダーと読んだことによる。

    ぐっすり眠るの「ぐっすり」は、「good sleep」からと聞いていたし、自称雑学王こと唐沢俊一も、テレビ番組「世界一受けたい授業」でそのようにいっていたが、寛政2年(1790年)に編纂された『黄表紙・即席耳学問』という書物のなかに、「すっかり」、「十分に」の意味として「ぐっすり」が使われている。当時は鎖国時代であるし、英語からとは考えにくいというのがこんにちの定説である。

    知識は所詮は何かの文献等から仕入れるものだが、その文献が事実でなければ間違った知識を身につけることになる。司馬遼太郎や吉川英治などは、収入のほとんどが古書、古文書などの購入費用というから、小説家といえども彼らの責任感として、歴史家に劣らぬ史実で書きたいのであろう。ネット時代の情報収集は便利であるが、便利は安易、安易は無責任といえる。

    良いところもあるが、情報過多時代の情報というのは、間違いの宝庫といえる。個人が見聞きするのはたかが知れているし、その意味で情報は見聞を広めるけれども、情報がまったく入らなかった殺伐の時代に比すれば楽しからずである。実際に見たこと、見たものは事実というけれども、見た物を見たままに描写するのは結構難しく、主観を交えると嘘になってくる。

    事実だけが人間の世界にあるのではなく、さまざまな次元の中に我々は生きている。「事実の世界」と「言葉の世界」とを区別し、人間の抽象レベルの相違を追及する学問もあるわけだが、「事実の世界」といっても、顕微鏡や望遠鏡レベル、肉眼のレベルと分けることもできる。肉眼のレベルもまた、知覚による捉え方、感覚による捉え方があり、感覚を事実でないとはいえない。

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    そもそも物質の実在というのは、人によって捉え方(感じ方)が違う以上、抽象の過程といえなくもない。具体的な物質の実在を全体として捉えることなどできないし、ある実在の側面が反映されているにすぎない。また、望遠鏡や顕微鏡といった、人間の神経組織で捉えられない実在も、抽象された世界であろう。事実という物は、実は認識の深化といっていい。

    人の知識レベル、感覚レベルが違うように、認識レベルも変化するなら、何が事実であるのかということになる。小学生の夏休みの宿題の定番であった「朝顔の観察日記」(最近はあるかどうか知らない)は、それぞれの子どもによって違うものであった。例のSTAP細胞事件で、科学者の「実験日記」がいろいろ言われたが、小保方流実験日記も話題になった。

    あれを科学者の「実験日記」というのか?子どもの「朝顔観察日記」レベルなら、彼女を科学者と呼ぶのが間違っていることになる。あれが原因で科学界から葬られることとなったが、スーパーの時給パートで生気を発散させて働けるような、つぶしの利かないエリートって、家にこもって親に食わせてもらうしかないのか?働かないなら育てた親の責任として面倒みるしかない。

    エリートの語源は、ラテン語の「ligere」(選択する)で、「選ばれた者」を意味する。そういえば地元で最も偏差値の高い私立女子中では、入学式の校長の訓示として「あなた方は選ばれた人たちなのです」と言われたと聞いた。毎年同じことを言うのかはともかく、選ばれた人間には違いない。選別する受験問題に異論はあるが、選ぶためにくだらない問題も必要だ。

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    昨今の試験は選ぶためというより、落すための問題を作るらしい。それくらいに塾等で鍛えられてきた子どもには、少々の難問くらいでは差をつけるのが難しい。コレが塾の功績であるが、付け焼刃的なテクニックを覚えさせて、その子が頭がいいとどうしていえるのか?しかし、難関中学に入るためにはコレしか方法がないのである。それで小保方のように挫折したら?

    まあいい、女性はいざとなれば永久就職という受け皿があるが、アラサー、アラフォーといわれるキャリアは、相手選びもままならず、昨今はアラフィフなどの女性も少なくない。これでは合計特殊出生率(一人の女性が一生に産む子供の平均数)は、0点台に突入することになる。いわゆる少子化の原因というのは、未婚化や晩婚化などに伴う晩産化や無産化である。

    人間の世界は事実だけではないといったが、「言葉の世界」には詩や小説などの文学、そういった表現世界には映画・演劇がある。人が本を読みたくなったり、映画を観たくなるのはなぜだろうか?本日、『海街diary』という映画を観てきた。カンヌ映画祭出品作で賞には至らなかったが、この映画を観たいと思ったのは、映画のある場面の批判が凄まじかった理由も一つ。

    その場面とは、ちゃぶ台で食事をする場面で長澤まさみ演じる佳乃が立膝をして食事をしているのを多くの人が強い口調で非難しているのを、そこまでいうべきことかとの反論もあって、映画を観た。日本人が日本人を批判して悪いなどはないが、自分的には看過できないえげつない批判があまりにも多かった。人が何をどう思うその事に批判をするのは好きではないが、ものには限度がある。

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    是枝裕和監督が立ち膝場面をわざわざ盛り込んだ意図は、映画を観ると分かるし、監督はそれでもツイッターで、「だからね、このカットはお姉ちゃんが妹に、「お行儀が悪いわよ」って注意をするシーンの一部なの。突っ込む為のフリとしての立て膝。ご理解いただけますか?と書いている。にもかかわらず、容赦ない批判はあきれる程多い。以下はその一部である。

    ◎役柄にしても、日本人の最小限のマナーは心得て欲しいですね。お女郎さんでもないし、あばずれの役柄でもない、普通のホームドラマの1シーンのようなので。しかも、「古き良き時代の日本女性」として宣伝されているようだし。

    ◎会社員がカバンを頭に乗せて歩けば「ナニやってんだお前」と笑われます。しかし、物を頭に乗せる風習の民族もいます。でも、日本ではまずあり得ない行動のように思え、前フリに使うには余りにも不自然で不適切。だから、どこか特定文化の影響かと疑うのです。

    ◎行儀が悪いにもほどがありますね。こんな恰好してごはん食べる人なんています?日本人で。肘ついてごはん食べるなって言うのはよくある話ですけど。行儀悪いの注意するなら、そっちでよかったんじゃないですか?

    ◎是枝監督のこの作品、前回もですがフジテレビが制作で入ってますよね。韓国の習慣をさりげなくアピールしたいのでしょうか。監督の言い訳も私には苦しく感じました。(略)映画に詳しくなくて知識がないのですが、素晴らしい監督さんなのでしょうか。

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    ◎立膝の場面でこの映画の品位がどんと落ちます。食事の行儀の悪さを描くなら肘をついて食べるとか、ほかにも方法があったはずです。映画は絶対見ません。

    ◎まだ分別つかない小さな子どもが躾で注意されるならまだしも、いい年した大人が立て膝で“ついうっかり”食事して注意されるような設定に違和感を感じる人は多いと思いますよ。

    ◎ちゃぶ台を囲んで家族で食事をするような家庭環境・年代で、年頃の女の子が立膝で食べ物を口に運ぶようなことがあったら、「お行儀が悪い」どころか一同凍りついて声も出せないほど驚愕します。それほど異様な光景に見えます。

    ◎原作は良いのに、がっかり、、。映画化しなければ良かった、、、。

    ◎日本人は立膝で食事はしません。韓国の女は立膝で食事をしますね。スカートの下はノーパンとか。うす汚い習慣。監督の言い訳も変。正座から突っ込むための立膝の言い訳は苦しいね。

    ◎胡座や体育座りでも良かったのに、わざわざ特定の国の作法を連想させる立て膝にする意味がわからないし不快。

    ◎脚組んで頬杖ついて食事する人はよく見かけますが、立て膝で食事する人なんて見たことありませんけどね(^_^;)

    ◎製作者サイドの意図もおありでしょうが、見せられる方は実際不快になる。このシーンばかりあちらこちらで見ますし、意図的に宣伝に使われているように見えます。

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    日本人が日本人のことをここまで言わなきゃならないのか?というほどの言われようである。実際映画を観ると、綾瀬はるか演ずる長女役に長澤まさみは、「これ、あんた、足!」と、立て膝を注意されている。にもかかわらずである。是枝監督もそういっている。にもかかわらず、ここまで言わなきゃ気が済まないなら、「お前は聖人天使か!」といいたくなるような言葉の羅列である。

    たったの数秒の場面で、こんなにいい映画を「観ない!」と、それは勝手だが、何で是枝監督はここまで言われなきゃいけないんだ?世界のクロサワこと黒澤明監督が、『椿三十郎』の血しぶきシーンで海外から、「日本の時代劇のヘモグロビンの噴射は、もうたくさんだ!」などと悪口を書きたてられたことは先に書いたが、日本人が日本人をボロクソにいう始末。

    ボロクソ言われる理由があるならいいけれども、行儀の悪い所作を注意するシーンであるのが何で許されないのか理解できない。韓国がどうのこうのという拡大解釈もちと場違いに思えた。よってタカって非難の嵐をネットイナゴというが、凄まじきその暴力性である。是枝監督を擁護するわけではないが、意図を理解しないバカたれ連中に、は同胞として情けない。

    言論統制などという大それた問題ではない、あまりのバカバカしい批判に憤慨ものだ。もういい、この件は。ブタに真珠だろうから。ところで、映画は良かった。何が良かったかと言われると、いろいろ良かった。映画を観ながら自分は、すべての役を演ずる人間の気持ちに同化しながら場面の行動やセリフの適合性を考えたりする。違和感を抱いたのは樹木希林の以下のセリフ。

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    「あの娘は妹は妹でも、あなたたちの家庭を壊した人の娘さんなんだからね」

    これはちょっといただけないなと感じた。こんなことを普通、言うだろうか?浅野すずは三人姉妹の父が女を作って、離婚した腹違いの妹ではあるが、家庭を壊したのは父とその愛人であって、生まれた子どもに何の罪もない。そんなことは考えれば分かる事なのに、そんな言い方をするような性格設定なのだろうか?まさに「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」がモロ出しである。

    この映画は吉田秋生のマンガが原作である。以前、『櫻の園』を観た時、あとで吉田秋生の原作と知ってマンガを見たけどつまらなかった。マンガが好きでない事もあるのだろうか。『海街diary』はいい映画だったが、吉田秋生の原作は読む気はないし、映画で十分だ。この物語は家庭を捨てて去っていった父の、腹違いの妹と一緒に暮らすという、ありそうもない現実をモチーフにしている。

    自分が時々思う、"いい人の相対性"についての命題がある。つまり、子にとってよくない父は、会社ではいい社員であったりする。逆に会社ではダメ社員が、家庭的で妻や子どもにとって、"いい父"であったりする。妻にとってダメ夫が、飲み屋のママさんには"いい客"であり、会社の女子社員にはいい上司であったりする。人の良し悪しは、視点によって変化する。

    家庭を壊した父の子すずは、常に負い目を感じて生きている。三姉妹の父を知る大衆食堂「海猫食堂」の店主二ノ宮幸子がそんなすずにいう。「あなたのお父さんはきっといい人だよ。だって、あなたのような素敵な宝物を残してくれたんだもの…」。これは不思議な言葉で、すずという人柄を見た幸子の視点である。「私は宝物じゃありません」と、すずは自身の視点でそういった。

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    三姉妹の長女香田幸も、すずと少しばかり生活して感じたのだろう。映画の最後を飾る素敵な言葉を吐いた。「ろくでもない父だったけど、きっと優しい、いい人だったのかもしれない。だって、すずのような子を育てたんだから…」。自分たちにとってはダメな父でも、別の視点から見ると「いい父」だったのか。視野を広げることで、新たな父像を見つけたようだ。

    視点を変えて物事を見ることはなかなかできないが、それをしたときに別の何かが見えてくるものだ。「視野を広げなさい」と、簡単にいうけれど、人に言われてはなかなかできない。家庭を捨てて去っていった父と、母から奪った憎き女ではあるが、二人の子に接してみて、そういう思いに至れたのは収穫である。現実にはあり得ないことだが、映画はそれを見せてくれる。

    『日本人とヤダヨ人』という表題は、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』をもじったもので、イザヤ・ベンダサンは山本七平の偽名である。ユダヤ人の視点から眺めた日本人論としつつ、本当は日本人から見た日本人論である。文中有名な言葉は、「ユダヤ人にとっては、明日がどうなるかは絶対だれにもわからないので、明日の生き方は、全く新しく発明しなければならない」。

    「日本人は水と安全はタダだと思っている」などがある。山本はユダヤ人を名乗った理由を明かしていない。『海街diary』という素敵な映画を、カスみたいにいう日本人もいるのは残念だ。「立て膝で食事をするような行儀の悪い日本人を描いた映画は観ない」というのは、そうならそうでいいけれども、なんだか、とてつもなく心狭き日本人に思えてならなかった。



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  • 07/07/15--20:29: 『海街diary』

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    この映画は6月13日に公開されていたのを知らなかった。さらにいえば、映画の存在さえも知らなかった。内容もまったく知らないままに、立ち膝問題があったから観に行った。主要な登場人物である四姉妹の綾瀬はるかと長澤まさみは知っていたが、夏帆も広瀬すずも、存在すら知らなかった。最初、広瀬すずを長澤と思って観ていた。若作りのメークだな、と思いながら。

    映画を観終わった後で、上の書いた事柄を自分自身が笑ってしまった。夏帆を知らず、広瀬すずを知らず、長澤を広瀬と思って観ていた自分って、あまりに老人過ぎないか?という笑いである。現代人の端くれとして現代を生きてはいるが、さりとて現代のことを知らない、蚊帳の外、つんぼ桟敷を痛感するも、「年寄りってのは、そういうもんだ」と自己肯定する。

    そういえば"つんぼ桟敷"という言葉は、1974年に吉田拓郎の、『ペニーレインでバーボンを』という曲の歌詞に、この言葉があることで販売自粛(事実上の生産中止)となる。「つんぼ桟敷」は差別用語のようだ。以降コンサートでこの曲を披露する時は、「蚊帳の外」と変えて歌っている。当人の差別意識の有無に関わらず、差別用語と受け取れる歌詞は、業界で自主規制された。

    さて本題は『海街diary』で、今年度のカンヌ国際映画祭に正式出品され、現地でも是枝裕和監督と主演女優4人が注目を浴びていた。是枝監督とカンヌ映画祭は縁が深く、初出品作は『DISTANCE』(2001年)、次いで『誰も知らない』(2004年)では、主演の柳楽優弥が最年少で最優秀主演男優賞に輝いた。そして2013年の第66回カンヌ国際映画祭『そして父になる』は審査員賞を取る。

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    『海街diary』は賞には入らなかったが、自分はこの映画を楽しく、微笑ましく、鑑賞した。心に残る、心を打たれるというほどの内容ではなかったが、楽しく、微笑ましくの理由は、自分が一人っ子であり、映画全般における三人姉妹の掛け合いが、新鮮であったからだ。一人っ子にすれば兄弟の不思議さというのは、どう転んでも体験できない、永遠の謎である。

    一人っ子には兄弟とは何かを、説得力をもって説明することはできない。兄弟のある他人は、兄弟についてどうということは無さそうに見えるが、そのどうということの無さも含めて分らない。分かりたいと思って、結婚したらたくさんの子どもを作ろうと思った。そうして四人の子を持ち、子どもの頃から兄弟の何たるかを学ぼうとしたが、眺めているのは体験とは程遠い。

    兄弟っていいもののように思う。が、兄弟なんか…、そんな悲惨さも耳にする。「兄弟なんかいない方が良かった」という奴もいた。「姉なんかいなきゃいい」も、「妹なんか消えてほしい」も多く聞いた。若貴兄弟の確執も報道で知っている。同様に、フィギュアの浅田舞、真央姉妹にも様々な軋轢が伺える。それらも含めて、兄弟を紐解くことは自分にはできない。

    が、兄弟を考えることできる。何事も、体験しなくても考えることは可能である。死も戦争も体験はないが、考えることはできる。もちろん、答を求めての思考であるが、出てきた答えの正否は分らない。死んでどうなる、戦争現場の状況は文献や、映画や、小説など、他人の想像力を加味して思考するよりない。子どもを4人持って、兄弟には自ずと自治が発生するのが分かった。

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    自治はまた秩序でもある。「長幼の序」とは、年長者と年少者との間にある秩序という意味で、先にこの世に生まれたものが偉いのであり、また、偉いとすべきである。偉いとは幅を利かすという意味で、頭の賢さではない。秩序というからには、これが正しく行われないのは良くないということになる。映画『海街diary』の幸は、長姉でありながら母親の様でもある。

    妹に対する躾をするような小言をあそこまで姉が言えば、対等としての兄弟(姉妹)からすると、腹も立つであろう。実際、腹を立てながらも従い、時には従わないように見える。姉が妹にどこまで遠慮せず、妹は姉にどこまで遠慮しているのか、一人っ子にはその加減が分らない。しかし、その加減は常に一定というのではなく、時と場合の気分などによって変わるようだ。

    姉や兄は権威ではないから、おとなしかったり、小心者であったり、そんなだと弟や妹の方が力を持つ。そうであっても、上に対して一目置いた部分はあるのだろうか?さまざまなケースがあるから、兄弟はこうだと定義はできない。映画のワンシーン、家の電話が鳴る。長女は次女に命令するが、次女は三女に、「あんた出てよ」と指示する。三女は素直にいう事を聞いていた。

    が、姉のいう事を聞く理由はない。親であっても聞かないこともあるわけだ。だから、もし映画で三女が、「ちょっと今出れない」とか、「人に命令しないでよ」とか言ったら、ややこしい場面を映画は作らなければならない。実際に、現実に、そういう事はあるだろう。おそらく、兄弟は対等意識が強いから、上からの命令を嫌うはずだが、黙って従う時はどういう気分なのか?

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    親が三女に何かを命じたら、「何で私にいうの?」ということはある。「何でお姉ちゃんには言わず、わたしばっかり…」という不満を露にするが、それは親が、「長幼の序」を行使しているのであろう。長女に言っても次女に、次女から三女に、上の電話のシーンのようにである。それならいっそのこと最初から三女に、というのが親の合理的な判断かも知れない。

    もし、三人がゴロ寝していて、洗濯物を取り込んでという用事を親が長女に言った場合、長女は面白くないはずだ。これは我が家の例であるが、次女、三女に先駆けて、率先してやる長女もいるのかもしれない。なぜ、長女は自分が命じられて頭にくるのか?おそらく「長幼の序」で、自分が偉いと思っているからではないか?親はそれを見越し、だから最初から三女にいう。

    対等意識の強い三女は、「じぶんばっかり…」と不満を持つことになる。これが一般的な家庭における兄弟間の自治ではないのか。親は兄弟に対等に接するのが大事だが、思うだけで、対等に接しているかどうだか?お姉ちゃんと妹に何らかの線引きをしているはずだ。ネットの「発言小町」という投稿欄に、「兄弟姉妹って何?悲し過ぎます。」という以下の投稿があった。

    「5人の兄、2人の姉がいます。私は8人目の1番下3女です。兄弟姉妹にぐったりです。私は40代です。元々ですが大人になった今も長男が偉く、上から順番の、力関係が絶対的です。昔なら有りそうですが今時あり得ない、悲惨さです。下は上に意見を言うな。下のまともで、正しい意見でも上としてきく訳にはいかない。下は黙って上に気を使え。等々…(中略)

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    2女は私と違い柔らかいタイプなので兄弟達は言いたい放題。やりたい放題。正義感が強く真面目な2女は苦しんでいます。鬱になり薬を飲んでいますが、「そんなもの自分が悪いんだ!」等、上に言われ、いたわりも助けも無し。母を全て2女任せ。今更優しさを求めていません。せめて、いじめるのをやめてほしい。私は母と2女をかばいますが、こちらの正論に対し上の兄弟達は結託して攻撃の嵐。疲れました。。。。

    私はこれからも、力にならなければいけないのでしょうが、身も心も疲れ果てています。上6人の、2女をいじめる事で結束が生まれストレス解消のはけ口にしているかのようにな暴言と勢いの凄さに呆れます。集団のなせる技、そのものです。理不尽で弱い者いじめが許せない!怒りで一杯です。悲しみで一杯です。皆さんも兄弟姉妹いらっしゃいますよね。良い関係ですか?兄弟姉妹は他人とも違い、家族とも違い、ただの身内?一体なんなんでしょう……ご意見頂きたいです。」

    という内容だが、自分はこの方に対して何も言えないでいる。出てくる言葉が見つからないのだ。その原因をあえて言うなら、これは兄弟間の自治の問題である。つまり、他人がアレコレいうべきことではないし、兄弟間の自治を上手く調節するのは親の役目である。親がそれをチャンとやっていれば、何かが逸脱した時にこそ、親は調整役にまわれる。

    長兄が偉い、長姉がのさばっていても、親は子どもの上にいるわけだし、兄弟間の問題に口を出せる権利はこの世で親しかいない。だから、この親が8人兄弟の力関係を踏まえつつも、行き過ぎには注意し、過不足のないように強権を発動しなければならない。それができないから、問題が起こるし、それができても問題は起こるが、親が解決しないで誰ができる?

    イメージ 6親は長兄、長姉よりも権威者であるべきで、それなくして問題解決はできないはずだ。兄弟間(親からみれば子ども間)の諸問題は、断固親が解決するべき。する自信が自分にはあるから言っている。自信がない人、できない人のことは知らない。そうであるなら、誰か人に頼むしかないか、記されているように、憐れな2女を放置するしかない。すべては親の問題であろう。と書いたところで、どういう返答があるか覗いてみる。「そんな兄弟とは縁を切りますね。害になるだけです。我慢して関わるだけ損をします。」、「愚痴っててもしょうがなくない?兄弟姉妹ってなに?って問題を大きくしすぎでしょう。問題は、あなたのご家族です。世の中には、兄弟で殺人をする人もいます。ひとくくりには語れませんね。育て方が悪かったのでしょうね。」

    「中には兄弟や姉妹の仲が悪い家庭もあるでしょうけどトピ主さんの所は異常ですね。正直な所、お母さんが責められるのは自業自得だと思うけど(育て方が悪かった)その親を引き取って面倒を見ている人を責めるのは最低でしょう。横溝さんの小説に出てきそうな感じですが早く、縁を切っちゃった方がいいんじゃないですかね?キツイ言い方だけど、2女さんもそんな母親は捨て、縁を切って自分の生活を守った方が良いと思います。」

    「今の状況を改善する方策は正直思いつきません。でももう頑張らなくていいと思います。遺言『全財産は2女に譲る』、『○○達は我が家への立ち入りを禁ず』なんてのをお母さまに書いてもらっては?お父さまは亡くなられていると推察しましたので、お母さまもそれなりの財産はお持ちだと思いますが。財産額はどうでもいいんです。こっそり公正証書作っておきましょうよ。(以下略)」

    どれを読んでも、今さら解決はできないということだ。解決できないなら我慢か縁切りの2通りの選択しかない。一番下だから何も言えないといっても、縁切りはできるし、それしかない。もはや親の出る幕などないようだ。このようにたくさん兄弟がいると、t手をかけられないからも放っておいたのだろうし、放って置かれた側には、「何を今さら親ヅラしてんだよ」となろう。

    将来に禍を残さぬよう、親は心してやるしかない。兄弟の揉め事に親が出てくるのは、製造責任者としての絶対的権利である。話題が映画からそれたが、長女幸(綾瀬はるか)は、アレが長女的であり、見事な長女の立ち回りである。父が女を作って家を出、やがて母も再婚して子どもを置いて家を出、古い一軒家で暮す三姉妹だが、親など不要の存在感が長女に感じられる。

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    笑顔もあり、迫力もあり、プライベートな苦悩もあり、綾瀬のリアルな演技に負うところもあるが、それを引き出す次女佳乃役の長澤、 三女千佳役の夏帆も捨て置けない。腹違いの妹すずを迎えることで、新たな生活のスタートとなるが、三女の千佳は、妹ができたことでお姉ちゃんらしさも生まれるが、自分たちを捨てた両親を許せない思いが原動力の長女幸である。

    その気持ちを見越したかのように、「お姉ちゃんは親に対する意地で頑張ってるだけでしょ!」と次女はグサリという。が、意地がなかったらできないことではなかったか?「親がなくても子は育つ」というが、「親はなくても幸せになってみせる!」そういう気概がなくば、堕落したかも知れない。親なし子の世間の風当たりに対する挑戦は必要だ。それを次女にも三女にも求めた長女である。

    だから、映画の長女は立派だと思う。締めるところはキッチリ締めている。恋人が外国に留学するから一緒に来て欲しいと言われたことにも、クビを振らなかった。いや、幸はクビを振れなかったろう。妹には意地と揶揄されたが、妹たちの幸せを見ずして、自分だけが旅立てないという使命感、無意識の自己犠牲心が芽生えている。が、このことは妹にも相談はした。

    二人の妹は、「わたしたちのことは心配しないで、自分の幸せを見つけて」といわれるが、一心不乱に親への反動で生きてきた幸には、自己犠牲心はもはや彼女にとって無意識の領域として内面化されている。それを言葉を変えると母性愛的本能と言えるかも知れない。責任感も、使命感も、自己犠牲心も、本能と言えるほどに身についたものを、「愛」と呼べるに価するものであろうかと。

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    兄弟(姉妹)愛の理想の姿は、親のない兄弟から生まれ出るものなのかも知れない。頼るもの(親)がないなら、頑張れる。それが意地というものであっても、頑張るためには必須な要素。「(お母さんにちゃんとやってるとこ見せたいだけみたいな)そんな意地なんかいいから、お姉ちゃんは幸せになってよ」という次女の長女を慕う愛。立ち入らないように見守る三女の愛。

    「愛」といえば聞こえはいいし、それを少女趣味的な美しい愛として見せようとしないところがリアルである。近年は、欺瞞の代名詞といえば家族である。映画は親はいないが家族である。いてもいなくてもいいような親なら、いない方がいい。是枝は欺瞞を廃した愛を描きたい人のようだ。作りものに作為を排除するのは難しいが、彼はそれができる…。いい映画である。


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  • 07/08/15--19:17: 『海街diary』 ②

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    『海街diary』には原作者がある。原作あれど、脚色が半端なく強すぎて、原作をぶち壊す作品も多い。これには原作者もおかんむりと思いきや、たしかにそういう原作者もいるが、「映画と原作は別物です」と、意に介さないそぶりの原作者もいる。原作に拘るか、拘らないかは、脚色側の判断による。是枝監督は、「この映画は、みんなが自分の居場所を探している話」と解説した。

    本作の原作者は吉田秋生だが、彼女の作品は多く映画や舞台に取り上げられている。自分は吉田秋生という漫画家を知らない。漫画も読んだことがない。彼女の『櫻の園』が映画になったときに、後で古書店でぱらぱらと立ち読みしたことはあるが、映画と漫画はまるで別物で、映画は好きだが漫画が好きでない自分に、漫画はなんの変哲もないものでしかなかった。

    吉田秋生を知らない自分が、なぜ彼女の原作がこれほど映像化、舞台化される理由は分らないゆえに、その理由を知りたいと思っていたところ、「『海街diary』の吉田秋生作品がこんなにも映像化・舞台化される理由」というサイトがあった。が、内容は映像化された吉田作品の、漫画とビジュアル的な比較の説明に終始、彼女の作品が映像化される理由の説明ではない。

    映像化・舞台化されるときの吉田のスタンスだが、彼女の言葉が述べられていた。「映画やTVなど、マンガ以外の表現について、私はいっさい製作者にまかせます。それはもう他者の作品世界だしね。レストランに野菜を提供する産直農家のおばちゃん、てかんじ。ウマい料理を作るのも、マズいモンになるのもシェフの腕しだい」。面白い表現だが、吉田は原作と映画は別物派だ。

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    となると、是枝のいうように吉田秋生の作品に触発されたということが図星であろう。いい台本が映画製作の原動力になるのは、日本もアメリカも同じこと。オリジナル脚本でなければならない理由はない。したがって、吉田作品の映像化が多いのは、彼女がいい作品を生み出しているということ。『海街diary』以外の以下の作品が、映画化、ドラマ化、舞台化されている。

    ・『ざしきわらし』 - 1991年に「世にも奇妙な物語」でドラマ化
    ・『悪魔と姫ぎみ』 - 1981年にアニメ映画化
    ・『カリフォルニア物語』 - 1979年 - 2008年に舞台化
    ・『吉祥天女』 - 1983年 - 2006年にテレビ朝日系でドラマ化、2007年に映画化
    ・『BANANA FISH』 - 1986年 - 2005年 - 2009年に舞台化
    ・『櫻の園』1994年 - 1990年、2008年に映画化
    ・『ラヴァーズ・キス』 - 1995年 - 2002年に映画化
    ・『YASHA-夜叉-』 - 1996年 - 2000年にテレビ朝日系でドラマ化

    是枝は『海街diary』を映画にする際吉田からは、「鎌倉の四季を描いて」との注文を受けたという。そこで、春には若い男女が自転車で桜並木の下を駆け抜けるシーン、夏には4姉妹が庭で手持ちの花火に興じるシーンをちりばめるなど、四季を鮮やかに表した。是枝は原作を、「いろんなテーマの選択の仕方がありますが、これは自分の居場所を探す話だと思いました」と、感じたという。

    異母妹のすずは冒頭、自分の居場所を失う。4姉妹の長女、幸は自分の生家をよりどころにして、妹を守ろうとする。「生きていく上での、よりどころをどのように見つけるのか。それぞれの居場所については自分なりに考え、葬儀や法事が3回も出てくるのですが、『死』に引っ張られ過ぎないように、4姉妹が生きる姿をきちんと描こうと考えました」と是枝はいう。

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    もう一度観て、確認もし、思いを深めたいが、映画は父の死で始まり、二ノ宮のオバちゃんの象徴的な死で閉じられる。大衆食堂「海猫食堂」の店主二ノ宮幸子は、自己肯定感をもてないで生きている異母妹のすずに、「あなたのような宝を残して死んだお父さんは素敵なひと」と、すずの父への負い目を消してくれた。もう一人、三女の千佳も新しくできた妹すずに優しく語りかける。

    「わたし、お父さんのことよく知らないんだ。いつか聞かせてね、お父さんのこと…」。自分たちを捨てて行った父のことなど知りたくない。長女も次女も同じ気持ちだろうが、唯一父を知らない千佳の素直な言葉である。そんな素朴な言葉をすずは温かく感じたろう。長女や次女が父のことを聞きたがらない理由はすずに分かっているが、千佳の言葉はあまりに素朴。

    父という負い目を背負う環境の中に飛び込んでいったすずの中は、どういうものだか想像するしかない。幸や佳乃は笑顔で接してくれるが、自分たちを捨てた父に憎悪を抱いている。そんな異母妹すずに罪はないと思っているが、彼女たちの父への癒えぬ思いが、すずの自己肯定感を阻んでいる。姉たちが父を許さない限り、すずの心は晴れないだろう。

    それがあってすずは自分を許せないでいる。表面上はともかくそういう重苦しい環境の中にすずは生きている。すずが自分を許せる日はくるのだろうか?これが是枝のいう、自分探しであろう。昔でいうなら、妾の子という肩身の狭い思いを強いられて生きた子は多い。自分のせいではないのに、生まれながらの差別を受ける。すずは形的には同じである。

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    「婚外子差別問題」はより広い視点でみる必要があったが、なかなか因習的な差別は野放しにされていた。そうして2013年9月、ついに最高裁において、婚外子の相続分を婚内子の半分とする民法の条文に対して違憲判決が下された。婚外子相続差別の廃止を受けて安倍内閣では11月、相続分差別を削除した民法改正案を閣議決定し、同案は12月5日に国会で可決され、成立した。 

    現在の日本では多くの子どもは婚姻関係にある有配偶の男女の間で生まれてくる婚内子であり、婚外子の割合は少なく、婚外子出生割合は最近の統計でも2%前後と世界的にみても最低レベルである。ところが、明治民法の時代、おおよそ20世紀前半では、婚外子の割合は現在よりもずっと多かった。実際、20世紀初頭(1910年前後)には出生の10%近くが婚外子であった。

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    20世紀前半を通じて日本の婚外子の割合は減少していくが、実はその多くは「私生子」割合の減少によって説明できる。「私生子」とは明治民法の用語(1942年まで)で、そこでは婚外子のうち「父親」に認知された者が「庶子」、認知されない者が「私生子」と呼ばれていた。現在では登録上、婚外子は無条件に母の戸籍に登録されるが、認知されれば父の戸籍にも登録される。

    もし父がすでに他の女性と配偶関係にあった場合、遅かれ早かれ父が認知した婚外子がいることは家族の知るところになる。つまり婚外子は認知という制度を通じて社会的に位置づけられているわけであり、逆に言えば、「認知されない場合の問題が大きくなる」ということでもある。庶子を家のなかに位置づける制度、まがりなりにも準備されていた明治民法の時代は終わった。

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    戦後の民法改正以降、婚外子を道徳的に許容しない「対等な夫婦」という理念が浸透していくにつれて、(男性認知子も含めて)婚外子の「居場所」が失われていくことになる。婚外子差別にはさまざまあるが、先の最高裁の相続差別違憲判決を受けて内閣府で検討されたのは、戸籍法上の差別(戸籍に「非嫡出子」と記載されること)と、民法上の相続分差別である。

    結果として後者のみが廃止されることになった。子どもはさまざまな両親の法的配偶関係の組み合わせから生まれてくる。婚外子には不倫関係の子どももある。親の都合によって、子どもが生まれながらに負い目を感じる社会は正しくない。すずは妾の子ではないが、気持ち的には同じようなものがある。吉田秋生はそれを題材に漫画を書き、是枝が触発された。

    社会の複雑な問題点を噛み砕いて漫画にする作品を吉田が生み出すことが、映像作品の多さの要因だろうか?そういえばこのブログを書き始めて、書庫の映画で最初に取り上げたのが吉田秋生の『櫻の園』である。中島ひろ子主演の同映画は、出演者のあまりの自然な演技に圧倒された。「これって映画?」というくらいに演技感の無さ。同じ物を同じ監督で2008年に作られた。



    福田沙紀(誰だ?)が主演という。テレビでやっているのをちょっと観て、すぐに観る気がなくなった映画。興行収入も大コケでひどかったらしく、1館あたりの興行収入はわずか25万円だったという。柳の下にいつも泥鰌がいるとは限らない。前回好評だった同じ監督をしてこの有様である。映画は娯楽である。だから娯楽としてみるが、映画から学ぶこともある。

    「遊びから学ぶ」が自分の原点であるが、「学問から学ぶ」と、「遊びから学ぶ」と、どう違うのか?と、問われるなら、「学ぶ」という事を正しく捉えるなら、どちらも同じこと。正しくとは、「学ぶ」=「自分を変える」ということ。学んで変えない(変わらない)というのなら、何のための学びであろう。言い換えるなら、自分を変えたものなら、どんなものでも「学び」である。

    戦争も、恐慌も、飢饉も…、人災・天災すべてが何かを教えている。「教えられた」は、「変わった」であらねばならない。さするに教えるものは、相手を変えることでもある。「聞いた」、「分かった」、「忘れた」が人間だろうが、いつもいつもそうとは限らない。忘れられない言葉はあるはずで、それが頭に残っているだけでもいい。時間はかかっても、いつかは変わるだろう。

    世の中にはいい人、よくない人、悪い人、よいことを教えてくれる人、悪いことを教えようとする人、それらで構成されている。樹木希林の発した言葉は忘れられない。もちろん役としてであるが、「あの娘は妹は妹でも、あなたたちの家庭を壊した人の娘さんなんだからね」。これを聞いた長女の顔には嫌悪感が滲む。悪い言葉は跳ね除けることで、よいものが残る。あるいは芽生える。

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    だから、世の中には悪い人も必要である。悪いがあって初めて良いが判る。だから、悪いにどう対処していくかで人はいろいろに変わっていく。目の前の親が悪い言葉をたくさん吐いているかも知れない。「あなたのために言ってるのよ」という前置きは嘘が多い。本当に子どものためなら、こういう前置き言葉は必要ない。なぜかといえば、こういう言葉はそうでないときにも用いるからだ。

    つまり、本当は子どものためでない、親の勝手な都合でも、「お前のため」という嘘はつける。「お前のため」といえば、親の傲慢や都合を隠すことができる。だからこの言葉はいうべきではない。本心で相手のためを思って言うとき、こんな前置き言葉よりも、情熱、熱意があれば伝わる。口先だけでこんな言葉をいうから、子どもが親を信じなくなるんだろう。

    「子どものため」、「家族のため」、「会社のため」、「チームのため」、そんな前置きをいうくらいなら一生懸命に膝をつき合わせて語れよ!である。生命保険の勧誘で、「あなたのために言ってるんですよ」という嘘つきセールスレディは大成しない。そんな言葉を吐かれたら、「自分の成績のためだろう?」と返してやったらいい。子どもも親に、そう言い返したらいい。

    社員も上司にそういってやればいい。今まで多くの人に説教をされたが、本当に誠実な人は、「お前のためを思っていってる」とは絶対に言わなかった。言わないから、心に突き刺さる。見え透いたことを間に受けるほどバカじゃないよ。「この家を捨てて出て行ったのに何を今さら…」と母にいう幸。「もとはといえば、お父さんが女を作ったのが原因じゃない」と母。幸はこれにどう答えたか?

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    「いい年して子どもみたいなこと言わないでよ!」と強い口調で幸は返した。これは、母の言い分を門前払いで脚下である。つまり、ああだ、こうだと言い訳する母を子どもだと突き離している。自分が出て行った理由を正当化するなど、残された者の耳に入るはずがない。人間は相手の立場にならずに、自分の都合ばかりをいう。「言い訳」の多くはそうである。

    だから、「言い訳」は相手の気持ちを考えていない言葉である。それで、「あなたのため」って、どっち向いていってるんだ。相手の気持ちになるなら、なって何かをいうなら、自分を捨てることだ。それで初めて相手に伝わる。自分をしっかり維持しながら、都合よく、「お前のため…」こういう欺瞞が人間関係を崩壊させる。それが親子ならそこに真の親子関係はない。

    明るく見える家庭に歪みや闇がある家族もあれば、暗闇の中で支えあって希望を見つけて行こうとする家族もある。子どもの学力が親の経済力で決まるというのは、厳然たる事実である。そういう社会であるが、それで子どもの幸福が決まるわけではない。以前から時々思うのは、子どもは本来、親がいない方がまともに育つのではないか?である。親はどこか障害になっているのでは?

    そう思えることが多かった。どうすれば幸せになるかはさまざまあって何とも言えないが、金で作った学力や、子に美田を残すのが子どもの幸福に関係ないと分かっていた。ならば、このような時代、子どもや若い人は何を目標に生きていくのがいいのか?目標を持たないで生きた自分に答は分らない。ただ、困難は困難として、ありのままに生きてきた。

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    良い事は良い事だから、そこは問題にならない。問題は苦しいときにどうしのぐかで、それを上手くやれたものは楽しさも見つけられる。楽しさ=幸福とは限らないが、幸福感の一つである。多くの幸福感につつまれて生きているのが、即ち、幸福かもしれない。そのためには、苦しさ、辛さを上手く、やり過ごすことだ。それをどうするか?の答は自分で見つけるしかない。


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  • 07/09/15--19:21: 人間いろいろ
  • 人間のいろいろとは、顔もいろいろ、体型もいろいろ、性格もいろいろ、と大体この3つに分けられる。好みもあるではないかというが、嗜好は性格の範疇であろう。人間というからには世界に視点を広げるなら「人種」も加え、人種もいろいろというべきかも知れない。それにして同じ地球上に、白人、黒人、黄色人種がいるのだろうか?その前になぜ黄人と言わない?

    白人、黒人なら黄人でいいし、もしくは白色人種、黒色人種、黄色人種でもいい。随分前にそういう疑問はあった。生物教師に聞いたが、「何でだろうね?」で、知らないようだった。中学の英語教師にビートルズの歌詞を訳してといわれて逃げられたこともあったが、「教師は何でも知っている」という子どもの思いは無残に消し去られた。黄色人種しかりである。

    「調べて教えてやるよ」くらい言っても良さそうなものだが、教師もいろいろだ。小学生の時に何を聞いたかは忘れたが、「調べて教えてやる」という先生はいたが、仕事熱心だったのだろう。教師は教える人のことだが、知ってることを教えるのであって、知らないことを教えられるはずはない。しかし、子どもは自分の知らないことを知りたいから教師に聞く。

    その気持ちは素朴であるが、教師が何でも知ってるわけではないというのも、年齢を重ねるうちに分かってくる。確か小学生の低学年だったか、友人と言い合いした事があった。週刊誌か新聞かで、「アレクサンドラ王女来日」という記事があった。ネットで調べてみると、「1961年に来日し、第二次世界大戦後の日本を訪れた最初の英国王族となった」とある。

    友人はアレキサンドラ王女という活字をみたらしく、自分はアレクサンドラ王女の文字を見た。二人で言い合いしたが埒が明かない。そこで近所を一軒一軒訪ねて、家の主に聴いて廻ったのだが、唐突にそんなこと聞かれて、誰も答えてくれなかった。最後に自分の父に聞くことにした。そのとき父は、「昔、アレクサンダー大王というのがいたから、アレクサンドラだろう」といった。

    自分の方が正しかったと決着がついた。懐かしい想い出だが今でもハッキリ覚えている。が、父の答は正しくなかった。英語でアレキサンダー「Alexander」は、アレクサンドロス「Alexandros」の英語名・発音であり、日本語表記はアレクサンダーでも構わない。子どもに違いの意味を教えるのは難しいが、後にわかることで、「どちらも正解」といえばよい。

    このようなことを一軒一軒尋ね廻るというのは、地域社会の教育力が確実にあった時代である。そうして最後に行き着いたのが父であった。昔、アメリカのテレビ番組で、「パパは何でも知っている」というのがあった。原題は「Father Knows Best」といい、日本では1958年8月3日から1964年3月29日まで、日本テレビ系列にて日本語吹替版で放映されていた。

    ストーリー性の強い長編コメディ形式(シチュエーション・コメディ=シットコム)で、このスタイルのコメディは、イギリスでラジオドラマの一ジャンルとして普及していたが、現在ではテレビドラマとして盛んに作られている。世界各国で作られ、特にアメリカでの制作が盛んでアメリカのテレビドラマの一大ジャンルとなっている。日本でも真似て作られた。

    NHK大阪放送局制作のラジオドラマ、『お父さんはお人好し』(1954年12月13日 - 1965年3月29日)などがある。テレビ時代に入ると、『てなもんや三度笠』、『番頭はんと丁稚どん』、『頓馬天狗』などが挙げられ、日本では関西で特に人気があるスタイルだった。1話完結なので、厳密にはシットコムではないが、「吉本新喜劇」も近いスタイルを持っている。

    ところで、なぜ黄人と言わないかだが、日本人から見た区別の「白人」、「黒人」であって、自分たちをわざわざ「黄人」という必要がなかったからだ。それと、白、黒、赤、青というが、「黄」に限っては一般的に「黄色」と呼ぶ。これは、「黄」だけでは語呂が悪く、馴染みもなく、また、同音異義語が多過ぎるのを避ける意味もある。「灰色」、「茶色」も同様。

    人間のいろいろの中で、特に性格に関する人類の関心は古代から強いものであった。ギリシャ時代には四気質説(四大体液ともいう。多血質、粘液質、胆汁質、黒胆汁質)が唱えられたが科学的に否定された。四大体液説さまざまな疾病は体内の体液バランスが崩れた結果と考えられたが、医学的には根拠なき妄想である。日本国のみ盛んな血液型性向もこれに殉ずる。

    現代においても人間の性格を分類する試みは心理学上の大きなテーマである。日常生活の様々な要素から性格的傾向を導こうとする。例えば、「あなたはネコ派?それともイヌ派?」はよく言われ、「あなたは鳥派?ハムスター派?」とは言わない。やはり、イヌとネコが主要なペットである。ヘビやトカゲが主流なら、「あなたはヘビ派?トカゲ派?」となろう。

    爬虫類を嫌うのが一般的な人間だろう。巷のいう、「イヌ派?ネコ派?」でいうなら、自分はイヌ派である。ペットショップに行ってもイヌばかり見ている。それも横文字のイヌの知識は皆無で、柴犬ばかり見ている。横文字の犬は可愛いと思ったことはなく、犬は柴犬系雑種しか興味がない。レトリーバー系も嫌いではないが、大型犬は見るだけで飼いたいと思わない。

    と、ここまで言えば自分の性格が分類されるのだろうか?性格というのは、それが分かったことで何かの役に立つのか?何がどうなるものでもないと思うが…。ペットによる性格分類はアンケート調査を元にしたものが基盤になっている。イギリスのペット保険会社であるPetplan社が、行ったこの飼い主の性格分析調査によると、以下の結果が示されている。

    犬の飼い主は、早起きで勤勉な人が多く、外交的で、論理的な性格でしかもきれい好きな人が多い。これは、郊外の都市に居住する既婚男性に多くみられた傾向で、ペットとして飼育している犬種によっても、微妙に性格が異なる。ジャーマンシェパードを飼育する人の74%の人が勤勉な性格であると回答している。警察犬として採用される犬種だけに関連性があるのか?

    コッカー・スパニエルという犬種の場合、15%の人が自分はおっちょこちょいな性格だと回答している。コッカー・スパニエルは甘えん坊で活発な犬種として知られており、何となく犬種と飼い主が似通ったイメージとしてとらえることができる。対して、ネコの飼い主の場合は、夜型の生活者が多く、スタイリッシュで個性的な反面で、内向的で繊細な人が多い。

    家はちらかり気味である20代の独身女性に多くみられた。三毛猫を飼っている人は、内向的だがお洒落が好きが多く、控えめであまり自己主張をしないことから、人に見くびられると感じる飼い主が半数に達した。ベンガルネコの場合は、自分のことをクリエイティブな人間だと回答した人が最も多く、その数値は56%にも達している。以上、イギリスでの調査である。

    日本人はどうか?基本的に犬好きの人は外向性が高く、本人も真面目な性格な人が多いという。精神的にも安定していて、協調性が高く、いわゆる大人な性格の人に犬好きは多い印象。対する猫好きは、比較的に精神的に不安定で、感情のコントロールが上手くない人、内向的でちょっと変わった人が多い。これらは傾向性はあるかも知れぬが、「枠」には嵌められない。

    ちなみに犬派と猫派の統計としては、およそ6割強が犬派であり、猫派の人は4割弱となるので、やはり日本人には真面目な性格の人が多いのかもしれません。自分は断然犬好きだが、真面目だし、不真面目だし、几帳面だし、自堕落だし、寡黙だし、お喋りだし、継続派だし、飽きっぽいし、論理的だし、感覚的だし、利口だし、バカでもある。これはどういう性格か?

    ハチャメチャ性格とでもいうのか?昔から枠に嵌められない人間とよく言われたが、そもそも人間は枠に嵌められるものなのか?枠に嵌まりたい人は好んでそうするだろうし、そればいい。近年の心理学における人間の性格傾向は5つに分けられている。「外向性と内向性」、「愛着性と分離性」、「統制性と自然性」、「情動性と非情動性」、「遊戯性と現実性」である。

    分かりやすくいうと、「積極的か控え目か」、「親和的か独尊的か」、「アリ的かキリギリス的か」、「情緒的か頑強か」、「ロマン的か写実的か」となる。これらは世界各国の心理学者がさまざまな実証的研究から導かれた五因子である。人間は生まれ育った場所の言語と文化に強く呪縛をされた存在である。白人や黒人や黄色人種もすべて環境に適応して作られた。

    したがって、日本人は日本語と日本文化に呪縛されている。我々日本人が「変な外国人」と思うのは、外国人から見れば、「変な日本人」であることを知っておく必要がある。「変」と言うのは基準あっての「変」であるということ。社会や風俗、教育や文化が国によって異なるように、政治や経済に至るまで人間のあらゆる営みは、人間の心理に大きく影響される。

    2002年、アメリカの心理学者ダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞した。彼の経済学と認知科学を統合した行動ファイナンス理論及びプロスペクト理論が評価されたわけだが、行動ファイナンス(行動経済学)とは、経済人を前提とする経済学ではなく、実際の人間による実験やその観察から、人間がどのように選択・行動し、その結果どうなるかの究明を目的とした経済学の一分野。

    プロスペクト理論は、不確実性下における意思決定モデルの一つ。選択の結果得られる利益もしくは、被る損益およびそれら確率が既知の状況下において、人がどのような選択をするか記述するモデル。ようするに、経済現象に対して、人間の心理がいかに多大に影響を及ぼしているかを実証的に解明した。経済の問題は旧来の経済学の枠組で考えるでは進歩はない。

    人間は究極的には人間を目的とするなら、その人間は何かを解明する必要がある。のっけに、「自分の性格が分かったところで何がどうなるものではない」と言ったが、何がどうなるでなく、何をどうするという行動の際には大きく役立つ。例えば、「孫子の兵法」で記されているように、「敵を知り、己を知るは百戦百勝」というように、敵を知るだけでは勝率5割がいいとこ。

    勝負事で大事なのは相手をしる以上に自分を知ることだ。自分を知って至らぬところは変えて行くことも大事であろう。いつの時代のどこの国でも、人々は常に変革を迫られてきたし、時代や環境は時々刻々と変化しているのだから、これは当然である。日本が鎖国をしたのは誰でも知っている。が、一体、何年国を閉ざしたのかを正確に知る人は少なく、実は難しい。

    鎖国は段階的に行なわれ、最後の鎖国令が出され、ポルトガル船の来航を禁止したのは1639年、島原の乱が終わった翌年。して、どこから開国かというと、これも難しく1853年にペリーが最初の来航をし、和親条約を結び、下田と箱館への入港を認めたのは、翌54年であるが、日本の社会に大きな影響が出るのは、58年に修好通商条約を結んで貿易が始まってからである。

    であるけれども、鎖国の年代をあえていうなら、異論はあろうが1639年から1854年でいいのではないか…。まあ、大雑把に200年と言っておけば有用な知識である。ついでにペリーがなぜ開国を要求したかだが、ペリーはヨーロッパと貿易をしていて、ヨーロッパに行く途中の物資や燃料の補給などの中継地が必要だった。それが日本だったという単純な理由で御座るよ。

    鎖国は一概に損だとはいえない。外国文化を遮断したことで文明の遅延を招いたが、日本人のアイデンティティと文化が形成されたし、武士の支配により治安の良い社会と平和な社会を享受できた。もし、外国と各藩が独自に貿易していたら、西洋から新技術や新思想が入ってきて、パワーバランスの平衡が崩れて、国内は戦乱状態にになっていたといわれる。

    何かを変えること、改革するというのは実は大変であり、政治や経済、教育や社会システム、社会心理や国民性との相互作用を考慮しながら改革をすべきであり、それらを無視してシステムだけを変えても上手く行かない。これに最初に気づいた日本人が福澤諭吉である。彼は、『学問のすゝめ』や、『文明論之概略』の中で、国民性の改革が重要だと考えた。

    そこから生まれたのが、「独立自尊」の考えで、これは慶応義塾の教育の基本である。意味は読んで字の如く、人に頼らずに自分の力だけで事を行い、自己の人格・尊厳を保つこと。現代風にいうなら、自己肯定感を有し、依頼心・依存心・排他心を捨て、自ら立ち、なおかつ、人に優しく、人の輪を重んじ、人に感謝する気持ちを忘れずにいること。全部やるのは難しい。

    「慶應義塾大学に合格した瞬間に人生の勝ち組になると先輩から聞いたのですが、本当ですか?東大卒、京大卒、早稲田卒にはニートが相当いるけど慶應卒にはいないそうです」(yahoo知恵袋より)。頭悪いというか世間知らずというか、慶應卒でも??って人もいるってこと知らないんだろうな。どこかに入ったら左団扇でその人の人生安泰って国などないよ。

    楽して人生を勝ち取ろうなんて奴は、どこに行ったところでダメだろう。昔は、パリーグ球団に入団すれば人生オワと言われた。同時に、巨人に入っただけで未来は明るいとも言われた。江川は高校3年の1973年、秋のドラフト会議にて阪急ブレーブス(現在のオリックス・バッファローズ)から1位指名を受けるが入団を拒否。慶応大を受験するが失敗、法政大に進学した。

    法大4年の1977年、クラウンライターライオンズ(現在の西武ライオンズ)からドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学。1978年秋のドラフト会議の2日前に帰国し、ドラフト会議前日に巨人と電撃契約した(空白の一日事件)。この卑怯な手段で巨人に入団した江川は40年が経過しても悪者イメージが消えていない。

    彼も現在60歳。野球は好きなんだろうが、あの一件で憧れの巨人に入団はしたものの、彼には永久に、「あの一件」というイメージが切り離せない。あの一件で江川の野球人生が幸せとは言えないものになってしまった。同じ法大の先輩だった広島カープの山本浩二が、あの一件について当時、「あいつだけは後輩と思わない」と言ったのが耳から離れない。

    巨人が声をかけなければ江川はどこのチームにも行かないのだろうか?それより、他の球団で江川を招聘するところはないであろう。江川のダーティーイメージは巨人が作ったのだから、巨人が声をかけてやってもいいと思うが…。もうそういう時期であろう。原監督の次は桑田か?それとも江川サプライズか?


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  • 07/11/15--05:56: 人生いろいろ
  •  死んでしまおうなんて 悩んだりしたわ
     バラもコスモスたちも 枯れておしまいと
     髪をみじかくしたり つよく小指をかんだり
     自分ばかりをせめて泣いてすごしたわ
     ねえおかしいでしょ若いころ ねえ滑稽でしょ若いころ
     笑いばなしに涙がいっぱい 涙の中に若さがいっぱい
     人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの

     恋は突然くるわ 別れもそうね 
     そしてこころを乱し 神に祈るのよ
     どんな大事な恋も 軽いあそびでも
     一度なくしてわかる胸のときめきよ
     いまかがやくのよ私たち いまとびたつのよ私たち
     笑いばなしに希望がいっぱい 希望の中に若さがいっぱい
     人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの
      人生いろいろ 男もいろいろ 女だっていろいろ咲き乱れるの

    「人生いろいろ」は1987年に発売された島倉千代子のヒット曲である。「人間いろいろ」とは、姿・形・性格・民族などいろいろと書いたが、様々な人がたくさんいることで、「いろいろな人間がいる」などと言われる。「人生いろいろ」とはどういう意味であろうか?酒など酌み交わしながら、「人生いろいろだよな~」などと言った人はいるだろう。

    言いたくなるセリフだろうな、ある程度の年齢になるといろいろ振り返ることもあろうから自然に言葉に出るが、15歳や20歳くらいの若僧が、「人生いろいろだよな~」というと、未来についての選択という風に取れる。この年で過去を振り返って「人生いろいろ」といっても、「人生」というガラではない。だから、未来・将来に思いを馳せての「人生いろいろ」だ。

    人生とは、人間がこの世で生きることや、生きている時間、経験などのこととあるが、異論はない。生きているから「人生」と言えるし、死んだものが「人生」などの言葉はもはや吐けない。 人生に対する見方や、人生の意味の理解のしかたを人生観という。したがって、「人生いろいろ」いろんな生き方がある、とは別のいろいろな人生観があるということか。

    「お前の人生観は何だ?」と言われても、問われて答がでるような確たる人生観はない。折りにふれて自分なりの考えや価値観を発することはあるが、それが人生観というならそうだろうし、そういった自身の人生観に照らしあって時々の行動の選択をを死ながら人は生きていくのだろう。「人生はこうあるべき」、「こういう人生を送るべき」といえる人を賢者という。

    あるいは、それなりに何かを成した人の言葉なら説得力を持つ。一口に人生観といっても一口に言えないくらいに様々あるし、だから「人生いろいろ」ということになる。のっけの「人生いろいろ」という歌詞について考えてみる。歌詞の当事者は女性であり、いろいろ悩んだ様子が伺える。自殺を考えたり、髪を短く切ってみたり、強く小指をかんだり、自分を責めたり…

    そういった若き日の自分をいくぶん笑い話に見る年代になったようだ。終ってみればいろいろな男がいたなと、どんな男によってさえ自分は咲き乱れたのだと…。二番を聞くまでもなく恋の苦しみであるのがわかる。恋がどんなものであるかは体験してみて分かること。それは悟りというより現実であろう。今輝く、今飛び立つという言葉から、幸せを見つけたようだ。

    「どのように生きるべきかを考える意味があるのか?」と言った奴がいる。その事に否定的になれなかったが、「そうはいっても考えないではいられないだろう?」と自分は言った。彼はしばし沈黙してこんな風にいった。「必死に生きても、真剣に生きても、何となく生きても、自分の人生だし、そこにどういう違いがあると思うか?」、自分はどう答えたか記憶にない。

    今ならどう答えるだろうか。「余命を限定されているなら考えるかもしれない」と、彼は付け加えた。確かにどう生きても自分の人生には違いない。必死に生きるか、何となく生きるか、どちらかを選ばなければ両方やれない。必死で生きたなら、楽に生きたらどうであったかを知ることはできない。反対もしかりだ。だからか人の多くは頑張って結果が出ないと呪う。

    「もっと楽に生きればよかった」などという。必死で頑張って生きて、それなりの結果を得たなら人は満足するのだろうか?「満足する」というのが、公式みたいになっている。何となく生きて変哲もない人生であったことに不満をいうのだろうか?「もう少し頑張ってみればよかった。それなら生活も楽になったかも知れない」みたいなことを言う奴は多い。

    本当にそうなのか?頑張ったら何か期待通りの結果が得れたのか?得れたのではないかと思うだけではないのか?このブログで「努力は結果抜きにやるものだ」と幾度も書いた。書いたという事はそれが持論である。努力する場合においてだ。楽に生きる、何となく生きるというのを自分は否定しない。自分は取り立て努力をしたといえるものはないから、楽に生きたと思う。

    それに不満はないから、「努力すればよかった」と思わない。楽に生きて、それが不満な人間が「努力すればよかった」というのだろう。思ってどうなるものでもないが、思わずにいられないのも人間だ。友人が「どう生きたらいいか、考えても仕方がない」と言ったときにも、「そうは言ってみても、考えずにおれないのが人間だろう」と自分は答える。

    「余命を切られればどう生きるか考える」といったことも、否定的だ。そこで本当に考えるのは「どう生きるかではなく、どう死ぬか」ではないか。人は苦しいときにおいて、どう生きるかを考えるが、平和にあっては、「どう生きるか」などは、問うに価しないことではないだろう。部屋の隅に追い詰められたネズミは、ネコを噛むというではないか。

    苦しさに追い詰められたときでしか「どう生きていくか」なんか考えないのではないか?それでも生きることを閉ざされた人間は、何かを呪って自死することもある。これは自殺テロという行為であろう。6月30日に新幹線で焼身自殺した林崎容疑者は、35年間も真面目に年金を納めたにもかかわらず、月額12万円の支給で国民健康保険や住民税を天引きされる。

    彼の居住する東京・杉並区の生活保護基準は14万4430円。しかも、生活保護受給の場合は国民健康保険や住民税などの負担が減免される。林崎容疑者は、6月12日には、区議会議員に電話で生活相談をしていた。応対した議員は、「『年金が少なくて生活が大変だ』と言っていました。生活保護の申請ができるか、今度会って話をしましょうと言いました。

    後日に日程調整をしようと携帯電話に連絡を入れたのですが、そのときは留守だったんです。折り返しの連絡を待っていたのですが、こんなことになるなんて…」と区会議員は言う。ネコに追い詰められたネズミは生きるためにネコ噛むが、林崎は追い詰められて誰も噛み付くでなく、自らの命を絶った。ネズミと人間の違いは自殺という行為をするかしないかである。

    人間は本能の壊れた動物であるが、生存本能さえも破壊されている。林崎のケースは典型的な下流老人であるという。現役時代の収入が少なく、貯蓄も底をついた時に、生活の助けを求めることのできる家族や友人関係もない。ある試算によると、今後高齢者の9割が下流老人になる可能性があるという。新幹線焼身自殺は、怒り狂った人間の衝動としか言いようがない。

    確かに「人生いろいろ」であるが、そうは言っても、人は人生に共通の願いを持つのではないか。願いが叶った人と願いが叶わなかった人は間違いなく存在するが、宝くじが当たった人の末路が不幸であったという話はしばしば聞く。直接語られたのを耳にした事はないが、ロト6で3億2000万円を当て、リアル億万長者となった当事者が体験談を綴っていた。

    「もう8年前ですね。僕が38歳のときにロト6で3億2000万円を当てたのは。当時、給料は手取りで18万円ぐらいだったので毎週ロト6を買っていました。それで、「宝くじに当たったら…」ってよく考えてました。ロト6で3億2000万円が当たり、自分の口座に振り込まれると、まず2000万円を銀行から下ろし、週の半分くらいはキャバクラに通うようになりました。

    夕方になると、たくさんのキャバ嬢からメールが来るんです。「今日は来るの?」とか。それでモテた気になっていました。大金を持って、一番つらかったのは、誰にも言えないことです。今でも同じ会社の人間には知られていませんが、ロレックスを買っても、同僚にバレたら怖いから会社にはつけていかなかったし、外車も怖くて買えなかった。

    どうしても誰かに言いたくてブログを始めたんです。当選して1年ぐらい過ぎてから、タイ人クラブで知り合った女のコと付き合うようになって、彼女がタイに戻ると、彼女を追いかけて、ビジネスクラスで月に2回はタイに行きました。合計100回以上行ってると思います。彼女のために車やマンションも買いました。結婚しようと思って、それこそ数千万円単位で使いました。

    でも彼女はとっくに結婚していた。裏切られたというか、ダマされてましたね。浪費したお金を取り戻すために、株やFXをやるんですが、アッという間に預金残高が3億円から億円になって、4年で3000万円です。それで、一切預金には手をつけないことにしました。お金もそんなに残っていませんが、そろそろ結婚を考えてもいいかもと思って中古マンションを買いました。

    お金がなくなって、ようやく幸せになれるような感じですね。一番良かったことですか?結局、仕事を辞めなかったことですね。もし辞めていたら、今頃僕なんて無職だと思いますから。もっと大事な使い道あると思うんですがね。とも思ってしまうような方ですが、実際に高額当選したら、誰しもが贅沢三昧でお金がなくなるのでしょうね。」

    こういう話を耳にすると大概の人は、「自分ならこんなバカなことはしない。お金は無駄遣いせず、老後の蓄えに取っておくよ」と思うだろうが、苦労せずに降って沸いたような金が手許にあれば、使うのではないか?ないものは使えないが、あるのに使えないのは苦しいのではないか?なんでそんな苦しい思いをしなきゃいけないんだ?と思って使うだろう。

    「人生には二つの悲劇がある。一つは心の願いが達せられないこと。もう一つはそれが達せられること。」

    これはバーナード・ショーの言葉だが、『宮本武蔵』などの著者吉川英治もこのように言い。「登山の目標は山頂と決まっている。しかし、人生の面白さはその山頂にはなく、かえって逆境の、山の中腹にある」。サン=テグジュペリは、「歩みだけが重要である。歩みこそ持続するものであって、目的地ではないからである」。と言った。言葉こそ違うが意味はみな同じであろう。

    人生は、その「歩み」である。どこまで歩いても、過程にとどまり、ついに目的地に達することはないだろう。しかし、過程はまら、始源でもあるのではないか。死が目的地であるのは疑いようはない。死を目的とするのではなく、死が人間の人生の目的地である。人は誰も「死ぬまで生きる」。挫折が自死であるなら、「死ぬまで生きよう」と声を掛け合う。

    幸せは主観的なものだから、自分が幸せと思うなら幸せなのだ。身の回りを片付けられる人間と、片付けられない人間がいるように、幸せになれる人間と幸せになれない人間がいる。そお根本のところでは学力も学歴も経済力も関係ない。とりあえず、主観的な幸せという意識をもてるかどうかである。今はもう、そこそこの秀才は必要ない時代である。

    最も必要とされるのは秀才よりも、「何かができる」、「物怖じしない」、そういう能力であろう。頭がいいからといって、何もしないことでの頭のよさは役に立たない。「物怖じしない」で何かをやれる人間は、誰が見ても「凄い」のである。人より優れた頭脳を持つのが能力であると同様に、人ができない行動力を持つのも凄い能力である。


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  • 07/12/15--18:03: 『海街diary』 ③

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    『ターミネーター:新起動 ジェニシス』を観ようと思ったが、どうも気が進まない。気が進まないものを観ても仕方がない。テレビで放映されるまで観ないだろう。「だろう」は未来形だから、変わるかも知れないがそれはその時のこと。『海街diary』を再度観てきた。この映画を二度観て、『ターミネーター:新起動 ジェニシス』を見たくないと思った理由を言う。

    『海街diary』は何も起こらない地味な映画である。『ターミネーター:新起動 ジェニシス』は、SF映画だから、もうアレコレ起こりまくる映画であろう。だから『海街diary』がよくて、『ターミネーター:新起動 ジェニシス』がよくない映画だ。今の自分にとって…。SF映画大ファンだった。『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、『スター・ウォーズ』、『スーパーマン』、『マトリクス』などなど…。

    何かが起こることてんこ盛りの派手なSF映画はもういい…。そういう年齢になったのだ。何も起こらない人の日常を描いた物語が、ずっとリアルである。何も起こらない映画に2時間ちょっと、椅子に腰掛けて、それで退屈しないなら、きっといい映画にちがいない。『海街diary』というタイトルだが、漫画や書籍のタイトルは原作者もしくは編集者がつける。

    それほどにタイトルのインパクトは大きく、書籍の売れ行きに左右されるなら編集者が考えるのも当然だ。印象的なタイトルもあるが、近年は長ったらしい文章系タイトルも多く、これらはタイトルを見れば内容が理解できる利点がある。"セカチュー"と言われた『世界の中心で、愛をさけぶ』、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』などが文章系タイトルである。

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    他にもたくさんあるが、「文章系タイトル」は、そのままセリフにしても違和感が無い。「チョべリバ」、「チャラオ」、「イケメン」に代表されるギャル語は短い省略言葉が多い。ギャルにかぎらず日本人自体やたら省略したがりやなのか、短い言葉が好きな人種のようだ。にしても、「文章系タイトル」はとにかく長い。覚えにくさというマイナス面もあるが、長い=面白いでもある。

    従来の、『DRAGON BALL』、『ONE PIECE』、『NARUTO』、『銀魂』などは、タイトルだけではどんな作品か分かることはない。『ONE PIECE』という言葉から、誰が、「海賊王を目指す冒険ロマン漫画」と言い当てられるか。「世界で一番売れるワンピースを作るのを目指す服飾デザイナーの物語」と考える?『金田一少年の事件簿』なども中身が想像できるタイトル。

    『鉄腕アトム』、『鉄人28号』、『月光仮面』、『まぼろし探偵』など、主人公をそのままタイトルにした時代に思えば、文章系タイトルは時代の変遷である。また、『海街diary』のような情景描写のタイトルもオシャレである。『海街ものがたり』、『海辺の四姉妹』、『鎌倉ストーリー』より洗練された感がある。『東京ラブストーリー』もオシャレなタイトルだった。

    『海街diary』全6冊にはそれぞれ副題がある。①蝉時雨のやむ頃、②真昼の月、③陽のあたる坂道、④帰れないふたり、⑤群青、⑥四月になれば彼女は。この中で聞き覚えのあるのは、「真昼の月」、「陽のあたる坂道」、「帰れないふたり」、「四月になれば彼女は」である。「真昼の月」は1996年、TBS系で放映された織田裕二・常盤貴子主演のラブドラマ。

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    映画を観終わった後で知人が原作全6冊購入した。彼女曰く、「まだ完結していなかった」。ならば今後も不定期で発売されるだろう。手許にあるが、漫画はどうも観る気がおきない。おそらく慣れの問題だろう、きっと…。ずっと前に、平田弘史と谷岡ヤスジの漫画を見て以来、その後に読んだ漫画がない。だから、見慣れない漫画はどうにも読みづらい。

    おそらく漫画の良さがわからないのだろう。噛み砕いてあるのもちょっぴり物足りないのか。映画も小説も、初めて観る・読むのと、二度目とではかなり印象が変わる。何が起こるか分らない初体験に比べ、二度目は大筋でストーリーは掴んでいるので、細かなディテールなどに気くばせをする。セリフなどの思い違いも結構あったが、広瀬すずがこのように言っていた。

    「台本をもらわずにやりました」。他の3人は台本があったようだが、是枝監督は広瀬にだけ台本を渡さないで、その場その場で演技指導をし、セリフを覚えさせられたといい、広瀬はどんなストーリーなのか、完成試写を観るまで何が何やらさっぱり分からなかったという。すべてをその場その場でやったらしく、そのやり方が広瀬自身にはすごく合っていたという。

    四人が「SMAP×SMAP」に出演した時のことだが、長澤と綾瀬は初共演であり、中居が長澤に綾瀬の印象を聞くと、「ジョークが利いていて…」と長澤は言うが、中居がさえぎって、「本人はジョークのつもりはないんじゃない?」と綾瀬に言う。綾瀬は、「いえいえ、ジョークのつもりです」といえば、長澤も、「すごい狙って言ってました」と強調した。綾瀬は天然ボケのイメージだが。

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    「へー、狙ってるの?」と驚く中居に対し、「自然にボケてるときもあるかも知れないんですけど、基本は人を笑わせたいという気持ちがいつもあるんです。」これには自分も「へーっ」であった。綾瀬はるかって面白いことを言いたいやつだったのか。長澤と綾瀬は長澤より年齢は2歳上だが、芸能界入りは共に2000年で、きっかけはオーディションであった。

    綾瀬は2000年、第25回ホリプロタレントスカウトキャラバンで審査員特別賞を受賞、長澤は第5回東宝「シンデレラ」オーディションに応募し、35,153人の中から2000年1月9日に当時、史上最年少の12歳(小学6年生)でグランプリに選ばれた。先輩・後輩のうるさい芸能界で同じ年デビューという二人のバランスはとれていたが、心の中は互いに期するものはあったろう。

    最初は一人で観、二度目は二人で観たが、長澤がよかったといい、自分は断然綾瀬の演技がいいと思った。主役はとりあえず四人ということだが、やはり長女綾瀬を中心とした姉妹の話である。観終わって、「綾瀬はいい女優になったな」と思った。もちろん、綾瀬も長澤も初めて映画で観たのだけれど、NHKの大河ドラマ「八重の桜」ではチラチラ観ていた。

    チラチラ程度で、あのドラマはまともに観ていない。すべては跡付け、後で知って驚いたのは共に2004年に、『世界の中心で、愛をさけぶ』でヒロインの廣瀬亜紀を演じている。長澤は映画、綾瀬はTBSのテレビドラマである。映画は5月公開、ドラマは「金曜ドラマ」枠で、7月2日から9月10日まで放映された。二人は剃髪でも話題になったというが、どちらも観ていない。

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    なるほど…。同じタイトルの同じヒロイン役とあらば、ライバル意識は嫌でも盛り上がる。互いが意識しあう相乗効果でいい映画が取れたと、是枝監督も内心思っているかも知れないし、その辺りを狙ったキャスティングの可能性もある。監督はそういう事は口には出さないだろうが…。夏帆や広瀬すずについての知識は皆無で、存在すら知らなかった。

    知らないものは何かのきっかけで知ることになればそれでいい。若い子からみれば「おくれてる~」となるのだろうが、いつか分かればいいし、分からなくとも困ることではない。同じように若い子は古いものを知らないのだし、古いものを知らずとも何も困らないようにだ。これを異世代の共存というし、知らないことは互いが教えあうのがいい関係だ。

    古い世代のオヤジが息子や娘に、「新しいものを知らなくてバカにされる」などといい、肩身の狭い思いをするというが、相手がバカにするからといってバカにされた気分になんでなるんだ?別に息子・娘でなくとも、世の人が自分をバカにしたからと、自尊心を傷つけられたというのは心の弱さか?あるいは、相手はバカにする意識がないのに、バカにされたという被害意識か?

    バカにしたような言い方でも、バカにされたと思わなきゃいいし、思う必要もないだろうに、何かにつけて「バカにされた」という人は結構いる。していないのに、勝手にそのように言ったりする。おそらく強い劣等感を持ち、常に人は自分をバカにしてるのではないかとの妄想を抱いている人であろう。勝手な(被害)妄想だから、こういう人につける薬はない。

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    自分で直すしかない。直す方法も自分でいろいろ考えたり書物を読んだりするしかない。他人がアレコレいうのはむしろ妄想を拡大するだけでいいことにはならない。自分はそれが分かっているから、被害妄想の強い人間には関わらないし、何も言わない。あえていうなら、「人のいう事を履き違えて、傷ついた、腹がたったなどというなら、もう何も言わない」くらいは言っておく。

    それしかない。自分で自分を直さない限り関われない。人をバカにしたり、見下げた物言いをしない自分は、そういう風に言われると会話をしないがいいとなる。人をバカにして何の得があるというのか?だが、人にバカにされたと思う人間は、人をバカにすることで何か得を感じているんだろうし、得がないと思う人間は、バカにされたと思うことはない。

    人をバカにしたい人間が相手をバカにする言葉を発しても、バカにされたと思わなければ、相手は苛立つのか?そんなの知ったことことか。勝手に苛立っておれ。という気持ちになればいいが、そんなに難しいことなのか?相手はバカにしたいんだろうの意思は感じるが、相手がそういう意図をもってしても、残念ながらお前如きに自分はバカにされないとなればいい。

    それが正解だろう。「その言葉そっくりお前に返すよ」と、とってつけた言葉は好きじゃないから言わないし、「バカにしないでくれ」も言う必要ない。バカにされた、されないは、バカにされたと思うか思わないかにある。劣等感が原因ならなくせばいい。方法は自分で見つけること。他人の劣等感を無くす方法等見つけられない。バカにする奴も、バカにされたと思う奴も面倒くさい。

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    劇中すずは、自分の実母が幸や佳乃、千佳たち姉妹の父を奪った悪い女の負い目があるのは分かる。だから、母のことは誰にも語れない。すずがそんな母を好きでいるのは、みんなの手前よくない事だと思うのも分かる。そこが、すずが三姉妹に気を使うところだろうが、こんなことは世間にたくさんある。AとBは友だちで、AはCとも友だちだが、BはCを嫌っている。

    これが女の世界では、BがAに対し、「Cと仲良くしないで」などという。オカシなことだが、Bは自分の好きなAが自分の嫌いなCと仲がいいのが気に食わない。だから、AにCと仲良くするなという。子どもの発想だが、今が子どもなら仕方がない。AはBとCの間に挟まれて心苦しい。こんな話はたくさん聞いたが、女の世界というのはなんとつまらん世界だなと思った。

    これを感情世界という。男なら仲のいいAが、自分の嫌いなCと仲良くしたところで、自分には関係のない事。自分とAの人間関係には何の関係もないと思うからだ。当たり前に(理性的)に考えればそうだし、Cと仲良くするなよとAにいう権利などない。ところが、女は自分が嫌だからとの理由でAにそれを言う。子どもと言っても高校生くらいでもこんなことはある。

    自分の嫌うCをAにも嫌いになって欲しいとの心理は働いても、それを強制することはオカシイだろに。女はそれが分らないというより、感情を優先させるのだ。理性で食い止めようとしないところが女である。困った立場にいるAの悩みをたくさん聞かされた。が、男がそんなあり得ないことに意見を言っても仕方がない事も分かった。問題はBのAに対する独占欲だし。


    Bに対して言ったこともあるが、感情優先を理性でコントロールできない、しようとしないBには「豚に真珠」である。すずが実母のことを好きでも、幸・佳乃、千佳には関係ないという、そこは大人の映画である。昔から、「敵の敵は味方」という。自分の敵はAであり、AはまたBを敵としてる場合にあって、Bは自分の味方になり得るという図式であろう。

    幸は父を奪ったすずの母が敵であるなら、その母をすずが嫌いである方が、幸とすずは仲良しになるということだが、すずは幸にそういう風に見せていた。山の上で「お母さんなんか大嫌い!」と幸の前で叫んで見せた。幸はそんなすずを気づかう。自分の立場がすずにそういう事を言わせていることに気づく。人の本当の心に思いを寄せることで、本当の関係を築ける。

    是枝はそれを描きたかったようだ。家族という「和」の中に個々があるのではなく、個々が家族という便宜に依存している。大事なのは家族の「和」ではなく、個人の主体であろうかと。それを「和」重視し、優先するから欺瞞家族ができあがる。下重暁子著の、『家族という病』はそういうことが書かれているのでは?読んではないが、欺瞞とは上辺という事だ。


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    書き物をしている身である。何かを書くということは、他人からみたら、「てめぇ、何をくだらんこと書いてやがるんだ、この~!」というのは十分にありだ。自分と他人の考えが違うわけだからあって当たり前だが、それに対して意思表示の反論を書くか、黙して見過ごすか、あるいは共感するか…。共感するとついエールを送りたくなって意思表示を書くこともあろう。

    そういえば、『海街diary』の劇中、長女の幸が恋人にいう。「私はどうしても人の悪いところばかり見てしまうんですよ」。「いいんじゃないか?それだけ自分にも厳しいってことだろう」。「学級委員やってたからかも…」、そういう尾ひれのついたセリフだ。学級委員やってると人の悪いところに目が行くのかどうか、とりあえず良いクラスを作ろうとの使命感はあろう。

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    映画の幸は、妹たちに対していろいろと小うるさいが、あれも長女の使命感なのだろう。「姉御風(あねごかぜ)を吹かす」という言い方を子どもの頃から耳にしたが、所変われば品変わるで、他の地域では違う言い方をするのかも。「兄貴風を吹かす」は、何の小説だか文中出てきた言葉で、「姉御風」同様、本当は標準語かも知れない。「先輩風を吹かす」ともいう。

    四人の子を持ったが、兄弟の中で自然に自治が生まれると書いた。それで親は大いに助かる。一番上が姉御風を吹かせまくって、仕切っていた我が家である。一番末っ子はだからか、自分の下になんで妹や弟がいないのかという不満は当然にわく。上が威張るわけではないが、何かにつけて一番下と言うのは損なようで、そこから派生する「末っ子」の性格的特徴はある。

    末っ子は年上の兄・姉がどう人生につまずき、どう克服していったか、あるいは堕落して言ったかをつぶさに見ている。よって末っ子はそれらを参考にしながら、人生を歩むことができるという特質をもつ。その結果、要領が良くなる。また、兄・姉が羨ましい存在であるからか、少なからず妬みを抱きながら育ち、兄・姉と張り合う、追い抜こうなどを画策する。

    自分では何もできないうちから周囲の大人や兄弟が自分であれこれ行動している様子を観察する末っ子は、兄・姉より言葉にしろ、何にしろを覚えるのが早かったりなど、常に周りに影響されて育って行く。我が家でも末っ子の三女が異常に早い年齢で7並べを覚えていたのには、家族の誰もが驚かされた。いつの間に覚えたのかというように、すぐにできた。

    イメージ 2「門前の小僧、習わぬ経を読む」とは言ったものだ。とにかく周囲に手本となる人が多いためか、自分で1から行動を起こすことは得意ではない、よって、誰かが既に始めていることに対し、自分の意見や考えをいれて発展させる。言葉を変えると"チャチ入れるのが得意"。常に周りを観察しながら自分の行動を決めている。それも末っ子の1つの特徴と言っていい。第一子は、初めての子ということもあって、親がチヤホヤさせてしまいがちだが、末っ子は、兄弟に可愛がってもらえる反面、無力感に襲われ、自信を持てないことが多くなるが、自分の実力はこんなもの、できなくても当たり前など、諦めてしまう傾向がある。自分だけ出来てしまうと、(自分だけ愛されて)みなに悪いと無意識に思うらしい。甘えることも自己防衛本能である。

    確かに末っ子は、上の兄弟と違って甘え上手な所があるが、これは下の子が出来ると親の意識がそちらに行くからだ。上の子は「自分のことは自分でしなさい」、「妹(弟)の面倒を見て!」などと親の都合(?)でいわれたりする。また、末っ子は他の兄弟が自分で行動し始めた時期を過ぎても、下に兄弟がいないため、親にすると常に親の力が必要な子、という認識となる。

    それもあって、末っ子は常に大人や兄弟たちの力を借りて育って行くようで、だから「甘え上手」、「人に頼ることが得意」という特徴となる。が、周囲への観察力が優れた末っ子は、将来仕事場で怖い先輩、怖い上司と判断した場合には、頼らず自力で調べたり、完成させるなど容量のよさもある。しかし、末っ子の最大の特徴は?と聞かれると、「負けず嫌い」、これに尽きる。

    理由は、幼少時期において兄弟喧嘩もし、お互い生意気な態度を取り合うことが多いとき、末っ子は年端もいかない年齢ゆえに、うまく言い返せなかったり、上手いこと対処できなかったり、失敗などを兄弟に笑われたりからかわれたり…する。映画『海街diary』でも、末っ子の千佳は大人になっても、「あんた、あの時迷子になった」、「うんこもらした」などいわれたり。

    永遠について廻る失敗談を消すことはできない。よって自然末っ子は負けず嫌い性格になる。"先輩や同僚に負けたくない"と闘志を燃やすか、"自分の実力はこんなもの、できなくても当たり前"など、諦めてしまう傾向の特徴もあるので、どちらかになる傾向が強い。さらに末っ子の特徴は、我が家を見ても感じるのは、とにかく自分の意見を通したい、通そうと意地になる。

    イメージ 3子どもがわがままなのは誰しもであるが、大人になってもわがまま傾向にあるのが末っ子であろう。ない物にされてきた、意見など取り入れられないで無視されてきた、そういう悔しさが強く性格に反映されるのであろう。子どものわがままは、大人になるにつれて事情がわかったり、空気を読んでタイミングを見計らったり、わがままを抑えたり、いわなくなるものだ。が、末っ子は兄弟の中で常に一番下なので、上記の特徴プラス、兄・姉が聞き分けある年齢に達しても末っ子はまだ子どもゆえに、「あの子のやりたい様にさせよう」など、わがままを聞いてくれる機会が多い。そのためか、比較的わがままや自分の意見を通してきた末っ子は、大人になっても自分の意見を通したい傾向にある。負けず嫌い+わがまま=最強の末っ子である。

    食事に行く時に「何が食べたい」と聞かれ、自分の食べたいものを譲らない人や、恋人に何かお願いごとをしたのはいいが、その意見が通らなかった時に不機嫌になる女性がいれば、末っ子の可能性が高い。とはいえ、末っ子は、なんだかんだ愛される性格を有する場合も多い。『海街diary』の末っ子千佳は、両姉の怖さを知っているのが伺え、だから無益な争いをしない。

    女の人の怖さを基本的に知っているのが末っ子。だからか上記した、"怖そうな人を見極める能力が高い"となる。強引さや気の強さを持ってはいても、引き際はちゃんとわきまえている。つまり、わきまえながらやってるフシが見えるということか。愛され上手なのは、愛されている自分が好きだからで、そのための努力は惜しまない。あちこちへ興味をもって出かけていく。

    あまり物事に過剰な期待はしないのは、兄・姉から得た何がしかの達観だろうか、男に対していい意味であまり夢を持っていない。確かに環境が長女的、次女的、末っ子的、一人っ子的といわれる性格を作るが、すべての人に当てはまるといえないのは、人間の多くは理性で自身を調節するからである。長女でありながら末っ子的、あるいはその逆と見受けられる性格もある。

    潜在的なものと、理性と、流れと、それらが相俟って、自らで格闘しながら生きていくのが人間であろう。折角もっている「いいもの」を出さないで、「よくないもの」を出すような不器用な人もいるし、また善悪良否は相対的なものであるから、人間的に良き相手に恵まれることも大事である。かつて女は「舟」、男は舟の舵をとる「船頭」と言われた時代があった。

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    我々はそういう時代に学校から、社会か、「男はこうである」的教育を受けた。船頭が右に舵を取れば舟は右に、左に舵をとれば舟は左に、無理な舵をとらずに舟を真っ直ぐ進めることも船頭次第。「犯罪の影に女アリ」という言葉も確かにある。昔、「悪女」といわれる女がいた。今も「悪女」といわれる女はいる。違いはあるのか、昔と今の悪女には…。

    「悪女」についての本を数冊読んだが、悪女が何か分らないので悪女について知りたかったからだが、本を読んで悪女が分かるものではない。「幸福」本を読んでも幸福が分らないようにだ。ならば経験したのか悪女を?これまで生きてきて悪女と言える女はいない。性格の悪い女はいたがすぐに逃げるから、味わうことはなかった。が、悪女という女は一人だけいた。

    極めつけの悪女である。逃げるに逃げれないしがらみの中で、右往左往しながら、彼女から影響を受けるのを避けた。何十年もかかってその呪縛からやっと逃れることが出来た。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」誰でもそうであろう。少年Aに子どもを無残に殺された親であっても、日々の慰安の中で忘れさせてくれる。が、今回の手記はその意味で被害遺族の心情を踏みにじったものだ。

    自分のいう悪女とは実母のことである。実母を悪女といっていいのか?悪女に境界線はない。女である事。悲惨な目にあった事。心が蝕まれた事。殺したいと思った事。などなど、これだけ条項が揃えば十分悪女である。実母を悪女と言うのは確かに滑稽だし、歪に思えるが、他人に向けていうのではない。自らに語る以上、実母は十分すぎる悪女の有資格者である。


    本当は言いたくない。あってはならないこと。誇れないこと。悲しいことだが、罪は悪女本人にある。晒す自分に何がしか罪があるというなら、そんな罪は受けるし屁でもない。そんな悪女もオンとし86歳とあらば、人生の終焉に差し掛かったとあっては、悪女振りを発揮できず手持ち無沙汰であろう。それでも嫁いじめだけはご健在だが、何かあれば嫁のクルマで病院に直行。

    姑にすれば嫁は使い走り程度にしかないようで、これも悪女の類である。互いが敬愛心を持って分かち合う嫁と姑も存在することを思えば、嫁姑戦争の渦中にあるものは、いずれにも原因があろう。我妻のあれほどの悪女に対する耐性は立派という一言である。「敵の敵は味方」と言った。母の敵は自分である。その自分を敵に仕向けるように、母は妻にけし掛けた。

    嫁を味方に引き入れることこそ、「敵の敵は味方」となる。母は洗いざらい自分の汚点を晒して悪者にしようとしたが、そういう事をやる女の思慮の無さからいっても悪女である。そんな工作に乗っかる理由もない妻は賢明であったろうが、意のままにならない嫁が気に食わない。姑というのはなんと、傲慢不遜であろう。自分の敵は母である。「敵の敵は味方」という。

    だったら、嫁を母の敵に仕向けるのか?バカバカしい、そんなことを男がやっていられるか。実母は我が頭上の敵であって、支援などは無用である。したがってここに書いてることも、ありのままを書いているだけで、むしろ哀しい宿命を負った母子と思っている。親は恩を売るために子を作ったわけでも、育てたわけでもあるまいが、そういう短慮な思考の親もいるということだ。

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    そういう親に対しては、短慮だ、馬鹿げている、傲慢だという視点を子どもがもつことがいい。親の身に成り代わって、親は子を持つ幸福感に酔いたい、実感したいだろうな、親になってよかったなという充実感・満足感を得たいのだろうな、子どもに感謝されて嬉しいだろうな、などは無用である。間違ったことを言ったり、したりの親には正しい視点を持つことだ。

    それをしないと自分が同じ正しくない、傲慢な親になってしまうであろうそうならないための是々非々の視点である。つまり、子どもは子どものうちから、自分が将来なるであろう「親」を見据えておかないと、その場その場の成り行きでは、理想の親像は望めまい。こういう親になりたいの多くを、こういう親には絶対になりたくないの反面教師から得るのが良策であろう。

    子ども時代にはや親になったときを見据えては、自分の場合はそのように思わなければ、子ども時代をやり過ごせなかった苦肉の策であったと思う。されること、いわれること一切の、親という傲慢不遜な生き物を、まったく否定するしかなかったし、それなくば自己の精神の内部分裂から、自己崩壊していたろう。それが自殺であったり、親殺しであったりではないだろうか。

    情緒の不安定な時期に、己の情緒を見据え、正す方法は、「こんな親には絶対にならない!」という極悪サンプルの観覧であった。なぜ、これだけ子どもに嫌われているかを自問し、自答できる人間(親)なら、すべてを理解の上この世から発つことは出来るだろう。そういえば、『海街diary』に面白いシーンがあった。札幌に居住する三姉妹の実母が鎌倉の生家を訪れる。

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    三人が居住しているにも関わらず、唐突に「この家、売りに出さなきゃいけないね。あなたたちもどうせ嫁に行くんだし…と言う。可能性のある事だが、今いう事ではあるまいに。長女は怒りを表して言う。「自分が勝手に出て行って、この家売るなど、何でそんな権利があなたにあるの?勝手なこと言わないで!」。是枝は女の唐突な物言いを表現したかったのだろう。

    「藪から棒に何を言い出すんだ?」は自分も実母で体験した。その場の感情のままに発言する女の思慮の無さには呆れるばかり。女という言い方でカチンとくる女性はいるだろうが、そういう女性も、母親や友人女性から、思いつきで何事か言われたことはあるだろう。その時には、「なによ、この女は!」と思ったのではないか?男にそういうのがいないとは言わない。

    が、もし男が社会でそのような思慮分別なき発言をするなら一事が万事、こういう男は社会的に抹殺だ。どこから突かれようが論理建てを強いられる男世界である。思ったから言った、思ったからやった、こう思った、ああ思った…では、言い訳としても許されない。行動の根拠が思考であれば言い訳は許されない男社会の厳しさだが、それが男にとっては当然である。

    「女は女に生まれない。女になる」とは、ボーボワール女史の言葉だが、「男も男には生まれない。男になる」と言えそうだ。時に男の子を持つ母親は、行き当たりばったり、その場限りの物言いばかりやっていると、確実に(賢い)男の子には見下げられよう。今日言ったことは、明日変えない。一週間後も、一年後も変えないことだ。男の子にはそれが信頼の拠り所となる。

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    ある男の体験談として以下のことが記されていた。女性とはじつにややこしい生き物である。良かれと思って容姿を褒めれば、「見かけで判断する人なんだ」と言われ、「君と同じものを食べようと思う。何が食べたい?」と聞けば、「自分で決められないの?」と返された。こんな風に彼女が求める「正解」にたどり着けず、悩む男性も多いのではないだろうか?

    これらのことは男ならば誰もが深く頷くことでは?へ~、言葉を返すようだが、「全然頷けない」。容姿を褒めたときに、「見かけで判断する人なんだ」など一度も言われたことがない。大体は、「ありがとう」か、「そんなことないです」と謙遜するかで、「見かけで判断する人なんだ」の言い方、自分の女性観としては0点。こんな角の立った物言いするのか?

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    食事のときも、自分で食べたいものをメニューみてさっと決め、相手には、「ごゆっくりどうぞ」であるから、上のような言われ方などは経験がないな。が、仮に「同じ物を食べたい、何がいい?」と問い、「自分で決められないの?」などと言われたら、人にもよるが、その場からさっさと帰るかもしれない。まるで喧嘩を売るような、思いあがった言い方だ。

    このようなことを男が言われるのは、完璧に舐められているとしか言いようがない。余程のヘタレ男ではないのかと。女性がこのようなことを言うなんて、目くそほども思えないから、言われたら上に言ったように、「ざけんじゃない」だろう。まあ、こんな女と食事やデートして楽しいなどあり得ん。自分的には想像もできないシュチエーションだからいいけれども…。

    男はさらにこのようにいう。「言われてとくに困るのが、女性の多くが口にするであろう『私のどこが好き?』という質問である」と、この男のナイーブさに呆れる。こんな質問のどこが困るんだろ?かつて言われたことはあるのだろうが、記憶にない。ないけれども、こんなのが聞かれて困る質問なのか?もし、自分が聞かれたら日毎、何十通りもの答を返してやるよ。

    こんなのは質問というより会話の類で、質問と思うならかまわんが、会話を楽しむなら質問を怖がること自体ヘタレ男だ。楽しんで答えを言うならいくらでも、その時の気分で面白く答えられるし、そういった会話を楽しむ気持ちがみられない。そんなに女を怖れてどうすんだ?情けなさ過ぎる。これではおじさんがモテるのも無理はない。若い男は脆弱というか、子ども過ぎる。

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    質問を怖がるという時点で情けないわ。これを受けてある女性が、「『私のどこが好き?』のような種の質問は、女性が"自分が受け入れられていないような気がして、不安になったとき"に出てくるものだから、"コンプレックスも含めた、内面的な部分を肯定"すればOKですよ」などアドバイスしている。顔は見えないが、こんなことをいう女は「したり顔」ではないのか?

    「したり顔」って、若い人はあんまり使わないようだが、「よく知ったような顔」、「得意そうなさま」という意味で、いかにも自分の意見が女性を代表した意見であるみたいな、そんな彼女の言葉である。一見正しく、一見正しくない。あんな言葉って、会話の流れで何気に言ったりするんじゃないのか?女性だから女性の心理がわかるわ。「だからこれが正しい答」って、調子に乗るな。

    そもそも、こんな答をいちいち男に教えなければならないのか?これがいわゆる、「マニュアル世代」的特長なのだろうか?その場にいない人間が藪から棒に女性心理云々というより、言われた男が自分で考えろ。まあ、自分に言わせると考えるというより、そんな深い意味のない恋人同士の慣れ合いことばだろう。ちょっくらシュミレーションしてみると、こんな具合か…

     「ね~、私のどこが好きなの?」 

     「どこがって、お前は身と心で出来てるんだろ?だから、身と心だよ。」

     「そんなんじゃなくて、ちゃんと言ってよ」

     「ちゃんと言ってるよ。お前が黄身と白身で出来てたら黄身っていうけど…」

     「もぉ!ちゃんと答えてな~い」

     「身と心で気に入らないなら、股と胸っていおうか?」

     「なによ、それ!ヘンターイ」

     「変態?持ち物だろ?まあ、身と心で喜べよ。つまり全部ってことなんだし」

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    会話ってのは、こういう調子でやるもんだし、「私のどこが好き?」と聞かれて、世の男性諸氏は困るはずだというところが蒼いというか、軟弱すぎる。「質問」などと思うくらいだし、まともに受け答えすぎだよ。それより女にビクビク、オドオドした感じが伝わる。これが昨今の女性主導の要因なのか?もっと女に覆い被さったらどうなんだ?こんな言い方も浮かぶな。

     「ね~、私のどこが好きなの?」

     「うん…?いきなりなんだい?今日は足かな、昨日は指だった。」

     「もぉ、マジメにこたえてな~い」

     「どこが好きって部品のことか?それとも機能のことか?部品も機能も多いしな。」

     「部品、機能ってシツレーね~、あたし、機械じゃないんだけど…」

     「当たり前だろ?お前はナマ○○子だ。煮てもない、焼かれてもないし。女もビールもナマに限るわい」

     「なんか、ごまかされた気する」

     「なんでだ?日替わりで楽しませてくれてるんだ、いいことじゃん。明日はケツかも」

    これが会話だろう?「質問」なんて仰々しく構えてないで、学校のお勉強みたいな答えなんかするんじゃないよ。頭のいい男はバカより増しだが、頭の良さってのが学問じゃないということ。一つことに凝り固まるのは学者的に必要だが、世俗で頭の良さってのは、機転、回転の速さだろう。自分が頭がいいとは思わないが、硬苦しく仰々しく答えるのはバカに見える。

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    学問と違って答は一つじゃない。何か正解のようなものを求めようとするところが、そもそも人と人の触れ合いを楽しめてないな。部屋にこもって、塾にこもって勉強ばかりした弊害は、物事の思考が柔軟性に欠けるというのが現れている。学問は一つの回答をもとめるが、コミュニケーションは回答なんか求めない。むしろ、相手を主導する何かであろう。

    「こんな風に彼女が求める"正解"にたどり着けず、悩む男性も多いのではないだろうか?」と、この言い方が偏差値世代的である。何が彼女が求める正解じゃ?アホちゃうか、笑ってしまいそう。自分がもう一度親をやるにしても、絶対にこんな風な子どもを作らないようにする。私語もないシーンとした塾で、一心不乱に黒板眺めてるような時間って、キモチ悪い。

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    昔の寺子屋のような、立ったり座ったり、私語は乱舞するわの楽しい塾なら、キモチワリイ人間はできないだろうが、受験勉強といいながら、子どもから子ども心を奪った大人の責任は重い。そういえば『海街diary』で、幸のいいセリフがあった。「子どもであることを奪われたほど哀しいものはありません」。これは原作者の吉田秋生が、単行本の第一話の中で述べている言葉。

    四女のすずはいわば、子どもであることを奪われた子どもだった。弟を守り、母がやらない父の看病し、そして自分を守る。そういう環境から抜け出し、年上の、しかも異母姉妹たちの中ですずが、しがらみから解放され、子どもを取り戻そうとするひととき、おねえちゃんたちにうごめく大人の時間を見ながら、子どもを卒業することを自らに強いている。

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    これがこの物語の美しさでもある。子ども時代に子どもを奪われた人間に、約束された高価値の将来があったとしても、子ども時代を失って得たものに本当の価値があるのだろうか?吉田秋生はそれを「哀しみ」と言ったが、そういう観点から周囲を眺めると、荒んだ社会だと、ずっと感じている。子ども時代を犠牲にしても果たされない約束の存在を親は知らない。

    自分の夢が叶わないからと、子どもに夢を託すって…、こんな傲慢はない。親になるときは絶対に「傲慢」の二字を廃する決意をした自分でも、「傲慢」の二字に屈してしまったのを悔いる。その後悔というものが映画や小説に何かを求めている。あるいは、文字でここに書いている。人間は所詮は理想などは追えない生き物だが、叶えた人には拍手を惜しまない。

    大人の論理、大人の傲慢の中でうごめく子どもたちの悲哀が、自身の体験を含めて自分の最大の注視事項である。知らない子どもたちの笑顔に癒されるのは、大人なら誰でも同じであろう。それなのに、我が子を苦しめる親、その正体の根源はなんであろうか?答えは分かっている。「欲」の一文字だ。その欲を「子どもの幸せ」と置き換えるズルさが気に食わない。

    子育ては一度しか出来ないが、多くの親は失敗する。さりとて二度目はないのだから、しかとその失敗を受け止めるしかない。0点取っても笑っていられた親であったが、長男がある日、「もう少し勉強しておけばよかった」と言ったときは、さらに笑えた。それは親の後悔ではなく、本人の後悔である。「あの頃お前に勉強しろ!といってしたか?」

    イメージ 1「いや、してない」と予想通りの答である。案ずるなかれ、「後悔」とはそういうもので、一つの選択しかできない以上、誰にも備わるものだ。女の言葉や態度に一喜一憂する男たちを笑ってはいけないのだろうが、それをイイことに、『女が好む男』、『女のハートを射止める男って?』、『モテる男の言う言葉』などの本を書き、それらを座右の書の如く買う男。

    「女はこうだ」、「女はこういう時にこういう言葉を求める」、「こんな風にいうときっと好感もたれる」など、こんなことが書かれてある書籍の類はすべて空想の世界だ。自分も用例として空想のことを書いたに過ぎない。女に好かれたい、もてたい男に何かをいうなら、こんな本を参考になどしないこと。要は心構え、気構えなのか?それも違う。

    自分の世界観を持つことではないか。「こう言われたらこう言う」ではなく、すべてを自分の世界に持って行く、運んで行く。女の基本は依存である。性器の形が示すように、根本的に受身である。何だカンだと強がっても、うるさく言おうが、男を差し置いて戦争には行かない種族である。いざとなったら都合よく逃げる女に、普段から大きな顔をさせてはダメだ。

    これが賢い男の鉄則である。繰り返す、いざとなったら都合よく「女」を利用して逃げる腹黒い種族である。そういう根本を頭に入れておけば、男と女は対等となろう。およそ多くの女は、自身のズルさ、腹黒さに絶対に気づいている。知らない女はいないのではないか?気づいてない女は、むしろ女失格であろう。そして、それを隠すのが女であろう。

    巷、女がよくいう「男は単純」という言葉は、結局そういう事をいっている。男はその言葉の真意を理解していない。世の男が単純で純朴であるから、女は腹黒くなるのだから、そこは仕方がない。とにかく、女は男がリードするのが正しい。(いざとなったら逃げる)という点において正しい。だから普段はのさばりたいのだろうが、男がシッカリすれば女はついてくる。

    昨今のような偏差値世代社会の恋愛というのは、数式のような正解を男が強いられているのか?とはいえ、「彼女の求める正解」なる思考は止めた方がいい。腹黒女はいつも自分の望む答を求めて質問し、その答が自分の意図しないものでも、何ら案ずることはない。男のリード次第といいたいが、そこはまあ、男が女にリスペクトされていなければならない。

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    あくまで自分の言い分であるけれども、女の御用聞きでない逞しい男を目指すなら、『こういう男は嫌われる』みたいな本をしかと読み漁るとか、こういう場合はこう、ああいう場合はこう、見たいなマニュアルから、女性に気に入られる言葉をストックするようなバカげたことは止めること。上に言うリスペクトされる男になる。と、言葉でいうほど簡単ではない。

    すべての起因は幼少時期にあるからだろう。言わずと知れたママゴンの存在だ。ママゴンがボクちゃんを作り、父親がゴルフ三昧でそれを容認した。勉強で疲弊したどうにもならない、荒んだ脆弱な性格をどう逞しくしろというのか?だから手っ取り早い「How To」本を漁る、それに頼る。確かにどんな選択をしたところで失うものはある。何かを選べば何かが犠牲になる。

    これは経済原則だが、「選択の原則」といっていい。1000円で本を買えば定食は食べられず、花まるの130円のうどんとなる。人間の最も強靭な生き方は『ロビンソン・クルーソー』のような、すべてにおいての自給自足であろう。彼はそんな生活を28年も強いられた。100円でポテチが食べられる御時世なのは、一切が分業のなせる技。すべて一人で作ったらどうなる?

    土に種イモを仕込み、育てる肥料、刈り取るトラクター、取ったジャガの運搬費、チップに加工する手間、フライパンに油に塩、どれだけの工程と人員が必要か。それが100円で買える。我々はロビンソンのように孤独ではない。が、あまりに多くのことを仕込まれた結果、結局何も得てないと同じに孤独である。野球やサッカー選手のように何かに特化した人間は強い。

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    頭でっかちの孤独な若者が、恋愛といういう分野で苦労するのは仕方あるまい。だから思春期に異性に特化すべきである。野球やサッカー選手が理想の選手像を作るように、異性に恋愛に特化し、ひいては理想の家族像、家庭を作る。自身の満足度のなるべく大きい選択をする。合わない異性と一緒になるな。マーケットは広い、自分に相応しい相手を選ぶこと。


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    というタイトルになった。なったのはいいが、「腹黒女とボクちゃん男」のタイトルに比べて書くべく中身に自信がない。その理由は、「腹黒男」といわれるような男も、おそらくこの世にいるのだろうが、これといって思い当たるほどの腹黒男の宛てがない。男には腹黒が少ないと思う理由は、性格にそれほど表裏がないというのが、男の共通イメージだからだ。

    「腹黒女」という種は、多かれ少なかれすべての女に共通するイメージであり、という事は女性は性格に表裏があるという意味でか?それもあるが、体験談として具体的に言葉にするのは難しいところもある。それなら「腹黒女」の世間的イメージを問うてみる。男が抽出した「腹黒いなと思う女の特徴のベスト10」というのがあったのでそれに習うか。自分の考えはその後で…

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     ・第1位/「異性と同性の前では性格が豹変する」…32.4%
     ・第2位/「自分に得になる人しか友だちにならない」…23.8%
     ・第3位/「ウワサ話が好き」…22.9%
     ・第3位/「男性の前ではか弱いふり」…22.9%
     ・第5位/「男性に奢ってもらったり貢いでもらうのが当たり前」…21.9%
     ・第5位/「面倒なことは人に押しつける」…21.9%
     ・第7位/「彼氏がいることを隠している」…20.9%
     ・第8位/「同性の友だちが少ない」…16.2%
     ・第8位/「人の成功をねたむ」…16.2%
     ・第8位/「ぶりっこ」…16.2%

    ということだが、これが世間でいうところの女の腹黒さのようだ。しかし、「腹黒い」という意味を正確に言えるのか?分かっているのか?上にあげた項目でいいのか?自分の思う「腹黒い」は、一言でいうと「虎視眈々」という言葉が近い。「虎視眈々」は読んで字の如く、虎が獲物を狙って鋭い目でじっと見下ろすように、機会を狙って状況を伺うさま。

    厳密には女の腹黒と「虎視眈々」は違うが、もうちょい具体的にいうと、女はやはり様子を伺うようであり、相手の情勢を見ながらそれに対応・適応しようとする。具体的な例はたくさんあるが、自分の主体的な愛情は隠し、相手の愛情の量によって対処(加減を含む)をするところがある。そうではなくて、相手云々お構いなしに、自身の愛情を披露する女に「腹黒さ」を感じない。

    自分が指摘したような、「腹黒女」は、指摘できるという意味でバレバレである。本来は隠そうとするところだが、確かに20代、30代では見抜けなかった事でも、やはり数をこなせば見えてくる。本質が見えるというより、先にあげた相手の対応でトコロを変えないような、捨て身でひたむきな情愛を見せる女との違いから腹黒さが見え、それを自分は「腹黒女」としている。

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    本質が見えない場合は、違いで見分ければいい。いろいろな機微があるから、言葉や文字にはできないところもあるが、「腹黒」のイメージは主体性を隠し、相手の動向に適応しようというところであろう。哺乳類や鳥類などの「野生の王国」的な番組を見ていても、メスはオスの動向に適応しようとする部分は多く、人間のメスも本能的なものかも知れない。

    が、本能が破壊傾向にある人間においては、やはり「思考」の部分が強いのかも。「後出しじゃんけん」はズルイの代表だが、保守性の強い女は、後出しじゃんけんが好きなんだと思っている。それが出来ないから、それに変わる何かで先走らないようするようだ。先走りな男、おっちょこちょい男。一番槍の栄誉もそうだが、「先んずれば人を制す」的な男の性向であろう。

    そこが男の幼児性、娯楽性といえるかも。幼児が遊びが好きなように、男はいくつになっても遊び心を絶やさない。浅田彰の『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房:1984年)が懐かしいが、スキゾとはスキゾフレニア。スキゾキッズとは、子どものようにすぐ気が散る、よそ見する、より道する。浅田は人間をスキゾ型とパラノイア型に二分した。

    スキゾフレニー(分裂型)…そのつど時点ゼロで微分=差異化しているような、いわば≪逃げるヒト≫「コイツは何かあったら逃げる。踏み留まったりせず、とにかく逃げる。そのためには身軽じゃないといけない。家というセンターをもたず、たえずボーダーに身をおく。たよりになるのは、事態の変化をとらえるセンス、偶然に対する勘、それだけである。」

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    パラノイア(偏執型)…過去のすべてを積分=統合化して背負っているような、いわば≪住むヒト≫「一家を構え、そこを核とし、テリトリーの拡大を図る。家財を蓄積し、妻を性的に独占し、子供の尻を叩いて一家の発展を目指す。このゲームは途中で降りたら負け。これは一種のビョーキだが、近代文明というものはこうしたパラノ・ドライヴによって成長してきた。」

    なぜこの話を出したかといえば、傾向的に男はスキゾ、女はパラノである。パラノイアとは偏執と訳すが、誇大妄想・被害妄想がその根底にあり、何かに異常な拘りや執着が見られる状態をいうが、前提にあるのは自己愛、自己中心的思考。自分の意に反するものがあることが許せない。自分の狭い価値体系を絶対的なものとし、それに反するものが許せないという事。

    幼児期から世間知らずでありながら、プライドだけはいっちょ前に高いなどの特徴がある。基本的にパラノイアになる人は、自己を他者に承認された経験が少なく、自分の脆弱さ、自信のなさを隠すために、たった一つの価値に凝り固まろうとする。いわゆるオタク系が想起される。己の無知を知らないパラノイアは、強き者には向けられず、弱者へ向けられる。

    脳科学によると男女の違いは脳の違いとされる。男はシステム脳になりやすいという。男の子と女の子を比べるとわかるが、男の子はおもちゃがどうできているのか分解し、仕組みを知ろうとするなど、何につけてもシステムを知ろうとする。女性は共感脳になりがちといわれる。女の子は決して人形を分解したりはしないし、綺麗に着飾って抱っこする。

    イメージ 4男性のように理論で物事を判断するのが苦手で、直感でイメージして判断していくようだ。本来的に男がスキゾ的であるのはわかるし、スキゾ的に生きられるのが男冥利かもしれない。浅田はスキゾを勧めているが、『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』は、30年前に京都大学人文科学研究所の助手時代に書かれた著書。「知のアイドル」といわれた彼も、今は58歳のおっさんである。

    「腹黒」に話を戻そう。上にあげた男が指摘する「腹黒女」の項目だが、男にこのように指摘されるということは、本来は男に見せていないつもりなのに、実はバレているということになる。こんなにバレるような項目ならそれほど「腹黒」といえるのかどうか。バレない行為こそ「腹黒」の真髄であろう。バレてしまっては効果がないとはいわないが、バカな男もいるからいいとする。

    2位も3位も、その他の項目を見ても自分的には腹黒女というより、共通する性向に思える。噂話好きも、男の前で弱いフリも、男に驕らせたいも、面倒なことを押し付ける、あるいは面倒から逃げる、人を妬むも、こんなのは女的に腹黒という事でもない普通のことだが、中にはそういう傾向のない女もいて、それと比較すれば腹黒に思えるんだろう。して、最後のぶりっ子…

    表題の「かまとと」を近年の言葉で「ぶりっ子」といっているようだ。だいたい同じ意味だが、「かまとと」は「知らないふりをする」ことに強調され、「ぶりっ子」は、「いい子ぶりっ子」の省略形で、「いい子ぶる」、「可愛いふりをする」、「上品ぶる」であろう。知らないふりをする=いい子ぶると言えないこともなく、同義語でいいのではないか。

    ただし、かまととは死語になりつつあるし、「ぶりっ子」の方が直接的で意味が分かりやすいからであろう。そもそも「かまとと」の語源は諸説あって、「かま」は蒲鉾(かまぼこ)のこと、「とと」は魚のこと。蒲鉾は魚から出来るというのを知っているのに、姿・形は魚に見えないことから、「蒲鉾っておとと(魚)でしょう?」と知らぬフリをすること。

    「猫をかぶる」も、主に男の前で無知なフリをして甘える、非力のフリをする、わざとらしい女らしさ(愛らしさ、可愛らしさ)のアピールをする、とすれば、これも同じ意味だが、「かまとと」も「猫をかぶる」も言葉自体に意味は見えないゆえに、「ぶりっ子」に限定されていくだろう。近年はやたら直接言葉が使用され、昔情緒ある言葉が衰退していく。

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    男にその手の言葉はあるんだろうか?「かまとと男」なんか聞いた事ない、「いい男ぶりっ子」もない、「猫をかぶる」もない、「皮をかぶる」は男用だが意味が違う。と言ったところで、本題の「かまとと女」については大体述べたし、問題は「腹黒男」である。歴史上人物で腹黒と聞くのは黒田官兵衛を耳にするが、策士と腹黒さは紙一重といわざるを得ない。

    「野心家だ」、いや「律義者だ」に二分される官兵衛評だが、野心より家名を大事にしたところは間違いない。秀吉が官兵衛を怖れたともあるが、家康と官兵衛とを比べてどちらを怖れたかという比較なら言わずもがなであろう。その家康にも腹黒評はある。狸ともいわれるが、事をあせらず「鳴くまで待とう」の心根は、我慢という腹黒さの恩恵であろう。

    腹黒診断によると、視点を変えると我慢は腹黒の範疇といえるが、我慢を腹黒MAXとは誰も言わない。つまり男の腹黒さというのは、戦略や策士的な意味で、プラス評価に思えるがどうだろう。家康が腹黒いというなら、その腹黒さのおかげで陽の目を見たともいえる。したがって男には腹黒という言い方よりも「腹に一物」という言葉の方が、いかにも男の気概であろう。

    「腹に一物」も、近年は会話に盛り込まれない言葉になった。我々は若いときには普通に使った用語である。「心に企みをもっている」との意味だ。「男の一物」は陰茎のことだからまったく意味違いで、これも使わない言葉となった。「腹に一物ある奴」は、一癖ある男にいう場合が多いが、男は寡黙で不言実行を旨とするなら、「腹に一物」は当然であろう。

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    自分は「腹に一物」的男は賢い男、寡黙で男らしい、逞しいという評価である。事を成すのに周辺にまでそ知らぬふりをしておかないと、壁に耳アリの責任は免れない。家康の、「せいては事を仕損じる」や「腹に一物」が腹黒いというのは狭隘な物の見方である。「天才とバカは紙一重」という意味に似ているし、世の多くのことは常に背中合わせ、表裏の関係にある。

    親切も押し付けであったり、善意と悪意も紙一重。俊敏な行動はせっかちとなり、じっと様子を伺うのは「動かざるは山の如し」という評価に変わる。巷の会話ではしばしば、「あいつは腹黒いで~、気をつけんと」などの言い方を聞く。言われると、「そうか、気をつけるよ」と一応返すだろうが、そこには、「腹黒い」という共通認識がなされているようだ。しかし、本当に共通なのか?

    「あいつはズルいから気をつけろ」、「バカだから気をつけろ」などもいうが、何がズルいのか、どういう点がバカなのかを知ろうと思うなら、「どういうところがズルいんだ?」とか、「どういう風にバカなんだ?」と自分は聞く派である。言葉だけを鵜呑みにして人を判断するのは危険だし、単に嫌いなやつ、相性が悪い、嫉妬心などから言ってる奴もいるからだ。

    親切に言ってくれてるようでも、実は悪意に満ちたりと、人間関係はいろいろだから、人の言葉を鵜呑みにするのはよくない。理由を聞いてみれば、何でもないことも多い。相手には許容できずとも、こちらには許容できたりもある。「あそこのラーメンは美味い」、「あそこのカツ丼は不味い」という巷の情報に裏切られたことは誰にもあろう。人は人、自分は自分なのだ。

    イメージ 7「どこが美味しいんだ、全然不味いわ」というのも正直な返答であり、そんな遠慮はしない自分だが、人によっては不味くても、「美味しかったよ」と伝える奴もいる。ある奴に勧められて女と二人で食べに行ったときに、「何だ!これは不味い。あいつに文句いってやる」と言ったら、「ダメよ、そんなこと言ったら。美味しいと思って勧めてくれたんだし…」という女に、「…」と思った事がある。

    いかにも女は「共感型」である。批判を悪とするところの人間関係が主であり、だから表面的な付き合いとなる。女に生まれたら自分もそうやるしかないのだろうと、納得はするが、何事もすべからく言い合う方が腹の底が分かって面白い。「こいつはこんな風に考えてるんだ」、「こういう風に生きてるんだ」が分かるからだ。ちなみに自分は、「腹に一物」抱えた生き方は、到底無理だ。

    堰き止めたダムのように、頃を見て一気に放出するような、作為的な、計画性的な、そういう風には生きられない。あるがままを、あるがままに出し、受け入れ、その都度解決して行く。こうすれば問題は起こらないだろうな?というのがないのは、問題の発生を怖れないからであろう。問題が発生すれば解決すればいいし、難題ほどやりがいが感じられる。

    問題を避けて行くか、問題を蹴散らして行くか、人を観察しているとこの2通りを強く感じる。前者は保守的、堅実的、後者は革新的、遊興的。自分は言わずとしれた後者である。何も起こらないよりは、何かが起こった方が面白いではないか。前者は辛気臭い人間に思える。辛気臭いは関西以西の言葉で、思うように ならず、いらいらするさま。また、気がめいるさま。

    「ブログなんかようやるで~、自分、そんな辛気臭いことやってられへんわ」など、明石家さんまがよく使っていた言葉だが、関西以北の境目はどの辺りか分からぬが、東京人は使わない。というところで、な~んも辛気臭いことないが、この辺でやめとこ。「腹黒男」の表題で書けるかな?と思ったが、内容はともかくとりあえず書いてもうたよ…


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  • 07/16/15--20:38: 傷ついた
  • 「傷ついた」と言われることが多かった。「傷ついた」と言われたら「傷つけた」ことになるんだろう。これは原因と結果の法則によるのだろうか?以前から相手が、「傷ついた」と言われたときの対処は悩みの種だった。以前といっても10代、20代あたりで、その辺りの年代は自分も相手も若い(=子ども)とみれるし、「傷ついた」と言われるとこちらも悩む。

    傷ついても口に出さない奴もいるし、それで自分の心の中でやりくりしてなんとか解消しようとする奴と、内に入れたままずっと根に持っている奴がいる。「傷ついた~」とすぐに言葉にする奴は、本当に傷ついたというより、相手の言動にちょっとばかし不満をいいたいという、一種のクレームのような感じだろう。黙って根に持っている奴は随分後になって言ったりする。

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    態度が変わる奴もいるし、分らない奴もいる。自己防御反応から言い返す奴もいるし、急に言葉を発しなくなる奴もいる。これらは傷ついたことに対する怒りの表明だろう。どちらも怒り加減は伝わって来るが、表情にも出さず、押し黙った人間は傷ついたことを隠そうとするのか、あるいは怒り感情を表さないように訓練しているからなのか、その辺が分らない。

    「傷ついた」という言葉は女性に結構多用されるが、男はあまり言わない。最近の若い子は言うかも知れないが、昭和20年代~40年代の古い世代人から聞くことはない。自分もこんな言葉は一度も言った事がないし、同年代男女から「傷ついた」の言葉を耳にした記憶がない。記憶にあるのは昭和48年生まれの女が、22~23歳当時によく言ってたのが思い出される。

    露骨な物言い(自分的には普通なのだが)をしたときに、「傷ついた~」と返すのだが、その言い方は可愛いしぐさにみえた。どの程度傷つき、それをどの程度カバーしてるのかは本人以外には分らないが、ハッキリ「傷ついた~」というのは、「もぉ、なによ」、「ひっどぉーい」、「きっつーい」、「言いすぎだよ~」などの言葉と同じ風にとれた。

    東京に行った当時、東京生まれの女が「あら、ずいぶんじゃない?」という言葉をいわれて、そのあまりの品のよさに感動してしまった。こんな日本語があるんだと、カルチャーショックを抱いた言葉である。「失礼なこというわね~」、「よくいうわね~」、「こまっちゃう」、「ご機嫌いかが?」、「そんでもってさ~」、なども異次元空間な言葉だった。

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    いまでこそ東京ギャルは、「うちね~」、「うちら…」というけど、当時の東京少女は、「わたし」をもじった「あたし」、「あたい」と、一人称はこの3つ以外にはなかった。「うち」は関西圏~中国地方(東海、中部は知らない)の言い方だった。それが今や、「うち」、「うちら」は標準語である。コラムニスト中森明夫は当時のコギャルを、「ウチラー」と名づけた。

    東京の人の多さには驚くよりなかった。が、それでも人間の交友範囲なんてのは、自分の周辺のわずかばかりの人間と限られていた。どんなに人の多い都会でも、猫や牛も人口に数えなければ示しのつかない過疎地でも、日常の人間の交友範囲自体はそうそう変わらない。都会の人の多さは、関係のない人がわんさかいるということだ。それが今やネット社会である。

    インターネット原初期は、パソコンに習熟した人たちがアクセスをし、コミュニケーション・チャンネルを広げていたに過ぎない。それでも交友範囲拡大し、日本全国あるいは世界と瞬時につながった。初期のパソコン通信のネットフォーラムには、毎夜多くの人間がたむろし、いわゆる異業種交流に花を咲かせていたが、異性の出会い系専門サイトはなかった。

    フォーラムに異性を求めてくる男は当時もいて、部屋にぽつんといる住人のハンドルネームを見ては「男?女?」と聞き、男なら退室する人間も多かった。ネットというのは原初期から、リアルで女性に縁のない男の棲家的様相を示していた。人が集まるという事なら、商売になる。それも異性相手ならなおさら、という商売根性が出会い系サイトを生んだ。


    集団で会話をするチャットフォーラムは廃れ、2ショット・チャットとして2名専用に移行したのも必然の流れである。そうした頃にはパソコン普及率も5割を超え、また、親のパソコンを鬼の居ぬ間にコッソリ使う高校生が増え始めた。高校生は中学生⇒小学生へと低年齢化し、そうして携帯電話が電話以外の用途を持ち、個人がパソコンを持ち歩ける時代になった。

    社会学者の宮台真司が、『朝日新聞』文化面に、「ブルセラショップの女子高生」を書いたのが1993年である。以降3年間に雑誌や新聞に執筆した膨大な量の原稿をまとめ、『世紀末の作法』として単行本化したのである。宮台は社会学の一環として東京都下町田市近辺のテレクラをフィールド調査をしていた。町田にテレクラが出来たのが1986年(昭和61年)である。

    当初から女子高生の売春多しと雑誌にも掲載され、それをカモにした不良男にやり逃げされたり、待ち伏せていた仲間に輪姦されたりの被害が多かった。正当な料金を払って女子高生にあやかる紳士(?)なおじさまだけとは限らないリスクは、嫌が応でも発生し、それを警察沙汰にできない(親の知るところとなる)というのが、女子高校生の弱みでもあった。

    見知らぬ男に一人でマネージメントをする危険さからして、純朴なるオヤジは優良顧客であり、不良たちとの被害に出あっても、優良客頼みに彼女たちはせっせと時給3万円のバイトに勤しむ。「穴」一つで稼げる女のコズルさが、早い時期から合理的な仕事に開眼、オヤジをカモり、戦略的に振舞う彼女らにとってのオヤジという存在は、汚れきった卑しき大人の象徴である。

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    ホストクラブのイケメンが、脂肪をまとったおバカな有閑マダムにお世辞を吐きまくって金を出させるように、自分の父親の年齢とたがわぬオヤジの加齢臭や、サービス精神のつもりかくだらぬオヤジギャグに愛想笑いをしながら虚無な時間を耐えしのぐ。汚れた大人と承知の上であっても、あるいは自らは汚れた存在を認めつつも、世界を受容していたわけではない。

    世界を拒絶することを知らなかった少女は、世界の汚れにまみれることで自らの存在に動揺はするが、彼女たちはプロのソープ嬢や売春婦とはちがって、そうい世界のみに浸透されないイノセントな存在である。確かに一部は全体ではないが、「一事が万事」という自己教育力が希薄なのだ。「一事が万事」とは、一つの物事から他のすべてのことを推し量ることができる。

    そういう戒め言葉であろう。「ちょっとくらいならいいではないか」が人間の弱さ、ズルさだが、ちょっとが深みにはまって行く事を人間は気づいていない。それを誰も教えてはくれない。「一事が万事」はそこに気づかせ、自制心を煽る教育的指導用語である。しかしながら、諺や慣用句は言葉自体は残酷でもある。たった一度の失敗で、お前の人生は終わりだ。

    「一事が万事」はそういう意味にもなるが、ポジティブに生きる人は、ネガティブな言葉を蹴散らす人でもある。そういうときには、「七転び八起き」という言葉を浮かべる。あるいは、「失敗は成功のもと」でもいいし、諺や慣用句を都合よく自己正当化に持ち出す人、あくまで自己啓発の一環として利用する人、こういった人間の差、は人生の差として現れるであろう。

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    都合のいいように考えたくなる時、言葉で自分を偽ろうとする時、「言語は考えを隠すために与えられた」というマラグリダ神父の言葉が浮かぶ。これをどう受け取るかでも変わってくる。「人間はそういう物なんだから仕方ない」ととるか、「そういう物であるなら反発してみせる」ととるか。間違いを間違いと、醜いことは醜いと認めるのは勇気がいることだ。

    が、それ以上に醜いことを美しいと思い込もうとする人間がいる。本人は気づいてないのだろうが、それを欺瞞という。誰でも事実を認めることは傷つく。が、そういう場合に傷つくのはむしろ大事である。傷つきたくないから事実認めない、認めようとしない。それで焦燥感が生まれ、自己嫌悪に陥るくらいなら、いっそ悪を善と思い込めばいいなどの欺瞞に転換する。

    人が自らを傷つける時、事実を認めるときであろう。「他人から傷つけられるのと、自分で自分を傷つけるのとどっちが辛いか?」そういう議論をいろんな人とした事がある。そこで自分が導いた答は、「自分が自分を傷つけるのはまだしも、他人を傷つける必要がどこにある?」であった。喧嘩なら相手を傷つけることで勝利するし、それが、喧嘩の王道である。

    問題は、傷つける気はないのに相手が傷ついた場合である。それでも謝る必要があるのか?その場合の対処を考えたことがある。謝る本質は自分に非があるからで、相手から勝手に加害者とされ、何で謝らなければならない?謝るのが嫌ではないが、「ごめんなさい」を心無くいうのはバカげている。そんな謝罪に何の意味があろうか?そういう結論でしかない。

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    謝る時は自分が悪いと思って謝りたいし、謝罪は気持ちであって言葉ではないのだと。謝罪言葉をいえば一応は謝罪になるが、「一応」は好きじゃない。"他人を傷つけて何の得もない"という気持ちがあれば、人を傷つけることなどしないはずだ。それなのに相手は傷ついたというのは、いかにもお前に傷つけられたと言わんばかりである。そんなバカな…

    キツイこと言われた。と相手がいったら「キツイ」言葉になるのか?そのように傷ついてみせたり、相手を非難する奴は多いが、一体どちらが悪いのか?「ヒドイ事いうね~」と言った時点で、言った相手が悪者になるのだろうが、自分はこれを認めない。相手の立場になればそうなのだろうが、問題はそういう言葉を発した側が、本当にヒドイのかどうなのか?

    それを互いが検証すべきであろう。が、これは難しい。同じ事をAとBに言って、Aは傷つきBは何でもない。ただ、物には言い方があり、その言い方が礼を逸したというなら、それはそういう言い方をするのがよくない。「物は言いよう」とは、直接的な言い方をせず、あえて回りくどくいうことで印象が変わるという意味。「物は言い方」は少しニュアンスが違う。

    「お前はバカか!」と「あなたはあんまり物事を考えませんね」は、言葉は違うが(自分的には)同じ意味だ。前者のように言ったり、後者のような言い方も人によって変える。例えばガム一個万引きした奴に、「いい年して何やってんだ?ガムくらい買えよ。お金持ってんだろ?」と言ったら相手は逆上し、「ガム一個くらいでそんな言い方するのか?」と返す。


    判断が分かれるだろうが、上の補導員は言い過ぎか?ガム一個でドロボウ呼ばわりは間違い?自分の考えは、ガム一個だろうが、本10冊だろうが同じ事。理由は盗む人の満足感の問題であり、銀行強盗は1万円では満足できないから100万円を盗み、ガム一個で満足するから万引きする。被害額ではなく行為の問題で、上のバイトは頭がいい、社会に有益な人間だ。

    「腕一本切り落とされたくらいで文句いうなよ。命を取ったわけではあるまいてな言い方もあるまい。傷害も殺人も犯罪行為である。蹴り飛ばしたも、頭をポカリとやったも、やった側が「殺したわけではないだろう」と自己正当化をできることではない。つまり、悪事をした以上、それをどのような言い方で咎められても、反論はできない。それが言い訳を禁ずる意味において同じ。

    「たかがガム一個だろう」、「命まで取ったわけではないだろう」は悪事をした者の愚かないいわけであり、言われるのが嫌なら悪事をするな。する以上は何を言われても仕方ないという覚悟を持て、これが自分の悪事に対する考えであって、この場でも何度もいっている。人間は悪事をするんだし、する以上はするときの心構えでやる。言い訳するくらいなら悪事をするな。

    分かりやすいが、人間に言い訳をいわせたらキリがないし、面倒くさいし、聞いてはいられないような幼児の言い訳など、平気でするのが人間。「ガム一個くらいでガタガタいうなよ」という奴は、「ガム一個万引きするようなセコ野郎が、大口垂れる資格はないんだよ!」と言いたい自分である。セコイ自分を棚にあげ、「ガタガタ抜かすな!」の強弁など笑わせるなである

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    ガム一個くらいに即した言い方があるのか、ないのか、そんなことよりも、万引きをした人間は、その人にとって必要な真実を受け入れ、であるからこそ自身の糧となり、成長もし、昇華もできるのだ。自分の身内、あるいは味方が自分にくれる称賛よりも、敵が放つ毒矢の方が良き薬になるように…。人には育った環境もあり、そこから派生した性格というものがある。

    いろいろ見てき、いろいろ体験してきていえることは、相手の言葉を(善意であっても)悪意にとったり、傷つける意図などないにも関わらず(本人にはそれが判らないし(判らないからといって自身の判断が正しいわけでもないが…)、傷ついたとか、上目線などと批判的に感じるひとは、上に記したような自己向上心のない人が多い。余裕すらなく目一杯で生きている。

    人が自分を潰そうと企んでいるなど、自分以外の人間は敵意識が強いのだろう。言い換えると自己愛が強いか、いじめ体験などを受けた反動か、いろいろいな要素があると感じる。仲間以外はみな風景にすぎないという虚無性、今世界や周囲への無関心、かつての不良少女とは異質の無目的不良な少女や少年は、無目的な犯罪を行う怖さを秘めている。

    目的には動機があるが、無目的殺人の怖さは、常人の動機がない点にある。一般の殺人動機の多くは人間関係のもつれからつい、カッとなって殺してしまった。あるいは、金目当ての殺人などもある。これらは理解できる動機だが、長崎高1女子殺人の犯行動機として、「人を殺してみたかった」、「解剖してみたかった」というのは、一般の人の理解を超えている。

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    彼女にとっての動機といえ、常人には病理である。そういう動機は世の中の動機と乖離する。キチガイは檻の中に押し込めておくのが、世間の治安を守ることでもある。13日、加害者少女は医療少年院送致が決定した。平井健一郎裁判長は、「刑罰による(再犯)抑止は効果がない。少女の特性に応じた長期間の矯正教育と医療支援で、矯正の可能性は残されている。

    快楽殺人であり、残虐さや非人間性には戦慄を禁じ得ない」と指摘する一方、少女がいまだに殺人欲求を抱き続けているとしながらも「謝罪の言葉を述べるなど変化の兆しはみられる」と述べた。被害遺族は少女の更生をクビ長くして待つ日々を送る。酒鬼薔薇こと少年Aと同じ処置である。少年Aは贖罪していない。長崎の少女は、どうであろうか…



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  • 07/18/15--05:35: 傷ついた ②
  • 他人を喜ばせたり、いい気持ちにさせるのは自分も気分がいい。他人を傷つけるなど考えたこともないし、傷つけて得るものはない。だからと言って、他人を傷つけないように気を使いながら、配慮しながら話をするのは随分思いあがったことではないか?失礼なことであろう。なぜなら、自分が他者から傷つかないよう気を使われたらいい気分ではない。

    hanshirouさんを傷つけたら可哀想だし…」、そんな配慮や、会話で気を使うなどと思われたらこっちだって面白くない。もし、親しい人がそのような感じであったなら、「そんな気を使わんでいいよ、別に傷つかないから」と言わなきゃ、勝手に配慮されても迷惑だ。このように、真相がわかれば相手をあざむいているし、無用な配慮、無用な同情は無意識に相手を見下している。

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    人は人とフラットな気持ちで接するのが自然ではないか。人間は強い心を授かると、他人に冷淡になれるのだ。別に相手に媚び諂うこともなく、一人で生きていけるようになると、他人に冷たく接することができるようになる。冷淡とか、冷たくとは、温かい人に比べて無慈悲に聞こえるが、世俗的な意味で言っているのであり、他人にも厳しくなれるということ。

    他人には優しく、温かくは、道徳というより性格であろう。様々な境遇や家庭環境から自然に身に付くものだと思っている。小学校は「人に優しく、親切に、困っている人みたら助けよう」を道徳として教えるが、教えて身につくものではないし、かといって「人に冷たく、親切なんかしてはいけない、困ってる人は見捨てよう」という標語もなければそのように教えない。

    人間社会には様々な道徳がある。他人に親切にしなさい、困った人を助けよう、約束は守ろう、信頼を裏切らない、嘘をつかない、浮気をしてはいけない、人を殺してはいけない、これらは道徳として教わり、身につける。道徳だから守るべきといっても、それだけでは守れないもので、そこには守るべき根拠があれば、それについて思考し、考察もできる。

    規則だから守れ、校則だから守れといわれても、その根拠を問うと答えられなかったりする。そういう場合には、権威で「規則は守れ」とするしかない。何を根拠に人を殺してはいけないのか?何を根拠に人に親切にすべきなのか?何を根拠に浮気をしてはいけないのか?何を根拠に嘘をついてはいけないのか…。答えられない人は多いし、答もまばらであろう。

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    最も優等生的な答は、「秩序を守るために」ではないだろうか。こういわれて「君は賢い、その通り!」と答えてもいいが、本当に頭が良いと感じる相手なら、さらに突っ込みを入れるべきだ。「秩序を守るためというけれど、人間社会の秩序っていうのはいくらでもあるだろう?キリスト教社会の秩序、イスラム教社会の秩序、未開社会にも秩序はあるはずだ。

    如何に混乱する社会にだって秩序はあったろうし、それらはすべて同じではないだろう?」。根拠を「秩序」と答えればこのようなことも思考しなければならない。したがって、簡単なことは難しくせず、簡単に考える方がよい場合が多い。上記したさまざまな根拠は、単に自分がそうされたくないということではないか。殺されたくない、浮気されたくない、裏切られたくない、嘘を吐かれたくない。

    これらのことは同時に他人にしてはならないということ。それが道徳である。あるいは自分が、「他人からこうしてもらいたい」ことがあるとすると、それが、「他人にはこうすべきだ」ということになる。それが道徳である。期待の期待こそ、規範意識の根元に他ならない。例えば女性に聞いてみるといい。「何で浮気をしてはダメなんだ?」。こういう答が返るだろう。

    「じゃあ、あなたは自分の恋人が浮気してもいいわけ?」。これが人間の道徳である。「人間の欲求を規制する社会規範それ自体もまた、究極的には、人間の現実的な欲求に根をもっており、欲求から活力を引き出している。」(見田宗介『価値意識の理論 - 欲望と道徳の社会学』。規範意識と欲求が相反していながら実は同じというのは、人間存在の矛盾である。


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    そういえば見田の長男竜介は漫画家である。漫画音痴の自分はよく知らないが『ドラゴンハーフ』が代表作、他にも成人漫画を本業とする。弟の航介も漫画家・イラストレーターである。祖父は京都帝大卒でヘーゲル研究者として名高い哲学者の見田石介である。父の宗介も東大名誉教授で社会学者だから、華麗で錚々たる家系からエロ漫画家というのもユニークである。

    宗介の、「期待の期待こそ規範意識」という考えによるのかも知れない。他人に期待しない者だけが自由に生きていく権利を持つ。つまり、「私が浮気をしないんだからあなたもしてはいけない」、これが規範意識の根源であるということ。そういう規範意識に殉じているから、夫が浮気をすると許せない。が、夫に内緒で浮気をしている妻にあって、もし夫の浮気がバレたら妻は?

    怒るのか許すのか、そこは分らないが、理論的には許さなければいけない。夫に「浮気厳禁」と言いながら自分は浮気をするのは非道徳である。浮気という不道徳な行為をする以上、夫にも認めるべきだが、夫の浮気が露呈した場合に烈火のごとく怒る妻を知っている。「可笑しくない?」とチャチ入れると、「当たり前でしょ!私は貞淑な妻ってなってんだから…」と言う。

    「腹黒女」と思えばどうってことはないし。まあ、いろんな考え方はあるが、バレたことが悪いと自分は思うから、彼女の言い分を理解した。バレたらバレたなりの対処をすればいいことだ。事実は露呈しなければ事実と認定されないの法則によるし、人間なんてのは、そんなに清く正しい生き物ではないんだし。悪事はするな、ではなくバレないようにすべしであろう。

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    大事なことは、バレて言い訳をしないで罪に服す。いかなる仕打ちやいかなる暴言にも耐える覚悟ならいいんじゃないかと。道徳や倫理はともかく、法を破って言い訳はないんだし…。誰だって自分の期待に添わない相手の行為は、非好意的といえるし、それらから人は他人の期待を先取りするようになる。そういう個々の要求が社会一般の要求となる。

    それが道徳とか倫理というもの。個人が破るのは個人の責任において自由でも、相手(世間や他人)の要求から外れている、そのことは認めざるを得ない。昨今はスポーツ選手やミュージシャンのtattooがいろいろ言われているが、「ワシの勝手じゃ」といっても、様々なポジション内での規正を強いられる。浮気だって男内では、「上手くやってるな、羨ましい」となる。

    近年は女同士でも、「いいわね~、羨ましい」といわれたりするらしい。女が「守る」時代からより積極的に自己を生きる時代になったということだ。そういう点から見れば、道徳なんてのは所詮は自立できない人間の弱さを表しているという見方もできるし、それ自体が決してイイモノだとはお世辞にも言えないにしろ、道徳を守ることで自己満足感に浸る良識派人間もいる。

    良識派は例外として、「道徳」の基本は守るべきものというより、自分が弱いから、自立できないから、仕方なく従っているに過ぎない。あらゆる決め事というのは、得てしてそういうものではないか。それプラス他人の批評が怖いからの部分もある。他人は世間であり、世間とは他人のことを言う。「良心」や「善意」でさえも、その実は自身のエゴイズムかも知れないのだ。

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    よく見る会社のスローガンに、「私たちは世のため、人のために尽くします」というのがある。自分が出来ないことを介護や介助という形で奉仕したり、人の欲しがるものを作って売るのも、料理や食事を提供するのも、スポーツで美技を披露するのも、すべては世のため人のためで、その事に嘘はない。ただ一つ、「自分のため」というのを省略しているだけだ。

    「世のため、人のため、会社の発展のため」とする企業もあり、そちらの方が正直だと自分はみる。どの言葉もあえて書かずとも当たり前のことだが、スローガンとはそうしたもので、企業や団体の理念や、運動の目的を、簡潔に言い表した覚えやすい句・標語・モットーのこと。スローガンは「社訓」、「社是」ともいい、社員以外はあまり知られていないものが多い。

    日清食品…「決断なき上司は無能と思え。社長へ直訴せよ」

    ワタミ…「地球上で一番たくさんの“ありがとう”を集めるグループになろう」

    楽天…「スピード!スピード!スピード!」

    グリコ…「創る・楽しむ・わくわくさせる」

    ヤマトホールディングス…「ヤマトは我なり」

    電通…「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは…」

    吉本興業…「修羅場で君は光っているか?君の価値はここで決まる」

    雪国まいたけ…「私たちはできない理由は探しません。できる理由を探します」

    ラーメン二郎…「ニンニク入れますか?」

    イメージ 6人生相談や数々の著書でお馴染みの加藤諦三氏は、このような履歴を記している。「私は親から、加藤家を再興できるのはお前しかいないと聞かされている。祖父は貴族院議員であったり、当時二大政党の一つであった民政党の最高顧問をしていたり、大学の総長をしていたりということで、家の者達は自分達が名門の出のつもりでいた。世間がどう見ていたかは別である。
    そして祖父が本当に言ったかどうかは疑問であるが、孫の中で私だけがきわめて優れて祖父のあとを継げる人間だといったと、親から聞いた。祖父がそんなことをいうはずがないと思う。ただ私の親が、そのように私に言うことによって、私をいよいよ縛ろうとしたのだと思っている。そのように育った私には、自分の存在そのものが相手を満足させるなど夢にさえ思わなかった。

    しかし、いろいろな勉強をしていくうちに、そのような愛というものがあり、そのような愛によってこそ人間は情緒的に成熟していかれる、とわかったてきた。人間の自我形成にとって、そのような愛こそが必要なのだとわかったのは、青年期も終わってからであった。私にとっては、周囲の期待に叶うことだけが受け入れられる道であり、しかも周囲の期待は強かった。

    他人を傷つけたくない。私はそのために随分苦しい思いを自分に課した。それは私が傷つきやすいからである。だから自分が傷ついた時のあの気持ちを、いま同じように他人が味わうと思うと、たまらなかったのである。」誰でも傷つくのは嫌であるが、傷つくことよりも、傷つくことを怖れるあまりに、周到になりすぎて行動をしない人間は多いようだ。

    自分はそれが無かった。傷つくのはいつも傷ついたあとだった。誰も行為する前から傷つくなど思っても見ないし、行為の結果として傷つくのである。ひどく傷ついて行為自体を怖れる人間もいるが、行為の結果失敗に終わって傷つくのは仕方のない事だと思っていた。それより行為自体を楽しんだ。楽しむ極意とはこういう事だ。「報われる努力もある、報われない努力もある。」

    こう考える人生は楽しく生きられる。「努力は人を裏ぎらない」という書物が多いのは、売るためには当たり前である。「努力が実らないことはある」は、あまりに当たり前すぎて買って読む価値はないし、「努力は必ず実る」の方が、興味を持てる。書籍のタイトルは極端な方が人目を引く。それより、「ああなったらどうしよう」、という予防線を張らないこと。

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    結果という打算より、行動そのものを楽しむ方が様々な経験が得れる。経験はまた人間を広げる。柔軟にする。幾度の失敗という苦痛より、その場その場の目新しさが楽しませてくれるし、多くの経験をした人間でないと得られない素養やノウハウが身につく。無意義な経験というのはない程に、経験そのものに意義がある。人間の差は読書ではなく経験の差であろう。

    ある事をやらないでいて失敗しないのと、ある事をやって失敗して傷つくこととどっちが大事かは言うまでもないが、では、どっちを選ぶかといえば別れるところだ。経験をたくさん持った人間は、やるか、やらないかを思考するという事もあるが、それ以上に気づいたらもう動いていたという人間であろう。そういう人間は失敗を怖れない、傷つくことを怖れない。

    といえば聞こえはいい、カッコもいいが、自分に関してはとにかく、動くこと、つまり行為そのものが楽しみであり、喜びであった。若いとき、自分の行動主義をある真面目男に進言したら、「動くよりじっとしてるのが楽しい」と言った。「じっとしてるのが楽しいって、老人じゃあるめえし、それが詭弁だと気づいてないだけだろ?失敗を怖れてるんだよ」と言い返した。

    じっとしてるのが楽しいという事は、瞑想等のケースもあるし否定はしないが、「今の時代、飢え死にすることはないからな、何を失ったところで生きていけるよ」と言った時に、「そうだな、そうかもしれない。そこは考えなかったし、怖いところだった」と反転し、共感を得たのには驚いた。すべてを失ってゼロから生きた人は多い。かつて日本も焦土から立ち直った。

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    神戸地震も東北地震の後も、まがりなりにも頑張って生きてる。崩壊と蘇生の歴史の連続の中で、究極的に人間は蘇生である。先人の生きるパワーには脱帽させられる。我々はその一翼を担い、後人にそれを伝授しているのか、どうなのか…。それには若い人たちの逞しい生き方を見届けなければならない。が、先人の伝言は、以下の言い古された言葉しか見当たらない。

    「傷つくそのことよりも、傷つくことを怖れぬこと」。命運を握るのは自分しかいない。他人の意志に従う意味はない。自らの意志に委ねるだけだ。しかも、結果に不安やおそれを抱いて行動しないよりは、案ずるなかれ、すべてはやってみるまで分らない。努力の必要性もあるが、上に記したように、「実らぬ努力もあるんだ」と、考えることが人生を楽しくしてくれる。


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    かつて、友人たちとさまざま議論した。加熱したこともあったが、若いということは何かほとばしる力というのか、体に漲るエネルギーが充満していたと思う。なぜあんなに自己主張をするのだろうか?大した知識も素養もない、社会経験もない若者が自身の中にある得体の知れない何かを支えに、"これが正しい!"と夜を徹して話したあれは一体なんだったのだろう。

    「自己主張しなさい」という先人もいるし、「自己主張は止めなさい」という人もいる。なぜ人によって違うのかを、当時は性格の相違と考えていた。「自己主張しなきゃダメ」という人は自己主張で成功したのだろう。成功とは栄光とかではなく、プラスに働いたということ。反対に「自己主張はダメ。嫌われるよ」という人は自らの失敗体験か、他人を見ての言葉か。

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    一体どっちが正しいのか?それはないな。何事も唯一これが正しいという正解がないように、自己主張を是か非か捉えるのは意味はない、正しくない。が、同じテーマでさまざまに言い合ったのを覚えている。あの当時(20代)は、正解があると信じ、自己主張肯定派はその意義やメリットばかりをいい、否定派は当然にして、自己主張のデメリットばかりを主張する。

    自分は自己主張否定派の友人にいった。「自己主張を否定するお前が、自己主張はダメと自己主張するのは何だ?」。友人は一瞬困った顔でこう言った。「なるほどな…、言われて気づいたよ。オレは自己主張のターゲットを上司、先輩、目上の人と捉えていたかも。対等なお前たちとは、いつも、こうして自己主張をしてる。今までその事に気づかなかった。」

    ちょい面食らったが、彼は何かに気づいたようだ。「自己主張」という言葉は、自己を主張するから、本来は相手構わずするものだろうが、上司や先輩にそれを控えるのは、実は日本人の特質であろう。上司、先輩に自己主張をしないのは、自己主張が時にはよくないとの意識があるからだ。つまり、自己主張していい人と、よくない人を我々は選別している。

    何気ない一言で、ふとそういうところに気づき、自己主張の是非という問題から、自己主張の用途(目上、上司、先輩に対して是か非か)に話題が変質した。自己主張をすべきでないといいながら、自己主張するという矛盾になぜ人間は気づかないのか?しかし人間は言う。「この世は矛盾に満ち、我々は社会の矛盾に適応できず悩む」。矛盾は本当に社会に存在するのか?

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    社会に存在する矛盾とは、実は人間の矛盾である。なぜなら、社会は自然とは異なり、人間によって人為的に作られたもの。つまり、社会を人間が作ったなら、人間は「この世は矛盾している」というべきではないし、矛盾は人間が作ったと解すべきであろう。人間が社会の矛盾を解決しようとするなら、人間の矛盾、自己の矛盾を解決すべきではないか。

    「自己主張 するなと言って 自己主張」。思い付きの川柳だが、こういう簡単なことを気づかず、自分勝手に生きている人間そのものの矛盾である。それを指摘して気づいた彼は頭のいい男であって、おそらく程度の悪い人間は指摘しても気づかないだろう。彼は自分の発した一言から、自身のこれまでの生き方、また今後の人生について考えを新たにしたという。

    40年以上も前のことだが、このことを思い出したのが一昨日の女性とのやり取りだ。オフコースの熱烈なファンであり、小田、松尾の信者でもあるのは構わない。いきなり、「DVDを観ろ」との高飛車なコメントを見て、業者の宣伝と思った。近年はこの種の意図を隠した宣伝が実に多い。松尾のDVDと言わず、あえて長々しいタイトルを記したことでそのように感じた。

    一ファンなら反論を書くだろうし、いきなり「DVDを見ろ」の命令口調で相手が、「ハイ、観て見ます」とでも思っているならバカであり、だから業者の宣伝であると。宣伝は即効削除だが、前者の可能性もあろうかと、1日猶予を与えてみた。今どきの若者は、この程度の非礼コメントくらい平気でするとの含みもあった。その後の書き込みは業者を否定できないが、ファンなのは間違いない。

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    「プロデューサーの武藤さんが2人のオフコースの才能を脅かす存在になり得ると松尾さんに曲を書かせるの反対されていたのを、若い才能のある人間に書かせるのは必然的と小田さん自身が松尾さんに曲を書くようにと進めていたエピソードを小田さん自身の口から語られる映像が、このDvdには収録されていますよ。」と、この記述には笑ってしまった。

    上記は、ファンからみれば涙溢れんばかりの喜び満載の美談であり、そういう事実を知ったことの純粋な気持ちをファン以外の(?)自分に伝えたくてたまらない、そんなありがちなファン心理であったと察する。彼女に罪はないが、世の中の汚さや欺瞞を知る自分にとって、受け入れ難い笑止千万の綺麗ごとである。小田がこんな浮かれた言葉を本当に言ってるのか?

    いかに松尾の60年の半生を記念したDVDといえど、ここまでヨイショされると笑えてしまうのが、ファン以外の人間だろう。何度読んでも恥ずかしいが、こういう浪花節的な美談をファンは喜ぶのだろうか?ファンであるのはいいが、ファンとは信者なのか?宗教は信者というが、狂信的なファンを信者ともいう。自分は狂信的でなくとも、ファンは信者と思っている。

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    ◎ファン…好きな者(タレント、番組、球団など)でも悪いと思った所は悪いと言える人
    ◎信者…好きな者以外を叩くような輩やファンの質を下げようとするような輩

    ◎ファン…ある人やあるグループを好んで応援する人のこと
    ◎信者…ある人やあるグループになら命や人生を捧げても構わないと思っている人のこと

    ◎ファン…常識がある。善悪の区別がつく。対象がなにか悪いことなどをした際、その事実をきちんと受け止められる。
    ◎信者…常識がない。善悪の区別がつかない。対象が何をしても必ず擁護し、それに異を唱える人を敵と見なし叩く。

    ◎ファン…自分が悪いと思ったことは批判したりする
    ◎信者…盲目で何があってもカルト的

    自分の考えはともかく、世相として捉えられた「ファン」と「信者」は、明確に仕分けされている。自分がオフコースのファンを怒らせるつもりで記事を書いたのではないが、それを見て怒るファンなど知ったことではないし、あえていうなら、ファンとは、信者とは、ファン外の人間の言動に一喜一憂すべきではないだろう。それでこそ真のファンである。

    迫害に耐えてこそ真正なる信者である。いろんなファンを見てきたが、ファンたるものはそういうことだ。宗教を押し付ける必要はないように、ファンであるアーチストを押し付ける必要はない。好きなものは好きでいいし、嫌いなものは嫌いでいいし、このブログにも「ファン心理」を幾度か書いたが、ファンでない人を認めるキャパがないファンがいる。

    イメージ 5だから、それと同じことを返答した。当の女性は、小田や松尾の口から真実を聞いて知っているし、DVDも観ない人間が何を知っているのだ。と言わんばかり。「口から出る言葉が真実か?」と、大人の応対をしたが伝わらない。その時点で女だと感じた。言葉を間に受けるから、「振り込め詐欺」に合い、ネットで少女が性被外に合う。そういう広い視点を指摘した。そんなことが"オフコース命"の少女に耳に入る言葉ではないが、それも結果論。ハナっから見下げて適当にあしらうことを良しとしない、自分の性癖である。相手にすべきでない人間の見定めも必要だろうが、それをしてこなかった自分ゆえに、様々な説得術が身についた部分もある。どんな人間でも必ず思いを伝えて見せるという意気込みはあった。

    それの名残りであろう。少女の言葉は稚拙でで幼児的だが、そういう風に見てしまうと話すのが面倒になる。論破といえば聞こえはいいが、結果的に相手の言い分を潰して怒らせて逃げた女は腐るほどいたし、それらはすべて結果論。そうではない女もいたし、感情的にならずチャンと話せる女もいるし、女がみんな田嶋陽子ではない。だから、結果は気にしない。

    木を見て森を見ないからやり込められる。そこに気づかず、視野も狭いなら女は議論に向いていない。幼児と大人が対話をすれば、大人は赤子の手を簡単に捻ることは簡単だ。そういう見下しをせず、キチンと丁寧に話しをし、それで相手が怒ってキレるなら仕方がないが、それも結果論。自身の言い分が通らないとキレる人は、最初からそうと分らない。

    自分の言い分が通らないでヒステリー起こす女は幼児期から母親で経験済みで、女はこういうものという認識を得た。そうはいっても、予断や偏見で応対するのは失礼である。最後に怒らすのとハナっから決め付けて応対しないのと、どっちが正しい?これも正解はない。自分の信ずる選択しかあるまい。大人は子どもに腹を立てず、あやすことこそ真の大人という結論にある。

    相手がキレるのはいいとしても、同じ線上に降りて不毛な言い合いなどはみっともない。親子では頻繁にあるが、自分は演技でそれをやっていた。子どもの性格を把握し、「もう、お前みたいなバカとは関わらん」という最後通告が効果があるのを知っている。緒戦は親子なんて、馴れ合った同士の戯れであり、母と娘などは見ていて漫才である。男親は本気を見せる必要がある。

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    よく女と言い合いした後に男が、あるいは我が子と言い合いした後で親が、「こんなんだったら最初から言わなければ良かった。時間の無駄、労力の無駄だった」との言い方をするが、これはオカシな話だ。結論が分かったあとで言える言葉であるのに、終ってみて「最初からすべきでなかった」というのは、何事においてもオカシイ。オカシイから自分はそういう言葉は出ない。

    大事なのはプロセスで、それなくして結果は絶対にない。が、「労力の無駄だった」といって、自分を慰める。自分を慰めるなどは弱い人間と思えば、弱い人間になどなりたくない気概が沸く。やってみなければ分らないことを、最初からやらなければよかったなど言うだけ無意味と言い聞かせる。プロセスと労力こそがすべて、結果は副産物だと思えば、人生も変わる。

    のっけに友人が、自己主張はしないといいながら自己主張をしてる自分に気づいたように、オフコースファンの少女は、「憶測」を批判しながら憶測ばかり言っている。分らないことだらけの世の中で、どうして憶測なしで生きていけるのかが分らないからいうのだろうが、人間は矛盾した生き物であるからして、こういうお利口さん的発言は、自己矛盾を披露するだけ。

    「憶測で物をいうべきでない」という言葉は、キチンと調べて用意周到に発言せよという注意。学者や研究者には必須であろう。誰でもそうありたいが無理だろう。学者や研究者と違って、責任が発生しない我々は、憶測なしに会話はできない。自己主張なしに生きていけない。問題は憶測の素養を高めること。これは「洞察」という能力。自己主張もいいが、実のある事をいわねばバカにされる。

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    「それはよくない」と批判しながらやるのだから、「それはいけない」という言葉は本当は勇気のいる発言なのに、誰も自分のことは見えていないから簡単に言える。「人のフリ見て我がフリ直せ」というのは、何事もコッソリ直せばいいのであって、人を批判して自分が良くなるわけじゃない。女が最後にはお決まりのように、憤慨し、暴言が出るのは残念である。

    議論ができないから人格攻撃で勝とうとするのだろうし、自尊心が傷つかぬよう守るのだろうが、同じ自尊心を守る方法でも、賢い人間は口を閉ざす。バカはくだらないことを吠え捲るから、相手からさらなる強い言葉を発せられ、さらに自尊心を潰される。「沈黙は金」というのは、ボロがでないよう黙っておくのが得ということ。それができないのが女の性かも。

    「女は扱いにくい」という言い方をされるが、論理のぶつかり合いの中に参入する以上、論理を磨くしかあるまい。もしくは議論慣れしてないなら、ハナから議論に加わらない方がいい。それなら自尊心が傷つくこともあるまい。オフコースの女性も、適当なところで切り上げておればよかったものを、長居してバカなことをいう事になるから、バカだと思われる。

    「昇華するか、退却するか」、どちらもままならぬ扱いにくい女性を扱うのも男の仕事なら、きつくいうしかない。しかるに奥の手である「泣き」が入っても、それを憐れと思わなければ女は指導できる。女性が女性に厳しいのは、「泣き」を許さないからだが、男はなぜ女の涙に弱いのだろうか?女に甘いとも言われるが、前者は心理学的には以下言われている。

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    男が男を指導するとき泣く男はいないし、泣けば無能扱いされる。「荷物まとめて帰れ!」ということだ。男に理解できる涙と言うのは、「喜怒哀楽」中の範疇で、訓練中に泣くなどあり得ない。男は女の唐突な涙について思考をめぐらすが、理解できない女の涙に困惑する。男にとっては、カタチのない感情を理解することが苦手というか難しいことのようだ。

    上の解散コンサートの、「涙・ナミダ」にしてもだが、男は女の涙の理由が分からず、事あるごとに泣く女を次第に面倒と感じ、泣かせないよう気を付けようと思えど、また泣かれるといい加減腹も立ってくる。女が涙を武器にしようとするなら、そのことを理解しておく必要アリだ。中には、しっかり女性の気持ちを察し、傍に寄って見守ってくれたりする男もいるだろう。

    それを優しいと感じるのが女だろうが、そこに甘えるようであっては、仕事の効率は見込めない。恋愛ではないし、有能な管理者ならそういう女性はクビにするだろう。そういう女の情緒は、仕事を習得するという姿勢において不向きである。まあ、恋愛の涙もしかり、あまり安売りするのは避けた方がよい。女の涙は「いざ」というときにこそ光るものだ。

    ただ、女の涙も人格攻撃も、議論を終了する口実を与えてくれる。そう言ってもいいし、言わなくてもいいし、この女と関わりたくと思うなら黙って去るのがいい。火に油を注いでも得はない。「女たちをしゃべらせるには、さまざまな方法があるが、黙らせるためのものはひとつもない」と言う名言がある。一つあるなら逃げることだ。その場から立ち去ること。

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    女の武器である「涙」も「人格攻撃」も、男が女から逃げるため都合のよいt口実となる。これが出たら逃げるサイン。女の武器を武器として使用させないのが賢明だ。「うるさい、黙れ!まともなこと言わないなら帰るぞ!」とか、「いじめてるわけじゃないのに、勝手に泣くなよな~」などは腹黒女への対抗策だ。美しい涙と腹黒涙の見分けがつけば、免許皆伝だろ。


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    自分が信ずる宗教のことを嫌う奴がいても、ボロクソいわれても、痛くも痒くもないし、屁とも思わないのが真正な信者と言ったが、普通の人間なら、石をなげつけられた日蓮や、イエスのようなわけにはいかない。腹も立とうし頭にもくるだろうし、人間というのは、身も心もか弱き小さな存在だ。だから悟るために苦行を必要とし、精神を鍛錬するのだろう。

    何が我々の支えになるのか?何を支えにすれば強い人間になれるのか?強いというのは喧嘩が強いのではなく、動じない精神のこと。生きていくのは自分である。人の助けを必要としなければならない境遇の人はともかく、本来的には人の助けばかりを求めて生きていくことはできない。されど、生きていくためには、どうしても立ちふさがる苦しみに対処しなければならない。

    いかなる理由をもってしても、自らの命を絶つ人は、その苦しみに耐えられなかったと思っている。なぜ、苦しみに耐えられないのか、それならいっそのこと死んでしまった方が楽という気持ちになる人は、死ぬ事より苦しみの方が辛いからだろう。確かに事故や戦争で負傷し、体の激痛も麻痺し、「虫の息」状態の人を見れば、楽にしてあげるのが慈悲ではないだろうか。

    それを「人道」といっていいかどうかは分らないが、眼下にそういう場面が横たわるなら、人道だの罪だのとそんなことを考えている場合ではない。そのようなものでは解決できないものに人間は遭遇し、断を下す人は強く、見て見ぬフリをして逃げる人こそ卑怯であろう。目の前のある問題を解決しようとしない意味においてズルイ人間も人間であろう。

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    どれほどの学問的秀才を誇っても、結局人間は、答のない問題に答を出さなければならず、知識の集積である学問が無価値化の局面は人生に多い。その事は兵士を見れば理解は簡単だ。成績「優」も「劣」も戦場では役に立たない。上官は成績優秀者に突撃を命じないこともない。幸いにして今の日本に戦争はないが、すったもんだの末「安保法案」が衆院を通過した。

    参院があるとは言うものの、7月16日午後の法案衆院通過により、参院が60日経過しても議決しない場合に、衆院で再可決できる憲法59条の「60日ルール」が9月14日以降に適用可能となり、同月27日までの今国会での成立が確実である。これで、戦争が近づいたと感じる識者を始めとする多くの国民が怒る。国民の支持を得ぬままに政治が国のカタチを変えようとしている。

    とりあえずこの話は後日折りに触れて書くこともあろうが、自分の最大の興味は「この不思議なるや人間」である。生活の中で、右を向いても左を向いても、前を見ても後ろを振り返っても人間である。たまには、犬の散歩に出くわし、ネコちゃんと目線があうこともあるけれど、取立て影響を受けることも、与えることもない種族である。人間は人間を目的とする。

    生き甲斐のある人生も大事だが、そのためには人間を知らなければならない。人間を知るためには人間と接して見なければならない。社会では様々な形で人間と触れ合っているが、利害得失が大きなウエイトを占める職場の人間関係が、最も大きな悩みの種であったりする。社会人でない学童期や親のすねかじり段階にあっては、これまた親子の確執が悩みの種となる。

    イメージ 3多くの恋人は、互いに相手を理解できず、誤解しあって別離する。夫婦もまた子どもを犠牲にして別離する。親の離婚によって大人の犠牲になったという子どももいれば、毎日諍いばかりの父母にいい加減嫌気がさしてか、「こんなんだったらさっさと離婚してくれないか」と願っていたとの話も聞く。自分の経験し得ない体験所有者は、それこそ貴重な話題を提供してくれる。昨日は、「自己主張」の是非について論じたが、幼少期から母とのバトルもあってか、自分のアイデンティティを死守するために母とは言い争いの日々だった。彼女の強引かつ傲慢な性格にひれ伏していたなら、精神の自己分裂した半病人になるか、自殺をするか、あるいは親を殺していたと思われる。どれも考えると怖ろしいことだが、これらは問題解決からの逃避であろう。

    自分もそうであったように、とかく若者は実社会への反抗をしがちである。それは青年が自己のあのアイデンティティ、自己確認のために避けて通れない一事象である。が、ともすると実社会への反抗だけに生き甲斐を感じる青年も生まれる。これが極端になるとアウトロー、反社会人間となるが、若さと言うのは柔軟性を持つことでもある。頑固はむしろ老人であろう。

    実社会への順応と反抗とを繰り返すことができるとき、その人は若さを保っているといえる。不良や暴走族という反抗も一時の事象であり、社会に順応なくしてこの世を生きていくことはできない。それが社会の仕組みであるし、社会からあぶれることを誇示する人間も、遅かれ早かれ「順応」の大切さに気づいていく。順応しながらも反抗精神を持つわけで、なんと難しいことか。

    「急いては事をし損じる」というのを座右の銘にした時期が合った。それほどに自分は無鉄砲であり、思慮ない行動が多かった。考えるより先に行動をしていたし、昔の言葉でいう、「突貫小僧」と言われていた。年を経ても名残りは山ほどあり、最も嫌いなことは、「待つ」ということ。信号を待つ、レストランでできるのを待つ、ネット注文で商品が届くのを待つのが大嫌い。

    美味しい店だからと行列を作る人種など到底理解できないし、それなら少々不味くても速いところで食う。何年立っても腹が立つのは、カップヌードルの3分間。お湯を沸かす時間も含めて約5分は拷問である。「瞬間ヌードル」とかできないんかい。と思うが、人生の価値というのは、あせらず、明るく、粘り強く、前を、後ろを、そして左右を見回し、ゆっくり生きていくことだ。

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    これが理念である。反抗精神も未だ消えずだが、順応の大切さも理解している。二宮尊徳がいい事を言っている。「それ人道は水車のごとし。半分は水に従い、半分は流れに逆らい昇りて、運転とどまらず」。人生を現すに、これほどの名言もあるまい。現実に順応するのは大事だが、それだけで夢や理想を実現する努力を忘れるなら、何のための人生哉。

    現実を受け入れながらも現実に反抗し、粘り強く己の生き甲斐の確立を求めんとする勇気がないなら、上辺がどんなに素晴らしい生活に見えようとも、味気のない人生であろう。水の流れという現実(実社会・環境)に順応する水車が、見方を変えると無理やり動かされている(逆らっている)ように、尊徳の目には映ったのだろう。ふと「老子」の言葉が浮かぶ。

    「上善は水の如し。水はよく万物を利して争わず、衆人の憎む所におる。ゆえに道近し」。老子は最上の善を水に見出した。最上善とは争いを避けて生きていくこと。老子の生きた時代は誰もが、「人よりも上に行こう」、「人を蹴り落としてでも上を目指そう」、そう躍起になって戦っていた。そんな時代に老子は、「人と争わず、常に低いところに留まりなさい。水のように」。

    と、生き方の見本として「水」を挙げた。時と場合によるが、現代にも通じる考えである。我が、我も、我こそという光景はいろいろ目にする。時に争うことはあるが、無益な争いはしないし、好まない。己の自尊心はそうやすやすと揺らぐことも、破壊されることもない。幼児に「バカ!」と言われて腹が立つ人間は、自分に自信がないのだろう。幼児ごときにムキになる。

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    ファンとか信者たちは、本人からすれば憧れの存在は神の如きだろうが、興味のない他者からみれば、ファンが哀れな存在に見えたりする。口にはしないが、「なんとバカげた事を…」などの狂信的行為を目にするからだ。選挙の投票権欲しさに、AKBのCDを何百枚、何千枚と買って、ゴミ箱に捨てる。以前は、ポケモンカード欲しさにカードだけ取り中身を捨てる。

    これはアイデアを考えた人間は企業内では表彰ものだろうが、社会教育に「負」の種を撒いたことになる。なぜこういうことになるのか、なぜ人は無用な争いを避けないのか?これらはいずれも自尊心を満たす、あるいは自尊心を防衛する行為である。バカといわれれば頭にくるが、バカなことを言う人間のために「バカ」という言葉は必要だ。「バカなこというんじゃないよ」と。

    自分が発する言葉がバカなことであるのは自分では気づかない。ある事を発した時に相手が「バカな事いうんじゃない」と言われたら、それがバカなこととは限らない。つまり、相手が理解できないバカであるかもしれないからだ。あるいは、自分の考えと違うだけで、「バカな事」と思う者だっている。つまり、「主観的」に見てバカか、「客観的」的にみてバカかであろう。

    説明するのが難しいが、幸い今回の事例で検証する。女が短絡的で妄信的で自分の信じることだけが正しく、他人の意見は耳に貸さないというところがよく現れていた。少し話しただけで、「正しいことを理解しよう」の人間か、「自分の主張を押し付けたいだけか」はすぐに判る。他者の発言を無理に納得する必要はないが、オカシイと感じるなら異論をいうべきである。

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    異論や反論も言わずに、自己を押し付けようとしても通じない。とにかく、相手から反論されたらそれに対する反論ないし、それがないなら質問をすべきであろう。そうすれば、「この人は理解しようという気があるな」と姿勢が見て取れる。例えばこの文言。「公式にリリースされた映像作品の発言のほうが、信ぴょう性がある」と言った時に、「そんなことはないよ」

    と吐き捨てられることはある。これは「公式発言などは所詮は欺瞞」と理解するオトナである。もし、「そんなことはない」と否定されたら質問すべきである。「何でそんなことないの?」と、質問そのものが自分の発言を信じることにもなる。自分がそう思ったから正しいでは、単なる思い込みだ。否定する側はその理由を提示すべきで、否定された側も否定理由を問うべきである。

    否定に異論があれば再度自己主張をすればいい。まあ、親切な自分は相手からの質問を省略し、理由を提示して否定する。だから、「結婚式で友人代表が新婦をベタ褒めしているようなもの」と公発言の欺瞞を否定した。これに異議があるなら、「公式発言は真実」を裏付ける反論をする必要があるが、彼女は何かにつけ、反抗したいだけの人のようである。

    さらに清水が妻の妊娠中に追っかけに手を出したというソースについて、「巷言われているが、自分は信じてない」といったことに対し、「ご自身が事実と思わない事を、貴方は日記に載せるのですか(・・?」 と噛み付く。事実と思わないといったのは、所詮はネットのガセ情報というより、オフコースというビッグネームのアーチストが、こんなリスクを犯すだろうか?

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    その意味で信じなかった。過去、追っかけの女性からとあるアーチストとの性体験を実際に聞いたことがあり、彼女は高校時代のその体験を「金科玉条」の如く大事にしている。いわゆる誇りのように…。だから、ビッグネームのアーチストといえど、レイプまがいでなければ表沙汰になる事もないし、事を行うときに相手の様子など見越して、事に入る用意周到な奴もいる。

    そこはともかく、名もないチャライバンドと違ってオフコースの清水にとってはリスクが大き過ぎる。そういう意味だが、「自分が信じないことを書くのか?」はバカげた揚げ足取りで、物を書く場合は、持論、推論、一般論、他者の論などを交えるもので、いろいろ書いた最後に、「でも、自分は信じないけどね」は各論を総合した上でよく見るセリフ。この女、この辺りでウザくなってきた。

    だから、優しく説明する気はなく、「そういうバカげた言い方はするな、笑われるぞ」の思いを書いた。彼女も相手の心情を洞察し、無知な自分を自覚し、退出した方が賢明と思えばいいものを、「憶測による暴論が多い」だのとしつこい。だから追い出すためにいい加減バカはやめれ」と言われてしまう。思いは最初も同じだが、とりあえず無難に礼を保って話はする。

    が、「仏の顔も三度」というか、話をしたくなくなるからホンネで追い出しにかかる。別に留まって一人気を吐くのはいいが、無視することになる。確かに、幼児的発言が多いが、それはそれで相手の素養の問題で仕方ない。自分も若いころに先輩諸氏によく言われた。「バカなこというな」、「物を知らないにも程がある」、「こんなことも知らんで、よく生きてるな」。

    言われるほど悔しさが込み上げてきた。確かに、指摘されたとおりで、知らないことばかりだった。これでは罵られてもバカにされても仕方がない。それからだな、対等に話をするためには、相手に認めてもらうためには、とりあえず知識を吸収するしかない。「こんなことも知らないの?」は猛烈にショックだった。実際自分は、「そんなことも知らなかった」からだ。

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    20歳にして、「公定歩合」という言葉を知らない自分が、「公定歩合って何ですか?」と聞いたとき、「そんなことも知らんでよう生きとるな、自分で調べて来い」とバカにされたある人に感謝している。アレが発端だったかも知れない。キツく突き放され、バカにされたことがよかったのだが、考えてみれば高校の社会で習うし、習って忘れるものは多い。

    そういうことよりも、年齢に相応しい常識と知っているべきことを、知らない自分が悪い。頭のいい人間は、学校の成績ではなく、確実に向上心がある。キレがいいという頭の良さ、博識という部分の頭の良さ、どちらも頭の良さを誇示するのではなく、それが世間に役に立つものだということだ。従って、生きていく上で役に立たない頭の良さを、自分は頭がいいと思わない。


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    異性を初めて意識したのは小学一年生だったかな。ハッキリ覚えている。三浦千賀子さんといい、近所(といっても自転車で10分くらい)の歯科医院の勤務医のお嬢さんだった。誰に似てるといえば最も近いのが尾野真千子。彼女の小1の写真があれば相当似ている気もする。すこし角ばった顔に知的な雰囲気。だからなのか、今最も好きな女優は尾野真千子。

    俳優を意識して映画を見ないが、彼女の存在を始めて知ったのは2008年公開の映画、『クライマーズ・ハイ』で、新聞社の地域報道班の役。「この女優はいいな…」。真摯な演技がよかった。デビュー作、『萌の朱雀』は、途中リタイアした映画。その主演が彼女であるのを知らなかった。初恋相手の父が歯科医院にいるだけで、行きたくない歯医者に行きたい自分である。

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    お父さんにいいところをみせようと、必死に歯をくいしばる(くいしばっては治療できないので、口を開けしばる?)痛みを我慢する。「えらいね、よくがんばったね」と褒められて照れる。ガマンの理由を父は知らない。歯科医院には必ず父の自転車に乗って行った。帰りには必ず、柔らかくて食べやすいポンせんべ~を買ってくれた。「ドカーン!」と音のするアレだ。

    人は食べて寝て動いて、勝手に大きくなるが、こういう思い出をたどると、「大きくしてもらったんだな…」との感慨が湧く。みんなが貧しかったあの時代、数え切れないほど楽しさに包まれ、それを映像のように客観的に思い出す。自転車の荷台に乗って歯医者に行き、顔をしかめてガマンをし、父が治療費を払い、帰りにポンせんべ~を買う姿が頭に映し出される。

    自身の体験は主観的なことなのに、なぜか客観的な映像として見ることができる。人間の脳というのは、イメージを主観・客観の両面から捉えることができるし、我々は俳優であり監督になっている。主観的な記憶の断片が、客観的な状況で表されることで、薄らいだ記憶が増幅されるのだろう。上に記したすべての情景を行為する自分と、見つめる自分が存在する。

    初恋の人は今頃どこでどうしているのだろうか?その事を思い出す時、彼女は自分の存在など思い出すどころか、記憶の隅にもないだろう。が、反対に自分の記憶の隅にもなく、思い出すこともない誰かが、どこかで自分を思い出しているのかも知れない。映写機というのは実に何千台、何万台と、人の数ほど存在し、そこには人それぞれの映像がしまわれている。

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    記憶というのは自分の記憶であって、人の記憶が自分にあるわけではない。が、もし同日同時間に、ゆかりのある同士がゆかりの日々を思い出すことが、絶対にないとはいえないはずだ。記憶にもない相手もいようが、同時代に同時間を過ごしたゆかりのある同士が、ゆかりの日々に思いを馳せていたとするなら、その思いは時空を超えて互いのハートを揺らすかも知れない。

    ビーチ・ボーイズに、『Good Vibrations』(1966年)という曲がある。vibrationとは、通例複数形で口語的に(人・場所などから感じられる)精神的電波、感覚的反応、感触との意味があり、書かれた当時の時代背景からして、ヒッピー用語・俗語の「雰囲気」でと思われる。が、vibrationを「振動」と直訳し、彼女とのエッチな行為を表すとするのは、この場合違う。

    Good Vibrations』は、ビーチ・ボーイズにとって最大のヒット曲の1つであるが、とにかくこの曲は凄いの一言。初めて聴いたときはビーチ・ボーイズの新境地と感じた。テルミンという電子楽器の繰り出す不思議な、異様なサウンドが印象的な本曲は、複数のスタジオでレコーディングが繰り返され、90時間に及ぶテープを編集、3分半のマスター・テープが作られた。

    マイク・ラヴは、「2秒から5秒ぐらいしかない同じパートを、25回から30回ヴォーカル・ダビングした」と回想している。この曲のリアル・ステレオ・バージョンは今だに発表されていない。理由は、ボーカルトラックのみマスターテープが紛失した。が、演奏のみのバッキング・トラックのリアル・ステレオ・バージョンは存在しており、シングルがCD化された際に収録された。


    初恋から6年、中学一年になった早々、他の小学校出身の山元と仲良くなった。ある日彼が、「男便所と女便所が分かれているけど恥ずかしくないか?」と聞かれ、「想像されると恥ずかしいわな」と答えた。思春期突入前期の意味ある会話は今でも覚えている。こういう意味だ。男の小便器は立ってする形であり、その行為が男の性器を女に想像されることになる。

    それが恥ずかしいと友人は言う。バカげた話だが、当時はバカげてない。そんなことが恥ずかしいのだ。当時の恥ずかしい感覚は汚れたおっさんの今、到底思い出せないが、何とも不思議な思春期である。思春期は、性への興味と関心が高まる時期であり、同時に、性への興味・関心と併行して羞恥心が生まれてくる時期であるのは、知識として知っている。

    知識はあっても実態として分らない。過去のことであるけれど、女子に男の性器を想像されるのがなぜ恥ずかしいことだったのか、記憶を元に検証してみよう。そういう羞恥心は目くそほどもなくなった昨今、失った感情を思い出すのは並大抵ではないが、当時のことは「謎」といえば「謎」である。人生を終焉する前の残務整理として、いろいろ謎を解き明かしたい。

    イメージ 3学究的思考をしてみるに、「羞恥心」とは何かである。男の幼児が家の中・外をマッパで走り回る姿はいかにも可愛く、どこの家庭でも見かける光景だ。お母さんもおちんちん出して駆け回る息子を、「これ待て~」と追いかけ、男児は面白がって逃げ回るのだが、彼はパンツを脱いで、「きゃっきゃ」とはしゃぎながら、とっとこ駆け回るその事が面白いのか?

    それとも、オムツを外された開放感が嬉しいのか?マッパで駆け回ることで母親がご機嫌なのを察知した上でのサービス精神なのか?そこは分らないが、女の子だと状況はまるで違う。母親は、「何やってんのー、パンツ履かなきゃダメでしょ?こっちに来なさい!」と注意する。その前に女児がマッパで駆け回る光景を見ないのは、親が戒める以前の問題か?

    年端も行かない幼児であるが、マッパで駆け回ることを面白いとする男児の「やんちゃ気質」、そういう事をしない女児の大人びた性向、これが親・周囲などによる環境や躾をされる前に、備わっているとするなら、男女の先天的気質というのは実に不思議なものである。お母さん方は、乳幼児の段階で、体格や行動などの面から生まれつきの男女差を感じるはずだ。

    体つきは、ホルモンの影響で明らかに男女差が出る。男の子は骨格がしっかりしていて筋肉質であり、女の子は、やわらかい感じで、身長、体重、胸囲、頭囲の平均値はいずれも男の子が上回る。その分力が強く、男の子は動きが激しい傾向となるのだろう。また、髪の伸び方についても言われたりするが、それについての男女差はなく、思い込みであるようだ。

    巷言われる女の子の方が育てやすいのは事実で、男の子の方が、嘔吐、下痢、ぜんそくなどの病気が多いとの統計がある。生まれる赤ちゃんも、女の子より男の子の方が少し多いのは、男の子の方が育ちにくいからである。昔は、出生体重500g前後の未熟児で助かる比率は、女の子が圧倒的に多かった。そういった面でも、女の子は育てやすいが受け継がれている。

    先ほどのおちんちんを出して楽しく駆け回るそんな男の子は、胎児のときに浴びた男性ホルモンの影響で、活発で攻撃的な性質を持って生まれてくるし、だから動きも激しくなりがちのようだ。一方女の子は、男性ホルモンを浴びていないために、一般的に男の子に比べて攻撃性が低く、おとなしめとなる。胎児時期に性差ばかりか、気質も決定されている事になる。

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                                                         「?」

    この変から性の差異化が親にもたらされている。女児はマッパで駆け回ると叱られるのは間違いないが、それ以前にそういう事を楽しいと思わない、だからしない、女の子はそういう風に生まれてくるのだが、それをすると母親は俄然注意する。そういう母親の思いはなんだろうか?つまり男の子には微笑ましく、女の子のそういうはしたない行為を喜ばない。

    女児のマッパ姿がエロいわけではあるまいが、女の子らしくないという母親の思いであろう。これが父親なら、男児も女児も同じと感じ、女児のストリップ姿を注意するより眺めているのは自分だけ?エロい父親だからいい機会と思って、得した気分で眺めるのか?よく分らないが母親の注意に理性を感じ、こいう場合の男親は、理性的になっていない(自分だけかな?)

    ちょっくら想像してみた。マッパで駆け回る女の子を父親が、「ダメダメ、女の子がそんなことしては…」などと注意する光景はどこか変。そんなの父親的姿として滑稽に思えてしまう。なぜだろう、偏見か?少なくとも自分は注意しないし、せずとも母親がとっ捉まえて服を着させる。男親が注意しないのは、男が基本やんちゃでそれを面白いと思うのかも…

    大人になっても男にやんちゃ気質が残っているのは自分でも認める。やんちゃとは何かといえば、楽しいことである。幼児期から男は、「やんちゃ」、女の子は、「おしゃま」といった。「おしゃま」とは俗語、隠語で、少女が年齢の割に大人びた知恵や感覚を身につけていること。ませている。の意味だが、ムーミン一家の大切な友だちのおしゃまさん(トゥティッキー)。

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    おしゃまさんは、賢明かつ現実的な方法で、どんなピンチも解決に導く知恵のある女性である。また、おしゃまさんは、ムーミン屋敷がいつも快適であるよう、機敏な動作で、お掃除やお手伝いを上手にこなす。ムーミン谷の他の住民とは違い、おしゃまさんは冬眠をしない。冬の間はムーミン屋敷の水浴び小屋で、目に見えないとんがりねずみと共に過ごし、春を待つ。

    おしゃまさんは、なんだって修理できる。しかし、時には修理できない壊れ物があることも知っている。が、生きるすべは、経験を通して学ぶものと信じるおしゃまさんは、他人にとやかく教えたりしない。ボーダーのシャツ、暗い色のズボンと、ぽんぽんのついたニット帽がトレードマークのおしゃまさんは、何とも聡明であると同時に不思議な女性である。

    そういえばポーランド中部の小さな町トゥシンの町議会が、A・A・ミルン氏の児童小説のキャラクター「くまのプーさん」のイメージを、子どもの遊び場で使用することを禁止したという。理由は、プーさんは、「セクシャリティがあいまい」、「下半身に何も着用していない半裸の状態で不適切」とし、子どもたちの目に触れさせるべきではないと判断したという。

    プーさんは、上半身には赤いセーターを着用しているが、下半身には何も着けていない。ある町議会のメンバーは、「下半身に何も着用していないのは、性別がないから。つまり両性具有である」とコメントしている。バカバカしいが、こういう規制をすると、矛盾が露呈するのは必死。ムーミンはどうなる?下半身すっぽんぽんなら、ピーター・ラビットは?

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    詳しい経緯やその後の事態をいろいろ調べたがこういうことのようだ。「禁止にしたらどうだ?と冗談を込めた話を出して、それでまとまりがつかない議論に終止符を打つための発言だった、のが真相のようだが、我々は世界中の情報を正しく知ることはできないし、ソースに頼るしかないが、「禁止にした」というYahooニュースの書き方が問題で、それに皆が反応した。

    「プーさん禁止」のニュースはネットを駆け巡り、馬鹿げてる等の批判が渦巻いたが、ネットは情報をしる手段ではあるが、正確な情報という根拠は得られず、ねずみ算式に一つのデマが駆け巡る。少し前に、雑誌に掲載されたロックバンドの画像をホームページに無断で載せたはいいが、あっという間にその画像が二次使用されて、ネズミ算式に増殖して行った。

    画像を載せた本人が、画像使用者を見つけては削除依頼に駆け回っているとし、自分のところにも現れた。世の中にはずいぶん律儀な人もいるものだ。当初、本意が伝わらなくて誤解もあったが、コメントの長文を読むにつれ、真摯な思いに共感を得た。何気ない過ちであるが、それ程に自己責任を感じ、微細な努力を惜しまない行為は立派の一言。

    そんなこと真似のできない我々に、彼の行為を批判することなどできない。にしても、あまりの地道な行動に驚き、「そこまでせずともネットを楽しんだら」と、つい余計なことを言ってしまう。GFRの東京公演は豪雨&雷雨の後楽園球場で、予定よりかなり遅れて始まった。どうしてこの画像が少ないのか分らないが、このライブは貴重な文化遺産であろう。

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     息子:「ともだちにバカっていわれた」
     母:「○○○○……」

    あなたが母であり、小学生の息子がこう言って帰ってきたらどう答える?「どう言うのが正解?」ではなく、まず自分ならどういうか?アレコレ何通りも考え、「これがうちの息子には一番いい!」という確信に満つ言葉を見つけるのがよき親であろう。が、瞬時に出る方がいいのはいい。何が正解などはない、確信である。もちろん、小一、小三、小六、中学生によっても言葉は違ってくる。

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    高校で「バカかお前は?」と言われて親に泣きつく子もいない。その場で自ら解決すべきこと。小学生同士の子どもが言い合いの中で、「バカ」という言葉は古今東西の定番であろう。最近は、「死ね」が問題になっているが、「コンチクショー、お前なんか死ね!」は昔もあった。変わったところで、「バカ、カバ、チンドン屋」というのも子どもの常套句。

     A夫:「バカ」
     B夫:「なんでバカなんだ?」
     A夫:「バカだからバカなんだよ」
     B夫:「バカっていう方がバカだろ」

    いかにも子どもの言い合いだ。「バカ」の論拠もあったものではない。単に言葉の罵倒でしかない。言い返すならまだしも、「ママ、○○クンにバカって言われた~」と、ベソかく男の子、そんな家庭はどうか?自分的にはお先真っ暗だ。親はそういう息子に気づかなければならないが、自分の育てた息子が、「ママ、バカっていわれた」で、違和感はないのだろう。

    風邪はひき始めが大事という。ガンも早期発見が早期治療につながる。が、早期発見だけで治療しなければダメだ。子育ても同じように早期発見が大事。もちろん、よくない点を発見したなら改める必要がある。早期発見の場合は子ども自身がその善悪良否を分かるはずもなく、改めるという事にもならないが、親が危機意識をもって早速治療にとりかかるべき。

    昔の母親はこんな男の子を容赦しなかった。男子はお国を守るために強くなければならない。これが戦中派の共通した母親である。自分の実家の隣は土建屋であった。そこの親父は、息子が泣いて帰ると、「10円やるから行って叩いて来い!」とけしかける。さすが土建屋の親父で、自分も言われた事があった。18歳のある日、ボーリング場で靴を盗まれた。

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    昔のボーリング場は個別の下駄箱はなく、玄関に脱ぎっぱなしだった。ある日、いい靴を履いていき、帰ろうとしたら自分の靴がない。仕方なく裸足で家に帰ったら母親が怒って言った。「そんなんでどうするんだ?靴を盗まれて、裸足で帰ってくるバカがどこの世界にいる。誰のでもいいから履いて帰るくらいの気持ちがなくて、世の中生きていけるんか?」
     
    これには驚いた。自分の中に一分もない考えである。ドロボウして来いという親がどこの世界にいる?が、母のこの言葉は以後ずっと自分の内に留まった。言葉には善悪を超えた、何か得たいの知れない、それでいて自分の心を奮え上がらせる何かがあった。幼少期から何一つ尊敬できない母だが、唯一光る言葉がこれである。この言葉は以後の自分を支配した。

    世の中には別のケースもあろう。ある男の子が同じ条件下で、他人の靴を履いて家に帰ったとする。見つけた母親が息子に問う。「その靴は誰のだ?」、問われた息子は、「靴を盗られたから人のを履いて帰った」。すると母親は、「お前はなんという事をするんだ。その人だって困ってるだろう?すぐに行って返して来なさい」と、これが母親の鏡では?

    これが母親の美徳では?引き換え自分の母は、何という不道徳なことを息子にいうのだろうか。が、「人の靴を履いて帰るくらいの気転や、心意気がなくてどうするんだ!」に、何故か自分の心が揺さぶられた。「なぜだ?」、「なぜ…」、「なぜなんだ!」大嫌いな母のこの言葉に揺れる自分のなぜ?尊敬する人、好意的な人の言葉に揺れるというのはある。

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    50年近い年月を経て、こうして再びあの時の母の言葉が頭を塞ぐのだが、未だに解明されていない。もし、自分の息子が同じ境遇にあったなら、靴を盗まれ、同じように他人の靴を履いて帰ったなら、自分は烈火のごとく怒るであろう。「何をやってるんだ、すぐに戻しに行って謝って来い」と言うだろう。なのに…である。母の言葉と何ら整合性はない。

    「金科玉条」の言葉をくれた母である。唯一、この一言だけは…。が、自分的には「謎」である。人間の行為の不可解さと、自身で思っている。長い期間、意味と由来を考え続けた理由は、あの日以来の自分が何か変わった気がするからである。変な風にいえば、あの日来、自分が男になったような気もする。決してオーバーではなく、一つの起点であるのは判る。

    是非はともかく、母を唯一尊敬できるのはこの言葉である。この言葉を発するときの母は偉大に思えた。この際、徹底的に自己分析してみるか?人間は案外自分のことが分らない。「自分のことが何で分からないのか?」そう叫ぶ教師も上司もいた。「自分のことなのに分らないはずはないだろう」と…。そうではあるまい。人間は自分のことが分らないことが多い。

    むしろ普通のことであろう。おそらく自分自身を知らないからであろう。「自分は一体何者なのか?何処から来たのか?どこに行こうとしているのか?」この哲学的命題が示すように、人間は自分のことを知らないのだ。自分を知ることはできるのか?だとするなら、どういう方法で?「自分探しの旅に出よう」は、巷言われる。それがいいのか?旅に出ると判るのか?

    イメージ 4「壁」シリーズで一儲け、二儲けの養老孟司が、『自分の壁』を発刊して一年。彼の「壁」物は売れているようだが、『バカの壁』も含め一冊も読んでないし、養老氏の著作の引用はない。理由は嫌いだからである。彼を慕う時期もあったが、石原慎太郎氏と同様、嫌いになった一人である。言いっぱなしで反論しない、と決めつけた横柄な態度がその理由である。

    『自分の壁』の表紙帯に、「自分探しなんてムダなこと!」とある。養老氏は、「本当の自分を探すより、本当の自分を育てた方がいい」と言ってるようで、この点は同意する。時々で変わる、成長によっても変わる自分なんて、探しようがない。常に育てていくものだ。昨日の自分を探すよりも、今日の自分、明日の自分を育てていくべき。そう思うから本は読まない。『バカの壁』も、言いたいことはそれなりに…。

    自分の求める書籍は、持論を肯定するとか、裏付けの自己満足本ではなく、対論や異論の方を好む、それも説得力のある対論だが、養老氏は言いっぱなしの人。「反対したり論難したりするために読書するな。さりとて信じたり、そのまま受け入れたりするために読書するな。ただ思い考えるために読書せよ」とベーコンが教えてくれた。養老氏は持論の異論に口を閉ざす。

    むしろ異論にどう反駁するかを聞きたいが、彼にはそれを望めない。「年寄りの冷や水」と言っては失礼だろうが、若さがないし、ただの説教ジジイだ。明晰な方ゆえに口を閉ざすことでボロがでないように自尊心を守っているのだろうが、そこいらあたりも若さがない。各方面から、彼の根拠を示さない言いっぱなしに批判は多いが、金持ち喧嘩せずのスタンスを続けている。

    科学者でありながら科学的な検証に基づく主張ではないし、もしそうであったならあれほどの著作は出せないだろう。そういうところに対する異論だが、「『科学的に正しい』という言葉に寄りかからず、論理的に考えることが大切なんです。科学を安易に信じない態度が科学には必要なのです。」と明言しているわけだから、そこらあたりは自分も受け入れている。


    科学は検証したり何だのと面倒くさい。そんなんでは本一冊書くのに数年かかるばかりか、すぐに結論を出せない用意周到な科学界にいては執筆活動ママならずであり、養老氏はそこを見極めている。科学を軸に書いても、あれこれいわれるがオチ。よって、養老氏の科学批判は理論武装の自己防衛であろう。これさえ言っておけば、文句をいう方がオカシイということになる。

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    科学者でありながら、なかなか結論の出ない科学界を見切り、商売路線を優先する養老氏は、頭のいい商売人である。ただ、「結論を求めない"宙ぶらりん"をいかに受け入れるか?」という氏の態度は、実は自分と同じ考えである。よって養老氏には是々非々の態度でいる。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という気持ちは毛頭ないが、商売人の著作は読む気が起こらない。

    ボーリング場での靴盗難に対する母の言葉になぜ惹かれたかを自分探しとせず、自分を育てることでその理由が分かるはずだ。今までのところ分らないし、今夜辺りから糞でも垂れながら、もしくは布団の中などで集中思考してみよう。おそらく、「これだ!」という結論がもたらされるだろう。いつもそうだし、人間は考えれば何とかなる。今日がダメでも明日は成長している。

    宗教者は聖書やコーランや新興宗教などの教義を信じてこそ信仰であろうから、神や教祖の言葉が絶対であろう。イエスや仏陀やモハメットは格が違うからまだしも、麻原彰晃なんかを教祖と仰いだ信者もいたわけだ。池田大作や大川隆法がどの程度の人かを、知る由もないが、信者は仰いでいるのだろう。同じくオフコースの少女も、小田さん松尾さんの発言を疑わないように…

    ファンという信者にとっては教祖であろう。そういった強力なファンに何を言ったところで発言はゴミでしかない。次回から結果は見えてると認識し、ファンには「はい、そうですね」としておこう。こういう態度は好きではないが、「始めに結論ありき」との考えが正解かも…。よく言えば相手を尊重する。悪く言えば相手にしない。中間が放っておく、無視する。

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    「尊重する」なら真摯に何でも発信するだろうから、押し黙るというのは、「相手にしない」、「無視する」であろう。ファンは放っておくのが親切かも知れない。「小田さんがそういいましたんですか?なるほどね。ハイ、わかりました」という生返事や素振りは、相手を本心的に見下し、バカにしているのだ。だからつい、「人はそんなに本心を言うのか?」と現実的になる。

    「腹に一物」で押し黙っても相手はバカにされてるとは気づかない。誠実ばかりが正しいわけではないし、真実を隠して話す相手を見定めるのがいいようだ。人によってスタンス変えるのが不得意な幼児気質である。宗教者とファンにはホンネを隠す心得は分かってはいる。それができないならまた遣り合う。誓いは誓い、その時はその時。誓いよりホンネが優先する…。

    「『異性』と言う不思議」の表題は、誰もが抱く思春期以降の謎である。折りに触れて思ってきたことだが、今回、この表題で書くきっかけは、例のオフコースファンとのやり取りで、少し前にもオフコースファンとの爆裂があった。対話と言っても対話にならないのが女で、自分の主張ばかりが優先する。自己主張というならまだしも、ファンとしての甚だしき思い込みを披露する。

    他人の思い込みはこちらには何の関係もないし、重要度もないが、そこに気づかないのが思慮の浅さというのだろう。「会話」には熱量というものが存在する。、相手がシラケ気味ならこちらもシラケ、相手が熱量が大きいとこちらもそういう風になる。引き込まれるという言い方をする人もいる。「熱い会話」という人もいるが、熱いも熱心も、いずれも熱量のこと。


    が、本質的にいえば、相手の熱量が高いとこちらは下げてやるのがいい。互いが熱いと一触即発気味になりやすい。が、基本的には熱量を維持しつつ、冷静に自重したり、抑えたり、常に自己との心の対話をしながら相手と話す。熱量は間違いなくあったほうがいいし、実社会では受身であるよりも、主体性が求められるのは間違いないが、瞬間湯沸かし器ではダメだ。

    声を荒ければ自論が正しいわけでも、相手の論を否定すれば自論が正しいわけでもない。問題は、否定に対する根拠と説得力。根拠は論拠として提示するが、少々無理があっても、会話に説得力があれば、愚論も意味を持つ。が、頭のいい人間には通用しない。愚論は見透かされ反論される。女性に田嶋陽子型が多い。言いたいことは言うが、反論されるとムキになる。

    女性がなぜ感情的になるか、「感情の動物だから」と言ってしまえばそれまで。科学的に言われるのは、男女で脳の使い方が異なるようだ。女性脳、男性脳については何度か取り上げたが、異性の本質が「脳」に起因するなら、異性を論じるにあたって避けては通れない。生殖が精子と卵子の合体であるように、本質は、繰り返され語られてこそ本質であろう。

    さて、のっけの問いだが、自分は父だからこういうかも知れない。

    息子:「ともだちにバカっていわれた」
    父:「そっか!で、言った奴はお前よりバカだと思う?賢いと思う?」
    息子:「バカだと思う」
    父:「だったら気にすな。バカは自分のバカを隠すために人にバカっていうんだ…」


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    「わかった!」

    今回は思考が冴えていたというか、どんどん正解に肉薄していくようだった。いくら考えても分からぬ時もあれば、分かるときは脳に大量に電流が走るのだろう。マンガで名案が浮かぶと頭の上の電球に明りがともる絵を描いたりする。まさにアレだな、マンガは正しい。これで長年の問題に解決がついた。正しいかどうかはともかく、自分自身に納得がいった。

    母は、昔の人間にありがちな、狭い視野の女性にありがちな、何かにつけ、二言目には「常識がない」、「近所の笑いもの」、「親が笑われる」と、この三点セットが常套句であった。どこの親でも多かれそういう事はいうだろうが、これ以外にいう事がないと言うくらいに聞かされた。聞き飽きてもいた。いずれの言葉も息子を思う気持ちは伝わってこなかった。ところが…

    「そんなんでどうするんだ?靴を盗まれて、裸足で帰ってくるバカがどこの世界にいる。誰のでもいいから履いて帰るくらいの気持ちがなくて、世の中生きていけるんか?」

    この言葉は実は分かりやすく脚色して書き直したもので、男勝りの母はこんな物言いはしない。記憶には状況しか残ってないが、おそらくこんな感じでいったのだと思うが、言葉のニュアンスは文字には表しにくいばかりか、断片的な記憶しかない。それでも記憶を呼び起こし、なるべくニュアンスに近い感じで表現するとこういう感じであろう。

    「何をしよんか!靴盗られたから裸足で帰ってくるなんか、ほんま情けないわ。人の靴でも履いて帰ろう気がなくてどうすんじゃ、バカたれが!そんなんじゃ生きていけんど!」

    イメージ 2胸にグサリ、奈落の底につき落とされた。確かに不甲斐ない。母の物言いは、普通に喋るだけで知らない人間は喧嘩腰に思う。それほどキツイ物言いをされると反射的に口答えとなる。が、この時自分は口答えをしていない。「盗られたもんはショーガなかろうが、うるさいんじゃ、黙っとれよクソババぁ!」と言い返して不思議はないのに、なぜか返せなかった。
    「わかった!」というのは、普段は常識だの世間体だのが口癖の母が、正面きって息子のことを思って発した言葉であり、現に自分の中の「男」を奮い立たせられた。ふやけた心に渇をいれ、"肉を斬らさば相手の骨を砕け"という、男の気概を持てと、そういう母の気概が感じられたのではないか。「人の靴を履いて帰れ」そんな善悪より、性根をぶち込まれた。

    自身の何かが一変するような迫力に満ちた言葉を受け、この日から自分は男になった。財津和夫の『青春の影』の最後のフレーズはこうだ。「今日からぼくはただの男」と歌われる。この詞の意味はいろいろ言われている。いろいろな解釈はあるけれども、自分は以下の解釈をする。「男のロマンの犠牲になった女がいた。がむしゃらに前を向くだけの男だけに…

    少年のように自分の幻影を追った男も、やがて熟して成長すれば、人(女)の愛に気づき、目覚める。恋などとはしゃいでいたが、恋は心身の成長と共に移行し、愛の架け橋となるも、愛の重苦、厳しさに慄く。女は男のふるさとである。男も女から生まれる以上、疑いのないふるさとを、男は大切にすべきである。そして最後「ただの女、ただの男」に連なる。

    「ただの女」、「ただの男」とは、肩書きも履歴も境遇も身分も相性も虚言も真言も、そうした人間にまつわる一切の装りを無用とする、生身の人間のことであろう。人はそれを純粋という。そして、今日からただの女になる、ただの男になった。ではなく、なる前の心情であり、「なろう」という決意。青春の影というのは、本質の大切さを気づかぬことかと。

     君の心へ続く長い一本道は
     いつも僕を勇気づけた
     とてもとてもけわしく細い道だったけど
     今君を迎えにゆこう
     自分の大きな夢を追うことが
     今までの僕の仕事だったけど
     君を幸せにするそれこそが
     これからの僕の生きるしるし 

     愛を知ったために涙がはこばれて
     君のひとみをこぼれたとき
     恋のよろこびは愛のきびしさへの
     かけはしにすぎないと
     ただ風の中にたたずんで
     君はやがてみつけていった
     ただ風に涙をあずけて
     君は女になっていった

     君の家へ続くあの道を
     今足もとにたしかめて
     今日からは君はただの女
     今日から僕はただの男


    なぜに青春時代は大切なものに目が行かないのだろう。なぜにちっぽけなことで苦しみ、悩むのだろう。自分に最も大切な恋人をも捨て去ったりする。自分もそうだった。なぜ、人の愛を理解できないのか。青春が貴重な時代であったと分かるのは、青春を過ぎてからだという。青春時代に学ぶことは人によって違うが、あらゆる人に共通すべくは、「自信を持つ」である。

    「青春の影」の女には心当たりがある。男がロマンを追求するその陰で、自分を支えてくれた女である。一言の我がままを口にせず、ひたすら見つめ、黙すだけの強い女である。世間はそういう女を、「待つ女」という。「待つ」という忍耐は、女の特性であろう。どうみたって女は受動的である。あみんの歌ではないが女は待ち、そして男は待たせる。いつまでも、「待つ」わ。

    財津も、「待つ女」を体験したのだろう。そんな彼の回想だ。春を待つ女の、「早春賦」が実った歌ではないか。青春期の共通の目的は、「自信を持つ」と言ったが、「お前はそれでも男か!情けない」の母の言葉は、「男ならくよくよするな!」であろう。女が処女を失うときに、女を実感するのかどうかは分からぬが、男が男になる瞬間もある。もちろん、実感であるけれども。

    あの日、母の言葉は「盗っ人になれ」ではなく、「盗っ人をしても男になれ!」というエールであったのだ。男が男になろうとするきっかけがあの言葉だったのだが、なぜそれを気づかないでいたかも分かる。母を嫌っていたからだ。確かに母は自分の生の害でしかなかった。昨今でいう、「毒親」である。「人の物を盗むな」と言いづくめの母が、「人の物を盗め」と言を翻した。

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    その瞬間(とき)に、母の人間としての言葉を感じたのだろう。親は教科書であり続けてはダメだ。教科書のような教師もうんざりだ。人間同士が、生身の人間として触れ合うのは、生身の言葉でなければならない。世間体や常識ばかりを口にする母が、唯一漏らした人間のホンネである。自分の求めていたものが母の口からもたらされた。にも関わらず気づかなかった自分。

    役に立つこと、功利的なことしか言わない母親に男の子が共感をもつはずがない。男の子は、基本遊びの中から指針を見つけていく。少年Aの母親も、アレが世の一般的な母親なのだろうが、息子に功利を諭している。自分の将来のためにどんなに役立つことを教わり、あるいはそうれを行為してみても、「人間って、なんてすばらしい」と思うだろうか?

    感動というのは、「要領よく立ち回ること」や、「将来に役に立つなにかをコツコツ身につけること」からは生まれてこない。失敗を回避するためにリスクを伴うことをしないで生きてきた要領コキ人間が恋愛をした。功利だけを追い求めてきた人間が、恋に必要なエッセンスなどあったためしがない。恋がうまくいかない、相手に好意・好感をもたれていないのが分かる。

    そうしたあせりや苛立ちからか、こんな言葉を発したりする。「彼女は素晴らしい女性です。今まで自分が接してきた人にはない謙虚さ、やすらぎがあるのです。あの人以外に自分にやすらぎを与えてくれる人は他にいません」。最大限の評価であり、褒め言葉だが、これはある種の精神病理であろう。これほど、「やすらぎ」を求める自分自身に欠陥があるのを気づいていない。

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    「最大多数の最大幸福」の功利主義を念頭に、「役だつ」ことばかりをしてきた人間に何が欠落するかを考えてみる。今まで要領よく生きてきたから、それを主義・価値にしてきたから、「やすらぎ」や「やさしさ」に触れたいのである。要領こいた生き方でも不満は溜まる。不満が溜まれば、酒を飲んだりで鬱憤を晴らすも、それでは満たされず、やりきれない寂しさにつつまれる。

    結局、要領よく生きた人でも、心の底では人間らしい暖かい心に触れたがっている。人間はそういうものだ。そうした心に触れた瞬間、「生」の充実感を感じるはずだ。母は、功利の塊であった。世の中に役だつ人間を息子に求め、それによって自己愛的欲望を満たそうとする人であった。そんな母から「生」の実在感を感じた言葉が、不道徳極まりのない「あの言葉」であった。

    息子のためを思って言っている、と息子に思わしめた唯一の言葉であった。子どものためだけに生きる、生きているみたいなことをいう母親がいる。特に母子家庭には多いかも知れない。母親が子どもに依存している点において良いことではないが、母子家庭は親子の絆を深めているのは間違いない。問題は、どう深めたかだが。息子の幸福だけを望む母。

    そのために世の中に役に立つものをせっせと身につけても、それで人生が楽しいわけでは決してない。恋が成就するわけでもない。人に好かれるわけでもない。必死で少年野球に入れ込む親がいる。ピアノやバイオリンを熱心にさらわせる親もいる。自分も経験したが、五嶋みどりの母親の凄まじさには驚いた。そういった猛母に触れ、何か大切な「忘れ物」に気づいた。

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    野球のために人生があるのではなく、人生のために野球がある。ピアノもバイオリンも同様にである。学問のために人生はない。人生のために必要な学問がある。人と仲良くするとか、人に好感もたれることは学校で教えないし、学問からも学べない。ましてや、勉強以外のそういう「徳」は、学校では評価はされない。しかし、社会では最も評価されること。

    人間が社会にでて最も悩むのが人間関係である。少年野球で体の用意をし、学習塾で頭の用意をし、ピアノ教室で楽しめない音楽をやったところで、社会に出ては間違いなく人間関係で挫折する。人間関係を上手くやれない人間は、その人のあらゆる生活自体を苦しいものにしている。そういう人には共通する、「忘れ物」のような何かを感じてしまう。「忘れ物」とは何?

    将来「役に立つこと」、「功利的に生きること」だけを心掛けて来た人に共通する、「忘れ物」とは、時々の今を生きてこなかったこと。今を犠牲にして勉強することを予備校の講師は言う。流行語にもなった、「今でしょ!」は、今勉強しなかったら将来取り返しがつかないということらしい。「今、好きなことやれなかったら、永遠にできないんだぞ!」。そういう意味ではないらしい。

    予備校の講師なら商売用語である。功利主義に興味はない。要領のよい人間に感動はおきない。映画を観たり、余暇を楽しむ時間があれば、「利」となる何かをすべきという考えだ。今を犠牲にして勉強した人間は本当に得なのか、今すべきは勉強なのか。疑問は消えない。将来に、「役に立つ」ことばかりを求めてきた人間が、他人に「やさしさ」を求める。

    イメージ 6と上記の例を出したように、人間は得たものと同時に失うものもある。青春のまっただなかで、「要領よく、能率的に人生を送ろう、送りたいなど、考えることじゃない」。要領のいい人は概ね嫌われるケースが多い。理由は思いやりが欠けているからだろう。自分だけが要領よく生きて行こうとしているなら、その周囲に心の暖かい人が集まるはずがない。自分勝手な振る舞い、自己中な人間が他の人との間に暖かい触れ合いが成立するだろうか?確かに、世の中にはずいぶんと自由気ままに、言いたいことをいい、言いにくいことも、こともなげにさらりと、あるいはヅケヅケというが、決して嫌われない人はいる。おそらくそういう人は、何かの時に相手に一肌脱いだり、困ったときは率先して力になろうとする人。

    そういういった相手に媚びない自信、逞しさがヅケヅケと物を言わせるのだ。受験制度にあって、そういう制度であるなら優等生という人は評価を得る。それは制度の中の評価であって、彼の人間性が素晴らしいという評価ではない。功利的に要領よく勉強すれば、それなりの成績は得ることはできるが、要領のいい人間の最大の欠陥は、スケールが小さい人間が多い。

    ノーベル賞で知られているアルフレッド・ノーベルの少年時代の逸話がある。彼は学校の成績は常に二番であった。彼より優秀な子がいて、ノーベルはどうして彼を越せなかった。あるとき、この子が病気で長期欠席をすることになる。「チャンス!これで自分が一番になれる!」と言うのはスケールの小さいそこらの凡人である。学校を休んでも彼は成績は落ちず、トップであった。

    なぜか?理由は、ノーベルが毎日の学校の授業を手紙で教えていたからだ。自分だけに役立つことをする。要領よく生きる。世渡りをうまくやればいい、そんな人間にとっては、屁でもない逸話だろう。突然、降って湧いた膨大な資産を世のために、という遺言で始まったノーベル賞は、この逸話からみても自然なことである。1億円もっていても1000円をケチる人間がいる。

    1000円しかないのに500円を分けようとする人もいる。そういう人間感は、学問で身につけるものでも、つくものでもない。「一番が病気で入院か。ザマ~見やがれ」という人間は、その事で仮に成績が一番になったとしても、心は醜いのである。「異性についての不思議」という表題であるが、同性のことも記した。なぜなら、女性から見た男は異性である。

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    異性とは、一般的に男女・雌雄の性が異なること。男性から女性を、女性から男性を指していうが、性質が違う意味もある。幼児期、児童期に異性に強く惹かれることもない、求めることもないが、違いは認識する。初恋の時期が個々によって違うように、異性への興味はその人の好奇心の強さに比例するものかも。自分の初恋は小1であり、確かに好奇心の強い少年だった。

    同時期に市内の地図をどこからか見つけて様々な場所にめぼしをつけ、近所の男女数人を従えて実際に地図どおりあるのかを出向いていったはいいが、それぞれの子どもたちが昼食時に帰って来ず、本来なら近所のどこかで遊んでいるはずなのにどこにもいない。親は心配して問い聞きしたり、探し回ったりした。子どもの行動範囲をはるかに超えたところに旅立って(?)いたのだ。

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    自分的にはそれを冒険と称すが、親たちは行方不明としててんやわんやであったろう。ついてきた家来どもはどういう気持ちであったかは、言われるままに従ったにすぎず、一人で気を吐いているのは自分だけであった。「もう○○ちゃんと遊ばないように…」と言われた子も、「ついていかないように…」と言われた子もいたのが後の家来の告白で判明した。

    子どもにとって地図は不思議なものだった。自分の知らない様々な名所・旧跡などが記されてあり、町全体を俯瞰することができ、オーバーにいうと王者の気分であった。それは学校で教科書と一緒に配布される「地図帳」を眺めても、今までの自分にはない視点で町が、市が、見たこともない県全体が、隣の県も含めて、あるいは日本全体が、世界が一望できるのだ。

    これほどすごいものはなく、暇さえあれば地図帳を眺めていた。国や都市や湖や山や川や、世界のあらゆる未知が目に入る。昆虫の図鑑で知る様々な虫たちと同じように、世界の不思議を目にし、知ることはできないが想像する。夜になると瞬く星、自分たちの地球以外の惑星、太陽が空の星と同じ恒星であるなど、天体のこと、宇宙のことも知れば知るほど不思議は増した。

    「好奇心」とは、物事を探求しようとする根源的な心。という意味らしいが、それ以前に「知りたい」という欲求であろう。とにかく何でも知りたい、知らなければ気がすまない自然や世界のアレコレである。知りたいから探究するのである。人間にはあるが、動物の「好奇心」の有無は解明されていない。が、高等動物研究の専門家は、「ある」と考えているようだ。

    イメージ 2例えば、多くの哺乳類や鳥類をそれらの個体が過去に経験したことのない場所に身を置いてみると、まず周辺の状況を確かめる行動を執る。これを探索行動というが、これを一種の好奇心の発露と見ることは可能であろう。また、動物が自身の前に何か見たことのないものを目にすると、一般的には逃げるが、それが危険でないと判断すると、それを調べるために近寄ってくる。
    ネコやイヌなどの小動物の行為としてよく目にする。イヌ小屋の中に蛙やカニを入れるとわかるが、カニに対しては、自分の体に接近するのをイヌは注意深く用心するが、武器を持たない蛙に関しては何ら動じない。なぜイヌは、カニのハサミを武器として認識し、用心するのか不明だが、イヌ小屋に大きなカニを入れると、ストレスを起こして食いちぎって振り回すのだ。

    あきらかにカニに対する敵対行動である。好奇心はさまざまあるが、性的好奇心とは単に好奇心だけではなく性欲の発露である。ヒトが異性を認識する年齢は一般的に3~4歳と言われている。異性だけではなくオトナと自分(コドモ)の肉体的、生理的差異に気づき、意識するようになる。その年齢の子が母親のおっぱいに好奇心を持ったり、女児がお風呂で父親の陰茎に興味を持ったり…

    子どもの好奇心に殉じておっぱいを触らせる母親は多いが、陰茎を触らせる父親は少ないのではないか?なんとなくそう思うのであって、理由はさまざまある。形状変化の説明に困るにも一因か?娘に触られて困る…というのもずいぶんと蒼い父親だな。これはちょっと判らないし聞いた事もないが、幼い男児におっぱい触られ、吸引されて、「はへはへ」という母親はいるのか?

    聞いた事もないし、聞いて正直に答える母親も少ない気がする。このブログの書き手は絶大なる好奇心の持ち主のなので、この世で起こる現象、人間の摩訶不思議な行動や思考について、率直に素朴にためらうことなく書いている。公にはそぐわぬ書き込みもあるし、個人的な邪推も含めた類推もあるし、それはそれで分からぬことに対する態度であり、方法である。

    「あまり勝手な想像をしないように」と指摘する人もいたが、想像は勝手にするものであり、誰の許可を得るものでない。バカげた指摘である。どのような想像でアレ、人間の脳の働き・仕事である、正義感ぶった言い方が好きな人はいる。特定のヒトを意図的に傷つけているならともかく、無視すべき存在であろう。お行儀のいいブログを目指しているわけでもない。

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    お行儀の悪いブログを望んでいるわけでもない。自分の頭に浮かぶことを臆面なく書こうというだけの話で、他人の好みを考慮したり、視線を気にしたりで人間は言いたいことは言えない。自分以外はみな他人であるなら、自と他と思考が違うのが当たり前で、他人の思考を容認できないというのは傲慢である。もしくはノミのキャパの持ち主であろう。

    確かに性的好奇心の類は、年齢を問わずにおこるし、個人差によってその形態はさまざまであり、また、社会的抑圧の程度によっても発現の仕方が異なるし、内に秘めるヒト、外に現す人もいたりと、それらを生育環境の違う人間が、自己を基準にアレコレいうのは自由であるが、批判の根元とするのはオカシなこと。そういったオカシなことに気づかず、批判者は多い。

    性を語るのが悪いなら、フロイトは変態である。学者なら許されるという問題でもない。なぜなら学者のみが性衝動を持ち、性行為をするわけではあるまい。性を押入れの隅に押し込んで、「私はそういうハシタナイことはしてないんです」という顔をするのが得意なヒトはいるが、それもその人のしたい行為なら、「何をいい子ぶってやがるんだ」と思うのも自由。

    が、口に出していわない方が正しいかも。「いい子ぶって」という言葉が存在する以上、「いい子ぶる」ヒトはいる訳だし、それがその人のスタンスなら、「いい子ぶらせて」あげるのが優しさというものだ。自分はそう尊重するが、その人とは上辺だけの話だけに終始する。「オレは上っ面に会話はできない、したくないんで」という年代もあったが、今は柔軟に応対する。

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    ヒトはみな自分に合わせるべきというのが若さであったように、ひと年取って経験を積むと、自己主張を抑え、他人の腹をじっくり伺おうと、老人のズルさか消エネか?若さが純粋なら、老齢者を老獪という。老獪とは悪賢いという意味だが、若者=バカの対語であろう。若者は自身の回想を含めて明らかにバカである。が、そのバカさなくして何で若者であろう。

    若者の仕事は、「自信を持つため」と言った。だから自己中心になるし、一歩控えて道を譲るよりはどんどん前にしゃしゃり出ることを肯定する。「損を承知でやる」のも若さである。そこは老獪という言葉は若者にあってはならない。最初のひとりに誰がなるか、それが若者の最大の問題だ。最後のひとりに誰がなるか、それが老人のもっとも素朴な興味であるように。

    ブログにしろ公に書き物をする人に共通なのは、読む人を選ばない。ということは、勝手に、「与えられる立場」を作っていることになる。ということは別の見方をすると「もらう立場」を作っていることになる。そもそも自分の考えや意見を公言することが「与える立場」を作ることでもある。「沈黙は金」というように、黙っていれば波風は立たない。が、立つことを怖れない。

    そういう事でもあろう。人はそれを自信と言う。ひとにアレコレ言われるのを嫌がる人はおもねた発言をする。それは自分にあった方法なら無理のない自然な行為である。が、それでも他人から何かをいわれて、怖気づいてブログを止める人もいる。何かを言われるのが怖いというのもその人の性格であり、「そんなんじゃダメだろう」というのは「自分は違うよ」という強者の論である。

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    「自分勝手な能書き足れるな」と思うひとは、「人は謙虚でなければならない」という性格のひとだ。それがその人の価値基準である。それが言い場合もあれば、「いかにも日本人」という悪口にもなる。あいつは、「教え方が下手くそだ」と教師に文句をいう学生は、「自分は教えてもらうのが当然だ」と思ってる奴だ。自分が主体的に勉強しようとする奴は教師の教え方に文句等言わない。

    教師など無用の長物と感じる有能学生もいる。以前、ある有名音楽大学の学生で、さまざまな音楽コンクールで入賞する彼は、「教官のいう事は全然聞かない。授業にも出てこないことが多い」と言われていた。教授の権威や政治力に頼らず、己の力を信じて研鑽する人間にとって指導者など邪魔でしかない。「自分はあなたのコピーにはなりたくない」と言った学生もいた。

    それこそが若さであろう。教師と生徒という関係であれば与えられるのは当たり前か?大学の教授のホンネを聞いた事がある。休講して文句をいうのは怠け者学生であり、真面目な学生は言わないものだ。これを言い換えると、「教えなければ何もできない学生」ということだ。教えなければ何もできない人間が、いかにダメかを現す人生相談がある。これは現実にある相談だ。

    「ボクは今心に思う異性がいます。できれば二人きりでデートをしたいです。でも、そうするためにはどうすればいいでしょうか?どうすれば二人のデートが叶うでしょうか?また、デートの時にはどういう話をしたらいいのでしょうか?別れ際にキスをしていいのでしょうか。それは口に出していいべきでしょうか。それとも不意にすべきでしょうか。教えてください。」

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    こんな問いにまともに答えるとしたらどういう言葉なのだろう。困っているから相談するのだろうが、恋愛というは、スーパーで、「この型がいいかな」と自分に向いた品物を買ってくるような商品ではない。ここから出発して、こういう感じの流れで、最後はこうなる、こうすべき、というコース定められたパックの旅行ではない。人に答を聞こうというのがそもそもオカシイ。

    こういう風な、与えられる弊害が人間から主体性を奪う。「与えられる」、「教えられる」は甘えの姿勢である。が、「与えすぎ」、「教えすぎ」の犯人がいるわけだ。そういう風に育った人間は、何かにつけて他力が主眼だから、上手く行かない場合に自分のせいにすることをしない。自分はただ与えられるだけなんだから、上手くいかないのは、上手く与えられなかった。

    だから自分は悪くない。何かにつけて言い訳をする人間はどこの世界にもいるが、特にスポーツ選手で言い訳をするのは名選手にいない。なにかにつけてもすべての条件が揃うはずがないのである。そういう中から最大の力を出すべきで、言い訳というのは、まるですべての条件が揃わないから力が出せなかったみたいなものだ。自分を勇気づけ、常に叱咤するのは自分であるべき。

    なぜなら、自分は常に自分の傍にいるからだ。人に勇気づけてもらおう、救ってもらおう、助けてもらおうという人間は、決して勇気づけられないし、助けられない。人間でなくて「神」ならどうかは自分には分らない。それでも、「天は自ら助く者を助く」という言葉がある。部外者だが、神は個々の溢れんばかりの人間を救わないし、信仰とはそういうものでない?

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    他人に何かを委ねることで最大の問題は「不満」をいう事だ。「あれだけいってるのに何もしてくれなかった」、「無視された」、「してはくれたけど手抜きだった」、「親切で好意的だったけど、満足はしていない」などなど。どうあがいたって自分の人生である。他人に委ねて不満を言ったところで、どうなるというのか。求めるということは、座っていることではないんだよ。

    いろんな女と付き合ったが、印象に残ってる女にこういうのがいた。「わたしは自分からは絶対に謝らない。」という。「相手が先に謝らなければ謝らないって、自分が悪いと思ってもか?」、「自分が悪くても相手が謝ってくれる人でなきゃ無理」という。「お前は意地を張ってるだけだな。素直になれば得られる幸せを、つまらない意地でみすみす失っている」

    「別にいいの、私の生き方なんだから」。「一人で恋愛するわけじゃないだろ?お前の生き方=相手にも大きく関わるし、悪くもない相手に頭を下げさす女を望むなら、奴隷でも探せよ」。とまでいわれて、案の定夜叉のように怒る女。相手が悪くなくて、それでも相手に謝らせるという女は、そうであるなら、自分が悪くなくても自分が謝るというなら整合性がある。

    正しい人間関係は、悪くない相手には謝らせない、悪いと思うなら自分が謝るだ。悪くない相手に謝らせ、悪い自分は謝らないで、どういう人間関係ができるのだろう?こんなバカな人間を、「わたしは意地っ張りだから」で済ませられることではないよ。正しいものの考え方をできない人間は、得てしてこういう風だ。それでも自分が悪いと言われたら、気づくどころかテリー比須。

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    テリー伊藤という芸能人はいるが、テリー比須なる一般女性は多い。指摘された行為や事柄を理路整然と思考するのではなく、とにかく反感を抱くだけ。実のある反論ならまだしも、ハチャメチャいうからどうにもならない。先日は、こんな言葉に出くわして、一瞬、場での内容とあまりにかけ離れていたので、それがどこからか写し取ってきた文言であるのが分かった。

      一体ご自身をどの立場に置いて物を言ってるんでしょうか(・・?。
      尊敬を買う人徳と品格に満ち溢れた非の打ち所がないと勘違いされている(?_?)

    ごく普通のやり取りの凡人同士、どの立場に自分を置くだと?アカデミーの議論じゃないただの会話だろ?「尊敬を買う」、「人徳と品格」、「満ち溢れた非の打ち所がない」。仰々しい取ってつけた文言を用意することがそぐわないが、幼稚・子どもと見下されたから、頑張ってどこぞの本から探してきたのだろうが、こんな物言いされたら唇もサブイ、耳もカユイ…

    バカを自認する人は傷つかない。傷つく人の多くは背伸びが原因で、自尊心、自己愛がそうさせる。自分に不適格な事柄は拘った方が負け。相手が傷つけないよう配慮している時に、鉾を収めて去るのが聡明であり、それなら傷つかないで済む。論理思考ができないで罵詈雑言で勝てると思うのがマチガってる。他人の物指しを自身が素直に感じることだ。


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    『朝まで生テレビ』を見なくなった昨今は、さすがに年齢を重ねたのだろうか?それもあろうが、論客がつまらなくなった事が一番の要因だ。あの番組がスタートしたのが1987年4月25日とあるから、28年になる。レギュラー司会者で81歳の田原総一郎が53歳の時にスタートした。パネリストには野坂昭如、大島渚、小田実、高野孟、西部邁、舛添要一、猪瀬直樹らの顔があった。

    「好きなテレビ番組は何?」と聞かれたときに、『朝まで生テレビ』といったら、「まとまりのない議論ばかりして何がオモシロイの?」と批判した女が一人いた。彼女は正直に口にしただけで、思っても言わない女は、当時も今も周辺には多かったはずだ。男でも観る奴はあまり聞かなかったが、それでも自分のように、毎度、楽しみにしているというのは二人いた。

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    それでも夜がこたえるというから録画して日中みるという。自分は生の興奮を味わい、必ず録画して後で繰り返し観ていた。何がオモシロイ?は愚問で、オモシロイ人間は観るし、観るからオモシロイのであって、だから愚問である。どこがオモシロイなら、他人の考えに触れるオモシロさ、それも普段に話すことのないような込み入ったことについての意見は貴重である。

    生放送ゆえの問題発言もしばしばで、そもそも問題発言と言うのは実は本音発言のことで、そのホンネがポロリと出るところがオモシロイ。挑発を旨とする田原にも問題発言は降りかかるし、圧巻は1989年7月と11月、2度にわたって放送された、『人権と部落差別』では、自粛されている放送禁止用語なくして討論はできず、その点を最初に解放同盟に了解をとって始まった。

    解同のドンこと小森龍邦部落解放同盟書記長に敢然と向かう野坂、大島の物怖じのなさが小森の心象を害したのはテレビから伝わってくる。小森自身被差別部落出身者であるが、彼は同県人の宮沢喜一総理を、部落民と誤解させる問題発言を起こしている。『芸備人権新報』1999年9月10日号でのインタビューで、小森は以下の発言をして宮沢を激怒させた。

    (小森) ここにいたって、宮沢と同じ、被差別者の立場にありながら、 自らと同じ運命にあるものをもけちらさねばならぬ状況に落ち込んだというべきでしょうね。

    (記者) 宮沢と同じ状況をいうのはどういうことですか。

    (小森) 宮沢のことを知る人は少ないのですが、かれの出自は、いまも親の代の住居が、福山市の松永というところの金江という山奥に、ひっそりと残っていますが、まあ、被差別民もしくはそれと同然の立場と言うべきだったでしょうね。彼は、選挙にさしつかえないように、その影を最大限、消しにかかり、わざわざ、尾道に住居を構えたようなふりをしています。

    (小森) 自らが被差別者でないことを一挙に人々に知らせるためには、リスクを承知の上で、とりあえず、部落にたいする差別発言をすることです。…」

    イメージ 2我々が憶測で、「○○は韓国人(朝鮮人)、○○は被差別部落出身…」などというように、被差別部落出身者も憶測でモノを言うのは変わりない。上の小森の最後の発言は、弁証法的な含みもあるが、「言葉狩り」、「糾弾」を解放同盟の方針として怖れられた、いかにも小森らしい陰険な物言いだ。保守地盤の強固な同地区の亀井静香や宮沢は、常に小森の動向を監視していた。
    また共産党も、小森が社会的弱者を盾に専横を極めている事を猛烈に批判、小森が国政選挙に敗れて政界引退の情報が流れ、その勢力が次第に弱まって来るとそれぞれの方法で積極的に、「小森派」の一掃を進めた。その結果、それまで小森の圧力によって泣き寝入りをしていた被害者や、元教職員・公務員などが次々と証言を始め、小森のもつ権力の内実が明るみになる。

    小森の地盤である府中市を擁す広島県東部地区においては、学校業務(授業)よりも部落解放同盟行事が優先されていたが、2000年代に入って小森派が一掃されると、小学校・中学校・高校における必要授業数・授業時間が大幅に不足していた事が明らかになった。国旗・国歌に関しても、特段小森の影響が強い学区では学校諸行事における国旗掲揚・国歌斉唱が行われない。

    1999年(平成11年)2月28日、君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する日教組傘下の広島高教組の教職員や、部解同広島県連合会との連日の交渉に追われる一方、それを義務付ける通達を出した文科省との間で板挟みとなった当時の校長が、卒業式前日に、「何が正しいのか分からない。管理能力はないことかもしれないが、自分の選ぶ道がどこにもない」とする遺書を残して自殺した。

    駅伝の名門として知られる広島・世羅高校は、韓国に謝罪を兼ねた修学旅行も問題になる。1999年3月5日、韓国日報が、「5年前からタップコル公園で謝罪の参拝」という見出しをうち、世羅高校の生徒達が、「タップコル公園の3.1(独立)運動記念塔前でひざを折り、頭を垂れている」という写真を添えて、「日帝侵略と植民地蛮行を謝罪する文章を朗読した」と社会面トップで報じた。

    同時に世羅高校の、「謝罪旅行」を案内してきたという韓国人の声も添えられた内容を、翌6日の産経新聞が報じ、「一方的に謝罪する行為は、かえって信頼や友好を妨げる。本当の友好とは、言うべきことを言い合って築かれるものだ。日本の一部の教師が持つ思い込みや非常識さが、この修学旅行のような広島県の異常な教育の背景にある」と高橋史朗明星大教授の批判を載せた。

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    後日、産経新聞による教師への取材によると、「韓国でどう報道されているかは分からないが、宣言文を読み上げる前に生徒たちが座った形で集会を開催。座ったままで黙とうした。眠たさの為、頭を下げていた生徒もいたと思う」と話していたという。同日の読売新聞の取材に答えた別の教諭は、「平和学習の一環で、謝罪旅行ではない。宣言文は謝罪文でない」とした。

    産経新聞は3月10日、問題の「宣言文」の全文を手に入れ紙面に載せた。「宣言文」はすべて生徒によって書かれたものであるという。それによると、生徒達は韓国の独立記念館での印象を、「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付き情けなくなった」とある。また玄界灘についてはこう書かれている。

    「古代から日本に文化を伝え続けた海峡であり、韓国と日本の歴史的に不幸な事実や在日韓国人が受けている不当な差別的現実を生んだ海峡でもある。私たちは昨日その海峡を渡った。」とし、韓国の独立記念館での印象に触れて「展示の数々が目に焼きついて離れない。日本がかつてこの国で何をしたのか、知ったつもりでいた自分に気付き情けなくなった」とある。

    さらには、「自らの偏狭な価値観で異なるものに優劣のレッテルをはることなく異なるものは異なるものとして受け入れられる真の国際人となる第一歩としたい。この地で学ぶ日本とこの国の過去の不幸な歴史的事実を教訓とし21世紀を創る世代の人間のひとりとしてせいいっぱい平和と友好の心を育み続けたいと思う。」と締めくくる内容であったことが明らかにされた。

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    「謝罪文」だ、いや「宣言文」だなどとややこしい日本語はともかく、「宣言文」に謝罪はあっても「宣言文の中の謝罪であって、主旨は宣言文」と言い張れる。また、「謝罪を宣言した宣言文である」という言い方も可能であろう。まったく謝罪のない文なら「謝罪文」という言葉は当てはまらないが、どうとでもいえることをああだこうだといっても仕方がない。

    自殺者の遺書についても、「書置きはあったが遺書ではない」、「遺書のようなもの」と、なぜか遺書を否定することがある。これは遺族が自殺ではなく、事件性を問う場合ならわかるが、そうでないなら死ぬ前に書いたものを遺書というんだよ。「さよなら」でなくても、「楽しかった」と書かれても、どのような言葉であれ、死ぬ前に書いたものを遺書という。

    当分死ぬ予定もないのに、「10年前から遺書を書いて金庫に保管している」という人こそ問題である。それこそ遺書というより、重要なことを記した「書置き」ではないか。世の中曖昧なことが多くて、昨今はそれこそ、「何でもあり」なら、枠に嵌めることがよかったりする。世羅高校校長の遺書は全41文字だが、遺書で印象に残っているのはマラソンの円谷英二。

    自殺の報に触れて思うのは、「死はそんなに身近なものなのか?」である。壮年の自殺者は圧倒的に男が多く、その理由は社会的な苦悩や苦境にある者の死への逃避と伺える。成人女性の死には失恋など、男女問題の苦悩が多いようで、壮年女性の社会的苦境からの自殺はすぐには頭を過ぎらない。責任の度合いから見て、何で小保方が死なず、笹井が死ぬのか。

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    小保方氏の身軽さに比べて、家庭も子どももある笹井氏には、研究者としての嘱望性もあった。が、そういう見方とは別に彼は「負け組」意識があったのだろう。エリートとして競いあった山中教授はノーベル賞、STAP細胞は、彼のIPS細胞に対する起死回生の爆弾だったはず。そのSTAP細胞がでっち上げなら、笹井氏は山中氏に対し、さらなる喪失感を抱く。

    こういった喪失感はエリートでなければわからないだろう。人一倍努力はするが、それは人一倍負けず嫌いだからであろう。負けても勝とうという意識はそういった特殊エリートの存在を足らしめるものになるが、負けても勝ち目はないという喪失感と、STAP細胞のお笑い物種という侮辱感は相当のものだったと推察する。笹井氏拠り所の科学はマンガであった。

    小保方氏宛ての彼の遺書には、「STAP細胞を成功させてください」であった。有能科学者としての達観(STAP細胞はないな)と、STAP細胞に思いを寄せた自身のバカさ、不甲斐なさから、「ない」ものを「ない」とどうしても認めることができない。「ない」と分かっていても、彼の死後に存在が確認されれば、笹井の魂は癒され、天下の笑いものの汚名を晴らすことができる。

    天才には天才の心がわかる。あれほどSTAP細胞の存在について笹井氏の説明を、山中教授だけは笑って聞いていたと、それが笹井には分かっていたのでは。体全体から火がほとばしり、穴があったら入りたいほどの苦境に陥ったとき、天才は死を覚悟をする。自身の自尊心を守る方法はそれ以外になかったのであろう。山中教授だけは彼の死を理解できた。

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    嘘をついた屈辱感は断然男の方が強い。社会的生き物である男は、それだけ社会的制裁を強く意識するから死を選ぶ。社会は男にとってリアルな、真実そのものの「場」でしかないが、小保方に思う女にとって社会は、「舞台」に過ぎない。そこでは虚言を演じるところでもある。華やかさの中で舞台衣装をまとって自己演出をする「場」なのだろう。問題発生なら上演打ち切りで済む。

    その程度の認識に見えた。もし存在するならIPS細胞どころではない。ノーベル賞確実。そんなSTAP細胞に夢を抱き、それに賭けた笹井と、適当な思い込みにはしゃいでスポットライトを浴びたい一身の小保方には人生を賭ける点でも大きな差異がある。物事を考える際に男は左脳を使う。左脳は情報整理、論理的思考や、分析力などに優れているといわれている。

    笹井ほどの緻密な科学者が墓穴を掘ったのも、IPS細胞に先を越された焦りと、「夢」の部分が災いしたのかも知れない。女性の多くは左脳も右脳もバランスよく使うが、左脳と右脳をつなぐ脳梁を行き交う情報量が増えると、近くにある偏桃体が強く反応して感情的になりやすいといわれる。さらに女性が感性的にならざるを得ないのは、後天的な理由も考えられる。

    子どもの頃から男の子は「男の子なんだから泣かないの!」と言われて育つ事から、男は、「泣くことは格好の悪いこと」という記憶に縛られるが、女の子は、「泣いちゃダメでしょ」と言われて育たない。「泣く」を良しとしない男親主導ならいうだろうが、母親はあまり言わない。よって女性に、「泣くことで自分の言い分が通る、思い通りになる」が芽生える。

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    「泣く=得」という情動がない男に比べてより傾向が強まる。いずれも傾向だから、育ち方で幾分変わる。ただ、女性が感情的になりやすいことが職場で不利益に働くなら考える必要がある。「女性が感情的で困る」と職場で訴える男は多い。「仕事の進め方について注意をしたら、泣かれてしまった」。「普段は明るくていい娘なんだけど、怒り出すと始末に負えない…。」

    「会議の場で意見は言わないくせに、終わってから仲のいい同僚に、会議での発言批判や、言わなかった自分の意見を伝える。せっかく関係者を集めて会議なのに、なぜその場で自分の意見を出さないのか?」。などなど…。自信がなく、人前で恥をかいて自尊心が壊れると情緒が乱れ、気がめいるということを先取りした、ズルさ、腹黒さが女性にはついて回る。

    これらは男から見た批判であるが、批判と同時に理解でもある。いちいち女性の言動に腹を立てたり、イライラしたりでは男だって能率が上がらない。それでも女性を輝きとし、必要とするからには、マイナス面を把握、理解するしかない。渡辺淳一が辛くも言ったように、「昨日と今日がまるで違う女性を、そういう生き物だと理解する」これが男のキャパである。

    『朝まで生テレビ』が高視聴率を取った理由は、田原総一郎の企画案にもある。昭和天皇の様態が悪化し、自粛ムードが日本全土を覆った時期であったが、田原は『天皇論』をやろうともちかけたという。田原の怖いもの知らずの熱意は、右翼の重鎮をスタジオに集め、パネリストと唾を飛ばしながらの激論をさせたりもした。経済学者の松原聡はいう。


    「2009年の6月に出演した時に、スタッフから視聴率を見せられて驚きました。午前1時20分からの3時間平均で、3.6%は驚きの高視聴率です。占拠率が26%とありましたから、この時間帯にテレビを見ている人は、単純計算で、3.6×4≒14.4%になります。実に、7人に1人(正確には、7世帯に1世帯)が、この時間帯に起きてるということです。」


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    別れの朝二人は冷めた紅茶飲み干し、駅に続く小路を何も言わず歩いた…

    情景は浮かぶが経験はない。こういう別れもあるんだなと。原因は分らないが、さまざま想像はできる。分らないことを想像したところで、それが事実とは限らないが想像は人間の知性。この世で起こったことの真実は、起こったひとたちのものであろう。恋は冷めるという。冷めるとは冷えること。冷えるは心地いい温度であったりするが、恋に関してはなぜかおしまいのことば…

    恋と愛はちがう。何がちがう?言葉が違う。それも正しい。言葉が違えば意味も違う?そうともいえない、同じ意味を持つ違う言葉はたくさんある。愛という言葉は日本語になかったと安吾で知った。彼曰く、キリスト教が伝わるまで「愛」という言葉はなく、それで宣教師が「愛」という言葉を説明するとき、日本語でピッタリの言葉が見当たらず、苦し紛れで「御大切」とした。

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    恋という言葉は『万葉集』に歌われているし、「弧悲」という言葉が充てられている。「孤悲」とはなんと美しい文字であろうか。美しいばかりではない、孤独に悲しむというところから「孤悲」という言葉が生まれたのだろう。『万葉集』は、まるでサカリのついた猫がごとき、男女の掛け合いと表現した文人もいたりと、異性に対する感情の自然な発露が恋である。

    あの時代に他にすることはなかったろうし、当時の人は本当に「恋」に一生懸命であったと、むしろ感心させられる。身分の高低に関わらず、まるで熱病にかかったがごとく思いのたけを直情的に歌に託す。あなたをひと目みて、かわいいと思った。美しい黒髪と感じた。以来わたしは恋に落ちた。あなたを忘れることはできない。逢って欲しい、思いを体で確かめさせて欲しい。

    などと必死で訴えている。電話もない時代だ。郵便配達もいない。されど直接本人に歌を届けたい。これは立派なるプラトニックな恋である。もちろんあの時代は、プラトニックな恋と愛欲は別であった。というより、区別して考えようとしたのであろう。自分と相手の間に高い塀を作り、そしてそれを超えるためにあらゆる智謀、煩雑な取引を必要としたのだった。

    それほどに恋は理性的であったといえる。あるいは、性欲という邪心を隠そうとしたのだろうか?それなら分からなくもない。誰にでも思春期時期には異性に対する性的欲望を隠そうとするものだ。なぜか?自分が思うに、隠す必要のある異性には隠し、隠す必要のない相手には隠さない。これが人間の理性ではないか?理性を重視すべき人、あまり考えなくていい人がいる。

    イメージ 9口語的にいうと、「気を使う人」、「気を使わない人」という仕分けだ。記憶の中の女にはピンからキリまで存在した。何がピン、何がキリはそれぞれの項目によって違う。頭の良さ、容姿、優しさ、我がまま、媚加減、(性格的な)可愛さ、自己抑制度、気配り度、明朗性、スキ物、淡泊、親の躾加減などなど。巷には様々な事件がある。男が狼、女が子羊というケースもあろう。危機管理意識が欠落した女もいるはずだ。知らない人に抱っこをされるのを嫌がる幼児もいれば、「おいで」といって手を差し出すとすぐに抱っこされたがる子もいる。前者を可愛くないね~と思いながら、親のいる手前そうは言わない。ま、その程度でムキになるオトナもいないだろうが、乳幼児にしてあの違いは何なのだろう?親の躾とは言えず、当人が学び取った何かである。

    乳幼児の「人見知り」は、自分が慣れている人以外を怖がってしまうことをいうから、これはむしろ自然な防御本能といえる。個人差も大きく明確な時期は定まっていず、一般的には1歳過ぎあたりで人見知りはなくなる場合が多いようだが、2歳を過ぎても人見知りが直らない子もいる。人見知りは防御反応だが、その差異は性格的なものか?すべては環境という後天的要素。

    たとえば大家族や人の出入りの多い家で育ったり、日頃から外に出かけて他人と触れ合う機会が多かったりすると、何ら人見知りナシで育つこともあるし、「人見知りしない=問題がある」ということではないようだ。あまりに愛想のよい女の赤ちゃんがいて、「この子は将来、イケイケになるんかな~」と冗談をいったら、気を悪くした母親がいたが、ダメダメ、そんな言葉は。

    赤ちゃんにはホンのちょっとの冗談でも禁句である。というのが持つべきマナーと言える。ところが、明るく屈託のない母親もいて、乳児がいる知人の家を訪ねたときに、抱いて出てきた赤ちゃんは、ビックリするくらい不細工であった。自分は嘘やお世辞に慣れてないというか、思った事を正直に表現して生きてきたせいなのか、「かわいいね~」という事ができない。

    「赤ちゃんは存在自体がかわいい」という女性は多いが、「これが顔?」といえるような赤ちゃんをためらいなく褒める母親には感心する。と、同時に女の不思議さを体現する。「ああはできない」、それほど男は真正直な生き物である。ところが、赤ちゃんを抱いた知人の母親は、「すっごい不細工じゃろ?朝潮に似てない?」と、助け舟をだされ、つい「似てるね~」という自分。

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    そのシチュエーション自体に問題があったかどうかはさて、その女はかつて友達以上だったので、赤ん坊を見にいったのでないというのは互いの思いであった。自分的にも、たまたま赤ちゃんがいたというだけで、数十年来の旧交を懐かしんだ。世の中には間違いなく可愛い赤ちゃんもいるが、そうでない赤ちゃんもいる。あんまり赤ちゃん主体のところには出向かない。

    「ワザとらしいつくり顔で、可愛いね」と言われるとむかつく。という母親の記述を見たことがあるが、ならば何も言わない方がよい。それでも罪を作っているのだろうが、「お世辞やチヤホヤ」を言われなきゃ機嫌が悪い女、そんな気を使う女はノーサンキューだ。こと赤ちゃんについての、そのあたりの男の無骨さを理解する女の方が、有り難いし、クレバーである。

    高倉健が赤ちゃんを前に、「かわいいね~」と言っても似合わないように、男の仏頂面は、「男は愛嬌」と言われないある種の男の理性である。自分の赤ちゃん、子どもを褒められるのは、「お世辞でも嬉しい」というが、「お世辞でも(お世辞と分かっていても)嬉しい」という女心は男には分らない。女が褒められて育つ生き物なら、男は叱られることこそ本分か…。

    さて、記憶の中の女で、ビックリするほど危機管理意識のないのはいた。もし、自分が悪人で、「物取り的資質があったらどうするんだろう?」そんなことを考えさせられた。ナンパした女に連れられて彼女の自宅に行った。一人暮らしのアパートである。部屋に入って数分後に電話がなった。相手は友人で、どうしても渡さなければならない物があるから自転車で出かけるという。

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    「30分くらいで帰るから待ってて!」と、これが理解できなかった。見ず知らずの男を部屋に入れて、部屋を空けるというのはいかなる子細か?彼女が出て行った後に自分はどうすべきか、正しい女の行動を考えた。「緊急で出かける用事ができた。戸締りしていくから近くに公園あるし、そこか近辺で待っててくれない?ごめんなさいね…」とすべきかなと、そう感じた。

    女が男にアパートの合鍵を渡すことはよくある。どれくらいの付き合った期間で渡すかはそれぞれだ。合鍵は愛鍵…、女にとっての暗黙の、「恋人宣言」なのかも知れない。が、合鍵を渡されてもそうそう勝手に出入りなどできるものではない。もっとも、主のいない部屋になど行っても仕方がないし、それはできなかった。朝、「先に出るからゆっくりしてって」

    と言われても、「一緒に出るよ」と、他人の部屋に一人は居心地が悪い。鍵をもらったかのように、ダーダー出入りする男はいたが、自分の感性とは異質である。女に鍵を渡すことは考えもしなかったが、鍵を渡すときの女の思い、決意みたいなものは感じた。我々の同年代の女は、それなりの世代観というのか、危機管理意識的な英知は強かったようである。

    一人暮らしの女は、親と同居女性にくらべて淋しさを強く実感するが、それでも部屋の窓を閉め切って開けようとしない女性も少なくない。そういうところを、「女は不思議だな、このクソ暑いのに閉め切って」と思いながらも、それが女という種族であった。基本的に「怖い」という言葉や行動が先行する。「ひとり暮らしの女性は男物のパンツを干しておきなさい」もマニュアルだった。

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    「淋しさから人恋しくなる」という言葉の、「人恋しい」と、「恋をする」は別である。が、一人暮らし女性が簡単に男を部屋に入れる多くは、「人恋しい」であったかも知れない。でもなければ、相手をそうそう簡単に、早い時期に部屋にいれるだろうか?『自分の城』というテリトリーを、他人に荒らされることになるし、一人が好きで一人でいたい自分にとっては考えられない。

    女は、「淋しい」が口癖だが、男で、「淋しい」というのはキモチ悪い。そのように生きてきた。最近の男は平気で、「淋しい」という。自分は一人っ子だから、一人は好きだし、一人が慣れている。人とわいわいするのは嫌いではないが、好きではない。好きがなにかといえば、一人で読書、映画、音楽鑑賞、楽器いじり…、一人だから思うようにできる。以下は一人っ子の基本性格。

    マイペース、しっかりしている、感情表現が下手、人間関係のトラブル対処が苦手、冷静に考えて行動する、一方的な行動をすることがある、自己主張が強い、自分の独自のルール・世界を持つ、1人の時間が必要、自意識・自己愛が強い。概ねあっているようだが、「人間関係のトラブル対処が苦手」は自分に当てはまらない。母親とトラブルばかりだったからか…

    一人っ子だからと、温室で純粋倍されて育った子が多いのだろうか?であるなら、野卑に生きた自分とはまるで違う。一人っ子は兄弟の多い子と違い、欲しい物は何でも買ってもらえると、いうことも聞いた事があるが、どうしてもそうなりがちなのだろう。自分がそうであったかどうかはよく分らないが、そうだったかも知れない。が、親と絶縁以後は、親にねだることが嫌だった。

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    親と言うのは出来るだけ子どもに多くの拒絶をし、拒絶に子どもを慣らすのがいいようだ。なぜなら、拒絶に慣れていない子どもは、欲しいものが手に入らないということより、拒絶されたことを一層辛く考えることになるからだ。今までスムーズに拒絶なく育ってきて、ある日突然拒絶をされて、悩み苦しむというのは、恋愛のプロセスでありがちなこと。

    つまり、互いが遠慮し、嫌われたくない、好かれたい気持ちが強い時期には、あまり拒絶をしないが、慣れてくると、今まで拒絶しなかったことを拒絶したり、されたりする。となると、拒絶という言葉や態度、そのことを辛いことと考え、相手への見方も変わってくる。「前は優しかったのに、なんか変わったよね」という思いは、馴れ合った恋人なら誰でも感じることであろう。

    その事を「自分に対する愛情が薄れてきたと」早とちりし、次のスペアを用意したりする。新しい相手ができ、そちらの方が楽しいと感じるようになると、かつての恋は終る。不安が不満となり、やがては不信に移行する。恋愛の対象としての相手を本当に突きつめてみよう、好きになってみようということをしない男女が増えている。それが若さであるのはよく分かる。

    「十歳にして菓子に動かされ、二十歳にしては恋人に、三十歳にして快楽に、四十歳にしては野心に、五十歳にしては貪欲に動かされる。いつになったら人間は、英知のみを追うようになるのであろうか。」ルソーの言葉だが、ゲーテという表記もある。本質はなかなか見えてこないということだ。本当に対象を好きになろうとしているのか、ただ恋に恋する自分なのか?

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    これも女性に言われる言葉。確かに女性は、実際の恋愛対象よりも、自らの心に描き出した対象(相手の像)の方に強く惹かれたりする。「人がその愛する者を正確にあるがままに見るならば、もはや地上に恋は無くなるだろう。」という言葉は、「あばたもエクボ」ということなのか。「恋はまぼろし」という事なのか。度々紹介する坂口安吾の「恋愛論」の末尾はこうある。

    「人は恋愛によっても、満たされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。」

    そして最後の一行は、「恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」と締めている。退屈の意味は慣れ合いで、つまり恋愛は始める前こそが、憧れ度からしてもっとも崇高であり、素晴らしく価値の高いものだが、いざ初めて見ると、欲しかった洋服を買ったような、その程度の満足はあろう。が、だんだん飽きて、違う洋服が欲しくなる。

    誰の家のタンスにもそういう洋服が何着かあるはずだ。「これって、死ぬほど欲しかったのに…」。恋愛もそう。「あれほど死ぬほど好きだったのに…」。安吾のいうように、「人は恋愛によっても」、満たされることはない。一夫一婦制であろうと、一夫多婦制であろうと、得たものはどんどん朽ちていく。一穴主義が人間的と言うのは歴史から見ても間違っている。

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    一穴主義は人間的というより、道徳的であろう。道徳とは人間社会に争いや問題を起こさないために儲けられたものであって、争いも問題も起こってもいい、それなりの解決法がある。解決すればいい。解決して見せるという自信がある人は、果敢に道徳破りをする。問題は、解決できないで、逃げ隠れたり、怯えたりの臆病な人間である。それでも道徳を破りたい。

    人間だから道徳を破りたいのだろうから、甲斐性がない人間でも破ってもいいが、自分で後始末をすることだ。その都度何億もの慰謝料払っても、若いべっぴんを求める男は腐るほどいる。どちらも同じ人間であるが、まあ、金がないなら陰でコソコソやるしかあるまい。家庭があろうと結婚生活があろうと、社会的立場に縛られながら、恋愛はしていいんだし。

    それが素直な自分の気持ちなら、自分の伴侶以外の異性を好きになることは、自然で人間的なことだ。問題は制約である。社会的制約を上手くしのぐことである。誰が誰を好きになろうが、誰が誰に恋しようが、その恋そのものに罪はない。結ばれるもよし、束の間の恋もよし。恋愛のタブーは、政府や国家が民を統治するのに便利であり、都合がいいからである。

    学校の校則しかりである。生活する上で混乱が起きぬよう、人間を何かに縛り付けておこうとする。誰もが気持ちのままに人を好きになり、情念に突き動かされて行動するなら、一夫一婦制は崩壊する。従って、一夫一婦制を守ろうとする人、守らなくて自由に生きたい人で、人の世はある。どちらか一つにするなどできないし、それが理想なら北朝鮮は素晴らしい国家であろう。

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